神奈備掲示板の案内とログ

皆様から神社や古代のお考えのご紹介やご意見などを頂きたく思います。
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[12030] Re: 神功皇后の存在 神奈備 投稿日:2017年 1月12日(木)20時06分



[12029] 仁徳天皇と葛城氏 神奈備 投稿日:2017年 4月22日(土)20時06分
このテーマの投稿内容は
http://kamnavi.jp/log/ugakaturagi.htm
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[12028]八幡大菩薩の成立と応神天皇霊 神奈備 投稿日:2017年 3月25日(土)20時29分
このテーマの投稿内容は
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[12027] 孝坪神社 神奈備 投稿日:2017年 3月21日(火)13時05分
 和歌山市和田に孝坪神社が鎮座しています。

 鎮座のいきさつや祭神のことなど、ご存じの方がおられましたら、教えて下さい。




[12026] 隠れ銅鐸祭祀 神奈備 投稿日:2017年 3月12日(日)16時09分
昨日は豊中歴史同好会の例会で「2016年の考古学会」についてのお話がありました。この中で、小さい銅鐸についての興味深い指摘がありました。

 小さくない銅鐸が地上から姿を消して後も、小さい銅鐸は祀られ続け、それも個人的に祀られて、お墓の中にも入れられたようです。
 隠れキリシタンのような、隠れ銅鐸祭祀がなされていたのではないかとのことでした。


[12025] 全国遺跡報告総覧 神奈備 投稿日:2017年 3月11日(土)17時01分
http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/search?detail=true&include_file=exclude


[12024] 桓武の焚書 神奈備 投稿日:2017年 3月 9日(木)13時32分
北畠親房『神皇正統記』「異朝の一書の中に、「日本は呉の太伯が後也と云ふ。」といへり。返々あたらぬことなり。昔日本は三韓と同種也と云事のありし、かの書をば、桓武の御代にやきすてられしなり。天地開(ひらけ)て後、すさのをの尊 韓の地にいたり給きなど云事あれば、彼等の国々も神の苗裔ならん事、あながちにくるしみなきにや。それすら昔よりもちゐざること也。」


[12023] Re: 神功皇后の存在 神奈備 投稿日:2017年 2月19日(日)21時00分
G 七支刀

 「考古学は記紀を裏切らない」と云われる。巻向遺跡の発掘などが典型的な例である。七支刀は出土品ではなく、古来より石上神宮に伝世されてきた神宝である。ものは刀と云うよりは槍である。『日本書紀』神功五十二年九月(372)に、百済王から七枝刀・七子鏡などが贈られたとの記事がある。七子鏡はボストンの美術館にあると云う。


H 宇佐宮の大帯姫廟神社

  弘仁十四年(823)大帯姫の細殿が建立された。平安初期に八幡大神を応神天皇としたので、大帯姫を神功皇后とした。おそれく香椎廟からの勧請と思われる。


3. 神功皇后の実在について

朝鮮出兵や河内での応神天皇の擁立にの裏には、神功皇后のような女傑がいて、多くの伝承や多くの伝承地を残してきたと思えてならない。


参考文献 塚口義信『神功皇后伝説の研究』、『ヤマト王権の謎をとく』
     前田晴人『卑弥呼と古代天皇』


[12022] Re: 神功皇后の存在 神奈備 投稿日:2017年 2月17日(金)09時34分
F 『住吉大社神代記』蜜事

 是(ここに)神、天皇に謂(の)りて曰はく、「汝王(いましみこと)、かくの如く信(う)けたまはずは、必ず其の国を得じ。唯今、皇后懐姙(はらま)せる子(みこ)。盖し得ることあらんか。」 この夜に天皇忽に病發(やみおこ)りて以て崩(かむ)さりましぬ。ここに皇后、大神と密事あり。(俗に夫婦の密事を通はすと曰ふ。)
 秘め事は天皇が死んだ後のことだから不倫ではなく、御子を懐妊した後なので、御子は仲哀天皇の皇子ということである。
 しかし、世間の口には戸は立てらぬもの。香椎宮のお隣の筥崎宮の神託に次のようなものがある。延喜二十一年 誉田別命 其故者香椎宮波我母堂。住吉宮波我親父也。
 神と神妻(巫女)の聖婚の物語と解すべきであり、誉田別命は神の子と思われていた。


[12021] Re: 神功皇后の存在 神奈備 投稿日:2017年 2月16日(木)09時56分
E 皇太子が角鹿の笥飯大神を参拝した。『古事記』には以下の通り。

皇后は皇太子を禊のために角鹿の伊奢沙和気大神(イザサワケノオホカミ)の命(ミコト)のもとにやった。大神が皇子と名を交換したいとの申し入れがあった。翌朝、浜にでると入鹿魚(イルカ)が打ち上げられていた。そこで大神を御食津大神と命名した。ケの神である。今、気比大神と云う。
皇子が禊ぎをする必要があったのは、麑坂忍熊両王を殺したゆえと考えられている。しかし、それならば皇后も禊ぎをすべきである。何故、皇子だけに命じたのか。皇子は仲哀九年(神功ゼロ年)の誕生、敦賀行きは神功十三年、皇子は十三才、元服の年齢である。成人儀礼と考えるべきだろう。


[12020] Re: 神功皇后の存在 神奈備 投稿日:2017年 2月15日(水)20時14分
D 麑坂忍熊両王の反逆

 両皇子の母親は大中比売命、この人は景行天皇の孫とされる。一方の応神天皇の母は神功皇后で、父親は開化天皇の五世孫、母方は天日矛命の系統。出自は大中比売命が良い。
ただし、大中比売命は景行天皇とその玄孫(伽具漏比売命)との間の子の子とされている。玄孫(四世孫)を一八才でつないでも適齢期には九十才の年の差があり、ウソっぽい系図にはなるが、麑坂・忍熊両皇子は誉田別皇子よりは仲哀天皇率いる政権の正当な後継者との認識が残っており、>誉田別皇子を神に指名された後継者との立場を強調する説話となっている。
Uga近江宇宙有名地(平二四年七月)参照。


[12019] Re: 神功皇后の存在 神奈備 投稿日:2017年 2月14日(火)14時43分
C 皇后の御子出産伝承

 海の母神と御子神の伝承は世界各地にあり、日本では豊玉姫と鵜芽葺不合命の異常出産譚が有名である。住吉神社の最古とされる対馬の祭神はまさにこの母子神である。海藻のように若々しく生命に満ちている神である。
 神功皇后も懐妊中に渡韓、石による出産の引き延ばしなど、異常な出産の物語がある。
 大帯姫(オオタラシヒメ)と息長氏の娘(オキナガヒメ)が習合して、オキナガタラシヒメとなった。これは舒明天皇(オキナガタラシヒヒロヌカのすめらみこと)以降天武天皇の頃までが息長氏の全盛期で、この頃に息長氏が伝承を膨らませてきたものと思われる。


[12018] Re: 神功皇后の存在 初心者 投稿日:2017年 2月13日(月)11時24分
神奈備さんへのお返事です。

お返事ありがとうございます。神様の話は奥が深く、勉強になります。

>  多くの伝承があるとか祀る神社が多いから実在だとは言いにくい所があります。スサノヲや大国主さん、この神々が実在していたとは思えません。
そうですね。ヤマトタケルや桃太郎が実在かと言われたら悩みます。

>  万葉集の山上憶良の歌は、帯日売神や足姫神とあり、息長帯姫とはなっておらず、おそらくは香椎宮に祀られていた大帯姫神のことかもしれません。

タラシヒメ関連の万葉集歌番号と中西進講談社文庫による原文表記と現代語訳を書いておきます。
813序文は息長足日女命(現代語訳表記同じ)、本文は多良志比悼ツ尾能弥許等「足日女 神の命」
869本文多良志比賣可尾能美許等「帯日売神の命」
3685本文多良思比賣「足姫」
中西氏が、すべての現代語訳の表記を異なるものにした理由と、他の研究者の訳については、調べる余裕がありません。


[12017] Re: 神功皇后の存在 神奈備 投稿日:2017年 2月12日(日)11時03分
初心者さんへのお返事です。

> 神社伝承については(も)勉強不足なのですが、大帯比売のご主人は景行天皇であるという説があるのですね。

 神社伝承ではなく、景行天皇は大足彦忍代別ですから、彦姫の名前からです。

 オオタラシヒメは神様ですから、現在でも神様です。時代を越えていると思います。

 半島にクスノキはあるのですが、日本のように大きくはならないようです。スサノヲさんの船を造るのは云々の神話も日本製のお話かもしれません。

 多くの伝承があるとか祀る神社が多いから実在だとは言いにくい所があります。スサノヲや大国主さん、この神々が実在していたとは思えません。

 万葉集の山上憶良の歌は、帯日売神や足姫神とあり、息長帯姫とはなっておらず、おそらくは香椎宮に祀られていた大帯姫神のことかもしれません。



B 皇后、新羅を征伐し、三韓を服従させる。

 高句麗好太王(391−412)の碑(414)の前文に「倭が渡海して新羅を破り、百済と共に臣民とした。」とある。倭の半島進出は史実と思われる。
 『宋書 倭王武の上表文』(478) 昔より祖禰先自ら甲冑を着て山川を渡り、休むこともなく、東は毛人五十五国を征す。西は州夷六十六国を服し、渡って海北九十五国を平定した。とある。この海北は朝鮮半島の事で、やはり倭の半島進出は歴史的事実である。
 史実として、遠い昔、倭国が大和を中心として国内平定を行い、さらに半島へ兵を出し、一時は支配していた王権の記憶があった。四道将軍・ヤマトタケル・神功皇后らの伝承であろうか。


[12016] 甲冑の推移 神奈備 投稿日:2017年 2月11日(土)20時26分
 豊中歴史同好会での講義は山口大学の田中晋作先生でした。
 関心を呼んだの時代別の甲冑の分布図のお話でした。
 古墳時代前期後半の分布
    〃  中期        古市百舌鳥古墳時代
    〃  後期前半     継体朝時代

 甲冑の特徴としては、前期後半は方形板革綴単甲。
 中期のは着ると動きがぎこちなくなる固いもの、金帯式
 後期前半のものはがさがさとなっており、動きやすくなっているようです。挂甲。

 時代によって、中央を支持する勢力に変動が見えるが、中には継続している勢力がある。例えば、奈良県の高取町など。

図は前期後半、中期、後期前半 の分布図です。





[12015] Re: 神功皇后の存在 初心者 投稿日:2017年 2月10日(金)10時02分
神奈備さんへのお返事です。

> また、大帯姫の彦神である大帯彦(景行天皇)の熊襲退治の物語も姫神の神威によるものだったと思われる。

> 香椎宮に鎮座している大帯比売かご主人の景行天皇でしょうか。

神社伝承については(も)勉強不足なのですが、大帯比売のご主人は景行天皇であるという説があるのですね。
初心者丸出しで申し訳ありません。
記紀や香椎宮では夫とされているタラシナカツヒコの祖父の時代がオオタラシヒメの時代なのでしょうか?

神社伝承で思い当たることは、神功皇后のクスノキの話です。
神功皇后は、三韓征伐時にクスノキを持ちかえったとありますが、朝鮮半島にクスノキはありません。
どこか南に行って持ち帰った(熊襲?)か、神功皇后とは全く関係ないクスノキであるかです。


[12014] Re: 神功皇后の存在 神奈備 投稿日:2017年 2月10日(金)08時05分
初心者さんへのお返事です。

>神功皇后の存在の否定とは、「朝鮮半島へ出兵した女性権力者」の存在の否定という意味でしょうか?

 良長帯姫と言う人物は存在せず、伝承だけの人、架空の人と言う意味です。

>具体的な伝承の多さからは、非実在の人物と考えるには、無理があると思います。

 鋭いポイントです。ボチボチと考えていきましょう。


 A 仲哀天皇は橿日宮を行宮として、住吉大神の託宣を聞いた。

    筑紫国糟屋郡香椎郷の地には4世紀後半の古墳や製鉄遺跡が出土しており、古代では港に面した軍事拠点であり、韓半島への出兵の拠点であった。ここが巫女女王の大帯姫の伝承地となっていた。
 大帯姫の神威は海人を通して朝鮮半島にまで及んでいたものと思われる。この大帯姫が『播磨国風土記』に見るように、息長帯姫に結びつき、神功皇后の三韓征伐の物語に発展していったものと思われる。
 また、大帯姫の彦神である大帯彦(景行天皇)の熊襲退治の物語も姫神の神威によるものだったと思われる。

『播磨国風土記』から
播磨国印南郡 仲哀天皇が皇后と一緒に筑紫の熊襲の国を征伐のため下っておいでになったとき御舟が印南の浦にお泊まりになった。(『紀』とは違う九州行きである。)

飾磨国飾磨郡 因達と称するのは、息長帯比売命が韓国を平定しようと思って御渡海なされた時、御船前の伊太代の神がこの処においでになる。だから神名によって里の名とした。(射楯の神である、五十猛神である。水軍の祀った神)

播磨国揖保郡 宇須伎と名付けるわけは、大帯日売命が韓の国を帰順させようとして海を渡ろうとされた時、御舟が宇頭川の泊に宿られた。

 なお、息長帯比売命の新羅平定の話は、常陸、摂津 肥前 筑紫 の各国の風土記にも記載され、広く民間伝承として語り継がれていたようだ。


[12013] Re: 神功皇后の存在 初心者 投稿日:2017年 2月 9日(木)09時43分
神奈備さんへのお返事です。

>  神功皇后の存在については殆どの研究者は否定されているようです。
>  高句麗好太王碑とか七支刀の受領から見て、この頃の朝鮮半島への進出は否定できないことですから、どの大王が進出したのでしょうか。倭王旨さんでしょうか、それとも香椎宮に鎮座している大帯比売かご主人の景行天皇でしょうか。

神功皇后の存在の否定とは、「朝鮮半島へ出兵した女性権力者」の存在の否定という意味でしょうか?
九州北部が多いと思いますが、日本には「神功皇后」を祀った神社が多数あり、ローカルな「神功皇后伝説」も豊富です。
具体的な伝承の多さからは、非実在の人物と考えるには、無理があると思います。
まちろん、明らかに怪しい伝説も多いですが、伝説になるほどの重要人物だったのは疑えません。
また、『万葉集』」869番歌に、筑紫にいた山上憶良が
帯日売神の命の魚釣らすと御立たしせりし石を誰見き と詠んでいます。(『日本書紀』成立から約10年後)
憶良の時代に「神の命(可尾能美許等)」という異例な呼び名で呼ばれる女性の伝説があったのでしょう。
魚釣りしただけでは、数百年(憶良の時代まで)語り継がれるとも思えません。
朝鮮半島に出兵したかはともかく、単なるタラシナカツヒコの二番目の妻ではなく、実在したかなりの権力者(重要人物)と考えなければ理解できません。



[12012] Re: 神功皇后の存在 神奈備 投稿日:2017年 2月 8日(水)18時19分
 『日本書記』神功皇后の記事
仲哀二年正月 気長足姫尊を皇后とする。
仲哀八年正月 筑紫の灘県に至り橿日宮に滞在する。皇后、橿日浦で髪を解いて禊をし、海に臨んで神占の儀礼を行った。巫女の行為。
仲哀八年九月 天皇が熊襲を討とうとすると皇后に神がかりし、新羅征討を指示するが神の言を信用しない天皇は熊襲と戦い敗北する。「皇后の御腹にいる御子が国を得られるだろう。」との託宣を行った。住吉大神の託宣とおもわれる。
仲哀九年二月 天皇が橿日宮にて突然没し、遺体を穴門に移し豊浦宮で密かに無火残警行う。
仲哀九年九月 師船を集め西海を望み神の託宣を得る。石で腰を挟み開胎をおさえる。
仲哀九年十月 対馬を発ち新羅に至り国王を服属させる。
仲哀九年十二月 新羅より帰還して筑紫の字瀰で誉田天皇を産む。
神功元年二月 穴門豊浦宮に移り、京へ帰還する。麑坂忍熊両王が反逆の兵を挙げるが、麑坂王は死ぬ。
神功元年三月 武内宿祢は忍熊王の軍勢を近江に撃滅する。
神功元年十月 皇后を尊び皇太后と称す。
神功三年正月 誉田別皇子を皇太子とし、都を磐余に造る。
神功十三年二月 皇太子が角鹿の笥飯大神を参拝した。
神功三十九年(239 卑弥呼) 「魏志に云はく、明帝の景初の三年の六月、倭の女王、大夫難斗米等を遺して、郡に詣りて、天子に詣らむことを求めて朝献す。太守都夏、吏を遺して将て送りて、京都に詣らしむ」。
神功四十年(240 卑弥呼) 「魏志に云はく、正始の元年に、建忠校尉梯携等を遺して、詔書印綬を奉りて、倭国に詣らしむ」。
神功四十三年(243 卑弥呼) 「魏志に云はく、正始の四年、倭王、復使大夫伊声者掖耶約等八人を遺して上献す」。
神功四十六年(364) 斯摩宿禰を卓淳国(大邱)に派遣。百済王と倭使との交渉を記す。百済国は日本の場所も通交手段も知らない。(矛盾)
神功五十一年三月 百済使久弖ら来朝、千熊長彦を百済へ派遣する。
神功五十二年九月(372) 百済使久弖ら来朝し七枝刀など種々重宝を献上する。
神功六十二年(382)新羅が朝貢しないので葛城襲津彦を派遣して討たせる。
神功六十六年(266 台与)「是年、晋の武帝の泰初の二年なり。晋の起居の注に云はく、武帝の泰初の二年の十月に、倭の女王、訳を重ねて貢献せしむといふ」。
神功六十九年四月 皇太后崩ず。
神功六十九年十月 狭城盾列陵に葬る。


[12011] Re: 裴世清は子供の使い はやぶさ 投稿日:2017年 2月 8日(水)11時02分
この書き込みで内容を初めて知った口なのですが

なんか日本側の使者が裴世清に道を覚えられないように上手いこと隠してたんかなぁ、と感じた
わざわざ身の危険を冒して日本へ来ている人間が記録をさぼるとは考え難いような


[12010] 神功皇后の存在 神奈備 投稿日:2017年 2月 6日(月)21時02分
 神功皇后の存在については殆どの研究者は否定されているようです。
 高句麗好太王碑とか七支刀の受領から見て、この頃の朝鮮半島への進出は否定できないことですから、どの大王が進出したのでしょうか。倭王旨さんでしょうか、それとも香椎宮に鎮座している大帯比売かご主人の景行天皇でしょうか。

 岩波新書の『ヤマト王権』に、次のような文章が載っていました。


 七支刀の銘文で問題になるのは、後半の「為圏王旨造博示歴世」の解釈である。「倭王の旨」と読んで、四世紀に倭王である「旨」が存在したとする説もある。しかしながら、この箇所は「倭王の為に旨造し後世に伝示す」というように読む方がいいと思われる。「旨造」の読みが難しいが、村山正雄は「旨(美。うま)く造り」と読み、中国史研究者の宮崎市定は「旨(嘗。はじ)めて造り」とする(『謎の七支刀』)。いずれにせよ「旨造」の言葉であり、倭国王の名前にはならない。したがって、「倭王の旨」 の解釈は無理だろう。

 とあり、もっともだと感じています。このあたりのことはやっかいと言うか難しいですね。


[12008] Re: 裴世清は子供の使い かたばみ 投稿日:2017年 1月12日(木)20時06分
福島雅彦さんへのお返事です。

>かたばみさん、誤読があるようです。

解釈の問題のようですね。

AD600、倭王の姓は阿毎、字は多利思北孤、号は阿輩?彌。
倭王の姓名を明示。この段階では阿輩?彌(おそらくオホキミ)など音を聞き取っての、隋側による文字化とみえます。
ところが、都斯麻國、竹斯國など九州方面の地名は万葉仮名使いとみえます(文字で情報伝達)。
(魏志倭人伝の対馬には「シ」の音が含まれていない)
(北九州市は竹林の処理に困っている、竹斯國の語源でしょう)

冠位十二階は書紀では604制定、文字も隋側の記録とほぼ一致。
この時代は倭国と漢字利用と万葉仮名の変革期とみえます。

隋書帝紀煬帝四年(608)では「倭が貢ぎ物」、六年(610)にも「倭国が貢ぎ物」とあります。
で、「?」の文字ではなく「倭」を使っています。
異なる書記官が記録したものが後世に伝わったと思われますが、このあたり隋側にもいささか危なっかしいところがある。

書紀では
「大唐の客裴世清等を召さしめ、唐の客の爲に新しき館を難波の高麗の上に造らしむ・・客等、難波津に泊つ・・」
「小野妹子が百済を通る際に国書を奪われた」
「唐の客を海石榴市の衢に迎え・・」
「時に使主裴世清、親ら書を持ちて、兩度再拜みて使の旨を言し上げて立つ。その書に曰く・・」
「時に阿倍臣、庭に出でてその書を受けて進み行き、大伴囓連迎へ出でて書を承け、大門の机の上に置きて奏し・・」

ごちゃ混ぜ記事だとみています。
書紀には事象は書くが、時代と人物をすり替えて合成する作為少なからず。
これが私の書紀解釈の原則です。
どれもまるっきりの嘘ではないとみえるのがいやらしいところ(^^;

裴世清だけが九州に留まったとするなら、その理由は如何に。
隋と倭国、総合的な観点からの分析が必要だと思います。

余談
私の歴史観では、欽明(九州在)死して用明(九州在から近畿在)が継承、用明死して子の多利思比狐(近畿在)が継承。
その政治混乱期を書紀は推古と聖徳太子の偽装によってリカバーしている、が基本です。
蘇我氏が台頭する時代(蘇我氏は用明に随伴して近畿に入り、物部氏を滅ぼしたとみています)。



