武蔵の五十猛命 神奈川県 横浜市以外

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 神の鎮まる川「神奈川」を県名に持つ、神奈川県での五十猛命を奉じた人々の足跡をたどる。この地に入植し開拓に従事した出雲族の人々が祈 ったのが、樹木神・浮き宝の神・命の神としての五十猛命であった。


川崎市幸区
小倉 杉山大神

川崎市中原区
井田 井田神社
新城 新城神社

川崎市高津区
末長 杉山神社
諏訪 諏訪神社

川崎市宮前区
有間 神明神社

川崎市多摩区
西生田 杉山社

川崎市麻生区
細山 細山神明神社

厚木市
厚木 厚木神社

小田原市
早川 紀伊神社

 杉山大神
川崎市幸区小倉277 ゼンリン

鳥居


交通案内
横須賀線新川崎駅南500m 南武線鹿島田南西700m 

 

祭神
五十猛命、天照大神



 飛鳥時代、大化の改新によって国郡制度を敷いた頃より祀られており、近年まで境内地にあった神木、樹齢一千年余の二株の古松がその歴史を物語っている。 当時、小倉村は、皇室直轄領として栄え、杉山大神は、その村落の守護神として農業生活の中枢をなして来た。 戦国時代に至り、北條氏の家臣で、小机城主であった笠原氏の崇敬を受け、しばしば、その代参を迎えた。 江戸時代には、小倉村は、旗本松下氏の領地となり、毎年米三俵の寄進を受けて神社は維持された。 領主松下氏は馬で参詣に訪れたと伝えられ、近年まで、鳥居前に下馬札が立てられていた。

拝殿



 細長い社域で本殿のすぐ後ろを駐車場にしている。おそらく社叢であった場所と思われる。



お祭
8月第一土曜日 例大祭 宵宮
  第一日曜日     湯立の式

 天照皇大神宮(井田神社)
川崎市中原区井田372 ゼンリン



交通案内
川崎市 中原区 井田372 東横線 もとすみよし 西1km 井田杉山公園近く

祭神
大日め命 配祀 五十猛命、面足命、惶根命、日本武命、須佐之男命

お姿
  町中の公園風にたたずんでいる。近所の子供達の遊び場になっている。
 矢上川沿いの杉山神社が合祀されたのであろう。杉山公園が近くにある所からは、杉山神社の上に天照大神を祀るようになっていったのかも知れない。 社殿背後の古木が大きい。




お祭り

春祭り 4月21日 
大祭り 10月第一土曜日(前夜祭)から2日間

 新城神社
神奈川県川崎市中原区新城中町4-14  ゼンリン

鳥居

交通案内
南武線武蔵新城駅 南東500m



祭神
五十猛命、天照皇大神、菅原道真公

摂社 稲荷社、天王社「牛頭天王」、石神社「石凝姥命」

拝殿



由緒
 社頭掲示碑等から
  元禄七年(1694)社殿が建立され、新城村の守り神として鎮座、以来永き歳月を各時代相の転変にも揺らぐことなく、純真素朴な郷土の人々の信仰帰依を今に伝えている。
 明治三十年六月新城村内にあった杉山社及び天神社を合祀して「新城明神社」として村社の格に列せられた。
 その後、幾度かの改修も行われ、近くは昭和十二年大改修と共に遷宮が執り行われた。
 昭和六十三年、都市計画道路「新横浜〜宮内線」の延長に伴い、神社境内の一部が道路用地として買収され、神社本殿の移転を余儀なくされた。
 この時に当たり、氏子各位の多大なるご尽力と御寄進「4600万円」に加え、川崎市よりの補償金を加え鋭意諸工事を推進、慈に恙なく遷宮の大事業を完了した。

本殿


お姿
 南向き。神明造の神社である。明治三十年に杉山社を合祀している。これが五十猛命が祭神に入っている理由である。
 木々がまばらなのは神社本殿の移転をしているからであろう。

横から

お祭
 3月 10日    例祭
10月 第一日曜日 例大祭
 囃子曲持とは、囃子にあわせて米俵や酒樽などを持ち上げて曲芸を行う技芸。由来は江戸時代に若者連中が力石を持ち上げて、力自慢を競ったことに始まると言われている。川崎市域では数カ所で行われていたが、現在は当社にしか残っていない。

