伊太祁曽神社の聖母信仰


『神々の原影』(西田長男、三橋健)から

聖母神像−絵像−
図37 居懐貴孫大明神神像(伊太祁曽神社所蔵)


西田 これは(図37)、和歌山市伊太祈曽に鎮座の伊太祁曽神社(旧官幣中社)の縁起絵巻(注1)に出てきます聖母像でありますが、このように、女の神様が幼児を抱いておられます。ところで、この「いたけそ」という神社の名前は「抱く」ということと関係があるように考えられます。 伊太祁曽神社の祭神(注2)は級長戸辺命といって風の神であるといわれています。 つまり、この風の神である級戸辺命が瓊瓊杵尊を抱いておられる姿だといわれています。 級戸辺命は女神で、これにたいし、級長津彦という男神もあります。(注3)
 また、この伊太祁曽の神は「太力男明神」ともいうと記しています。それは天照大神が 天岩屋戸に籠られた時、当社の祭神である風神、級長津彦の神が岩戸を引き開き、天照大神を懐き奉った。 その時の功により、「太力男明神」という名前をたまわり、また、天照大神を懐き奉ったことにより、 日出貴大明神」ともいうのであります。
 さらに、いま一説があって、これは天照大神が孫の瓊瓊杵尊を抱いておられるともいわれております。

図38

 前頁図(図38)は、女神が鏡を抱いておりますが、これは幼児の神、すなわち御子神を鏡に描きかえたものだと思いますね。 つまり、同じ意味の絵であると考えられます。いずれも、一種の聖母神像であるといってよいのではないでしょうか。

三橋 今のお話ですと、伊太祁曽大明神は,級長戸辺命・級長津彦命・太力男男であるということで、しかもこれらは,いすれも異名同体ですね。 そこで疑問に思いますのは、級長戸辺命は女神ですから問題はないとしても、級長済彦命や太(手)カ男尊は男神ですね。 そのような男神を聖母神像というのは、いささか無理でないでしょうか。

西田 たしかに、級長津彦命は男神と考えられますが、ただ、この縁起の典拠となっている『日本書記』には、
 すなわち吹撥(ふきはら)はせる気(みいぶき)に化為(な)りませる神の号を級長戸辺命と日す。 亦は級長津彦命と日す。是れ風神なり。
とあって、必すしも男女の性の区別を厳密にはしていませんね。それに、なによりも絵図にみるように、伊太祁曽(居懐貴孫)大明神のお姿は、 いかにも女神として描かれていますね。

三橋 なるほど。絵図をみるかぎりでは女神ですね。それに、「居懐貴孫」(伊太祁曽)という字は、妄作かもしれませんが、文字そのものから「貴いお孫さんを懐く」ということで、天孫瓊瓊杵尊のことになりますね。

西田 なお、これについては詳しく述べなければ、誤解をまねくおそれがあります。 たとえは、天孫瓊瓊杵尊の生母は、栲幡千千姫であって、伊太祁曽大明神としての級長戸辺命や級長津彦命や、さては手力男神ではありませんね。 つまり、生母でもない神が、どうして御子神を抱いておられるのかと...。

三橋 その理由をうかがう前に、天孫系瓊杵尊の神系図を整理しておいた方が便利ですね。
 いざなぎ
   Iー 天照大神 − 天忍穂耳尊
 いざなみ         I−−−−瓊瓊杵尊
             栲幡千千姫
                             (「日本書記」よる)

 このように、瓊瓊杵尊の生母は、栲幡千千姫であって、天照大神は祖母にあたリます。

西田 その通りです。天照大神は瓊瓊杵尊の祖母でありますが、これは民俗学においてすでに多くの 史料が採訪せられているように、「養い親」ということになりますね。 親には生みの親と育ての親とがあって、育ての親には、多く生みの親の姉妹や祖母があたることがあります。 これは前代の風として、このようなことがあったのであって、やはり、この絵図も、聖母神像とみなして、なんの支障もなかろうと思います。