[12007] 『隋書』の解読 福島雅彦 投稿日:2017年 1月10日(火)23時03
>これは、或る講演会のレジメ転載です。

3.『隋書』の記述から…
1).「?(倭)國在百済新羅東南水陸三千里於大海之中」=列島のみとするのではナイ!
  *「前史の記述を踏襲、百済の東と新羅の南と水陸三千里の大海之中に在る」と。
 朝鮮半島の西海岸は百済領に旧・狗邪韓國の北限も南下、と。金海辺りに縮小化。
2).「其國境東西五月行南北三月行各至海」=裴世清は倭地に居て、列島の範囲の聴き取り調査を記録した、かと。朝鮮半島の南東の隅に縮小の倭地(伽耶)は無視、か。
3).「其地勢東高西下都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也」=裴世清は現地踏査して現認。
  *「魏志に所謂「邪馬臺」とは、(「臺」とは女王の宮殿の意かと)来て見たら、東が高く西に下がる地勢の「邪靡堆」(黒髪靡く堆い小山)だった」と合点している。
   「東高西下」とは一望できる範囲の表現=水縄連山(耳納山地)の山容・山態と筑後川の西流を指している。この地は伊都國の南千五百里に在る。
4).「明年上遣文林郎裴(世)清使於?國」=「明年(無礼な國書の翌年=大業四年)上(煬帝)は裴世清を遣わして?(倭)國に使いさせた」。その行程記述は…。
  「度百済行至竹島南望[身冉]羅國経都斯麻國迥在大海中又東至一支國又至竹斯國」とは、全てが海上航路ではナイ!
*「(黄海を横断して)百済に渡って(陸路)竹島に至り、南に[身冉]羅國(済州島)を望み(再出航して)「迥か」大海之中の都斯麻國を経て(寄港せずに)東して一支國に至り又竹斯國(博多湾)に至る」である。半島南西の難所の航行を避けた記述である。
5).裴世清は竹斯國から一歩も出ていナイ!
  「又東至秦王國其人同於華夏以為夷洲疑不能明也又経十餘國達於海岸自竹斯國以東皆附庸於?(倭)」
 *「(竹斯國に居て)又東すれば秦王國(京筑)に至れる、其の人は華夏(中華)に同じで夷洲と為すも疑わしく明らかにする能わざるなり。又(竹斯國の東に)十餘國経ると海岸(別府湾)に達する。竹斯國より東は皆(秦王國と十餘國は)倭に附庸する」=伝聞記述で、裴世清は行っていない。
※前項と「竹斯國」が二回登場するのは、最終目的地に居る事を意味している。
※「竹斯國」とは前史の国名の「末盧國、伊都國、奴國、不彌國、投馬國、邪馬臺(壹)國、(彌奴國)」を包括しているというか、それらが国情説明文言の一部であって国名ではなかった、と看破しての表記である。
※「秦王國」とは、「「華奴蘇奴國」=「漢ン(の)祖(秦)ン(の)國」=神崎郡が発展的に京筑地区へ展開。
※?(倭)國には、都斯麻國、一支國、竹斯國、秦王國、十餘國とあるが、倭王「阿毎多利思比孤」の國邑的存在で各国に王は居ないのである。あるのは官職名だけ。
6).「?(倭)王遣小徳阿?臺從数百人設儀仗鳴鼓角來迎…」とは…。
*「倭王は(博多湾に)小徳阿?臺を遣わし、数百人の儀仗を従えて鼓と角笛を鳴らして迎えさせた(大宰府に逗留)…」。小徳(阿?臺)とは倭王の官僚名か。
7).「後十日又遣大禮哥多[田比]從二百餘騎郊勞既至彼都」とは…。
 *「十日の後(待たせて)大禮哥多[田比]を遣わし二百騎を従えて郊勞、都に至った」
  =「(大宰府に)十日待たされて、倭王の都に着いた」=待たせた理由は…
  「稽留境内不即相見今故清道飾館以待大使」=「境内(大宰府)に待たせて即逢わなかったのは、道路を清め館を飾って大使を待つ故です」。
※大宰府から十日で道路が清められる処に「阿毎多利思比孤」の館は在る。それは、水縄連山(耳納山地)北麓の高良山である。大禮哥多[田比]とは倭王の官僚名か。
8).「倭王姓阿毎字多利思比孤号阿輩?彌」とは、固有名詞ではナイ!
*「天照大神」(13頁)の異字表記である。
・「阿毎=「天(あま・あめ)」」の意である。
・「多利思比孤」=「照彦=照日子」=“???”(ddal-ri-da)付く、属する、(『民衆書林・韓日辞典』)の語幹+「彦=日子」である。
・「阿毎多利思比孤」=「天(あま・あめ)出自(所属)の「彦=日子」」である。
*文字化けは「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」のハングル表記。



[12006] Re: 裴世清は子供の使い 福島雅彦 投稿日:2017年 1月10日(火)22時57分
かたばみさんへのお返事です。

かたばみさん、誤読があるようです。

> 「竹斯国に至り、また東に秦王国」、ここまでは既知の情報だと思います(倭国の使者による情報)。
> (背景にある倭国情勢については後ほど別項にて)
>
> しかし、その後がいけない。すなわち裴世清がもたらしたであろう情報。
> 「十余国を経て、海岸に達した」・・十余国の名も日数もなにも書かれていない。
> なんじゃこれは(^^;
> 裴世清は船に乗ってボケーっとしていただけじゃないのか(^^;

*裴世清は竹斯國からは一歩も外に出ていません。
竹斯國が二度登場するのは、最終目的地に居るからです。
「東へ行けば秦王國が在る。十餘國を経れば海岸(別府湾)に達する」と述べています。

> 倭王が役人(阿輩臺)に出迎えさせて歓迎してくれた。10日後にその都に至った。

*博多湾に小徳阿輩臺が迎えに来て迎賓館(大宰府あたり)に十日待たされた。大禮哥多[田比]が迎えに来て彼の都に至った。十日待たせたのは、道を清め(犬の糞など清掃)館を飾る為です、と言い訳している。
>
> 「海岸」から都までの様子も書かれていない。
> 河内から大和川を遡航したのか、堺あたりから金剛山地越え(竹内街道)で奈良へはいったのか。
> 斑鳩宮なのか、他の宮殿なのか。
> 魏志倭人伝に比肩する情報になったはずなのに・・

*↑の様な道中ではないから書かないのです。



[12005] Re: 中国正史 神奈備 投稿日:2017年 1月10日(火)09時34分3分
福島雅彦さんへのお返事です。

『魏志倭人伝』から。伊都国の近くに奴国と不弥国があり、そこの副官を卑奴母離と言うとあります。これは夷守(ひなもり)と考えるのは実に素直で自然ことだと思います。また伊都国はイトと読むのでしょう。
対馬、一大?一支(いき)にも卑奴母離がいます。遠い国の役職に夷守があるようで、女王の都は北九州をヒナと呼ぶような位置にあったものと考えています。
 倭人伝の漢字発音は呉音が混ざっているようですね。後漢時代には、呉音の人の多く長安あたりに居たのかもしれませんね。



[12004] 裴世清は子供の使い かたばみ 投稿日:2017年 1月 9日(月)16時10分
隋書(AD650頃成立)の記事のほとんどは裴世清の倭国来訪AD608以前の情報と考えています。
隋書によれば、倭国から隋への使者はAD600とAD607です。
新唐書(AD1060)に「用明以て曰く目多利思比狐が隋と通じる」とあります。
(書紀系譜で用明585-586、持論では欽明539-571を継承して571-586頃、短命ではない)
この記事が偽でない限り、隋書に書かれる使者の前にも倭国の使者が存在したとみえます。

隋書AD600で倭国の使者に倭国の風俗を尋ねています(衣服、賞罰など詳細です)。
AD607に再び倭国の使者(日出ずる處の天子うんぬん)。さらに詳細情報を得たでしょう。
そしてAD608に裴世清を倭国に送って国書を届けた。

「竹斯国に至り、また東に秦王国」、ここまでは既知の情報だと思います(倭国の使者による情報)。
(背景にある倭国情勢については後ほど別項にて)

しかし、その後がいけない。すなわち裴世清がもたらしたであろう情報。
「十余国を経て、海岸に達した」・・十余国の名も日数もなにも書かれていない。
なんじゃこれは(^^;
裴世清は船に乗ってボケーっとしていただけじゃないのか(^^;

倭王が役人(阿輩臺)に出迎えさせて歓迎してくれた。10日後にその都に至った。

「海岸」から都までの様子も書かれていない。
河内から大和川を遡航したのか、堺あたりから金剛山地越え(竹内街道)で奈良へはいったのか。
斑鳩宮なのか、他の宮殿なのか。
魏志倭人伝に比肩する情報になったはずなのに・・

後漢書すら読んではいないのではないかな。
隋がこれまでに知る情報と最新の倭国情報の突き合わせなど、むろんやっていないでしょう。
問える倭国の知識人はいくらでもいたはずです。

その王は(裴世)清と相まみえて尋ねた。儀礼的答えをして裴世清は館に帰る。
私の役目は終わったので帰国させてくれ。
倭王は宴を催し貢ぎ物を持って裴世清に同行させた。その後(通交は)絶えた。
なんじゃこれは(^^;

我が身(裴世清)に関わることしか書いてない。
国書を届けよと命じられたことだけしか頭になかったのだと思っています。
裴世清はできの悪い小間使いにすぎない。

倭国をその程度で十分とみなしていた、でもあるのでしょう。
帰国した裴世清からはなんの情報も得られず、なにやってんだアホボケ(^^; だったと思うです。
10年後に隋は滅亡する。



[12003] Re: 中国正史 かたばみ 投稿日:2017年 1月 9日(月)16時03分
福島雅彦さんへのお返事です。

>倭人が何の意味を何と発音したら、あの文字撰びをするか、です

中国人が聞き取った「倭語」を文字に変換して記録するのは中国人。
中国人の発音には「方言がある(文字の意味は共通だが、黄河の人が長江の人と話をしても通じない)。
どういう方言(発音)による変換で書かれた文字か、を知らねば「倭語での原音」も推測できません。

魏の方言(魏音)にいたってはなにもわかっていない。
漢字からの倭語の(発音)推定は不確実要素が大きすぎて危ないとみています。
福島さんもおそらく同様で、それがおっしゃる「読んではならない」だと思います。



[12002] 中国正史 福島雅彦 投稿日:2017年 1月 5日(木)22時08分
先ず、読んでは駄目です。「倭語」音写の部分は…。

倭人が何の意味を何と発音したら、あの文字撰びをするか、です。

近似音ですから、正確な原音は却って邪魔になる、です。

「紐育」の漢字音を正確に発音しても“NEWYORK”のネイティブの再現にはなりません。

『隋書』は前史の記述を踏襲しなかった事が評価されるべきです。

『後漢書』も『三国志(魏志倭人伝)』も現地を知らずに記述しています。

『隋書』は裴世清が現地踏査して「古の魏志に謂う所の「邪馬臺」(國の文字を外して)とは、来て観たら「邪靡堆」だった」と。
百聞は一見に如かず、です。国名ではなかった、と看破しています。


[12002] Re: 年賀状です かたばみ 投稿日:2017年 1月 5日(木)20時36分
なさん、新年あけましておめでとうございます。

神奈備さんへのお返事です。

>邪馬台国と言う四文字はどう聞いてこのように書かれたかのかが気にかかります

隋書の倭国伝はWEBでは以下
http://grnba.com/iiyama/html/zuisho-wakokuden.htm
ただし、隋書原文では?国とあるのを上記WEBでは倭国と書き換えています(これをやってはならない)。

古事記や風土記だと電子書籍でよいのがある(検索ができるので時間の節約になって猛烈にありがたい)。
書紀では原文と対訳のよいのがないなあ。


隋書は、魏志倭人伝や後漢書などによる既知の「倭国」とは違う倭国であることを知って「?国」と書いたのだとみています。
ただし、後漢書の「倭奴国」まで?奴国と書き換えています。
これはいけません、後漢書の倭奴国とは時代が600年も違うのだし。

隋書の邪馬堆も同様で、後漢書などの邪馬臺を邪馬堆に書き換えたものと考えています。
やってはならないことをやっている(^^;


言語は苦手、教えていただきたいのは辞書によくある漢音と呉音とはなにか、です。
中国の中古音の発音には漢音と呉音があり唐音はその中間的であり方言の一種と理解しています。
同じ文字で発音が同じになったりならなかったり。

いつの時代のどこの国ではどのような発音であったのか、発音をベースに考えるのであれば非常に重要と思います。
魏呉蜀の三国時代、遠方の未知の国の国名を文字化するとき、敵対国の発音で文字化(記録)するはずはありません。
魏志倭人伝なら(魏の人物の情報収集)なら、魏の発音をベースにして文字化(記録)するはずです。
では、魏の発音とはいかなるものか。

呉音は長江付近、漢音は黄河付近とみなすなら、少なくとも魏志倭人伝を呉音で読んではならない、だと思います。
手持ちの辞書に従うなら、倭人伝の邪馬をヤマと読むのは呉音です。
漢音なら邪馬臺はシャバタイ、邪馬壹ならシャバイツ、それに近い発音への当て字となります。
(卑弥呼も同様でヒミコではない、ヒビコ。日・日子であり「彦」の原型で官職名とみる)
いったん文字化されて記録されたら、その文字が改変されることはまずない、やってはならないはずです。
(隋書はそれをやっている)

邪馬臺国あるいは邪馬壹国を「魏音」で発音したらどうなるのか。
この論をみたことがありません。おそらく魏音が伝わっていないために推測にしかならないからだと思ってます。
発音はその場限りで消える、表意文字の弱点かな(文字なら通じるけれど発音では通じない)。

中国史書での「発音を文字化した記録」には不確実要素が大きく、これをベースにするのは危険だと考えています。
ゆえに私にとっては重要度が低い(^^;


さて、万葉集。表意文字と表音文字の複合要素をもつ貴重な文献と思います。
0001 山跡乃國 雄略時代とされるが?
3248 山跡之土丹 年代不明
3236 倭國 年代不明
3326 日本國 年代不明
3608s 夜麻等思麻見由/柿本人麻呂
やまと島みゆ、AD736の遣新羅使関連の歌だそうです。
この「やまと」は北九州ないし列島全体を意味すると思われます。少なくとも奈良盆地ではないでしょう。

すなわち「やまと」が奈良地域を示すようになるのはうんと新しい、少なくとも万葉以降。
裴世清より100年以上新しい、魏志倭人伝(の記録)より1000年近く新しい。
魏志倭人伝の邪馬壹国の発音を「奈良」に繋ぐのは無理である、そう考えています。



[12001] Re: 年賀状です 神奈備 投稿日:2017年 1月 5日(木)11時46分
福島雅彦さんへのお返事です。

> 神奈備さんへのお返事です。
>

 ありがとyございます。
 言語については、全くの素人ですので、下記のサイトなどを参考にしています。

http://www.k3.dion.ne.jp/~kodaira/xyz1106a.htm
大和と邪摩堆と邪馬台国


 魏の発音は中古音のようです。この音でも。お説は成り立つと思います。

 畿内の大和地名は、この音が九州から持ち込まれたものでないとすると、邪馬台と大和の音の一致は、50音三つの一致ですから 1/50**3 となり、あまりにも小さい。



[12000] Re: 年賀状です 神琉球松 投稿日:2017年 1月 4日(水)12時07分
 明けましておめでとうございます。

 今年も南島からこの掲示板を応援してますよ。

画像は、正月に琉球国王が北方を拝む儀式の再現イベント(首里城内にて)



[12000] Re: 年賀状ですりの矢 福島雅彦 投稿日:2017年 1月 3日(火)22時50分
神奈備さんへのお返事です。

>  古代史の謎ですが、
>
>  邪馬台国と言う四文字はどう聞いてこのように書かれたかのかが気にかかります。
>
>  また、卑弥呼の発音も、気にかかります。

愚説は以下の通りです。

≪「邪馬臺國」とは、古今東西の叡智の塊のような先哲が探究してもその所在が確定していません。
本居宣長、新井白石らから約三百年・白鳥庫吉VS内藤虎次郎から約百年論争が続いています。
これは「邪馬臺國」の本質が解っていないからである。(福島雅彦の結論)
「邪馬臺國」=「邪馬壹國」=「邪靡堆」が既に解答を与えている、と。
*「邪馬臺國」とは、「卑彌呼」の居所説明文言の一部を国名と勘違いしている。
・倭人の使者に「卑彌呼」は何処に坐すか、と問う。
 答えて曰く「天(あま・あめ)たィ!」と「高天原」の意で述べた。「…たィ」は強調の語尾。
 九州弁は「蟻」を「やり・ィあり」と訛る。「天(あま・あめ)」は「邪馬」と聴き取られる。
*「邪馬壹國」とは、後世の倭人の使者に「今でも「卑彌呼」は邪馬臺國に坐すか」と問う。
・倭人の使者は「邪馬臺國」が解らない。その様な国名の地は存在しないから…。
・「卑彌呼」の居所を問われたのは判ったので答えて「天(あま・あめ)ン(の)うヰ(上)」と、一本指を立てて上方を指した。
・「上(うヰ)“wi”」は一本指から「壹」“yi”の訛りと採られた」。中国側の書記官が前史が臺と壹を書き間違った、と判断した、かと。
*「邪靡堆」とは、現地踏査した裴世清が「邪馬臺國」の実態を観ての文字撰びである。
・曰く「古の「邪馬臺」(國の文字を外して)とは来て観たら、国名ではなく(髪が)靡く様な堆(うずたか)いだけの小山だった」と
・「伊都國」の南千五百里に在る「水縄連山(耳納山地)」のことである。
・此の山は東西≒25kmの一重の単山。
・山頂はノコギリノ歯状(高千穂)を呈し、山腹は下り尾根と谷沢に刻まれ櫛で梳いた様(櫛触る嶽)を呈している。
*「筑紫の日向の襲の高千穂の櫛触る嶽」そのものである。
・「筑紫の日向の」=この山の東端に地名「日向」が現存。「〇〇日向」は十三か所。
・「襲の」=“?”(seo)西の。
・「高千穂の」=“??-”千穂=千の穂(山頂)が寄って集(たか)って。
・「櫛触る嶽」=山腹の下り尾根と谷沢の様。“?”(hul)=扱(しご)く=梳る。

∴「卑彌呼」の居所=「高天原」=「天(あま・あめ)」と答えた「倭語」の音写である≫

以上が、愚説の骨子のダイジェスト版です。
・「邪馬臺國」は此処だ!と、国名として述べたら全て間違いである。
・*文字化けは「古代倭語(方言と朝鮮語に片鱗を留める)」のハングル表記。

≪「卑彌呼」≫は
3).「卑彌呼」は固有名詞(個人名)ではナイ!
*“?”(him)尊(みこと)=最高位の尊の意の職掌名。(天照大神も同義=後述)何人も何代も襲名出来る。「尊(みこと)」とは稲作を仕切る「水事(みこと)・米事(みこと)」であろう。
 @「ひン投げる」=(相撲などで圧倒的力量差で相手を)投げ飛ばす、事。
 A「ひ(ン)の叫(おら)び」=この上もない大音声で叫ぶ、こと。
 B「ひンだれた」=この上もなく疲労困憊した。以上は九州弁の“?”(him)。
・朝鮮語の“?”(him)=「力(ちから、りき)、筋肉の働き、体力、物理上の力、働き、力量、能力、知るか覚ることのできる才能、勢力や権力、精力、元気、etc」『民衆書林・韓日辞典』、とたった一音節の語彙にこれだけの意味がある。「倭語」借用だからか、と。

以上は、或る講演会でのレジメの転載です。
全て、言語・語源からのアプローチです。独創説です。



[11999] Re: 年賀状です 神奈備 投稿日:2017年 1月 3日(火)17時40分
福島雅彦さん、皆さん。

 あけましておめでとうございます。

 皆様のご投稿のおかげで、この掲示板も18年目を迎えました。ありがとうございます。


 古代史の謎ですが、

 邪馬台国と言う四文字はどう聞いてこのように書かれたかのかが気にかかります。

 また、卑弥呼の発音も、木にかかります。



[11998] 年賀状です 福島雅彦 投稿日:2017年 1月 1日(日)00時05分
此処に集われる方々へ
≪恭賀新年≫ 年頭に当たり皆々様のご健康とご清祥をお祈り申し上げます。
        昨年は色々と学ばせて頂きました。
今年もよろしくお願いいたします。

【所謂「邪馬臺國」とは、国名ではなく卑弥呼の居所説明文言の一部である、と看破して二十年。その間、久留米大学経済学部教授に見いだされ「久留米学」のゼミで十二年連続、公開講座にも八回講義。九州国立博物館開館四周年記念シンポ「邪馬台国はここにあった」でも登壇と活動を重ねるも未だ世に容れられるに至らず長嘆息。「邪馬臺國」とは来て観たら「邪靡堆」だった、と裴世清が『隋書』でその誤謬を正しているが誰も気付かない。コペルニクスの地動説は世に容れられるのに約百五十年を要したとか。情報伝達速度は当時と比ぶべくもない程の速さであるから、自説もソロソロかと今年あたり期待しています。】
平成29年丁酉元旦 福島雅彦



[11997] Re:丹塗りの矢 神奈備 投稿日:2016年12月31日(土)10時3分
かたばみさんへのお返事です。

 皆さん、今年も色々教えていただき、また触発をいただき、ありがとうございました。

 丹塗矢は、妊娠・誕生へ繋がる説話となっていますので、日光を物体的に表現したものではないでしょうか。
 こう考えますと、百襲姫の場合には、朝の出来事で、日光を思わせるのですが、姫を死に至らしめているので、日光ではなく、やはり箸と考え、大物主と百襲姫をつなぐ絆が切れたことの象徴のような気がします。

 皆さん、よいお年をお迎えください。


[11998] 丹塗りの矢 かたばみ 投稿日:2016年12月30日(金)01時39分
山城国風土記逸文にある玉依日賣と「丹塗り矢」伝承(賀茂建角身命−玉依姫命−賀茂別雷命)。
古事記では三輪山の大物主と丹塗り矢。
古事記の神武天皇(比売多多良伊須気余理比売)でも丹塗り矢。
箸墓の「倭迹々日百襲姫」のホトを箸で突いて、はいささか不自然に過ぎる(^^;
これも大物主とのからみでの丹塗り矢の変形じゃないかな。

丹塗り矢の説話は北九州の婚姻儀礼を始発とするのではないか。
海人系譜(南西諸島系−豊玉姫−玉依姫−安曇海人)や味耜高彦根の子孫などによって畿内に運ばれ、その痕跡が丹塗り矢説話ではないかと思っています。

東京では破魔矢に白と赤があります。どっちにするか悩むところ。
来年もまたよろしくお願いいたします。



[11996] 麦の害鳥になる鴨 神奈備 投稿日:2016年12月29日(木)21時22分
渡り鳥のカモは マガモ、カルガモ、コガモ
定着のカモは ヒドリガモ

渡り鳥のカモは湿地を好むようですが、ヒドリガモは乾燥地を好むようで、植物の種子や麦の若奈を好むようです。

アジガモ現在ではは巴鴨と言い、マガモに属します。麦の害鳥にはならないようです。

このカモの名を持つのが阿遅鋤高日子根命で迦毛の大御神と称されています。


[11995] ヤブ ヤボ 神奈備 投稿日:2016年12月28日(水)14時44分
宮本常一 日本文化の生成 下 文庫
 焼畑nことを静岡・奈良・九州の山地では、ヤブ ヤボ と言う。


