山口神社
和歌山市谷377 ゼンリン


交通案内
阪和線紀伊駅より線路沿いに東へ2200m

祭神
伊久津姫命

合祀 國常立命、國狹槌命、惶根命、正哉吾勝勝速日天忍穗耳命、天津彦彦火瓊瓊杵命、 彌照命、天兒屋根命、經津主命、武甕槌命、比賣命、伊弉册命
境内社 春日神社、八幡神社、大年神社

由緒
 古くは日吉春日神社といわれたが、明治四十二年、山口王子社、白鳥神社をはじめ、山口村各地の神社を合祀したのを機に、山口神社と改称した。
 昔から当神社の祭神と伝えられている伊久津比売命は、いかなる女神か、また、どの神の配偶神か明らかでないが、古くから安産の神として信仰されていたという。
 当社の創建は詳らかではないが、「紀伊続風土記」によると、「延喜式神名帳名草郡に伊久比売神社あり又本国神名帳従四位上伊久比売神あり」とし、この「伊久比売神」は当神社の伊久津比売命ではなかろうかと記している。当社は平安初期には創建されていたようで、平城天皇が熊野行幸の時、勅使を立てて神殿を拡大したとの伝承もある。また、当社には平安朝初期の武将坂上田村麻呂にまつわる伝承も多く、田村麻呂の墓という将軍塚や、田村麻呂の五世坂上五郎の居住跡といわれているところもすぐ近くにあり、坂上一族が戦勝を祈願して当神社の祭礼を行ったともいわれている。また、伝承によれば、延歴年中(782)に田村麻呂が凶賊退治に来たとき、その送迎にあたった者が、十番頭人として神社の祭礼に重要な地位を占めて、代々引き継がれ、江戸時代まで続いたという。平安時代後期から鎌倉時代にかけて、上皇や女院の熊野参詣が盛んとなり、その街道にはいわゆる九十九王子社が各地に建設された。当社は王子社ではないが、熊野街道沿いにあり、上皇や女院もしばしば立寄ったと伝えられている。

 熊野古道の側にあり、山口王子を合祀している。 ほかに白鳥神社等を合祀している。

お姿

 本殿は木造銅板葺切妻造である。本殿背後の上に阪和線の線路が迫っている。
 参道は長い。500mはあろうかと思われる。

本殿



お祭り
春祭り  4月17日
秋祭り 10月17日

紀伊續風土記 巻之十 名草郡 山口荘 谷村から

○山王権現社  二扉 五尺 七尺
○春日明神社  三扉 二間 三間
     二社境内 東西十町 南北八町 禁殺生  
   拝 殿  神楽所  燈明所
   廳    寶 蔵  御供所
   鳥居二基 馬 塲長三町 横四町  遊覧所方十五間
  末 社  若宮八幡宮 賽神
村の北の方山麓にあり 藤田西黒谷谷里湯屋谷六箇村の産土神なり 山王は 皇統彌照[イヤテル]ノ尊桓武天皇伊久津姫ノ命を相殿に祭るちいふ 一の鳥居より本社まで四町餘森樹蓊鬱として宮居粛整にして實に大社の形あり 古は神田も多かりしに根来の亂に没せられる 綸旨記録寶物も此時皆紛失す 今應安年中(1,368〜)日吉理趣三昧田を山口明教より寄附状の寫あり明教は西村小島氏の先祖なり 天正年間(1,573〜)大和大納言神領二十五石を寄附せらる 今は神供料二石を寄せらる 此社に古より霊鳥二羽ねありて御供を與ふれは必來り食す 他の鳥は近よる事ない 今に毎月朔日には御供を神に獻し又此鳥に與ふ 若國家及氏下に凶事あれは霊鳥來らす因りて與へし御供三四日も経る事あれは神主取て火に附す 又神に祈願するもの霊鳥に御供を與ふるにも應験あれは捨て食す 食はされは應験なしといふ
祭禮五月五日 九月二十二日なり
按するに延喜式神名帳名草郡に伊久比賣神社あり 又本國神名帳従四位上伊久比賣神あり 先輩これを考へて楠見荘市小路村に在す市姫明神をこれと定めたり 然れとも市小路村古は海中の地なれは式内の神在すへき地にあらす 社地の形状も大社たる姿なし 當社山王社相殿に伊久津姫命を祀ると云傳るときは恐くはこれ古の影の僅に遺れる所にして延喜式並に本國神名帳に載する所の伊久津比賣神ならんか 後世浮屠氏別當となりて漫[ミダリ]に神名を改め或は他神を合せり祀りて遂にその本を失ひてかくはなり來りけん 今にありて其證とすへき事なきを以て妄[ミダリ]に改めす 姑く擬を傳ふ神主紀越後といふ 國造家の分家なりとそ


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古代史街道 紀ノ国編
熊野古道、九十九王子社
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