伊太祁曽さんの風土記
大阪市 瀬藤 禎祥
伊太祁曽神社 ご祭神 五十猛命 大屋都比売命 抓津比売命
 

1 始めに
 朝、太陽が昇り、日がさしてきます。葉っぱの上の露がキラキラと光ります。露の中は太陽の命でいっぱいになります。 水滴に神が宿ったのです。「イノチ子」の誕生です。神の誕生です。小さい神様です。子供です。 

 子供ってだから神様に近いんですね。私もこの伊太祈曽で命を承けました。昭和31年春の山東小学校の卒業までここ伊太祈曽で過ごしました。以来、40年離れていましたから、ここを懐かしいよりは新鮮に感じます。

 さて、日本人の心情として、人間、死んでしまったら、故郷の山や鎮守の森にかえってくるといいますね。 幸いにも、私は、生きたまま、故郷の神社へ帰ってきたような気持ちを感じています。 ここの土地が私の遺伝子を造ったのですから、時々は足がこちらの方へ向かうのは別に不思議な事ではないんですね。

 そんな事で私なんかは伊太祁曽の事を思い出しもしなかった半世紀に近い間も、やはり氏子崇敬者の皆様方は、営々と神社を祭り守ってこられていた訳ですね。 子々孫々からの長い営みの一部なんですが、やはり、私のように忘れている者もいるなかで、大変な事だったとおもいます。 敬意を表すべき事だと思います。

 同時に、神祭を続けてこれると言う事は、私のように流れ者になってしまった人間の目から見ると、うらやましいし所がありますし、幸せなことだと思います。今後ともよろしくお願いいたします。
 私も、別の形で、伊太祈曽と伊太祁曽神社のお役に立てればと思っています。
 そ0れでも、滅多に伊太祈曽には来れせんので、まだまだマレビトなんでしょうね。
 

2 神

 お盆の風習は聖徳太子が始めたと言いますが、元々は日本の古来の風俗ですね。鎮守の杜からおうちへ一時帰宅することですね。仏壇じゃなくて、本当は神棚で祀るものなんでしょうね。まーこれは、仏様になった人がどう信じていたかに合せるのがいいんでしょうね。

 お釈迦様は輪廻からの解脱を解いたのです。お盆に戻ると言う観点は本来の仏教にはありませんね。 それでも、日本人としては西方浄土からお盆にだけ戻るんではなく、人によっては、いつも、鎮守の杜に漂よいたい人もいると思うんですよ。これが我々の祖先の原点だったんです。

 そうです、時折顔を見せる子々孫々の姿を眺める、彼らの祈りをきいてやる、それを留守がちの伊太祁曽神社の神様に伝える。 なんとかしてやれと神様に圧力をかける。祖霊はそう言う事をやっているんですね。それが楽しみなんですね。

 伊太祁曽の神様はほうぼうに祀られています。伊太祁曽の大神様は忙しいのです。それでもお祭りの日には万障繰り合わせて来てくれるんです。降臨されます。神様は祭が好きなんですね。 年に一回は御輿に乗っかって、近隣を回りたい。神様の慰安旅行なんですね。本当は、若者の相撲も見たいんですよ。

 伊太祁曽神社の大神様は五十猛命と申し上げます。この神様は全国で少なくとも400社弱の神社に祀られている事までは突き止めました。沖縄以外すべての都道府県に鎮座しています。 五十猛命が鎮まったのは、ここ伊太祁曽神社ですから、本拠地ですね、だから普段はここにおられるのかも知れませんね。

 私は五十猛命の祀られている神社を探し出しては参詣すると言う、なんでそんな事を思い立ったのか、自分でも判らない目標を持って、かれこれ半分位までは回ってきました。田舎の山の中が多いですね、車の運転はできませんので、ひたすら歩くんです、ま、頭の体操と健康法だと思っています。こんな事ができるのも五十猛命のおかげかもしれません。
 

3 宮司

 大阪に住んでいますので、そんなに遠い所ではないんですが、滅多に伊太祈曽には来ませんので、まだまだマレビトなんでしょうね。
 マレビト故に、宮司様には、かわいがって頂き、色々教えて頂いております。 特に、伊太祁曽神社の御祭神の五十猛命につきましては、宮司様は大神様のルーツを御調査されておられ、出雲や対馬さらには朝鮮半島にまで足を伸ばされておられます。

 私などは宮司様には到底及びもつかないのですが、やはり五十猛命のルーツ、発展、他の地域に伝わる伝承等を探したりしております。この神様、名前を変えては時々現れているような気もしています。 建国記念日にふさわしい話題かと思いますので、いささかなりと紹介いたします。

 元禄時代に水戸黄門様が常陸の国に古社であって由緒が判らなくなっていた青山神社を再建しているのです。 由緒には、五十猛命は植林の神として崇敬され、木国の大神又有功神(いさをしのかみ)と称へられ、神威赫灼神域参道老杉[ロウサン]うつ蒼、誠によい神社になっているんですが、この青山と言うのは、五十猛命が木の種を播いて、日本の国を全部、木々が生い茂っている青山としたとの伝えからです。
 

4.と言う事で、伊太祁曽神社の御祭神の五十猛命ってどんな神様でしょうか
 伊太祁曽神社の由緒書きにチャアーント書かれていますね。頂くんですが、なかなか読まないものの一つですね。
 祀られている神様は五十猛神(いたける、いそたけ、いたけ、いだて) 配祀 大屋都比売神、都麻都比売神
 五十猛神はまたの名を大屋毘古神と言う。有功(いさおし)の神とも言う。
 五十猛神は浮宝(船)の神・樹木の神・いのちの神である。

 この解説からやりましょうか。
 今残っている日本の最古の歴史書とされるのが「日本書紀」です。この本文ではない所に書かれています。どっかの豪族の伝承であったのでしょう。
天照大神のおられた高天原で乱暴の限りをつくしたのが素盞嗚尊ですね。その素盞嗚尊は高天原を追放されるんです。五十猛命は素盞嗚尊の子供ですね。 素盞嗚尊は五十猛命をともない、新羅の曽尸茂梨(ソシモリ)に天降ったとされています。新羅とは朝鮮半島の東南部ですね。今の慶州キョンジュ辺りですね。 新羅って呼ばれ出したのは紀元前100年頃からです。今は新羅と呼ばれているどっかに現れたと言うことでしょう。

 素盞嗚尊が言うのは「韓郷の島には金銀がある。もしわが子の治める国に、舟がなかったらよくないだろう」と。 そこで鬢を抜いて杉、胸毛から檜、尻毛から槙、眉毛を樟となしたとある。これに近い話ですが、人間の体から穀物などが出てくるのは、南方系の神話に多いですね。縄文時代の土偶もそういう為のものだったんでしょうね。

 素盞嗚尊は木々の用途として杉と樟は船、檜は宮、槙は寝棺を造るのに良いされ、そのために木種を播こうと申され、その子の五十猛神,大屋都比売,都麻都比売 の三柱の神がよく木種を播いた。 五十猛神は「紀伊の国にお祀りしてある」と記載されています。ここに大屋都比売,都麻都比売の女神が出てきます。五十猛命の妹神とされています。伊太祁曽神社の本殿の左右の脇宮に祀られている神様です。

 木の用途の話も大切なんですが、この中に「わが子の治める国」と言う言葉がでてきます。「わが子」とは五十猛命の事ですね。 「治める国」とは、そうこの国の事ですね。これが公式歴史書の日本書紀の中に出てくるんですよ。この国の最高神とされていたと言う事ですね。 天津神の天照大神が現れる以前の大国主が国譲りをするまでは素盞嗚尊の系列が、最も神威の強い神々だったのですね。 天照大神さんのグループを天津神、そうでない神々を国津神と言いますね。五十猛命は国津神の中の大神だったと言う事です。

 木を植える話でもう一つよく似た話があります。やはり、素盞嗚尊はその子である五十猛命をともない、新羅のソシモリに天降ったとされています。
 そこで、この国には「いたくない」と言われて、出雲の鳥上の峯に降臨し、そこで大蛇退治をされます。 五十猛命は天降りの際にたくさんの木種を持っていましたが、韓国には植えず、すべて持ち帰って、筑紫の国から始めて、この日本国を全部青山としたので、「有功の神」「紀伊国においでになる大神」は五十猛命だと書かれています。

 どうも、五十猛命には、出雲と筑紫の二つにルーツがありそうですね。

 和歌山市の園部、六十谷の西のほうですね、そこに伊達神社があります。近くに有功という地名が残っています。 伊太祁曽の語源に、いたけ+イサオ を縮めたとの説があります。
加太の淡島さんからあの辺は紀の国への上陸地点であったのでしょう。神功皇后の上陸地伝説ものこっていますね。紀の国の表玄関だったのでしょう。神功皇后が来られたとすれば、西暦の400年前後の頃でしょう。

 皆さんは「焼き畑農業」をご存じですよね。やっていた経験のお持ちの方もおられるかもしれませんね。縄文時代から1950年代までは行われていた方式ですね。 山裾の区画を一部焼いて。そこに芋等を植えるんですね。粟、稗、豆、5年位で次の山裾に移ります。跡地は、自然の復元を待ちます。再び森になるのを待つんですね。 おそらく、苗木を植えてやると、復元する期間が短縮できたんではないでしょうか。

 実際の所、日本の山は元々木だらけだった。平地もそうだったんです。そこへ積極的に木を植えるのは、何かの理由で木がなくなっていたんですね。 一つは焼き畑で木がなくなる、何かの拍子に山火事で木がなくなる、もう一つが、金属製錬のための「炭」を得るために木を取り尽くす、その他建築や造船や橋をかける為に木が切られたのですね。 山林はダムの役割を持っており、復旧することは渇水対策と洪水対策に不可欠だったんですね。また大阪の淀川流域もそうですし、紀の川の流域もそうですが、縄文から弥生時代あたりにかけて平野が大きく生成されています。 国生みに見えた事でしょう。これは焼き畑と炭焼きが山の土を流したんでしょうね。
 洪水ですね、これが国生み、次に木の神、そして治水が出来て国土開拓の神、と一連の神々が出てきたのでしょうね。

 有功の神とは、もっぱら役に立つ木々を植えたからとの解説をされる人もいます。 家屋や船に向いている木々の他に果物、蚕の桑などをさすのでしょうが、青山とした事そのもので有功とされています。 山に木々が多いと、保水率が桁違いに高まりますね。豊かな水の源ですね。 いろんな用途に使えて、最後はタキギか肥料にもなります。木は加工も容易なまれにみる良質な材料です。人工の化合物ではできない命を持つ高分子材料ですね。