[11994] Re:銅鐸分布と年代の一考 かたばみ 投稿日:2016年12月26日(月)15時28分
神奈備さんへのお返事です。

>この阿遅志貴高日子根命が国譲りに同意したとは書かれていないのは不思議な事です

古事記の八俣の大蛇の段の系譜では
速?佐之男命+櫛名田比売の子が八嶋士奴美神、以下妃は略して
布波能母遅久奴?奴神、深渕之水夜礼花神、淤美豆奴神、天之冬衣神、大国主神
(ここで古事記がやらかしてくる(^^; )
大国主神、またの名は大穴牟遅神と謂ひ、またの名は葦原色許男神と謂ひ、またの名は八千矛神と謂ひ、またの名は宇都志国玉神と謂ひ、併せて五つの名有り。

しかし、大穴牟遅は「同じ古事記」で速?佐之男の娘の?勢理?売に婿入りしています。
これだけでも「古事記の別名」が信用できないのは明らか。
葦原色許男は播磨風土記で天日槍と戦っており、天日矛は崇神紀で亡命者として書かれています。
古事記の系譜を偽とみるなら話は別ですが、それでは古事記全体が信用できなくなる。
大国主とは出雲の領主を意味して個人名ではないという論がありますが、系譜の書き方から見て無理でしょう。

書紀と古事記の書く事象が一致するものがいくつかあります。
古事記の少彦名が帰郷した後に現れる「是の時に海を光らし依り来る神有り」
「吾は倭の青垣の東の山の上にいつき奉れ」とのりたまひき。此は御諸の山の上に坐す神なり。
書紀にあって古事記にないのが「こは大三輪神なり、この神の子はすなわち甘茂君・大三輪君等・・」

もうひとつが素盞鳴が出雲の簸の川上に降りてオロチ退治の項での書紀1書の記述。
稻田姫を見そめなはして子を生む。清之湯山主三名狹漏彦八嶋篠、あるいは清之名坂輕彦八嶋手命
この五世孫が大国主神なり。
素盞鳴と大国主の関係が古事記の系譜と一致します。
書紀に大国主の名がでてくるのはここだけ。
大己貴で国譲りですから大己貴時代以降は書けないはずですが、口が滑ったのでしょう(^^;

もうひとつが、天之忍穂耳と天之稚彦と味耜高彦根の説話の部分、略。

古事記の書く大国主だという事象の多くは大穴牟遅あるいは大己貴とすれば混乱はなくなる。
ただし、(真の)国譲りがいつの誰なのかが問題。


ちょいと余談
出雲国風土記の仁多郡三津郷にて
「大神大穴持命御子阿遅?伎日子命、御須髪八握于生晝夜哭之辞不通」
御須髪(みひげ)八握に生ふるまで、昼夜哭き坐して、辞通はざりき

「辞通はざりき」、現代語訳では言葉を話せなかったと解するようです。
(声を発せなかったではないでしょう、泣いているのですから)
辞が通じなかった、とは、言葉の意味が通じなかった、だと思います。
ヒゲが伸びる年齢まで理解できない言語を使っていたということ、すなわち外国語(^^;
その後の話は灌漑と水田開発に尾ひれ付きといったところか。

出雲国風土記での「大穴持命」のほとんどは大穴牟遅または大己貴を示す。
山陰における本来の大穴持伝承は縄文系譜の先住者イメージだと考えています。
サヒメ伝承では大穴持神を避けて種まきする、大穴持神には農耕文化を持つイメージがない。

大穴持の文字を表意とみるならば、洞窟に住む人物でしょう。
縄文の洞窟追跡は多数あります。WEBの「日本における洞穴遺跡の研究」PDF参照。
弥生時代に入っても洞窟が使われた痕跡があるようで、これを以て「大穴持」の登場じゃないか。

出雲国風土記での大穴持命の説話の多くは北九州から転送された大己貴の説話で、文字に大穴持が仮借されたと考えています。
(造天下大神だけで神名を書かない場合も多数あって要注意、誘導目的ありとみる)
(播磨国風土記には大汝命と小比古尼命の奇妙な説話がありますが、播磨あたりでは大汝と聞き取ったのでしょう)


それぞれの年代の特定(起点は素盞鳴とはなにか、天孫降臨とはなにか)。
書紀の書く国譲りの意味(できるだけ早い年代で出雲の存在を抹消する)。
考古学での事象(遺跡年代、北九州での大量の戦死者、銅剣や鏡、銅鐸、などなど)。
これらを複合させて試行錯誤した結果がmyHPの弥生〜古墳初期 出雲と天孫シミュレートです。

味耜高彦根は大己貴時代の人物、BC150頃。
九州における出雲と天孫の抗争時代(大量の戦死者遺骨)であって、書紀の書く大己貴時代での国譲りは偽。
当然ながら書紀に建御名方は登場しない。

事代主は登場する、事代主は個人名ではなく祭祀者を意味するからだとみています。
(皇室の八神殿に事代主神が祀られますね)
ひょっとすると、ですけれど味耜高彦根も祭祀者(事代主)であった可能性をみるところ。
(辞通はざりき、の後に「良い場所」に至る伝承です)

建御名方は大国主時代の人物、AD30頃。
古事記の書く大国主の国譲りは正しい(子の建御名方が登場)。
ただし、神武に九州を譲るであって、神武朝(委奴国≒倭国)が成立する時代。

味耜高彦根は「国譲り」とは無関係、ということになります。




[11993] Re:銅鐸分布と年代の一考 神奈備 投稿日:2016年12月22日(木)16時33分
かたばみさんへのお返事です。

 国譲り神話に出てくる大國主の御子は事代主命と建御名方命とで、二柱の御子神は国譲りに同意しています。
 『古事記』では、伊邪那岐大御神、天照大御神と並んで、迦毛大御神と呼ばれる大御神の三柱の一です。また後世になりますが、出雲国造の『神賀詞』に登場する大穴持命とその男子神としては事代主命と共に阿遅須伎高孫根の命です。
 この阿遅志貴高日子根命が国譲りに同意したとは書かれていないのは不思議な事です。

 天津甕星として征服されていれば、国譲りのお話に出てこなくても不自然ではありません。

 天津甕星を倭文神(織物の神)の建葉槌が退治するのも不思議ですが、建甕槌が織物の神を兼ねていても不自然ではなさそうですね。

 金星が太陽を横切るのが見えたとしても、その黒点のような物が金星であると認識できたのかどうか、いささか疑問を感じます。それよりも、夜が明ける前に東の空に明るく輝き、太陽が沈んだ後にも西空に鋭く輝く姿に太陽と並ぼうとする星を目ざわりとしたのかなと考えています。

 迦毛大御神と称されるのは太陽に並ぶその姿にか、米を収穫した後の寒くなりかかる頃に麦が撒かれますが、そのころに渡って来る鴨が麦の守り神とされたのかもと想像しています。



[11992] Re;銅鐸分布と年代の一考 かたばみ 投稿日:2016年12月13日(火)19時53分
>(物部系は田畑と農産物にタッチしない)

「物部海運商社」が扱うのは手工業品。加えて金属資源など。武器も含みます。
先代舊事本紀の天火明の随伴者に「笠縫」なんてのもあります。
若狭の籠神社の籠、手工業品。

すでに消えているであろう「サンカ」。
飛鳥奈良時代の物部支配下の手工業品生産の人々が祖だと考えています。
物部氏の消滅で支配者を失い、新たな支配者には属さなかった人々。
農地は持たない、だが農民のすぐ近くにいた。蓑や笠など農耕用品を作っていたから。

虚偽を含むらしいけど三角寛氏のサンカの研究で「私たちの祖先は神武さんより古い」といった話が事実なら、そのあたりからきていると思っています。


[11991] 銅鐸分布と年代の一考 かたばみ 投稿日:2016年12月13日(火)17時23分
>神奈備さんへのお返事です。

神奈備さんの「迦毛の大御神と下照比賣考」を拝読。
私の場合はマーカーを素戔鳴渡来と天之忍穂耳渡来の年代特定を基準にしていますが、似た結果になるところ少なからずですね。

カモの語源は?ですが、カモとカモ・メで同じという論があるようです。
スズ・メやツバ・メという用法らしい。
九州の鴨の渡りが伽耶経由なら出雲とつながりそうですが、カモ・メなれば海人ともつながる。

奈良盆地の南に、紀ノ川方面から北へ高鴨神社、葛木御歳神社、鴨都波神社と並ぶ。
なんとなく時代の流れに沿って北上しているようにみえます。
高鴨神社がまずありき、迦毛之大御神は大いなる祖先といったところか。

葛木御歳神社では大歳神と高照姫命。海人から離れて農耕へ。
高照姫命は下照比売命と同義で味耜高彦根の流れの痕跡か。
淡路島で大歳神を祀る社が多いのと関係あるんじゃなかろうか。

鴨都波神社は事代主命と下照比売命。
ここでは漁労の痕跡が残る。
これも淡路島で事代主命が多いのとつながるのではないか。

鴨都波遺跡は弥生中期の高床建物と竪穴住居。和歌山の紀伊型甕(弥生中期、突帯文土器)が出土しています。
もっと北東の榛原の四分遺跡では紀伊型甕と大和型甕の折衷型が出土しています。
奈良の開拓は紀ノ川遡上から始まって、伊勢湾の津とつながる(まずは海人の弥生街道で)。
海人の仲人で尾張の天火明系の天甕津媛さんと赤衾さんが結婚・・

奈良湖の干拓開始(^^; myHPの書庫2 参考図と仮説に奈良湖推定図をアップしてあります(弥生街道を修正)。
干拓地に唐古・鍵遺跡などが登場。
後に廣瀬大社の砂かけ祭、祭神に櫛玉命がありますが、櫛玉命は物部に非ず、天火明だとみます。
(物部系は田畑と農産物にタッチしない)


出雲国風土記に佐太大神の母は支佐加比賣命キサガイヒメとあります(大己貴を治療かな)。
支佐加比賣命は神魂尊の子とされ、出雲国風土記には神魂尊の子が他にも登場しています(名のみ)。
神魂尊(神皇産霊尊カミムスビ)は東シナ海系の(高度な)文化を意味する神と考えています。
少彦名も神魂尊の手からこぼれ落ちた子、薬と酒の神様。
東シナ海系の海人の活動が活発になる年代と考えています(弥生が発達する頃の渡来と交易、BC300頃〜か)。
(高魂尊、高木神、は高皇産霊尊タカミムスビは内陸系文化を示すと考えています)

このあたりの伝承はウエツフミ(上紀)にいろいろあります。
解読 上紀
http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumi/
おそらくは海人系譜に伝わった資料がベース。
ただし、上紀は書紀の記述に準じて資料を再配列しているだけで、年代観はゼロどころかマイナス(^^;
無理な配列や挿入によって「疑わしい書」になってしまった。
しかし、「なにがあったか」の事象としての資料価値は高いとみています。

書紀にて少彦名が帰郷した後に、大己貴の眼前に幸魂奇魂がおぼろに現れて大和の三諸山(三輪山)に住みたい、という。
幸魂奇魂とはカノープス星だとみています。
大己貴が今後をどうしようかと自問自答した答えが「三輪山に住む=近畿方面を開拓する」だと考えています。
書紀編纂者が「本当の出雲」を臭わせているわけです。

その流れにあるのが味耜高彦根とその子孫、神魂尊系の親父譲りの長江系の文化を持つ。
最新の水稲や灌漑技術、おそらくは絹も(ただし奈良から弥生絹はでていない)。
祭祀は不明なれどやはり呉越楚など長江系だと思います。
神武朝AD36〜AD100頃では楽浪郡経由の文化に変化かもしれない。

甕棺葬もあったはずですが、海人としてはでっかい甕は運びにくい、あるいは寄港地にでかい焼き釜が必要。
九州以東では使われなかった(今後特例的に出る可能性はあり)。

出雲系文化は八島士奴美系(後に大国主)で、素戔鳴から4世代目が赤衾伊農意保須美比古佐和気能命。
山東半島の畑作文化をメインとし、祭祀も山東半島の斉の瑯邪八主だと考えています。
この文化圏のマーカーのひとつが銅鐸(紀元前後頃以降)、もうひとつが方形周溝墓だと考えていますが、まだ調査中。


さて、天甕津媛、天津甕星、甕ミカ(カメ)と壺の違いってなーに(^^;
口が広くてでっかいのが甕だと思ってますけど・・
辞書ではミカは酒造りの大きなカメともあります、御食ミケに同義ともあります。

津の用法には「なになに・の」の用法と、そのまま「港」を意味する場合あり。
天甕津媛は、天孫系の造り酒屋の普通の港の娘。
天津甕星は天空・の・大きな星(明るい星)、金星だろうと思います。

天御梶日女、天孫系で、御は尊称、梶はそのままカジノキでいいんじゃないかな。
梶は神聖な木、製紙用の繊維を採る木、諏訪大社の神紋。
こちらは北九州か、ちと高貴で味耜高彦根の妻となった。
天甕津媛と天御梶日女はまったくの別人。

星神(香香背男命)を祀る社はけっこうありますね(祭CDによる)。
岡山にも多いので海人御用達じゃないかと思います。岐阜にもあるけど愛知県境(加茂郡)でこれも海人か。
(富山との県境近くの山中にもあるけど、伊弉諾伊弉冉尊と菊理毘賣、彌都波能賣神があって相当に古い可能性あり)
書紀で星神が悪役扱いされたために消えた社が他にたくさんあるんじゃないかな。
(ウエツフミにも星神が少なからず登場)


[11990] 銅鐸分布と年代の一考 神奈備 投稿日:2016年12月11日(日)16時00分
かたばみさんへのお返事です。

ありがとうございます。

 天甕津媛命は『出雲国風土記』楯縫郡の条に、『阿遅須枳高日子命の后の天御梶日女命が、多久の村までおいでになっり、多伎都比古命を産み給うた。』という記事があり、この天御梶日女命も天甕津媛命のことと考えています。だからと言って后が同じなら夫も同じとすることはできないでしょう。多夫多妻の時代でしょうから。この后は出雲国内で二人の夫を持っており、美濃や尾張によく現れたものと感心しています。

 この天甕津媛命と天津甕星がよく似た名前で、赤衾さん、阿遅須枳さん、天津甕星さんの関連が何かあるのかなと気にかかります。また、尾張国には星神社が数社鎮座しているのも、面白いことです。


[11989] Re: 味耜高彦根 かたばみ 投稿日:2016年11月22日(火)23時32分
画像を忘れました。
鴨の渡りのコース(無断転載ご容赦(^^; )
伽耶を経由していますね、ただし長崎県の鴨の場合は。




[11988] 味耜高彦根 かたばみ 投稿日:2016年12月11日(日)11時52分
味耜高彦根は大己貴の子。古事記の系譜では大国主の子にはなりえない。
味耜高彦根の妃は天御梶日女でいいんじゃないかなあ。
母は宗像三女神の多岐都比賣とされますが・・

宗像の海人は弥生初期では普通の漁労者でしょう。安曇といっしょに半島経由の避難民の救出にあたったと思います。
その初期開拓者と縄文の結合で遠賀川に「弥生」が登場BC500以降(持論でアマテラスグループ)、遠賀川土器。
古墳時代に入って沖ノ島に祭祀遺跡が登場する。
そういう流れから書紀は「天照大神から宗像三女神誕生」を創作したのだと考えています。

勘注系図では神屋多底姫=多岐津姫としていますが、妥当と思います。
神屋楯比賣は宗像の女性(巫女?)なのでしょう。
大己貴と神屋楯比賣の子が味耜高彦根。

大己貴の女性には因幡の八上比売もいる・・須勢理姫の嫉妬(^^;
因幡の白兎の治療、島根のキサガイヒメの治療、少彦名(大己貴)に通じます。
(佐太神社の佐太大神の母がキサガイヒメ/松江市の加賀神社)
このあたり、大穴牟遅や大己貴などが大国主の別名であるなんてことで混乱の極みとなる。

素戔鳴(BC190頃渡来)から10〜20年後あたりで味耜高彦根が誕生といったところか。
味耜高彦根には素戔鳴系譜の血はまったく流れていないということです。
東シナ海系海人の父と宗像海人の母の子。
成年になるのはBC150あたり。やっぱり海人で安曇海人と行動を共にしたと思います。
その年代は天之忍穂耳渡来BC150頃と一致します、すなわち天之稚彦説話。

赤衾伊農意保須美比古佐和気能命と天甕津媛は2世代50年ほど後になります。
味耜高彦根系譜が近畿にやってくるとすれば、安曇海人と共に出雲系譜を輸送するとき、本格的な開墾が始まるとき。
子か孫の時代だと思います(すなわち赤衾神と同時代、BC80頃)。

妃とされる天御梶日女は何者か。
天を冠することに注目して天之稚彦の縁者の可能性が高いとみておきます。


カモ氏の祖はいろいろの論がありますが、本質は「鴨」であって味耜高彦根に収束するだろうと考えています。
奈良の高鴨神社の迦毛之大御神ですね。
大己貴(東シナ海系海人≒長江系の稲と鳥)、最新の灌漑技術。瀬戸内展開から畿内へはいった。
奈良湖の干拓開始(^^; 廣瀬大社・・稲、櫛玉命→天火明(物部に非ず)、なんかつながってくる。
ここでも各地の出雲伝承が出雲国風土記に転送されているとみて要注意(書紀では天火明系譜のあいまい化)。

大阪府高槻市の安満遺跡アマから近畿最古とされる水田痕跡が発見されています(弥生初期、おそらく持論の初期開拓者)。
この水田は洪水とみられる砂礫におおわれていて人が歩いた足跡が残ってるそうです。
(遠賀川流域も同時代に洪水で壊滅したとみています)
現在調査中のようですが長期間継続する遺跡なので時代による変化が見えてくる期待があります(マーカーになりうる)。


[11987] 銅鐸分布と年代の一考 かたばみ 投稿日:2016年12月10日(土)00時05分
神奈備さんへのお返事です。

>阿豆良神社は誉津別命を創建の由緒としていますが

阿豆良神社の天甕津媛、興味深いですね。なんでここに・・

祭CDによると
「今迄誰も祀ってくれないが祠を立て神に祭るなら、皇子の唖は立ち所に治り」
阿豆良神社の祀る天甕津媛命は出雲国風土記では赤衾伊農意保須美比古佐和気能命(「赤衾神」と略します)の妃とされますね。
出雲の瀬戸内から近畿方面開拓の(本格化の)人物は「赤衾神」だと考えています。

天甕津媛はその状況証拠のひとつです。
赤衾神は素戔鳴から4世代目(櫛名田姫命−八島士奴美の系譜)。
素戔鳴渡来BC150頃とすれば、おおよそBC80前後となります。

池上曽根の発達年代がAD50あたりであること(旧年輪年代のBC50は誤り)。
朝日遺跡の弥生初期〜中期〜後期での変化のありよう。
総合して天甕津媛は天火明系譜の尾張の女性ではないか。
(政略結婚に近いかもしれないけれど)

北九州では「アマテラスグループ」と素戔鳴系譜、そこへ天之忍穂耳系譜が参入して抗争が激化。大量の戦死者遺骨が出る時代。
それでも、和平を求める動きがあったと考えています、政略結婚。
神名の「天」に注目しています。
赤衾神の母は天之都度閇泥、「天」を関しています(大国主の父も天之冬衣で天を冠する)。
この「天」は天之忍穂耳の系譜であることを臭わしている、と考えています。
(myHPの「弥生〜古墳初期 出雲と天孫シミュレート」参照)

九州以東では土地はたくさんあってまだ平穏、開拓に猫の手もほしい時代。
生めよ増やせよ・・そこで登場するのが安産と子育ての神。
赤衾神より妃の天甕津媛命のほうが旦那様より有名となって伝承が残った・・
(出雲国風土記は各地の出雲伝承を島根に転送して記述しているとみています)

天甕津媛は天火明系譜の尾張のお姫様の可能性あり。
天火明系譜なれば、垂仁に「私を祀りなさい」の伝承となるのも妥当、と考えています。


[11986] 銅鐸分布と年代の一考 神奈備 投稿日:2016年12月 8日(木)20時26分
かたばみさんへのお返事です。

 ありがとうございます。

 出雲の影響ですが、次のような考えはいかがでしょうか。

 阿豆良神社は誉津別命を創建の由緒としていますが、阿遅須枳高日子命の由緒を借りたのではないかと思っています。この女神が祀られていることは、出雲の影響かなと考えてることができます。




[11985] 銅鐸分布と年代の一考 かたばみ 投稿日:2016年12月 8日(木)00時40分
神奈備さんへのお返事です。

>尾張地方に火明命系の海人族がいたのはいつの時代とおかんがえでしょうか。
>中期以降で出雲系になっていますが、何が決めてなんでしょうか。

確実な物証はない時代ですから、考古学的な出土物と記紀や先代舊事本紀の記述などからの「シミュレート」にならざるを得ないです。
天火明については先代舊事本紀の他には、ないといってもいいですね。
天火明の年代は天之忍穂耳の子とされますから、天之忍穂耳渡来BC150頃から1世代あたりで、BC130頃と考えています。
すべからく真偽の問題がからみますが、持論では「何があったか」についてはその源となる事象が存在した、をベースにしています。

出雲系譜が尾張までやってくるには少し時間がかかる。
瀬戸内開拓と奈良開拓が一段落してからだとみています。
銅鐸形式の分布から紀元前後から接触、AD100頃には天火明系譜は出雲文化圏に吸収されたと考えています。
朝日遺跡の大環壕はおそらくは、中国地方で倭国の侵攻が始まる頃、すなわちAD150頃とみています。

天火明(饒速日ではない)、神社としては、尾張一宮の真清田神社くらいかなあ。
国常立尊なども登場で曰く因縁がたっぷりありそうです。
尾張二宮は大縣神社、大縣大神という不明の神様を祀る。
これもなにかありそう、ひょっとすると山がご神体、奈良の大神神社に連なるものがあるか。
熱田神宮は尾張の三宮ですね。縁起は明確ですがこちらは古墳時代に下る。

