八幡神社

和歌山県新宮市三輪崎1512 its-mo


交通案内
紀勢線  天王寺→和歌山→那智勝浦→三輪崎 新宮の一つ手前の駅 駅前


祭神
応神天皇 配 軻遇突智神、経津主大神、事代主大神、保食大神


八幡神社


由緒
 江戸初期より明治迄数回の火災により焼失を繰り返している。 また安政二(1685)年、地震と津波で流失、従って由緒等の詳細は不明。 明治末期、国家神道令により天皇系を主祭神とし、諸々に散在する無格社を合祀し、八幡神社と称した。

経津主大神
 約450年前、修験者あがりの旧和田氏である堀内氏善安房守は下諏訪、上諏訪神社を経津主大神を主神として勧請、仏教は曹洞宗の地蔵菩薩を勧請した。この周辺の支配者となった。 三輪崎から佐野にかけては広々とした田地であり、新宮と那智の分断、また北上すると容易に熊野川に出れて、本宮と新宮とを分断できる。かつ「鳴り石」と言われる褐鉄鉱の石が佐野川から採れていたようである。

事代主大神
 配祀の事代主大神については、エビスの神であり、約800年前、平家政権の日宋貿易や鎌倉幕府の財源は蛭子船団の交易によるものであった。 また530年前の応神の乱後の倭冦は八幡旗を靡かせた蛭子集団であり、紀伊半島も栄えたようである。 文禄元(1592)年、熊野勢朝鮮出兵にはエビス大神を主神とする八幡宮の船団であった。

八幡宮
 八幡宮は新宮城内に鎮座していた。これは源為義、行家の建立になるもので、源氏の中継基地でもあった。 古来社寺は交易の権益を持ち、紀伊と宇佐の八幡宮は瀬戸内海を航路と交易に関係を持ち、広く東南アジアにも進出していた。

紀伊續風土記 巻之七十一 牟婁郡 佐野荘

三輪崎村


○上諏訪社   社地森山除地
村の亥の方三町許にあり 荘中の産土神なり 伝へていふ 堀内阿波守此の地を領せし時諏訪上下の社を当所及佐野に勧請す 故に今も荘中の氏神とす

佐野村


○下諏訪社
村の西七町にあり 三輪崎村上諏訪社と同じく荘中の産土神にして堀内氏の勧請とする所なり



三輪の崎について
 『日本書紀』では、名草戸畔の次ぎに熊野の神邑(かみのむら)に到り、天磐盾に登る。 次ぎに軍を引き、漸進し、海の中で暴風雨にあい、稲飯命(いなひのみこと:四人兄弟の次兄)が剣を抜いて海に入り鋤持神(さひもちのかみ)となる。 また三毛入野命(みけいりのみこと:三兄)も常世郷へ往った。とある。軍を引き返したのならこの辺りも候補地となろうか。

三輪崎


万葉集の歌で
 苦しくも降り来る雨か神[かみ]の崎狭野の渡りに家もあらなくに (巻三 二六五)
 神[みわ]の崎荒磯[ありそ]も見えず波立ちぬいづくゆ行かむ避道[よきぢ]は無しに(巻七 一二二六)
が出てくる。この神[かみ]の崎は[みわ]と読む解説もあり、「神[みわ]の崎」とは新宮市三輪崎のことと考えていい。「狭野の渡り」を思わせる佐野も隣接している。 また、神武天皇の幼名に狭野尊(さののみこと)がある。死と再生の地の熊野、神武はここで死んで、次の代の神武が東征を引き継いだと唱える人もいる。

お姿
 国道42号線沿いに赤い鳥居が見える。 比較的長い石段を上ると参道沿いに旗が並ぶ。 本殿は木造銅板葺き神明造、鳥居は八幡鳥居。

八幡神社本殿


お祭り
 9月 15日 例大祭 鯨踊りは県指定無形文化財、獅子舞は市指定無形文化財

古代史街道 紀ノ国編
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