船守神社
大阪府泉南郡岬町淡輪4442番地 ゼンリン


交通案内
南海本線淡輪駅 南西へ800m

祭神
紀船守、紀小弓宿禰、五十瓊敷入彦命
摂社
恵美須神社「事代主命」
八幡宮「應神天皇」
稲荷神社「宇迦之御魂大神」

船守神社


由緒
 紀船守は紀雄人の子で、授刀舎人(たちはきとねり)であった。恵美押勝の乱(天平宝字八年(764年))の際、押勝を射殺したとして勲功があったと言う。
 紀朝臣の祖は武内宿禰と言うことになっているが、宿禰の子の紀角禰は紀ノ角と称し、紀氏の祖となっている。

 『日本書紀』ではいわゆる河内王朝の頃に紀氏が半島攻略の海軍面での活躍が記されている。
応神天皇の巻
 応神天皇三年、百済の辰斯王が貴国の天皇に非礼があり、紀角宿禰・石川宿禰・木莵宿禰を使わした。百済国は辰斯王を殺して陳謝した。紀角宿禰らは阿花を王として帰国した。

仁徳天皇の巻
 仁徳天皇四十一年、紀角宿禰を百済にやり、国境の分け方、郷土の産物を記録させた。この時百済の王族酒君が無礼であったので、紀角宿禰は百済王を責めた。

雄略天皇の巻
 雄略天皇九年、紀小弓宿禰が新羅討伐の大将軍として海を渡り、新羅軍を打ち破った。この戦で、大伴談連と紀崗前来目連が戦死、紀小弓宿禰は病没と記されている。 紀小弓宿禰の子の紀大磐宿禰は父の死を聞いて新羅に向かったが、蘇我韓子宿禰などと仲違いして、帰還した

顕宗天皇の巻
 顕宗天皇三年、紀生磐宿禰が任那をまたにかけて高句麗と通じ、三韓の王となろうとし、自らを神と称した。

欽明天皇の巻
 欽明天皇二十三年、新羅が任那諸国を滅ぼしたので、修復のために紀男麻呂宿禰が大将軍として派遣された。

 これらの伝承は紀氏の水軍が古代に活躍したことを物語るのであり、それにつながる紀船守もおそらくは水軍戦に得意だったのであろう。

 この泉州に紀小弓宿禰は葬られたと言う。紀氏の拠点は紀の国であるが、日根郡はそれに接しており、紀氏が移住していたようである。 紀小弓宿禰から紀船守までは約300年、この地田身輪の産土神として祀られ続けたのであろう。

 淡輪駅東に宇土古墳がある。明治維新までは紀小弓の古墳とされていたが、維新後は五十瓊敷入彦命の古墳とされ、宮内庁管轄となっている。

宇土古墳 全長170mの前方後円墳



お姿

 本殿は神明造木造檜皮葺の桃山様式の建築物の重要文化財である。豊臣秀頼の命により、片桐旦元が造営と言う。
 神社は無人だったので本殿を見ることは出来なかった。西側の民家の横の溝の横を奥に入っていくと本殿の屋根が少し 見えてくる。犬がうるさく吠えたのでそこそこで写真を撮った。

船守神社本殿 


 本殿に力を入れており、拝殿などは古びた建物である。神社によっては本殿もそこそこに社務所を立派にする所が多いように思うが、ここは希少価値がある。 崇敬の心が篤いのだろう。
  大きい楠の木が神木、樹齢700年だそうである。

お祭り

 10月 14日 2日間 例祭(秋祭) 神輿黒崎浜に渡御は15日


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