社殿形式で尾張造りという独特の形式があります。
上記の真清田神社、津島神社、尾張大国霊神社(国府所在地)、高座結御子神社、氷上姉子神社。
明治26年までは熱田神宮も尾張造りだったようです(ウィキペディアによる)。
http://tsushimajinja.or.jp/map.html
津島神社参照

考古学的な代表として、朝日遺跡インターネット博物館→朝日遺跡の変遷、参照
参考図1:その中のイメージ画、厳重に防御された区画とそうでもない区画が書かれていてわかりやすい。
弥生中期後半から竪穴住居が円形から方形へ変化する、といったこともあります。AD150頃か。
尾張は二つの異文化が接触して、特有の文化を作っている、と考えています。

尾張には円窓付土器なんて奇妙な土器もあります。
参考図2 近畿から出土の円窓付土器
この土器は尾張だけじゃない、奈良にもある。
ということは、天火明系譜と出雲系譜は弥生中期頃(紀元前後頃)に接触混合(交易)している可能性あり。

海部氏系図と勘注系図(桂川光和氏)があります。
http://kodai.sakura.ne.jp/kanntyuukeizu/1-1-tannba.html
なんで若狭湾に伊勢の元宮と称する社があるのか(籠神社)

なぜ書紀には天火明の系譜がまったく書かれていないのか・・
神武よりはるか以前に天孫が近畿にあって出雲と接触していてはまずいからだと推定。
瓊々杵尊の妃の別名とはなにか、天火明命の妃との混合処理と推定。
崇神248-273はなぜ奈良から遠く離れた伊勢にみずからの社を置いたのか・・天火明系海人国で安心だったからじゃないか。
などなど・・
これらを説明できる状況とは・・ですね、








[11984] 銅鐸分布と年代の一考 神奈備 投稿日:2016年12月 5日(月)11時39分
かたばみさんへのお返事です。

> myHPに「弥生の海人」をアップしてあります。
> 小銅鐸出土地の図を改訂しました(どんたくさんの新しい小銅鐸出土地名表による)。


 興味深い分布図になっています。

 尾張地方に火明命系の海人族がいたのはいつの時代とおかんがえでしょうか。

 中期以降で出雲系になっていますが、何が決めてなんでしょうか。


[11983] 銅鐸分布と年代の一考 かたばみ 投稿日:2016年12月 2日(金)17時15分
myHPに「弥生の海人」をアップしてあります。
小銅鐸出土地の図を改訂しました(どんたくさんの新しい小銅鐸出土地名表による)。

小銅鐸と一般銅鐸の違い(分類)とはなんだろう・・どーも理解できない(^^;
単純には銅鐸の側面にヒレ状のでっぱりがあるかないか、じゃないかと思っていますけれど。
小銅鐸は一般銅鐸に先行し、平行もしているようにみえます。

小銅鐸は海人の先遣隊(探査部隊)の実用品ではなかろうか、
使う場所は限定されず、埋めて隠蔽されることもなかった(単に破棄はある)。
持ち運びするので大型化はしなかった。

「一般銅鐸」は農耕民の祭祀用で、使う場所は集落(その土地)に限定される。
「その文化圏」が崩壊したとき「埋めて隠蔽」した、じゃないのか。
持ち運びはしない、後に大型化しても問題はない。

形態で分類、ではなく使う人々と使い方が問題になる、と考えています。
参考図 千葉県木更津付近出土の「小銅鐸」
右と中央の銅鐸は明らかにヒレがある、形態からは普通の銅鐸(農耕祭祀用)とみえる。
だとすれば「一般銅鐸」の東限は千葉となります。
芝野遺跡や菅生遺跡の弥生水田がありますから、移動しない農耕祭祀、で不思議はないはずです。




[11982] 銅鐸分布と年代の一考 かたばみ 投稿日:2016年12月 2日(金)16時59分
神奈備さんへのお返事です。

神社の場合は、平安中頃以降に記紀や先代舊事本紀の影響を受けたものが多いと思います。
単一事象だけでは神社と弥生をリンクさせるのはたいへん難しいと考えています。
複数の事象がなにかをみせてくれるかどうか。

淡路島の神社をCDでざっとながめてみました。
なんか神社の数がずいぶん多いように感じます。
大歳神、事代主命を祀る社が多いですね。

住吉あるいは応神を祀る社も多いですが、これは記紀の神功説話によるところかな。
中筒之男神と表筒之男神を祀るけれど底筒之男神がない社があった。
深読みすれば瀬戸内系海人と太平洋系海人の島であって、日本海系とは関係ないのか??

事代主命はエビスと同等とみれば海人で不思議はないですが、大歳神はこれいかに・・
大歳と称する場合は古事記の書く大年神グループのひとりの「御年神」を示すと考えています。
大年神グループは列島へ「弥生文化」を運んだ半島経由で渡来した人々とみています。

ひとつは春秋戦国からの脱出者で戦争避難民、おそらく水稲など高度文化を持つ人々を含む。
ひとつはBC1000以降の寒冷化からの脱出者で環境避難民、こちらはさしたる文化は持たない。

で、縄文と結合して北九州で拡大、これを持論では「アマテラス(グループ)」と称しています。
書紀の書く「天照大神」の原型です。
いわゆる弥生の始まりでもあります(BC500頃からか)。
(遠賀川土器や半島系無文土器)

半島から列島へ渡るそれらの人々(持論で初期開拓者)を救助あるいは輸送したのが安曇(阿曇)海人だと考えています。
本来は南西諸島から北九州あたりの漁労の民(大綿津見神)で、縄文からゴホウラ貝などの交易を行っていた。
後に安曇となって、瀬戸内での輸送も行うようになった。
その痕跡が淡路島の「大歳神」を祀る社の源流にあるのではないか。

記紀では素戔鳴尊の子とされる五十猛命や大屋彦命もこの流れにあるとみています。
屋久島などの杉を知る人物、台湾などのヒノキも(素戔鳴渡来BC190頃よりはるかに古い)。
海人に運ばれて紀ノ川遡上で植林(あいにくヤクタネゴヨウなどは育たなかった(^^; )
海人が現地で必要とするのは食糧と舟の補修用の木材。

木曽の山中にぽつんと銅鐸がある、この頃には林業集団が登場しているのかもしれない。



[11981] 銅鐸分布と年代の一考 神奈備 投稿日:2016年12月 2日(金)13時34分
萩原秀三郎著『稲と鳥と太陽の道』に次のようなことが書いてありました。

古代中国では祖霊をよくまつれば季節の運行にも恵まれ、穀物の豊穣がもたされる。という考え方があった。死者の霊魂は地中に埋めた死体とともに地中で暮らし、子々孫々を見守ると言うのが中国の来世観である。

 魂魄に分かれて魄は地中にいて、魂は天に上り、時々降りてくる というイメージで、殷の時代に、そのような考え方があったと理解しておりましたが、意外な来世観にぶつかりました。
 もし、このような来世観が、日本列島にも来ていたとしますと、銅鐸の祀りは地中の祖霊を祀るという意味がありそうです。
 そこへ、いや、魂は天に上るから、天を祀るべきであると、銅鏡の祭祀が優位に立ったと、銅鐸から銅鏡への祭祀の転換を理解することができます。

 この来世観、本当なのでしょうか。


[11980] 銅鐸分布と年代の一考 神奈備 投稿日:2016年11月30日(水)15時32分
かたばみさんへのお返事です。


 銅鐸は謎の多いく、興味はつきません。

 最古の神であろう雷を呼び、豊作を祈願するとか、沼地にスズ(水酸化鉄のかたまり)が生成するようにとか、古代人が祈りに使用したもののようですが、目的などよくわかりません。

 地域別の銅鐸出土数と祭神について相関をとってみました。片や約2000年前、祭神数は現在の『平成祭データ』からとったという意味の分かりにくいものですが、何らかの参考になればと計算をしてみました。
基礎資料は、 http://www.kamnavi.jp/log/doutaknew3.htm  にアップしております。

 ニギハヤヒ      0.53
 海神         0.50
 アジスキタカヒコネ  0.49
 大国主・大物主    0.05
 ヒルコ        0.02

 ニギハヤヒとかアジスキは後世にブームがあったような感じのしない神だと思います。それらに若干関係がありそうな雰囲気です。


[11979] 弥生の海人 かたばみ 投稿日:2016年11月29日(火)22時43分3
銅鐸分布図に小銅鐸も追加しました、けれど暫定、最新版などで修正中です。
(PDF化の要領がいまいちよくわからない)
小銅鐸は海人の実用品とみていましたが、内陸にもあるのが不可解。
しかし弥生の海人が資源探査で行動をしていたと考えれば・・少なくとも関東では氷解(^^)

海人は土地に縛られず行動範囲が広くかつ移動が速い。
当初は一般的な輸送を行ったと思いますが、金属資源探査に従事する特化集団が登場したと考えています。

出雲系では安曇(阿曇)、大綿津見神の系譜。
西南諸島から南九州や北九州に至る広範囲です。
BC500あたりから中国の戦乱と寒冷化から逃れる人々が半島経由で列島にやってきた。
これの支援で漁労から離れて輸送に特化する海人がいた、これが安曇系海人の起源。

北九州の出雲勢力の拡大と共に瀬戸内への輸送開始。BC150頃からか。
瀬戸内へ運んだのは八島士奴美系の出雲。
そして一部が資源探査に特化、内陸にも入りさらに東北へ。

もうひとつが東シナ海系の海人。代表が大己貴と少彦名だと考えています。
登場はずっと新しく、北九州で弥生文化が形成されてからの渡来でBC180頃からか。
(古事記では少彦名を神皇産霊尊の手からこぼれた腕白坊主とする)
大己貴は素戔鳴の娘の婿となって北九州で勢力を急拡大。
北九州の開拓、福岡平野や吉野ヶ里など。山陰では鳥取あたりまでが行動範囲(因幡の白兎は医療伝承とみる)。
甕棺葬の風習を持ち、中国系の最新技術の導入。

もうひとつが物部系の海人。
原点は安曇と同じく大綿津見神と思いますが、輸送に特化するのは天孫降臨以降。BC130頃か。
天火明に随伴して日向から尾張へ、太平洋岸です。
天火明に随伴していた天之忍穂耳系(長江系)とまじりあった混成グループ。
(すなわち後の物部氏は単一の始祖を持たない)

安曇と同様に一部は資源探査に特化。内陸へも進出。
ただし、こちらには小銅鐸を使う習慣はなかったとみます(九州南岸〜伊勢志摩に小銅鐸がない)。

資源探査の第一は鉄と銅でしょう。
安曇の発見したのがまずは琵琶湖の湖成鉄かな。ついで黒姫山の褐鉄鉱、秩父の自然銅、秋田の自然銅、そして岩手の餅鉄。
物部の発見したのは琵琶湖の湖成鉄程度でさしたる収穫なし(^^;
おそらく吉野の水銀も両者が発見していると思います。
奈良周辺で安曇と物部(天火明系譜)が接触する。

たぶん、この時代では大喧嘩にはならない。資源を共有できるなら約定締結あたりでOKとみます。
土地に縛られる農耕民ではないから。
そのルートのひとつが伊勢湾(尾張)〜琵琶湖〜若狭の内陸の道。
(後に若狭での天火明系譜と出雲系譜の鳥鳴海神系譜の結合へ、尾張では朝日遺跡の異文化の二重構造)
もうひとつが伊勢湾(津)〜奈良〜紀ノ川の道。
(こちらでも出雲系譜と天火明系譜の結合へ、記紀では長髄彦伝承の源)

淡路島は安曇海人の瀬戸内での拠点。
伊勢志摩は物部海人の近畿での拠点。
大己貴系海人の拠点は北九州の糸島半島と宗像あたりかな(安曇と共有)。


さて、関東で小田原から北へ内陸部で小銅鐸が発見されています。
安曇は姫川(糸魚川)を遡上して黒姫山の褐鉄鉱を発見。
諏訪の和田峠の黒曜石、信州縄文と東北縄文の交流ルートがあるはずです(碓氷峠経由と思う)。
安曇はここから岩手の餅鉄の存在を知る。
(安曇から碓氷峠を通る途中に巴型青銅器が出土)

そのルートの途中で秩父の黒谷の自然銅を発見。そこから南下すれば小田原、舟で自然銅を輸送できます。
後の武蔵国の国府の大国御魂神社は武蔵の六つの神社を武蔵六宮とする。
武蔵六宮の成立そのものが和銅の輸送路ではないか。
で、六宮の並びと小銅鐸の位置が重なります(^^)
関東の内陸での小銅鐸の意味はこれだと思います。

出雲崩壊の時その情報は隠蔽され、秩父の自然銅の存在はAD708まで知られることがなかった。
日本武尊の関東渡来で太平洋航路が復活したとき、随伴者は物部系の海人と兵士でしょう。
そのような過去があったことはつゆ知らず、東京湾の千葉県側へ上陸・・

さて、弥生の製鉄遺跡はまだ発見されていませんが・・
粒状褐鉄鉱を使う製鉄はタイのバンドンブロン遺跡にBC200頃に登場しています。
(1991に伊那史学会にて褐鉄鉱(鬼板)による製鉄実験に成功)

黒姫山の褐鉄鉱と岩手の餅鉄がクロスするのは諏訪(サナギの鈴あり)。
天竜川を下って浜松なら日本海経由で運び出すよりずっと近道。
安曇の重要な拠点が浜松周辺と小田原周辺にあった可能性大。


[11978] Re: どんたくさん かたばみ 投稿日:2016年11月24日(木)10時44分
神奈備さんへのお返事です。

どんたくさんなど、なつかしいお名前です。

>銅鐸が沢山出土している地点については、そのことがわかるような工夫ができたら

カシミール3Dという地図ソフトではオリジナルの地名データを記録することができます。
地名を地図にプロットするとそのサブデータ(250文字まで)も記録されます。
(弥生遺跡とか神社といったレイヤ別もできます)
また補助データとして画像などを含む任意のファイルをリンクさせることもできます。
私的なデータベースになっています。

それをベースにして全体を把握する目的で、画像ソフトにて色分け銅鐸を地図にプロット。
注目地域では拡大図を作っても良さそうですね。


[11977] 銅鐸分布と年代の一考 かたばみ 投稿日:2016年11月22日(火)23時32分
銅鐸は自然神に対する農耕祭祀と考えています(山東半島の斉の瑯邪八主と推定)。
天秤棒のごときに銅鐸を吊して、キンコーンと鳴らしながら田畑を練り歩いていたのではないかなあ。
年代についてはちょいと修正(今後も常に修正がありえます(^^; )

初期開拓者(BC500以降によって青銅器が持ち込まれることがあっても、例外的と考えます。
持論:須佐之男渡来BC190頃、天之忍穂耳渡来BC150頃がすべての基本です。
少なくともこれ以前に銅鐸は存在しない(小銅鐸を除く≒海人御用達)。

天之忍穂耳渡来後の北九州では戦闘激化、青銅剣の生産優先と考えます。
参考図1 山口県長門市の向津具銅剣(明治時代に土中より出土)
参考図2 佐賀県吉野ヶ里の銅剣(甕棺内)対馬にも同形があるらしいけれど未確認
どうも半島系銅剣の由来と使用者を考えることに目をつぶるような傾向が・・(^^;

参考図3 大分県日田市 吹上遺跡の鉄剣(甕棺内) 北九州甕棺の東限
甕棺から鉄剣がでています。
持論にて甕棺葬は大己貴系譜の出雲と考えています。
大己貴系の海人が前漢か後漢初期に輸入していて不思議なし。

福岡県宗像の田熊石畑遺跡から15口の細身青銅剣出土。BC100〜200とされるようですが、いいところかな。
須佐之男系譜と天之忍穂耳系譜、加えて地元縄文+初期開拓者(持論にてアマテラスと称す)の激戦の時代。
北九州の戦死者遺骨が大量にでる時代です。

だがBC100〜BC60頃に出雲と天孫の政略結婚がうかがえる(深淵之水夜禮花の妃、淤美豆奴神の妃)
大国主の父の天之冬衣、なにゆえ「天」を冠するのか・・
ある程度の平穏期間もあったと考えています。
最初の祭祀用銅鐸、福田型が登場し得るのはそういう時代だと推定。

島根、鳥取、広島、岡山の福田型銅鐸は、出雲系の先駆者が瀬戸内と山陰へ開拓地探索で運ばれたものと推定。
(広島の福田型は細身銅剣とともに出土)
初期の農耕地開発はBC80頃か、北九州からの福田型銅鐸搬入は紀元前後頃か。

その後、山陰ではさしたる農耕適地なく開発は停滞、銅鐸の搬入はAD36頃(大国主の引退)以前では搬入されず。
瀬戸内では、岡山、兵庫、香川、徳島、河内などの沿岸部の開拓が進み、奈良盆地の発見。
銅鐸の生産が急拡大、おそらくは菱環紐式の始発。生産は岡山か兵庫西部あたりか。
神武朝(AD36−AD100頃)の直前か。

大国主は瀬戸内や奈良の開発が進んでいることをみこして、九州を神武に譲って島根に引退ということです。
山陰開拓は大国主の子の鳥鳴海神系譜が鳥取から若狭まで進出。
使う銅鐸は外縁付紐式から扁平紐式へ変化して、これが山陰にも登場する。AD50〜AD150あたり。
銅鐸は作れる場所でどんどん作られた(^^;
弥生の寒冷化がはっきりしてくる時代で、銅鐸が大型化し祭祀も盛大となる時代。

大阪には銅剣鋳型が2ヶ所、奈良盆地には石剣はあるけれど銅剣は出土していません。
奈良は武器の必要のない平穏な弥生世界だったと推定(奈良湖の干拓(^^) )。
名古屋の朝日遺跡も大環壕はあるけれど戦闘痕跡はない。

北九州では神武朝が終了して争乱の時代へ。孝昭105-137、後漢へ王朝交代の使者=後漢書の倭国王師升。
倭国争乱となって邪馬壹国台頭(日向宮崎)、そして卑弥呼登場(新羅本紀、卑弥呼の使者AD173)


淡路島では・・
南あわじ市の古津路から銅剣14本が出土しています。
そのうちの2本が大分県大分市と広島県尾道市の中型細身銅剣と同じ鋳型の銅剣。
銅鐸に先行する重要なリンクとみています。
この銅剣がいつ持ち込まれたかはなんともいえず、ですけれど。

淡路島に後期型銅鐸がないのは、農耕不向きの土地で初期開拓だけで終了したためではなかろうか。
周囲には大阪や播磨など農耕適地がたくさんある、開拓の主力(人手)はそちらへ展開。
新しい銅鐸を追加する必要がなかった・・ということですね。

現在の淡路嶋の農業はタマネギやレタス。
「古代淡路国の社会・経済的特性」によると、律令時代では海産物と塩が租税だったようで、淡路島は海人の国だった。
(伊勢志摩も類似みたい)

淡路の五斗長垣内遺跡の鉄製品出土詳細を把握していませんが、毎度ヤマタイコクの鉄器うんぬん論・・(^^;
この遺跡は周辺で使われた鉄器(農耕具)のリサイクル工房じゃなかろうか。
鉄原料をここへ運んで生産、は考えにくい(褐鉄鉱なら長野県の黒姫山、餅鉄なら岩手、砂鉄はまだ無理と推定)。

破損したりちびてしまった鉄器を再生利用するための工房です。
出荷品のメインは釣り針・・弥生の海人の必需品だと思います。
錆びてめったに残らないと思うけど、広島市の長う子遺跡ナガウネや,福岡県(豊前)徳永川ノ上遺跡などから出土。











[11976] どんたくさん 3 神奈備 投稿日:2016年11月22日(火)21時37分
銅鐸については、学者さんも一目置いている どんたく さんにマップを紹介しましたら、次のようなコメントをいただきました。披露します。

大変な労作ですね。

突線鈕式銅鐸は、色を変えて、青色にしている点、わかりやすくていいですね。

あと、銅鐸が沢山出土している地点については、そのことがわかるような工夫ができたら
よいのになあ、と感じました。

神奈備の注

http://pcrescue.b.la9.jp/kodai3.html
小銅鐸の出土表は氏の作成です。

http://pcrescue.b.la9.jp/syoudoutaku.html




[11975] Re: 比屋武 神奈備 投稿日:2016年11月22日(火)21時27分
琉球松さんへのお返事です。

>  琉球の『おもろさうし』など、古文書にも小書きのひらがながありません。
>  王都首里は「しより」などと記されていますから「ショリ」と訓むべきでしょう。
>
>  聖地「比屋武」は、実際には「ヤブ」だった可能性はあるかもしれません。
>  「藪」を「ヒャブ・ィヤブ」に近い発音をする古老は多いですね。
>  世界遺産に登録されている首里の「園比屋武御嶽石門」は拝所であり、聖地本体は背後の藪全体ですから「藪薩御嶽」と同じなのでしょう。
>  「藪薩御嶽」の「ツ」が、接続詞「の」だとすると「藪サの御嶽」となり、面白くなるのですが。。


面白いですね。

藪サの御嶽 この サ がまた、社の訛りとすると、どうなってくるんでしょう・



[11975] Re: 銅鐸の分布図 かたばみ 投稿日:2016年11月21日(月)17時52分
神奈備さんへのお返事です。

> moritayaさん、移転中のようです・

面白いと思ったWEBはそのときに保存しておくべきですね。
以前にみたんだけど・・みつからない、というのが結構あります。

プロットミスやプロット忘れ、あります(^^; ま、各種情報を加えてぼちぼち修正。
正確な位置を特定するのがたいへんです。
地名が変更されているとますますですが、古くからある橋は地名の変更や架けかえがあっても橋の名前は残しているみたい。

淡路島など銅鐸のありようについての一考は、また後ほど。
参考図 淡路島の詳細






[11974] 比屋武 3 琉球松 投稿日:2016年11月20日(日)12時04分
琉球の『おもろさうし』など、古文書にも小書きのひらがながありません。
 王都首里は「しより」などと記されていますから「ショリ」と訓むべきでしょう。

 聖地「比屋武」は、実際には「ヤブ」だった可能性はあるかもしれません。
 「藪」を「ヒャブ・ィヤブ」に近い発音をする古老は多いですね。
 世界遺産に登録されている首里の「園比屋武御嶽石門」は拝所であり、聖地本体は背後の藪全体ですから「藪薩御嶽」と同じなのでしょう。
 「藪薩御嶽」の「ツ」が、接続詞「の」だとすると「藪サの御嶽」となり、面白くなるのですが。。。



