『紀伊続風土記』那賀郡 田中荘 打田村 から
○山王権現社 境内周十四町許
村の東の端にあり 打田上野花野中井坂下井坂阪馬場西大井東大井黒土竹房窪十一箇村ノ産土神なり 田中ノ荘八社の一にして総社といふ 相伝ふ天長年中慈覚大師 勅命を蒙り江州坂本より勧請す 因りて祭礼の式坂本の如し 又「源平盛衰記」に曰 嘉保二年(1095)叡山ノ衆徒訴訟の事に因りて洛中に押来り陣頭へ参る 後二条関白師道公中務丞頼治といふ侍に命して法に任せて禦ぐべしと下知せられたれは頼治散々に禦きて疵を蒙る神民六人死する者二人祢宣友實が背に矢立ければ社司寺官皆逃れ帰りぬ 夫れより一山の衆徒関白殿を呪詛しけるとそ 関白殿の夢に比叡の大嶽己れの身に頽れ壓り又東坂本の方より鏑矢来りて寝殿の上に立つとみて夢さめて青侍をして見せしめらるヽに寝殿の狐戸にしでの付たる榊一本立たり又殿の髪際に悪瘡出来ければ御母儀并に北政所嘆かせ給ひて様々の御祈あり 紀伊ノ国田中ノ荘は殿下の荘園なれとも八王子に御寄付あり これに依りて問答講とて後々まても退転なしとなり 此の事長瀬本平家物語にも出たり
或説に此の地に山王を祀るは此の時より始まるといへり 今按するに旧より此の地に山王を祀り来りしに嘉保二年より此の荘を叡山に寄付せられしより此の社益々繁栄して社殿等壮麗を極め荘中八社の総社なといふに至りなるへし 社領も四町九段餘なりしといふ 天正の兵火に社堂雑舎神宝文書等悉焼亡して社田神祭も皆廃絶す 其の後氏人等再造営せり 古に復するには足らすといへとも祠宇頗盛なり
別当 山王寺 法輪山一乗院 真言宗古義勧修寺末
権現の社地にあり 本地堂釣鐘堂等あり
○若宮八幡宮 境内除地
村の南二町餘にあり上ノ宮と称す 荘中八社の一なり 打田東大井赤尾黒土竹房窪六箇村の産土神とす 此の社天正の兵火に罹りて旧記を失ひ神の来由詳ならす 此の社を上ノ宮と称へ尾埼村の八幡社を下ノ宮と称へともに若宮八幡宮と唱へ来り 神祭も同日なるとこは同神なるへし 古は上下両社とも社殿も壮麗に神田も多く有りて並々の社にあらす 意ふに古 神功皇后三韓より御凱旋の時 皇子と共に名草ノ郡安原ノ荘より御上陸ありて小竹ノ宮に遷らせ給ひ夫より大和に 還幸ましましし時此の地その御駐蹕の地なるを以て後八幡宮を建て奉祭せしなるへし 上下に別れしは上ノ荘下ノ荘と別れしより神社をも両所に分ちしならむ 古は護摩堂御輿蔵拝殿舞舞台并神宝文書の類多くあり神田も二十二町高七十三石あり 天正の兵火に罹りて灰燼となり社田も廃絶す
別当 若宮寺 真言宗古義勧修寺末
八幡宮の社地にあり
○中ノ宮 境内除地
村中にあり 荘中八社の一にして打田上野窪東大井四箇村の産土神なり 祀神詳ならす 此の社の巽に若宮八幡あり これを上ノ宮といふ 尾崎村にある若宮八幡宮を下ノ宮と称ふ 此の神社その中間にあれば中の宮と称するならむ 上下両社は同神なれとも当社は万事別なれは別神なるへけれとも其の神名いまた考え得す 古は社田三町餘あり 天正の後廃絶すといふ 神主井畑氏なり
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