肥の国の五十猛神


佐賀県三養基郡基山町 荒穂神社

佐賀市大和町 梅野神社

佐賀市鍋島町 新庄八幡神社

佐賀県杵島郡大町町 大町八幡神社

佐賀県杵島郡白石町 妻山神社

佐賀県杵島郡有明町 稲佐神社

佐賀県藤津郡太良町 太良嶽神社

長崎県島原市 猛島神社

長崎県南高来郡小浜町 温泉神社









 荒穂神社
佐賀県三養基郡基山町大字宮浦2050 its-mo



荒穂神社は基山を神体山としている。社殿の背後は基山

交通案内
JR基山駅を北西へ2km、基山頂上へは更に2km



祭神
瓊瓊杵尊、五十猛命
 合 住吉大神、春日大神、加茂大神、八幡大神、寶滿大神



由緒
 大化元年(645年)国造金連の子孫金村臣が基山の山頂に創祀したと言う。式内小社に列せられている。
 基山頂上南西の崖のそばに「たまたま石」と言う花崗岩塊があり、その岩の前の平坦地がかっての社地と伝わる。
 またJR基山駅付近の伊勢山丘陵の伊勢山社は基山を対象とした祭祀場であったと推定されている。
 瓊瓊杵尊が筑紫日向の高千穂より遷向し、基山で国見をした事、また天智天皇が白村江の戦いの後、基肄城を築き荒穂神を守護神とした事が社伝にある。


荒穂神社拝殿



「契り山伝説」がある。この基山と荒穂神社にまつわる伝説である。
 五十猛がある日、基山の「霊霊石」に腰をおろして四方を眺めていた。すると小川で一人のきれいな娘が洗濯しているのが目にとまった。そこでさっそく結婚することになり、基山の西にそびえる山の頂で夫婦の契りを結んだ。そのために人々は、その山のことを「契り山」と言うようになったと言う。 契山は基山よりやや高く、西2kmにある。基山町の民話にはこの娘は園部谷サコの「さこの姫」であると言う。基山の頂上からは南と東が見渡せる。園部は南の方角である。


霊霊石または玉玉石


 仏像が二体置かれている。お坊さんが2時間ほどこの前で瞑想されていた。


霊霊石と契山 草むらの向こうの山、遠くは背振山系



 ここで、2000年4月に公開されていた「基山小学校のホームページ」を紹介したい。
 1999年きざん山頂よりの「初日の出」が紹介され、次に基山の由来が語られています。
『木の国』
 基山町の象徴は、何と言っても基山(きざん)です。 古来、木山富士と称されたように、秀麗(しゅうれい)な山容をもつ心霊憑依(しんれいひょうい)【神のより代】の山でした。
ここは、『木の国』と、よばれていましたが、いつしか木山とよばれるようになりました。                 
次に以下のような民話が紹介されています。
 木の国神話〜五十猛命【いそたけるのみこと】
木の神の鬼退治(あらすじ)
昔々、木の山の東に、とても大きな悪い神たちが住んでいました。 その神たちは、山道を通る人たちの約半数を殺し、後の半数がやっと命びろいしていました。 そして、人の通りが少ない時期になると、今度は、里に降りてきては、「山の神に、ささげる生けにえだ」といっては、若い女の人をさらっていきました。 そのため、娘をもつ親たちばかりではなく、里の人々みんながこの神たちのことを『鬼』と呼んで恐れていました。 そこで、「里の人たちが、かわいそうだ」と、鬼たちを退治しにきたのが五十猛命でした。 そして、五十猛命は、みごと鬼を退治しました。この木の国神話は、とても長いお話です。
以上が小学校のホームページによる基山の紹介の一部です。

 地元に伝わる伝承は、この基山は五十猛命を祀る霊山であることを示している。後に瓊瓊杵尊が祀られたのであろう。 国譲りがあったのかもしれない。国の統治権は譲っても、祖先が受けた恩を伝える伝承までは譲らないのが民衆である。

