加太淡嶋神社
和歌山市加太116 its-mo

拝殿 人形の群(3月2日午後)中央が白木の船

交通案内
南海加太線加太駅 20分

祭神
少彦名命、大己貴命、息長足姫命

摂社 淡嶋社、楠神社、天日神社 ほか

由緒
 当初は淡嶋(加太友が島の神島)に祀られていたのを、仁徳天皇が遷し、祖母神の神功皇后を合わせ祀ったとされる。 神功皇后が出兵からの帰途、嵐にあい、ながれのままに友が島にたどり着き、そこに少彦名命が祀られていた祠があったのでこれに奉幣した。 この神社の本質は女性の信仰と漂泊神信仰である。淡島神は天照大神の第六番目の姫であり、十六歳で住吉明神に嫁いだが、下の病にかかったため、巻物・楽器とともにウツロ船で流され、翌年三月三日に淡島に流れ着いた。
 現在、雛流しの神事が有名である。御祭神、少彦名命、息長足姫命の男女一対の像が男雛女雛の始まりであると言われる。
 式内社名草郡「加太神社」とされているが、ここは海部郡である。下津町に粟嶋神社がある。名草郡である。この神社も少彦名命を祀っている。

お姿
 本殿は木造檜皮葺流造。社叢は海辺の山を背景に南国的な雰囲気である。門前には土産物屋が店を開いており、海産物などが多い。サザエの壺焼きもおいしい。

雛流しの神事
 節句とは自分に憑いた悪気を祓う日で、けがれや災いを人形に負わせて流す風習があり、奉納される人形を白木の船に乗せて加太の海に流す早春の神事が残っている。祭神の神功皇后と少彦名命の男女一対の御神像が男びな、女びなの始まりという。


