筑紫の五十猛命


福岡県筑紫野市大字武蔵字池上荒穂神社

福岡県筑紫野市原田     筑紫神社

福岡県糸島郡前原町大字潤  潤神社

福岡県糸島郡志摩町大字野北 須賀神社

福岡県糸島郡志摩町大字吉田 吉田神社

福岡県嘉穂郡庄内町大字赤坂 許斐神社

福岡市西区飯盛609  飯盛神社

福岡市西区金武1183 五十猛神社

福岡市西区字尾の上1570 登志神社

前原市大字王丸 白木神社

福岡県糟屋郡久山町 白山神社

 荒穂神社
筑紫野市大字武蔵字池上 天拝山山頂手前 its-mo

天拝山登り口の鳥居


交通案内
JR二日市駅を西へ2km、そこから南側の天拝山頂上へは更に2km

祭神
五十猛命

鳥居

由緒
 福岡県の設置した説明板では
 『筑前続風土記』には、荒穂神社は、現在佐賀県三養基郡基山町宮浦にある荒穂補明神を招いたもので、 一説にはニニギノミコトを祭神とするが、本来は五十猛命であるとされている。 また宮浦荒穂明神が一夜のうちに馬上空を飛んで、この岩間に鎮座したともいわれています。以上

 筑紫野市の説明板もある。
 『筑前続風土記』には昔、宮浦の荒穂明神は城山(基山)の上に坐り、基肄城をとりまく山々に五十猛命が祀られたことがわかります。以上

天拝山荒穂神社 社殿の上部に磐座が見える

お姿

 天拝山の散策道にさしかかるとすぐに鳥居がある。以降は参道となる。 直ぐだろうと思って登っていくが一向に社殿は現れない。頂上にまで2/3位登った所に鳥居があり、社殿がある。 何故、中腹以上で頂上でもない所に神社があるのかが不思議であるが、かっこうの磐座があるので、ここが神祭の場となったのであろう。

説明板


 この山には多くの野鳥がいる。季節を問わず、コゲラ、イカル、ヤマガラ、夏鳥ではキビタキ、冬鳥ではウソ、ルリヒタキなど

お祭り

 7月19日 夏祭
10月19日 秋祭


 筑紫神社
福岡県筑紫野市大字原田2550 its-mo


鳥居

交通案内
JR原田駅を北東700m



祭神
筑紫大明神(白日別神、五十猛命)
配 玉依姫命 坂上田村麿



由緒
 筑紫の国魂を祀る式内名神大社である。古くは近くの城山頂上に祀られていたと伝わる。
 祭神の白日別神は筑紫の神であるが、この神も朝鮮とのかかわりから見ると、光・明・火などを表す「白」がついており、ウラルアルタイ系諸族に共通する天神・祖神を示していると指摘されている。*1
 白日別神は五十猛命の別名と思われる。

 筑後国風土記に三つの地名由来がのっている。
 1.筑前筑後の間の山に嶮しく狭い箇所があり、往来の人は乗っていた鞍「革+薦」[シタクラ]を磨り尽くされた。民人はクラツクシの坂と呼んだ。

 2.この堺の上に麁猛神がいて、往来の人、半ば生き、半ば死んだと言う。その数いたく多かったという。よって、人の命尽しの神と言った。時に、筑紫君と肥君が占い、筑紫君の祖甕依姫を祝として祭らせた。それより以降は神に害はれなかったと言う。これを以て筑紫の神と言う。 (瀬藤注)五十猛命は勇猛神とされてはいるが、麁猛神と呼ばれている説はここしか知らない。

 3.その死んだ者を葬るために、木を切って棺輿を造ったので、山の木尽きてしまった。よって筑紫の国と言う。


本殿の内部



 筑紫野市の阿志岐シメノグチ遺跡は縄文遺跡で針摺の先土器が出土している。また背振山地東部の低丘陵地帯は、弥生中期の甕棺墓地の出土の中心地であり、後期の銅剣・銅矛・銅戈だけではなく、古式銅鐸も含めた青銅器生産の中心地である。 これら金属器類と朝鮮半島とは深い関係があると思えるが、弥生後期に畿内に流行する銅鐸祭祀の源流はこの筑紫である。白日別神や五十猛命の渡来伝承も青銅器生産の担い手となったであろう渡来者集団とのかかわりもあることは言うまでもない。



