日前国懸神宮(ひのくまくにかかす)
和歌山市宮 its-mo



国懸神宮本殿

大阪からの案内
阪和線  天王寺→和歌山
貴志川線 和歌山→日前宮



祭神
御神体 日前神宮 日像鏡
     国懸神宮 日矛鏡

 御祭神
 日前神宮 日前大神 天照大神
 国懸神宮 国懸大神 天照大神

 配祀神 思兼命、石凝姥命、玉祖命、明立天御影命、天鈿女命、天道根命、名草姫命、名草彦命、事代主神、野槌神、宇迦迺御魂命、大山咋命、松平頼雄命、誉田別命、武内宿禰、月夜見命

摂末社群



 摂社 天道根神社 天道根命 紀の國造の祖、物部氏降臨防衛の供奉神三十二神の一神
 摂社 中言神社  名草姫命、名草彦命
 摂社 宇迦迺御魂命、松尾神社、邦安神社、八幡神社、高良神社、月夜見神社、境内末社他に十四社 祭神座数百七十座合祀
 元々伊太祁曽神社鎮座との伝承がある。総社であった頃には再度伊太祁曽三神が祀られていたが、今日では見あたらない。
  日前大神は天照大神の別名との説明がある。

日前神宮本殿



日前神・国懸神について(平成28.7.14)
以下、『日本の建国史ー三替統合の精華ー』 田中卓 國民會舘叢書 を参考にして述べる。

 『天孫本紀』には、饒速日尊は天磐船に乗り、なぜ河内国河上哮峯に天降り、それから大倭国鳥 見白庭山に天降ったとしている。饒速日尊は長髄彦の妹の御炊屋姫を娶り、宇摩志麻治命を誕生 させている。饒速日尊の降臨の伴として三十二人があげられており、その六番目に天道根命の名が ある。この天道根命については、『紀伊国造家譜』に次のような所伝がある。

A 日前国懸両大神宮が天降りました時に、天道根命は、従臣として仕え始めた。
B 神武天皇が二種の神宝を天道根命に授け、奉戴せしめた。
C 天道根命は二種の神宝を奉戴し、紀伊国名草郡毛見郷に到り、琴浦の地に奉安した。
D 神武東征の時、両大社の神徳によって群虜を平定し、その賞として、天道根命に紀伊国を賜い 、国造に補せられてより、両大神に奉仕した。

 この所伝AとDとからは、神武東征の前に日前国懸大神がすでに鎮座し、これに天道根命が仕え ているよ読める。そうすると、Bの文は何だろうか。場違いのようであるの無視する。

 日前国懸神宮の鏡についての解釈はいくつかある。
a 天照大神のよりしろとなる鏡は二種あって、一つは伊勢神宮の鏡で天懸神、二つ目は日前神(国 懸神)である。
b 日前神の鏡は最初に鋳られたもので、少し意に会わないもので、「天照大神の前の御霊」である。
c 日前国懸神宮の所伝では、初度に鋳る鏡を日前大神とし、日矛を国懸大神とする。  
 
『天孫本紀』と『紀伊国造家譜』を考え会わせれば、日前国懸神とは饒速日尊のよりしろの鏡のことと理 解できる。饒速日尊は天火明命のことであり、邇邇芸命の兄であるので、天孫族である。
 饒速日尊は物部氏尾張氏の遠祖であり、この両氏は天皇の親衛隊として活躍することになる。そ の饒速日尊に供奉し、紀伊国の平定に力のあった天道根命を初代紀伊国造に任じ、日前国懸神 宮の祭祀を続けさせた。

 奈良時代の中頃には神社に神階があたえられたが、伊勢神宮と日前国懸神宮は神階を与えよう がなかったのは、天孫族の祖としての、天照大神と饒速日尊を祭祀しているからと思われる。
 
 また、出雲大社を祀る出雲氏と紀伊氏には国造制が廃止された後も国造を継続することができ た。出雲国造神賀詞が国造の交代の際に、朝廷で読み上げられたが、紀伊国にもあったと思われる が、残念乍残っていない。服属の儀礼であるが、また名誉なことでもある。

