山崎神社
岩出市赤垣内108 its-mo

西の鳥居


交通案内
和歌山線岩出駅 北西2km



祭神
大市比賣命、大山津見命、須佐之男命
合祀 奧津彦命、奧津姫命、火加具土命、大年神、水波能賣命、八衢彦之命、八衢姫之命、久那斗之命、譽田別命、八王子神、伊弉册之命、天兒屋根命、上筒男之神、市杵嶋姫命、天照皇大神、三筒男之神、猿田彦之命、大倭姫之命、日本武命、稻背脛彦命、興玉命、瀬織津姫命、速秋津姫命、速佐須良姫命、氣吹戸主命、大雀命、栲幡千千姫命、蛭子神
摂社 五十鈴神社、寿福神社、八坂神社、金刀羅神社、牛神社、稲荷社

拝殿


由緒
 人皇七十五代崇徳天皇の大治元年(1126)、鳥羽上皇が根来寺を下山さて、熊野三山へ向かう途中、真田の里まで進んだ時、一転にわかにかき曇り、雷雨激しく行列を進めることができなくなり、お供の人が天地の神々にお祈りした所、雲間より神様がお姿を現し、「吾は大山津見の御子、大市姫神、雷雨をすぐに鎮めましょう。」と言い、たちまちに青天白日が輝き、神の姿が雲にのって消え去り、上皇はしばらくここに御輿を止められたのでこの地を輿止めと呼んだ。
 その後、上皇がこのことを大変よろこび、神社の神官を呼び、詳しく事情を聞き、お使いの人をお詣りさせ、幣帛料・物品をお供えされた。
 天正年間(1573〜)、秀吉の根来攻めにより、兵火にかかり、本社、摂社、古記録を焼失した。

本殿


お姿

 素晴らしい鎮守の森を持つ神社。大きい拝殿と本殿は悠々たる存在感を発揮している。鄙には珍しいと言うべきか、鄙ならばこそと言うべきか。
 拝殿前の梅の花が際だっていた。

八坂神社と手前は牛神社




お祭り
11月 3日  例祭

紀伊續風土記 巻之三十 那賀郡 山崎荘 赤垣内村から

○大市姫神社   境内周三町二十間
 本 社  拝 殿  廳  神楽堂
  護摩堂
 末社十社
  大 神 宮   住 吉 社   春 日 社   
  総社明神社   諸 神 社   三 部 社
  八王子社    舟渡明神社   牛 神 社
  蔵王権現社
 村中南の方に在り 古は 大市姫一座の神を祀る 後生素盞嗚ノ命 大山祇命を合わせ祀り三坐の神となせり 赤垣戸曽屋馬場中野黒木金池相谷湯窪波分尼辻金屋新在家十一箇村の産槌神なり 此の十一箇村の内波分尼辻は弘田ノ荘に属す 其の餘は皆山崎ノ荘なり 然れば波分と尼辻は古は山崎ノ荘に属せしならん 社家相伝へて降雲大市姫ノ神社といふ 中世以来両部に祭り本地を十一面観音とす 雷除の神符を出す 荘中に雷の落ちる事なしといふ 古ヘ社領二町五段あり 殿舎備りしに天正の兵火に悉く焼亡し社領も亦没収せらる 寛文記にいふ 当社に弘法大師川越の額といふあり 大師湯窪村に百日居住し当社に日参せらるる時大師の母刀自尋ね来けれは大師これを避けて川を渡て南せられしに俄に水漲りて渡りかたし 兼ねて額字を書すへきの約ありし故に川を隔てこれを請ふに額を立てさせて川を隔てて筆を投げて市姫大明神と書されたりといひ伝う この額根来乱の時焼亡す その餘寶物旧記此の時皆亡ぶといふ 当社の事詳に考定部に出たり 神主宮本氏あり
       別 当   園 福 寺



古代史街道 紀ノ国編
神奈備にようこそに戻る
inserted by FC2 system