大宝神祇令施行と伊太祁曽三神分遷


『和歌山地方史研究53』(2007.6)から

大宝神祇令施行と伊太祁曾三神分遷
                              寺 西 貞 弘

はじめに
 律令神祇制度は、皇祖神天照大神を頂点とする、神祇体系を構築している。そして、それは天皇制国家の安寧を祈願することを最大の目的として存在している。これらの制度は、大宝令の施行によって確立したと見ることが出来るであろう。しかし、この制度の確立によって生じたであろう大きな変化とは何だったのだろうか。
 大宝令については、大宝元年に官位令が施行されたことを、『続日本紀』で確認することができる。(1) 数々の諸制度の改正が、矢継ぎ早に命ぜられているが、これらも大宝令の編目ごとの施行に伴う措置であろうとみることが出来る。また、大宝二年には大宝令制定の功労者に対して、褒賞記事が『続日本紀』に見える。(2) このことから、大宝令の全編目は、細則である式が具備されていないため、施行に若干の時間をさらに要した分野もあろうが、この時までに公布されていたと見てよいであろう。すなわち、神雫の規定に基づいた施策も、この頃までに公布され、徐々に施行されていったと見ることが出来る。

 ところで、『続日本紀』大宝二年正月十五条に、「戊寅、始置紀伊国賀陀駅家」という記事が見える。これによって、紀伊国に賀太駅が設置されたことを知ることが出来る。しかし、この時、何ゆえ賀太駅の設置されたことだけが記されているのであろうか。おそらく、このとき大宝令の厩牧令が施行され、全国的に駅制が整えられたはずである。それゆえ、この日もしくはこの日を前後して、多くの駅が設置されたはずである。何よりも、駅路でつながれた駅が、賀太駅たった一つだけを設置したとしても、まったく機能しないはずである。少なくとも賀太駅を前後する駅は確実に設置されていたはずである。(3)しかし、『続日本紀』の記述からはそのことを知ることは出来ない。おそらく、厩牧令による最初の駅の設置完了が紀伊国の賀太駅であったか、もしくは『続日本紀』編纂段階で、駅の設置を語る史料として、紀伊国賀太駅設置の史料が着目されたのであろう。

 このような視点で、『続日本紀』大宝二年二月二十二日条に見える「是日、分遷伊太祁曾・大屋郁比売・都麻都比売」という記事を再検討することは出来ないだろうか。小稿は、以上のような観点から、まず、この記事に関するこれまでの研究成果を確認したい。そして、『延喜式』の記述をもとに、律令国家が目指した神祇制度の指針を検出したい。その上で、再度大宝二年の分遷記事の意義を確認したい。


 一 伊太祁曾三神の分遷

 大宝二年の伊太祁曾三神分遷の記事については、古くは本居国学の後継者である本居内遠が考察を行っている。(4) 内遠は『先代旧事本紀』に伊太祁曾三神に関して、「已上三柱、並坐紀伊国、則紀伊国造斎斉祠神也」とある点に注目する。さらに、永享五年の「高大明神雑掌申状案」 (湯橋家文書、『和歌山市史』第四巻所収)に、「雑然今神宮領葦原千町者、為当手力雄尊敷地鎮座之処、日前・国懸影向之刻、去進彼千町於両宮、御遷座山東」とある点に着目する。この史料によって、伊太祁曾三神の旧社地が、日前宮の現在社地であったとする。

 さらに、日前宮の現在社地から現在の山東に遷座した年代が『続日本紀』大宝二年の分遷記事であると理解する。また、伊太祁曾社の古伝に、和鋼六年に伊太祁曾神社が移転を果したとしている(5)点にも言及し、政府の命令が大宝二年に発令され、その命令を受けて移転を完了したのが和銅六年であろうと推定している。『続日本紀』に見える「分遷」という用語についても、「分遷といへるは、只日前宮の社地に一所にましヽを、今の地へ三神共に分れましヽ事にて、三神各所を異にし給ふとのみもさだめかたき文也」と述べ、伊太祁曾三神が一括して山東に遷座したのであり、分割されたものではないと主張する。

 伊太祁曾三神の旧社地が、日前宮の現在社地であることを指摘した点は、評価されるべき考察であろう。また、分遷をめぐる時間的経緯を整合的に整理した点も評価されるべきであろう。しかし、「分遷」を一括移転であると主張する点については、多少牽強付会の観をぬぐえない。したがって、時間的経緯も整合性があるものの、「分遷」の評価によって大きく理解が異なってくるであろう。すなわち、「分遷」はいかに考察を施そうとしても、「分かち遷す」でなくてはならないだろう。大宝二年に伊太耶曾三神が分かち遷されたのであれば、日前宮現在社地から山東に伊太祁曾三神一括して遷座した年代は、大宝二年以前に求められなくてはならないはずである。 

 次に、この分遷記事に注目されたのは、福原紀子氏であろう。(6)福原氏は、分遷の意味については言及ておられない。そして、大宝二年に唐突に伊太祁曾三神の名前が登場することから、伊太祁曾三神の樹木将来伝承は、大宝二年をそれほど遡らない時期に成立したものではないかと提唱された。伊太祁曾三神は、月次祭・新嘗祭に際して、神祇官から奉幣を受ける畿外では数少ない神社である。神祇の守旧制を考慮するならば、福原氏が提唱されるよう新参の急造された神社の権威に対して、神祇官がこのような扱いをするとは考えられない。この分遷記事は、神祇という極めて守旧性の高い権威の変遷過程の中に位置付けられなくてはならないであろう。