 木の神、五十猛命が最初に木を植え始めた地域との伝承もある。


日本の植樹はじめの説明 基山の草スキー場の下にある。



五十猛命は筑紫、出雲、紀伊と植林をしていったとされる。
 紀の国造紀氏も一時拠点にしていたとの説もある。武内宿禰にまつわる伝承もこの辺を中心に多く語られる。


荒穂神社の伝説の石三体


右の石の伝説 子宝石と言い、この石の上に腰をかけて祈願すると子を授かると伝わる。

中の石の伝説 荒穂の神と高良の神とが石を投げ合った石で、上部に指の跡形が残っている。荒穂の神の投げた石は高良の神の社殿の下にあると言う。 この伝説は高良大社の熊懐さんによると、「南北朝時代の「礫打(つぶてうち)」の習慣に由来するとのことで、先の高良大社の社殿修復の時に社殿の下をボーリングしたそうですが、石はなかったとのことでした。」との事です。

左の石の伝説 荒穂のかみの馬が基山頂上より飛び降りた時、この石に馬の蹄の跡形がついたとされる。

お姿
 基山の山麓に鎮座する。古代、基山には基肄城が築かれた。これは大野城とともに太宰府の出城であり、有明海からの侵入を防衛する目的であった。 もともと基山の頂上に祀られていたが、戦国の兵火で焼けてしまい、転々としたが、江戸時代に現在地に鎮座したと言う。まさに基山を祀る位置に鎮座している。基山が見事に見える場所は限られており、最も人里にも近い、よい立地を選んでいる。


荒穂神社社殿

  



お祭り
5月1日から7日まで物忌のため牛馬を使用しない風習があった。
 荒穂神が7日7夜寝ている間に神馬が当郡、筑前、筑後方面まで駆け回った事によるという。
5月1日から7日までは静かにすごすと言う風習があった。
 荒穂神が地域の開拓を不眠不休で行い、5月1日から7日まで眠り続けたと伝えられ、音を出さないようにしたと言う。荒穂神は国土開拓の神であった。すなわち国津神であった傍証になる。 

 おもしろい民話がある。荒穂さんは、元は大地主の作男で、この地主は人使いが荒く、三日三晩不眠不休で働かされて寝てしまい、その間に馬が畔の草を食べていった範囲の住人が氏子となったとさ。
 3月16日 春祭
 7月19日 夏祭
10月16日 秋祭

日本の神々1(杉谷昭)白水社


 梅野神社
佐賀郡大和町大字梅野2552 its-mo


肥前鳥居の梅野神社 季節は早春 花粉症にご注意


交通案内
佐賀駅からバス古湯温泉行き、  下車後東へ橋を渡り、さらに背振方面へ向かう。松梅小学校前の川の東岸に鎮座

祭神
五十猛命 配 三女神

由緒
 由緒を書いた板の朽ちかけたものが置いてあったので、書き写した。
 鎌倉時代にこの地の地頭であった人が京都出身でその氏神の梅宮神社の御分霊を祀り社となった。
 鳥居に刻ある「仁明天皇」の皇后は子宝に恵まれず、京都梅宮神社に祈願した所、子供を授かったという。 その御神徳より、お産の神、木の神、交通安全の神として広く信仰されている。以上
 梅野神社は生むからのこじつけであろうか。京都の梅宮大社の祭神に嵯峨天皇、仁明天皇、橘清友、橘嘉智子が配祀されている。創建に関わった人々である。

 『佐賀県神社誌』には、石華表に聖武天皇皇后云々嵯峨天皇橘嘉智無御子云々仁明天皇云々等とあるが摩滅して読む能す。 と記されていた。梅宮大社との関連であろうが、五十猛命については何故であろうか。
 梅宮大社には熊野から三羽の烏が飛んできて石に化したと伝える影向石があるが、五十猛三兄妹神も熊野の祭神と見られていたふしがあり、この五十猛命の名が持ち込まれたのかも知れない。

