力侍神社
和歌山市川辺61 its-mo



交通案内
阪和線紀伊駅より南東1700m

祭神
天手力男命
摂社 八王子神社


由緒
 手力男命を祀る元社は、当地より700m北西の神波に鎮座していたが、中古上野村八王子社境内に遷し、寛永三丙寅年三月、神託に依り、両社とも当地に遷座した。

天手力男命の元社


 寛永記に八王子社は、嵯峨天皇弘仁年中に建立したものと云われている。
 古は神地十五町余を所有していたが、天正年中、豊臣氏によって没収されたと云う。
 この八王子社は熊野御幸記に記載されている川邊王子とされる。また中村王子を合祀している。 後世、この地に遷座し、昔の社殿とは異なる所はある。

 力侍神社は、延喜式神名帳には牟婁郡の雨手力男神社とあるが、現在その地に其神なく、後世に至ってこの地に遷座したことによって、本国神名帳の名草郡巻に記録されている。 尚、論社は他に二社あり、熊野本宮大社旧社地大斎原の御戸開神社(摂末社合祀別社)「高倉下命、穗屋姫、天手力男命 ほか」と熊野速玉大社境内の手力男神社「天手力男命」がある。 遥か牟婁郡から名草郡へ遷座するものだろうか。

お姿

 本殿と八王子社は木造檜皮葺流造で、桃山時代の建築とされている。県文化財である。
 参道は長い。社叢は大きく、遠くからでも杜が良く見える。

鳥居と川邊王子の碑


本殿(向かって左)と八王子社



お祭り
春季例祭  4月10日
秋季例祭 10月10日


紀伊国名所図絵 川邊王子の図


紀伊續風土記 巻之十 名草郡 田井荘 川邊村から
○八王子社 ○力侍神社  二社境内 東西二十二間 南北三十間   馬場 長百四間 横 五間  
  本社  各方一丈 廰 二間八間
   末社三社 八幡宮、大神宮、春日社
  本国神名帳従四位上雨手力男神
村の乾二町半許にあり 八王子社舊は上野村に在し力侍神社舊は神波村に在りゝに中古力侍神社を上野村八王子の境内に遷し奉り後又両社とも此地に遷し奉れり 因て両社一境内に並ひ祀れとも神の来由異なり寛永記に八王子は 嵯峨天皇弘仁年中建立にして川邊楠本島神波上野別所落合七箇村の氏神なり 古は神地十五町ありしに豊太閤の時没収せられ古文書の類天正の亂に紛失すとあり按すると当社は熊野御幸記に載する所の川邊王子にして僧心敬かさゝめことの自跋にある八王子の社これなり 後世此地に遷座し給ふに因て古の とは異なる處あり 寛永の後も猶事變して今は川邊楠本島神波四箇村の氏神なり 猶其詳なるは考定部に出たり

力侍神社又権現社と云按するに本国神名帳名草ノ郡従四位上雨手力男神即是なり 神名力侍の義は手力男の称より転て力士の称を生し又一転して力侍の文字を用るなるへし 按するに延喜式神名帳牟婁ノ郡天手力男神社あり 今是を其地に求るに其神なし 疑ふらくは式の後此地に遷し奉りしより本国神名帳には牟婁ノ郡になくして名草郡に書せりしなるへし 那賀ノ郡神領村海神社と同例ならむ 寛永記に天正の亂に神田も没収せられ寶物古文書皆紛失すといふかはかりの大社なれともかく様々の変遷に罹り給へは神の原由も世に明ならさるに至り給へり

祭礼六月十日 九月十日なり 詳は考定部に見えたり

    別当神宮寺  園鏡山山王院 
当社境内にあり 真言宗古義御室真乗院末本堂
 四間九間 薬師堂護摩堂僧坊あり


小祠二社
○王子権現社
 社地周五十間八王子の東にあり 社方三尺
○王子権現社
 社地周十六間村の北二町にあり


古代史街道 紀ノ国編
熊野古道、九十九王子社
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