神明神社
和歌山市堀止西2-4-48 its-mo

鳥居


交通案内
バス掘止 西へ5分

 
祭神
天照大神 配祀 豐受大神

摂社
 神明恵美須神社「蛭子大神」
 神明稲荷神社「稻倉魂大神」
 天満神社「菅原道真」
 金比羅神社「大物主神」
 楠神社「倉稲魂神」
 猿田彦神社 石柱
 皇産霊神社 磐座

皇産霊神社   周辺の石組み
 

由緒
 社伝に、古くは吹上の山に鎮座していたが、天正十三年(1585)豊臣秀吉来り、「当国平安利運長久のためなればとて、表指の鏑矢に願書を添えてぞ納めける」とあり、その夜、国祖南龍公(徳川頼宣)城下町の裏鬼門として奉斎せんと、寛永五年(1628)九月、工を越し、その年十二月に此の地に遷せしと伝わる。
 爾来、吹上今福、砂山地区の産土神として、また家内安全、商売繁盛、諸願成就の神として、その信仰篤く、参詣人その後を絶たずという。
 もっとも此の地は、その昔は吹上荘と称し、小高き山丘にして、南北に連なり、西側は波打ち際なりしと言う。
 また、吹上枯松の跡とも称し、社頭に松の枯れ木あり、その松を吹上袖摺松と唱え、また業平袖摺松とも言う。往昔社前を運行する人皆その松の枝に袖を触れるをもってその名を付したりと。
 鳥居のたもとに「吹上袖摺松」の石碑を存す。

第一本殿

摂社の稲荷神社から第二本殿、第一本殿


 

お姿
 堀止から西に行くと、南側に大きい森が見えてくる。予想以上の大きさの森。
 鳥居の東側に磐座があり、皇産霊神社である。付近には石が多く置かれており、吹上袖摺松の跡の石碑がある。 石段を登ると、小さい松の木が植えられている。新しい吹上袖摺松だが、鳥居の前を歩く人の袖に触れるのは何年先のことだろう。
 幾つかの摂社があるが、殆どが覆殿の中に大切に祀られている。
 『図説 性の神々』西岡秀雄著(昭和36年)、に和歌山市新堀町新明神社内「安産の神」−高さ二尺五寸の自然石のリンガを安産の石としてまつってある。(九十九豊勝氏報)、との記載があるが、どれか判らなかった。埋められたのかも知れない。

猿田彦神社

お祭り
10月16日 例大祭

紀伊国名所図絵から



紀伊續風土記 巻之二十一 海部郡 雑賀荘上 今福村から

○神明社   境内周三町許
 本 社 
六尺 一丈
 摂 社  方六尺    祀 神 豊受大神宮
 村中にあり 此の社、旧は国城の中にありしに 南龍公命して南の方吹上古松の下に移さしむ 今大島某邸中の古松是なり 寛永十二年又此の地に移し奉れり 社小岡の上にあり 鳥居の側古松一株あり 土人袖摺松といふ 神主河野氏 元和五年駿河より陪従の家なり

『平成祭礼データ』神明神社

参拝のしおり 御由緒

 社伝によると「豊臣秀吉がこの地に来り、四方に便利の地なれば縄張りせんとするに、山の西南の木の間に物さびたる瑞垣の社のあるを知り、左右を召して曰く”これはいかなる神を祀れるか”と問いたまえば、これはおとにきく吹上の神にて皇大神宮でまします由を申し上げれば、当国平安利運長久の為なればとて、表指の鏑矢に願書を添えてぞ納めける。」とあり。

 その後、国祖南龍公(徳川頼宣公)城下町の裏の鬼門の守護神として奉斎せんと寛永五年(一六二八年)此の地に遷せしと伝えられている。

 この地はその昔、吹上荘と称し、小高き山丘にして、南北に連り、西側は波打際なりしと言う。また吹上枯松の跡とも称し、社頭に松の枯木あり。その松を吹上袖摺松と唱え、また業平袖摺松とも言う。往昔、社前を通行する人、みなその松の枝に袖を触れるをもってその名を附したと言われている。

 現在は鳥居のたもととに「吹上袖摺松」の石碑だけが現存している。
以上

紀の国古代史街道

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