 『肥前風土記』に荒ぶる神の話がいくつか載っており、この中に五十猛命を祀る荒穂神社や筑紫神社の関連が見える。
 この地付近の説話。川上に荒ぶる神がいて往来の人の半ばを生かし、半ばを殺したので、県主などの祖「大荒田」が占いを問うた時、 土蜘蛛の大山田女、狭山田女という二人の女子が、「下田村の土を取り、人形馬形を作り、この神を祀れば、それに応えて必ず和まれるでしょう。」 と言ったので、その通りにしたら神が和らいだと言う。
 この伝説の中の下田村の地と言われる。下田東方の下山山頂には、巨大な奇岩が散在し、それを石神と呼んでいる。

 この説話とこの神社とを結びつけにくいが、地勢から見て、五十猛命は梅宮大社からの勧請以前からこの地で祀られていたかも知れない。

お姿

 梅野山は川上川(嘉瀬川)の東の山地を言う。集落も東岸に開けた谷間にある。
名尾川の南に鎮座している。近くの名尾山村に杉大明神社が鎮座。名尾山村は楮紙の産地。
 大きいグラウンドを回って神社へおもむく。

社殿

説明板

お祭り
 1月 15日 1日間  村祭り
 7月 14日 1日間  夏祭り



 新庄八幡神社

佐賀市鍋島町大字森田2028 ゼンリン


鳥居

交通案内
JR鍋島駅 北側

祭神
応神天皇 配 神功皇后、仲哀天皇、比賣大神、春日大明神、五十猛命

由緒
 神社名鑑(神社庁:昭和三十九年発行)の由緒
 養和元年(1181)年の鎮座で、天正年間竜造寺隆胤深く崇敬して社殿を造営したという。 その後藩主鍋島家より社領一町余の寄進あり。明治六年郷社に列す。

 玄松子様ご提供資料の『佐賀縣神社誌要』(洋学堂 大正十五年十一月 佐賀縣神職会発行 平成七年六月復刻)の由緒
 郷社 新庄神社 祭神 応神天皇、神功皇后、仲哀天皇、比賣大神、春日大神、 五十猛神、大国主神、八天狗神、辛国息長大姫大日命、ほか13柱
 養和元年勧請せりと傳ふ、天正の頃竜造寺隆胤深く尊信し、社殿を造営す、 後鍋島氏も亦崇敬篤く、社領一町余の寄進あり、廃藩迄は神事も厳かに行われたり、明治六年郷社に列せらる。
 祭神五十猛命外十六柱の神は無格社合祀により追加す。

 玄松子様ご提供資料の『明治神社誌料』(講談社 明治四十五年一月発行 昭和五十年十一月復刻)の由緒
 郷社 新庄神社 祭神 応神天皇、神功皇后、仲哀天皇、比賣大神、春日大神
 安徳天皇養和元年の鎮座なりと口碑に傳ふ、正親町天皇天正年間、竜造寺隆胤深く崇敬して、社殿の造営あり、 其後旧藩主後鍋島家より社領一町余の寄附あり、明治三年迄、正月十八日神事能の興行ありしが、今は廃せられたり、 明治六年郷社に列る、境内三百九十六坪、を有し、社殿は、本殿、拝殿、其他参籠所等の建物あり。

 乙護法大明神とも五社八幡宮とも言う。
 地域の小祠を合祀している。五十猛命の名は平成祭礼データからは消えている。
 この付近にかって植木村があり、植木地蔵堂や植木天満宮があった。
 また木角(きのつの)村もあった。木の神の意であろうか。
 五十猛命がどこから勧請されたかは不明である。