 最近では、中村修也氏が壬申の乱における紀朝臣氏の功績を分析され、それによってそれ以後文武朝頃までに、日前宮の国家神化が図られたという説を出された。(7) 中村氏は、その結果として、在地の神である伊太祁曾三神が大玉二年に至ってその神域を日前宮に譲り分遷を余儀なくされたと述べられる。さらに、その分遷の意義を、日前宮の国家神化の過程で、伊太祁曾三神の勢力を相対的に低下せしむる意図が存在したとされる。

 たしかに、分遷の背景に古代最大の内乱である壬申の乱を想定することには、きわめて整合性があるように感じられる。しかし、壬申の乱に活躍したのは紀朝臣氏であり、日前宮を祭祀する紀直氏ではない。たしかに、紀朝臣氏と紀直氏が同族であったであろうとする説(8)があるが、古代の氏族史研究では朝臣と直という姓は、厳格に峻別されなくてはならないはずである。その意味で、中村説は少々強引であろう。また、分遷の結果として、伊太祁曾三神及びそれを祭祀する氏族の勢力を、果たして本当に低下させ得たのであろうか。この点についての検証がなされていないことは極めて大きな弱点であろう。

 その後、この分遷記事に言及されたのは、薗田香融氏である。(9) まず薗田氏は、日前宮が国家的権威を付与された時点で、伊太祁曾三神が山東に遷座したとされた。その遷座先は、社伝に、和銅六年に亥の森から現在の社地に移ったとする点に注目される。そして、大宝二年の分遷命令によって、伊太祁曾三神は分かち遷され、伊太祁曾神社は現在の社地に、和銅六年に遷座を完了したとされた。本居内遠が指摘した史料を余すところなく視野に入れ、「分遷」の意味を最も妥当に解釈した上で、時間的な流れを極めて整合的に解釈されている。しかし、分遷の有する神祇制度上の意義については言及されなかった。

 さらにその後、越原良忠氏が、この間題を扱っておられる。(10) 分遷にいたる経過においては、ほぼ薗田氏の説を踏 襲され、主として、分遷の意義について論じられた。まず、薗田氏同様五、六世紀頃の大和政権の半島経営に果した紀ノ川 河口の役割から、日前宮の国家神化と伊太祁曾三神の山東盆地への遷座を提唱される。その後、この伊太祁曾三神を奉斎す る氏族が渡来系の秦氏であったと推定し、その氏族分布と信仰圏を丹念に考証される。そして、大宝神祇令の施行に際して、国家神を祀る紀直氏との相対的な関係を低下せしむるために、分遷がなされたものと推定されるのである。

 越原説は、信仰圏とその祭祀氏族を丹念に精査された点が特徴であり、傾聴に値する説であろう。しかし、中村氏同様に分遷が伊太祁曾三神及びそれを奉斎する氏族の勢力を滅ぜせしむる結果を得たか否かを、検証しておられない点が最大の欠点であろう。さらに、大宝新祇令施行という国家的課題の中で、紀ノ川平野に拮抗する紀直氏と秦氏の勢力関係の調整に 国家が分遷と言う形で乗り出したのであろうか。この点に、はなはだしい疑問を感じざるをえないのである。

 小稿は、上述のような諸賢の研究成果の驥尾に付して、この分遷の有する神祇制度上の意味を考察しようと試みるものである。なお、小稿は分遷の意義を中心に考察するため、伊太祁曾三神の分遷先に関する考察は保留したい。

 まず私が指摘したいのは、『続日本紀』の分遷記事の直前に記載されている大宝二年二月十三日の記事である。そこには次のように記されている。
  是日、為班大幣、馳駅追諸国国造等入京、
 すなわち、この日、諸国の国造たちが神社への奉幣物を受け取るために、入京させられているのである。ここで注目すべきは、この記事が大宝二年の二月に記されていることである。二月は、神祇令仲春条によって祈年祭が執行される月である。(11) 『令集解』神祇令天神地祇条の朱云の解釈によると、「皆依常典祭、謂在諸国社皆約此、為班給幣帛者、但神祇宮之不預諸国社者不班幣帛耳」とある。すなわち、神祇官が関知する官幣を受けるべき諸国の神社は、神祇宮に赴いて幣帛を請い受けることになっているのである。大宝二年二月に国造たちが入京を命ぜられたのは、まさしく神祇令に基づいて、祈年祭の幣帛を請い受けるために召喚されたのであろう。このことから、大宝二年二月段階で神祇令に基づく神祇政策が施行されていたことを確認することができるのである。

 したがって、その直後に見える伊太祁曾三神の分遷記事も、必ずや神祇令に基づく政策の一環であったと理解すべきであろう。それでは、それはどのような政策によるものであろうか。神祇令の記述からは、この時点における神社に対する政策の詳細を知ることは出来ない。

 そこで、少々後代ではあるが、祈年祭の祭祀の詳細を知ることが出来る『延喜式』の記述に基づいて考察をすることにしたい。もちろん、『延喜式』に記された状況は、神祇令施行当初の状態とは、必ずしも一致するとはいえないだろう。当然、平城京を中心とした神祇制度から、平安京を中心としたそれへと転換を遂げたはずである。しかし、神祇の守旧性を考慮するならば、ある程度の傾向を看取することは出来るものと考える。