 ここいらに21世紀に伊太祁曽神社が果たしうる大きい役割が見えてくるであろう思います。地球環境保全、温暖化防止、自然を守り、その良さをアッピールする、まさに、今の時代にふさわしい神様ですね。

 神様を数える単位は、「柱」ですね。日本では「柱」はもっぱら木でできていましたね。木と神様とは深い関係があります。仏になった人を埋める。その上に苗木を植える。これがオジイチャンの木だ、そう言う事もあったのかも知れません。魂魄のパクの木ですね。ここに天上のコン魂が降りてくる。魂魄が合わさって蘇りとなりますね。
 そう言う事もあって、神様が降臨するには、木をつたって降りてこられるとか、木に寄り付くとか言います。その木の種を播いた神様ですから、日本の神々の中でも、最も古い神と言えるのでしょう。他の神々を存在あらしめて神、だから神の中の神、ますます有功の神なんですね。

 柱は垂直に立っていますね。斜めや曲がったのは駄目ですね。天に向かって真っ直ぐな柱に神が降りてくるんですね。 人間の姿勢も同じですね。「背筋を伸ばしなさい。」って子供に言ったり、子供の頃は言われましたね。 スポーツでも勉強する時でも、背筋を伸ばして真っ直ぐなのが成績もいいんですね。プラスアルファの力が働くんですね。この力を神様の力と言うのかもしれません。

 伊太祁曽神社に話を戻しましょう。気が付かれておられますか、本殿に登っていく石段がありますね、お帰りに見れるんですが、その上に、樹種を播く三柱の神の大きい絵が掲げられています。 伊太祁曽三神が雲の上に乗って種まきをしているのんびりした風景がえがかれています。江戸時代の紀州名所図会の絵ですね。
 奥宮司さんによれば「キャラバンシュウズを履いて全国の山々をお歩きになった神様で、 汗を流された神様だ。」とおっしゃっています。あの絵のような悠長なものではないと言うことですか。

 宮司さんは大先生です。和歌山だけではなく、日本の神主さんの間でも、指導的立場の方です。 私のにわか勉強の程度で、逆らうなんぞおそれ多い事なんですが、ここには異論があるんです。
 大先生に弟子が異論をとなえる−勇気がいるんですよ。
 登山靴を履いて山登りをしていたんでは、これは人間業であって、神業とは言えないんですね。 五十猛命は山林労働者ではないんです。神様なんですね。問題はここです。
 尤も、働く人もカミと言います。さつまのかみの守ですね。伊太祁曽の大神とさつまの守は違うと思うんですが・・。

 では、五十猛命はどんか神様だったか。どうやって木種を播いたのか。愚説を申し上げますと、五十猛命は鳥をあやつった神であったのでしょう。 鳥の親分見たいな神様だったのでは。鳥神ですね。離れ小島に木が生えてくるのは鳥が種を運ぶからですね。
 先ほど、素盞嗚尊と五十猛命が出雲へ天降った話を紹介しましたが、その天降った山の名は、鳥上の峯ですね。 鳥の神の山なんですね。山の名前がチャント鳥神と言うていますね。

 縄文時代は樹林の時代ですね。鳥は鬱蒼とした樹林の中から飛んでくる、空高く飛び上がる、神様の遣いでもあったんですね。 樹木や鳥を神と見るのは最も古い神観念の一つでしょうね。
 ボートピープルと言う言葉があります。舟でやってくる難民を言いますが、太古、太平洋を舟でただよい、鳥を飛ばして陸地を探す、モアの箱船、みたいな話はあったんだろうと思います。鳥は大海原の神でもあったんです。 五十猛命は航海安全の神としても祀られています。 伊太祁曽の神が、ほかにも、鳥の親玉ではと思わせる説話を後で紹介いたします。
 
 

5.素盞嗚尊

 さて、五十猛命を知るには素盞嗚尊を知る事が不可欠です。五十猛命は素盞嗚尊の御子神とされています。 一体神様の子供って何でしょうね。 キリスト教でも神の子ってありますね。信仰する人をそう呼ぶんですね。
神道の場合はどうなんでしょうか。神を祀る神を御子神としたりしるように思います。赤い袴の巫女さんも御子ですね。
 一方、勧請した神社を若宮として、御子神とする場合もあるようですね。若宮とか王子とか荒魂と言って、元気の良い神様で、霊験も強かったと思われていたのでしょう。 新しい神様ほど禍も御利益もきついと言う考え方ですね。

 素盞嗚尊は高天原で大暴れして追放されてしまう神様です。そう言う意味で、素盞嗚尊を台風の神とし、五十猛命を猛烈に強い台風神とする向きもあります。 室戸台風とかジエーン台風とか伊勢湾台風みたいなんでしょうね。

 日本では神々の系統図ってすごく体系的にできていますね。よらば大樹みたいな意識が昔から強かったのでしょうかね。 宮中でのポストを得るためには、自分の家は、ニニギノ命の天降りにお供したとか、神武天皇東征のみぎり、お助けしたとか、 何とか天皇の子孫だとか、古来よりの名家を主張するんですね。

 素盞嗚尊の御子って言っても、乱暴して追放された神様の子供なので、あまり出世しなかったでしょうね。
 普通は、例えば部族の戦争があって、負けたほうが子の神になったりとか、あったのでしょう。

 また、大和王権に支配されたのが遅かった神を親神、先にやられていた神を子神にする、と言った考え方があったのかも知れません。 大和から近い順に、紀北の五十猛命、紀中の有田は千田の須佐之男、南紀の熊野市のイザナミ と、順番に並びますね。遠いところほど祖先になるんですね。

 要するに、大和王権にすんなりとは従わなかった連中が奉じていた神を国津神とか出雲系の神とかに位置つけています。 国津神の代表的な神々が、大国主命や、五十猛命であって、実際には、縄文時代からの神様かもしれませんね。

 国津神を祀っているこの連中を、王権の中にどう取り込んでいくのか、神様を押さえれば、連中も収まるのです。 従って、国津神の親玉の素盞嗚尊を天照大神の弟神として、立場をあたえて祀る人々を支配したのでしょう。懐柔策かもしれませんね。 和歌山では、素盞嗚尊、五十猛命を奉じていた紀氏が、大和に屈服した歴史があったと言うことでしょう。

 皆さんは神様の声を聞くとか、啓示を受けた事がありますか。私は根が鈍感なので、あまり経験がありません。 神を感じる時って、深い森のの中とか、神殿の前で祝詞を聞いている時なんか、神々しい気分になる事はありますが。

 恐らくは、古代の人々、もっと古い原始時代の人々は、神様をもっと敏感に感じていたんではと思います。 今の我々にも、第六感とか虫の知らせとか、ありますね。古代の人はもっと、これがすごかったんだろうと思います。 鬼が出る、蛇が出る、山賊が出る、海賊が出る、熊が出る、山蛭が落ちてくる、サメが出る、子供がおぼれている、洪水になる、危険と隣り合わせで生きていた人々ですから、ものすごく敏感だったと思います。 そうでなければ、人間が今日まで生き延びれなかった、ここまで進化しなかったと感じます。殆どの人は神の声を聞いていたんでしょうね。 だたか、村を造ると、神社が出来ていったんですね。自分たちの神様が別の神様に従ったら、自分たちも従ったんでしょうね。

 村人が相談をし取り決めをするのも、神様の前でやったんですね。指切りげんまん針千本の歌にこの習慣が残っていますね。 商売もそうですね。五十猛命は但馬牛の取引の神様と書かれていますね。平安時代の法律ですね。
 大陸では掛け売りが出来ません。商品を取り込んだらしめたもの、金を払わないんです。現金商売しか成り立ちません。 銀行も利息を払わなかったりします。日本はそう言う意味では「神の国」と言える所はありますね。

 現在、約12万程の神社があるそうです。明治維新の頃には3倍はあったと言われます。人口は今の1/4位ですから、一人当たりの神社の数は今の12倍ですね。 神様と共に暮らしていたんですね。明治の末期に神社の合祀を盛んにやっていますね。伊太祁曽神社の本殿の北側にはこの辺の小さい神社で里神社牛神社天神社など二十二社をまとめていますね。 和歌山の生んだ傑物の南方熊楠さんが猛烈な反対運動をやっています。牢屋にぶち込まれていますね。 国は神社合祀の大会をわざわざ和歌山で開いています。
  一説によりますと、鎮守の森の木は高く売れるので、お役人がそれを狙って合祀に走ったようです。 文明開化が進んで、神頼みのチャンスが減ってきた事が背景にはあったんでしょうね。
 今の時代は、天気予報もあり、踏切や信号もある、熊は動物園、あまり第六感がなくても、生き延びれる時代ですね。 神様の出番は本当に少なくなったんでしょう。

 話がそれましたね。伊太祁曽神社に戻しますね。その昔には、今の日前宮の地に伊太祁曽神社が鎮座していました。それが、山東へ遷らされてしまうのです。紀の国のヤシロ譲りです。五十猛命を紀氏が祀っていたんですね。 紀氏は五十猛命をも祀りながら、日前大神と呼ぶ日の神(天照大神かも知れません)や正体の判りにくい國懸大神をも祀るようになるんですね。 あげくの果てには、伊太祁曽の神から日前國懸大神に乗り換えるんですね。軒下を貸していたのが、母屋を取られたんですね。 それがヤシロ譲りなんですね。

 紀の国の国造であった紀氏は高句麗辺りにルーツがあるのかもしれません。高句麗とは満州と北朝鮮あたりを言いますね。騎馬民族でしょうね。 それが何かの訳で流れてきて半島の東、加羅とか新羅辺りに勢力を持ったのでしょう。 その紀氏が、半島の西の百済をバックにした大和朝廷に屈服したと言うことです。
大化の改新(645年)で紀氏と関係の深い蘇我氏が敗れ去った事、また白村江の戦いで日本が新羅・唐の連合軍に敗れ去った事などが、紀氏の勢力の低下の大きい原因になったのでしょう。 新しい技術を持った百済人が大挙して亡命してきます。畿内の人口の5%位ですね。百済のエリートクラスと考えると、すごい影響だったのでしょう。 大和の王権はそれらを活用するんですね。新羅系は疎んじられるんですね。

 金大中さんは、百済の地域出です。親日的ですね。それまでの大統領は新羅系ですね。日韓関係もギクシャクの時代でした。 だいたい、日本人が朝鮮人に奇妙な意識を持つのは、半島で負けて日本では勝利者となった百済系が新羅系をさげすんで奇妙な意識を植え付けたのでしょう。 と言う事は、朝鮮人への差別的見方があるとすれば、その気持ちは、朝鮮人が植え付けたのです。
 彼らは、日本人を非難しますが、元は彼らに責任があると思います。といっても、勿論、差別はいけません。所詮、先にやってきたのか、後から来たのかの差ですね。 差別は転校生イジメと同じレベルなんですね。

