顯国神社(けんこく)

和歌山県有田郡湯浅町湯浅1914 its-mo

 顯國神社 公式HP


鳥居


交通案内
紀勢線  天王寺→和歌山→湯浅 北東線路沿い徒歩20分

 

祭神
大己貴命、須佐男命、櫛名田姫命、建御名方命、沼川姫命

配祀神 事代主命、豊玉彦命、豊玉姫命、大山祇命、天照皇大神、豊受大神、蛭子神、水波能女神、宇賀魂命、伊弉諾尊、伊弉册尊、金山彦命、菅原道真、素免神、粂崎王子神、住吉神、少名彦命、三筒男神、国常立尊、市杵島姫命

境内社 若恵比須神社、神明神社、稲荷神社、若宮神社

飛地神 辨財天神社、北恵比須神社、南恵比須神社、若宮神社



由緒
 延暦二十年代(801〜)坂上田村麿が在田郡菖蒲の里に至って三神(大己貴命、須佐男命、櫛名田姫命)を崇敬、正殿を造営し、大国主大明神と称された。その後、天養元年(1144)湯浅村の当地に社地を定めて遷座した。近隣の村の総社として大宮と呼ばれた明治末期に近隣の諏訪神社を合祀している。

熊野九十九王子社の一つ久米崎王子を合祀と伝わる。



お姿
 広々とした社域である。桜、檜、楠の木々が盛り上がっている。絵馬堂が新しく造られている。


神明造 本殿



お祭り
10月18日 例祭


紀伊續風土記 巻之五十九 在田郡 湯浅荘 湯浅村から

○顯國神社  境内周二百八十五間   禁殺生
 本 社 
方八尺八寸   末 社 事代主命社 金比羅社    
   拜 殿   廳   幣帛殿  神輿舎

山家町艮の端より五町田中にあり 湯浅別所青木山田四箇村の産土神なり 田村國津神を勧請す  寛文中 南龍公命ありて顯國神と稱し李梅渓をして鳥居の額をかヽせ給ふ 延享四年禁殺生とす 神事は九月中の午の日なり  馬かけあり 古は社僧もありしに今はなし 神主を長尾某といふ

○諏訪大明神社  境内周三十間
 祀 神 
建御名方命 沿川姫命 合殿   【沿は沼か(神奈備)】
   末社二社  稲荷社  金毘羅社    

中町にあり 縁起にいはく 昔は御射山[ミサ]にありしを後此地に移すといふ  當社は顯國神社より古く當所に鎮坐ましましける故に湯浅荘中の氏神といふ 又云ふ昔は社無く壇を築きて四隅に柱計を立てありしに元禄九年社殿を造営すといふ  祭禮は七月二十七日にして馬かけあり

○小祠三社
 衣 夷 社 
社地除地横町南側裏にあり 本社南濱に移し跡に又同し神を祀る 故に元夷といふ
 恵比須社 
社地周二十四間 村の南濱にあり 横町よりうつせり
 辨財天社 
社地周百十五間 南川洲崎にあり 古は別所村辨財天山にありを後此に移す


 

『平成祭礼データ』
顕國神社御由緒


 当社創立の縁起は人皇代五十代桓武天皇延歴二十二年坂上田村麿将軍詔を奉じて下降し霧崎菖蒲卿に至り海面を望めば靈龜三波間に浮かび出で将軍に向かって物言ふが如く暫時にして又海中に沈む其の挙動奇異なるを以って小濱の海士をして海底を探らしめしに大中小の霊玉を得たり光鏡の如く将軍喜悦之を拝戴して爰に詞を建設し大なるを大国主命として主神となし中小を須佐男命奇稻田姫神として配祀して大国大明神と號し此の所の鎮守と仰ぎ人民と共に厚く禮祭を行ふ之を聞き傳へ遠近の人々参拝祈る處必ず感応あらざるなし。
 七十六代近衛天皇天養元年十月(七九〇年前)當郡湯淺の城主湯淺權守藤原宗重當社を大いに崇敬し湯淺村の内清淨なる神殿を造営し菖蒲の里より遷座し奉り現今の社地祭祈料として数頂の田園を寄附し湯淺城鎭護の神社当郡の総鎮守大社と仰ぎ爾来其の御神徳の広大顕著なこと枚挙に遑あらず舊藩祖徳川頼宣公厚く崇敬せられ御供料其他種々の寄附ありて江戸へ発着毎に代参せしめ是が先規となりて廃藩の際まで鄭重に取扱はれたり。 
 明治十六年四月村社に列す。
 明治四十年六月神饌幣帛料供進神社に指定せらる。
 寳文年間徳川頼宣崇敬し改めて顕国大明神と称し華表の額を李梅渓に書せしむ。
 明治十五年十一月有栖川懴仁親王殿下御筆になれる顕國神社の奉額あり。
以上

神奈備注
 延歴は延歴 延暦二十二年は西暦803年
 天養元年 西暦1144年
 寳文年間 西暦1661年〜

古代史街道 紀ノ国編
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