 日前国懸神宮は日前神と国懸神の二神を祀ったのはいつ頃からだろうか。
 『日本書記』に、天武天皇朱鳥元年(686)秋七月に、奉幣を紀伊国懸神に献じて病の恢復の 祈願をしている。また、720年編纂の『紀』の天岩戸の物語の一書第一には、紀伊国においでになり 日前神との表現がある。 この間に日前神と国懸神とが明確になったものと思われる。それまでは日前 に居ます国懸神だったと思われる。日前を地名とみることができる。これは大和飛鳥の檜前もそうだ。

 日前座国懸神がやがて日前神と国懸神との分化し、本来の祭神の饒速日尊は国懸神のままであり、新たに日前神として天照大神を迎えたのではなかろうか。

日前神 天照大神
国懸神 饒速日尊

 饒速日は『旧事紀』に、天照国照彦火明櫛玉饒速日尊命と表記されている。日前は日神の意で、天照の意味が導かれる。国懸は国輝のことで、国照と同義である。従来からの神社の主張は日前国懸神宮の神を両方とも天照大神と言うのはいささか不自然である。また天道根命と饒速日尊との関係を無視しているのも不自然である。日前国懸とは天照国照のことと見れば、実に素直に理解できる。




由来
 日本書紀の伝えでは、天照大神が天の岩窟にこもって天地が暗くなった時、思兼命の思慮で、天照大神の姿にかたどった鏡で天の岩窟から出ていただくことになり、石凝姥命が天香山の金を採って日矛を作らせる。又、日鏡を造り奉る神が、紀伊国に鎮座する日前神であるとの主旨が『日本書紀』神代紀に記載されている。
 天岩屋の前ではタマフリの呪術として、天鈿女命は逆さまにした槽の上にのって裸に近い姿で踊り、足を踏みとどろかし、神々の笑いを誘い、天照大神に岩窟から出ていただいたのである。

 社伝によれば、神武東遷時、この像を、紀伊國造家肇祖の天道根命が賜り、日前神宮の日像鏡、国懸神宮の日矛鏡の両御神体となったのである。


 御神体は太陽神ではあるが、松前健氏などの見解では、もともとは皇室神ではなく、紀伊の海人の祀るローカル神であったとされている。現在でも本殿は南面しているが、神々は海側である西を向いているそうだ。平安時代になるが、伝教大師最澄の作と伝えられる『長講法華経後分略願文』巻下に「普願南海道、紀伊七箇郡、名草上下神」、別の文には「名草上下溝口神」「溝口大明神」とあり、これを日前国懸神をさすものとする説がある。紀ノ川南岸平野を潤す宮井川(名草溝)の初期の開発時(多分古墳時代前期)の取水口が神社に隣接しており、水利分配を司る神社の要素もあった。この宮井川を切り開き、名草平野を一挙に農耕地にしたことが紀氏の豪族としての力を盛り上げたものと思われる。
 今日でも、日前宮には農耕や水にかかわる祭りが多い。


国懸神宮拝殿



 伊太祁曽神社に伝わる社伝によれば、この地には元々伊太祁曽神社が祀られていたが、紀伊の国譲りの結果、日前神・国懸神がこの地を手に入れたのである。伊太祁曽神は山東の地に引いたが、その神威いよいよ高く、紀氏のこの地の統一のためには更に伊太祁曽の神々を分遷する願いを朝廷に出したのである。追い打ちをかけたのである。

 国譲り達成の為には闘争と和平工作がなされた。国懸神の御神体は矛である。武神である。五十猛命もまた武神として名高い。壮絶な闘争があったのだろう。それが出雲の国譲りや特に神武東征紀での紀の国の戦いの物語の下書きになったかも知れない。

 福島県の磐城の式内社佐麻久嶺神社は、日前国懸神宮からの勧請と伝えられているが、その祭神は五十猛命である。まさに、その昔はここに五十猛命が祀られていたのである。国懸神宮拝殿の巽の方角に五十猛命等を祀る摂社があると聞いているが、現在はその跡地も確認できない。

