那智の火祭 熊野那智大社宮司 嶋津正三 熊野三山信仰事典(戎光祥出版)
那智大滝への信仰
那智の滝は、直下一三三メートル、滝口の幅一三メートルの大滝で、高さ日本一を誇っています。老杉の亭々と聲える鎌倉積の石段を通じ、絶壁より一直線に落下するその姿は実に美しく神秘そのものです。昭和八年に那智の滝を訪れた高浜虚子は「神にませばまことうるわし那智の滝」と詠み、また昭和四十九年には、フランスの文化相で、作家であり芸術評論家でもあるアンドレ・マルローが、感動的なまなざしでお滝をみつめながら、「アマテラスだ」と呟いたといいます。
昭和六十一年に三笠宮殿下が詠まれた勅題「水」の御歌は、「萬物の根源は水ぞと喝破せし哲人のあり三千年の昔に」でした。これは哲学の祖といわれるギリシヤの哲学者・タレスが、水は万物の根源であると説いたことを詠まれたものです。
万物の根源である水がさながら天上より地上へ天降るような那智の大滝を見た古代の人々が、大滝を神と仰ぎお祭りしたのが当社の起源です。
常世の国、熊野
熊野は「常世の国」だといいます。常世とは海のかなたにあって常住む不変、永世不滅の神仙国と信じられていました。『日本書紀』に、少彦名命が大己貴命と力を戮せて国づくりせられた後、「行きて熊野の御碕に至りて、遂に常世の郷にいでましぬ」とあり、熊野と出雲との間に深い交流のあったことがうかがわれます。熊野の御碕とは現在の潮岬のことでしょう。実際、潮岬の先端にある潮御崎神社では、少彦名命をお祭りしています。また、同じく『日本書紀』に、神武天皇熊野御上陸にあたり、海上が暴れたため、皇兄三毛入沼命は「浪秀を踏みて常世の郷に往でましぬ」とあることからも、熊野は常世の国に近い入口とみなされていたようで、やがて熊野そのもが常世の国と考えられるようになったのです。
さらに『神道大辞典』は、蓬莱山をトコヨノクニと訓んだ古典の記述にふれています。蓬莱山とは「中国の伝承に、東海中にあって仙人が住み、不老不死の地である。又熊野の異称である。」(広辞苑)とあり、熊野は古来、常世、あるいは蓬莱不老の仙境と考えられてきたのです。明治の歌人・与謝野晶子も、伊勢から熊野を訪れたとき、「大神の伊勢に隣れる山青き常世の国の蓬莱に来つ」という歌を残しています。
ドイツの詩人カール・ブツセの有名な詩に「山のあなたの空遠く幸い住むと人のいう。臆、われ人と尋めゆきて涙さしぐみ帰りきぬ。山のあなたのなお遠く幸住むと人のいう」とあるように、昔から人々は、海のかなた山のあなたに未知の世界、憧れの世界、理想の世界があると信じていました。この人々の想いを「海上他界、山上他界」といいます。熊野は、人の世の苦しみ・悩みを癒し、霊の救済を求める地だったのです。
仏教が伝来し、浄土教が拡まると、熊野はこの世の浄土とされ、また役行者小角を始祖とする修験道が大峰熊野を道場としたことで、熊野は「日本第一大霊験所根本熊野三所権現」の勅額を賜わり、ますます人々の信仰をあつめました。当時の人々は生老病死・煩悩などの身心の煩らいはもとより、天変地異、気象異変に至るまで、修験者の祈祷を頼みとしていたため、熊野の御師・先達・比丘居の活動によって熊野信仰は昂まり、日本全国に拡がって、国内各地に熊野神社が勧請され、今日に至っています。
那智の火祭
当社の例祭は七月十四日に行われ、一般に「那智の火祭」といわれています。これは豪壮な松明の燃えさかる御火の行事から名付けられたものですが、もとは旧暦六月十四日の神事で、正式には「扇会式例祭」または「扇祭」といいます。祭の主体は松明ではなく、十二体の、扇をもって飾った扇神輿なのです。
扇神輿は、その全体の形が飛瀧(那智大滝の御神号)を模しており、扇は"招ぐ"に通じ、神霊の招ぎ代です。また扇は幸を招き、邪を払うものでもあります。頂上に造化三神の御神徳をあらわす「光」を載き、八面の神鏡は幸魂・奇魂・和魂・荒魂の四魂の体用を兼ねて、神威八紘に照鑑するしるしです。神輿は十二体つくられますが十二体は十ニケ月、すなわち一年をあらわしています。扇は一体に三十面、下部にも二本の半開きの扇を附けますが、これはそれぞれ、一ケ月の日数と月の上弦下弦をあらわすものです。また使用の竹釘は一年の日数と同じ三百六十本を一体に用いる古例です(すべて旧暦による)。
〈火祭の進行)
大祭の前儀として、六月三十日に神役定めと祭典打合せ、七月九日に大滝の注連縄張替、十一日扇神輿張、十三日宵宮祭、幣殿に牛頭を飾り祭典の後、境内特設舞殿にて大和舞・田楽舞の奉納があります。