お姿
 丘になったこんもりとした杜の中に堂々と鎮座している。鳥居は多く、敵国調伏の額が掲げられている。鎮座地は筑前筑後を結ぶ狭くなっている要所である。


筑紫神社社殿


筑紫神社社殿



お祭り

 3月15日 春季大祭(御粥占祭)、2月に炊いた粥のカビの色合による米麦の収穫を占う。市無形文化財。
10月20日 秋季例大祭

*1 日本の神々1(奧野正男)白水社


 潤神社
福岡県前原市大字潤576 its-mo


潤神社鳥居

交通案内
潤神社  JR筑前前原駅から東1.2km

祭神
五十猛尊 配 伊弉諾命、宗像三柱大神、住吉三柱大神
 福岡県神社誌は伊弉諾命ではなくて伊弉册命となっている。

由緒  糸島郡内で五十猛命を祀る神社は社名は白木神社である。潤神社も元の名は白木神社であったが、配神を祀る七神社を明治40年に合併して潤神社と改めた。
 さらに白木神社は新羅神社であったと推定されている。*1 白木神社の近くには半島からの渡来伝承や朝鮮系の遺跡が出ている。 王丸の白木神社の近くの西堂の古賀崎古墳からは朝鮮系の環頭太刀や馬具類が出ている。
 前原市川付の宇美八幡宮は応神天皇を主祭神とし、気比大神(天日矛)と新羅神が祀られているが、その前を流れる川を白木川と言う。 糸島半島は朝鮮半島と出雲、筑紫を結ぶ入り口の役割をした地域であった。

お姿
 小さい砲台形の上に鎮座、木々は多い。近くに志登支石墓跡がある。可也山が遠望できる。


潤神社社殿


志登支石墓跡と可也山
 



お祭り

潤神社  11月28日 例祭(秋祭)
白木神社  7月第2日曜日 夏祭、12月21日 秋祭

*1 日本の神々1(奧野正男)白水社
  福岡県神社誌


 須賀神社
福岡県糸島市志摩野北2219 its-mo


須賀神社鳥居

交通案内
JR今宿駅からバス野北経由筑前前原行き、その逆コース 野北すぐ



祭神
素戔嗚尊、櫛稻田姫命、大己貴命、少名彦名命、五十猛命、事代主命
摂社
幸田神社「埴安姫命、猿田彦命」
岩屋神社「大海住大神」
埴安神社「埴安姫命」
久米神社「久米皇子、綿積三神」
浜地天神社「埴安姫命」
日子神社「天忍穗耳命、伊弉諾尊、伊弉冉尊」
湯の岳神社「素盞嗚命、櫛稻田姫命、大己貴命、少名彦名命、五十猛命、事代主命」
白木神社「素盞嗚命、櫛稻田姫命、五十猛命、事代主命」



由緒  不詳。大友氏家臣阿倍鑑宗と言う者がこの辺を領し、天文二十三年(1554年)当社を建立したとされる。おそらくは再建したものであろう。
 大字小字が番号になってしまい、古来からの地名文化が便宜さの前に消滅させられているのは残念であるが、ここの子字は妙見である。妙見信仰は北斗七星を祀る信仰で仏教と結び妙見菩薩として祀られたが、これも新羅系渡来人がその信仰を持ち込んだ物である。
福岡市西区西浦の白木神社は妙見山に鎮座している。西区金武字妙見崎に五十猛神社(妙見宮)が鎮座。
熊本県八代市妙見町の八代神社(妙見宮)は白木山に鎮座している。
 白木神と妙見菩薩はともに新羅系渡来人によって祀られたもので重なっている。
 須賀神社と言う名の神社ではやはり出雲が聞こえている。出雲の須賀神社からの勧請であろうか。
 それにしても、この半島は素盞嗚命、櫛稻田姫命、五十猛命の影が濃厚である。この社では以下の摂社も入れると三社にこの三柱が祀られている。 須賀神社以外に湯の岳神社、白木神社が摂社である。糸島は新羅と出雲を結ぶ接点の役割をした地域であったと思われる。