[11973] やぼさ、やぶさ 5/e 神奈備 投稿日:2016年11月19日(土)19時41分
藪と神社

 『原始の神社をもとめて』岡谷公二著 amazon中古で400円 に、「ヤボサ神」としての節がありました。以下、内容を若干紹介いたします。

 「ヤブサ」は、小さい森や藪に祭られることから「藪」であり、「サ」は「社」の訛りと有力な説としています。

 ヤブサ神社の祭神については、「神社帳」の作成を迫られた神職が推測を以て記入したものとしています。

 ヤブサ神についての諸説
 中山太郎  古い墓の跡が聖地化したもの 『日本巫女史』
 三間十郎  開拓。開墾の守護神 『矢保佐神社考』
 「戦の神さん」
 「火の神さん」
 江口司 黄泉の国の神さん 『南島交易とヤブサ』
 折口信夫  元古墓で祖霊のある所 『雪の島』
       だいたい畑の神 『壱岐民間伝承探訪紀』
 谷川健一  古い墓跡を叢祠としたもの

 ヤボサ神の範囲
 対馬・壱岐から九州西海岸全域、薩摩 藪薩御嶽がヤブサと関係があるなら沖縄まで。

 ヤボサと朝鮮半島との関係は、今のところ見いだせていない。


 大三元さんご紹介の「八幡の藪知らず」は、この藪に入ると出てこられないという祟りの藪のようです。

 『 怪異・妖怪伝承データベース』によりますと、佐賀県東松浦郡鎮西町打上の藪墓・藪神については、「誰のものかわからない墓を藪墓といい、発熱・足の痛み・腰痛は薮神の崇りだという。」との解説が なされています、ここはヤブサ神社の多い肥前国松浦郡に属します。

 神奈備の家の墓は伊太祁曽神社の南の山中にあるのですが、夏に墓参りの際に、敷地内に竹が二本生えていました。ノコギリなど持ち合わせがなかったので、そのままにして来ました。竹藪というよりまだ竹林の側から中へ組み込まれていくような気がしました。最近の腰痛も気にかかります。

 神奈備の感想として、素朴な祖霊信仰の姿なのだろうと思っています。





[11972] やぼさ、やぶさ 4 神奈備 投稿日:2016年11月18日(金)15時13分
沖縄のこと

 『青草』への投稿から転載します。
 琉球神話でアマミクが造ったとされる九つの御嶽の一つに薮薩御嶽(ヤブサツウタキ)があります。アマミクがヤハラヅカサ上陸して浜川御嶽を経由しミントゥン城を安住の地としたとあります。実は薮薩御嶽の名は出てこないのですが、ヤハラヅカサから浜川御嶽とその上の森を総括して薮薩御嶽と称しているようです。以上

http://kamnavi.jp/ok/yahara.htm
http://kamnavi.jp/ok/hamagawa.htm

 沖縄の御嶽巡りに東御回り(あがりうまーい)というものがあります。初穂巡礼で、国王や聞得大君・神女たち・臣下が一年おきに巡拝したのです。それに薮薩御嶽があります。アマミクの上陸地では唯一の御嶽となります。

 この御嶽の名が「ヤブサツ」であり、聞得大君・神女たちのまいるのは、命婦(いちじよ)は「やぼさ社」に常に参ると言う壱岐の風習と似ているように思います。転載以上。

 薮薩御嶽を探そうと思ったのですが、「今は個人の住宅の庭の中。」と聞かされて断念しましたが、どうやら森の中に拝所があるそうです。
http://luckluck.me/okinawa/100/yabusatsu_utaki/

 さて、祖霊との関連ですが、ここぞアマミクを祭る聖所ということのようで、本土とは性格が少し異なっているようです。

また、琉球松さんが、昔、当掲示板に投稿してくれました。
> 沖縄島にも、南部に「藪薩(ヤブサツ)御嶽」、首里に「園比屋武(ソノヒヤブ・方音 スヌフィアン)御嶽」、今帰仁に「金比屋武(カナヒヤブ・方音 カナフィアン)御嶽」、中部太平洋側にも「藪地(ヤブチ)島」がありますね。

 さて、園比屋武御嶽は首里城の門の前です。これらの「屋武」がヤブサの仲間かどうか、今の所よくわかりません。




[11971] やぼさ、やぶさ 3 神奈備 投稿日:2016年11月17日(木)20時42分
神奈備さんへのお返事です。

ペギラさんの「古代の謎へ <銅鐸>」は、2016/11/10 15時で消滅し、取りあえず

http://pcrescue.b.la9.jp/kodai.html
に仮置きされているようです.


とどんたくさんから教えていただきました。




[11970] やぼさ、やぶさ 3 神奈備 投稿日:2016年11月17日(木)09時33分
壱岐には祖叡社が一つだけ見つかりました。

壱岐では、のぼさ、とも訓でいるようです。

野保佐神社(大己貴尊 事代主命 埴安命) 長崎県壱岐郡石田町筒城東触
野保佐神社(大己貴命 天忍日命 天津大日命) 長崎県壱岐郡郷ノ浦町東触

青草掲示板ログ平二十年 二月 [3582] に、 神奈備が、
 「柳田国男翁は『石神問答』で、「ヤボサ社は壱岐の外に薩摩に箭武佐社あり 又筑前に天台藪佐あり」と記しています。」と書き込みました。。

 さて、中山太郎著 『日本巫女史』から  少々概略を紹介します。

 壱岐国の巫女(イチジョウ)は「ヤボサ」と称する一種の憑き神を有している。同国へ親しく旅行して民俗学的の資料を蒐集された、畏友折口信夫氏の手記及び談話を綜合すると、その「ヤボサ」の正体は、大略左の如きものである。

    壱岐のイチジョウの祀る神は、天台ヤボサであって、稲荷様はその一の眷属で、ヤボサ様の下であると云う。そして壱岐の「ヤボサ」については、後藤守一氏が「考古学雑誌」に写真を入れて記載されたことがあるので私は後藤氏から写真の種板の恵与を受くると共に「ヤボサ」の墓地であること_然も原始的の風葬らしい痕跡のあることまで承っていたことがある。而して更に近刊の「対馬島誌」を見ると、矢房、山房、氏神山房、天台矢房、やふさ神などの神名が、狭隘な同地としては驚くほど多数に載せてある。概略以上。

 「ヤボサ」とは墓地である。祖先の眠る地であるとの中山太郎氏の結論のようです。
 対馬や九州島からの祖神を祀る事と差異はないようです。




[11969] Re: 銅鐸の分布図 神奈備 投稿日:2016年11月17日(木)09時31分
かたばみさんへのお返事です。

興味深い分布表です。
おおいに刺激を受けそうです。
moritayaさん、移転中のようです・

古代で遊ぼ をクリックし、
別図  :2016/11 銅鐸形式と分布(銅鐸年代推定)(PDF)
をクリックしますと、到着します。
http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/kodai/sankou/doutaku.pdf



[11968] 銅鐸の分布図 かたばみ 投稿日:2016年11月16日(水)22時33分
銅鐸の分布図をmyHPにアップしました(別図 銅鐸形式と分布)。
形式を色分けして直感的にイメージできるようにしてあります。

混みあっている部分の出土位置は正確ではありません、形式の表示が優先です。
WEB上の「銅鐸出土地名表」をベースにしています(現在切り替え中のようでアクセスできないみたい)。

ある文化の様式が、古式から新式に変化し継続しているなら、その地域の文化圏は安定に成長していたと考えられます。
怖れ知らずで銅鐸の推定年代を仮定してあります(すなわち銅鐸形式が弥生中期〜末期のマーカーにできる、銅鐸編年)。
持論の年代観、ここでは大国主の国譲り(=神武)がベースです。
(もっと早い時代とする論もありますが根拠がみえないので却下(^^; )

北九州には最古型とその鋳型があるがその後がない。銅鐸文化の始発であったが直後にその文化は消えたということでしょう。
東海の浜松以東は最新型のみ。銅鐸文化の最終時代にその文化がここまで達していたということでしょう。

奈良大阪は銅鐸が密で、AD50頃からAD200頃まで銅鐸文化が栄えていたことがみえます。
岡山県の瀬戸内側も同様。
伊勢湾西岸も規模は小さいけれど同様。
山陰沿岸では後期型の銅鐸がない。大国主引退後に発達したがAD200頃には消滅か。
ただし、内陸部と瀬戸内側には後期型があります・・伝承として葦原色許男と天日矛・・じゃないか。

土佐の田村遺跡の銅鐸は不可思議です。
天火明と物部(の先祖)の拠点だったはず・・古式の銅鐸がありませんし。
ところがAD200頃の後期型の銅鐸出土、この時代では出雲が支配していたとみえます。


特に不可思議なのが淡路島。
古式の銅鐸は多数出土(松帆銅鐸7個など)、だが「銅鐸編年AD100」以降の後期型が存在しない、なぜ??
周囲には後期型の銅鐸がごろごろしているのに。
五斗長垣内遺跡(ごっさかいと)は鉄器生産集落、32棟のうち12棟が鉄器工房(推定AD100〜200頃とされる)。
昨年に国史跡に指定。
また北部に舟木遺跡が発見された(平成27年)。AD100頃とみられる後漢鏡の破片出土。
(後漢への倭国の使者はAD107の倭國王帥升、持論で孝昭105-137 、これ以降は後漢の混乱と滅亡で記録なし)

淡路島は大国主の(九州)国譲り(持論AD30頃)の後に、ここも神武朝に割譲されたのではないか・・
だから後期型の銅鐸はないけれど後漢鏡がある、そして天孫勢力の出雲攻撃のための拠点となった・・
神武東征説話(持論開化225-248)での東からの攻撃とは淡路島からの攻撃、だが撃退された。
淡路島の周囲は後期型を含めて銅鐸だらけですし。


弥生の青銅、総量で10トンほどらしい、たったの1立方メートルほどです。
この程度なら自然銅の採掘で足りていたのではないかな。
(奈良の大仏で1000トンあたり、江戸時代で年間に5000トンを輸出、生産技術は違うにしても)

九州以東における出雲と天孫の抗争は、「入り乱れて」の複雑な抗争であった可能性あり。
もし、開化が奈良突入に失敗していたら・・
九州の倭国は食糧不足と混乱で崩壊するのは同じとして、天孫系譜のあらかたも消滅(^^;
その後の列島の歴史はまったく別物になっていた・・空想が広がってゆきます(^^)





[11967] Re: 谷川健一の「藪薩御嶽」 神奈備 投稿日:2016年11月16日(水)19時34分
琉球松さんへのお返事です。

>  谷川健一が、著書『列島縦断地名逍遥』で「ヤブサ・ヤボサ・ヤブサツ ー 祖先の古墓」を考察されています。
>
https://books.google.co.jp/books?id=X6ADZTG-d6oC&pg=PA77&lpg=PA77&dq=
藪薩%E3%80%80谷川健一&source=bl&ots=RdyDmIP5zH&sig=x16zdtLVjaf0h8GdQ5nNL1LUjGY&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwiRqKaa9azQAhWKU7wKHZKwD30Q6AEIHTAA#v=onepage&q=藪薩%E3%80%80谷川健一&f=false

琉球松さん、ありがとうございます。 2008.2月にも、この件でお教え頂いております。重ね重ね感謝です。

 大御所が言っているのと、同じような結論に到達しそうですが、めげずに頑張ってみます。




[11966] 谷川健一の「藪薩御嶽」 琉球松 投稿日:2016年11月16日(水)18時11分
谷川健一が、著書『列島縦断地名逍遥』で「ヤブサ・ヤボサ・ヤブサツ ー 祖先の古墓」を考察されています。

 https://books.google.co.jp/books?id=X6ADZTG-d6oC&pg=PA77&lpg=PA77&dq= 藪薩%E3%80%80谷川健一&source=bl&ots=RdyDmIP5zH&sig=x16zdtLVjaf0h8GdQ5nNL1LUjGY&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwiRqKaa9azQAhWKU7wKHZKwD30Q6AEIHTAA#v=onepage&q=藪薩%E3%80%80谷川健一&f=false



[11965] Re: やぼさ、やぶさ 2 神奈備 投稿日:2016年11月16日(水)10時51分
大三元さんへのお返事です。

> 神奈備さん 興味ある話題をありがとうございます。
>
> ヤブサ・ヤボサに関しては琉球方面への目配りも必要かもしれません。
> なんでもアマミキヨが創った7つのウタキの一つに「藪薩御嶽」があるそうです。

> 「沖縄古語大辞典」では「やぶさす」として掲出されてました。
>
> 「養父」なんかもつながっているのかも???

大三元さん、ありがとうございます。
沖縄へ行った時、藪薩御嶽を探してみましたが、民家の庭にあると聞いていきませんでした。こんな面白そうなテーマの一齣になるんなら、行っておけばよこったと思っています。

 ヤブサは鹿児島まではつながっているようですが、沖縄に一つだけという感じです、

伊勢国の式内社の夜夫多神社や、おっしゃっておられる養父神社など、広がるのかどうか、まだよくわかっていません。

藪の中の野暮な人間ですので・・・




[11964] Re: やぼさ、やぶさ 2 大三元 投稿日:2016年11月16日(水)08時43分
神奈備さん 興味ある話題をありがとうございます。

ヤブサ・ヤボサに関しては琉球方面への目配りも必要かもしれません。
なんでもアマミキヨが創った7つのウタキの一つに「藪薩御嶽」があるそうです。

https://allabout.co.jp/gm/gc/76538/2/
 など。

「沖縄古語大辞典」では「やぶさす」として掲出されてました。

「養父」なんかもつながっているのかも???




[11963] やぼさ、やぶさ 2 神奈備 投稿日:2016年11月15日(火)21時28分
 九州本体のヤブサ・ヤボサの神々

筑前国宗像郡 宗像大社摂社,矢房神社(大己貴命) 福岡県宗像郡玄海町
          矢房神社(天照大神 大己貴命 田心姫命) 福岡県宗像市日の里

筑後国上妻郡 矢鏑社(やぶさしゃ) 福岡県筑後市大字羽犬塚

肥前国松浦郡
  矢房神社(天穗日命) 佐賀県唐津市中里
  住吉神社摂社矢房神社(天神七代ほか) 佐賀県東松浦郡肥前町
  矢房神社(天穗日命) 佐賀県東松浦郡呼子町
  青幡神社摂社矢房八幡神社(應神天皇) 佐賀県伊万里市東山代町
  矢保佐神社(息長帶比賣命 大己貴神)長崎県北松浦郡田平町
  矢保佐神社(大己貴命)長崎県北松浦郡福島町
  矢房神社(祭神不詳) 佐賀県西松浦郡西有田町
  日島神社摂社矢武佐神社(猿田彦大神) 長崎県南松浦郡若松町
  矢保佐神社(素盞雄命) 五社 長崎県佐世保市野中町、柚木町、松瀬町、白岳町、上本山町
  矢保佐神社(火産靈神) 二社 長崎県平戸市大川原町、木場町
肥前国三根郡 八幡神社摂社矢保佐社(未記入),佐賀県三養基郡三根町

肥後国菊池郡 木柑子菅原神社摂社矢房神社(矢房大神) 熊本県菊池市広瀬
肥後国八代郡 豊葦原神社摂社矢房神社(武甕槌神 ) 熊本県八代市豊原上町
肥後国球麻郡 大瀬阿蘇神社摂社矢房神社(祭神不詳) 熊本県球磨郡球磨村
          渡阿蘇神社摂社矢房神社(祭神不詳) 熊本県球磨郡球磨村

薩摩国日置郡 八房神社(孝靈天皇 源爲朝) 鹿児島県串木野市下名
薩摩国出水郡 矢房神社(豐受姫命 琴平神) 鹿児島県阿久根市脇本
薩摩国鹿児島郡 八房神社<通称>健康神社(八幡太郎義家) 鹿児島県鹿児島市犬迫町

 祭神はさまざまです。

 先ず、鹿児島市の八房神社については、由緒か載っていましたので、検討して見ます。

 平成に入って社殿改築や境内整備、「地球一の大虎」安置などが行われ、とても綺麗に整備された神社でした。「トラ(阪神タイガース)ファン」にとっては格好の祈願社なのでしょう、この日も男性が二人、大虎に向かって熱心にお参りしていました。

 御祭神:八幡太郎義家、瓊々杵命、木花開耶姫命、彦火々出見命、玉依姫命、鵜鴎草葺不合命、神武天皇
 由緒:享禄3年(1530)比志島義祐により建立されたものです。祭神のうち瓊々杵命以降は近くの霧島神社を合祀した故のようです。

 神社を建立した比志島氏は源為義の末裔で、為義の祖父は源義家すなち八幡太郎で、源氏の祖とあがめて祀ったのでしょう。比志島義祐は祖先を祀る神社に八房の名を付けたのです。子孫が多くのブドウの房のように栄えることを願ったネーミングなのか、虎の乳首は八つあるとかで八房とか、祖先を祭ることを、当時にはヤブサと言う言葉で表していたのか、よくわかりません。


 もう一つの矢房神社 福岡県宗像市日の里 については由緒がネット上にありました。

 矢房神社は、鎮座地が古墳の墳丘跡だった可能性もあるけど、位置関係から見て「東郷高塚古墳の遥拝宮」だった可能性も考えられなくもない。

 と言うコメントに遭遇しました。古墳を祀ることは、そこに眠る祖神を祀ることに他ならず、ヤブサを祖先を祀る意味があったと思われます。




[11962] やぼさ、やぶさ 神奈備 投稿日:2016年11月14日(月)21時12分
 対馬を五十猛神を祀る神社を参詣しようと訪問してから約10年になります。

 その時に由緒を調べていましたら、天台矢房という言葉に ;二度も突き当たりました。一体何だろうと思いつつ、今日まで来てしまいました。

地主神社 対馬市上県町女連85番地
貞享三年(1686)の『神社誌』には佐奈豊軍殿(さなどいくさどん)、天台矢房(やぼさ)が記載されている。

国本神社 対馬市上県町瀬田1番地
『対州神社誌』によれば、瀬田には熊野権現、三宝神、天台矢房がある。

曽根崎神社 対馬市上対馬町五根緒
「神社大帳」には「曽祢山形社。或は野菩薩神と云ふ。神体紫石」とあり、この名称の曽根というのは地形状の「そね」とみられ、山房というのは町内に多いヤブサ神で、矢房と書いた例が多い。

 神社の由緒には上記のような記述がありました。

 やぼさ、やぶさ の名前の神社を、『平成祭CD』とネットで調べて見ますと、全部九州でした。それも西側が主でした。

対馬国下県郡 山本神社摂社矢房神社(矢房神) 長崎県下県郡美津島町
          嵯峨神社摂社矢房神社(氏子の祖靈) 長崎県下県郡豊玉町

とりあえず、対馬のヤブサについて検討します。『上對馬町誌』に、以下のようにあるそうです。

 野菩薩、山房、矢房、曽根山房、そばへやぶさ、天台矢房など様々である。「やぶさ神」の全島分布は、豊崎郷九社、伊奈郷三社、与良郷三社、計一五社である。社殿、鳥居のない社が多い。「天台やぶさ」の名称が多いのは、天台密教が関与したものであろう、神仏習合の信仰か……。
……たまたま、古里氏が家に伝わりし、天台野菩薩の掛繪を見るに、雲中に龍の如きもの、又異獣有りて、人雲に乗り、中程に烏帽子の如きものを着し人、弓を持ち、頭は龍の如く、体は馬の如きものに乗り、以下左右に具足陣笠を着、手にものを持ち、二人雲上に立つ。又一幅は具足を着て帯刀し手弓矢を持て、左右に立筆四人、何なる事を知らず。と述べている。しかと性格がわからぬ信仰故、参考に記しておく。
以上

『仮称リアス式』の    『長崎県大百科事典』引用から
 壱岐、対馬は最も多く、壱岐では梓巫女市の念じ神でもある。市は矢保佐の神前で弓を弾じ百合若説教を読誦して病魔退散平癒の祈祷をする。これを風打(かぜうち)と称して業とした。この神の本質はわかりにくいが、天台矢保佐の名があり、天台宗の巫女の帰依神である。対馬の一神職は「対馬の神は岳神、茂神、藪神の三種です」といった。天台宗は山岳宗教であるが、巫女は女性であるから山岳に入るを得ず。藪神によって得道するものであったろうか。矢保佐の神はきつねを令使とする。ヤボサの「サ」は神霊を意味し、上に地名を冠し何々ヤボサと称する。


 ここまでの資料では、対馬のヤブサ神につてはよくわからないと云うことですが、祭神に「氏子の祖靈」がありました。普通、祖霊社などと称しますが、対馬の場合は『平成祭CD』では、嵯峨神社摂社矢房神社以外には見あたりません。祖先を祭らない日本人はいないと思います。対馬の場合には、それが矢房神の名で祀られた可能性が感じられます。




[11961] Re: 土佐から還ってきた神について 神奈備 投稿日:2016年11月 7日(月)09時25分
6.『三代実録』(859)
 高鴨阿治須岐宅比古尼神が従二位勲八等から正一位に昇っている。
 高鴨神が従一位になっている。
 この時期には阿治須岐宅比古尼神は高鴨阿治須岐宅比古尼神と呼ばれていたと云うこと。一方、高鴨神は一言主神(事代主神)の祖神であるから大穴持神社の神と云うことになる。


7.延喜式神名帳(905) 葛上郡
 高鴨阿治須岐託彦根命神社四座 現在は、阿治須岐高彦根神 配 下照比賣命、天稚彦命の三柱である。これに母神の多紀理毘賣命を加えれば四座となるが、アジスキ以外は不詳。


外の葛上郡の式内社
葛木坐一言主神社(名神大。月次相甞新甞。) は、後に名神大社となるが、新抄格勅符抄には記載がない。
大穴持神社 御所市朝町宮山に鎮座。この宮山には鉱床があり、現在の高鴨神社の地下につながっている。二社一体の神社と言える。





[11960] Re: 土佐から還ってきた神について 神奈備 投稿日:2016年11月 5日(土)10時02分
4.『記・紀』(712〜720)
 雄略天皇が葛城山に猟に出かけた際、一言主尊が出現し、当初は緊張関係にあったが、結局、天皇と神は仲良く猟をしたこという。


 ●葛城の神(一言主)の神域である葛城山に天皇が踏み込んできたと云うことである。葛城山の神々は早々に追い出したい。ある神はイノシシをして突進させたが果たせなかった。一言主は追い出しに失敗し、妥協した。そこに「老夫」の姿をした神が現れて、狩猟の邪魔をしたと思われる。それが高鴨の神であった。葛城山は鴨山とも云い、高鴨神の神奈備であった。一言主の祖神に当たる神と考えられる。またその名からは鴨神の祖神とも云うべき存在と言える。


5.新抄格勅符抄(806)年
高鴨神 五十三戸 土佐廿戸、大和二戸、伊与三十戸。
鴨神  八十四戸 大和三十八戸・伯耆十八戸・出雲二十八戸。
 高鴨の神の戸数の内、大和は二戸(四石)であり、これは追放されていたので、大和での地盤を築けなかった神と見ることができる。残りが土佐・伊予である。
 一方、鴨神は大和以外に伯耆・出雲であり、明らかに味鋤高彦根尊である。事代主神も鴨神と言えるが、この神は出雲に拠点はない。


● 高鴨の神とは鴨の神々の祖神と考えることができる。即ち大穴持の神である。葛上郡には式内社の大穴持神社が鎮座しており、帰還後は暫く高鴨阿治須岐託彦根命神社の高鴨神として祀られていたが、後に大穴持神社に遷されたのだろう。
● 大穴持神の裔である一言主は事代主の一面の姿と言える。




[11959] 土佐から還ってきた神について 神奈備 投稿日:2016年11月 3日(木)13時37分
1.『続日本紀』天平宝字八年(764)(淳仁天皇)
再び、高鴨の神を大和国葛上郡に祠った。高鴨神について法臣の円興、その弟の中衛将監・従五位下の賀茂朝臣田守らが次のように言上した。昔、大泊瀬天皇が葛城山で猟をされました。その時、老夫があっていつも天皇と獲物を競い合いました。天皇はこれを怒って、その人を土佐に流しました。これは私たちの先祖が祠っていた神が化身し老夫となったもので、この時、天皇によって放逐されたのです。(以前の記録にはこの事は見当らなかった。) ここにおいて天皇は田守を土佐に派遣して、高鴨の神を迎えて元の場所に祠らせた。
 ●戻って来た神は、「高鴨の神」であるが、その正体は何であるのか?