 素盞嗚尊は牛頭天王とも呼ばれており、韓国の人々は自分たちの神様と言う意識があります。中国の神農さん、薬の神様ですが、まさに牛の頭の像で祀られていますね。 この神農をシンノウ スサノウ なんとなく似ているでしょう。神農さんが朝鮮に入って素盞嗚尊になったのでしょうね。
 

6.なぞ1 五十猛命はなにゆえ大屋彦なのか
 五十猛命またの名を大屋毘古神と言うとありますが、木の国の大屋毘古と言う神こそは、八十神の迫害から大国主を素盞嗚尊のいる根の国に逃がしてやった神として古事記に記載されています。 伊太祁曽神社の神様をいのちの神と申し上げる由縁です。
 紀の国に坐ます神として出てくる五十猛命と大屋毘古神は同じ神様の別の呼び方と考えられています。
また妹神の一柱が大屋都比売神ですから、兄神の五十猛命を大屋毘古神とも呼んだのでしょう。五十猛命またの名を大屋毘古と言う説には無理はありません。 京都の八坂神社、祇園祭で有名ですね。ここには素盞嗚尊の子供の八柱御子神が祀られています。この中には五十猛命と大屋彦命が並んで祀られています。別の神との認識でしょうね。古い形が残っているのかも知れません。

 イザナギ・イザナミの国生みの話は有名ですが、その後で、家屋に関連するとされる神々を生んでいます。 大屋毘古の神もその時に生まれています。素盞嗚尊は、イザナミがなくなってから生じた神ですから、 大屋毘古の神は遙かに先に出現した神様なのです。何故、素盞嗚尊の子神であるのか。不思議な話ですね。
 あなたのお子さんが、実は、あなたのお兄さんです。こんな事ってありえますか。
 「生まれ変わり」「前世の記憶を持って生まれてくる という話でしょうか」

 「歌舞伎 そう、親父の兄貴の名を襲名した」この方がまだしも合理的に説明できますね。五十猛命は大屋毘古神を襲名したのでしょうね。 紀氏が、持ち込んできた五十猛命の神格は、船の神であり、渡しの神であった。一方、大屋毘古神は家屋の神であった。 そうですね、家も船も「木」で造られますね。木の神に守られていると言う共通点がありますね。襲名するにふさわしいですね。桃山町に三船神社と言う美しい神社がありますね。 室町様式の華やかな神社です。華やかさで言えば、県下随一でしょうね。その神様は 木霊屋船神 こだまやふねのかみ と言います。すばり五十猛命と大屋毘古神との習合の様を現代に伝えていますね。

 大屋毘古神のルーツはどうなんでしょうね。紀の国がルーツなのでしょうか。縄文の神とすれば、到底文献などありませんね。 縄文時代の中心地は東北の方ですね。針葉樹の木の実、木の実を食べる小さい動物、川には鮭など、何かと豊かだったんですね。人口密度も、関西の十倍以上だったと推測されています。 大屋毘古神はあっちから徐々に南下してきたかも知れません。新潟の彌彦神社なんかが考えられますね。
 焼き畑の神様だったとすれば、南方からやってきた神様かも知れませんね。

 能登には伊夜比神社「祭神 大屋津媛命」がありまして、おすずみ祭と言う大きいたき火をたいて、新潟の彌彦神との年に一度の逢瀬をするために呼び寄せると言ういわれがあります。 大屋津媛命の相方ですから大屋毘古神ですね。伊太祁曽さんですね。現に、能登の地元では、大屋津媛命が呼ぶのは佐渡の伊太祁曽さんだとも言われます。 佐渡の一宮の度津神社は五十猛命が祀られており、これを佐渡の伊太祁曽さんと言うんですね。

 大屋毘古神の名で祀っている神社は和歌山では有田の立神社、田辺の芳養大神社があります。対馬、但馬、近江などに散見されます。全国で十数社です。

 紀氏は、元々の木の国の神々の代表となっている大屋毘古神と、自分たちが持ち込んできた五十猛命を習合させたのですね。 木の国を統治していくには、誠にうまいやりかたですね。

 紀氏は同じような事をもう一つやってます。名草戸畔を祖先に取り込んだことです。
 神武天皇がこの和歌山へやってきますね。琴の浦から上陸したとか、関戸の矢の宮神社の辺りを拠点にしたとか、伝わっていますね。 神武天皇のお兄さんの五瀬命は湊吹上神社の辺でなくなったんでしょうか、竃山神社にお墓がある事になっています。
 神武天皇の軍は、和歌山市や海南市辺りを支配していた名草戸畔と言う女王をやっつけています。 「賊を誅す」と出て居るんです。自分たちが侵略者とも見えるんですよね、それを元々支配していた女王を「賊」よばわりとはちっとひどいはなしですね。

 神武天皇側の論理は、天照大神よりこの国の支配者としてお墨付きをもらっている。名草戸畔さん、ここを譲りなさい。 わいはそんなはなししらんわいしょ。ここはわいとこやして。あんたらこそなにゆうてんねん。ささっとどっかへいっておしまい。 と抵抗したのでしょう。勝てば官軍負ければ賊軍ですね。
 この名草戸畔とは、名草姫として、まさに名草郡の、中言神社(吉原、黒江、日前宮)、名草神社(冬野、内原)に残っています。 名草山を囲むようにありますね。江戸時代には15社ほどあったそうです。

 この名草姫を、紀氏は、自分たちの祖先へ繰り入れます。これも、名草山一帯の統治をスムースに行う方便だったのでしょう。
中言とは、中臣と同じく、神々の声を聞く、神の御宣託を受ける意味ですね。どの神様でしょうか。紀の国の神の声ですね。そうです、大屋毘古神の声ですね。

 海南市に宇賀部神社、杉尾神社、千種神社ってありますね。おこべさん、はらかたさん、あしがみさんですね。 紀の川にいた龍の頭、胴体、足を祀っているとの伝承がありますが、賊として殺された名草戸畔のそれぞれだとも言われているようですね。
かわいそうな我らの女王様・・と祀ったとお思いでしょう。
そうじゃないんです。人の体をバラバラにして埋めて祀れば、豊作になる、穀物がよくとれるとの、南方系の習俗なんですね。土偶を壊して埋めるのと同じ発想ですね。 死体化生神話と言いますね。
 昨日までの女王様を葬ったのですね。しかし、したたかと云うのか、田畑を耕す人々は。 どうせのことなら、ついでに豊作祈願にと、バラバラにして祀ったんですね。名草の人は、転んでもただではおきませんね。
 

7.なぞ2 五十猛命はなにゆえ伊太祁曽の地に遷ってこられたのか?
 来年には伊太祁曽神社鎮座1300年を迎えます。これはここ伊太祁曽の社に鎮座してから1300年と言う事ですね。 その前は、亥の森ですね、その前は日前宮の所にあったのですね。

 大屋毘古神はいつ頃から祀られていたのでしょうか。紀の川の河口に人が住み始め、高床式の住居などに住み始めた頃からとしか言いようがないですね。 悠久の昔、縄文時代でしょうね。誰が祀っていたのか? 先ほど名草戸畔と言う女王の名前を出しましたが、所謂名草郡に跋扈していた集団だったのでしょうね。 集団のまつりごとの巫女を順次選んでいったのでしょうね。その中の一人が神武さんに殺された名草戸畔だったのでしょうね。 大屋毘古神はいつ頃から祀られていたのかは、正直なところ、判りませんね。

 これは、あの世の小林国太郎さんにきいて置いて欲しいですね。小林国太郎さんと言う方は、伊太祁曽神社の歴史や西山道村の歴史を色々と調べられた方です。
 恐らくは、秋月に大屋津姫と一緒に大屋毘古神が祀られていたんでしょうね。 もう一人の妹神は五十猛命の曾孫に日向の都万津彦が出ますが、この神でしょうね。

 五十猛命がやってきたのはいつ頃なのか。神様は単独ではやってきません。それも元々の木の国の大神と習合させる力を持った者が担いできたはずですね。 紀氏しか、考えられませんね。紀氏がやってきたのは何時か、と言うことです。時代を決めぬくいんですが、古墳時代の初めの頃でしょうね。

 五十猛命の「五十」がポイントなんです。 「い」ですが、崇神天皇は日本書紀では「御間城入彦五十瓊殖天皇」この天皇は紀の国の荒川戸辺の娘「遠津年魚眼眼妙媛とおつあゆめまくはしひめ」を妃としています。荒川戸辺の娘が生んだ皇子は豊木入日子の命で上毛野下毛野(栃木、群馬)の支配者の祖先とされています。 垂仁天皇「伊久米伊理毘古五十佐知命」、五十瓊敷命と「五十」が続くんですね。イリ王朝とか三輪王朝と言われるんですが、「五十」王朝とも言えますね。 紀氏もこの頃、出雲辺りから、吉備の国へでも出て、ここへ来たんでしょうね。

 神武天皇と崇神天皇を業績を併せると、始めて国を治めた大王の物語が完成しますね。 崇神が三輪山の麓に都を開いたのは西暦360年頃ですね。
 伊太祁曽神社が日前宮の地から遷座したのが垂仁天皇の頃と伝わっていますが、垂仁天皇の頃に、紀氏の一族でしょうが荒川戸辺の孫に当たる豊鍬入姫命が天照大神を奉じて名草郡に来ています。 浜の宮ですね。この頃に日前國懸神宮がチャントした所にいなければ具合が悪かろうと言う事で、伊太祁曽神社を垂仁天皇の頃に山東へ遷した事にしていますが、 どうも、これは作り話見たいですね。

 本格的に紀氏が海軍大臣か連合艦隊司令長官として活躍を始めるのが4世紀以降と言う事でしょう。紀氏の古墳が出来出すのはやはりその頃ですね。
 紀氏は、当初は、園部の伊達神社に五十猛命を祀ったのかもしれませんね。あの辺りは表玄関だったろうし、上陸地点で最初の拠点としたのでしょうね。 神功皇后伝説も残っていますね。
 六十谷の射矢止神社には、五十猛命の降臨の話が伝わっていますね。 園部から秋月へ持ち込んだんでしょうね。そこで大屋毘古と五十猛が習合したんでしょうね。