お姿
 平地に立地、社叢の木は大きい。

全景

社殿



お祭り

例祭日 十月 第二日曜日 

 大町八幡神社
杵島郡大町町大字大町5691 mapfan


鳥居と楼門


交通案内
JP大町駅 東へ1km北側

祭神
應神天皇、仲哀天皇、神功皇后 配 五十猛命 等

由緒
 古代の官道が通る。一里松の跡がある。

 大町八幡は神亀元年(724)、宇佐八幡から勧請している。これは大町荘が宇佐八幡の荘園であった由縁であろう。
 神社の肥前鳥居二基は寛文二(1,662)年と天文七(1,538)年のものである。
 五十猛命がどこから勧請されたかは不明である。

お姿
 大町町の北は天山山塊の西端の鬼ノ花山。南は六角川にはさまれた地域である。 鬼ノ花遺跡は先土器時代の石器遺跡で、この山のサヌカイトの尖頭器が出土する。
 社叢の深い神社であり、鳥居の形も面白い。

拝殿

社殿

お祭り
 4月29日 春季例祭
  10月19日 秋季例祭、おくんち祭

 妻山神社
杵島郡白石町大字馬洗(もうらい)2490 ゼンリン

鳥居


交通案内
JP白石駅 西側

祭神
抓津姫命、抓津彦命

肥前鳥居の最も美しいとされる二の鳥居 境内から東を見る

由緒

 当社を豊前坊と称したのは神仏習合の名残の修験道との習合である。
 創祀年代は古記録焼失のため不明。社伝によれば、五十猛命がカラ国から樹木の種を持って来て杵島山に播種し、杉、樟などの発芽を見てから紀伊の熊野に行った。 やがて全山が緑に覆われて木の島と呼ぶようになった。そこで五十猛命の徳を称えるため神社を創建し、妹の抓津姫命を合祀したという。

 この社伝から祭神の抓津彦命は五十猛命と言うことになる。
 宇佐神宮の創建・祭祀の辛嶋氏の伝える五十猛命の系図を示そう。
素盞嗚尊
五十猛命
豊都彦
豊津彦
都万津彦
曽於津彦
 ・・ とある。都万津彦の名が見える。この神を祭神とする神社は全国でここ妻山神社だけである。 子孫の名とは各地に勧請されていった若宮や御子神の名を言うと考えることができるようだ。
 また上宮の豊前坊の名も豊都彦・豊津彦の名から豊の国からの勧請を示唆している。


境内風景

お姿

 石造肥前鳥居があり、一の鳥居は明暦五(1,658)年、二の鳥居は50年古く慶長十三(1,608)年製で、鍋島藩城主の時の建立である。 肥前鳥居は笠木、鳥木、貫および柱は三本継ぎであり、柱は下部ほど太くなる特徴がある。

 境内の土壌の色が和歌山市の伊太祁曽神社の土と若干薄いがほぼ同じであった。杵島郡の南の藤津郡は丹沙の産地であった。

勇猛山(ゆもう)を神奈備山とするように見える。勇猛神の名で五十猛命は豊前国下毛郡の貴船神社に合祀されている。 いかにも勇猛は五十猛、勇=五十、いさ、いそ、いであろう。五十猛命を有功の神と言うのも樹木を植えたからとの説明であるが、勇ましいのイサかも知れない。
 馬洗神辺(もうらいこうのへ)は杵島山の北部、東に突出した妻山丘陵の東、妻山神社の社領であった。 神社西側の高所に弥生中期の甕棺墓群がある。また東側の妻山古墳群は古墳時代後期(6世紀後半)の遺跡である。

 社務所の前に印鑰石がある。印鑰神社をこの社の前身とする見方がある。
 肥後の国は武内宿禰と五十猛命をつなぐものがあるように思える。

楼門

社殿

お祭り
 6月30日 茅輪くぐり神事
  10月18日19日 秋季例祭、神幸祭・流鏑馬神事

 稲佐神社
杵島郡有明町大字辺田2925 its-mo


二の鳥居


交通案内
JP竜王駅 西側

祭神
天神(てんじん)、女神、五十猛神、大屋津比賣之神 配 聖王神、阿佐神

社殿

由緒
 式外社。大同二(807)年創祀。三代実録に貞観三(861)年従五位下とある。
 西国寺社奉行伊豆藤内の『稲佐大明神、神者人王三十代欽明天皇之朝、附国百済聖明王、為明王為新羅之冦所殺也、其世子余晶並弟恵等数十人率妻子従族而来、于我朝』(肥前国誌)とある。
 余晶が父の遺骨を稲佐山(杵島)山の山頂に葬り、帰化して稲佐大明神として祀ったという。
 上記由緒は、配祀の神の説明である。