2.『釈日本紀』に引用された『土佐国風土記逸文』風土記編纂の官命は713年に発せられた。
土左の郡。土佐の高賀茂の大社がある、その神の名を一言主尊とする。その祖ははっきりしない。一説ではその神の名を大穴六道尊の子、味鋤高彦根尊であるという。
 式内大社都佐坐神社(土佐神社)の現在の祭神はアジスキタカヒコネである。
● 「高鴨の神」とは、一言主尊なのか味鋤高彦根尊なのか、はたまた。


3.日本霊異記(787)
 文武天皇の御代(697〜707)、葛城の役小角(高賀茂朝臣と云う者)が鬼神たちに吉野の金峰山と葛城山との間に橋を架け渡せと命じた所、葛城の一言主大神が人に憑いて、役小角が天皇を滅ぼそうと陰謀を企てていると讒言した。そのため役小角は伊豆の島に流されるが、大宝元年(701)に許されて仙人となって飛び去ったと云う。その後一言主大神は役小角のために呪縛され、今の世に至るもその呪縛は解けていないという
● 一言主はは文武天皇の在位中に活躍しており、土佐に流されていた訳ではない。





[11958] 桜川断層 神奈備 投稿日:2016年11月 2日(水)14時05分
大阪市内を走る断層で有名なのは上町断層ですが、桜川断層というんがあります。
地下鉄・阪神の桜川駅付近から地下鉄堺筋本町駅西200mをつなぐラインとなっています。
地下鉄四ツ橋駅付近を通っていますので、散歩がてらガンマ線量を図ってみました。

地下鉄が走っているうえでは、ほとんど検出できませんでした。ガンマ線は鉄やコンクリートで遮断しやすいそうですから地下鉄の走っていない路地に入り込み、測定をしてみました。南船場町界隈です。
測定値を南から北に歩きながら計ってみました。
0.05μSv/h
0.09〜0・14μSv/h この幅が3m程度
0.05μSv/h
南北に3mとしますと、45度の傾きですがら 断層の幅は2m程度とでました。





[11957] 柏原市の式内社 神奈備 投稿日:2016年10月30日(日)20時08分
γ線はXと同じ波長ですから強すぎますと害があるのですが、天然のものはそれほど強くありません。マイナスイオンを作り出しますから快適に感じることはあるでしょう。神社立地との関係を見てみました。柏原市のγ線濃度マップはネットから。




[11956] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 言蛇 投稿日:2016年10月29日(土)23時59分
「娘子らが 織る機の上を 真櫛もち
        掻上げ栲島 波の間ゆ見ゆ(万葉集1249)」

神奈備さまこんばんわ、実家で喪に服す事態があったりスマホに振り回されていましたが神奈月ということで挨拶に伺いました。

写真は横須賀に配備された護衛艦「いづも」です。艦内には出雲大社の分御霊が鎮社しています。さしずめ現代の「草薙の剣」とも呼べるでしょうか?





[11955] 萩原天神 神奈備 投稿日: 2016年10月22日(土)20時30分
萩原神社に初めて参詣してきました。16年ほど前になりますが、神社オンラインネットワイクのオフ会が京都でありました時、ここの神社の南條宮司様とお会いして、神社のHPのありかたなどをお話させていただき、それ以来の再会でした。
 お互い、そこそこ元気で、楽しいひと時を持つことができました。感謝。




[11954] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 かたばみ 投稿日:2016年10月22日(土)12時35分
八坂神社の御祭神(八坂神社HPから)。
素戔嗚尊 (配祀)櫛稻田姫命 神大市比賣命 佐美良比賣命 八嶋篠見神 五十猛神 大屋比賣神 抓津比賣神 大年神 宇迦之御魂神 大屋毘古神 須勢理毘賣神 稻田宮主須賀之八耳神

稻田宮主須賀之八耳神は櫛稻田姫命の父のアシナヅチ
抓津比賣神は素戔鳴尊の娘、五十猛命とともに樹木の種を播くとされる。
大屋毘古神は五十猛命の別名ともされるが?

御祭神は記紀に書かれる人物群でまとめられており、記紀が完成してからのものと考えられる。
大己貴命がいない、血縁がないから。
大国主命がいない、6世代も後の人物だから。

縁起(八坂神社HPからの抜粋)。
八坂神社は明治元年まで祇園社と称していたので、祇園さんの名で親しまれ信仰されている・・
斉明天皇2年(656)高麗より来朝せる調進副使の伊利之使主(いりしおみ)が新羅国牛頭山(ごずさん)にます素戔嗚尊を山城国愛宕(おたぎ)郡八坂郷に祀り、八坂造の姓を賜わったのに始まる・・
新撰姓氏録に八坂造は狛国人万留川麻乃意利佐の子孫なりとある記録と考え合せて・・

「高麗」をコウライと読むなら、この縁起書は「高麗」918が成立してからのものとなるでしょう。
AD656で神仏習合はありえず、「祇園社」なるものは存在しないはず。
神仏習合が登場しはじめた頃に「祇園社」となったことがうかがえる。
(おそらくは天代密教の最澄以降、810以降)

「新撰姓氏録に八坂造は狛国人万留川麻乃意利佐の子孫なり」
狛国とは高句麗のこと(持論、箕子朝鮮≒後の高句麗)。
新羅国の牛頭山とありますから、隣接していた伽耶諸国の伽耶山でしょう。
伽耶山の海印寺の「海印寺事跡」という古文書に「伽耶山は牛頭山」と書かれています。
(同上に「牛頭」登場の由来らしきも書かれる)


「高麗」はコマ。
武蔵国に高麗郡コマがあります、分散していた高句麗系渡来人を716に住まわせた地域。
東京湾沿岸部に716より早くにやってきた高句麗系の人々がいたと考えられます。
高麗郡にはなぜか氷川社がありません。
氷川社(ちかつ社源流とみる)の方が後からの登場だからじゃないか(延喜式967以降)。

656は孝徳645-654であり、持論では葛城皇子(天智)が百済問題処理で北九州にあった時代と考えています。
(斉明655-660−天智661-670、白村江の戦663、高句麗滅亡668)
656の伊利之使主が高句麗人(狛国人)であった可能性はきわめて高い。
すなわち八坂神社縁起の656創建が正しい可能性もきわめて高い。

高句麗人なら祖先でもある箕子朝鮮(崩壊)の情報を持っていておかしくない。
伽耶≒出雲系譜である情報も同じく。
列島から伽耶に引退した素戔鳴尊とそれに直結する人物を祀った。
656当時での祭神は素戔鳴尊だけだったかもしれない→国記、天皇記が残っていれば・・
(北九州での類似事象が宇佐神宮とみます、辛島氏など、および韓国岳ですね)


家康はなにゆえ城内にあった太田道灌などが祀った江戸社/江戸神社(創建702年)ではなく、神田神社を江戸の鎮守としたのか。
最古とみえる鳥越神社や根津神社を鎮守としなかったのか。
第六天神ではないのはあいまいで自然神に近いからでしょう(民の社ですね)。
しかし、城内鎮守には日枝神社(大山咋神)を置いています。食べ物は必須。

うすうすとではあってもそれらの意味と由来を家康は感じとっていたからではなかろうか。
素戔鳴尊は渡来者そのもの・・それを江戸の守護神とするのはいかなものか・・
(天之忍穂耳が天皇の初代とはされないことにも通じる)
鳥越神社や根津神社は日本武尊由来の社、朝廷による関東制圧での社。

神田神社であればワンクッションのある大己貴命(海人とみる)であり、「房総にやってきた人々が江戸湊を開拓し海神を祀った」は江戸の開拓に通じる。
アンチ朝廷の平将門、家康の意識の根底にはアンチ朝廷があったとみています。
大宝八幡宮は関東最古の武家の神、平将門が奉斎。
神田神社の旧地の地主神が「祇園社」であれば素戔鳴尊につながり、江戸の牛頭天皇の疫病退散祈願にもつながるでしょう。





[11954] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 かたばみ 投稿日:2016年10月19日(水)00時21分
今井よりさんへのお返事です。

>お城の鎮護について教えて頂けませんでしょうか

鬼門は風水から発した陰陽道の考え方のようですね。
もっとも、風水では磁北で、建築などでは真北(北極星か太陽の南中)を使う。
東京では5度ほどずれる。さて、陰陽道ではどっち?

うちの場合の鬼門にはまずまずの神社がすぐ近く(^^;
家の北東側には出入り口はありません、隣地なので作れない。
窓もない。日当たり悪く無意味だから。防火上も安全だし。


江戸社(素戔鳴尊)(神田神社内、江戸神社)
702年に現在の皇居内に素戔鳴尊を祀ったそうです。
だれが祀ったかは不明、
京都八坂神社縁起の「高麗の伊利之が牛頭山の素戔鳴尊を656に祀る」からそう離れてはいない。
だが、この時代に当地にやってきた人物がいるか?

鎌倉で江戸氏奉斎
室町〜戦国で太田道灌1450頃 上杉氏 北条氏 奉斎
1603江戸城拡張で神田神社内の境内社となる。

神仏習合による牛頭天王はまだ登場していないはず(隅田川の牛島神社、慈覚大師860頃、など)。
創始は出雲系譜の渡来による可能性が高いか・・
ひょっとして、氷川社(近津社と同じ流れとみる)が素盞鳴尊を祀るきっかけの可能性あり。


神田神社(神田明神) 千代田区外神田2丁目16−2  (大己貴命、少彦名命、平将門)
天平2年(730)に現在の大手町1丁目付近に大己貴命を祀って創祀。
房総にやってきた人々が江戸湊を開拓し海神を祀ったという。
(往古の東京湾東岸には出雲系譜の痕跡少なからず)

延慶二年(1309)に鎌倉の僧侶が平将門の怨念を鎮めるためにここに合祀(首塚現存)(築土神社参照)。
江戸開府にあたって家康が当社を江戸の総鎮守とする。
慶長8年(1603)江戸城の鬼門に当たる駿河台に移転、元和2年(1616)に現在地に移転。
(1625 鬼門にあたる上野に寛永寺創建)
明治維新で平将門が削除されて少彦名命に置き換え、現在は平将門復活で三神を祀る。

江戸名所図会によれば現在地(神田神社)の地主神は祇園三社とあるので、素戔鳴尊。
すなわち京都八坂神社縁起と連なり、江戸社とも連なる可能性あり。


日枝神社(御祭神大山咋神)千代田区永田町2-10-5
江戸氏、江戸郷の守護神、山王宮
太田道灌が川越山王社勧請
徳川家康が城内鎮守とする。

大山咋神は「先の神楽の山神」に相応するのかもしれません(もうひとつの候補は大山祇神ですが縄文系)。
myHP大年神グループ参照(天知迦流美豆比売の子とされる、おそらく灌漑治水)
祖先神と自然神の中間かな。文化を表すグループ(弥生の初期開拓者)とみなしています。


隅田川神社(墨田区堤通2丁目17−1)
本来は水神社で隅田川の鎮守、新編武蔵風土記稿に御神体龍神、水神が亀に乗ってこの地に上陸の伝承有り。
江戸名所図会に「昔は橋がなかったが今は浮橋がある、鹿島詣に浮橋を渡った(夫木和歌抄、1310頃)」とあります。
太田道灌(1432-1486)が下総の千葉氏を攻めるために長橋三条を構えたという文の紹介と、1750年頃の文献の引用で、隅田川の渡しより一町ほど川上に昔の橋の古杭が水底に残っていて船の通行の障害になっていたとあります。

この橋の修復をやらなかったのはおそらくは軍事上の考えからだと思います。
江戸時代に隅田川を渡る橋は千住大橋のみでした。
日光参詣へ向かう街道があったからかな。
このために明暦の大火で隅田川を渡っての避難ができず、10万ともいわれる死者が出た。
明暦の大火直後から両国橋をはじめとして次々に橋が架けられて、江戸の発達は隅田川の東側へ広がります。


大宝八幡宮 茨城県下妻市大宝667 城跡あり
大宝元年(701)、藤原時忠が宇佐神宮を勧請(位置的に正倉院戸籍721の藤原部と同じ流れと思います)
関東における最古の「八幡」だそうです。
平将門の戦勝祈願 吾妻鏡には下妻宮。

参考図1 江戸神社の御輿
参考図2 神田神社 茅輪くぐり
参考図3 神田神社の祭礼







[11953] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 今井より 投稿日:2016年10月17日(月)09時40分
私の歴史探訪のスタンスは

地元の氏神様の呼称の謎解きから始まり
伝承の史跡や祭事の現場へ足を運んで
且つ埋蔵文化財報告書や
史資料の精査に努めています。

考察・推論を展開する場合は
これらの事象に基ずいて
出典ありきでバックデーターを
掲載するように心がけています。
過去に掲載したデータも忘失することが多々
再度閲覧し史資料の内容を掲載
もしくはページを付記するようにしています。

この掲示板に投稿される方々は博識で造詣が深くて
私の浅学のレベルでは
理解できない箇所が多々あり、
療養中の身にはしんどくなりつつあります。
今後は楽しく拝読させて頂きます。


☆鹿児島神宮「お浜下り」
祭事前
16年10月16日








[11952] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 今井より 投稿日:2016年10月16日(日)17時25分
かたばみさんへのお返事です。


> 少々の火山灰では雨に流されて消えると思いますし。

車に着いた降灰は速やかに洗い流さないと
雨で固まってしまいます。

降灰は、大抵が石英、ガラス成分が多いですから
傷が付きやすいです。
目に入って擦ったりすると危ないです。
これも同じく速やかに洗い流した方がベターです。

雨どいに溜まった降灰は、適時掃除をしないと
雨でセメントみたいにこびりついてしまいます。



先日熊本の阿蘇山が大噴火しました。
この時停電が多発しました。

これも高圧送電線の碍子に灰がこびりついて
ショートしたのが原因です。

雪国の「雪害」と似てます。
こちらの場合は、水滴や雪が碍子や電線に凍り付いて
ショートしたり、重さで断線したり、、、


霧島山には、8代将軍吉宗の頃の
火砕流の痕があります。
大樹が建ったまま炭化しています。

御嶽もそうだったかと思うと
聊か不気味です。

古代や中世に於いては
現代では想像に絶するようなことも。。

都会では計り知れない事故が田舎にはあります。





[11951] Re: 古事記の国生み筑紫島 今井より 投稿日:
かたばみさんへのお返事です。

埋蔵文化財の史料の説明ありがとうございます。

>
> YouTube 根津神社 三座の舞。
> 三座の舞のうちの山神の舞ですね。
> 山神ってなーに(^^; ま、祖先神ではなさそう。
>

このあきるの市のサイトは凄いですよね。
プロの歌舞伎の写真家ですね。
時々伺っては楽しんでいます。

> >南九州の噴火記録は、パミス年代測定法が定着しています。
>
> パミス測定法というのは軽石を使うんですね。
> 土器の焼成年代を測定するための、可能性のある測定法群のひとつかな。

私のページにも記載していますが、
大正5年の桜島の噴火を基準にして、地層の年代測定をするようです。
近年、確立した年代測定方法です。
桜島の降灰は日本全土を覆ってカムチャッカ半島にまで達していますから。。
6500年前の大噴火は旧ロシアの方でも確認されたとか。。

土層に含まれる「石英」成分を測定するようですね。
専門家に伺ったことがありますが。。
根気のいるお仕事だな〜と驚嘆しました。

遺物の欠片も数年経つと一つの土器に生まれ変わったりします。。
縁の下の力持ち。。

未だ、未調査の遺物が多数ありますが、、
熊襲や隼人の痕跡が判るようになると嬉しいです。

今日は、熊襲所縁の鹿児島神宮のお浜下りです。
午前中神宮の境内や参道で撮影しました。
さっきアップしましたよ。
youtube/yorihime3/

長時間の見物は流石に疲労が、、
特に視力の低下は否めません、80歳に近い我が身に鞭打って励みましょう。



[11950] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 かたばみ 投稿日: 2016年10月16日(日)10時22分
今井よりさんへのお返事です。

>神楽らに造詣の深い東京在住の方です

YouTube 根津神社 三座の舞。
三座の舞のうちの山神の舞ですね。
山神ってなーに(^^; ま、祖先神ではなさそう。

>南九州の噴火記録は、パミス年代測定法が定着しています。

パミス測定法というのは軽石を使うんですね。
土器の焼成年代を測定するための、可能性のある測定法群のひとつかな。

地層として残るような火山灰、大規模噴火だと思います。
夜になると山肌が赤く染まる程度の中小規模の噴火が地層として検出できるのだろうか。
少々の火山灰では雨に流されて消えると思いますし。
平安時代に噴火記録が増えるのは、記録されるようになったからでしょう(その火山灰は地層になっているのか)。

失礼してちょっと遺跡発掘の追求。
加治木堀遺跡、鹿児島県曽於郡大崎町、自動車道建設での発見のようで、まだ湯気が出てる(^^;
鹿児島県立埋蔵文化財センターの加治木堀遺跡PDFからの引用です。
−−−−−−
U層は黒褐色土を主とし,この中に黄褐色のパミスが混在する層(Ub層)がみられる。
Ub層は,テフラ分析の結果(第4章第2節参照),桜島起源のP4(AD764 〜766)に対比される可能性が高いことが判明した。
その直下のやや茶褐色の層(Uc層)及びその下の黒褐色(Ud層)が遺物包含層である。
V層は桜島起源のP7(約5,000年前)火山灰層に比定され,硬質の土壌で層厚は10cm程である。
−−−−−−
参考図1 同上の地層図
地層Ubというのは書かれていませんが、UcとUd層が弥生遺物の出土(山ノ口式土器)。
桜島起源の地層に挟まれた地層に弥生遺物がある。その地層がどのような由来かは決定していないと見えます。
(そこが知りたい)
なお、T層とV層の間にはU層欠落の攪乱がみえます。この攪乱は雨水による流失か?
参考図2 同上の出土物の地層(山ノ口式土器)

開聞岳 - 地形及び地質概説 - - 地質調査総合センター
https://gbank.gsj.jp/volcano/Act_Vol/kaimondake/page4_1.html

開聞岳の2000年前の噴火、加治木堀遺跡との距離は桜島より2倍も遠い。
火山灰が降るとして、その成分は桜島と開聞岳でどう違うのか。それも知りたい。


記紀の「燃える小屋から火須勢理が飛び出してくる」。
天之忍穂耳から下ればBC100〜BC50頃、燃える小屋が火山由来なら年代と位置の推定が可能になる。

景行311-333での13年「襲国を平定して市鹿文を火の国の国造」。
(襲国、現在の鹿児島県曽於郡周辺とみて間違いないと思います)
この記事は火山学の立場からの状況を知り得るかもしれない、という方向でしょう。

景行紀18年では八代海の不知火を以て「火國」としている。
夜空に赤く染まる山、その程度での噴火で十分に「火の国」だと思います。

肥後国風土記逸文では崇神時代に火山噴火を以て「火の国」としている。
一応文献とみておきます(^^;
おそらく雲仙、これも弥生〜古墳あたりでの「大規模噴火」はみえないみたい。


山ノ口遺跡(山ノ口式土器)、肝属郡大根占町馬場山ノ口、開聞岳から東へ海を渡った海岸にあります。
調査報告書に
「開聞岳起源の暗紫ゴラの直下に当たることが判明」とあります。
{第二次の開聞岳噴火の時期に環状配石に供献されていた土器群で,優に2000年を越える弥生中期の土器である」
とあって、こちらは決定している。
当時の社会を特徴づける極めて珍しい祭祀とのこと。

この遺跡はたいへんに興味深い。
開聞岳が火須勢理の「燃える小屋」の原因であるなら、火須勢理の時代と場所が推定できるからです。
山ノ口式土器は奄美や沖縄からも出土(海神族も用いていた可能性大)。
加治木堀遺跡も山ノ口遺跡も同年代で同じ文化圏に属す、となります。

火須勢理(彦穂々出見)、火と穂、種子島の宝満神社や浦田神社(鵜草葺不合)の稲とも符合してきます。
また、穀璧のありようの推定にもつながる。

・・火須勢理はこのあたりで生まれたが、火山灰に追われて志布志湾に引っ越し(穀璧)。
だが今度は大津波に襲われて(海幸山幸)、内陸部に引っ越し。
そして鵜草葺不合誕生、種子島で陸稲から水稲への変化・・神武誕生して鹿児島へ(紀元前後頃)。