紀伊名所図会を写す。五十猛命、大屋姫、抓津姫が確認できる。この場所は現在は社叢である。

紀伊名所図会



 尚、現在は日前神宮と国懸神宮とはまったく同格に祀られており、日前神宮が天照大神とすれば、国懸神宮は紀氏の祖神を祀っており、建国期の紀氏力をいかんなく示しているとの興味ある見解も示されている。
 また国懸神には天武天皇が奉幣されている。この頃は日前神より神威が高かったのであろう。志賀剛氏は、懸[かかす]は案山子で[威す]、国懸とは紀の国を威す猛霊であろうとの説を出されている。


日本古代史とアイヌ語 から


 アイヌ語から日本の古代史の謎に挑戦しておられる大三元さんの日前国懸の意味についての試論が発表されている。国懸の「懸(かかす)」は『沖縄古語大辞典』には、「かがす: 輝す、 輝かす、生き生きさせる、であろう」とある。国照と云うこと。
 「日前」については、出雲国風土記大原郡条の「白前」なる地名は「のかがみ」と読む。つまり「前」を「かがみ」と読む/無理矢理読ませる、可能性がありそうだ。 結論としては、「日前・国懸」で「日鏡・国照」という意味が浮かび上がってきて、これは「天照・国照」という古くからの語彙セットと一致しそうだ。



 東国への出口の伊勢、西国への出口の日前、大和の要所であり、中央構造線の東西端にもあたる。伊勢と日前にほぼ同時期に天照大神が祀られたのである。

 神奈備は名草山であったが、現在は東の御船山のように見える。近年まで祭祀に使用する器をつくる埴土は名草山のものであった。

 この神社には「神母」の伝承もあるとは松前健氏『探訪神々のふる里』に述べられているが、この伝承は伊太祁曽神が鎮座していた頃の伝承かもしれない。伊太祁曽は日抱尊との怪説もある。または神宮の建物形式が江戸時代には八幡造であり、八幡神やご当地の武内宿禰との関係も無視できない。


日前神宮拝殿



紀の國
  紀の国は古来より高句麗や加羅とつながりが深く、また紀ノ川の治水等も古くから行われており、農産物倉庫・馬具の出土と岩橋千塚の中心とするおびただしい古墳群は、その農業力、海運力、また良馬を入手できた事等、近畿でも特異な文化圏を形成し、大和とは独立した勢力であった事を物語っている。*1
 神武東遷説話に「軍名草邑に至る。即ち 名草戸畔 という女賊を誅す。」とある。日前・國懸の両社に挟まれて名草姫命.名草彦命を祭る中言神社が摂社として鎮座している。この女酋長を祀った祠との見方も可能である。



紀氏
  ツングース系の人々が半島を経由し、紀伊と半島の両方に根拠を持ったことで、紀伊に特異な文化圏を築いた。王は木氏であり、紀氏であると言われている。木氏は蘇我氏にも分かれたとされている。 宮司の紀氏は現在で80代目とされ天皇家、出雲の千家とならび、日本では最も古い家系である。武内宿禰やその後裔に紀貫之を輩出している。紀伊国造家は、国造補任式のスタイルも独特で、朝廷も一目置いていた一族であった。
 中世には戦国大名になり、秀吉に反抗したが、大田城の水攻めにあい、神領 をことごとく没収されたが、徳川頼宣によって再建された。


金竜山浅草寺

 折口信夫博士によると、東京の浅草寺は熊野修験者が紀州の日前宮を東国にもたらしたものと言う。この寺の観音は檜前兄弟が海から拾い上げたものとの伝承がある。浅草寺は本尊が天照大神の秘仏でその前に聖観音、両脇に愛染明王、不動明王がある。これが宮殿である。


お姿
  日前宮は最初琴浦の海底の岩に出現、その後名草の浜の宮に遷され、その後今の秋月の地に祀られた。
 ここの日前の森に句〃迺馳命(ククノチのみこと)が祀られているが、この神は伊奘諾尊と伊奘冉尊から生まれた木の神であるのも紀の国らしい。

 照葉樹の森が盛り上がっている町の中の深林の趣である。「ここはただならぬところ、紀州のしんですね。」「古神道を知るには、書物を読むよりもこの森にくるといい。」と司馬遼太郎氏の「街道を行く32」に記されているのがこの神宮のおもむきを十二分に物語っている。



