宇賀部神社
海南市小野田917 Google map


鳥居


宇賀部神社・杉尾神社・千種神社 三社の由緒
 名草の邑の名草戸畔はおそらくは卑弥呼と同じく国の祭政を統べっていた女王であった。
 そこに侵略してきたのが磐余彦(神武天皇)の軍である。食料・物資と兵士の調達、紀ノ川の水運の確保などこの地は大和攻略とその後の政権維持の戦略上の拠点であり、完全に制圧する必要があったのだろう。
女王軍の抵抗むなしく、名草戸畔は残酷にも頭、胴、足と切り刻まれたのである。
日本書記には「賊を誅す」とあるが、負ければ賊軍あつかいである。邑人は捨て置かれた頭、胴、足をそれぞれ葬り、祀ったのである。*1 その三社を紹介する。 地元の人々の生活の中で言い伝えられてきた伝承は息が長い。そこに神社の形をとると一層長く伝えられるものである。


交通   
 オレンジバス野添 北1.5km

祭神
   
宇賀部大神(軻遇突智命)、荒八王子命、誉田別命

由緒
   優雅なたたずまいをなしている。本殿は美しく、輝いているように見える。神木の栂の木が見事で。地元の人々の名草姫へ想いは二千年近く経った今もあついのだ。
 おこべさんと親しまれる「頭」の神様として、受験生の親に人気があり、海南、紀三井寺近辺の多くの人々がお詣りする。城山が神奈備。ルバング島の小野田寛郎さんの本家が宮司を勤めておられる。

拝殿


お姿
   
 小野田の集落の西端の山の麓に西向きに鎮座している。
 摂社の名前も大きく書かれており、明快な雰囲気の神社。

 高倉山から旧石器時代のサヌカイト製有舌尖頭器が出土している。大和の石。

本殿 流造檜皮葺

栂の神木

お祭
 
 
 例大祭 10月14日、冬祭 11月23日、宇賀部講社祭 11月第一日曜日


紀伊續風土記 巻之十八 名草郡 多田郷 小野田村から



○産土神社
     荒八王子大明神
 祀 神 宇賀部雨大明神  合殿  二間一間半
     若 宮 八 幡

  拝 殿   御供所   鳥 居   玉 垣
 末社天満宮
 東村の北にあり 一村の氏神にて社殿壮麗なり 中央祀神詳ならす 元亀年中(1570〜)の棟札に宇賀部雨大明神とあり社伝に宇賀部は宇賀ノ御霊ノ神を祀り 荒八王子は軻遇突知ノ命を祀るといふ 或説に雨は両の誤にて宇賀部の神と荒八王子の神と両大明神の義といへり 若宮八幡の社は昔村の南高倉山の北の麓にありて上ノ宮と称し当社を下ノ宮と称しけるに百余年前上ノ宮八幡宮を此の地に移して三神合殿に祀るといへり 因りて八幡の古宮の地を今も上ノ宮山といふなり 宮付の山すへて三箇所あり 当社の宮作及び境内の形状尋常 村落の産土神とも見えす必古官知の神にして後世其の神名を失ひしなるへし 今称ふる所社家の説他に考ふる所なれとも姑くこれに従ふて疑を存すといふ 当社旧は神宮寺ありしに享保年中(1716〜)官命ありて除かる
        神 主    小 野 田 氏
 其の家系詳ならざれも寛治二年(1088)の譲状に神主貞吉と見えて旧家なり 宝治二年(1248)応永五年(1398)同三十年正平二十二年(1367)寛正四年正長二年等の田券文保二年(1318)の座論等の古文書を蔵す 文書部に載す

参考文献 *1 謎の巨大氏族・紀氏(内倉武久)三一書房
     *2 日本の神々(平野仁啓)講談社現代新書
        和歌山県神社誌
        平成祭礼データ 神社本庁



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