 杉山神社
川崎市高津区末長811 ゼンリン



交通案内
南武線武蔵溝の口 南東1000m 新作中学校北東

祭神
五十猛命

お姿
  当社建立の年代は不詳。神仏習合時代は明鏡寺持であったと伝えられる。以後神明・稲荷二神を境内神社に奉斉、現在に至る。 火災後、昭和四十八年に見事に再建されている。五十猛命を祀る神社には珍しく、社殿は赤く、その柄も異国の雰囲気である。 古木のシイの木が見事である。例大祭は10月の第一土曜日から2日間。


 末長遺跡は弥生・古墳時代から6世紀後半までこの地域が栄えたことを物語っている。特に古墳時代が最も栄えていたと云う。

 諏訪神社
神奈川県川崎市高津区諏訪3-16  ゼンリン

鳥居

交通案内
東急田園都市線 二子新地 400m



祭神
建御名方神
合祀 五十猛命、日本武尊、大日ルメ尊、保食神

摂社 濱川神社「素戔嗚尊」

拝殿



由緒
 社頭掲示板から
一、御神徳
 主祭神建御名方神は、大国主命の御子にて千引石をもささげ持つ程の武勇に秀でた神といわれ、古来より庶民の信仰が厚く、病魔に勝ち困苦に克ってあまねく人生の開運を招き、繁栄をもたらすと深く崇められ、御祭神の御神徳は誠にあらたかである。
一、御由緒
 信濃国の豪族諏訪安藝守源頼忠の末孫、諏訪左近頼久なる者が天正十八年 (一五九〇年)、 主家北條左京大夫氏直の許を離れ此の地に来り、慶長年中、深く崇拝する信州諏訪大社の大神の分霊を受け守護神としてここに勧請せり。爾来近郷の鎮守として崇敬され、明治三十二年、省令に依り、諏訪社に杉山社、大陸天社、神明社、稲荷社を合祀し諏訪神社と総稱。現在の御社殿は大正初期の造営に成り、大正四年四月、遷宮祭を執行す。

 祭神の中に五十猛命の名が見えるのは杉山社を合祀したからと思われる。

本殿


お姿
 西向き。社殿に朱色が目立つ神社。
 狭い境内だが木々は多い。地神塔と言う大きい石の碑が立っている。

濱川神社

お祭
10月 7日に近い土曜日と次の日 例大祭

 杉山社
神奈川県川崎市多摩区西生田3-3-2  ゼンリン

鳥居

交通案内
小田急小田原線読売ランド駅 南東500m



祭神
日本武尊

拝殿



由緒とお姿
 由緒はよくわからない。  読売ランド駅の南側に木々の鬱蒼とした丘が見える。神社はこの丘の上に東向きに鎮座している。 鳥居の前は狭いので、鳥居全体を写せない。
 北側から石段を登り、木々の深い参道を通ると社殿が見え、その向こうは住宅街。
 当地も一応は鶴見川の上流となるようだ。
 当社の祭神は日本武尊となっているが、五十猛命だったかも知れないと思い、参詣した次第。

社殿

お祭
 9月 20日     例大祭

 細山神明神社
神奈川県川崎市麻生区細山2-6  ゼンリン

鳥居

交通案内
小田急小田原線読売ランド駅 北西15分



祭神
天照大神
相殿 倉稲魂神、児屋根命、五十猛命、猿田彦命

拝殿



由緒
合祀神社
  稲荷社(北谷)、杉山社(南田)、秋葉社(大久保)、春日社(向原)、杉山社(金程)
 二社の杉山社を合祀している。祭神から見ると共に五十猛命だったかも知れない。

 境内説明板に逆大門の由来が載っている。鳥居から下って社殿がある説明。
  わが郷土の鎮守様、神明社のひらかれたのは、言伝によれば源頼朝が鎌倉幕府(1192年)をひらいたころといわれている。
 はじめ、社を東のほうに向けて建てたところが、一夜にして社殿が西向きになって居り村人が驚いて東向に直すと、又一夜にして西向になっている。こんな事が三度あって村人が不思議に思っていたある夜、名主の夢枕に神様がおたちになり「この神明社は細山村の東の端にある。東を向いて社を建ててしまっては大事なわが細山村に背を向けてしまいお前たちを守ることができない。これを西向にして村全体がみえるようにすれば、いつも氏子を守っていられる。又西の方はるか伊勢の皇大神宮のほうを向いていることが出来る。このため大門が逆になるのは一向にかまわぬ。」とお告があった。
 名主は夢からさめると、早速、村人を集めお告のように西向のまま神明社を鎮守として祭ったという。一般の神社は坂を登って社殿を拝するのが常であるが当社を坂を降って参拝するので人呼んで逆大門というのである。
 かつては境内には参拝すると乳が出るという瘤のついた大榊があった。又拝殿には多数の絵馬があり、とくに眼病平癒の向いめ絵馬、下の病や腫物のため願をかけた蛤の絵馬などが霊験のありがたさを物語っている。

