海(うなかみ)神社
紀の川市神領272

交通案内
阪和線  天王寺→和歌山 (60分820円)
和歌山線 和歌山→打田  北へ徒歩30分 mapfan

祭神
豊玉彦命、国津姫命


由緒
豊玉彦命は古くは熊野に祀られていた。忌部宿彌の子孫の夢に現れ、「我に仕えよ」と言われ、山あいに神鏡があらわれ、輝いたのでこれを祀ったと伝えられている。

 『紀伊続風土記』の牟婁郡大田荘浦神村の条に、鹽釜六社明神社について記しており、此地に旧浦神と称せし神坐しけるに、何れの時にか那賀郡池田荘神領村へ遷座し給へり。其旧地に小祠を建て猶浦神神社と称して産土神とせしに後世鹽釜明神を勧請して産土神とし浦神社を末社とせり今も境内に浦神の小祠あり村名を浦神といふは其神名より起れるなり。とある。

 もう一柱の国津姫命は和泉の海中に出現し、ここに遷座したと言う。この山深い地に船の神が祀られているのは、 山の神や木の神は船の神になるからである。伊太祁曽神社の五十猛命は木の神であり、浮き宝(船)の神であることからも、 また三船神社の祭神が木玉屋船命であり、船材の木を船玉として祀っている事からも推測できる。

お姿
 美しい神社である。鎮守の森も大きい。本殿の四方に絵が書かれている。龍のようである。




お祭り
10月15日 例祭

紀伊国名所図会から

紀伊續風土記 巻之三十 那賀郡 岩出荘 岡田村から
○  ○海神社   境内周四町半余   禁殺生
   祀 神  豊玉彦命 国津姫命   拝殿
  末社四社  穂高見命社 豊玉姫社 玉依姫社 事代主命社
  延喜式神名帳那賀郡海神社
  本国神名帳那賀郡正二位豊海神
  本国神名帳那賀郡従五位上浦上国津姫大神
 村材中にあり 池田ノ荘十六箇村の産土神なり 延喜式海神社 本国神名帳豊海神浦上国津姫大神 海上は即海神なり 称への同きを以て文字転するなり 又浦上大明神といふ庚正二年(1456)の鐘の銘に那賀郡池田荘浦上御宝前とあり 此の鐘今は転して高野山小田原弥勒堂にありといふ 按するに延喜式の海神社は即本国神名帳の豊海神にして寛文記に海上大明神といふ是なり 又別に浦上国津姫大神御坐して別殿に鎮り坐せり故に本国神名帳にこれを載せて一社とす 三代実録仁和元年(885)授紀伊国正六位上浦上国津姫従五位下一是なり 此神海神社と一つ所に並ひ立給ひて海神浦上称名も近き故これを総て海神明神といひ又浦上明神ともいひて両社を兼ぬる称の様になれ来れり 猶日前宮国懸宮と両社並ひ立給へとも惟日前宮といひて両社の通称とすると同かるへし 寛文記に旧一ツ神にて或いは海上と称へ或いは浦上と称ふといふは誤なり 天正の兵火に社頭悉焼失す 同十四年神主山田宿禰秀延仮殿を再建し二座の神を相殿に祀り奉る 今に至り 社伝に海神豊玉彦ノ尊熊野楯ヵ崎に在す それより此地に鎮り坐せりといふ 楯ヵ崎は牟婁郡木本ノ荘甫母浦の東南十八町にあり 其の崎に向へる出埼に室古明神といふを祀る 是当社の古宮ならんか 猶牟婁郡木本ノ荘の條合考ふへし 按するに此地其神の神戸の地なるを以でて北地に齋き祀りしなるへし 村名神領といふはこれによるならむ 又いふ当社の鳥居三箇所あり 熊野楯ヵ崎にあるを一の鳥居とし南中村にあるを二の鳥居とし社地にあるを三の鳥居とすといふ 浦上国津姫尊は本国神名帳に天神の部に載す 神名帳に見はるる所なけれはいかなる神かは詳ならす 摸するに牟婁郡太田荘に浦神どいふ村ありて今浦神の社なし 楯ヵ崎の社を勧請の時此神も此地に遷せるならん 牟婁郡太田荘浦神村 攄に竃神社の條合考ふへし 中古両部に祀り来し故天正の兵火以前の堂舎の左の如し
   本地堂 方五間  護摩堂 方三間  回 廊 十間 十四間
    廳 二箇所   舞台       拝 殿 二間 十間
    宝 蔵     鐘 楼 方二間  玉 垣
    反 橋 二間 十間  鳥 居 二箇所
 右の外に神宝社記古文書の類悉皆天正の兵火に焼亡せり 社領田三町八段 これも没収せらる 是より有来し神事祭礼も皆廃絶す 慶安年間 官命ありて両部を改めて唯一に復す その神主を山田氏といふ
 

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