お姿
 野北バス停すぐの所に鎮座、境内の摂社には神社名がなく、近所の人に聞いたが、今となっては判らないのではとの事であった。
 彦山が近い。日子は北方系の信仰とされる。


須賀神社社殿


摂社群1


摂社群2と土俵



お祭り
昔は流鏑馬神事があったが、近年行われなくなった。
また数組の獅子頭を奉じ海中に浴し来たる潮井舁と称する勇壮な特殊神事がある。以上*2から。
 5月15日に近い日曜日 例祭(宮祭)
 7月13日−14日 夏季例大祭(祇園祭)
 9月 1日 風神祭(風止祭)

*1 日本の神々1(奧野正男)白水社
*2 福岡県神社誌


 吉田神社
福岡県糸島郡志摩町大字吉田1696 ゼンリン


吉田神社鳥居

交通案内
JR筑前前原駅、今宿からバス野北回り吉田下車

祭神
倉稻魂命、素盞嗚命、五十猛命、稻田姫命、菅原道眞、埴安神
摂社 若宮神社「市杵嶋姫命」

由緒
 糸島半島の中央部に鎮座する。この半島には小さい山が多い。恐らく昔は小島であったろう。山以外は水平な平地であるのはこれを物語っている。 吉田村の五社(宇良宮、竹崎宮、大才山宮、梅宮、高野宮)を明治18年に遷宮合祀した。

お姿
社殿の横に広い広場がある。村の人々の「奉」の石柱が多い。
 神社の西に前方後円墳型の丘があり、その向こうに彦山があるのだが、見えない。


社殿



お祭り

 4月20日 春祭・お神楽祭
 6月 下旬日曜日 千度潮井祭
 8月 下旬日曜日 風止祭

*1 日本の神々1(奧野正男)白水社
  福岡県神社誌


 許斐神社(このみ)
飯塚市赤坂430 its-mo

鳥居



交通案内
後藤寺線筑前庄内駅から北400m



祭神
素盞嗚命、大己貴命、稻田姫命、大屋津姫命、五十猛命、抓津姫命



由緒  許斐や木實と記される。五十猛命一座は有功の木を植えたとされる。 船舶、家屋などを作るのに役立つ木々を植えたのであるが、一方木の実を取れる木々も有功である。 おそらくその徳を称える神社であろう。
 九州には許斐神社が3座見つかっている。全て福岡県内である。
 宗像市大字王丸許斐636 許斐神社「伊弉冉命、豐玉姫命、田心姫命、湍津姫命、市杵嶋姫命、瓊瓊杵命」
 飯塚市大字幸袋506-1 許斐神社「天太玉命、天兒屋根命、天鈿女命」



お姿
 鳥居が幾つかあり、大きい社叢に導かれる。







お祭り
10月 11日 1日間  例祭


 飯盛神社
福岡市西区飯盛609 its-mo


飯盛山と中宮の白い鳥居

交通案内
天神からバス1番、105番 飯盛山方面に歩く。



祭神
本社 伊弉冉尊 合祀 寶滿大神(玉依比売)、八幡大神(品陀和貴命)
中宮 五十猛尊


鳥居


由緒

『飯盛神社由緒』によると、天太玉命が伊弉冉尊を奉齋することを創建のを起源としている。
 上宮に伊弉冉尊、中宮に五十猛尊を奉齋し、多分下宮に天太玉命を祀ったのだろう。故に飯盛三所権現宮と称していた。往年、上・中・下宮・神宮寺を設けていた。
 福岡平野を挟み、東には若杉山に坐す「太祖神社(伊邪那伎尊)福岡県糟屋郡篠栗町大字若杉字石ヒシキ1047」、西には飯盛山に坐す「飯盛神社(伊弉册尊)」すなわち夫婦山として古代よりの国産み伝説の基となったと云う。