  二 延喜式の祭祀

 『延喜式』神祇式の最末尾の二巻は、一般的に神名帳と呼ばれている。そこには、全国にわたって三一三二座の神々を祀る神社が網羅されている。この三一三二座という数値は、神祇式冒頭四時祭の祈年祭条に見える対象奉幣社の座数と一致している。すなわち、神名帳登載の神社は、祈年祭奉幣社を列記しているのである。(12)

 この神名帳に登載された神社が、一般的に「式内社」と呼ばれているが、一概に「式内社」といっても、その中にはさまざまな点で扱いが異なっている。式内社は、まず大社四九二座と小社二六四〇座に区別されている。さらに、大社は神祇官が幣帛を捧げる三〇四座と、国司が幣帛を捧げる一八八座に分類される。即ち前者が官幣大社で、後者が国幣大社である。当然、官幣大社に捧げられる幣帛は中央政府の財政から支出されるが、国幣大社に捧げられる幣帛は地方国街財政の正税を財源として調達される。同様に、小社も官幣小社四三三産と国幣小社二二〇七座に区別される。当然、捧げられる幣帛の財源は、官幣が神祇官で、国幣が地方諸国であり、大社のそれに準じている。

 大社・小社と分類しているが、官幣と国幣とでは、同じ大社の格付けをされていても、幣帛の内容はまったく異なる。たとえば、官幣大社には神紙官から(4286)五尺を始め、二〇品目を越える多量の幣帛が捧げられると記されている。しかし、大社の格付けをされていても、国幣であれば、その幣帛は座別に「絲三両・綿三両」に過ぎない。(13) このことは、小社においても同様であり、官幣小社には(4286)三尺を始めとして四品目以上の幣帛が捧げられると記されているが、国幣小社には「絲二両・綿二両」に過ぎない。すなわち、大社・小社の分類をしているが、祈年祭の幣帛の軽重を勘案するならば、官幣大社・官幣小社・国幣大社・国幣小社の順で格付けなされていたと理解することが出来るであろう。

 なお、官幣大社と官幣小社の扱いの違いは、幣帛の数量的な差異だけではない。『延喜式』祈年祭条によると、官幣大社については「奠幣案上神三百四座」とある。これに対して、官幣小社については「不奠幣案上神四百卅三座」とある。官幣大社への幣帛は、「案上」、すなわち机の上に置いて捧げられるが、官幣小社への幣帛は机の上には置かれないという厳格な区別が存在したのである。

 このような格付けを理解した上で、官幣大・小社と国幣大・小社の四種の神社の分布を、道別に見たものが次の表である。

 この表を見ると、官幣大社は神名帳登載の三三二産の内、わずかに三〇四産で全体の一割にも満たない。しかも、宮中・京中・畿内に官幣大社の約八七%にあたる二六四座が集中している。逆説的にいえば、七道諸国にはわずかに四〇座が分布しているに過ぎないのである。なお、官幣大社の登載総数は三〇四座であるが、この数値は、『延喜式』神祇式の月次祭条に、「月次祭奠幣案上神三百四座」とある数値に一致する。したがって、官幣大社とは祈年祭に奉幣を受けるのみならず、月次祭にも奉幣を受ける神社であることがわかる。

 もちろん、このような官幣社制度は、『類聚国史』によると、「廷暦十七年九月癸丑、定可奉祈年幣帛神社、先是、諸国祝毎年入京、各受幣帛、而道路僻遠、往還多難、今便用当国物」とあり、官幣・国幣の差異を具備した制度は、これ以後のものである。しかし、この史料に「今便用当国物」とあるように、それまで、すべての対象神社に対する幣帛が、神祇官から支出されていた制度を、以後各国衙から支出されるようになったのであり、それはあくまでも便補措置であったと思われる。

 しかも、神祇の守旧性を考慮するならば、それまでの幣帛の総量がそれはど大きく変化したとは考えられないだろう。したがって、官幣・国幣の差異はたしかに延暦十七年以後の制度であろうが、その差異はそれ以前の状態を反映しているものと理解しても差し支えはないであろう。このような観点から、以下しばらく『延喜式』における神祇制度を見て行きたい。

 七道諸国に分布する官幣大社を概観すると、東海道に分布する一九座の内、大半の一四座が畿内に近接する伊勢国(14)に、次いで多く一〇座が分布している南海道でも、八座が畿内に隣接する紀伊国に、他の二座は阿波国に分布している。同様に、東山道の五座はすべて近江国、北陸道の一座は若狭国、山陰道の一座は丹後国、山陽道四座の内三座が播磨国に分布している。畿内から遠く離れた西海道には、官幣大社が一座も分布していない。以上のことから、官幣大社は畿内を中心に分布していると見ることが出来る。

 一方、官幣小社の総数四三三座という数値は、宮中に鎮座する小社六座と畿内諸国に鎮座する四二七座の合計に一致する。したがって、官幣小社は宮中・京中・五畿内国にしか分布しておらず、七道諸国には一社も分布していないことになる。これに対して、国幣社は大小を問わず、宮中・京中・五畿内国には分布していない。畿内は天皇の膝下に位置し、王化の及ぶ範囲であり(15)、畿内に分布する神社には中央政府である神祇官からの奉幣が原則であったのであろう。このように考えるならば、畿内周辺に位置して、官幣大社の分布が見られる紀伊国などの周辺諸国は、神祇制度上畿内諸国に準じる扱いを受けていたと見ることが出来るだろう。                                   

