貴志川八幡宮
紀の川市貴志川町岸宮1124

里宮の鳥居


交通案内
紀勢線  天王寺→和歌山
貴志川線 和歌山→甘露寺 北へ1500m mapfan

 
祭神
元々は塞ノ神 その上に品陀和氣命、息長足比賣命、玉依姫命が被さったか
配祀 玉垂神、大雷神、国常立神、北辰星命、住吉大神 ほか
摂社 塞ノ神神社「塞ノ神」、春日妙見神社「春日大神」ほか




由緒

 古記によれば、神功皇后筑紫より帰還の折り皇子と共にお船にて名草郡柏原の郷(現安原)に着き、上陸後、長田の小竹の宮(志野神社 )に赴いたと伝わる。その途中に留まった地であったとの事である。紀ノ川筋の八幡社共通の伝承である。
 康平6年(1063年)、大和国宇智郡坂合荘(現在の五條市坂合)に坂上法兼と言う者がいて、常に八幡宮を尊信していたところ、老年におよび神託を受け、一条の光明燦々として南の方より輝きいた。この山中からであった。「これすなわち八幡宮の影向なり」と社殿を創設、この地に留まり社司となった。

お姿
 貴志川町を見おろす鳩羽山の麓に里宮が鎮座、この山の中腹に中の宮と称する磐座がある。石には古代文字(神代文字)らしきものが見えるが詳細は不明である。古代祭祀の跡であろう。里宮から西に「学習の道」の目印に沿って道なりに沿っていけば、祭祀跡の案内板が出てくる。徒歩10分。周囲は柿や蜜柑の畑が多い。

中の宮




 また案内板の所から更に「学習の道」を登っていくと、頂上付近に大石と白い看板が遠く見える。一の宮(奥宮)である。中の宮から徒歩20分。この「たてり岩」と呼ばれる巨石は魁偉な面を紀州富士(龍門山)の方向を向いて立っている。またこの付近には大きい磐が多く散在している。


奥宮 塞ノ神 6m




 この神社と山は、大和の三輪山と同じ様に、奥津磐座、中津磐座が備わっている。古代祭祀の遺跡としては誠に珍しいものである。

 貴志川の平地は紀ノ川の支流の貴志川の段丘上に開けており、おそらく紀ノ川は古来より荒れ川で北へ南へと流れを変えて、安定した農作が出来なかった時代が長かった。紀ノ川の堤防の整備ができる以前は、この当たりが紀北の農業産地の中心地であったものと思われる。

 貴志は紀州飛鳥とよばれる程古代遺跡が多く、6から7世紀の古墳が散在している。

 貴志から野上の方面に貴志川が流れており、この道筋が古代からの一つの交通路であった事を伺わせる。また丁度貴志川線沿いに和歌山平野に出る道もあり、現在より重要性の高いルートであった可能性がある。

お祭り

10月 3日 秋季例大祭



紀伊国名所図会から

『紀伊続風土記』那賀郡 貴志荘 宮村 から

○八 幡 宮   境内 東西十町 南北六町
  本社三扉 二丈四尺 一丈四尺余  廳 二間 十一間  宝蔵  神輿蔵  鐘楼
  末社十三社
   天満宮  高良明神社  熊野権現社
  出雲社  大神宮   住吉社
田村明神社  松尾鹿島梶取明神  子安神社
    右本社の左右玉垣の内にあり
   宇賀社  春日社  上妙見社  下妙見社
    右本社の傍一二町の内にあり

   村中にあり 荘中の産土神なり 蓮華ノ宮八幡と称す 蓮華ノ宮と称すること 其義詳ならす 縁起に書すこと 最怪誕にて信用しかたし 然れとも明徳の書大永の湯立つ釜の銘に皆蓮華ノ宮とあれは其称舊し
 社地山岡に依り老樹鬱蒼として境内広大なり 一ノ鳥居より五町にして二ノ鳥居あり 本社まで百間余
 社殿壮厳陳庭静粛にして比類最稀なり
 社家の説に古より此地八幡宮の鎮り坐しに康平六年(1063)大和ノ国宇智郡坂合ノ荘に坂上法兼といふ者ありて常に八幡宮を尊信す 老年に及び神の告を蒙り其次子法真といふ者を此地に来らしめ里人を誘ひて社殿を造営し奉り法真遂に此地に留まりて社司となる
 この時国司五條大納言公綱ノ種々の珍宝を寄附し神領の四至を定め 綸旨を申下し賜ふ 此綸旨後世の火災に焼失す 其包紙遺り在し事寛文記に見えたり
 其四至 東限り守山 今北山村賽ノ神ノ地 西限り字志谷 今長山村の西大池の北郡界の地 南限り 財河 今の貴志川ならむ 北限り買羽(カイバ)ガ峯 今小倉荘金屋村との界の峯 右四至の内大抵方五十町今に至りて祭礼に忌標を挿に此四至を用ふ