拝殿


本殿


中宮社由緒


アルミの鳥居と飯盛山ガイド絵

飯盛やその南の金武は戸栗郷に属し、ここは『和名抄』早良郡平群郷の系譜をひいている。
 『記紀など』に登場する平群氏は武内宿禰の子孫の一つの氏族であり、大和国では平群郡を拠点としていた。ここに平群坐紀氏神社が鎮座しているように平群氏と紀氏とは神話の世界ではなく実際の世界でも深い縁があったのでしょう。そう云う意味で飯盛山中腹に紀の国の神である五十猛尊が祀られているのも何となく判る。


中宮の社殿

 飯盛神社中宮社についての飯盛神社の説明板の概要。

旧飯盛三所権現の中宮社
御祭神 五十猛尊(有功神)
御神徳 森林守護の神(福徳円満、不老長命、病魔退散
創建 貞観元年(859)
御社殿 神明造り
例祭日 水無月の大祓え(6月30日夕方)、下元の節会
鎮座地の標高 126.94m
由緒 五十猛命はいざなぎ尊の御孫様にて、素盞嗚尊の御子神にあたる。古え、神代の昔、天津神々の天孫降臨の砌、木種を持ち来給う父大神に率いられ、この国では筑紫より全国に亘りて植え広めた。この故に有功の神とも申し上げる。又の名を大屋比古神とも申し、武勇の猛く坐す由の名。
 清和天皇の勅願を帯びて再建された神社ではあるが、文和二年(1353)からの戦禍により灰燼に帰した。650年後、先人達の中宮再建の志、ここに実現した。


中宮跡への道


お姿

 飯盛山のまさに茶碗をひっくり返してご飯が丸くなった形の山で、典型的な神奈備山。 神社の北側の近くに青柳種信ゆかりの地の碑がある。有名な業績として『後漢金印略考』を著した人物。
 下宮の入り口に盃状穴石が置かれている。下宮の南側の道を山に入る。すぐに西の宮跡地があり、松尾社の石の祠が設けられている。往古の姿を再現しようとされている神社のお気持ちがうかがえる。
 山道は一本道で10分程度で巨大なアルミ製の鳥居が見えてくる。アルミ製では日本一だそうな。神明造の社殿が新しい。近くに巨石が並び注連縄がなされていた。磐座である。飯盛山には所々に大きい石がころがっている。鏡岩と云う片面が平らな石があった。
 中宮から中宮跡へは山道だがうまく段を作ってくれており、登りやすい。丸く囲まれた中に砂がまかれており、榊が二本植えられている。見晴らしがいい。