参考図3 山ノ口遺跡の軽石を用いた岩偶








[11948] 江戸城、大阪城の鎮護 今井より 投稿日:2016年10月15日(土)12時06分
以前、当地の国指定史跡「隼人塚」の鎮護について
調査していましたが、、

さっき、地震で崩落寸前の熊本城を
タモリさんが散策されてました。
(崩落前の録画でした)

どなたか名城と言われる各地のお城の
鎮護について教えて頂けませんでしょうか。
(東西南北、鬼門、寺院)


○江戸城
○大阪城
○名古屋城
○姫路城

他、ご存じの処で結構です。
ここに繋いで下さい。

宜しくお願い致します。







[11947] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 今井より 投稿日:2016年10月15日(土)06時20分
かたばみさんへのお返事です。

> 参考図2 拾芥抄の日向、大隅、薩摩(の郡名?)
>
>

ご紹介ありがとうございます。
私はこれを参考にしてページを作成しております。
多分2000年頃の作成かと思います。

隼人探訪==>>隼人抗戦==>>稲積の里

この地は、和気清麻呂が流刑され一年弱居住していた処です。
幕末の志士 坂本龍馬も、新婚旅行の途中訪れています。

絵手紙には近くの「犬飼滝」のことを「蔭見滝」と
音読で記載して紹介しています。

「犬飼」は大分県に地名があります。
多分、隼人抗戦(720年)前後に当地を平定のために移住してきた
方々が居住したのではと推察しています。
この辺りの小字は「中津川」、上流には万膳と云う小字もあります。
どことなく当時の地名が残っているような。。。


☆倭名類聚鈔
☆犬飼滝(いぬかい)
☆高千穂の峯と霧島神宮の大鳥居








[11946] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 今井より 投稿日:2016年10月14日(金)18時12分
>かたばみさんへのお返事です。

>
> 参考図1 東京根津神社の神楽(しゃもじ持ってる神様の素性不明(^^; )


神楽らに造詣の深い東京在住の方です

わざをき通信

http://www.asahi-net.or.jp/~tq7k-wtnb/index.html

凄いリンクです。2000年頃から存じてましたが、
リンク集を南九州ゾーンだけに特化した折、削除してました。
再度歴史探訪にリンクしました。

詳細はお尋ねください。






[11945] 西米良の神楽由緒 今井より 投稿日:2016年10月14日(金)14時16分
一応、西米良の神楽について由緒を掲示いたします。

文明3年(1471)
御川(おんかわ)神社に
懐良親王の霊を祀り
神前に舞を奉納した
のが始まりと伝える

現在は
例年12月18日
に近い前後土・日曜日に
開催される。

豊穣感謝・無病息災を
祈願し舞われる。

鎮守や地主神が
多く登場し、着面の舞も多彩

神面の中には
「小べし見」と呼ばれる鬼面や
狩面と通称される道化面等の古面もある

神楽は厳かな「神かぐら」
賑やかな神楽囃子が歌われる「民かぐら」に
分けられ
翌朝の全演目終了後
狩法神事としての
「狩面シシトギリ」が演じられる

当社の神楽は「村所神楽」と呼ばれる
小川の米良神社の神楽
越野尾の児原稲荷神社(こばる)の
神楽と合わせて
西米良神楽として
県の無形民俗文化財に指定されている

また、村所神楽は
当社の他に竹原の竹原八幡宮や上米良の本山神社
ほかで奉納されている。

=========

田の神舞は、この神楽の中で舞われます。(33番の中の一つ)

「山の神」が郷に降臨して「田の神」となります。

他の関しては拙宅のサイトのページを適時ご覧ください。



[11944] Re: 古事記の国生み筑紫島 今井より 投稿日:2016年10月14日(金)04時02分
かたばみさんへのお返事です。


>
> 確かに新しい火山ではあるようです。逆に縄文以降では元気いっぱいじゃないかな(^^;
>
> Volcanoes of Japan > 第四紀火山岩体・貫入岩体データベース > 九州
> https://gbank.gsj.jp/volcano/
> 桜島の活動年代・最新活動年 約2万2000年前以降、とあります( 764とあるのは続日本紀記事でしょう)。
> 地質学的詳細はどこかに研究資料があるのでしょうけれどみつけてはいません。
> 縄文とほぼ同時期に火山活動が活発になって、彦穂々出見時代(BC100頃とみる)ではさかんに火を噴いていたとみるところ。
>

南九州の噴火記録は、パミス年代測定法が定着しています。
それでは3500年前以降の桜島の噴火爆発は見当たりません。
水蒸気爆発はあったかもしれませんが。。

拙宅の近くのマール(噴火趾、すりばち状、現在は畠)が噴火していた記録はあります。

この手の書籍は絶版が多くて、高価で入手困難です。

鹿児島大学の応用地学講座は入学者激減で閉講されました。。
昔は先生方とは交流がありましたが、
最近、防災意識が高まってますから。。どうでしょうか。


> 銀鏡神楽(米良神楽)、高千穂神楽など起源を弥生にまでゆけそうなものがたくさんありそう。
> ただし、あくまで起源が、であってその後の変化は大きいと思います。

> 山の神や田の神を楽しませ祈る、自分たちも楽しむ、神楽の原型と思います。
> では神武、さらに天火明命の祭祀とは・・
> 神武の子にはみな「耳」がつく、祖先への意識がそれだと思います。
> 祖先を祀る(祖先神)、があるのは必然と思いますが、では農耕においての祈りや楽しみ(芸能)は如何に。

高千穂や村所、日向の方にも何回か祭り探訪に出掛けて採取しています。
伊勢神楽としての伝承はあくまでも南北朝以降のこと。
残念ながらそれ以前は承知しておりません。

只、村所(西米良)の方は古文書を拝見していません。。
江戸時代の神楽の古文書は幾つか所持しています。
(66番の内の一部ですが)
それには由緒は未記載、所作だけです。

以前は土砂崩れ跡や採掘現場らにも足を運んでいました。
健康状態が良ければ地層確認でも出かけたいのは山々ですが。
しょせんは空論です。

歴史探訪は健康第一!!



☆9500年前の上野原縄文遺跡の地層








[11943] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 かたばみ 投稿日: 2016年10月13日(木)22時17分
桜島の活動年代・最新活動年 約2万2000年前以降、とあります( 764とあるのは続日本紀記事でしょう)。
地質学的詳細はどこかに研究資料があるのでしょうけれどみつけてはいません。
縄文とほぼ同時期に火山活動が活発になって、彦穂々出見時代(BC100頃とみる)ではさかんに火を噴いていたとみるところ。


>この出自はどれでしょうか?
>歴史探訪===>>南北朝動乱

銀鏡神楽(米良神楽)、高千穂神楽など起源を弥生にまでゆけそうなものがたくさんありそう。
ただし、あくまで起源が、であってその後の変化は大きいと思います。

宮崎県椎葉村は最後の焼畑でもあるようです(柳田國男も調査していますね)。
崇神時代に創始されたとみえる伊勢神宮(の原型)の当時の祭祀はいかなるもので、どこから運ばれたのか。
自然神に限りなく近い神、例えば山の神のごとくであったと考えています。
伊勢の式年遷宮は焼畑を儀式化したものと考えています(天武673-685頃)。

山の神や田の神を楽しませ祈る、自分たちも楽しむ、神楽の原型と思います。
では神武、さらに天火明命の祭祀とは・・
神武の子にはみな「耳」がつく、祖先への意識がそれだと思います。
祖先を祀る(祖先神)、があるのは必然と思いますが、では農耕においての祈りや楽しみ(芸能)は如何に。

崇神以前の伊勢地域には弥生遺跡がないに等しい。
奈良盆地には遺跡が多数ある、出雲文化圏の中枢。
そこでの祭祀は銅鐸でしょう、狩猟や農耕、動物の絵が描かれています。水流を思わせる文様も。
その祭祀に「神が楽しみ民も楽しむ」が付帯していなかったはずがない。

銅鐸の絵柄からみて限りなく自然神だと考えています。
出雲文化圏の登場年代からみて、その自然神は山東半島の瑯邪八主の影響下にあると推定。
天主、地主、日主、月主、陰主、陽主、四時主(歳、季節)、兵主(例外的に祖先神、蚩尤)。

残念ながら「古出雲神楽」の痕跡はない、奈良が天孫系譜の中枢となって数百年が経過して完全に消えたのだと思います。
(民のレベルでの痕跡は全国に残るとは思いますけれど)
書紀で出雲が抹消され、自然神があいまい化されていてはなおさらで、平安あたりでの伊勢神楽に飲み込まれていったと考えています。


ちょっと追求(^^;
景行紀「13年の五月に悉に襲國を平らげ高屋宮に居すこと6年」。
景行紀「18年五月、八代県・・日没・・人の火にあらずといふことを知りぬ・・その國を名づけて火國と・・」

襲國を平らげてから5年後に、八代海の不知火をみているとみえます。
ここでの「火國」は八代海付近。
景行大王が「襲國を平らげ」たときの「市鹿文を火の国の国造」任命から5年後となります。
景行紀には「火」が2回出てくる、一方はおそらく桜島の噴火、一方は八代海の蜃気楼。

肥後国風土記逸文に「崇神天皇の御代に火の空より下りて山に燃えしも怪し、火の下りし国なれば火の国と名ずくべし」
この「火」はおそらく雲仙の噴火によるものと思われます。
「又、景行天皇が球磨囎唹を誅ひたまひ・・・諸国を巡狩しましき・・」、続けて書紀の景行紀18年と同じ文が続きます。
肥後国風土記逸文では南九州での事象と、雲仙、不知火、3種類の「火」の記事がまじりあってる。

なお、ウィキペディアの熊襲の項に「筑前国風土記に球磨囎唹がある」とありますが、これは誤り。
筑前国風土記は存在しません。筑前国風土記逸文および筑後国風土記逸文が残るのみ(風土記/岩波書店)。
「球磨囎唹」が書かれるのは「肥後国風土記逸文」です。
(筑前国続風土記/貝原益軒では未確認)

肥後国風土記逸文に「球磨県の北西70里の海中に島あり」とある。
おそらく天草諸島でしょう。
この記事が正しいなら、古事記の「熊・曾国」の一部がAD720頃には球磨県になっているとみえます。
位置は現在の熊本県南部、球磨川周辺でよいと思います。

大隅と薩摩の語源は不明。
延喜式では大隅国、薩摩国が存在。肥後国の中に球磨あり。
拾芥抄では大隅国のなかに贈於あり。肥後国のなかに球磨あり。薩摩国のなかに薩摩と鹿児島あり。

薩摩は球磨の「球を薩」に変えての呼称ではないか。
大隅はAD720頃では「襲」あるいは「贈於」であったが、延喜式の頃では「大隅」に変更され、現在に曽於郡が残った。

参考図1 東京根津神社の神楽(しゃもじ持ってる神様の素性不明(^^; )
参考図2 拾芥抄の日向、大隅、薩摩(の郡名?)






[11942] Re: 古事記の国生み筑紫島 かたばみ 投稿日:2016年10月13日(木)21時40分
神奈備さんへのお返事です。

>国生みの順序ですが、淡路島を中心に距離が近い順になっていると考えることができます

書紀編纂者が伊弉諾伊弉冉尊をどのようにイメージしていたか、ですね。
伊弉諾伊弉冉尊以前では具体性はほとんどなく、イメージだけ。
縄文末期の寒冷化で移動する縄文人、そのかすかに残る痕跡。それが伊弉諾伊弉冉尊の源だと考えています。

スタートは奈良周辺と木曽あたりからの縄文。
当時において距離の記憶は無理だと思います。何日もかかる、何ヶ月もかかる遠いところ、その程度。
現代人でも東京から大阪と東京から青森と、どっちが遠いかなんて?、でも方角はわかる。
いつの時代でも太陽というコンパスがあるし(冬至とか春分の概念も必須)。
書紀では縄文海退の記憶を含めた国生み島生みのイメージを構成。

説話として淡路島スタートでよいと思います(書紀の一書はばらばら(^^; )。
そして九州へ。
ここで、神々の体系を構築するために夫婦神を捨てる。
縄文イメージの終わり。
北九州から今度は日本海沿岸を東へ。ここでは半島経由の渡来者(漂着者)登場のイメージが重なる。
弥生の開始。
天照大神と素盞鳴尊、宗像三女神など登場。
住吉三神が関門海峡あたりで登場も妥当なところと思います。

素戔鳴尊は嫁さんの存在を明示。天照大神や月読尊に比して素戔鳴尊は強い具体性があったからだと考えています。
出雲文化圏の登場、その祖先神として。
天之忍穂耳尊も同様で嫁さんを書いている。
天照大神を別枠として、祖先神(歴史)の流れに変化させたのだと思います。

参考図 筑紫島の四面を少し修正
後の筑前や筑後での前や後ろは、街道の完成をもって畿内からの道程として近い方が「前」ですね。






[11941] 上町断層 神奈備 投稿日:2016年10月13日(木)16時04分
大阪市内を南北に走っている上町断層の場所が、ネットの地図を見ていましても、松屋町(まっちゃまち)筋やひどいのは大阪城の西側の上町筋としています。断層からγ線が出ているとのことで、本町通りを御堂筋から東に歩きながら測定してみました。エアカウンターという測定器をつかいました。
御堂筋 、0.05μSv/h、
堺筋   0.09μSv/h
東警察前 0.05μSv/h
東横堀川 0.19μSv/h
内本町  0.05μSv/h
谷町筋  0.09μSv/h
上町筋  0.05μSv/h
生魂御旅所 0.09μSv/h(大阪城内)
 これから見ますと、断層は東横堀川の下にあると言えます。




[11940] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 今井より 投稿日: 2016年10月12日(水)23時25分
かたばみさんへのお返事です。

> 「伊勢神楽」は日向宮崎に源あり・・と・・いってしまう(^^; 後世での逆輸入が現在のほとんどになっているだろうとは思いますけれど。

この出自はどれでしょうか?

ご承知のように九州は、朝廷からみたら「僻地」のなにものでもありません。
所謂「流刑の地」ですから、、
当時の朝廷から誅された公家や皇族が多数配流されています。
その流れで、中央の文化が移入されました。

伊勢神楽として有名な、日向の「西米良神楽」は後醍醐天皇繋がりです。
鹿児島の谷山には、懐良(かねなが)親王が

この辺りは拙宅サイトに、判る範囲で掲載しています。
歴史探訪===>>南北朝動乱

民俗芸能の所作は、専門家にお話を伺って
史資料を精査しながら、神舞を初めとする
田舎の民俗芸能を見物するのが楽しみです。

☆鹿児島神社のお祭り風景
桜島を核として三方に「鹿児島神社」を配祀した伝承有

○鹿児島神宮(霧島市隼人町)
○鹿児島神社(垂水市)
○鹿児島神社(鹿児島市草牟田)









[11939] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 今井より 投稿日:2016年10月12日(水)13時19分
かたばみさんへのお返事です。


>
> 地名には危険が伴う。
> 奈良県に磯城郡がありますが、延喜式と拾芥抄(鎌倉時代頃)では城上と城下、郡名考(青木昆陽1750頃)では式上と式下、郡区町村編制法(明治11年)で磯城郡。
> 「磯城」の地名は明治維新後の地名改訂で登場したもので、それ以前の奈良にはない。
> 書紀に登場する磯城に符合させるための画策、と邪推(^^;


奈良県 磯城郡(しきぐん)

というと、田原本町近辺ですね。
昔、名古屋在住の頃、弟が居住していたので
近鉄特急で、何度か足を運んでいます。

似たような地名呼称が、現在では真逆の処が、鹿児島でもあります。

姶羅(あいら)

がそうです。古代から中世は、大隅半島の鹿屋辺りを指しますが
現在の「姶良市」は薩摩半島の加治木町、蒲生町、帖佐町です。

市町村合併で、故地が消滅するの忍び難いものがあります。
でも、史資料に登場する平安時代の小字が残っていたりすると小躍りします。


> 「伊勢」の地名由来は日向の五ヶ瀬川(現在はゴカセ)の五ヶ瀬(五瀬命、イツセ)の五瀬であり、崇神あたりで運ばれたものと考えています(隣接して五十鈴川もある)。
> 「伊勢神楽」は日向宮崎に源あり・・と・・いってしまう(^^; 後世での逆輸入が現在のほとんどになっているだろうとは思いますけれど。
>

神話伝承の小字が残っていると興味をそそります。
いつかゆっくり探訪したいものです。

「神楽」当地では「神舞(かんめ)」ですが
民俗学的に貴重な生きた史資料、文化財です。
古語拾遺では「神遊」で登場します。
当地でも史資料に登場するのは、島津藩の初期の頃からです。
目下のところそれ以前は承知していません。

この16日は、鹿児島神宮の「お浜下り」です。
隼人の霊を弔った「放生会」の現代版です。
お天気がどうも下り坂。。心配です。

☆鹿児島神宮のお浜下り








[11938] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 今井より 投稿日:2016年10月12日(水)12時32分
かたばみさんへのお返事です。

> 景行紀では熊襲という「部族」ライク登場(日本武尊は登場しない)。
> 「熊襲を討たむことを議りたまふ」「襲國に厚鹿文アツカヤとセ鹿文という者あり」
> 「この両人は熊襲の渠帥者(イサオ?)なり」「是を熊襲の八十梟帥という」・・・
> 景行)13年の五月に「悉に襲國を平らげ高屋宮に居すこと6年」。
>
> 書紀では熊襲が地域か部族か、あいまい。
> 八十梟帥には市乾鹿文と市鹿文の二人の娘がいて、市乾鹿文が景行側について父の八十梟帥殺害の手助けをする。
> (景行の婚姻融和策の一環とみていますが、お話では市乾鹿文は殺される)
> 景行は市鹿文を「火の国の国造」とするけれど、市鹿文が古事記での熊曽国の人物なら異なる地域の肥国の国造りにするか?
>
> 古事記では「熊曽国」が地域であること明確、4つの面のひとつですから範囲は広そう。
> 「火の国」とは(常識では)肥前肥後だと思いますが、はてさて、どのように解せばよいのか。
>

こんにちわ。
ご多忙の処、当地「隼人の抗戦」について
テーマを提起して頂いてありがとうございます。

このあたりに関しては、拙宅サイト==>>隼人探訪==>>隼人抗戦

でも少し触れていますが、残念ながらお先真っ暗状態です。

一応、伝承の地として「拍子橋」や「長袋」があります。

「拍子橋」==>>熊襲猛が酒宴をはった場所跡
       酔狂に紛れて日本猛尊が。。。

「長袋」====>>熊襲が抗戦時に立て籠もった洞窟

       妙見温泉にはこの観光用の洞窟があります。
       この地は伝承の場所ではありません。
       対岸にありましたが、洪水で崩落しました。


「火の国」===>>どこでしょうか?

       ご教示の桜島ですが、縄文時代の噴火の記録がありません。
       火口やカルデラ、墳丘は多々ありますが、、
       どうもそれ以前、25000年位前らしいです。

       6500年前には姶良カルデラが大噴火をしています。。
       降灰はカムチャッカ半島迄達しているとの報告があります。

         ===>>「パミス年代測定法」:火山灰堆積層で年代測定

       現在の阿蘇地方、特に阿蘇カルデラには、
       縄文時代の噴火趾が多数あります。

       こちらの方が縄文時代は有力かも。

      ★地元としては、観光活性化で「桜島」を押したいのは山々。



☆隼人首塚
☆拍子橋
☆隼人舞(隼人塚)






[11937] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 神奈備 投稿日:2016年10月12日(水)11時49分
かたばみさんへのお返事です。

 国生みの順序ですが、淡路島を中心に距離が近い順になっていると考えることができます。

 島根県の隠岐島の次に九州島、それから壱岐、対馬となり、佐渡の次に、大倭豊秋都島(本州)となりますが、記紀の記された頃には蝦夷の棲むあたりへの認識が高まっていたと、ここは苦しい言い訳も含めてのお話ですが。。。。




[11936] 古事記の国生み筑紫島 かたばみ 投稿日:2016年10月10日(月)20時39分
古事記の国生み神話での筑紫島と景行紀の熊襲制圧での地域推定図です。
熊曽国/建日別は南九州全域を示す(熊・曽の混合)。
景行紀の火の国はさらに限定して桜島周辺を示す。
火遠理命/彦穂々出見命の火(桜島)に通じるものです。

であるならば、景行紀の市鹿文を「火の国の国造」とする記述は妥当。
しょっちゅう火を噴いているのは桜島だと思います。
火の国は肥国にあらず。
隼人が支配者(高級官僚)に登用された事象がみあたりません。
元邪馬壹国の末裔(開化の末裔)ならば、大隅薩摩の国造りに登用されて妥当だと思うのです。


建日向日豊久士比泥別/肥国
古事記での文字は発音と意味が共存で危険ですが、肥国は肥えた国でよいと思います。豊国と意味は同じです。
建・日向・日豊・久士比泥・別、かなあ。
日向と日豊と久士比泥という地域を混合したもの、だから呼称が長くなった。
九州中央部を横断する地域、すなわち宮崎県の日向も含む。
(後世では肥国は西岸の熊本に限定)

.隠伎之三子島/隠岐島/天之忍許呂別は五島列島だと考えています。
なーんとなく島根の隠岐である、と感じてしまうところですけれど、古事記の国生みの順からはずれてしまう。
国生みで書かれる島が流刑地になってはおかしいですし。
島根の隠岐の文字は、国生みの記述から後鳥羽上皇あたりに「沖」に代わって採用されたものではないか。

.津島/対馬/天之狭手依比売
.伊伎島/壱岐島/天比登都柱
これらに共通するのは天を冠すること。
天之忍穂




[11935] Re: 古事記の国生み筑紫島 かたばみ 投稿日:2016年10月 9日(日)23時27分
今井よりさんへのお返事です。

古事記の国生み神話で
此の島(筑紫)は身一つにして面四つあり、面ごとに名あり。

筑紫国を白日別、豊国を豊日別、肥国を建日向日豊久士比泥別
(やたら長くて丁寧、範囲が広いのか?)
熊曽国を建日別(曽の字、音を用ふ)

景行紀では熊襲という「部族」ライク登場(日本武尊は登場しない)。
「熊襲を討たむことを議りたまふ」「襲國に厚鹿文アツカヤとセ鹿文という者あり」
「この両人は熊襲の渠帥者(イサオ?)なり」「是を熊襲の八十梟帥という」・・・
景行)13年の五月に「悉に襲國を平らげ高屋宮に居すこと6年」。

書紀では熊襲が地域か部族か、あいまい。
八十梟帥には市乾鹿文と市鹿文の二人の娘がいて、市乾鹿文が景行側について父の八十梟帥殺害の手助けをする。
(景行の婚姻融和策の一環とみていますが、お話では市乾鹿文は殺される)
景行は市鹿文を「火の国の国造」とするけれど、市鹿文が古事記での熊曽国の人物なら異なる地域の肥国の国造りにするか?

