葛城王朝の宇陀地方征圧

宇陀の価値
 金剛葛城の麓は要衝の地である。先ずここから南は紀ノ川の上流にあたり、紀伊、瀬戸内への道筋である。一方、東は吉野、宇陀には山間をぬって往来ができる。
 宇陀はまた伊勢街道が通り、東国への玄関口でもある。東に墨坂、西に大坂が置かれた。

 それよりも宇陀は金属の採取ができる山地である。赤い土が今でも多く、水銀鉱脈があり、現在でも金属会社が残っている。

 平地と水に恵まれた田園地帯であり、農業生産力は相当なものであった。現在も田園が多い。木材も豊富である。

 葛城、生駒平群と並び、山に囲まれた地域で、外部からの侵攻ができぬくいのもこの地域の特徴である。

志賀剛氏の説
 式内社の研究をライフワークとされた志賀剛氏は神武天皇は宇陀の高塚(伊那佐山の南)で誕生したとの説を出されている。古墳、石器、土器の出土が宇陀地方で多く出ている事、神武天皇の東征コースで具体的なストーリイになっている事等をあげておられる。 九州から熊野経由の物語には信を置けないとの見解である。傾聴に値する説であると思う。

葛城から宇陀へ
 対馬、九州、瀬戸内を経て紀州から紀ノ川を伝って葛城地域に根を下ろした天孫族が、大和平野を平定するべく、葛城、吉野、宇陀を征圧するのは実に戦略的な行動である。まさに平地の邪馬台国に敵対する狗奴国の最前線にふさわしい対峙である。「南、狗奴国、もとより和せず。」魏に苦境を訴えたい卑弥呼の気持ちは良く分かる。 さて神武天皇の東征の物語は初代の神武天皇の功績に代表して語られるが、実際には欠史八代にされている天皇の物語である。特に葛城生駒方面が皇兄である五瀬命が担当している。生駒で傷つき、紀伊で落命されている事、御所の地名が葛城に残っている事からの推測である。

 準備段階 作戦と内通者の確保 
 吉野・宇陀の征圧は弟の神武天皇が主に行ったものと思われる。大伴道臣命、大久米命を将軍とし、参謀として葛城北部の笛吹の高倉下命を取り込み、高塚を拠点とする建角身命(八咫烏)を味方に引き入れる戦術が奏功した。
高角神社「高倉下命」奈良県宇陀郡大宇陀町上守道776
八咫烏神社「建角身命」奈良県宇陀郡榛原町高塚字八咫烏42
都賀那木神社「都賀那伎神」奈良県宇陀郡榛原町山路335イナサ山山上

 征圧の順路は概ね古事記の順であろう

 第一段階 吉野 贅持、井光、石押分を言向け和して 
式内川上鹿塩神社「吉野国樔の始祖石押分が祭神であるとの説」奈良県吉野郡吉野町樫尾字大蔵423
大蔵神社「鹿葦津比賣命、大倉姫命、石穗押別命」奈良県吉野郡吉野町国樔字大倉343
高桙神社「高皇産靈神」奈良県吉野郡吉野町山口字モリ635
丹生川上神社「罔象女神」摂社の木霊神社には五十猛命が祀られている。 奈良県吉野郡東吉野村小968

 第二段階 佐倉峠 菟田野町
桜實神社「木花咲夜姫命 神武天皇を祭神と見る説あり」宇陀郡菟田野町佐倉764
岡田小秦命神社[おかだのおはため]「天照皇大神、須佐之男命、品陀別命」奈良県宇陀郡大宇陀町北和田226 

 第三段階 宇賀志 兄宇迦斯、弟宇迦斯
宇太水分神社(上宮)「天之水分神、速秋津彦神、國之水分神」奈良県宇陀郡菟田野町古市場字宇太野245

 第四段階 磯城 八十梟、兄磯城、弟磯城
宇太水分神社(下宮)「天水分神、国水分神 他」奈良県宇陀郡榛原町下井足字水分山635
墨坂神社「墨坂神」奈良県宇陀郡榛原町萩原703
丹生神社「高おかみ神」奈良県宇陀郡榛原町雨師366
志貴御縣坐神社「大己貴命 もしくは饒速日命や弟磯城の黒速命とする説がある」奈良県桜井市大字三輪字金 屋896

 第五段階 長随彦(邪馬台国)、物部氏


神武東征伝承の地ホーム

神奈備にようこそ
inserted by FC2 system