中宮跡


お祭り

下宮 10月 9日 秋季大祭
中宮  6月30日 大祓え

平成祭礼データ 飯盛宮由緒

 抑も当社は畏くも国土万物を生成し万の事を始め給いし伊邪那美命を斉き奉る。太古よりの鎮座なり。社説によると天孫降臨の砌、天之太玉命この日向峠(ひなたとうげ)、飯盛山を斉き定めて伊邪那美命外二柱を祀り国土開発“むすび”を祈らせ給う。尚、福岡県粕屋郡篠栗町勢門、若杉山鎮座の太祖神社の縁記に曰く「神功皇后三韓を平伏し当社に奉賽の御祭祀を営ませ且つ神殿を西に向け造営あらせられたり、その所を尋ぬるに早良郡飯盛山に鎮座せらるる伊邪那美命の社殿東に向かいて相対せられしは深き由縁あり。」と太祖神社の御祭神は伊邪那岐命である事は夫婦相対し向いあえる縁しなり。皇后この若杉山をとりて香椎宮に植えられ給える、今の綾杉がこれ也。以上徴スレば古代の御鎮座なる事明なり、その鎮座し給う由緒は深遠にして比類稀なる古社にして国土を化成し万民の始祖と坐します。当社の古式祭典中二月十四日より三月朔日に亘り稲作吉凶「おかゆ占い」の神事ありて此の祭に上古は勅使下向ありて、いと厳重に神事執行せられ右お粥開き相済し上帰京せらる、凡そ此の神事は日本二ヶ所の神秘にして東三十三ヶ国は相洲(相模国)森山の明神(鎌倉佐賀岡)、西三十三ヶ国は筑前早良の飯盛明神にして右の神事執行す。今に宮田粥元穂垂れ田と云う田ありてお粥仕調の家筋厳重に執行すと、五穀豊凶を占うは飯盛と云う名称にもよく合致せり。此の祭りのうち十四日夕“洞ノ口鈴披の祭(文永ノ古文書ニハとうの口、大永の古文書ニハ貝祭かいなめトモアリ)に備え用ゆる鮑貝は此の時志賀の海人勅を受け献納し飯盛山の榊を取りて帰るを例とすと、今に飯盛山に志賀戸という所あり。亦志賀海神社にも古式祭に鈴納鈴披の両祭あり。又田植祭の歌に「五月節供の初菖蒲飯盛山に雨が降る小菅の笠をかたぶけて帯くつろげて植えさいよゝゝ飯盛山には松は花にい咲いたり。松はいはいの扇さいたり」とありて神功皇后の太祖神社報賽御造立の御聖旨と共に飯盛神社に深き由縁あることなり。人皇五十五代文徳天皇夢想に依り人皇五十六代清和天皇貞観年中社殿、神宮寺を造立せられ和気清友下向ありて年中二十六度の神事祭礼を厳重に執行せらる。就中九月九日秋の大祭に御神幸の儀厳重なりと、今に馬場末に神輿休石等ありて昔の名残を留む。斯くて上代古くより一般の崇敬厚く如何に盛大な大社なりし事は古文書にも窺うが飯盛山上宮地跡より出土の経文瓦(永久二年飯盛鎮守明神トアリ)及古き破片土器其他飯盛山麓一体に古代の土器武具馬具等幾多の古器物出土、中でも伊勢徴古館保管の子持高坏の如きは好く人、口に膾灸せられたる所にして古代当社は文化の中心地たる事明なり。中世に至りても武門を始め一般の崇敬厚く建武五年四月地頭代官沙弥覚、忍千度詣料の寄進、享禄三年十二月廿四日探題兵庫介興景の御供米馬の寄進、天文廿年四月十二日小田部鎮元奉行中牟田壱岐守王子社建立、文永八年四月二十七日神領坪付二百数十町歩及正月元旦の次第、応永六年飯盛宮行古文帳小田部村地頭名等往昔当神領三百余町ありしと云い中世に至り減少せしも上中下宮神宮寺末寺七ヶ寺楼門神輿殿神宝殿神祇殿その他神域の完備せる大社にて大宮司家の上代に多く位階ある者多かりし事は如何に盛大なりしかを物語れり。然し乍らさしもの大社も中世戦乱の為め上宮中宮を始め多くの神宝文書は散失し或いは兵火にかかり社領は悉く没収せられ社人社僧は退転し神事は大宮司家にて形ばかり執行せり。現存せる神宮寺本尊文珠菩薩は日本三大文珠として永仁六年八月五日造始め康永元年七月廿五日安置し真言律西大寺末寺飯盛山真教院と号し門下の寺七ヶ寺を有し繁栄した。現在は天台宗の末寺なり。又高麗石造狛犬は宗像大社、太宰府観世音寺所蔵国宝狛犬と共に筑紫三幅対の称あり。長き乱世も治まりて黒田公筑前国主として入国せらるるに及び敬神崇祖の念厚く頽癈せる当本社を慶安年中造立するに当たり国主より銀弐枚建立に寄進せられ又、遷宮難成を聞召し米一拾五俵を御寄進相成り早良郡総廟として復興し明治維新に至る。因に当時早良郡は現西区、早良区、城南区に至る広範囲なり。尚、当代神宮寺に修験者等殊に敬仰し飯盛山全山神域なる事を畏みて寛文十二年十二月廿一日には三ヶ村庄屋(飯盛、吉武、羽根戸)八万六千坪を買取り寄進せしが国主猟山にせられ明治初年官山となる。