 武内宿禰ってご存じですね。武内宿禰は紀氏の出であり、かつ紀氏の祖先でもありますね。 彼が来たのが九州系の紀氏の到来でしょう。この時に九州の五十猛命と抓津姫が入ってきたのかもしれません。

  
 さてさて、日前宮から遷座した伊太祁曽の神は、今の地に祀られる前には、三生神社と呼ばれる亥の杜に10年〜700年位鎮座していたと云われます。 700年とは、垂仁天皇の頃遷座として、記紀の年代を全部信じて、神武天皇が国を開いて今日まで2660年だと言う事を根拠にしています。 齢100を越す天皇がたくさん出てくる事になって、2660年説は神話の世界の話として、700年はないでしょうね。
 京都で新撰組の詰め所があった地を「壬生」と言います。ここは元の名は丹生(ニブ)だったそうです。 「三生」もミブですから、亥の森には、丹生社があったと考えられますね。 紀の国を代表する神々である、五十猛命と丹生姫は、根来を開いた覺鑁上人以前からの深いつながりがあったと思われます。 続風土記には、今、伊太祁曽神社の奥宮とする丹生神社、江戸時代には明王寺村に生部彦神、生都比賣神、三部明神が相殿三扉に祀られている旨が記載されています。 この「三部」にも通じるんでしょうかね。ロマンですね。
 亥の森は水神と言われております。水神様としての丹生社は大和にも鎮座しており、亥の森が水神の丹生社であって何ら不自然ではありません。

 先ほど言いましたが、亥の杜に鎮座する前には、現在は日前國懸神宮が鎮座している秋月の地におられたようです。

 紀の国のヤシロ譲りと言いましたが、伊太祁曽神社は元々は日前宮の地に鎮座してて、こちらへ遷りました。 紀氏が大和王権に服従して、大和王権と同じ日神を祀ることになりました。

 テーブルの下では足をけっ飛ばしていても、テーブルの上では、にこやかに平和的にヤシロ譲りは行われたように思います。宮司さんのご先祖がお供をしたとも言われます。 神輿にのって、恐らくは吉礼辺りで一休みして亥の森へ遷ったんでしょう。吉礼のお宮さん、都麻都姫神社ですね、ここは一休みした所に作られたのかもしれませんね。 吉礼は、伊太祁曽と日前宮との切れ目だったのでしょう。

 その後も、紀の国の国の魂である伊太祁曽神社の神威は高く、実際にはヤシロ譲りぐらいでは、なかなか紀の国の人々の目を日前國懸神宮に向けさせる事はできなかったのでしょうね。
 

 紀氏は、紀の国の水運と瀬戸内から半島への海運海軍の展開で、大いなる勢いがありました。連合艦隊司令長官兼海運大臣とでも言うべき立場だったのでしょうね。 4−6世紀頃が紀氏の栄えた頃と言われます。この海軍海運の活動の中で、瀬戸内、九州、壱岐対馬、日本海側へと紀氏の足跡を示すのが、五十猛命を祀った神社の分布でしょう。まー、第二次の勧請の時代でしょうね。 その後も紀の国の人々の東国への進出、坂上田村麻呂の東北平定、熊野詣での熊野神社勧請、江戸時代の紀州藩の活躍、植林指導など、それぞれの時代に勧請されていっています。紀氏の源流が和歌山へ来る以前は、五十猛命単独の祭祀になりますね。 九州や出雲なんかはそう言う感じの神社と伊太祁曽三神の勧請と思われる神社が混ざっていますね。 同時に、国津神の悲哀と申しますか、五十猛命の名が消えていった神社も全国的に多かったのでしょう。

 話を古代に戻しますが、紀氏の挫折は@大化の改新B白村江の戦いの敗北B藤原氏の台頭、C藤原氏の陰謀、と力を落としてきます。 特に、同族とされる蘇我氏が滅びた大化の改新を境に、大和朝廷に完全屈服したのでしょう。645年ですね。 この頃に、紀氏の祀る神を日前の神とする動きが起こってきたのでしょう。伊太祁曽の神の遷座が行われたのでしょう。
 天皇家の祖先神とした天照大神の霊を祀る、最高神とする。神々を人間がランク付けする。これは古神道の変質ですね。 神々に序列があろうはずがない。森の神も水の神も基本的には平等だったと思います。差があったとすれば人気の度合いぐらいなものでしょう。
 さてさて、天津神を祀る連中は、国津神をさばえなす等とと称して、まるで蠅の如く扱ったのです。 草にも木にも野にも山にも、神々がおられる、八百万の神を尊ぶのが古神道ですね。町が出来てきて、権力を持った一部の人々は日常的な自然の脅威から少し離れた生活ができるようになったのでしょうね。 そんな連中が神々をランク付けしたんでしょうね。
 

 紀氏は、そうとうな由緒を持ったの古くからの名家でしたのに、その由緒を捨て去ったのです。往年の力を失い、後ろ盾になっていた半島とも切れ、秦氏や藤原氏と言う新興勢力が朝廷を牛耳り出したんですね。 丁度、戦国時代が終わった後の、外様大名みたいな存在になったのでしょう。

 尤も、紀氏には、非公開系図が存在していて、素盞嗚尊から始まっているとことですから、当初は、表面的に天照大神、本音は五十猛命を祀っていたのでしょうね。
 大和朝廷からも役人が来たりします。体裁は整えねばなりません。伊太祁曽神社が目の上のこぶになってきました。 日神を祀るポーズをとるのに、伊太祁曽神社がじゃまになってきたんですね。同居させている事は覚えがよくありませんぞ、なんて大和から来た小役人に脅かされたのかもしれませんね。踏み絵みたいなものでしょうか。紀氏も宮仕えの悲哀を味わったのですね。
 紀の国の大神様ですから、ゾンザイな扱いは出来ず、あまり遠方へ伊太祁曽神社を持っていくことにもならなかったのでしょう。
 福島県に五十猛命を祀るサマクミネ神社がありますが、日前宮からの勧請となっています。
 また、江戸時代の記録では、日前宮には、摂社として、伊太祁曽三神を祀っていた祠が書かれており、伊太祁曽祭もあったようです。今はないようですね。

 さてさて、何故、この地が伊太祁曽神社の場所として選ばれたかです。本日のメーンテーマですね。ここを伊太祁曽と呼ぶのは伊太祁曽神社がきてからでしょう。 それまでは、何とよばれていたか、ここいらが、面白いところです。伊太祁曽とはどんな所かと言う事です。

(1)木に関する聖地であった。この神社周辺の小山の切り口をご覧下さい。あたかも巨木がそのまま土になった様に見えますね。

(2)吉礼の貝塚は有名ですが、これが物語っているように山東の平地は太古は海原だったようです。 丸木船が往き来していたのでしょう。この伊太祁曽は丁度良い船着き場だったと思います。

(3)神社の裏側にありますが、井戸のあります三井神社があり水神様を祀っています。 今でもそうですが、人間が生活するには、まず、水の湧き出す所が要ったのです。

木の聖地、水、丸木船、さらには家屋です。木材加工、製材、植林が大いに行われていた地域であったのでしょう。まーこの程度なら他にも候補地があるかもしれませんね。決め手がほしいですね。 南紀では素盞嗚尊が木の神とされていますね。熊野本宮さんなんかの説明はそうですね。ここいらが決め手のヒントになるかも知れません。
 

8.なぞ二 伊太祁曽神降臨と有田千田の須佐神社遷座が何故同じ時期か?
 亥の森って先ほど話がでましたね。水神様の丹生社だった所ですね。ここから東数百メートルの鎮守の森ですね。三生神社と呼んでいる、伊太祁曽の神が一時逗留した元の社ですね。 ご存じない方がおられましたら、後ほど、ご案内しますよ。
 亥の森での鎮座期間は10数年位から700年位とえらい幅で考える事が出来ます。 これは、垂仁天皇の頃にこちらへと伝えられており、今年を皇紀2661年とするなら2000年前に亥の森に鎮座となります。 紀氏の活躍ぶりから見ると、2000年前説には無理を感じますね。
 実際には遷座と分遷は立て続けに命令されたのだろうと見て、10年程度とする見方があります。 どうでしょうか、10年位だったら、仮の宿りですから、伊太祁曽神社の元の社の地と大切にされ、あの亥の森が今日まで、持ちこたえられてきたでしょうか。伊太祁曽の神がここへ移っても、元の水神様に戻っていませんね。水神様だった記憶が消えるにも時間が入りますね。

 戦後周辺は相当農地になったそうですが、丸い鎮守の杜、今なお縄文の心を感じますね。丸は平等の印ですね。 ここでの鎮座の期間、10年は短いですね。最低50年位は鎮座していたんじゃないかと思っています。
 大化の改新が645年、分割命令が702年、57年間ですね。紀氏の世代が二世代進んだ事になりますね。 遷って頂くだくだけでもおそれ多い、どうしてもなら、近い所に、とおそるおそるやっていた世代から二代も進むと、アッケラカンですね。 生意気な、分けてしまえ、と平気で言えるようになるんですね。
 二世代、50年、昔の風習は変わりますね。丁度、戦後、その位経過しましたね。ものすごい変わり様ですね。

 大宝二年(702年)伊太祁曽三神の分遷の命令が出ています。この年、文武天皇持統上皇が紀伊牟婁の湯へ御幸しています。

その頃紀の国で詠われた歌が万葉集に多く載っています。
1194 木國之 狭日鹿乃浦尓 出見者 海人之燎火 浪間従所見
紀の国の雑賀さひかの浦に出で見れば海人の燈火波の間ゆ見ゆ
紀ぃの国の雑賀の 浜にいてみたらょ 漁師らのいさり火 波のまにまに見えらいしょ
1195 麻衣 著者夏樫 木國之 妹背之山二 麻蒔吾妹
麻衣あさころも着ければなつかし紀の国の妹背の山に麻蒔く我妹わぎも
麻のふく着たさけ おぉもい出さいしょ 紀ぃの妹背の山にょ 麻まいてた えねぼさん なつかしわいしょ

 紀の国の国造(殿様)紀氏が日前國懸神宮の神威でこの国のまつりごとを行っていましたが、どうも元々の紀の国の神であった伊太祁曽三神の勢いが根強く、統制がとりにくい感じだったのでしょう。 伊太祁曽の宮司さんを見ていると、なかなか、御しがたい、何かを持っておられます。山東の人ってそう言う感じでしょうかね。昔は、海賊でもやっていたんでしょうか。 そこで、紀氏が朝廷に泣きついて、せめて三神をばらばらにして力を削ごうと相談したのでしょう。 毛利元就さんの逆さまですね。三本の矢も一本づつなら。 山東をたまり場にしていたモサ共を三つに分けて、勢力分散を試みたと言う事でしょう。