  『消された覇王』(小椋一葉:河出書房新社)に五十猛が半島から帰国時着岸した海岸が、稲佐山麓八艘帆ヶ崎(はすぽ)と記されている。この言い伝えが実際にあったとすると当地は五十猛命の上陸伝承の地と言うことになる。

八艘帆が崎の説明板から引用する。

八艘帆が崎(はっすぼがさき)
 古代海中に浮ぶ杵島山の山麓東南に二大良港があり、 一は竜王崎、二は八艘帆が崎である。

一、口伝によれば稲佐大明神着岸のところを焼天神と伝えている。

二、神代の時、素盞嗚尊の子、五十猛命は孤津、大屋津命と共に韓地より樹種を持ち帰り、この岬に着岸され全山に植林せられたと言われている。

三、稲佐山累縁記によれば、百済聖明王の王子阿佐太子は、欽明天皇の勅命に依り、火ノ君を頼り稲佐に妻子従房数十人、八艘の船にて来航、座所二カ所を設けらる。 一を北の御所と言い、一を太子庵という。この岬に八艘の帆を埋没したので、その後八艘帆が崎と言う。

四、平城天皇大同二年、空海上人(弘法大師)帰朝し、ここ八艘帆が崎に上陸、太子庵にて稲佐山開創の事務を執らる。  補、焼天神の地域は、八艘帆が崎と同じである。

平成四年四月吉日   御即位大嘗祭記念
                 稲佐文化財委員会
引用終わり


 一方、ごく近くの妻山神社がどうやら豊前国辺りからの勧請らしいのに、この稲佐神社が勧請社ではなく、五十猛命の上陸伝説地というのは面白いことである。

 佐賀県神社誌(縣社 稲佐神社)から
 古来、杵島郡の東部白石諸郷の鎮守にして、杵島山中の一峰稲佐山の半腹にあり、往古は同山南の尾向横平山に在しと傳ふるも、鎮座年代久遠にして之を詳にせず。社伝に曰く、鎮座大神は天地剖判の代草木言語の時、天降りまして、国家を造立し給ひし天神及び五十猛命の神霊にして、後世推古天皇の御宇、百済国の王子阿佐来朝し此地に到り、其の景勝を愛し居と定め、父聖明王並びに同妃の廟を建て、稲佐の神とともに尊崇せり。其の後、里人阿佐の霊を合祀して稲佐三社と云へり。 大同年中(806〜)釈氏空海、神託を蒙りて当山を再興すと伝え、又、推古天皇十五年聖徳太子の命を奉し、大連秦河勝、当国を巡察し、田畑を開拓すること、十萬、大いに稲佐神社を尊崇す、又聖徳太子は聖明王の佛教伝来の功を追誉せられ、河勝に命じて同父子の霊を稲佐神社に合祀せしめ、大明神の尊号を授けられたりとも伝う。

 徐福が不老不死の薬草を探しに来たとの伝承が残る。(角川歴史地名辞典)

 杵島山は佐賀藩の御猟場となり、里人の立ち入りが許されず、杵島山についての古伝承は殆ど失われたが、五十猛神がこの山に樹木の種をまいて繁茂させ、「木の山」と呼ばれたと云う話は伝えられて来た。(平凡社 地名辞典)


お姿

 山の中腹に鎮座、相当な登りである。社殿前の鳥居の前には流鏑馬神事を行う無舗装の道がついている。

 杵島山風土記逸文によると、杵島山には南西から北東にかけて三つの峰があり、南西の峰を比古神、中の峰を比売神、北東の峰を御子神と称すという。御子神は別名軍神とも呼ばれ、この峰が鳴動すると戦いが始まると言い伝えられている。