門前市をなす

お祭り
秋祭 10月3日   雛祭 3月3日  針祭 2月8日

紀伊国名所図絵から




紀伊續風土記 巻之二十三 海部郡 加太荘 加太村から

○加太神社  境内 周十六町  禁殺生
  本 社
        大己貴命
   祀 神  少彦名命
        息長足姫尊
   祝 詞 社   拝 殿  神 輿 社
   神 楽 所   文 庫  御 供 所
   廳   舎   神 廐  鳥 屋 二 柱
  末社九社
   牟巣夫社  蛭兒社  春日社
   大神宮   楠神社  大山神社
   地護神社  岬 社  住吉社
  摂社六社
 加太日野礒脇深山大川六箇村の内にあり 各村に出たり
 延喜式神名帳名草郡加太神社
 本国神名帳海部郡従四位上粟島大神
村中西の端にあり 一荘の産土神なり 延喜式には名草郡加太神社といひ神名帳には海部郡粟島大神といふ 郡名神名共に異なれとも其實は一神なり 故に世通して淡島大明神と唱ふ 當社上古は友ヶ島の神島に鎮り坐り
神島今に島手といふ 友ヶ島の西にて島を離るヽ事一町半許にして神島あり 周四五六町許 因りて島の神と称す寛文記 此時は少彦名命大己貴命二坐を祀り奉る 友島古名淡洲といふ淡洲又淡島又粟島とも書す 書紀曰少彦名命至淡洲而縁粟莖者則渡而至常世郷矣即是なり 淡島大神とは舊淡島に在すを以て称するなり 社家曰 神功皇后筑紫より凱旋の御時 皇子を武内宿禰に託して紀国の方に趣かしめ 皇后は難波の方に至らせ給ふに海上に俄にて風波の難に遇はせ給ひ  皇后親ら苫を取りて海上に投入て神の裕助(タスケ)を祈らせ給ひ苫の流れ行くまにまに御鑑を漕かせ給ふに此の二柱の神の鎮り坐せる淡島に着せ給ふ さては此御神の擁護によれるなりとて軍中の御品井に韓国にて物に得給へる御品々神殿に納て神徳に報賽(ムクヒ)させ給ふ 今當社に傳ふる所の神寶是なり 其後皇絲 仁徳天皇淡路島に遊猟し給ひし時御社を加太の地に遷し奉り皇后の御崇敬ましましける此神なれは直(タヽチ)に 皇后を会せ祀り一宮三坐の神となし加太神社と称へ奉れり 寛文記に淡島明神に 天照大神の姫宮住吉明神の后といふ俗信には 天照大神第六の姫宮といふ 又舊跡志には 天照大神の女弟月読尊なりといふ 何れも牽強付会の説にして信じかたし 當社延喜式に名草郡に入り神名帳には海部郡い入るものは加太村 古は名草郡の内なりしに後名草在田日高縁海の地を割きて海部郡を置れしより加太村は海部郡の内に入れり 其海部郡をおかれし事何れの時なる事は詳ならされとも延喜以前なる事は明なり 然れは延喜式にも海部郡に書さるへきに元の郡名を擧て名草郡と書されしは古語拾遺に天平年中勘造神籍とあれは此時當社右神籍に載せられ海部郡を置れしも大抵其頃の事にして 海部郡の名神亀元年始めて国史に見えらり 社家の説には和銅年中始めて海部郡を置といふ 然れとも其説稽據なし 其事いままた世に遍く知られす因りて神籍を造るもの元の郡名を擧て名草郡加太神社と書されしならむ 後延喜式編集の時神名式は天平の神籍を本として書されし故そのまヽに名草郡と書されしなるへし 本社の左右に枯木二株あり 長三尺餘圍二抱許土人呼て伽羅木といふ 左紐柏なるへし 天正十三(1585)年兵火に焚かれ其木心其まヽに遺れるなり 社地の古きを窺うに足れり  社の後に歯黒石といふあり 婦人其石の粉を鉄奬水に和して歯を染れは縁付早しと争ひてこれを求む 其石の凹なる所に水あり 海潮の往来に従ひて盈虚すとうふ
祭礼三月三日を大祭とす 神輿神幸所に渡御あり
神幸所に飽等濱にあり 兒獅子舞面かつき等あり  又村中の舊家皆質素襖を着て神輿供奉をなす 其式頗賑はし 又加太浦は三月三日潮乾の名所なれは国中の貴賤他邦の男女船を泛へて群参す  又四月九月十一月皆神事あり 国造舊記十一月朔日風祭といふありワうワう(ママ)の渡ともいふなり 国造家より両人の人母中臈安主なとに令して祭らしむ 又應永六(1399)年同記に粟島社の祭事十一月庭立祭といふあり 其記に曰庭立祭の時大島やなる門のわかめ潮みたは都へなひけ我もなひかん江いさいさ三返とあり 又同記に學粟島船漕之様とあり
古は国造群中の祭事を掌りし大社はかくの如く皆祭りしなり 今は其事絶たり 紳家諸侯方及ひ諸国の士庶より雛并に雛の其婦人の手道具等を奉納する事多くして神殿中に充満す 社家曰此事 神功皇后當社へ少彦名命の雛形を造り御奉納有しより始まるといへし 字礼豆玖物とて雛を作りてひ或は神殿に納れは婦人女子小兒の諸病を攘除き夫婦のかたらひの妙をなす 悪神を祓ふ鎮め給ふ諸国の雛祭も是より始まるとそ
   神 寶
 古   鏡     神功皇后御鏡といふ
 八坂瓊曲玉
 太刀二口      
一口は無銘 神功皇后御太刀といふ 一口は銘正宗大塔宮太刀といふ
 綾 巻 物     
神功皇后韓国の物にて神殿に納め給ふといふ
 大塔宮奉納兜 
其外諸寄附の太刀数口諸家の文書寄附状等少しはあり 神寶文書縁起の類多くは兵乱の為に紛失せり
 




公式加太淡嶋神社
古代史街道 紀ノ国編

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