 面白いのは、朝廷は神を祀れとはほうぼうで言っているのですが、祀られている神々をバラバラにせよ、なんて命令は、この伊太祁曽三神の場合しか私は知りません。 アー、崇神天皇が、天照大神と倭大国魂の神を磯城の宮から出して、かつ分けていますね。
 余談ですが、和歌浦について、725年、聖武天皇が紀伊行幸の際、「・・この地の弱浜「わかのはま」という名を改めて、明光浦「あかのうら」とせよ。 そして番人を置いて、この浦が荒れ果ててしまわないようにさせよ。 さらに、春と秋には、都から役人を遣わして、玉津島の神、明光浦の霊を祭らせよ」との詔があった。
今の和歌浦ですね。若山の人は朝廷の言う事を、どれだけきいたんでしょうかね。
 

亥の杜(三生神社)から三神はそれぞれ、分かれていきました。
五十猛命は、現社地へ遷り、左右に妹神達を配しました。
大屋都姫は、宇田の森へ遷座し大屋都姫神社。やはり五十猛命と抓都姫を配しました。
抓都姫は平尾の都麻津姫神社とか高積神社とかへ遷座。同様に他の兄妹を祀りました。 勢力分散には、平尾はいささか近すぎますね。せめて矢田の峠の向こう側でしょう。高積神社かなと思います。これも宮司さんに逆らう説でしょうかね。私も山東の盗賊の子孫ですから。
 

 また、和銅六年(713年)五十猛命、大峰釈迦嶽等から山東の地に降臨したと伝わる。
おそらく、和銅六年に、おおむね現在のような規模の社殿が完成したのでしょう。分遷の命令を逆手に取って、 大きい社殿が三つも出来たのです。そしてそれぞれ、兄神や妹神を配したのです。反骨精神というか、紀の国の大神を祀る思いが強かったようです。
 不思議なのは、同じ年の同じ月に、伊太祁曽神社の親神ともされる有田は千田の須佐神社が吉野郡西川峰より勧請とあるんです。 後に、かつ西向きに建っていたので、不謹慎な船は進めなかったので、海が見えないように南向きに変えさされたようです。 素盞嗚尊や五十猛命には手を焼いている様ですね。須佐神社は明らかに海賊の神だったのでしょう。

 有田千田の須佐神社は、五十猛命が名草に鎮座した後、父神の素盞嗚尊を有田千田にお迎えしたとの説が江戸時代に記されています。そして、伊太祁曽神社の近くに須佐神社の領地を確保したとするんです。 なぜ有田千田の方に領地の田圃を設定しなかったのでしょうかね。どうもおかしい気がしますね。
 また、大和の吉野郡の西川峯からの遷座とも言われます。吉野の西川峯と言う場所はわかっていませんし、 吉野当たりに素盞嗚尊の勢いが強かった名残は残っていないようです。元の神社がないんですね。この話もどうもおかしい気がしますね。
 南方から南紀に着いて徐々に北上したのではとの説もあります。紀の国の発展の歴史から見ますとやはり紀北からですね。 銅鐸の出土も、古いのは紀北、南へ行く程に新しい形になりますね。後の時代と言う事です。面白い説ですが、説得力不足です。

 古来から鎮座している神社なら、そう言う由緒が出来るのでしょう。大和から遷座して来たと言うのはそれなりの理由があっての事ですね。
 西川峯 これは暗号ですね。語順を逆さまにすると「川西」です。意味を逆さまにすると「川西」、は「山東」ですね。 そう山東からの遷座なんです。「西川峯」とは「山東の平野」と言うことです。小林国太郎さんと言う大先輩が伊太祁曽神社の研究をなされていますが、 これには気が付かれていません。本邦初の大学説です。皆さん、今日は古代史上の大発見の記念すべき日なんですよ。山東は山の東と書いていますが、これは、木の小橋の多い所と言う古い言葉で、たまたま山の東と言う漢字をあてたんです。

 伊太祁曽の西に口須佐があります。南に奥須佐ですね。入り口と南があって、須佐がないんです。 おかしいと思いません。そうなんです、ここ伊太祁曽の元の名が須佐だったのです。すなわち須佐神社が鎮座していたのですね。 素盞嗚尊は有田へ、その後へ五十猛命さんが来たんですね。トコロテン遷座ですね。いまでも伊太祁曽神社の境内の山の中に須佐神社が鎮座しています。 名残ですね。須佐神社を担いでいた連中もたちが悪かったのでしょうね。五十猛命一味と分けないとどうしょうもなかったんでしょうね。

 須佐神社の言い伝えで、何故素直に山東からとしなかったのか。疑問ですね。
須佐神社としてはいやだったのでしょう。伊太祁曽神社に直接有田へ行ってほしかったのでしょう。 せめぎあい もあったのでしょう。須佐神社としてはいやいやだった。けったくそが悪く、山東からなんて書けなかったのでしょう。
 なお桑原隲蔵さん、明治から大正にかけての歴史家ですね。須佐神社は元は名草にあったのではと考えられていますね。心強い事です。

 ついでですが、日前國懸神宮の國懸神の御神体は「日矛鏡」というらしく、これは天日鉾と言う神様です。神功皇后の祖先ですね。武内宿禰あたりが持ち込んだのかもしれません。 この神様も、新羅の国から来たとの伝承があります。素盞嗚尊、五十猛命とおなじ系統の神様ですね。 新しい神様の方が御利益が強いと思われて、手元に置いたのでしょうかね。國懸神の正体ですね。新羅系の天武天皇がここの國懸神を祀っていますね。
 

 余談ですが日前神はお伊勢さんと同じ神様ですね。丁度、日前宮から紀の川を遡り、吉野から宇陀、伊勢へと中央構造線が通っています。 中央構造線は地震も多いのですが、水銀を始め金属が豊富なラインです。西は徳島の吉野川から熊本、揚子江の辺りまで続いています。 東は、伊勢湾から愛知東部を通り信州諏訪方面に伸びています。大和に近い金属の豊富なラインの出入り口に日前宮と伊勢神宮とを置いています。 弘法大師さんも高野山の水銀を資金源にしているんです。
 

9.なぞ3 木の国の大神が全国版の神になっているのは?
全国神社の0.3%が五十猛命です。

 日本が一つの統一国家に向かっていく際、各地で国譲りや、王朝の交代、宮廷内権力闘争 軍事的な緊張が続いていたのでしょう。
日本書紀の中でも、この国の支配権を巡っての戦いの記録が記載されています。
 大国主の国譲り 産経新聞社に大国主の子孫と名乗る人がいて、秘伝としての歴史が口づてに現在まで伝わっています。ある朝急に寒くなったのでクナドの神に率いられて海岸づたいに住むところを探しつつやってきて、出雲に落ち着いたと言うことから始まります。 シベリヤ辺りにいたんでしょうかね。
 せっかく国譲りをしたのに又神武さんが戦争するんですね。国津神は一筋縄ではいかなかったんですね。神武東征 大和の長髄彦との戦いで神武のお兄さんの五瀬命が落命し、竃山神社に祀られています。
 神功皇后伝説では紀の国の神々が大活躍です。御船前韓国伊太氏神として五十猛命が登場します。 船の先頭にたち、韓国へ出立する時の神 と言う事ですね。ここでは「タテ」は「立」の意味ですね。簑島から有田川を渡るとすぐに立神社があります。 やはり、大屋毘古の名で五十猛命を祀っています。丹生都姫も活躍しますね。赤土を敵に投げつけて、打ちこらします。 ここいらは、水軍を率いた紀氏の力をしめしているんでしょう。五十猛命は航海をなさせる神、軍の先陣の神ですね。
 神功皇后と武内宿彌は幼い応神天皇を抱いて紀の国に来ています。武内宿彌は紀氏の祖先ともいわれています。どうも中央で活躍したほうの紀氏のようですね。

 紀氏は海運で活躍しています。紀の川が大和から瀬戸内へ出る便利なルートだったのです。 紀の川の河口を押さえていた紀氏は相当な力を持っていたようです。
 応神天皇や仁徳天皇の時期には紀氏は半島へ出かけて百済をやっつけ、王様を取り替えています。
 雄略天皇の時分には、新羅と戦っています。5世紀末ですね。
 6世紀中頃の顕宗天皇三年には、紀生磐宿禰が任那をまたにかけて高句麗と通じ、任那、百済、新羅の三韓の王となろうとしたと書かれています。
 大阪湾から紀の国にかけての所謂河内王朝、この頃が紀氏の絶頂期ですね。この頃、各地に五十猛命を祀っていったのでしょうね。 素盞嗚尊も同時期に祀るようになたのでしょうね。半島の建邦神ですから、渡来人を取り込み、支配するのにはもってこいの神様ですね。

応神天皇、神功皇后を助けたとされる武内宿彌は紀氏や蘇我氏の祖先とされています。

 余談になりますが、私は、神社の存在、神社の由緒などを資料として、古代史をのぞき見しています。
この武内宿彌は、和歌山の安原に武内神社や誕生の産湯の水を汲んだ井戸がありますね。 一方、九州佐賀の武雄温泉で有名な武雄市に武雄神社があり誕生の地とする伝えがあります。候補地が二つあります。
 さてさて、誕生の地はどちらか、九州か紀の国か? そうです、母親が一番確かな証人ですね。武内宿彌の母親は山下影姫といい、木の国造の祖の宇豆比古の妹とされています。
 この山下影姫が祀られている神社を探してみました。 実は、和歌山には一社も見つからないのです。福岡県に二座見つかっただけです。どうも九州に軍配があがりそうですね。

 紀氏の日本での拠点はやはり九州であった。紀氏の古墳から見ると故郷は朝鮮半島だったのでしょう。 高句麗辺りから来たんでしょうか。高句麗、新羅、筑紫と出雲、吉備。こんなルートが考えられますね。
 ちなみに「紀」と言う姓は、「姫」と言う字もそう読みますね。 平安時代ですか、日本書記の勉強会で、天皇家の姓は何だとの質問のに対し、「姫」とこたえています。かっては朝廷とは親戚つきあいだった。御三家みたいなものだったのでしょう。 この姫氏は中国の古代の王朝の夏王朝の姓と同じです。越国も「姫」氏による王朝と言われます。

 
 素盞嗚尊のお嫁さん、ご存じですね。櫛稲田姫ですね。この櫛ってキシが訛ったのかもしれません。紀氏の稲田姫なんでしょうか。素盞嗚尊の姓が紀氏だった。 そうすれば、あながち、皇室の祖神の天照大神の弟としたのも、全くの出鱈目ではないと言う事になります。

