志野神社
紀の川市粉河町北志野557

交通案内
阪和線  天王寺→和歌山 (60分820円)
和歌山線 和歌山→紀伊長田 北へ徒歩30分 its-mo


祭神
言代主命、加具土命、息長帯姫命

由緒
日本書記に「神功皇后が紀伊の日高で太子にあい、ここで群臣とはかり、さらに小竹宮に遷った。」とあり、その小竹宮跡と比定する説がある。 御坊市に小竹八幡神社があり、やはり小竹宮に比定されている。
徳川南龍公の御代、この地で奇妙な光と地鳴りが起こり、相談した所、天正の時代に兵火に焼かれた神社があった事がわかり、新たに社殿を建立した所、奇妙な光や地鳴りが消えたとの言い伝えがある。

お姿
 神木は立派である。



お祭り
10月10日 例祭

『紀伊続風土記』 那賀郡 長田荘 北志野村 から

○三社明神社   境内周五町半  禁殺生
 本社三社
 中社 東西御前 愛宕権現  東社 若宮 熱田神  西社 粟島神 蛭子神
 拝 殿       鐘楼    鳥居二柱

 村の北にあり 志野北南両村の産土神なり
 古の社伝記録等天正(1573〜)の兵火に焼亡して事蹟も詳ならす 土人の口碑に遺りたる事もなく痛く衰廃に及ひしを慶安三年(1650)庚寅の春村中に櫻地を穿せられし時明神の社殿より夜々奇異の霊光を発し近辺地動の状ありしか土人震駭せさるものなし 土功を掌りし人 有賀喜兵衛 木村五郎太夫 即その事を注進す 
 国君聞し召れ即時に本社末社瑞籬鳥居等御造営あらせられ尚叉萬治元年(1658)境内山林等を寄せられて著き神社となれり
 按するに書紀 神功皇后の御巻に 皇后南詣紀伊ノ国会太子於日高以議及群臣遂欲攻忍熊王更遷小竹ノ宮とあり其小竹は即此志野村の事にて小竹ノ宮は即今の三社明神其遺址なるへし   皇后此所に暫ク御駕を駐められ武内宿禰等に命して忍熊王を撃しめ給ふ 因りて後人その地に直に 皇后を祀り奉れるなり
 今東屋御前は 神功皇后を祭り奉るといい伝ふる是なり 今東屋御前を本社とすれとも三社明神と称へて合せ祀れる神の多く在すは皆後世の所為なるへし
 如此の霊跡なれとも後世兵乱に因りて衰微に及ひ尚天正の兵火に焼亡して益其事蹟を失ひしに慶安(1648〜)に至りて神光の霊験を著し給へるより今の宮作りとなれり
 小竹ノ宮の事書紀に何れの地といふ事を書されさるに因りて後世其説紛々として一定ならす 或はいふ日高ノ郡にあり 或いはいふ和泉ノ国和泉郡尾ノ井村にあり 或はいふ城州伏見にありなと皆その地形を考へす妄に臆断せる謬説なり 猶下の小竹説の條と併せ考ふへし
  別当   神宮寺   和光山宝塔院
  真言宗古義伊都郡萩原村神宮寺未

○小竹ノ祝
 書紀に云く
 皇后南詣紀伊國。會太子於日高。以議及群臣。遂欲攻忍熊王。更遷小竹宮。〈小竹。此云之努。〉』適是時也。晝暗如夜。已經多日。時人曰。常夜行之也。皇后問紀直祖豐耳曰。是恠何由矣。時有一老父曰。傳聞。如是恠謂阿豆那此之罪也。問。何謂也。對曰。二社祝者共合葬歟。因以令推問。巷里有一人曰。小竹祝與天野祝共爲善友。小竹祝逢病而死之。天野祝血泣曰。吾也生爲交友。何死之無同穴乎。則伏屍側而自死。仍合葬焉。蓋是之乎。乃開墓視之實也。故更改棺槻。各異處以埋之。則日暉炳。日夜有別。
 と見えたり。

 按するに書紀小竹ノ祝といふときは古此地に尊き神の鎮座せるありてこれに奉仕せる神職を小竹ノ祝といひしなるへ
 天野ノ祝といふは今伊都ノ郡天野の神職なり 天野と志野と相距てる事僅に三里余 其ノ神職の互に親く交りし事固よりあるへき事あれは書記に載する所の小竹ノ宮といひ小竹ノ祝といふは皆此地なる事顕然たり されは天野には今も丹生明神嘉野明神などの神在してその神社も著く祝の家も粕続き今に存して萬の事跡もたしかなるに小竹には尊き神の鎮り坐る伝もなく叉祝の家なとと呼ひ来る者もなく遺跡の尋ぬへきもなく口碑の伝もなきは如何なる故ならむ 唯衰乱の世不幸にしで神社も廃絶して祝の家も亡ひしなるへし
 本国神名帳 那賀ノ郡に正三位天言代主ノ神ありて今其所詳ならす 或は小竹ノ祝の斎奉れるは即此神にして後世社廃絶絶して博へをも失ひしなるへし 猶詳に考定部に弁せり
 

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