飯盛神社
福岡市西区飯盛609 its-mo


飯盛山と中宮の白い鳥居

交通案内
天神からバス1番、105番 飯盛山方面に歩く。



祭神
本社 伊弉冉尊 合祀 寶滿大神(玉依比売)、八幡大神(品陀和貴命)
中宮 五十猛尊


鳥居


由緒

『飯盛神社由緒』によると、天太玉命が伊弉冉尊を奉齋することを創建のを起源としている。
 上宮に伊弉冉尊、中宮に五十猛尊を奉齋し、多分下宮に天太玉命を祀ったのだろう。故に飯盛三所権現宮と称していた。往年、上・中・下宮・神宮寺を設けていた。
 福岡平野を挟み、東には若杉山に坐す「太祖神社(伊邪那伎尊)福岡県糟屋郡篠栗町大字若杉字石ヒシキ1047」、西には飯盛山に坐す「飯盛神社(伊弉册尊)」すなわち夫婦山として古代よりの国産み伝説の基となったと云う。


拝殿


本殿


中宮社由緒


アルミの鳥居と飯盛山ガイド絵

飯盛やその南の金武は戸栗郷に属し、ここは『和名抄』早良郡平群郷の系譜をひいている。
 『記紀など』に登場する平群氏は武内宿禰の子孫の一つの氏族であり、大和国では平群郡を拠点としていた。ここに平群坐紀氏神社が鎮座しているように平群氏と紀氏とは神話の世界ではなく実際の世界でも深い縁があったのでしょう。そう云う意味で飯盛山中腹に紀の国の神である五十猛尊が祀られているのも何となく判る。


中宮の社殿

 飯盛神社中宮社についての飯盛神社の説明板の概要。

旧飯盛三所権現の中宮社
御祭神 五十猛尊(有功神)
御神徳 森林守護の神(福徳円満、不老長命、病魔退散
創建 貞観元年(859)
御社殿 神明造り
例祭日 水無月の大祓え(6月30日夕方)、下元の節会
鎮座地の標高 126.94m
由緒 五十猛命はいざなぎ尊の御孫様にて、素盞嗚尊の御子神にあたる。古え、神代の昔、天津神々の天孫降臨の砌、木種を持ち来給う父大神に率いられ、この国では筑紫より全国に亘りて植え広めた。この故に有功の神とも申し上げる。又の名を大屋比古神とも申し、武勇の猛く坐す由の名。
 清和天皇の勅願を帯びて再建された神社ではあるが、文和二年(1353)からの戦禍により灰燼に帰した。650年後、先人達の中宮再建の志、ここに実現した。


中宮跡への道


お姿

 飯盛山のまさに茶碗をひっくり返してご飯が丸くなった形の山で、典型的な神奈備山。 神社の北側の近くに青柳種信ゆかりの地の碑がある。有名な業績として『後漢金印略考』を著した人物。
 下宮の入り口に盃状穴石が置かれている。下宮の南側の道を山に入る。すぐに西の宮跡地があり、松尾社の石の祠が設けられている。往古の姿を再現しようとされている神社のお気持ちがうかがえる。
 山道は一本道で10分程度で巨大なアルミ製の鳥居が見えてくる。アルミ製では日本一だそうな。神明造の社殿が新しい。近くに巨石が並び注連縄がなされていた。磐座である。飯盛山には所々に大きい石がころがっている。鏡岩と云う片面が平らな石があった。
 中宮から中宮跡へは山道だがうまく段を作ってくれており、登りやすい。丸く囲まれた中に砂がまかれており、榊が二本植えられている。見晴らしがいい。