 この紀氏が素盞嗚尊、五十猛命への信仰を各地に広めています。拠点とした港や開拓した地域に、素盞嗚尊や五十猛命を祀っていったと思われます。 朝鮮半島へも出かけており、道筋の瀬戸内、九州、壱岐、対馬、出雲から日本海側、比較的五十猛命を祀る神社が多いですね。
 素盞嗚尊五十猛命を半島の建邦神とされる桓雄とその子の檀君とに習合させ、更に素盞嗚尊五十猛命の名は高まったのです。 また、紀氏が連れてきた半島からの渡来人も、桓雄、檀君と言わずに素盞嗚尊、五十猛命として奉戴して来ました。この方がすんなり日本社会にとけ込めたのでしょう。
祖先は偉大なる壇君  これを 偉 壇君 祖 としたら 伊太祁曽 になりますね。

 まとめれば、紀氏の勢力圏、渡来人の信仰、出雲系の神々の普及等があったのでしょう。

紀氏の奉じた日前國懸の神の内、紀氏のオリジナルの神は國懸神でしょうが、兵庫県の加古川に一社 泊神社に祀られています。 これは、紀氏が日前國懸の神を奉じた頃には、既に力を失って、対外活動にも殆ど寄与していない事の傍証です。
 

10.五十猛命の渡来と普及の道
 対馬、出雲、九州の佐賀などに、素盞嗚尊、五十猛命の上陸説話が残っています。この様に各地に上陸説話が残っているという事は、紀氏の一団が上陸して信仰を伝えた場合や、紀氏に誘われて幾たびか各地に渡来してきたのでしょう。
さらに、九州や出雲から、新天地を求めて、東へ東へと、彼らが移動していったようです。

壱岐・対馬  素盞嗚尊、五十猛命が高天原から曽尸茂梨へ出発した所とか戻ってきた所の言い伝えが多く残されています。
対馬町 豊の浦 嶋大国魂神社 素戔嗚が半島の曽尸茂梨(そしもり)に渡った時の行宮跡と言われている。
九州在住の友人  漁港から、海岸の岩場を1km近く辿った所に丘(白水山)にあった。海岸に石碑があり、その先は「不通浜(とおらずのはま)」で、禁域になっており、丘には登れません。 その浜を通ると、命を落とすとかシケになるなどの言い伝えがあり、地元の方は絶対に近づかないということ で、「行きなさるのか?」「駄目ですかね?」「地元のモンにしたら、いい気はせんよ」ということで、石碑だけ撮影して来ました。 さらに先に、五十猛命を祀る若宮神社があるそうですが、現在、陸路では行けないだろうということです。
壱岐郡 郷ノ浦町 国津意加美神社  素戔嗚父子が曽尸茂梨から帰国し着岸したのが郷ノ浦町江上とされ、その跡地。

ここから九州や出雲方面へ赴いたのでしょう。
 

11. 九州 瀬戸内海ルート

島原市 宮の町 猛島神社  島原半島は猛島半島、五十猛半島と言います。

猛島(たけしま)神社は森岳大権現、島原領民の総社
 この神社の由緒書はなかなか格調が高い。読んでみましょう。
その創祀は遠く不明であるが、森岳の森は神を祭る木の茂った聖地の意味で、岳は神 聖な高地を意味する。
この聖なる森岳に迎え祭った神は、森信仰の神であることには 想像するにかたくない。
森の神は地主神であり、農の神である。その神格は周辺の集 落を開き造り始めた住民たちの祖霊と習合する民俗信仰にもとづいたものである。
不知火燃える有明海に臨む聖地は、森岳に再建された島原城を指呼の間 に眺め、在りし日の森岳大明神の歴史を偲ばせ、背後に眉山の優姿、はるかに雲仙岳 の霊峰を仰ぐ。
神苑は広荘、白鳥の浮く御手洗池には、神さびた老松が影をうつし、 磯辺に寄する白波のさざめき、そよ吹く松風の音は悠久の歴史をささやき、社殿の荘 麗と古雅とあいまって、森厳きまわりなく、おのずから、鎮守の森にふさわしい霊気 をただよわせている。

杵島郡 稲佐神社  には、五十猛が半島から帰国時着岸したとされる地があります。

三養基郡基山町荒穂神社 北九州の交通の要所にある基山には、荒穂神社が鎮座、五十猛命が最初に木を植え始めた地域との伝承と石碑があります。
ここには「契り山伝説」と言って、基山頂上の玉玉石で腰をかけていた五十猛命が小川で洗濯をしているきれいな娘を見初めて結婚したと言うロマンス伝説があります。園部谷のサコ姫と言います。
 玉玉石の近くから四方八方を眺めてみましたが、私の目には山の下にいる人は見えませんでした。 望遠鏡がいりますね。さすが、神様、千里眼ですね。

また、木の神の鬼退治伝説も残っています。昔々、木の山の東に、とても大きな悪い神たちが住んでいました。 その神たちは、山道を通る人たちの約半数を殺し、後の半数がやっと命びろいしていました。 そして、人の通りが少ない時期になると、今度は、里に降りてきては、「山の神に、ささげる生けにえだ」といっては、若い女の人をさらっていきました。 そのため、娘をもつ親たちばかりではなく、里の人々みんながこの神たちのことを『鬼』と呼んで恐れていました。 そこで、「里の人たちが、かわいそうだ」と、鬼たちを退治しにきたのが五十猛命でした。 そして、五十猛命は、みごと鬼を退治しました。
 

  荒穂神が地域の開拓を不眠不休で行い、5月1日から7日まで眠り続けたと伝えられ、音を出さないようにしたと言う。 荒穂神は国土開拓の神であった。すなわち国津神であった傍証になる。 
 おもしろい民話がある。荒穂さんは、元は大地主の作男で、この地主は人使いが荒く、三日三晩不眠不休で働かされて寝てしまい、その間に馬が畔の草を食べていった範囲の住人が氏子となったとさ。

筑紫野市大字原田筑紫神社
 基山の少し北にある福岡県の筑紫神社では、五十猛命は麁猛神として、悪い方の神とされています。 麁猛神がいて、往来の人、半ば生き、半ば死んだと言う。 その数いたく多かったという。よって、人の命尽しの神と言った。 時に、筑紫君と肥君が占い、筑紫君の祖甕依姫を祝として祭らせた。 それより以降は神に害はれなかったと言う。これを以て筑紫の神と言う。 五十猛命は勇猛神とされてはいるが、ここでは、麁猛神と呼ばれている。
 勇猛から武神 軍神が想像できますが、南九州での隼人退治の先陣の神であったようです。隼人を焼き殺しています。
また 戦の神としては、関東東北の制圧に赴いた日本武尊や坂上田村麻呂がやはり五十猛命を祀っています。
福島県 双葉郡 浪江町 苔野神社(通称あんばさま)日本武尊

筑紫君の祖甕依姫 この姫は 酒を造ってアラタケの神にささげたのでしょう。五十猛命の酒にからむ話は伊豆ででてきます。
 

筑豊 昔の京都郡、今の行橋市の清地神社
 ここには素盞嗚尊、五十猛命がこの地を通過するに当たって、土地の神である豊日別神が饗導したと伝わっています。一席設けてご案内したという事でしょう。
筑豊は渡来系の秦氏が多く住んでいたようで、秦氏は広隆寺や伏見稲荷を祀ったとされる氏族で、この伏見稲荷は山城国紀伊郡なんですね。 紀氏の方が古いようですが、秦氏は紀氏とは同族だったのでしょうね。先ほどの日前國懸神宮の國懸の神が天日鉾と言って、どうも秦氏の祖神でもあるようですね。
新たに渡来してきた方が、最新技術を携えて来ており、力を持っていたのでしょう。

余談ですが、宇佐神宮をご存じですね。全国の八幡様の総本山ですね。秦氏が多かった地域です。やたら秦氏がいた。や秦ですね。 元々の「やはた」の神を祀っていた氏族はやはり素盞嗚尊、五十猛命を祖神としていますね。 筑紫神社で五十猛命を祀り、香春岳(炭坑節の一山二山。)で、新羅の国の神を祀り、次に宇佐へ来ています。 宇佐 と言う言葉に 強調語の S をつけると 須佐 になります。伊太祁曽神社も何か八幡様と関連を持っているように思います。
 八幡の神は子供の姿で現れています。辛国の神から日本の神になっています。伊太祁曽の神ですが、イタキソを分解すると、神、子童神、神とも読めます。 タキ タンキイ ですね。新羅に降臨して日本へきています。八幡様の本当の神は伊太祁曽神社の神かもしれませんね。

姫路の夏の風物詩になっているゆかた祭は姫路の総社の祭です。射楯兵主神社ですね。 射楯の神は五十猛命、兵主の神は天日鉾、姫路では一緒に祀られています。和歌山では射楯神は天日鉾に社地を譲りました。
 
 
 

12. 日本海ルート
このルートも壱岐・対馬 を通っているのか、 直接 隠岐の島や日本海の海岸に着いたものもいそうです。
隠岐  都万村 大字都万 幣之池(しでのいけ)神社 祭神 抓津媛命
石見  なんと、五十猛町いそたけ JRの駅も五十猛 です。上陸伝説があります。
 半島から帰国した五十猛命が祀られています。また須佐之男命は近くの韓神新羅神社に留まったと言われています。 神別れ坂と言う坂で、妹神の大屋津姫命、抓津姫命と分かれています。今でもこの坂はあります。
大田市 大屋町 には 大屋姫命神社 が鎮座。抓津姫命は石見一宮の物部神社の漢女神社に祀られています。
 私は大屋都姫が通ったであろう道を歩いてみました。本当に神々の里の雰囲気の漂ういい道でした。 3時間ほどの予定で歩いたんですが、途中で、大屋都姫の氏子さんが、車に乗せてくれました。

 出雲には五十猛命が多く祀られています。特に、鳥髪の峰、鳥上山(現:船通山)には、素盞嗚尊・五十猛命の降臨伝説がのこっています。 鳥上とは、鳥の神ですね。五十猛命を鳥の親玉と申している理由の一つです。
 宮司さんは、鳥上山から北西方向に木種を大遠投したのだろうとおっしゃっていました。 この近くの伊賀多気神社やその上宮の鬼神神社には、五十猛命は 父神を助けて大蛇退治をしたと言い伝えられています。