 全国各地に祀られている神社は、その祭神を祖先と崇める氏族によって経営されていた。官幣社が中央政府から奉幣を受けるということは、その神社を奉祭する氏族の中央政府に対する発言権の強さを如実に表すものといえるであろう。一方、地方諸国に分布する神社は、その地の豪族によって奉築されていた。その豪族たちは、その地における強力な支配権と経済力を具備していたであろうが、畿内にあって天皇を中心とする律令国家を支える中央豪族のように、議政宮を排出することもなかった。(16)

 そのため、中央政府に対する発言権も、当然中央豪族はどには及ばなかったであろう。このような、政治的な立場の相違が、それぞれが奉祭する神社に対する政府の扱いに反映されているものと考えられる。もちろん、このような式内社の四種類の分布状況は、平安時代の『延喜式』に見える状態である。神社の社格は、その時々の政治状況を反映していたと思われる。平城京から平安京に遷都する以前と以後においては、とくに大和国と山城国の扱われ方は、おそらく大きく異なるものであったと推測される。(17)

 しかし、畿内制が確立し、律令諸制度が運用されるに及んで、畿内外の差異は際立って峻別されたはずである。したがって、七道諸国に分布する官幣大社は、そのような状況下で社格が低下する可能性があったとしても、ことさらに上昇することはなかったと考えてよいであろう。ただ、伊勢国の官幣大社については、宝亀三年に荒御玉命・伊佐奈岐命・伊佐奈彌命が「官社」列せられたことが分かる。(18) さらに、貞観九年に伊佐奈岐命・伊佐奈禰命が「預月次祭」とみえ、この時点で新たに官幣大社に列せられている。(19) 荒御玉命は、『延喜式』では官幣大社になっているので、宝亀三年に官幣大社に列せられたのであろう。そして、同年に伊佐奈岐命・伊佐奈禰命が国幣社に列せられ、貞観九年に官幣大社になったのであろう。

 七道諸国の官幣大社のうち、上述した伊勢国の三座以外は、新たに官幣大社に列せられたとする記事は見当たらない。おそらく、伊勢神宮の皇祖神化が進むことによって、特別な配慮がなされたのであろう。したがって、伊勢国以外の官幣大社は、神祇令施行当初からその社格を有していたと見て差し支えないであろう。以上はあくまでも推測に過ぎないが、この推測を裏付けるため相嘗祭の奉幣社の分布について概観してみよう。

 神祇令施行当初における祈年祭奉幣社の分布状況を知ることは出来ない。しかし、相嘗祭奉幣社の分布については、『令集解』仲冬条の注釈に「大倭・住吉・大神・恩地・意富・葛木鴨・紀伊日前神等類是也」とあり、はぼ神祇令施行当初の奉幣社の一端を知ることが出来る。しかし、「紀伊日前神等類是也」とあることから、奉幣社の一部を抽出しているにすぎない。ただし、この注釈に続いて記されている釈云の解釈には大倭・宇奈太利・村屋・住吉・大神・穴師・巻向・池・恩地・意富・葛木鴨・日前・国懸・伊太祁曾・鳴の十五社が記されている。この十五社を列記した後に、「等類是也」という文言がないことから、この十五社が全奉幣社であると見てよいだろう。しかも、「古記無別」とあり、大宝神祇令施行当初の状能であると理解できるだろう。

 これら十五社の分布は、大和九社・河内一社・摂津一社・紀伊四社となる。(21)一方、『廷喜式』神名帳には、冒頭部に相嘗祭奉幣社七一座と記されている。それを国別にみると、京中二社二座・山城八社十一座・大和十八社三十二座・河内三社八座・摂津八座十五社・紀伊四社四座になる。ただし、この合計座数は七十二座になり、冒頭標記と齟齬をきたしている。冒頭標記の七十一座は、名神条に見える相嘗祭奉幣座数と一致しているため、信を置くことが出来るだろう。この観点から国別に再検討すると、大和の冒頭における奉幣座数の総記が三十一座になっているにもかかわらず、各郡にわたって十八社三十二座が分布している。このため、『延喜式』神名帳における大和の相嘗祭奉幣社には、明らかに一社一座誤って多く記されていることになる。これを補正すると、大和の相嘗奉幣社は十七社三十座になる。

 この数値をもとに、神祇令施行当初と『延喜式』記載状況を比較すると、大和・河内・摂津では、顕著な増加傾向が認められるだけでなく、神祇令施行当初にまったく分布していなかった山城には、京中も含めて十社十三座が配されるにいたっている。大和・河内・摂津の顕著な増加は、畿内における神祇祭祀の拡大を示しているものであり、山城への大量の配置は、明らかに平安遷都に伴う措置であろう。

 しかし、神祇令施行当初四座を配していた南海道の紀伊国の相嘗奉幣社は、『延喜式』当時の状態においてもやはり四座のままであり、まったく変化は認められない。このような状態が認められることから、七道諸国に分布する官幣大社四〇座のうち、上述した伊勢国の三座以外の三七産も、神革令施行当初から官幣大社としてエわれていたと見てよいであろう。(22)


   三   社数と座数

 『延喜式』神名帳の冒頭には、官幣・国幣に預かる神の総数と、神社の総数が次のように記されている。この記載によって、座数と社数の関係を知ることが出来る。                         l
     天神地祇惣三千一百村二座
      社二千八百六十一処
      前二百七十一座