十四日は、早朝礼殿の前に神輿を飾り立て、神輿の下部に「ひおうぎ」の花を飾りつけます。午前十時本杜大前の儀に続いて、十一時より大和舞・田楽舞の奉納。その後、御田植式が行われます。午後一時より扇神輿渡御式となりますが、まず礼殿にて発輿祭を行った後、宮司以下神輿の前に列立一拝この問警蹕、御神霊を神輿に迎えます。次に扇指し、神役全員石崖の上から御滝本に向かって、「ザアザアホウ」と大声に発声すること三度。この間礼殿にて太鼓を乱打します。
つぎに召立により、権宮司より子ノ使に五十続松の松明を渡します。これより、子ノ使を先頭に、前駆の神職、馬扇、伶人、松明、神役、神輿、宮司以下神職、奉仕随員の順にて発輿です。神輿は倒して二の鳥居をくぐり、石段下の狗犬前で扇を立て、全神輿を並べて奏楽に迎えられつつさらに石段を下り、一の鳥居で再び神輿を倒して伏拝に行きます。神輿が伏拝に着くと第二扇より順次第十二扇まで起こして、扇を広げたような形に並べ立てます。宮司以下祭員供奉者は、扇が立つごとに拍手をして褒めま
す。立て終わると小松明を扇の前に置き、宮司以下正面に進んで拝礼。その後、大松明及び宮司以下祭員供奉者は先行して、お滝本へ下り、扇神輿・馬扇・扇の前の神役は伏拝に残ります。
お滝本に着いた松明係の者は、伏拝に向かって「ザアザアホウ」と三度大声で叫びます。その間太鼓を乱打。つぎに権宮司よりまず一の使、っぎに二の使、さらに三の使へと順次五十続松の松明を渡し、扇神輿へ迎えの使を出します。扇神輿は順次迎えを受けて、お滝参道烏居内まで進み、扇を立てます。
三の使がお滝本を出発すると、権宮司は八咫烏帽を被って光ヶ峯遙拝所に進み、古伝により遙拝を行います。子ノ使が、一、二、三の使を随えてお滝本広場に着き、使請の所作を行うと、火所にて大松明に火がつけられます。第一の松明から始めて十二本の松明に次々と火がつき、松明は順次出発して石段を登っていきます。
松明は石段の途中で扇神輿と出合い、大声で「ハリヤハリヤ」と声をかけます。炎々と燃え盛る松明十二体が円陣を作りながら石段を廻り、扇神輿の前で松明を傾けて焔であぶるようにすれば、扇の前の所役が日の丸の扇子を開いてこちらも「ハリヤハリヤ」とかけ声をかけながら松明の烙を煽ぎます。一方では火払いの所役が手桶の水を汲みとって松明所役にかけ、火の粉を消しながら、火祭は続きます。豪壮な烙と大きなかけ声が一丸となって石段を廻ると、祭はクライマックスに達するのです。
やがて松明は火所に引きあげ、扇神輿が石畳の広場におりると、権宮司によって扇褒めの式が行われます。第一の扇が扇褒めの位置に着くと笛太鼓で奏する扇褒めの曲に合わせ、古伝により「打松」と呼ばれる、桧でできたお滝の飛沫を思わせる扇で、神文を書きながら神輿の第八の鏡を打ちます。終わると、神輿を御滝本斎場の枠立に飾ります。順次第十二扇までの扇褒めをくり返し、その後別宮飛滝神社大前の祭典が行われます。つづいて田刈式、那瀑舞があり、すべてが終わると本社へ還御とをります。
扇神輿を礼殿前に飾り立て、宮司以下神職一拝、警蹕、神霊を還御して礼殿にて還御祭を行います。扇神輿は扇指神役によって解体され、火祭(扇祭)は終るのです。
〈那智の火祭の意義)
火祭は、那智の大滝にお祭りした熊野十二所の神々を、仁徳天皇五年(三一七)那智山中腹の現在地に遷した神事を伝えるものといわれます。しかし、お滝への神幸の雄大さに比して、お滝より本杜への還御の粛々とした儀式を見れば、むしろ報本反始の祭、元始に反って神霊の再生復活を祈る神事というべきであろうと思われます。水は万物を生成し、火は万物を化育します。火祭は万物の生成化育を祈り、国家安穏五穀豊穣を祈る祭なのです。田植式に始まり田楽舞(国の重要無形民俗文化財)があり、扇神輿渡御、御火の行事、扇褒め、田刈式に終わる祭典の中心である扇神輿には、ひおうぎ(烏扇)を飾り、馬扇には、古くは異形のものを書いたと伝えます。いずれも『古語拾遺』によると、五穀の虫害を壌い年穀豊稔にかかわりある故事にちなんだものです。
また、祭典の進行を時間的に考えると、現在は午後一時に神輿渡御祭、ついで午後二時に竜本神事(御火行事)、午後三時三十分還御祭ですが、「延享元年那智山社法格式年中行事」によれば、「未ノ刻(午後二時)滝本宮廻リ田楽アリ。申ノ刻(午後四時)御田植、田楽、当国主御代参祝詞幣」とあって、現在の祭典より三時間から四時問遅れとなっています。したがって還御祭は現在の午後七時頃に行われたと思われます。旧暦の祭に月明かりは欠かすことのできない要素です。旧暦の六月十四日、月は明るく月の出の時刻も早いのです。神霊が美々しく雄大に元ツ宮に還られ、再生復活して神威いよいよ新たに、暮夜のなか粛々と本社に還御せられる頃、月は明々と光ヶ峯に輝いたことでしょう。そこに新たなる稜威を拝する、これが火祭だったのです。
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