 大蛇退治の神話は有名な話ですが、素盞嗚尊と稲田姫との物語になります。五十猛命の母親はだれか、 京都の八坂神社には素盞嗚尊、稲田姫の八人の子神として、伊太祁曽三神が祀られていますが、素盞嗚尊が稲田姫と出会う前に、すでにおられたのですから、実母ではないのですね。 継母にあたります。五十猛命は神様ですから、母親がいなくても、現れるのです。生まれるのです。

 丹後の宮津には木積神社、またここから南へ入り但馬にある養父神社では五十猛命を牛取引の神様としています。

 能登半島の東側の小島に伊夜比神社が鎮座し大屋津媛を祀っています。砺波平野には高瀬神社があり、五十猛命が祀られています。 能登の夏祭りの圧巻と云われるオスズミ祭が7月末に行われます。 これは高さ30mの巨大な松明を燃やして越後の男神様を呼び寄せる祭です。弥彦神ですね。大屋彦神という事です。すなわち五十猛命と云うことになります。 一説には、佐渡の伊太祁曽さんを呼んでいるとも云われますが、渡津神社の五十猛命です。
五十猛命を佐渡や越の国の支配者でもあったと云う事です。
この地域については、あまり勉強していないんですが、紀氏とは異なった氏族で、五十猛命を奉じていたのがいたと言う事でしょうね。
 

13. 伊太祁曽神社や熊野からの勧請の神社

 伊予の伊太祁神社(いだき)宇摩郡土居町 国魂飯神(イタケルの命、飯族の祖神)元中2年1385年、紀州一宮正一位伊太祁曽大神を奉遷したと書いてありました。

 飛弾には伊太祁曽神社がたくさん鎮座しています。高山から乗鞍岳なで連綿と鎮座しています。 乗鞍岳では東を向いて天照大神、背中合わせで五十猛命が西を向いておられます。西は飛弾、東は木曽、併せて伊太祁曽ですね。 語呂合わせなのか、誠の話か、  江戸時代に伊太祁曽神社がはやらなくなって、ここを支配していた根来から来た坊主共がお伊勢さんにかこつけるべく日をい抱く神とされて、 天岩戸から天照大神を出した天手力男神になどらえたりしていたようで、かゝる妄作をなし愚人をあさむきしなり。妄作の御名抱腹に堪さる事なり と江戸時代の歴史書に決めつけられています。 飛弾にも、伊太祁曽神を祀っている神社に伊勢の神が舞い降りたなどとして、まさに行列をなして名前まで天照皇大神宮、伊太祁曽宮と並んでよばれています。
林業の後退により、過疎化が進み、廃絶されていっている神社もあります。

伊豆 木の宮 温泉の熱海の氏神です。当所祀られていた所は波の音がうるさくて眠れない。 もっと山の中に杉の木が五本生えているからそこへまつれなどどわがままを云っていたようです。 伊豆では 禁酒の神様として祀られています。

 魚の産地で、道筋には、干物なんかを売る店が並んでいるのです。酒の肴に持ってこいですね。禁酒の神さんは営業妨害かなっと思っていたのですが 、よく考えると、禁酒の神さんとこへ来るのは、酒飲みばかりですね。客寄せに使われていますね。

杉鉾別命神社と云いまして、半島の先の方に鎮座しているのですがこんなエピソードがあります。
 御神体を浜の方に祀ると船が進まなくなるので、天城山の方角に祀ると言う。
 この伝説は、須佐神社が海の方をむいていて、船が進まない伝説とにていますね。
 さて禁酒の神様になった訳 往古、杉鉾別命が酒に酔っぱらって野原の枯れ草の中で眠ってしまった。 その時野火が起こり、命はすっかり取り囲まれて絶対絶命の状態になった。 するとどこからともなく小鳥の大群がやってきて、濡れている羽から水滴をたらしていった。 いくどもいくども繰り返された。さしもの野火も消え、命は危うく一命をとりとめることができた。  当社の氏子達は12月17日から24日までの一週間は酒を断ち、小鳥を捕らない事になっている。 神社の掲示では鶏肉、卵も食さないとしているが、12月23日までとしている。XMASには解禁ですね。

小鳥が五十猛命を助けていますね。日本武尊の草薙の剣伝説よりスマートですね。鳥をあやつった神様ですね。 山に木種を播くのも鳥の仕事ですね。五十猛命は鳥の神なんです。
航海にも鳥が使われます。鳥を飛ばして陸地をさがす。南方から小舟にのって流れてきた連中は、鳥をとばして、日本をはっけんしたんでしょうね。

武蔵 今の神奈川県が 五十猛命が多いのです。 鶴見川などの川にそって転々と杉山神社が鎮座しています。五十猛命別称こだねの神、地域の守護神、安房の国から勧請したとか いろいろな由緒が伝わっています。半分ほどの神社では祭神を日本武尊に取り替えているようです。 熊野からの移住者もいたようで、恐らくは、紀の国からの勧請だとおもわれます。平安時代にはすでに建立されていたようです。
 

東京 熊野神社がいくつかあり、伊太祁曽三神が祀られています。紀州藩の江戸屋敷内の鎮守を町の人も祀ったようです。
江戸時代には紀州の植木職人が、植樹指導に、各地に招かれています。おそらくこういう時には、 植樹の神様を奉じて赴いたのでしょう。どうも、徳島の森神社なんて、そういう感じがします。

熊野にも五十猛命が祀られていたようで、全国の熊野の内30社ほどは祭神が五十猛命になっています。
熊野博がありましたが、この熊野古道は初期には、紀の川を渡ってから禰宜、和佐を通って平尾に来ます。 伊太祁曽神社の北側を通って奥須佐に抜けていきますね。途中で伊太祁曽神社を祀っていっていますね。
 
 

14. 伊太祁曽神社の紋 太 とは
 伊勢神宮別宮・伊雑宮いざわのみや)での御神田神事(御田植祭)の竹取り神事には天帝の別名、「太一」と書かれた軍配うちわ(俗称)が空中高く掲げられる。 伊勢神宮の二十年に一度の遷宮にも幡(のぼり)や用材にもみられます。
 「太一」「大一」は天帝の別名、すなわち北極星を指しています。所謂、太極ですね。陰陽の二元が生じたり戻ったりする所ですね。天空の中心と見られ、物事の衷心とされたのでしょう。 

 お伊勢さんの近くに話が行きました。

 余談ですが、神社には普通巫女さんがいますね。むかしはの巫女さんは遊女だったのです。日本でも奈良時代までは巫女と遊女が分離していなかったようです。 江戸時代までは巫女が「あそび」と読み、称され、遊女を兼ねていたのですね。
 江戸時代の東海道中膝栗毛の弥次・喜多道中の目的地は伊勢です。 一生に一回は伊勢詣をしたいというのが庶民の願望だったといわれる。
 伊勢詣が全国的に盛んだったのは、堂々と遊女遊びに出かけれたからです。 「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ」、この津は「つつもたせ」の津ですね。実際には松阪には遊女がたくさんいたのですね。 神を祀った後のなおらいは遊女遊びだった。

今でも新興宗教の教祖の周辺には美女を集めます。美女に勧誘させますね。オウムもそうでした。

神様も女好きですね。大国主命なんかは、何遍雨戸を開けて侵入し、事に及んだか。 大国主は子供の種をまき散らしたのですね。五十猛命は木の種でしたが・・・

 さて神紋の「太」の字は「うづ」と読めますね。太秦でうづまさ京都市の地名にありますね。ここのは三角鳥居で有名な木島坐天照御魂神社が鎮座しています。別名蚕の社と言います。 聖徳太子を支援したと言う秦氏の神社ですね。蘇我氏の配下に紀氏、その配下に秦氏がいました。蘇我氏が滅びて紀氏の力も衰えて、そこからは秦氏が力を発揮しますね。 伏見稲荷は秦氏が祀った神社ですね。
 宇佐八幡の八幡の神は「宇佐郡辛国宇豆高島」に天降ったとでています。ここも秦氏の王国と言われた地域です。 五十猛命を祖神としている氏族が最初に八幡の神を祀っています。紀氏も秦氏と同族だったのでしょうね。一寸ばかり先に日本に渡来してきたんでしょうね。 五十猛命が天日鉾より先にきているんですね。神紋の「太」はいろんな想像をかき立てますね。
 

15. 根来寺と覺鑁上人
 弘法大師空海が高野山を開いたのが弘仁七年(916年)。それからどんどん教義が複雑になり、ぼやけて来てますね。 おまけに、朝廷からは大切にされたので、権力機構ができ、所謂組織の官僚化が起こっていますね。そして坊主どもは腐敗していきますね。 金をつめば、たいした勉強もせずに、京都あたりのそこそこの住職になれる。宗教団体と云えども、権限を持てば、必ず腐敗します。 組織の老朽化動脈硬化ですね。
 覺鑁上人は12世紀の前半に活躍した、大分県は中津の方の出の人ですね。福沢諭吉もそうですね。 高野山の腐敗を見て、これはいかん、立て直そうとして、勉強する場をこしらえたんですね。伝法院といいます。
 この伝法院の領地にここ山東郷の山東荘がなっているんですね。他に岩出(石手)、山崎などがそうですね。 日前宮の連中は面白くないんですね。おのれらの領域だと思っていたのに、覺鑁上人に持って行かれたんですね。 それからというもの、日前宮の人々がこの山東へ殴り込みをかけるんですね。 一度や二度ではないのですね。今で云えばやくざの島争いですね。 山東の人が悪いわけではないですね。都の鳥羽上皇が決めたことなんですが、地方にはその威光は届かないんですね。 山東が覺鑁上人の手に入ったので、高野の丹生の神を勧請していますね。明王寺の丹生神社ですね。 いまはここの摂社ですね。奥宮と呼んでいますが、普通は、山の上の神社が里に下りてきて里宮になるとき、元の山の宮を奥宮と呼ぶんですが、 ここの丹生神社は、矢田の伝法院を守る鎮守さんなんでしょうね。
 その内、覺鑁上人も高野山を飛び出しますね。根来を拠点にするんですね。
 根来の坊主が伊太祁曽神社を闊歩するようになったようですね。境内にも寺院の設備が出来ていたようですね。 江戸時代後期に神仏の分離がなされています。興徳院がその後裔だそうですね。
 根来寺には、逆にお寺の鎮守として伊太祁曽神が迎えられているんですね。 根来寺が各地に布教していき、お寺が建立される際にも、伊太祁曽神社が勧請されていますね。 高野山系は丹生神社、根来系は伊太祁曽神社だったのでしょうね。
 

