男神社おのじんじゃ
泉南市男里1065番地 infoseek

交通案内
南海本線樽井駅下車 南1300m

祭神
神日本磐余彦命、彦五瀬命
配 天兒屋根命、熊野速玉神
元宮 浜宮「事代主神」
若宮神社「彦五瀬命」

由緒

この地は九州から古墳用の石材を運びストックする所であった。

男神社鳥居と社叢




神社庁平成祭礼データCD社伝

元府社男神社は大阪府泉南郡泉南町男里即ち古への呼の郷の地ある。延喜式内神社で、本殿には、彦五瀬命・神日本磐余彦命、を祀り、相殿には天児屋根命・熊野速玉神を祀る。
境内壱万五千平方メートル(五千坪余)。老樹欝蒼として幽すい絶塵の神域をなしている。その北一キロ余の処に摂社浜宮がある。本社の元宮で、境内九千平方メートル(三、〇〇〇坪)松樹茂って海風に鳴っている聖蹟雄水門は即ち此地である。
神武天皇御東遷のみぎり、皇軍孔舎かの坂で長髄彦と御激戦した。此時、皇兄彦五瀬命が賊の流矢に中って御肱脛にきずを負はせられ「吾は日神の御子として、日に向ひて戦ふこと良はず、故れやっこが痛手をなも負ひつる。今よりはも行き廻りて日を背負ひてこそ撃ちてめ。」と仰せられた。よって皇軍は血沼の海即ち今の大阪湾を南進し紀伊に向わせられよとして紀元前三年五月八日(太陽暦六月二十日)此地に御着き給うたが、彦五瀬の御傷いよいよ重らせられた。命は御悩みの中にも剣の柄を堅く握られ「慨哉、大丈夫にして被傷於虜手、報いずして死なむや。」と雄詰び給うたよって此地を雄水門といふ。
命はやがて竃山に神去り給うたが、その「日を背負ひてこそ」と仰せられたことは、皇軍の作戦上重大な御意義を有つもので、また、「慨哉」と雄詰び給うたことは、皇軍の士気を鼓舞せられたことであろう。かねてより神武天皇の点業かい弘を輔翼し奉り、また皇軍の進撃中不滅の御勲功を立てさせているのである。 即ち彦五瀬命雄詰の御遺蹟雄水門、今の浜宮の地に、命と神武天皇の御神霊を祀奉ったのが、当社で社伝によれば貞観元年三月今の地に御遷座し奉ったといふ。 毎年十月十一日の例祭には本社より聖蹟雄水門の地神輿渡御の儀が行われる昭和七年十一月 畏き辺より幣帛料を下賜せられ給うた。まことに畏き極みである。


男神社本殿

お姿
 社叢の古木に無患子(むくろじ)がある。種子は羽子板の羽子に使われると言う。他に槙や楠木などの木が鬱蒼としている。遠くからでも大きい社叢が見える。
天神の杜は昔古は海であり良い湊であったと言う。山城水門(やまきみなと)と言われ、彦五瀬命の雄叫びの聖蹟とする説明板があった。

男神社拝殿とその前の双子の木、近所には二子池もある。


天神の杜の神武天皇聖蹟雄水門顕彰碑と右手が浜宮




お祭り
例祭    10月 9日、10日 曳き山の神輿がお旅所渡御、氏子区域巡幸を行う。


神武東征の地
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