伊勢部柿本神社
和歌山県海南市日方1338 its-mo


伊勢部柿本神社 公式サイト

交通案内
JR海南駅北1km

鳥居

祭神
天照大神、素盞嗚尊、熊野久須毘命、市杵嶋姫命
摂社 蛭子神社、山王神社、稲荷神社 ほか

由緒
 『倭姫命世記(やまとひめのみことせいき)』によると、崇神(すじん)天皇の御代五十四年に、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が、天照大神の神霊をおまつりしようとして、理想郷を求めて諸国を巡行された際、吉備国名方浜宮(きびのくになかたのはまのみや)に四年間神輿を止めておまつりになったのが起こりだとしている。

 徳川時代の学者、伴信友や『紀伊続風土記』によると、吉備国名方浜宮こそ、現在の海南市名高の井引の森(国鉄海南駅の東方)であるといわれている。しかるにそこは海浜で、高潮や津波の恐れがあったので、現在の社地にお遷しし、往時の社殿は壮麗を極めたと伝えられているが、天正十三年、豊臣秀吉の紀州征伐の際消失した。その後慶長九年に再興され、以来当町の氏神として、町の発展と氏子の繁栄にその御神徳が顕著である。

大神宮遺蹟の石碑 mapion石碑
 横の説明板は井松原合戦についてで、織田信長紀州攻めの折り、信長に味方する側と雑賀孫市に組みする側の合戦がこの地で行われ、双方合わせて200人の戦死者が出たと言う。


 伊勢部柿本神社の祭礼の際には名草濱宮から宮司が来ないと始まらなかったと伝わる。現在でも行き来がある。

 日方浦の海運業および商業が盛んであった徳川時代より、海上安全・商売繁栄を祈願して奉納された千石船の模型ならびに絵馬・燈篭が県文化財に指定されている。

 神事としては、夏祭の作り物(七月十一日)と戎神社の吉兆授与(一月十日)が特に有名である。

お姿

 山裾に鎮座、石段を登れば、静寂な杜の中になる。落ち着いた奮起の神社である。穏やかな宮司さんの人柄が行き届いている神社です。

拝殿


お祭り
 6月30日 大祓式(わくぐり)
10月11日 例大祭(秋祭)


紀伊国名所図絵から 名方濱宮
日方村の南に接する人家を名方といい、名方に接するを名高という。名方・名高合わせて今一村とす。前編名高浦の條下(くだり)を補うべ し。さて当国造家旧記に、崇神天皇五十四年、天照大神吉備名方濱宮に遷座し給うことを記せり。この吉備とは、山陽道の三備の地にはあ らで、この地の大名(おおな)なりしが、後世その名廃れたるなるべし。されど里伝にいささかしるすべき事もあれば、遷座の地は今の い引 森にて、古は濱宮ともいいしなるべし。又{倭姫世記}には、名草濱宮に遷座したまい、名方より大和国御室峯に遷座したまうよし記したるを 以て、前編い引森の條下(くだり)に、吉備を山陽道の方とすれども、もとよりかの{倭姫世紀}は、後人の偽作せる書なれば、よりどころとす るに足らず。おもうに、国造家旧記には吉備とのみありて、国の字なく、{倭姫世紀}に国の字あるは、この地の大名(おおな)なりし吉備を、 三備の吉備国にまぎらわして、しか記せるならん。大和国へ遷らせ給うも、備中よりはこの地の方便あり。


紀伊續風土記 巻之十九 名草郡 大野荘上 日方浦から

○産土神社  境内周五町
    里神社 方四尺 
祀 神 妙見社 五尺 四尺五寸 
    熊野権現 蔵王権現社 方四尺 
 末社三社 八王子社 秋葉社 金毘羅社
  拝 殿  瑞 籬  石 階  神楽所三間 十二間
  祓 所  鳥 居  穀屋阿弥陀寺 真言宗京勧修寺末
  護摩堂
村より東の山崖にあり 一村の氏神なり 別に神主はなくて當村座頭二十六人支配す 社殿壮麗なり 傳へていふ 里神は
天照大神にして毛見濱ノ宮と同體の御神にて地主神なりとそ 今按するに此御神は名方濱ノ宮の社を此に遷し奉りしならん 名方浦に藺引ノ森といふ地あり 濱ノ宮の舊地なり 其地海嘯洪波の患ひあるより何れの時にか其患を避て此山岡の地に高き處を擇ひて御社を遷し奉れると見えたり 濱ノ宮は名高浦の條に出つ (中略)
妙見並に熊野権現蔵王権現の社は舊は奥の谷といふ所にありしを寶永中(1704年−)此里神の境内に移せるなり 明暦の記を考ふるに妙見ノ社本地に阿弥陀堂あり 其堂の鎮守に熊野権現蔵王権現あり 古は社殿壮麗なりしに天正十三(1585)年の兵火に焼失して後慶長(1596年−)の初再興あり 其後寶永四(1707)年高波のとき今の里神の境内に移し祀る


紀伊續風土記 巻之十九 名草郡 大野荘上 名高浦から

○名方濱ノ宮舊跡
  藺引森
村の東街道より二町許にあり 倭姫ノ世紀に五十一年甲戊遷リ 木乃國奈久佐ノ濱ノ宮積三年ヲ之間奉斎云々五十四年丁丑遷リ玉リテ吉備ノ國名方ノ濱ノ宮四年奉斎于時吉備ノ國造進釆女吉備都比売又地口ノ御田ヲとあり此吉備ノ國名方ノ濱ノ宮は即此地をいふなり 奈久佐ノ濱宮は今毛見浦にあり 夫より二里許にてここに遷り給へり 吉備ノ名和名抄及霊異記なとには在田郡ノ中ノ郷名とせり こは世記にいへる吉備は此名方のわたりより在田郡の地をかけたり大名の稱なるへし 後三郡定りし頃改めて吉備を以て在田郡の一郷の名と定められしなり後其郷名も廢たれとも今も猶在田郡藤並ノ荘下津野村の小名に吉備野といふあり これ古名の纔に遺れるなり 大神宮此地に四年留り給ひし後大和ニ國三輪の御室カ嶺に遷らせ給ひけれと其御跡に猶祠を建て御神を祀り奉りしに此邊海濱なれば津波なとの患ありて何れの時にか在けむ其御社を程近き岡山の上に奉りて里神と稱て今は日方浦一村の産土神となせり さて其舊跡は後世藺引ノ森と稱て日前宮神事ある處となれり 國造家應永六(1399)年日前宮神事記に九月藺引ノ祭事を詳に書せり 藺引とは此地に生たる藺をとりて日前宮相嘗ノ神事に用る筵を織りしなり 今は其地皆田畑となりたれとも猶汗下にして池澤の埋れたる形あり 濱宮及藺引ノ森の事詳に神社考定ノ部に出せり


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