 この記載から、奉幣を受ける三一三二座の神々が、全国二八六一箇所の神社に祀られていることが分かる。これは、一社に複数の神を祀っているからである。そして、「前二百七十一座」という数値は、それぞれの社に合わせて鎮座している神の座数である。たとえば、伊勢国度会郡の度会宮では、一社に四座が祀られている。この場合、渡会宮一社に前三座が祀られていることになる。このような三座を、以下前座の神と呼ぶことにする。

 このように理解して、この記載を見ると、神名帳登載の神社は一社当たり一・〇九座の神を祀っていたことになる。これを先にみた四種類の社格別に見ると、官幣大社は三〇四座が一九八社に祀られていることから、一社当たり一.五四座になる。同様に、官幣小社は四三三座が三七五社で諒あたり一・一五座、国幣大社は一八八座が一五七座で一社当たり一.二〇座、国幣小社は二二九七座が二一三六社で一社当たり一.〇八座になる。官幣小社と国幣大社とでは僅差で逆転しているが、ほぼ先に見た幣帛の軽重に応じた社格の高下に準じていると思われる。即ち、社格の高い神社ほど、前座の神を併せ祀っていることになるのである。

 先にも述べたように、社格の高い神社はど律令政府に対する発言力は強かったと思われる。したがって、杜格の高い神社のあり方は、ある程度自らが望む存在形態を示しているものと理解することが出来るだろう。逆説的にいうなIhば、社格の低い神社のあり方は、その発言力の低さから、政府の意向に従った存在形態を示していると理解することが出来る。したがって、一社当りほとんど前座の神を配することのない国幣小社のあり万、すなわち一社一座制こそが、律令神祇制度上政府が目指した神社の存在形態であり、前座の神を祀る神社の存在形琴は、それに抗して旧態をとどめ得た状琴であったと理解できるであろう。

 社格の高低が、政府への発言力の強弱を反映するならば、神社の所在する地理的条件も同様にそれを反映すると言えるであろう。官幣大社をその所在地別にみると、宮中には二〇社三〇座で一社当り一.五〇座、京中は三社三座で一社当り一座、畿内は一四五社二三一座で諒当り一.五八座、畿外は二九社四〇座で一社当り一.三八座になる。畿内と畿外では前座の神を祀る比率が極端に低くなる傾向を見てとれるのである。しかも、畿外で前座の神を祀る神社は、伊勢・近江・播磨という畿内に近接した国に限られており、その他の一〇か国はまったく一社一座になっている。

 畿内に鎮座する神社は、畿内有力豪族(貴族)に奉祭される神社であり、その発言力はきわめて高いものであったと思われる。そのため、政府内の有力者を頼んで、一方的な政府の方針に恭順することもなく、旧態を維持することが出来たものと思われる。それに比べて、畿外に鎮座する神社は、それを奉祭する氏族の政府に対する発言力に、当然限界があり、政府の一方的な政策に恭順せざるを得なかったのであろう。

 なお、京中三社は三座で、一社一座になっている。これは、京中三座が平安京遷都後に新たに官幣大社に列せられたものであろう。(23) したがって、新たに設定された官幣大社は、旧態にこだわることなく、神祇令の有する基本方針に従って一社一座にならざるを得なかったものと思われる。このような点からみても、旧態を守って前座の神を祀りつづけようとする抵抗勢力は畿内を中心として存在していたものの、一社一座の原則は神祇令の目指す基本理念であったと思われる。しかも、この理念は神祇令施行当初から存在していたものと見ることが出来るであろう。

 大宝二年の伊太祁曾三神分遷は、まさしくその直前に施行された神祇令のこの基本理念に従って、一社一座へと変貌を遂げさせられたことを示しているのである。それまで、伊太祁曾三神は一処に祀られていたのである。すなわち、現在の和歌山市内の山東盆地に一社三座で祀られていたのである。そして、この命令によって三座がそれぞれ一社に祀られるようになったのである。まさしく、大宝二年の伊太祁曾三神分遷は、神祇令の施行を示すとともに、その基本理念を如実に物語るものであると評価することができるであろう。

 神祇令は施行当初から、一社一座の基本理念を有していた。しかし、畿内有力豪族(貴族)と強い結びつきを有する畿内の神社は、前座の神を祀るという旧態を維持しつづけたのである。一方、畿外の神社は政治的発言力がなかったために、伊太祁曾神社のようにそれまで一社三座であった祭祀構造が、強力な一社一座制の政策によって、三社三座へと変貌させられたのである。それでは、このような神祇令の基本理念である一社一座制は、いかなる必要性があって強力に推し進められたのであろうか。

 式内社における四種の社格は、祈年祭における奉幣に際して、その幣帛の質と量に大きな差別化が計られていた。もちろん、官幣と国幣の種別は延暦十七年に創出されたものであるが、それぞれの幣帛の質と量については、若干の変化があったとしてもその差異は、神祇令施行当初から存在していたものと考えるべきであろう。