中宮跡


お祭り

下宮 10月 9日 秋季大祭
中宮  6月30日 大祓え

平成祭礼データ 飯盛宮由緒

 抑も当社は畏くも国土万物を生成し万の事を始め給いし伊邪那美命を斉き奉る。太古よりの鎮座なり。社説によると天孫降臨の砌、天之太玉命この日向峠(ひなたとうげ)、飯盛山を斉き定めて伊邪那美命外二柱を祀り国土開発“むすび”を祈らせ給う。尚、福岡県粕屋郡篠栗町勢門、若杉山鎮座の太祖神社の縁記に曰く「神功皇后三韓を平伏し当社に奉賽の御祭祀を営ませ且つ神殿を西に向け造営あらせられたり、その所を尋ぬるに早良郡飯盛山に鎮座せらるる伊邪那美命の社殿東に向かいて相対せられしは深き由縁あり。」と太祖神社の御祭神は伊邪那岐命である事は夫婦相対し向いあえる縁しなり。皇后この若杉山をとりて香椎宮に植えられ給える、今の綾杉がこれ也。以上徴スレば古代の御鎮座なる事明なり、その鎮座し給う由緒は深遠にして比類稀なる古社にして国土を化成し万民の始祖と坐します。当社の古式祭典中二月十四日より三月朔日に亘り稲作吉凶「おかゆ占い」の神事ありて此の祭に上古は勅使下向ありて、いと厳重に神事執行せられ右お粥開き相済し上帰京せらる、凡そ此の神事は日本二ヶ所の神秘にして東三十三ヶ国は相洲(相模国)森山の明神(鎌倉佐賀岡)、西三十三ヶ国は筑前早良の飯盛明神にして右の神事執行す。今に宮田粥元穂垂れ田と云う田ありてお粥仕調の家筋厳重に執行すと、五穀豊凶を占うは飯盛と云う名称にもよく合致せり。此の祭りのうち十四日夕“洞ノ口鈴披の祭(文永ノ古文書ニハとうの口、大永の古文書ニハ貝祭かいなめトモアリ)に備え用ゆる鮑貝は此の時志賀の海人勅を受け献納し飯盛山の榊を取りて帰るを例とすと、今に飯盛山に志賀戸という所あり。亦志賀海神社にも古式祭に鈴納鈴披の両祭あり。又田植祭の歌に「五月節供の初菖蒲飯盛山に雨が降る小菅の笠をかたぶけて帯くつろげて植えさいよゝゝ飯盛山には松は花にい咲いたり。松はいはいの扇さいたり」とありて神功皇后の太祖神社報賽御造立の御聖旨と共に飯盛神社に深き由縁あることなり。人皇五十五代文徳天皇夢想に依り人皇五十六代清和天皇貞観年中社殿、神宮寺を造立せられ和気清友下向ありて年中二十六度の神事祭礼を厳重に執行せらる。就中九月九日秋の大祭に御神幸の儀厳重なりと、今に馬場末に神輿休石等ありて昔の名残を留む。斯くて上代古くより一般の崇敬厚く如何に盛大な大社なりし事は古文書にも窺うが飯盛山上宮地跡より出土の経文瓦(永久二年飯盛鎮守明神トアリ)及古き破片土器其他飯盛山麓一体に古代の土器武具馬具等幾多の古器物出土、中でも伊勢徴古館保管の子持高坏の如きは好く人、口に膾灸せられたる所にして古代当社は文化の中心地たる事明なり。中世に至りても武門を始め一般の崇敬厚く建武五年四月地頭代官沙弥覚、忍千度詣料の寄進、享禄三年十二月廿四日探題兵庫介興景の御供米馬の寄進、天文廿年四月十二日小田部鎮元奉行中牟田壱岐守王子社建立、文永八年四月二十七日神領坪付二百数十町歩及正月元旦の次第、応永六年飯盛宮行古文帳小田部村地頭名等往昔当神領三百余町ありしと云い中世に至り減少せしも上中下宮神宮寺末寺七ヶ寺楼門神輿殿神宝殿神祇殿その他神域の完備せる大社にて大宮司家の上代に多く位階ある者多かりし事は如何に盛大なりしかを物語れり。然し乍らさしもの大社も中世戦乱の為め上宮中宮を始め多くの神宝文書は散失し或いは兵火にかかり社領は悉く没収せられ社人社僧は退転し神事は大宮司家にて形ばかり執行せり。現存せる神宮寺本尊文珠菩薩は日本三大文珠として永仁六年八月五日造始め康永元年七月廿五日安置し真言律西大寺末寺飯盛山真教院と号し門下の寺七ヶ寺を有し繁栄した。現在は天台宗の末寺なり。又高麗石造狛犬は宗像大社、太宰府観世音寺所蔵国宝狛犬と共に筑紫三幅対の称あり。長き乱世も治まりて黒田公筑前国主として入国せらるるに及び敬神崇祖の念厚く頽癈せる当本社を慶安年中造立するに当たり国主より銀弐枚建立に寄進せられ又、遷宮難成を聞召し米一拾五俵を御寄進相成り早良郡総廟として復興し明治維新に至る。因に当時早良郡は現西区、早良区、城南区に至る広範囲なり。尚、当代神宮寺に修験者等殊に敬仰し飯盛山全山神域なる事を畏みて寛文十二年十二月廿一日には三ヶ村庄屋(飯盛、吉武、羽根戸)八万六千坪を買取り寄進せしが国主猟山にせられ明治初年官山となる。
以上
 

参考 『平成祭礼データ』、飯盛神社HP

公式飯盛神社
九州の五十猛命

五十猛命ホームページ
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