荒穂神社
佐賀県三養基郡基山町大字宮浦2050 its-mo



荒穂神社は基山を神体山としている。社殿の背後は基山

交通案内
JR基山駅を北西へ2km、基山頂上へは更に2km



祭神
瓊瓊杵尊、五十猛命
 合 住吉大神、春日大神、加茂大神、八幡大神、寶滿大神



由緒
 大化元年(645年)国造金連の子孫金村臣が基山の山頂に創祀したと言う。式内小社に列せられている。
 基山頂上南西の崖のそばに「たまたま石」と言う花崗岩塊があり、その岩の前の平坦地がかっての社地と伝わる。
 またJR基山駅付近の伊勢山丘陵の伊勢山社は基山を対象とした祭祀場であったと推定されている。
 瓊瓊杵尊が筑紫日向の高千穂より遷向し、基山で国見をした事、また天智天皇が白村江の戦いの後、基肄城を築き荒穂神を守護神とした事が社伝にある。


荒穂神社拝殿



「契り山伝説」がある。この基山と荒穂神社にまつわる伝説である。
 五十猛がある日、基山の「霊霊石」に腰をおろして四方を眺めていた。すると小川で一人のきれいな娘が洗濯しているのが目にとまった。そこでさっそく結婚することになり、基山の西にそびえる山の頂で夫婦の契りを結んだ。そのために人々は、その山のことを「契り山」と言うようになったと言う。 契山は基山よりやや高く、西2kmにある。基山町の民話にはこの娘は園部谷サコの「さこの姫」であると言う。基山の頂上からは南と東が見渡せる。園部は南の方角である。


霊霊石または玉玉石


 仏像が二体置かれている。お坊さんが2時間ほどこの前で瞑想されていた。


霊霊石と契山 草むらの向こうの山、遠くは背振山系



 ここで、2000年4月に公開されていた「基山小学校のホームページ」を紹介したい。
 1999年きざん山頂よりの「初日の出」が紹介され、次に基山の由来が語られています。
『木の国』
 基山町の象徴は、何と言っても基山(きざん)です。 古来、木山富士と称されたように、秀麗(しゅうれい)な山容をもつ心霊憑依(しんれいひょうい)【神のより代】の山でした。
ここは、『木の国』と、よばれていましたが、いつしか木山とよばれるようになりました。                 
次に以下のような民話が紹介されています。
 木の国神話〜五十猛命【いそたけるのみこと】
木の神の鬼退治(あらすじ)
昔々、木の山の東に、とても大きな悪い神たちが住んでいました。 その神たちは、山道を通る人たちの約半数を殺し、後の半数がやっと命びろいしていました。 そして、人の通りが少ない時期になると、今度は、里に降りてきては、「山の神に、ささげる生けにえだ」といっては、若い女の人をさらっていきました。 そのため、娘をもつ親たちばかりではなく、里の人々みんながこの神たちのことを『鬼』と呼んで恐れていました。 そこで、「里の人たちが、かわいそうだ」と、鬼たちを退治しにきたのが五十猛命でした。 そして、五十猛命は、みごと鬼を退治しました。この木の国神話は、とても長いお話です。
以上が小学校のホームページによる基山の紹介の一部です。

 地元に伝わる伝承は、この基山は五十猛命を祀る霊山であることを示している。後に瓊瓊杵尊が祀られたのであろう。 国譲りがあったのかもしれない。国の統治権は譲っても、祖先が受けた恩を伝える伝承までは譲らないのが民衆である。

 木の神、五十猛命が最初に木を植え始めた地域との伝承もある。


日本の植樹はじめの説明 基山の草スキー場の下にある。



五十猛命は筑紫、出雲、紀伊と植林をしていったとされる。
 紀の国造紀氏も一時拠点にしていたとの説もある。武内宿禰にまつわる伝承もこの辺を中心に多く語られる。


荒穂神社の伝説の石三体


右の石の伝説 子宝石と言い、この石の上に腰をかけて祈願すると子を授かると伝わる。

中の石の伝説 荒穂の神と高良の神とが石を投げ合った石で、上部に指の跡形が残っている。荒穂の神の投げた石は高良の神の社殿の下にあると言う。 この伝説は高良大社の熊懐さんによると、「南北朝時代の「礫打(つぶてうち)」の習慣に由来するとのことで、先の高良大社の社殿修復の時に社殿の下をボーリングしたそうですが、石はなかったとのことでした。」との事です。

左の石の伝説 荒穂のかみの馬が基山頂上より飛び降りた時、この石に馬の蹄の跡形がついたとされる。

お姿
 基山の山麓に鎮座する。古代、基山には基肄城が築かれた。これは大野城とともに太宰府の出城であり、有明海からの侵入を防衛する目的であった。 もともと基山の頂上に祀られていたが、戦国の兵火で焼けてしまい、転々としたが、江戸時代に現在地に鎮座したと言う。まさに基山を祀る位置に鎮座している。基山が見事に見える場所は限られており、最も人里にも近い、よい立地を選んでいる。


荒穂神社社殿

  



お祭り
5月1日から7日まで物忌のため牛馬を使用しない風習があった。
 荒穂神が7日7夜寝ている間に神馬が当郡、筑前、筑後方面まで駆け回った事によるという。
5月1日から7日までは静かにすごすと言う風習があった。
 荒穂神が地域の開拓を不眠不休で行い、5月1日から7日まで眠り続けたと伝えられ、音を出さないようにしたと言う。荒穂神は国土開拓の神であった。すなわち国津神であった傍証になる。 

 おもしろい民話がある。荒穂さんは、元は大地主の作男で、この地主は人使いが荒く、三日三晩不眠不休で働かされて寝てしまい、その間に馬が畔の草を食べていった範囲の住人が氏子となったとさ。
 3月16日 春祭
 7月19日 夏祭
10月16日 秋祭

日本の神々1(杉谷昭)白水社


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