 国幣社に関しては、前座の神か否かを問わず、一座ごとに大社には「絲三両・綿三両」、小社には「絲二両・綿二両」が捧げられることになっている。すなわち国幣小社は、国幣大社の三分の二が捧げられたのである。しかも、前座の神であるか否かを問わず、一座につき捧げられる幣帛の数量は一律であった。しかし、官幣大社については、一社に祀られている首座の神と、前座に祀られる神とでは、その幣帛の質と量は、大社・小社を問わず明らかな差別があった。『廷喜式』によって、その差異をみると次のようになる。
   神紙官祭神七百卅二座
   奠幣案上神三百四座(注略)
   社一百九十八所
   座別絁五尺、五色薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、庸布一丈四尺、倭文纏刀形・絁纏刀形・布纏刀形各一ロ、四座置・八座置各一束、楯一枚、槍鋒一竿、弓一張、靫一口、鹿角一隻、鍬一ロ、酒四升、鰒・堅魚各五両、腊二升、海藻・滑海藻・雑海菜各六両、塩一升、酒坩一ロ、褁葉薦五尺
 前一百六座
 座別絁五尺、五色薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、倭文纏刀形・絁纏刀形・布纏刀形各一口、四座置・八座置各一束、楯一枚、槍鋒一竿、褁葉薦五尺
 不奠幣案上神祈年神四卅三座 (注略)
 社三百七十五所
 座別絁三尺、木綿二両、麻五両、四座置・八座置各一束、楯一枚、槍鋒一竿、
庸布一丈四尺、褁葉薦三尺、
 
就中六十五座、各加鍬一口、靫一口、廿八座、各鍬一口、三座各靫一口
 前座五十八座
 座別絁三尺、木綿二両、麻五両、四座置・八座置各一束、楯一枚、槍鋒一竿、褁葉薦三尺

 史料中、傍線を付した項目は、首座の神に捧げられるが、前座の神には捧げられない幣帛である。このように、官幣大社首座の神・官幣大社前座の神・官幣小社首座の神・官幣小社前座の神の順に捧げられる幣帛の質と量が差別化されていたのである。もちろん、官幣最下位の官幣小社前座の神といえども、国幣大社に捧げられる幣帛の「綿三両・綿三両」に比しても、かなりの厚遇を受けていたことは明白であろう。すなわち、神祇令の制度下においてのちに官幣とされる社格に列せられるということは、破格の待遇を受けるということを意味しているのである。


   四 一社一座制の徹底

 大宝二年の伊太祁曾三神分遷がなされていなかったとすれば、伊太祁曾神には官幣大社首座の神への幣帛と、大屋都比売神・都麻都比売神には官幣大社前座の神への幣帛がそれぞれ捧げられたはずである。しかし、分遷によって三神にはそれぞれ官幣大社首座の神に対する幣帛が捧げられることになったはずである。したがって、この分遷措置によって伊太祁曾三神は、幣鮃の総量からみて制度上厚遇を受けることになったのである。すなわち、大宝二年の伊太祁曾三神分遷は、中村・越原両氏が推定されたような勢力の削減を目指したものでは決してなかったのである。しかし、このような状況は、神祇令制度下においては、極めて異例なものであったと思われる。

 『延喜式』神名帳によると、常陸国香島郡には官幣大社鹿島神宮が一社一座で祀られている。しかし、『常陸国風土記』によると、その郡名の起源を説明する次のような記述がある。
 古老日、難波長柄豊前大朝馭宇天皇之世、己酉年、大乙上中臣( )子・大乙下中臣部兎子等、請惣領高向大夫、割下総国海上国造部内軽野以南一里、那賀国造部内寒田以北五里、別置神郡、其処所有、天之大神社・坂戸社・沼尾社、合三処惣称香島天之大神、因名郡焉
 これによると、香島郡の郡名は、郡内に鎮座する鹿島神宮にちなんで命名されたというのである。その鹿島神宮は、郡内の天之大神社・坂戸社・沼尾社の総称であると明示している。(24) これら三つの神社に、それぞれどれだけの座数の神が祀られていたかはわからない。しかし、最低でも一社当り一座は祀られていたはずである。従って、大化建郡がなされた孝徳朝には、鹿島神宮の祭神は少なくとも三座以上として祀られていたはずである。しかし、『廷喜式』神名帳によると、香島郡には、官幣大社の鹿島神宮一社一座と国幣大社の大洗蔵前薬師菩薩明神社一社一座だけが登載されているのである。

 すなわち、香島郡の人々がかつて鹿島神宮の祭神として、崇めていた三座以上の神々は、神祇令の施行に伴って、一座だけが官幣大社に列せられ、他の神々は国幣社にさえも列することが出来なかったのである。(25) 結局、神祇令の施行に際しては、後の官幣大小、国幣大小に相当する厳しい序列化が計られただけでなく、奉幣対象の神々が厳しく厳選されたのである。そして、多くの神々が淘汰されて官幣大社相当の社格の枠外に、あるいは奉幣社の枠外に追いやられたのである。

 伊太祁曾三神は一社三座から、一社一座制の強力な政策によって、大宝二年に三社三座に変貌を遂げた。しかし、地方に所在した多くの神社は、一社複座から一社一座に改められ、前座の神は国幣大社・国幣小社相当の社格、あるいは奉幣対象外の神へと追いやられたものと思われる。このような一社一座制は、神祇官が管理すべき神社とその祭神を一元管理するための施策であったと思われる。しかしそれ以上に、神祇官が負担すべき幣帛の総量に規定されたものであろう。  

 また、このような一社一座の原則は、畿内に鎮座する神々へも強力に推し進められたはずである。しかし、前述のように中央豪族と強い結びつきを有する畿内の神社は、その政策に強硬に抵抗したであろう。もし、一社一座制を受け入れれば、前座の神は首座の神から分離されるばかりではなく、その社格を官幣小社相当の社格、ないしは奉幣対象外の神へと追いやられかねないのである。