本殿


お姿
 西生田小学校の向かいの丘の端に鎮座。由緒にあるように西向き、西は高い場所であり人間には見晴らしは良くないが、神様には邪魔にならないようだ。

お祭
 7月 15日 お庭草
 9月  1日 風祭
 9月     例大祭

 厚木神社
神奈川県厚木市厚木町3ー8 ゼンリン

相模川の橋の上から


交通案内
小田急小田原線本厚木駅北東へ400m、相模線厚木、小田急小田原線厚木駅 西へ相模大橋を渡る。600m



祭神
健速須佐之男命
配 五十猛命、奇稻田比賣命
合 予母津事解男命、伊弉冉命、速玉男命、大名牟遲命

鳥居



由緒
 円融天皇天延年間(973〜975)藤原伊尹の勧請と伝え、当時郷内の田村掘にあったが、後現社地に遷す。那須与市別当寺を置く。中古旧藩主の崇敬厚く、明治元年牛頭天王の称を改め厚木神社とす。(『神社名鑑』昭和三十六年)

 明治六年に惣鎮守の船喜田神社と古の惣鎮守の熊野神社を合祀した。しかし当該地区の住民は旧地に社殿を設けて引き続き祀っている。

拝殿


お姿
 相模川の西側に西を向いて鎮座している。町中の平地の神社であり、木々もそれほど多くはない。摂社が社域に点在しており、その向こうに町の姿が見える。
 厚木稲荷神社は江戸時代の創建で、今日も信仰が厚いようだ。

本殿


お祭
例祭 7月15日に近い土曜日

 紀伊神社
神奈川県小田原市早川字南畑1183ー1 ゼンリン

鳥居


交通案内
東海道本線早川駅 西へ800m



祭神
五十猛命、惟喬親王
摂社 駒形社、龍宮社、牛頭社、太子社

拝殿



由緒
 社頭掲示の碑から
 早川の氏神様で、往古は木宮大権現、のち紀伊宮大権現と称され、土地の人からは「木の宮さん」と呼ばれ、箱根物産木工業の人たちに昔から崇拝されてきた神社である。  神社縁起によれば、貞観年中(859〜876)の創建で、祭神は五十猛命と惟喬親王(文徳天皇の第一皇子)とが奉祀されている。
 木地挽(轆轤師)の開発者といわれる惟喬親王は、天安二年(858)京の都を追われて伊豆(河津)に流罪となったが途中嵐にあい国府津海岸につき、早川の庄に至りこの地で没したといわれ、当時親王の付人が木地を挽いて、朝夕の奉仕の料に当てたといわれている。また、この地には「木地挽」と言う字名が現存するが、この字名はその名残りであると言う。
 なお紀伊神社の社宝である「木地椀」は室町時代の作で小田原市の重要文化財に、社叢は天然記念物にそれぞれ指定されており、中でも社殿前のクスノキは市内で最大の老木である。以上。

 木の宮さんと呼ばれたとあるが、伊豆半島にも木の宮さんが多い。祭神は五十猛神。
 惟喬親王の母は紀名虎の娘紀静子である。皇位継承争いに敗れた後に、太宰府、常陸、上野の太守を歴任後出家、近江国滋賀郡小野に隠棲したと伝わる。木地師の中に惟喬親王を祖とする伝承が全国的に見られるが、当地もその一つであろう。

本殿


お姿
 鳥居から境内び進む参詣道の上を東海道線の線路が通っている。
 これをくぐって石段を登ると鬱蒼とした木々の社叢に至る。拝殿前にクスノキの老樹が見える。
 鎮座しているのは石垣山の麓である。藩の御林であり、船材などの伐採が行われていた。
 この山の城に豊臣秀吉の小田原攻めの本営を置いたと言う。
 地域には木地挽の字名が残っている。

クスノキの老樹


お祭
例祭  4月 23日

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