神馬渡御祭と御船祭 熊野速玉大社宮司 上野 元 熊野三山信仰事典(戎光祥出版)
「熊野新宮」の名の御由緒
熊野速玉大社は、熊野三山のひとつしとして、「熊野新宮」とも称され、全国の熊野信仰の中心です。
神代の頃、熊野三山の中心となる早玉(当社御主神である熊野速玉大神」・結(熊野夫須美大神)・家津美御子(素盞嗚尊)の三柱の神々は、まず、神倉山(新宮市西南)に降臨されました。現在も、神倉山山頂には当社の摂社・神倉神社が祀られています。参道には源頼朝の寄進による。五百三十八段もの急勾配の石段があり、山上にはゴトビキ岩と呼ばれる巨岩が鎮座しています。このゴトビキ岩が、神々の御神体です。
『日本書紀』によると、現在の新宮市付近は「熊野神邑」と呼ばれていました。熊野神邑とは、「熊野神の祀られている里」という意味と思われよす。中でも神倉山は、高倉下命が神武天皇東征の際、夢告により霊(ふつのみたま)という神剣を天皇に奉った場所と記され、古代より聖地として、人々の信仰を集めていたことがわかりよす。ゴトビキ岩の下からは弥生時代の銅鐸が出土しており、考古学的にも重要な場所として注目されています。
熊野三所大神は、景行天皇五十八(128)年に、降臨の地である神倉山から、現在の鎮座地に新しく境内・社殿をつくって遷られました。そこで旧宮である神倉山に対して、熊野速玉大社を「新宮」と称するようになり、現在も「熊野新宮」と呼ばれて、人々に親しまれているのです。
『熊野権現垂跡縁起』等の記述によると、当初は現在のような十二社殿の御社頭ではなく、早玉(速玉)・結(夫須美)、家津美御子命を二社殿に奉斎していたようです。速玉は伊弉諾尊の映え輝く神霊を称えた御名、また夫須美は産霊の神、すなわぢ万物を育成し給う広大な御神徳を称えた御名で、伊弉册命尊の別名といわれるところから、二神を御夫婦神として一社に、もう一社に家津美御子神をお祀り申し上げたものでしょう。
現在仰ぎ見る十二社殿の形態は平安初期に整い、熊野十二社大権現として人々の尊崇を集めました。式内大社として正一位を授けられ、孝謙天皇より「日本第一大霊験所」の勅額を賜った社でもあります。
熊野速玉大社の例大祭
当社恒例の諸祭典のなかで、特に有名なものには、毎年十月十五・十六日に行われる例大祭「神馬渡御式」と「御船祭」があります。両神事とも発生年代は神代に遡ると考えられ、それぞれ当社の中心的な神々、すなわち熊野速玉大神、熊野夫須美大神の二神が来臨した姿を演じる祭礼です。
この他、毎年二月六日に行われる「お灯祭」も有名ですが、摂社神倉神杜の例大祭すので、ここでは特に「神馬渡御式」と「御船祭」について紹介することにします。
神馬渡御式
十月十五日に行われる、熊野速玉大神(伊弉諾尊・第二殿主神)の例大祭で、速玉大神が神馬で御旅所へ渡御します。
まず前日に、神馬が大浜海岸に出向き、潮浴びで体を清めた後、旧摂社阿須賀神社で豆を食む「豆献ジノ儀」と、串本町大島区からの「掛魚萱穂奉献ノ儀」が行われます。
当日は、午後一時より宮司以下が行列で阿須賀神社に至り、神馬を拝殿内に引き入れて唐鞍を置き、神馬を飾ります。この唐鞍は南北朝時代の作で、現在は国宝に指定されています。
神馬を飾ると、阿須賀神社より御本社に還って神幸祭を行います。まず、お迎えした神霊を御本社に移し、祝詞、神楽奏上の儀があります。その後神饌を撤し、宮司が覆面して熊野速玉大神の神霊を再び神馬に奉安します。警曄の声とともに出門、権現山の西北麓にある御旅所、「杉ノ仮宮」(杉葉で作った方一間角の仮宮)へ渡御します。警固、楽人、神楽人、神官、そして御神宝の捧持者などの供奉員二百名を従え、奏楽しながら熊野川原を通ってゆくさまは壮観です。