 畿内に鎮座する神を祀る神社とその神社と結びつく有力豪族、そして彼らの強硬な抵抗を受ける政府神祇官は、この問題を解決するために一つの妥協をしなくてはならなかった。それこそが、首座の神への幣帛の質及び量と前座の神へのそれに、明確な差別化を計ることであったと思われる。前座の神を官幣大社相当の社格として適する一方、首座の神よりも幣帛を軽減することによって、神祇官の用意すべき幣帛総負担量を圧縮しようとしたのであろう。

 一方、畿内に鎮座する神々を祀る神社は、有力豪族と結んで強硬に抵抗したものと推測した。そのため、幣帛の総負担量を圧縮するため、首座の神と前座の神に対する幣帛の差別化を明確にしたのである。これによって、前座の神はかなりの割合で、官幣大社としての社格を維持しえたのである。畿内に分布する神社の前座の神を併せ祀る割合が高いのは、まさしくこの現れであろう。しかし、神祇宮も畿内の神社とそれと結んだ中央豪族の抵抗に、手をこまねいていただけではなかったろう。畿内においても神祇官は一社一座制を推し進め、かなりの成果をあげていたのではないかと推測することができる。

 畿内だけに分布している官幣小社は、全部で四三三座である。そのうち、前掲の『廷喜式』祈年祭条によると、六五座には「各加鍬一口、靫一口」が付加されて支給されている。また、二八座には「各鍬一口]」、三座には「各靫一口」が付加されている。官幣小社四三三座の内、全体の四分の一近い九六座に幣帛が付加して捧げられているのである。付加される官幣小社とそうでない官幣小社の差別は、何に起因するのであろうか。

 この差別こそが、畿内における一社一座制を推し進めた結果生じた便補措置ではなかっただろうか。すなわち、かつて官幣大社相当の社格の前座の神として祀られていた神々が、一社一座制を受け入れざるを得なくなって、官幣小社相当の社格へと低下させられる際に、便補措置として付加されたものが、九六座の神々に付加されて捧げられた鍬や鞍であったとみることができるであろう。同じ官幣社でも、官幣大社に対しては、このような幣帛の付加がないのはそのためであろう。(26)


   おわりに

 小稿は、大宝二年の伊太祁曾三神分遷を通して、大宝神祇令施行に伴う神祇政策の変化を読み取ることを目的として考察を行った。まず、大宝二年の伊太祁曾三神分遷記事に関する先学の研究を概観した。そして、この分遷記事が、大宝令施行後初めての祈年祭奉幣受け取りを諸国の国造に命じた記事の直後に配されていることから、神祇令施行に伴う一連の措置の一つであると提言した。

 次に、『延喜式』の社格とその分布を分析し、官幣大社が畿内を中心に分布しており、畿外に分布している官幣大社が極めて少ないことを指摘した。そして、相嘗祭奉幣社について、『令集解』仲冬条の注釈に記された奉幣社と、『廷喜式』に見える奉幣社を比較し、畿外の官幣大社の分布状態が、神祇令施行当初の状態であろうとした。

 次に、社数と座数の関係を分析し、社格が高く、畿内に位置する神社はど、前座の神を併せ祀る神社の多いことを指摘した。これは、高い社格と関係する有力豪族(貴族)という権威を頼んで、政府の政策に抗して旧態を維持しえたものと考えた。その結果、神祇令施行当初から、一貫して政府は一社一座制を目指していたものと考え、大宝二年の伊太祁曾三神分遷記事を、そのような政府の政策の表れであると指摘した。

 さらに、そのような政府が目指した一社一座制の政策は、神祇官が神社とその祭神を一元管理するとともに、負担すべき幣帛総負担量を圧縮するために、高い社格を付与する神社を厳選したことによるものと理解した。また、畿内に分布する官幣小社への幣帛を分析し、九六座に幣帛付加して捧げられていることから、それらの官幣小社が、かつて官幣大社相当の 社格の前座の神として祀られていたのではないかと推定した。即ち、畿内における神祇官による一社一座制への強い政策が 存在したことを推定した。

 以上が小稿の論じてきた要約である。一社一座制が浸透するに及んで、地方の官幣大社相当の社格を有する神社は、鹿島神宮がそうであったように、前座に祀られた神々は首座の神から分離され、社格を落とされるか、もしくは奉幣対象外の神へと追いやられてしまったと思われる。しかし、伊太祁曾三神分遣記事では、一社一座制を受け入れながらも、三神ともに官幣大社の社格を維持しえたのである。それはどのような要因によるものであろうか。小稿では、そのことに触れることが出来なかったが、今後の課題として指摘しておきたい。ただ、一社一座制を受け入れながらも、社格を落とすこともなかった伊太祁曾三神の分遷は、神祇令施行に伴う政策の中でもきわめて稀有な例ではなかっただろうか。それゆえに、『続日本紀』は大宝二年にこの伊太祁曾三神分遷記事を特筆したのかもしれない。


(1)『続日本紀』大宝元年三月二十一日条に、「始依新令、改制官名位名」とみえる。

(2)『続日本紀』大宝元年八月三日条に、刑部親王以下の名を列記し、「撰定律令、於是始成」とみえる。

(3)坂本太郎『上代駅制の研究』(国史研究叢書、一九二八年、至文堂)によると、「すでに天武の朝における駅制が、畿内近国に駅家をおき、駅鈴が使用され」たとされる。したがって、本条は、大宝厩牧令に基づく駅の整備を意味する ものであり、少なくとも畿内周辺には賀太駅同様にすでに駅は存在していたと考えるべきであろう。