三橋 「居懐貴孫」、すなわち子供を懐くといえば、たとえば、『古語拾遺』に、天照大神、吾勝尊を育(いた)したまひて、特にいつくしみ、常に腋下に懐きたまへり。 称けて腋子と日ふ。今俗に、稚子を和可古と謂ふは、是れ其の転語なり。
 とあることが注目されます。すなわち、天照大神と素盞嗚尊との誓約によって生まれた吾勝尊は、いつも天照大神に大切に懐かれていたと記してあります。 これによると、天照大神も、聖母としての一面を持っていたといえますね。

注1 この「縁起絵巻」は、「日本紀伊国伊太祈曽大明神御縁起事」と標する。 一巻。その書写年代は室町時代を下らない。 高さ三十センチ、幅五十八センチ。 鳥の子紙九葉を継ぎ、表文に金銀の箔を散らすほか、金泥をもって、 四季の草花なとを描いてある。 中に、神影三図を描き、いすれも採色を施してある。

注2 伊太祁曽神社の祭神については、本居内遠の『伊太祁曽三神考』がある。 内遠は五十猛神(大屋彦神)との説であるが、当縁起絵巻やは、それとおもむきを異にしている。

注3 右の「縁起絵巻」に、「抑、今此伊太祈曽大明神、奉申五形(行カ)神中、風神御座。 始御名、級長戸辺命中也。又級長津命申」とある。 いうまでもなく、級長戸辺命は女神、級長津彦命は男神である。

注4 「縁起絵巻」に、「天照大神、御孫地神第三代尊御誕生時、祝先早級戸辺可懐上給大神被仰之間、 奉懐上」とある。これは、天照大神が皇孫瓊瓊杵尊を抱いておられるのを伊太祁曽大明神にかえたものと思われる。

伊太祁曽神社は聖母を祀るのか? − 神奈備の見解−


1.続日本紀の記事で、大宝二年(702年)山東へ遷座後も勢いが強く、伊太祁曽三神を分遷している。その頃まで伊太祁曽神が瓊瓊杵尊を懐く神ならば、分遷という措置が行われることはなかったでしょう。


2.長承元年(1132年)鳥羽上皇、山東庄を大伝法院領とした。根来寺領となった。根来の守りとして、五十猛命が祀られています。平安末期には祭神は五十猛神であったと思われます。


3.伊太祁曽神社が鎮座していた元地の万代宮に日前国懸神宮が鎮座しています。この神宮は江戸時代までは八幡造であったと言います。八幡と言えば、神功皇后・応神天皇を祀っていた可能性があります。即ち母子信仰の名残があったのでしょう。


4.日前国懸神宮は名前から見ても日神を祭っています。ここから伊太祁曽神社の分離が行われたものと思われます。


5.日を懐く神を祀る神社としての伝承は伊太祁曽神社にも残っており、現に居懐貴孫大明神神像や日抱尊の呼び方、また風の神の級長津彦の神であったことを思わせる伝承が残っています。
 『寛永記』(1624〜)に、「永祚元年 989年 八月八日より同十三日まて大風吹によりて 禁中にて御卜あり當社へ御立願あらは大風静まるへき由奏するに因りて御立願ありしに忽風静まりしより其報賽に國々より馬一騎宛渡りしを中古根來寺へ 勅ありて荘中の舊家に流鏑馬を命せられ其子孫今に是を勤む。」
 平安中期には風の神とされていたようです。級長津彦が天照大神を天の岩屋から出したので天手力男の名を賜ったとの伝承が語られています。
 飛騨地方にも伊太祁曽神社と言う名の神社や日抱神社、日輪神社が鎮座、天照大神や五十猛神を祭神としています。離れた二つの地で、伊太祁曽を日抱尊と見なす伝承があることは興味深いことです。

 伊太祁曽神社が聖母信仰だけの神社とは思いにくい所です。元々名草万代宮に鎮座しており、日前国懸神宮から分離した際に、その伝承を持ったまま山東の地に遷座していったのでしょう。

伊太祁曽神社
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