16. 名草姫(名草戸畔) 丹生都姫(丹敷戸畔)
 神武天皇、和歌山を襲った頃はサヌの命、が誅したのが、名草戸畔と言う賊であった。負ければ賊軍の賊ですね。 この名草戸畔は、紀氏の系図では、祖とする天道根命の前に出てきます。遠い祖先と言う事ですね。 神代と人の世をつなぐ物語である神武天皇紀に出てくる名草戸畔は、半分は神代の神様でしょうね。
 名草郡には中言神社と言う神社が江戸時代でも14社ありました。現在6社確認できます。 日前國懸神宮、竃山神社、浜の宮、内原神社、冬野の名草神社、吉原の中言神社です。この吉原の神社は中言大明神と云って、本社ですね。 相当の規模の神社だったそうです。名草戸畔は名草の卑弥呼ですね。神の声を聞いて人に伝えてまつりごとを行っていたのです。だから中言と云うのですね。 後で天下を握る藤原氏も中臣氏だったのです。
 神武天皇に殺された名草戸畔が祀られて名草姫となったのか、名草戸畔の遠い祖先神を名草姫と云ったのか、 名草山を御神体として、その優美な姿を姫と讃えたのか、名草山周辺の産土神とされていたようです。
 名草姫は紀の国の神の声を聞いてまつりごとを行っていたのですね。皆さんもうおわかりですね。紀の国の神、そう大屋彦神の御宣託を受けておられたのですね。 今年はどの銘柄の米をまけばいいのか、そう云う事のお伺いを立てていたんですね。大屋毘古の大神を祀っていたのですね。
 高野山の麓の天野と云う所に丹生都比賣神社があり、丹生都姫が祀られています。 この神の御子神が高野明神です。名草姫に婿入りをしていますね。名草彦となったのですね。
 神武天皇は南紀へ回り、そこで丹敷戸畔をやはり殺しています。この丹敷戸畔をニシキではなくニフと読むんですね。 丹生都姫を祀る卑弥呼さんだったのでしょうね。 錦って織物ですね。神武さんは大和の征服に赴くんですね。錦よりは、金属がほしいのです。武器と祀りの道具がほしいのですね。 水銀で銅鏡を磨くと、実にきれいだそうです。銅で造った鳥の模型を磨いたんですね。キンシが出来たのですね。 丹生都姫神社に伝わる告門には、神武天皇が大和で立ち往生している。助けてやれ、と云う事で、丹生都姫、その時の名は稚日女尊ですが、降臨したと伝わっていますね。 この事をさして居るんでしょうね。

 紀氏の祖神に名草姫の名が入っていると申し上げましたが、兵庫県養父郡八鹿町の妙見山には名草神社が鎮座しています。 美しい三重塔と巨杉のある神社として有名です。 紀氏が役人として赴任した時に勧請して祀ったと伝わっています。この近くには大屋町などもあります。 後は、城崎のほうですね。日本海から紀の国へのつながりが見える感じですね。
 もう一つは、妙見山に鎮座しているのが面白いですね。この妙見とは北極星ですね。天空の動かない星、天の中心の星なんですね。 天皇という言葉の語源もここいらにあるそうですね。
 日本では星はスバルとか云われていますが、神様としては、夜の神でもあるんで、悪い方の神様にも入っていますね。 ただ、太一神として、日本書紀には、この国で最初に現れる神として、天御中主尊がいますが、妙見の神様になっています。
 九州ではこの妙見さんんと五十猛命が繋がっています。両方とも、やはり新羅の国を経由して持ち込まれたのでしょうね。

 一つの川の下流に丹生都姫m上流に五十猛命が祀られている所があります。
 佐賀県嬉野郡嬉野温泉ですね、丹生川、塩田川の上流に丹生都都姫を祀る丹生神社、下流に稲佐神社、妻山神社、多良嶽神と五十猛命が祀られています。 群馬県藤岡市の上のほうに当たる神流川や鏑川の上流に丹生神社、下流に五十猛命と組合わさっています。
 奈良県の五條市には大屋比古神社があります。近くを東の丹生川が流れています。西にも丹生川がありますが、 この源流地には、丹生神社が幾つか鎮座しています。神宮皇后が丹生姫神を紀伊国筒川の藤代の峯に鎮め祀ったとありますが、やはり上流下流の関係があります。
 片や金属探査と採取、片や精錬、鋳物、運搬、防衛と二つの氏族の分業があったのかもしれませんね。
 

17. 21世紀以降の重要な神、伊太祁曽神社
 伊太祁曽神社だけを重要と言う訳ではありません。神社一般を重要なものとして先ず捉える必要があります。
 弥生時代以前(2300年前)の縄文時代は、日本列島は殆どが木に覆われていました。それ以降今日まで、木を切り続けて来ました。 日本にはまだ切った後には木を植えるといふ事がなされてきました。植林ですね。素盞嗚尊や五十猛命はこの神様ですね。 これが、出雲の八頭の大蛇退治の話になったとの説がありますね。出雲の山々を掘り返して鉄を取っていた連中がいて、更に精錬するために大量の炭がいり、木材をやたら使っていて、下流では水害が絶えなかったようです。 赤い水がどんどん流れてきて、まさに大蛇が暴れているようであったと形容されるのです。 大蛇を退治するとは、山を荒らしている鉱山師をやっつけるか、木を植える事を強制したのかもしれませんね。 そうして、下流の稲の田圃を守った物語が、稲田姫を助けたとなった。
 大陸では、木を切っても後は植えないそうですね。だからどんどん山が禿げ山になっていき、土が流れ去ってしまい、岩だらけになると、回復しないんですね。 日本の仏教の関係の会社が卒塔婆用にどんどん木を切って加工して日本に輸出しているらしいです。日本のお寺さんは罪な事をするもんです。 だから、時々大陸では大きい洪水が起こります。治水が中国の政治の基本ですのにね。
 最近、やっと気が付いて、植樹をする運動をしています。手遅れでしょうが、しないよりましですね。
 日本でも木は切ってきました。しかし切ってはならない所があったのです。そう、神社の杜ですね。聖なる場所には木がなくてはならないのです。 木の生命力が神社の基本ですね。縄文の縄模様とは木の力を時分のものにする信仰心ですね。 日本の信仰の基本は木に対する信仰です。日本の信仰の根元の習俗は縄文時代の木に対する信仰と言っていいんですね。 神道は生命の崇拝なんです。木の生命がシンボルなんです。屍を木の枝に置く、山へ捨てる、これは、魂を天へ登りやすくする意味があります。再生を願っているのですね。
 病気になると大木の側へ行って体を休める、木の生命力をもらうんですね。人間の命の根元ですね。
 世界最古の物語は紀元前5000年前ですね。ギルガメッシュ物語です。 シュメールの王のギルガメッシュが森の神フンババを殺す物語ですね。そして都市文明になるんですね。自然神などは人間の開発を妨げるものとして殺されていくんですね。 レバノン杉と言う言葉を聞かれたことがあると思います。船等をつくる為に着られてしまって、いまや一部を残して砂漠ですね。 レバノンと言う国も栄えていましたが、材木に事欠いて衰退しました。森が滅ぶと人間も滅ぶんですね。
 日本は国土の2/3は森です。その半分以上は天然林です。よく残っています。 これは、植林もさる事ながら丁度平地が弥生時代以降に出来てきたことによるんですね。名草山の周辺はアビの七原と言われますが、 浅瀬だったのですね。紀ノ川の下流域もどんどん平地になってきたんですね。大阪もそうですね。 関東平野は武蔵野と言う森で、いまや殆ど見る影もないですね。それこそ神社の森だけになって来ています。
 神社の基本は縄文時代の木の生命力崇拝ですね。この縄文時代は「丸」の文化ですね。ストンサークルも丸ですね。 丸は平等を意味します。人間も動物も山川も、同じ魂を持つ輪廻の中にいるのです。自然の一員です。 これが、21世紀の地球を導く思想になるべきでしょう。 「山川草木悉皆成仏」といいますね。これですね。
 空海は森の神の化身と言われます。密教と森の宗教の神道を融合させたんです。本当の神仏習合ですね。 だから、平安京や平城京の町の中に造らずに、高野山の奥深くに拠点をつくったのですね。
森の神の思想をたかく掲げてよの中を導く天才達がこれからの時代をリードするんでしょうね。 決して、情報技術で金儲けをする天才達が時代をリードしているように見えますが、それは単に経済の世界ですね。 かならずや、森の思想家がでるでしょう。
 
 
 

18. 日本の風習と仏教の変化
 日本では、なくなった人は、その後、33年〜50年間、地下で修業をし、汚れを落とし、身を清めてから、祖霊となって、徐々に地上に出てきて、故郷の鎮守の杜に戻るといいます。 ホトケになると言いますね。人が消える。ヒトケなんですね。ホトケは仏教言葉ではなく、もっと古い言葉ですね。
 ホトケになった場合、仏教の考えでは、どーなるか。遠い遠い西方浄土へ行ってしまう。西方十万億土の向こうですね。 ヒマラヤかカイラスの山から天に昇るんでしょうね。オシャカ様は生死の流転から免れる事を教えました。仏教ではホトケの里帰りなんて観念はないんですね。 さてさて、皆さん、そんな遠い所へ行っていいんですかね。お盆に戻るといいますが、そんな遠い所から戻れるんでしょうかね。日本仏教はオシャカサマの教え1割り、のこり9割りは日本の古い習俗でできているんですね。
 オシャカ様は出家されたとき、親を捨て、国民を捨て、家族を捨て、子供を踏んづけて、自己の悟りの道に進まれました。 呪縛からの解脱が、その本質でしょう。日本や大陸の仏教は「死ぬ」を解脱の見て、仏になるとし、神去りの祭を神社から取っちゃったんでしょうね。 多くの神社は古墳の上にあったりします。祖先を素直に祭ったんでしょうね。どっかで、神社は清浄を司り、お寺は死穢を司るようになったんですね。
 伊勢神宮では、僧侶でなかっても坊主頭の人は中の方まで入れなかったんですね。お伊勢参りようのカツラが貸し出されていたそうですね。 お相撲は頭がうすくなって、髷がゆげなくなったら引退ですが、神主さんはどうなんでしょうね。
 

 胸毛って最近減りましたね。お相撲さんでも少ないですね、キムタクなんかはツルリですね。 江戸時代までは、日本の男には胸毛が多かったそうです。文明開化は日本男児から胸毛を奪いましたね。戦後の規律なき民主化は、日本人から高尚な精神とか公徳心すら奪ったようですね。 お金お金の拝金主義者を大量に作りましたね。権力を持つ連中ほど、お金中心で、規律を失いましたね。今みたいな時代が長く続きますと、立ち直るのに何世代もかかる事になりますね。

伊太祁曽神社
神奈備にようこそ

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