濱宮(はまのみや)
和歌山市毛見1303 mapfan

鳥居

交通案内
阪和線  天王寺→和歌山(60分 830円) 海南藤白方面行きバス浜の宮 西へ5 分
南海線  難波→和歌山市(60分 円) 海南藤白方面行きバス浜の宮 西へ5分


祭神
天照皇大神、天懸大神、国懸大神
摂社
豊鋤入媛神社、中言神社、高皇神社、天満宮、恵比須神社、毛見金比羅宮


由緒
 日前国懸神社の遷宮前の場所とされている。
 神武東征時、天道根命は神鏡と日矛の神宝を奉じて、加太(加太春日神社)、木本(木本八幡宮)、琴の浦の岩上へと遷ったと伝わる。 漂着神の寄りつく海辺の伝承であり、海人の斎祀った神の姿を思わせる。

 一方、崇神天皇五十一年、豊鍬入姫命が天照皇大神の御霊代を奉じて名草浜宮に遷した際、同時に琴の浦から天懸大神、国懸大神も遷し、宮殿を並べたと伝えられている。 崇神五十四年、天照皇大神が吉備名方浜宮に遷座、その後、天懸大神、国懸大神は垂仁天皇十六年、名草萬代宮(現在の日前宮)に遷ったと伝わる。 この時、名草萬代宮に鎮座していた伊太祁曽神社は山東へ遷座したとされる。

 浜宮は「元伊勢の大神」とたたえられた。
 また「アシ神様」とも呼ばれ、敬われてきた。名草で「アシ神様」とされる神社は千種神社足守神社がある。 千種神社は名草戸畔の足を祀ったと伝わり、歴史の底で何らかのつながりを感じさせる二社ではある。

 境内社として中言神社、布引神社等が祀られている。

社域風景



お姿
  海岸に近い山裾にひっそりと鎮座している。 鳥居をくぐると正面に丸石が祀られている。丸石は江戸時代にもあったのかも知れない。これは南紀に残る習俗であり、海人系の神社を思わせる。
 社殿周辺には大きくはないが木々が多いのは海岸に近い立地らしい。 南側は磐の多い崖になっている。古社の風格と海を感じさせる。


本殿




丸石



お祭り
4月16日 例祭


紀伊国名所図絵から




紀伊續風土記 巻之十五 名草郡 神宮下郷 毛見浦から

○濱宮  境内 東西五十八間 南北十四間
 本 社
   祀神 太神宮  日前国懸宮
 末社四社 中言社二社  天満宮  恵美須社
  座 敷  神楽所  木馬屋
  鳥 居
 寶 蔵  瑞 籬  庵
村中にあり 一村の産土神なり
倭姫世記云う 崇神天皇五十一年甲戊遷木之国奈久佐濱宮積三年間奉斎于時紀伊国造進舎人紀麻呂艮地口御田五十四年丁丑遷吉備國名方濱宮四年奉斎于時吉備國造進采女吉備津比賣又地口御田國造家舊記曰
 神武天皇東征之時以神鏡及日矛託天道根命而斎祭焉天道根命奉二神神寶到于紀伊國名草郡加太浦自加太移于木本従木本到于名草郡毛見郷則奉安處于琴浦之岩上也至
崇神天皇五十一年豊鋤入姫命奉 天照大神御霊遷坐于當國名草濱宮之時日前国懸兩大神自琴浦移于名草濱宮並宮鎮坐蓋三年也同五十四年十一月 天照大神雖遷吉備名方濱宮日前国懸兩大神留坐于名草濱宮至 垂仁天皇十六年自濱宮遷于同郡名草之萬代宮而鎮座也今宮地是也
とあり 按するに 伊勢大神宮及日前国懸兩大神の此地に御鎮座ありし始末日前宮の條に詳なり 伊勢大神は吉備名方に遷り給ひ日前国懸は萬代宮に遷り給ひて猶其御神を此処に祭りて其舊跡を存せり 古は神田も多く
 寛永記に濱ノ宮免田三段中言ノ社五段里神ノ社二段 天正十三(1585)年没収すとあり 宮居も厳粛なるに天正の兵燹に罹り社殿神領まて亡失せしに元和(1615年−)中 國命ありて再興せられ享保(1716年−)以後は伊勢ノ宮殿を模せられしかは往古の遺風宛然としていと崇き神境とはなれり 神事は八月朔日九月九日なり 昔は日前宮より神馬三匹渡れり 今は絶たり 神職は國造家兼帯なり

○世記載する所 太神宮諸所に遷られ給ふ順次倭國より木乃國奈久佐濱ノ宮次に吉備ノ國名方濱ノ宮次に倭彌和乃御室ノ嶺ノ上宮なり 意ふに吉備毛見紀三井元皆一音にして此ノ濱の総名ならん 唯少轉用せしのみなり 毛見浦の東南一里餘に名方浦あり 吉備は此ノ邊の総名にして名方濱ノ宮といふもの即チ是なるへし 吉備の事詳に名方村の條に辨せり

○末社中言の神事は九月廿三日 昔は猿楽式三番叟あり 今は翁の舞のみあり 又恵比須の傍らに御腰掛石といふあり 豊鋤入姫 太神の御霊を奉して腰を掛られし石なにや  崇神天皇五十一年甲戊四月八日遷木之国奈久佐濱ノ宮河底岩上紺瑠璃鉢座三年奉斎同書に五十四年丁丑遷吉備ノ國名高濱ノ宮神崎岩ノ上残水御壷座四年奉斎とあり鉢と称し御壷と称するも共に自然の石鉢をいふなるへし 毛見郷の海邊の石は悉今に紫青色を帯ひて紺瑠璃といふへし
  

古代史街道 紀ノ国編
和歌山県神社庁 濱宮
神奈備にようこそに戻る
inserted by FC2 system