名所図会
以上
 

参考 『平成祭礼データ』、飯盛神社HP(http://www.iimorijinja.jp/top.htm)


 五十猛神社
福岡市西区金武1183 its-mo


神社の界

交通案内
天神からバス1番、105番 南金武。



祭神
五十猛命


五十猛神社と妙見神社の鳥居
 


由緒

 昔の名前は妙見さんだったようだ。 妙見社が鎮座していた所へ、金武地域が北2kmの飯盛神社の神領になったことことこと、五十猛尊がかぶさって祀られたものと推測できる。

 尤も、妙見さんと五十猛は九州でつながっているように見える。妙見信仰は北斗七星を祀る信仰で仏教と結び妙見菩薩として祀られたが、これは新羅系渡来人がその信仰を持ち込んだとされる。そう言う意味では素盞嗚尊・五十猛尊も新羅に縁の深い神である。福岡市西区大字西浦妙見の白木神社はやはり五十猛尊を祭神としている。新羅神社が白木神社となったのだろう。熊本県八代市妙見町の八代神社(妙見宮)は白木山に鎮座している。 。


拝殿


お姿

 南金武のバス停の南西、犬を飼っているお家の横に鎮座、遠目からは判りにくい。 二の鳥居の扁額は五十猛神社、三、四の鳥居と拝殿内部のそれは妙見神社、妙見宮となっている。 本殿の側面にトンボ線が張られていた。鳥を除けているのだろうか。


本殿


お祭り

10月 17日 例祭

参考 『平成祭礼データ』


登志神社摂社五十猛神社
福岡市西区今津1570 its-mo


鳥居

交通案内
今宿駅から承和バス 今津下車北へ



祭神
登志神社  豐受姫大神、中筒男命、姫大神
五十猛神社 五十猛命
陰若神社 息長帶姫命
稲荷神社 倉稻魂神、宇賀竜神、大己貴神
志賀神社 上津綿津見神、中津綿津見神、底津綿津見神


拝殿へ登る


由緒

 登志の湊の産土神として、登志大明神と四所大明神が中世以来祀られていたと云う。豊受姫大神はの平安時代初期に伊勢外宮から勧請したとされる。
 当社に伝わる人形芝居は良く知れ渡っており、県の無形民俗文化財に指定されている。詳細は今津人形芝居をご覧下さい。


社頭の人形芝居の写真

 当社の鎮座地は糸島の根っ子にあたる。この付近には白木神社また五十猛神社として五十猛命が多く祀られている。新羅からの渡来人にまつわる伝承や史蹟が多く、当所は渡来人の祖神を祀っていたものと『日本の神々1』で奥野正男氏が指摘されている。当社より北西の草場や西浦妙見の白木神社にも五十猛命が祀られている。北の川辺郷には郡の大領の肥君猪手(ひのきみのいで)の居地、また猪手は怡土郡の渡来豪族宅蘇吉士(たくそきし)とは婚姻関係にあったと云う。このように渡来人の満ちあふれた地域であり、イタキソ、イダテの言葉が渡来人の理解の範囲にあったのかも知れない。


社殿


お姿

 登って左にずれてまた登る、と云う神社である。一本調子でないのは古形を残しているのかも知れない。 摂社の祠があるのだが、名前が記載されておらず、五十猛神社がどれであるのか判らなかった。


摂社
 

お祭り

  登志神社 4月 24日 春季例祭
登志神社 1月 15日 今津の十一日松囃子
  この神社を氏神として三味線、太鼓、鉦で囃しながら「山車引き歌」を歌い、山笠や山車で町内を練り歩く姿には、博多の山笠やどんたくの原初的な形が見られるという。