摂社中言神社
 




お祭り
  2月17日     祀年祭
 9月26日     例祭
11月23日     新嘗祭 新穀感謝祭



両本殿の中央の祭祀跡

江戸時代には権現堂、護摩堂、御鉾倉、経蔵などが置かれていた。


『和歌山県神社誌』日前国懸神宮のページ

 日前神宮国懸神宮
 〒640 和歌山市秋月≡六五番地
 JR和歌山駅・南海貴志川線・日前宮下車
 問い合せ先 пZ七三四−七一−三七三〇

祭 神 (主祭神) 日前大神・囲懸大神
    (配祀神) 思兼命 石凝姥命 玉祖命 明立天御影命 細女命 天道根命 名草姫命 名草彦命 事代主神 野槌神 宇迦廼御魂命 大山咋命 松平頼雄命 誉田別命 武内宿爾 月夜見命
 境内社 天道根神社 中言神社 蛭子神社 深草神社 宇迦廼御魂神社 松尾神社 邦安神社 八幡神社 高良神社 月夜見神社 境内末社他に十四社 祭神座数百七十座合祀
例祭日 九月二十六日
宮 司 紀 俊武 〒六四〇 和歌山市秋月三六五番地 
権禰宜 富澤 昇 横田政巳
特殊神事 瓜祭(七月八日) 平瓮伏察(十一月十八日夜) 平瓮起祭 (十二月十九日夜)
社 宝 目前国懸両宮縁起 日前宮恒例法式 日前宮年中神事記 日前国懸両大神宮書立 大神宮神

主たる建造物
 本殿 (木造鋼瓦葺流入母屋造、六七平方米)ニ社
 拝殿 (木造鋼瓦葺切妻造三七平方米)
 摂社 (木造鋼瓦葦春日造五・五平方米)
 摂社 (木造銅瓦葺神明造六・七平方米)
 遥拝所 (木造瓦葦切妻造九・九平方米)
 神楽殿・絵馬殿 (木造瓦葦入母屋造一六三平方米) 手水舎(木造銅瓦葦切妻造一三・入 平方米)
 社務所 (木造瓦葦六〇〇平方米)
 鳥居(鉄筋コンクリート造明神鳥居)
 境内地 (五〇、000平方米)

  氏子地域・和歌山市・秋月・有家・太田・新中島・黒田・網走・新在家・北出島・南出島中島・杭ノ瀬・手乎・吹屋町・新生町・新留町・美園町 田中町・木広町・出水
 氏子戸数 八、〇〇〇戸
 崇敬者数 一〇、〇〇〇人

 由 緒
 謹みて接するに日前大神国懸 大神は、天照大神の前霊に座しまして、 其の稜威名状すべからぎるなりと社伝 にあります。太古天照大神が素盞嗚尊 の行いを嘆き、天の岩窟に幽居まして しまい、世界が闇となってしまった時、 思兼命の教えに従い種々の弊吊を備え、 大御心を慰め和めし奉るに当り、石凝姥命が、天の香山 の金を採って大御神の御像を鋳造られました。『日本書 紀』第一の書に、時に高産霊の息思兼神といふ者有り。 思慮の智有り。乃ち思ひて白して曰さく、「彼の神の象を 図し造りて招示壽ぎ奉らむ」とまうす。故、即ち石凝姥を 似て冶工として、天香山の金を採りて、日矛を作らしむ。 又真名鹿の皮を仝剥ぎて、天の羽輔に作る、此を用て造 り奉る神は、是即ち紀伊国に所坐す日前なり。とあり、 この時鋳造られたのが、伊勢神宮奉祀の八咫の鏡、日前 神宮奉祀の日像鏡、国懸神宮奉祀の日矛鏡であります。 『日前国懸両大神宮本紀大畧』 によると、神鏡者則日前 大前也日矛者則国懸大神也とあり、天照大神 (日神) 招 示壽ぎ奉るのに鏡を用いたことが窺われます。御鎮座の次 第は、天孫降臨の時、天道根命が日像 日矛の両鏡を奉 斎して持ち来り、神武天皇二年名草郡毛見郷浜宮に祀り、 垂仁天皇十六年名草万代之宮、すなわち現在の地に鎮座 したと伝えられています。以来、天照大神の御神体とし て祀られており、八咫の鏡の御同体として、古代より朝廷 の崇敬厚く、藤原定家が献弊使として神馬を奉った記録 もあります。両神は天道根命の子孫である紀氏の手によ り代々奉斎され、平安時代には四七年ごとの遷宮もされ ていたと伝えられています。『紀伊国造系図』 によると、 始祖は天御中主命にはじまり、高皇産霊尊を経てその子 を天道根命とし、紀伊国造は天道根命が始祖といわれ現 在に至っています。中世には御炎上のことありと記録に 見え、天正の兵乱に侵され神域はなはだしく荒廃の時も ありましたが、南龍公 (徳川頼宜) により社殿は再建さ れました。日前国懸両神宮は、ともに延喜の制、名神大 社、月次、相嘗、新嘗には案上の宮弊に預り紀伊国一の 宮でありました。明治四年、神格の治定により両宮とも 宮弊大社に列せられていました。尚現在の御社殿は大正 十四年に造営されています。