 此四至を用ふ 按するに音 神功皇后筑紫より御凱旋の御時 皇子と共に御船にて名草ノ郡安原ノ郷に着かせ給ひ夫より御上陸ありて小竹ノ宮に 小竹ノ宮は紀ノ川の長田ノ荘志野村にあり 遷らせ給ふ 此地 車駕御経歴の地なれは 頓宮の御跡あらしを直に其所に八幡宮を鎮坐なし奉りしにて大抵野上ノ荘八幡宮と同し御由緒の地なるへし 然るに野上八幡宮は萬寿二年(1025) 勅命ありて社殿御造営あり 壮麗を極め給ひ 石清水の別宮となし給へり 康平六年は夫より三十余年の後に当たれり 此地の八幡宮修造の事も此等に準へて事を始め社殿も荘厳に神事に至るまてて悉備り神領も広大なりしなるへし
 其後二十余年寛治元年(1087)宮居を五條尾に遷す 今其地を中宮といふ 又其後百五十余年寛元元年(1243)今の宮地に遷し奉る古宮は今の本社の乾四町 中宮は本社の乾三町皆山上にあり 当社に舊く伝はりし縁起あれとも浮屠氏の妄作に出て怪誕の事のみ多かり 唯年月等を書せるは社伝の事実なるへし 因りて其来るへきを擇ひて概略を書せるなり
 星霜推移れとも社殿の盛なる 猶古の姿を失はさりしに足利氏の末国中大に乱れ根来の僧徒此荘を奪わんと度々攻来れとも十二人の番頭力を戮せて防き戦ふを以て勝利を得さりしに或時夜に乗して俄に襲ひ来る 神宝文書の類まて悉灰燼に罹りて唯明徳三年(1392)別当職補任状のみ一通遺れり 此文書元禄の頃まてありしに今はこれも亡失せり
 天正の頃に至りて神領も盡く没収せられ古の姿遣るへきに非れぎも此地の風習神を敬ふこと他に異なる故にや荘中のカを以て神殿雑舎に至るまで壮麗に甍を並へ殆古の形を失はすして今に至るといふ 舊く伝はりし湯立釜あり 釜の羽の上に陽字の銘に御湯釜蓮華宮八幡大畠村孫六大夫大永六年(1526)十一月十三日とあり此釜の形後世の湯立釜と形状かはり三足共に上は釜の腹に着きて下にて大に潤けたり

 明徳ニ年(1391)の文書左に記す
 紀伊ノ国貴志ノ荘八幡宮蓮華ノ宮村別当職并燈油池田ノ事任相伝神主貴志次郎法伝領掌不可有相違之状如件  明徳三年十一月廿日 徒四位上行左京ノ樵大夫多々良朝臣

 古は年中に大祭四度能舞神馬流鏑馬等あり 今は是等の事皆廃絶して八月十二日の祭礼のみ残るといふ 神事の時は七月晦日の夜忌標挿あり これより祭日まて四至の内殺生を禁し荘中にて死するものあれは他荘へ移し葬むるを例とす

 神主一人 田丸内匠 社人五人   巫女二人
 下司一人   公文一人   番頭十二人
 右荘中に在住して神事を執行ふ 神主田村氏は古の坂上法真の後裔といふ 明徳の文書に別当法伝の名あり 即法真の後なるへし 文書家系焼失して今其許なるは知りかたし
   別当    大空寺 八幡山明王院
 八幡宮境内巽の方にあり 真言宗古義京勧修寺末なり 今は衰えてて小庵一宇存せり

 

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