 神仏混淆で盛んな頃は六十坊を数えたと言う。

 樹齢600年の大楠がある。
 鎮座地の辺田村の宇名は一本松、二本松、・・、五本松といかにも海岸風でもある。 この平野部分は往古はムツゴロウの天下であったのだろう。
 稲佐山の所々に波が削ったと思われる岩が残っているそうである。

楼門

鐘楼

お祭り
  10月18日19日 秋季例祭 流鏑馬神事

 太良嶽神社
藤津郡太良町大字多良8378 mapfan

鳥居と社域


交通案内
JP多良駅 東南300m

祭神
瓊瓊杵尊、五十猛命、素盞嗚尊、大山祇神、豐玉姫命
摂社 慈母神「木花咲耶姫命」、太良嶽神社上宮

コンクリート製の社殿

由緒
 昭和四十六年、川上神社「豐玉姫命」、荒穂神社「瓊瓊杵尊」、太良嶽神社「瓊瓊杵尊、五十猛命、素盞嗚尊、大山祇神」の三社を合祀した。

 この地域の荒穂神社は基山の荒穂神社からの勧請であろうから、祭神は五十猛命であって瓊瓊杵尊は後世に置き換わったものと考える。 『筑前国続風土記』にも、元社と思われる基山の荒穂明神について、「五十猛神なるべし、瓊瓊杵尊とは俗の付会せる説なるべしといへり。」と記されている。

 合祀の際、多良嶽頂上の太良嶽神社を上宮として残した。神社庁平成祭礼データCDによると、現在上宮の祭神に五十猛命の名がなく、素盞嗚尊とされる。 『佐賀県神社誌』によれば、和銅年間以前の鎮座としている頂上の多良嶽神社の祭神を大山祇神とするも、一説には五十猛命と記している。

 多良岳は標高1,076mの経ヶ岳を主峰とする山系の内の標高983mの秀麗な山容の山である。

 地名の通りタタラ製鉄が行われていた地域であり、水銀の丹生神社も藤津郡には多い。

 藤津郡本城村の住人角大夫という者、性至りて純直、大人の風あり、ある日。降雨の際、山路を通行せりに俄然天空より金色の御幣落下せるを見、 直に笠を以て之を受け、此の神秘なる現象に感動せし同人は床上に安置、その夜、夢に荘厳なる神体現れ、「吾は多良嶽祭神なり」と告け給ふと思えば、夢覚め大いに驚き、御幣を同社に奉遷したという。

 『肥前古跡縁起』から(角川歴史地名辞典からの孫引き)

 太郎嶽大権現は天竺摩訶陀国の大王の神霊也。本地千手観音、弥陀、釈迦三身一体の垂迹にして和銅年中(708〜)の草創也。 南より西に当たり四つの山有り。四面の民と云、是は四面大菩薩常に影向し給ふ霊地也。 其頭に弁財天、其下に仏ノ辻と云所有。此処は大権現来朝の御時降臨有りけれども殺生の浦近くにて不浄の穢風を忌給ひ此の太郎嶽の上宮に上らせ給ひぬ。

 上宮の太良岳神社の下に神宮寺であった金泉寺があり、人々の崇敬が深かったが、天正十一(1583)年に耶蘇教徒のため焼失され、爵恵という僧が三尊像を負うてやっと太良窟に逃れたという旨が記されている。
 太良岳神社は真言密教の聖地であった。

お姿
 多良駅から東南へ徒歩10分。海の側に鎮座する。権現ではなくなったので殺生の浦近くでも良いと云う事か。
 老人福祉センター寿館や油津児童館が隣接しており、地域のなごみ、いやしの地である。