紀伊續風土記 巻之十三 名草郡 第八 日前国縣大神上
 

 当宮は伊勢 皇大御神と御同体にて天の下に類なき大御神 にして 朝廷の御尊崇伊勢 大神に亜けるを以て造宮の親制 神事の儀式より奉幣の 勅使奉進の神賓等に至るまて其 事の繁き陳すへからす後世喪乱に因りて陵遅して振はす 天正の厄に至りて古制蕩盡せり今残缺の餘簡を探りこれを 古書に考へて其始末を叙てゝ十五條とし分けて上下二巻と す上巷に総て古代の制を述下巻に今時現在する者と当時用 ふる所の行事の大略とを挙けて国造の家譜を奉るに及ふ

  両大神御霊寶
  日前大神宮     御霊代  日像鏡
  国縣大神宮     御霊代  日矛鏡

 謹みて両大神宮の御霊寶を考ふるに 天照大神天ノ石窟に幽居坐しゝ時諸神思兼ノ神の 議に従い、石凝姥ノ神をして天照大神の御象(みかたち)を圖(うつし)造らる初度先(はじめ)日像之鏡及日矛の鏡を鋳る  日像とは日神の御形をいふなり 矛とは柄のある鏡をいふなるへし 下の辨せり 
其鏡少意(いささかこころ)に合はす次度(つど)に又日像之鏡を鋳る 其鏡形美麗し是所謂八咫ノ鏡にて伊勢 皇大神の御霊寶なり 初度に鋳たる日像之鏡は即日前大神宮の御霊寶 日矛の鏡は即国縣大神宮の御霊寶なり
天孫天降り給ひし時 天神三鏡及種々の神賓を授け給ふ 皇孫尊日向国高千穂ノ峰に天降り坐し 日前国懸の両御霊を斎鏡斎矛として八咫ノ鏡と共に床を同しくて殿を共にして斎き祠らしめ給ふ

神武天皇東征の時大和に移らせ給ひ夫より十世崇神天皇の御世まて大宮の内に斎き祠り給ひしに此御世に初めて三所の大神を外に斎き祠らしめ給ふ その本国に鎮坐しゝ原由は降臨鎮坐の條に詳にす 
其御霊寶の事古書に見はれたるを左に録す