御旅所に着くと、宮司は覆面して神霊を仮宮に奉遷します。その後、仮宮正面に薦を敷いて神楽を奏し、松明の明かりで祝詞を奏上し、掛魚、神酒、「オミタマ」と呼ばれる、玄米を炊いて小さな団子に搗いた特殊な神饌を供えます。祭式が終わると、夜陰、宮司が神霊を捧持して神社の西門からひそかに還幸するならわしです。
かつては御旅所神事の神楽の次に、相野彌宜四人が左袖を三度振り、火所の四方に蹲り、祝詞奏上の後に手を連ねて左に三度廻るという「彌宜の舞」も行われたらしく(『社法格式』『紀伊続風土記』)、古儀な渡御式の祭礼として、和歌山県指定無形文化財の指定を受けています。
また、「神馬豆献ジ」の儀式と「杉ノ仮宮」は、八世紀に当社から分霊された岩手県室根神社の例祭に伝承されており、下北半島の「熊野権現舞」とともに、東北地方における熊野信仰の伝播を知る上でも、実に貴重なものです。
御船祭
神馬渡御式の翌日、十月十六日(旧暦では九月十六日)に行われる熊野夫須美大神(伊弊甫尊・第一殿主神)の例大祭で、夫須美大神が神輿と神幸船で御旅所へ渡御します。
まずは御神霊を神輿に移し、行列で熊野川原へ向かう「神輿渡御式」にはじまります。午後一時、ころ、夫須美社を開扉して神饌を供し、御神幸の祝詞を奏して撤饌します。その後宮司が覆面して神霊を神輿に奉安し、南面して神楽を奏したあと、警蹕の声とともに出門です。神社からの行列は前日の神馬渡御式と同様壮麗なものですが、先頭の御旗に続いて「一ツ物人形」と呼ばれる人形が神輿の先導をするのが大きな特徴です。これは五色の四手をつけた菅笠をかぶり、金襴の狩衣を着た人形で、熊野牛王十二枚を竹にさし、萱穂とともに背につけて神馬に乗せたものです。
熊野川の河原に到着すると、神輿を南面して置き、御船祭の始まりです。
神楽奉納の後、宮司覆面して朱塗り神幸船に神霊を遷御、宮司以下神職と楽人は斎主船に乗ります。神幸船、斎主船を諸手船が曳き、さらにその諸手船を九隻の早船が曳く形で熊野川の急流をのぼります。諸手船から綱を放つと、これを合図に九隻の早船が競漕に移り、ニキロ上流の御船島を左から三回廻って勝敗を競います。これが終わると早船は乙基河原で小憩、神幸船は諸手船に曳かれて島を三回廻ります。このとき、諸手船では赤衣、黒濡子帯に赤頭巾、手甲の女装した男子が、船べりで朱塗りの擢を
廻し、行く手を遠望するような形をとる、「ハリハリ踊り」が行われます。その動作につれて、漕手はいっせいに櫓を操縦するのです。この「ハリハリ踊り」は太古の習慣の名残かと思われ、非常に興味深いものです。古代には赤装の女性が船人を統帥し、行く手の空模様日和見をして手をかざし、晴天を選ぶということが行われたのでしょう。
次いで御船島から使者が扇子で三回招くと、九隻の早船は再び競い出て、島を左から二回廻って、神社裏の川岸へ向かいます。次に神幸船が諸手船にひかれて島を一回廻り、乙基河原に上陸。神輿に神霊を遷し、御旅所へ渡御します。御旅所は、前日同様杉葉でつくった仮宮で、やはり「オミタマ」を供え、前日と同じ祭儀があり、夜陰、宮司が神霊を懐に抱いて西門より神社に還幸するのです。
御船祭は、紀南随一の船祭として毎年多くの人出で賑わい、和歌山県指定無形文化財となっています。諸手船は『日本書紀』神代巻にすでに登場しており、「熊野諸手船亦名天之鴒船、天之鳥船」と、鳥の飛ぶ如く水切速い船として古代より知られていたようです。また、勇壮な競漕をみせる早船は九地区の氏子区より各々出船するもので、古式を保った舟形は鯨船の祖形といわれ、中世に強力な武力をもってその名を知られた熊野水軍の面影を偲ばせるものです。 |