社殿

 多良岳山頂にもコンクリート製の祠が置かれているそうである。


「HP月の引力が見える町」の上宮の写真

お祭り

  1月 6日 お火焚き(鬼火たき、ほんげんぎょう)
  9月第二土曜日、日曜日 例祭(御宮日 おくんち)、御神幸祭

 猛島神社
長崎県島原市宮の町247番地 its-mo



交通案内
島原鉄道島原駅 北5分、海岸沿い

祭神
五十猛神、大屋津姫神、抓津姫神

配祀 譽田別命、大綿津見命、天照大日命、天津兒屋根命、 菅原道眞、沫那藝命、沫那美命、國常立命、彌都波能賣命、猿田毘古命、 現仁命、多紀理比賣命、狹依比賣命、多紀津毘賣命、奇稻田比賣命、神速須佐能男命、 八男子命、大國主命、大山咋命、八重事代主神、御年神、大年神、若年神、志賀神、猿田彦神、宮毘神
摂社 御前神社「八重事代主命」

鳥居と拝殿

由緒
 「平成祭礼データ」から

 御祭神は、素佐之男尊の御子、五十猛神、大屋津姫神、柧津姫神を配祀する。
 日本書紀一書によれば、五十猛神が新羅から多くの木の種を持って帰り、それを妹の大屋津姫、柧津姫の2神と共に筑紫の国からはじめて全国に播いて歩かれたという。
 元和4年(1618)年、松倉豊後守重政公が、森岳城(現島原城)を築くまで、森岳大権現として祭っていた。

 その創祀は遠く不明であるが、森岳の森は神を祭る木の茂った聖地の意味で、岳は神聖な高地を意味する。この聖なる森岳に迎え祭った神は、森信仰の神であることには想像するにかたくない。森の神は地主神であり、農の神である。その神格は周辺の集落を開き造り始めた住民たちの祖霊と習合する民俗信仰にもとづいたものである。

 島原半島を領した松倉重政公が築城するにあたって、森岳大権現を鷹島(今の高島町)に移し鷹島大権現と改めた。さらに寛永2(1625)年に森岳城の鬼門にあたる現在地に神苑を営み社殿を新たに設け遷座した。それから高力氏をへて、延宝3(1675)年8月15日に松平忠房公は社殿を改造したのを機に、かねて考証させていた、侍講の伊藤栄治の説を採用して猛島大明神と改めた。

 その祭神論は猛島社本記に詳しいが、旧社地の鷹島は五十猛神に由来すると推論し、木の神、有功の神であると考証した。伊藤栄治の祭神考の正否はとにかくとして、島原の鎮守の神として古くから信仰され、住民に崇敬されていたことは疑いのないことである。

 森岳域の守護神島原城下の氏神、島原領民の総社、島原半島を代表する神社として昭和58年に360年祭も行った。不知火燃える有明海に臨む聖地は、森岳に再建された島原城を指呼の間に眺め、在りし日の森岳大明神の歴史を偲ばせ、背後に眉山の優姿、はるかに雲仙岳の霊峰を仰ぐ。神苑は広荘、白鳥の浮く御手洗池には、神さびた老松が影をうつし、磯辺に寄する白波のさざめき、そよ吹く松風の音は悠久の歴史をささやき、社殿の荘麗と古雅とあいまって、森厳きまわりなく、おのずから、鎮守の森にふさわしい霊気をただよわせている。

お姿
 島原駅から北へ徒歩10分。海の側に鎮座する。
 大きい池があり、大きい白い鳥がのんびりと待っていてくれた。海辺らしく松林が社叢になっている。本殿の厳かな雰囲気には身がひきしまる思いであった。

有明海を背景とした社叢風景

本殿

お祭り
  10月13日 例大祭(島原くんち、神幸祭(お下り))
  10月14日 例大祭(氏子安全祈願祭)
  10月15日 例大祭(神幸祭(お上り))