(4)本居内遠「伊太祁曾三神考」(『本居全集』第六、一九〇三年)。

(5)江戸時代に紀州藩によって編纂された『紀伊続風土記』によると、伊太祁曾神社の項に「和銅六年初亥の日、当所へ遷りたまふ」と記されている。

(6)福原紀子「伊太祁曾など三社の分遷」(『続日本紀研究』一〜三、一九五四年)。

(7)中村修也「大宝二年紀伊国伊太祁曾神社分遷記事について」(井上辰雄編『古代中世の政治と地域社会』、一九八六年、雄山閣)。

(8)栄原永遠男「紀朝臣と紀伊国」(『和歌山地方史研究』九号、一九八五、のち『紀伊古代史研究』所収、二〇〇四年、思文閣出版)。

(9)薗田香融「イタケルの神と伊太祁曾神社」(『和歌山市史』第一巻、一九九一年、和歌山市)。

(10)越原良忠「伊太祁曾三神分遷に関する一試考」(『古代史の研究』一一号、二〇〇四年)。

(11)二宮正彦「古代祭祀制度の考察」(『古代の神社と祭祀』、一九八八年、創元社)が、令制当初の祭祀について考察を行っている。なお、『続日本紀』大宝二年二月十三日条が、神祇令に基づく祈年祭のための大幣班賜であったとする 点については、すでに田中卓「造大幣司−祈年祭の成立」(『壬申の乱とその前後』、田中卓著作集五、一九八五年、図書刊行会)が考察している。ただし、田中氏は本条及び前後の神祇関係記事によって・、祈年祭の成立を大宝二年としておられる。私見では、本条によって大宝神祇令に基づく祈年祭の成立を認めることができるが、それ以前に国家関与する祈年祭が存在したことを否定することはできないと考える。

(12)早川庄八「律令制と天皇制」(『日本古代官僚制の研究』、一九八六年、岩波書店)は、月次・新嘗両祭と祈年祭を比較し、後者は新たに律令国家によって設定された祭祀であると分析する。祈年祭は、農耕社会における予祝祭であり、慣習的には古いものであると思われるが、国家祭祀としての位置づけは、早川氏の説に従いたい。したがって、祈年祭は神祇令施行当初に最も意を払われた祭祀であったと理解することが出来るだろう。

(13)雑令度十分条によると、一六両が一斤と規定されている。一斤は今量で六〇匁(日本思想大系『律令』頭注)であ るから、一両は一一.二五匁となり、約四二グラム余となる。

(14) 伊勢国には七社一四座の官幣大社が配されているが、大和王権初期に起源を発するとされる相嘗祭奉幣社が存在していないことから、この状能がそれほど古いものとは思われない。このことを含め、伊勢国の式内社に関しては、伊勢神宮の皇祖神化という観点から再検討する必要があるだろう。

(15) 曽我部静雄「京師畿内制度における日中関係」(『律令を中心とした日中関係史の研究』、一九六八年、吉川弘文館)。

(16)令制下の貴族が、特定の氏族から輩出されていたことは、関晃「律令貴族論」(岩波講座『日本歴史』3、一九七六年)に詳述されている。また、早川庄八(前掲書、注12)も畿内豪族による畿内政権論を展開している。

(17)大宝二年に乙訓郡火雷神(『続日本紀』)、天平二年に葛野郡松尾神(『年中行事秘抄』)が官幣大社に列せられた記録があるが、貞観七年の天津石門稚姫神(『三代実録』)をはじめ、管見に入るところでは七社以上の神が平安遷都後に新たに官幣大社に列せられた記録がある。

(18)『続日本紀』宝亀三年八月六日条。

(19)『三代実録』貞観九年八月二日条。

(20) 宮城永昌『延喜式の研究 史料篇』(一九五五年、大修館書店)参照。

(21) 神祇令における相嘗祭奉幣社の分布とその意義については、薗田香融「神祇令の祭祀」(『関西大学文学論集』三〜四、一九五四年) に詳しい。

(22) 虎尾俊哉『延喜式』日本歴史叢書、一九六四年、吉川弘文館)は、『延喜式』の「神名帳」がそれ以前の官社を機械的に記していると指摘する。「杜撰」の謗りもあろうが、それだけに故意的な潤色の少ないこと、核となる部分が『延 喜式』編纂時点よりもかなり古い内容を有していると理解できるであろう。

(23) 神名帳によると、京中三座のうち、太詔戸命神は「本社大和添上郡・対馬国下県郡太祝詞神社」、久慈真智命神は「本社坐大和国郡天香十市郡天香山坐櫛真命神」とあり、いずれも本社から京中に勧請されたことが分かる。

(24) 坂戸杜と沼尾社は、ともに鹿島神宮の摂社として扱われており(日本古典文学大系『風土記』による)、『延喜式』においても奉幣社として扱われてはいない。

(25) 大洗磯前薬師菩薩明神社が国幣小社に列せられたのは、『文徳実録』によると天安元年八月七日のことである。

(26) この見解は目下のところ憶測でしかない。鍬・靫もしくはそのいずれかの付加を受ける官幣小社の分布等を詳細に検討する必要があるだろう。 >

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