古事記では「熊曽国」が地域であること明確、4つの面のひとつですから範囲は広そう。
「火の国」とは(常識では)肥前肥後だと思いますが、はてさて、どのように解せばよいのか。


地名には危険が伴う。
奈良県に磯城郡がありますが、延喜式と拾芥抄(鎌倉時代頃)では城上と城下、郡名考(青木昆陽1750頃)では式上と式下、郡区町村編制法(明治11年)で磯城郡。
「磯城」の地名は明治維新後の地名改訂で登場したもので、それ以前の奈良にはない。
書紀に登場する磯城に符合させるための画策、と邪推(^^;

「伊勢」の地名由来は日向の五ヶ瀬川(現在はゴカセ)の五ヶ瀬(五瀬命、イツセ)の五瀬であり、崇神あたりで運ばれたものと考えています(隣接して五十鈴川もある)。
「伊勢神楽」は日向宮崎に源あり・・と・・いってしまう(^^; 後世での逆輸入が現在のほとんどになっているだろうとは思いますけれど。


神武の言語はいかに、神武の祭祀はいかに、神武御用達の土器はいかに・・
弥生時代の九州南部と北部での「方言」は通じる程度であったのか。
九州北部が出雲文化圏であったら通じるとは思えないのですけれど。
紀元前後頃の重要なヒントになると思っていますが、記紀にヒントはみえないなあ。


http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/



[11934] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 今井より 投稿日:2016年10月 8日(土)04時04分(水)01時28分
かたばみさんへのお返事です。

> 書紀の書く熊襲は隼人ではないと考えています。
> 九州の日本武尊は熊襲から名をもらって、小碓命から日本武へ。
> 熊襲が蛮族であるなら名を受け取るとは考えにくい。
> 書紀がいう熊襲とは、消滅した邪馬壹国の末裔。
> すなわち日本武尊の祖先(開化225-248など)の末裔。だから名を受け取った。
>
> もし、隼人が熊襲であるなら書紀は隼人と書くと思うのです、それで不都合はない。
> 日本武尊の祖先が宮崎日向であることをあいまいにするために書紀は熊襲とぼかしたと考えています。
> ただし、大隅までゆくと卑弥呼との抗争の継承で大隅隼人が王朝に反発していたかもしれないけど。
> 曽於(曽於郡)のクマですね。
>
> 球磨とはなにか、免田式土器の分布と神武の関係に注目しています。
> 神武の誕生とその祭祀、神武北上に関連するのではないかと。


この辺りは、遺物なり木簡なりの出土を期待しましょう。
どのような喋り方(発音)をしていたかも興味あります。

江戸時代の「薩摩弁」については旧ロシアに
辞書が残っています。
ゴンザ辞書、一応所持しています。参考になります。


>
> 九州における出雲の南下は熊本ないし阿蘇山麓までと考えています。
> したがって南九州で出雲系が登場するのは飛鳥奈良以降であろうと考えています。
> (韓国岳とか韓国宇豆峯神社の呼称の由来とは、です)

これは以前もお話ししたように、当地の民俗芸能に宿っています。
当地では、神楽の事を神舞(かんめ)と呼びますが
出雲神楽と伊勢神楽の両方が舞われます。
宮崎までは伊勢神楽が多いでしょうか、
それ以南は出雲神楽系統です。

史資料はもとより、民俗学的な考証も重要と考えています。


★霧島東神社
国の無形文化財「祓川神楽(神舞)」

尚、映像はyoutube==>>yorihime3でどうぞ。



[11933] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 今井より 投稿日:2016年10月 8日(土)03時27分
かたばみさんへのお返事です。

またまた、割り込みで恐縮に存じます。

> 東京の神社の散策をしていたとき、東京蔵前の榊神社が日本武尊の創始とされ第六天社とも称することを知ったのが第六天社とはなにか、のきっかけです。
> 当時はこの二つの社がつながる可能性などまったく考えていませんでしたけれど、今は関東における歴史の重要ヒントです。

私の神社探訪の動機と酷似してます。
私は氏神様(稲荷神社)を江戸末期生まれの祖母が「おみょうけんさ〜(妙見)」と
呼ぶ不思議さでした。

この氏神様が、平家物語の敦盛愛用の「青葉の笛」所縁のお社とは。。
驚きの連続で今日に。。

>
> >神仏混淆を色濃く残す第六天社の祭神ともされる

当地の場合、明治の廃仏毀釈で、約2500ケ寺が焼失しています。
残存した寺院は、社名を変えています、近場の例

○鹿児島神宮再建の「日秀神社」(旧三光院)
ここには唯一お堂があります。
○旧国分市上水道の第一号井戸に鎮座する「医師神社」(旧門倉薬師)
○姶良市の米山神社(旧米山薬師)

らでしょうか。

歴史の変遷を。。翻弄された神々でしょうか。







[11932] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 かたばみ 投稿日:2016年10月 7日(金)21時34分
神奈備さんへのお返事です。

氷川社とはなにか、を考えていたとき、楡山神社さんのうぶすな研究室の近津の記述で「ちかつ社」の存在を知りました。
東京の神社の散策をしていたとき、東京蔵前の榊神社が日本武尊の創始とされ第六天社とも称することを知ったのが第六天社とはなにか、のきっかけです。
当時はこの二つの社がつながる可能性などまったく考えていませんでしたけれど、今は関東における歴史の重要ヒントです。

>神仏混淆を色濃く残す第六天社の祭神ともされる

これは納得していません(^^;
そもそもが本地垂迹といった神仏習合は仏教サイドからのものではないでしょうか。
書紀の神々を仏教に包含しようとする意識であって、宗派によって習合のさせ方が異なり、統合された概念にもなっていない。
書紀「第六天神」、仏教「第六天魔王」の文字の偶然に惑わされた後世でのイメージとみております。
第六天神は「書紀ではあいまいな自然神」を代表させ、水害や風害除けとして開拓成就を祈願する神として扱われていた、と考えています。
(幕末〜明治の国学者にもの申す(^^;;; )

ヒンズー教のシバ神には100(だったと思う)の姿があるとされます。
インド各地の多数の部族の神をひとつに統合させるためです。
肌の黒い部族に対して、おまえさん達の神様はシバ神の化身なのだ・・マハーカーラ=真っ黒けのシバ神登場。
後に仏教に取り込まれて大黒天、日本では大国主命と重なって大黒様(鎌倉以降)。大国ダイコクでしょう・・たぶん。
第六天神でのイメージもその程度の類とみております。

書紀の編纂目的のひとつは仏教などに対抗できる「概念」の構築にあると考えています。
その統一のための概念が天照大神の和魂と荒魂だと考えています。
単純には、その源流が天照大神(おおまかに天孫)に対抗する存在だった場合は荒魂。
日本の場合はインドに比せば、氏族の差は微々たるもの、「ふたつの姿」だけで事足りた。

神社建築において「千木」の形状で、先端が垂直に切られる場合は荒魂、水平に切られる場合は和魂、と聞きました。
また、千木の装飾の穴?が先端部で切り欠き状になっている場合は女神、切り欠きになっていない場合は男神、とも聞きました。

もっとも、そういう慣習があったとしても、社殿建設の時にどれだけ引き継がれるか。
東京駒込の天祖神社(源頼朝縁起)の境内に、榊神社(面足尊)、熱田神社(日本武尊)、須賀神社(素戔嗚尊)があり、この由来を神主さんにおたずねしましたが??でした。
寺院でも同様、大昔にある問いかけに答えられなかった若い坊さんが今は要職に。

余談
さっきNHKの歴史秘話ヒストリアで明治日本語の話をやっていました、なかなか面白かった。
標準語は必須だがどうやるのがよいか、英語にしてしまえなんて案もあったらしい(^^;
文化と血脈(部族)、その中間にあるのが言語だと考えていますが、うかつに統一化すると文化を失うかもしれない。
なかなか難しいところ。
そういえばエスペラント語なんてのがありましたが今はどうなっているのかなあ。

最近ちと気になっているのが、「なになにだそう」です。




[11931] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 かたばみ 投稿日:2016年10月 7日(金)16時35分
ちかつ社と第六天社を重ねてみました。
(第六天社は七所とか十二所といった伊弉諾伊弉冉尊以前としての面足尊を祀る社を含みます)
ちかつ社の変化とみる氷川社の集中する地域では省略しています。
参考図
(画像サイズが横800ドットを越えると自動縮小されて画像がぼやけるみたいですね)

みえてくる特徴は、ちかつ社は鬼怒川以南(現在の利根川以南)にはない。
茨城〜福島での「ちかつ」は蝦夷が濃厚で、関東平野の西側では諏訪の千鹿頭が濃厚、であろうとみています。

第六天社は群馬にはない。
茨城と福島ではちかつ社と第六天社が混在する。

第六天社は平安中期以降の蝦夷制圧の北上ルート(茨城県〜福島県)に登場しているとみえます。
正倉院文書の戸籍721に書かれる藤原部、クサカ部、卜部、物部などの人々の北上とともに、茨城の蝦夷が制圧され、その後の開拓に伴っての面足尊ではないか。

東京台東区の榊神社の縁起は「日本武尊が東征のおりこの地に斎庭(まつりのにわ)を定めて面足尊と惶根尊の夫婦神を祀り」とされます。
日本武尊時代に面足尊が存在することはありえない。地元住民の祭祀を日本武尊が遵守した、ということで良いと思います。
ただし、境内社に
七福稲荷神社/倉稲魂神  繁盛稲荷神社/倉稲魂神
事比羅神社/大己貴神
豊受神社/豊受姫神 があります。
出雲と食糧神です。このあたりにも第六天社の本質が隠れているかもしれない。

雄略456-489の開拓民(孔王部)は埼玉以北へは達していない。稲荷山鉄剣付近までの開拓、ということでしょう。
倭王武(武烈)の上表文の「東は毛人を征すること、五十五国」はちょいと誇大表示ということになりそう(^^;
ちなみに雄略が祀ったという外宮の豊受大御神は食糧神とみえますが、素性があいまい。

祖先神でもなく自然神ともいいにくい(あえていうなら大気都比賣命か)。倉稲魂神も同様。
ま、雄略時代にそういう概念があったかどうかもありますが、もともとあいまいだったのではなかろうか。
BC500以降の初期開拓者たちの農耕文化、その神格化が豊受大御神でよいと考えています。
倉稲魂神は稲作文化に特化で、後に稲荷にも重ねられる。

第六天が雄略につながる痕跡があるかどうか、関東で豊受大御神を主神として祀る社をざっとチェックしてみました。
たくさんありすぎていまのところ??(天照大神を同時に祀る社は除きます)。
稲荷と複合もしていて識別が容易ではなさそう。これからの課題としておきます。

古語拾遣807に鹿島の武甕槌命が登場しますから、この頃には書紀の神々の体系ができあがっているはず。
この頃に蝦夷を制圧した地域(茨城南部〜千葉)で面足尊を「開拓の成就祈願」として祀りはじめたのではないか。
群馬に第六天社がないのは、平安中期において、この方面へは開拓民が送られていなかったからだと考えています。

おそらく源頼朝は第六天には関与していない。
三島大社は崇敬したようです、こちらの祭神はあいまいなれど大山祇神とされますが、本来は海人だと考えています。
建長寺の建立にあたって浅草の宮大工を呼び寄せています。
頼朝は当時の東京湾の浅海を渡河するのに苦労しており、千葉氏と接触していても祭祀まで受け継いではいないとみるところ。
武人ではあっても開拓者ではない、だから鎌倉を拠点に選んだ。

関東平野に密集する第六天ははるかに遅く、戦国以降でしょう。
関東平野に第六天を運んだのは、おそらくは千葉氏で、祖は平常長(1051頃)。
千葉氏−北条氏−徳川幕府の流れでの展開。
小田原の周囲に第六天社が少なからずあるのは、北条氏による開拓でのものと考えられます。

面足尊を祀る社に胡録神社があります(少なくとも5社以上)。
東京荒川区の胡録神社の縁起では、上杉謙信の配下の武士がここに住んだとあります。
第六天を称していたが、明治初期に胡録の呼称となったそうです。
胡録の意味不明なれど、胡粉ゴフンの胡の文字を使った可能性あり。
胡粉は貝を石臼で引いて作る、胡録社はすべて海岸沿いあるいは海岸近くの川沿いにあります。



さて、ちかつ社。
由来はメインが諏訪の千鹿頭。これは動かないと思います。
長野県佐久市の近津神社はかっては千鹿頭神社であり、池から大蛇がでてきたという由来があるそうです。
ただしいつ頃に近津社になったかは不明。

弥生後期〜古墳時代に寒冷化で山岳地域から南下する人々が関東平野の山岳ぞいに展開した。
関東では碓氷峠からでしょう。
碓氷峠の東に貫前神社と咲前神社があります(高地性集落)。祀るのは経津主命。
諏訪から関東平野へ流入する諏訪系氏族の押さえだと思います。
貫前神社の成立は鹿島神宮や香取神宮の成立と同じ頃とみています。

鬼怒川水系(現利根川)の北岸で蝦夷との戦いが始まった。
おそらく・・垂仁273-311の五大夫のひとり物部十市根の頃、東京湾岸では豊城入彦命、鹿島側でも王朝系のだれかが上陸。
ここでは対出雲系譜の意識のなかの蝦夷であって、開拓の意識はまだない。
(この頃の王朝祭祀はいかなるものであったか)

そして正倉院文書の戸籍721に書かれる藤原部やクサカ部や物部など、おそらくは武装開拓民の登場。
鹿島神宮の社としての登場は721以降だと推定。
対蝦夷の社、書紀は強力そうな武甕槌命を創作。香取神宮は穏健な経津主命。
貫前神社はこれに習った、こちらは相手が出雲系譜で蝦夷ほど恐ろしくはなかったから経津主命(^^;

「ちかつ社」の多くが「近津」の文字を使いますが、なぜ??
近くに港があるわけでもないのに、疑問でした。
その起点は鹿島神宮のすぐ北にある近津社ではないかと考えています。

社名や御祭神の変化が大きかったであろう頃、すなわち延喜式の時代927頃での登場。
鹿島の港に近い、の意を以て「近津」に変更された。
御祭神も面足尊と風神の級長戸辺命、近津としては例外的に自然神ライク。
その他の社の多くがこの呼称に習った(千勝や千方など)。
ただし御祭神は別です、出雲系譜を主とする祖先神に切り替えられた。

その代表が氷川社だと考えています。
「ちかつ」にこだわらず、書紀や出雲国風土記から御祭神を素戔鳴尊とし、島根の簸川を氷川に置き換えた。
関東で河川の凍結はありえないけれど、諏訪湖の御神渡りをイメージしての氷川ではなかろうか。
そして延喜式以降に大勢力に発達した。
福島と茨城の県堺では都々古別社がグループを形成(味耜高彦根命)。
ここでは東北縄文が濃いゆえに、ツツ蛇の子の意だと思います。

鬼怒川沿いにある数社(千勝)では御祭神に猿田彦命を祀る。
おそらくは、現地の古い祭祀(≒弥生に遡る)の意をもって猿田彦命(書紀での縄文イメージ)としたのではないか。
(ひょっとすると強制的に)
全国的に、現地の古い祭祀を延喜式以降に猿田彦命に置き換えた社が少なくないと考えています。






[11930] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 かたばみ 投稿日:2016年10月 7日(金)16時16分
今井よりさんへのお返事です。

書きかけていたのを誤って消してしまったみたい。
マツタケご飯とぎんなんの食い過ぎかな(うんと安いカナダ産です、香りがやや洋風ですが十分)。


>海岸線に位置する2社は、ご神體の磐座を控えています。

磐座を伴うなら縄文にも遡り得る祭祀があった可能性もありますね。
南九州での「天智」は白村江の準備での海人(隼人など兵を含む)の招集と船の建造に関連ではないでしょうか。

>東北の蝦夷と南方の熊襲(隼人)討伐
>どちらにも「日本健尊」伝承があります。

九州での日本武尊が関東での日本武尊と同一人物かどうかはわかりませんが・・
(仲哀356-360)も日本武尊のひとりといえる)
関東では豊城入彦命は痕跡が少なくなんともいいにくいですが、日本武尊については戦闘痕跡がみえません。
また、日本武尊は出雲の残勢力の制圧であって、蝦夷との戦闘があったとしても出雲制圧の一部であったと考えています。

別項の榊神社の縁起のごとく先住者への対応が紳士的。
鳥越神社の縁起も住民が日本武尊を祀っている(榊神社は鳥越と同じ社地だったが、徳川幕府の土地利用の都合で移転)。
上野台地には出雲関連社がありますが、ここでも医療をもって日本武尊を援助しています。

景行311-333には無数の子女がいる。
婚姻融和策をとっていたと考えています。おそらく関東の日本武尊もそれを継承していると考えています。
あちこちで子を作った・・はず。
すなわち、関東には日本武尊のみえない末裔がたくさんいる・・まほとんど民間人で伝承は残っていないでしょうけれど。

書紀の書く熊襲は隼人ではないと考えています。
九州の日本武尊は熊襲から名をもらって、小碓命から日本武へ。
熊襲が蛮族であるなら名を受け取るとは考えにくい。
書紀がいう熊襲とは、消滅した邪馬壹国の末裔。
すなわち日本武尊の祖先(開化225-248など)の末裔。だから名を受け取った。

もし、隼人が熊襲であるなら書紀は隼人と書くと思うのです、それで不都合はない。
日本武尊の祖先が宮崎日向であることをあいまいにするために書紀は熊襲とぼかしたと考えています。
ただし、大隅までゆくと卑弥呼との抗争の継承で大隅隼人が王朝に反発していたかもしれないけど。
曽於(曽於郡)のクマですね。

球磨とはなにか、免田式土器の分布と神武の関係に注目しています。
神武の誕生とその祭祀、神武北上に関連するのではないかと。


>この大穴持神社の伝承の「神輿搬入ルート上」に
>太玉神を祭祀する神社が幾つか鎮座しますが

大穴持神はちとやっかい。
大穴持神は山陰で最古、半島経由の農耕渡来(BC500以降)と接触していた文化圏、サヒメ伝承。
大穴牟遅命と大己貴命は同じで、東シナ海系海人。須勢理姫の婿(素戔鳴尊渡来BC190頃。島根のキサガイヒメ(出雲国風土記)、因幡の白兎。
大国主命ははるかに下って神武 36- 66とほぼ同世代の豊後、神武への国譲りと島根への引退。
同名処理によって出雲系譜の年代や位置がぐちゃぐちゃに(^^;

九州における出雲の南下は熊本ないし阿蘇山麓までと考えています。
したがって南九州で出雲系が登場するのは飛鳥奈良以降であろうと考えています。
(韓国岳とか韓国宇豆峯神社の呼称の由来とは、です)

太玉神は天孫降臨の随伴者ですから、南九州に存在しておかしくないと思います。
かえって北九州はほとんどが出雲文化圏であり、こちらには存在しなかった可能性あり。
ただし神武が運んだ可能性はあります。


さて、丹波の大粒の栗が到着。
栗むき器なるもの購入、なにせ渋皮むくのがやっかいで栗ご飯作るのを敬遠していたので。





[11929] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 神奈備 投稿日:2016年10月 5日(水)20時13分
かたばみさんへのお返事です。

楡山神社さんのHPに、こんなのがありました。http://nire.main.jp/rouman/

 (3)面足命(おもだる-のみこと)
 一部の"ちかつ社"の祭神でもある面足命とは、不思議な神である。古事記冒頭の神代七代の第六代目に当ることから、神仏混淆を色濃く残す第六天社の祭神ともされる。
 三面六臂、八面六臂などの慣用句は、仏像の姿から来た言葉といひ、多面多肢の仏は多い。埼玉県熊谷市下増田の近殿神社(祭神:稲田姫命)は、武蔵風土記稿に「村の鎮守なり。本地十一面観音を安置す。観音寺持」とある。日本では十一面観音は四臂で描かれることも多いといふ。面足命とは、もと多面多臂の仏像を祀ったことから、近代に定められた祭神名なのかもしれない。
 漢字の字形のよく似た「百足」から来たかについては未調査である。馬蹄石のやうに、何かの動物の足跡が石などに残ったことから来たのかどうかも、考慮中である。

 『平成祭CD』を見ていますと、由緒の書いたものは少ないのですが、第六天社は鎌倉時代以降に創建されたものが多いように思われます。





[11928] Re: 第六天社、面足尊と惶根尊 今井より 投稿日:2016年10月 3日(月)18時26分
かたばみさんへのお返事です。

>
> 参考図 鹿児島での面足尊を祀る社(住所と御祭神は神社庁平成祭りデータによる)
> 野井倉神社 曽於郡有明町野井倉6833 惶根命、淤母陀琉神を祀る(国土地理院地図では神社マークなし)
> 若宮神社 東市来町伊作田827 仁徳天皇 武内大臣 面足命 猿田彦命
> 宮浦神社(宮浦宮) 姶良郡福山町福山2437 國之常立神〜伊弉諾尊伊弉冉尊 天之忍穂耳尊〜神武
> 檍神社 末吉町南之郷4772 天之御中主尊〜伊弉諾尊伊弉冉尊 その他
>
> 鹿児島の三社は海岸にある(檍神社は内陸ですが宮浦神社の勧請とある)。
> いつの時代かは別にして、関東同様の開拓と治水の成就祈願での伊弉諾伊弉冉尊以前、があるのではないか。
> ま、順次全国をチェックしてゆくつもりですが、消えたり変化したりしないでほしいところ。
>
>

こんばんわ。
せっかく鹿児島の話題を掲載して頂きながら、、
遅くなり恐縮に存じます。

海岸線に位置する2社は、ご神體の磐座を控えています。
航海の目印になったと感じます。
昔は山頂にお社があったようです。

檍神社は住吉神繋がりです。

三社とも「天智天皇伝承」と関連があるのです。
精査は頓挫状態ですが、、
天智天皇の道先案内をした海運の長がいたのでしょうか。

南北朝の頃になると、後醍醐天皇の皇子らが当地へ。
四国〜日向〜谷山(鹿児島)
この頃になると史資料が幾つか散見されます。



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