 温泉神社
長崎県南高来郡小浜町雲仙319番地 雲仙観光協会


交通案内
雲仙温泉宮ノ前

祭神
白日別命、豐日別命、速日別命、豐久士比泥別命、建日別命
摂社 普賢神社、妙見神社、八坂神社、愛宕神社、木花開耶姫神社

温泉神社

由緒 「平成祭礼データ」から
 上古温泉神社と称す。中古四面宮と称す。明治2年神社改正を以て筑紫国魂神社と称し、大正4年県社昇格の際、温泉神社と社号復旧す。

祭神(5柱)
白日別命、速日別命、豊久士比泥別命、建日別命。古事記上巻に「次に筑紫の島を生み玉ふ。此の島は身1つにして面四っあり。面毎に名あり。故に筑紫国を白日別と謂し、豊国を豊日別と謂し、火の国を速日別と謂し、日向国を豊久士比泥別と謂す。」

 鎮座(歳月不明)
 神代の鎮座と称す。歳月不明なれども来歴頗る古し。肥前風土記に昔者纏向の日代宮御宇天皇(景行天皇12年能襲御親征の時)肥後国玉名郡長渚浜之行宮に在りて、此の郡の山を覧て日く。「彼の山之形、別島に似たり。陸に属るの山か、別在の島か、朕之を知らまく欲りす。「仍て神大野宿禰に勅して遣はして之を看せしむ。往いて此の郡に致れば媛に人有り迎来りて日く「僕者此の山の神、名は高来津座、天皇の使の来るを聞き迎え奉る而巳」因って高来の郡と曰ふ。筑紫国魂神社記に是国魂の神、高来津坐神作り而現耳。

 位階(従五位上)
 三代実録に清和天皇貞観2年庚申2月8日「授く肥前国従五位下温泉神に従五位上を」とあり。

社格
 文武天皇大宝元年勅願所となる。後宇多天皇弘安4年、九州総鎮守となる。明正天皇寛永17年、郡中の祈願所となる。東山天皇元禄6年、藩主親祭となる。明治天皇明治9年郷社。大正天皇大正5年県社となり、今上天皇昭和27年宗教法人となる。
 祭日(春季祭、臨時祭として期日定らず。秋期祭、9月27日より29日)
 古文書(たびたびの戦乱にて存在せず。)
 但し、古事記、三代実録、肥前風土記、倭漢三才図絵、古史正文、扶桑記、伽藍開基記、太宰府管内誌。等の書籍中に当山の事、散見せり。

 五十猛命
 白日神を五十猛命とみる理由は白日別神を参照してください。

 雲仙にはニニギノ命の降臨伝承が残る。『温泉山縁起』にここに降りて、308,545年間国を治めたとあるそうである。 30+8+5+4+5=52、52年間の意であろうか。

 雲仙山周辺には紀元前2,300年の稲作の跡や、石器、縄文、弥生の遺跡が数多い地域である。 南方からの漂着者が絶えなかったのであろうし、また噴火などで住民が継続しておらず、遺跡が残りやすかったと言えるだろう。

お姿
 雲仙温泉郷のまっただ中に鎮座する。隣は湯の沸き出している地獄廻りと証する散歩道がある。 摂社の木花開耶姫神社は温泉郷地を廻る反対側の原生沼の左側の参詣道を100mほど歩く。

温泉神社社殿

お祭り
   9月27日、28日 例大祭

摂社 木花開耶姫神社

 古来より造化の神として霊験あらたかなりとして長く祀られてきた。 雲仙祭祀の当社には男女の性の巨大なシンボルが鎮座ましている。 元禄の頃より祀られたもので、詣でれば、向かって右に女陰、左に男根があって思わずギョッとさせられる。 男はこぞって自分の持ち物が大きく太く逞しくあるように祈り、また女性はあな「オソロシ」とため息をつくそうである。 この男根女陰崇拝の風習は長く伝えらて来たので、参拝者は家内安全和合、子宝また良縁の神として拝むべし、と記されている。

女神

祠の中の男神      もうひとつの1m程の新しい男神
  

肥前の五十猛命
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