小田神社
伊都郡高野口町小田76 mapfan
  

鳥居

交通案内
和歌山線高野口 南東1,500m

 
祭神
物之部武彦命
合祀 市杵嶋姫命、譽田別尊、大日靈尊、素盞嗚命、倉稻魂命、日本武命
境内社 小宮 倉稻魂命、國保食神、香都知神、猿田彦命



由緒
 饒速日命を祖先に持つ物部大連公、後に小田の連公(第9代開化天皇の妃の兄)は大和より当所小田に移り住居し、祖先物之部武彦命を祀られ小田神社を建立した(1400余年前)。 醍醐天皇の延長5年(927)に編集された延喜式の神名帳に記載されている式内社として伊都郡内では、天野大社と並んで大社として神領も多く朝廷の尊敬も深かったと言う。 しかしその後の数々の兵乱に合って社地衰廃し、祠は焼失してしまった。徳川時代に紀州の殿様徳川頼宣がこのことに非常に嘆かれて「小田神社」の字を石に刻み、2度と焼失することのない石の神殿をお建てになった。 森の広さも一辺4町の四方形であったが、今は周り2町余である。



お姿
 紀ノ川を遡ると万葉集に詠まれた背ノ山・妹山が見えてくる。北から背ノ山、紀ノ川の中の船岡山、妹山と南に並ぶ。ここが畿内の南限とされた所である。
 一度紀ノ川沿いの平地が狭くなり、ここからは比較的平地が広がっている。更に東に川を上ると佐野[さや]廃寺跡がある。 小田神社のある高野口町は紀ノ川が大きく蛇行し、広い平地である。
 小田井堰があり、ここからの水は下流地域を豊かな農業地帯としている。大畑才蔵の工事である。

 丹生川と紀ノ川の合流点に近く、九度山橋を渡ると真田六文銭で有名な九度山町である。 真田祀りは5月3日から5月5日に行われる。行事の一つに新生児の為の鯉のぼりが丹生川を渡して数多くかけられる。新生児に真田父子の知謀と強さの付着を祈るのである。  

本殿



お祭り
10月31日 例祭

紀伊国名所図会から



『紀伊続風土記』伊都郡 官省符荘 小田村 から

○小田神社   境内周二町 
 延喜式神名帳伊都郡小田神社
 本国神名帳伊都郡従五位上小田神
村中にあり 郡中丹生神社を除きては式内の神は当社のみなれは上古は大社にして朝野共に尊敬深かりけんに数度の兵乱を経て社地衰微し祠も廃絶せしを 南龍公嘆かせ給ひて境内に石の宝殿を建てさせ給ひ小田神社の字を刻ましめ給ふ
 森の広さも古は境内方四町もありしに由なれとも今は周二町許なり
 此辺田地の字に神田といふもあれは古は神領も多かりしなるへし
 小田は地名にして祭神詳ならす 或いはいふ舊事記に物部ノ建彦ノ連公は小田ノ連等カ祖とあり当社の小田は姓にて小田ノ連此地に居り其祖物部建彦連公を祭りしより小田社といふか
 

『平成祭礼データ』から 

 饒速日命を祖先に持つ物部大連公、後に小田の連公(第9代開化天皇の妃の兄)は大和より当所小田に移り住居し、祖先物之部武彦命を祀られ小田神社を建立した(1400余年前)。上古は、醍醐天皇の延長5年(927) に編集された延喜式の神名帳に記載されている式内社として伊都郡内では、天野大社と並んで大社として神領も多く朝廷の尊敬も深かったと言う。しかしその後の数々の兵乱に合って社地衰廃し、祠は焼失してしまった。徳川時代に紀州の殿様徳川頼宣がこのことに非常に嘆かれて「小田神社」の字を石に刻み、2度と焼失することのない石の神殿をお建てになった。森の広さも一辺4町の四方形であったが、今は周り2町余である。
 以上

古代史街道 紀ノ国編

物部氏ホームページ

神奈備にようこそに戻る
inserted by FC2 system