平成祭礼データ 登志神社略記

 往昔中国の船が来集していた登志の湊の鎮守のためにまつられたものとして字尾の上にある。人皇五十代桓武天皇の延暦三年伊勢国山田原から奉城遷座と伝えられている。社号は登志郷の名を冠している。民部省図帳によれば登志湊の神貢云々の事のみにて朝廷の厚く尊敬ありし事も詳でまた筑前国志摩郡に往昔より社領多かったという。天文七年三月二十七日九州探題白杵安芸守親連の時に社領従前の例に任せ中通六町今津二町寄附ありその他にも寄進状を伝えている。神宝として縁起猿楽の面五ッが存していたが嘉永二年(一八四九)兵乱のため大破焼失したという。
 以上

 

白木神社
前原市大字王丸410 ゼンリン


鳥居


二の鳥居

交通案内
周船寺駅からバス



祭神
五十猛命
摂社 五穀神社(社日宮)


拝殿


由緒

 創建年等由緒は不詳。
 王丸山西麓の集落の産土神である。「王丸」と言う地名はこの付近に多い「丸」地名の一。文暦二年(1235)に見える。
 田主丸、太郎丸、次郎丸、津丸、石丸、武丸、犬丸、金丸、黒丸、袈裟丸、市丸、松丸、薬師丸などの地名が福岡県近辺にある。マルの語源としては韓国語のマウル(村)であるとか、原(バル)の変化とか、砦など
 日本全体で見ると、福岡県がだんとつ、次ぎに北陸に多いように思える。


本殿


お姿

 遠目に可也山がよく見える地域。
 本殿は覆殿の中に納まっている。その周辺には苔が蒸しており、よい雰囲気を出している。左右に石祠が一対づつ置かれている。


本殿背後

お祭り

  7月 第二日曜日 夏祭

参考 『平成祭礼データ』、『福岡県の地名』、『福岡県神社誌』

白山神社
福岡県糟屋郡久山町大字久原字松浦188 ゼンリン


鳥居

交通案内
博多駅からJRバス 山の神



祭神
五十猛命


拝殿


由緒

 創建年代は不詳であるが、往古より鎮座ありしことは古老の口碑に伝えられる。
 伝説に言う。聖武天皇の天平四年(732)僧源通が勅命を奉りとて社殿を造営、二世源信を経て累代殷盛を極める。春冬両度の大祭は荘厳であった。毎年三月一日より十月までは特に皇室の安穏国家鎮静の祈祷をおこなった。
 元弘建武の兵乱を受け、且つ寺坊中互に闘争し悉く灰燼に帰した。天正十四年、薩摩の兵火に罹り、民は小祠を営んだ。
 大正十三年、許可を受け、同村山の神の山神社「大山祇神」を合祀、同時に字花の木原より現在地に移転したと言う。

 また、社説の云う。白山の宮、本地は百済国より虎の乗って天平二年(730)に来朝し、当山に地を示した。その後、天平四年、聖武天皇源通和尚に詔あり、当山に建立し、二世源信和尚累代繁昌した。
 観念観法の巖あり、続に源通岩と云う。竈山より峯入りの節は今に二夜三日の祈願あり。乗り捨て給う虎の猛威に恐れて郷人弓箭を以て是を害せしが、其の首より光明輝き、化身を顕しければ、首を羅物に包み埋めし所に十一面観音菩薩を安置す。之により、首羅山頭頂上の本殿には春秋の祭礼ありて帝国安穏国家鎮静の祈祷ありき。
 本社宮造は直ちに紫宸殿を移し賜い、十五間四面の講堂ありて、毎日無量寿経を読誦し給う。

 首羅山頂に鎮座していた頃は白山大権現と呼ばれており、僧坊は三百を越えたと言われる。僧坊が互いに争い、五十坊を残し焼失した。それも天正十四年(1586)島津勢に焼かれてしまい、再建されることはなかった。


本殿


お姿

 博多駅前から山の神まで約45分。バス停から鳥居が見える。西向き。山裾まで少し登る。赤茶色の土壌。


お祭り

  

参考 『平成祭礼データ』、『福岡県の地名』、『福岡県神社誌』

五十猛命ホームページ
神奈備にようこそ
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