 日本紀神代巻曰是後素戔鳴尊之爲行也甚無状。何則天照大神以天狹田長田爲御田時素戔鳴ノ尊。春則重播種子。且毀其畔。秋則放天斑駒。使伏田中。復見天照大神ノ當新嘗時。則陰放於新宮。又見天照大神、方織神衣居齋服殿。則剥天斑駒。穿殿甍而投納。是時天照大神驚動。以梭傷身。由此發慍。乃入于天石窟。閉磐戸而幽居焉。故六合之内常闇而不知晝夜之相代。于時八十萬神會合於天安河邊計其可祷之方。故思兼神深謀遠慮。遂聚常世之長鳴鳥。使互長鳴。亦以手力雄神立磐戸之側。而中臣連遠祖天兒屋命。忌部遠祖太玉命掘天香山之五百箇眞坂樹。而上枝懸八坂瓊之五百箇御統。中枝懸八咫鏡。〈一云眞經津鏡。〉下枝懸青和幣〈和幣。此云尼枳底。〉白和幣。相與致其祈祷焉。又猿女君遠祖天鈿女命。則手持茅纒之。立於天石窟戸之前巧作俳優。亦以天香山之眞坂樹爲鬘。以蘿〈蘿。此云此舸礙。〉爲手繦〈手繦。此云多須枳。〉而火處燒。覆槽置〈覆槽。此云于該。〉顯神明之憑談。〈顯神明之憑談。此云歌牟鵝可梨。〉是時天照大神聞之而曰。吾比閉居石窟。謂當豐葦原中國必爲長夜。云何天鈿女命 樂如此者乎。乃以御手細開磐戸窺之。時手力雄神則奉承天照大神之手引而奉出。於是中臣神。忌部神。則界以端出之繩。〈繩。亦云左繩端出。此云斯梨倶梅儺波。〉乃請曰。勿復還幸。然後諸神歸罪過於素戔鳴尊。而科之以千座置戸。遂促徴矣。至使拔髮。以贖其罪。亦曰。拔其手足之爪贖之。巳而竟逐降焉。

 同一書云々 乃入于天石窟而閉著(着)磐戸焉。於是天下恒闇。無復書夜之殊。故會八十萬神於天高市而問之。時有高皇産靈之息思兼神云者。有思慮之智。乃思而白曰。宜圖造彼神之象而奉招祷也。故即以石凝姥爲冶工。採天香山之金。以作曰矛。又全剥眞名鹿之皮。以作天羽ブキ。用此奉造之神。是即紀伊國所坐日前神也
按するに採天香山之金と作天羽ブキとは矛鏡と二の物を造らるゝ料なり 然して採金の下に作日矛といひ作天羽ブキの下に用此奉造之神といひて中間に又の字を置きて両事なるを明せり

 一書曰居于天石窟閉其磐戸。于時諸神憂之。乃使鏡作部遠祖天糠戸者造鏡。忌部遠祖太玉者造幣。玉作部遠祖豐玉者造玉。又使山雷者採五百箇眞坂樹八十玉籤。野槌者採五百箇野薦八十玉籤。凡此諸物皆來聚集。時中臣遠祖天兒屋命。則以神祝祝之。於是日神方開磐戸而出焉。是時以鏡入其石窟者。觸戸小瑕。其瑕於秡今猶存。此即伊勢崇秘之大神也

 古事記曰 高御産巣日神之子思金神令思(訓金云加尼。)而集常世長鳴鳥 令鳴而取天安河之河上之天堅石取天金山之鉄而求鍛人天津麻羅而 (麻羅二字以音。)科伊斯許理度売命(自伊下六字以音。)令作鏡 科玉祖命 令作八尺勾タマ之五百津之御須麻流之珠云々 按するに天津麻羅は一神の名にはあらで鍛人の通名なるへし 古事記伝に詳に辨せり 伊斯許理度売命は其内の神なり

 古語拾遺曰 從思兼神議、令石凝姥神鋳日像之鏡。初度所鋳、少不合意。是、紀伊國日前神也。次度所鋳、其状美麗。是、伊勢大神也。儲備既畢、具如所謀。爾乃、太玉命、以廣厚稱詞啓曰、「吾之所捧寶鏡明麗。恰如汝命。乞、開戸而御覧焉。」仍、太玉命・天児屋命、共致其祈祷焉。于時、天照大神、中心獨謂、「比吾幽居、天下悉闇、群神何由如此之歌樂。」聊開戸而窺之。爰、令天手カ雄神引啓其扉、遷座新殿。則、天児屋命・太玉命、以日御綱、今、斯利久迷縄。是、日影之像也。廻懸其殿、令大宮賣神侍於御前。是、太玉命、久志備所生神。如今世内侍善言・美詞、和君臣間、令宸襟悦懌也。令豐磐間戸命・櫛磐間戸命二神守衛殿門。是、並太玉命之子也。

 以上の文亙こ詳畧あれども其説の異なるにはあらす彼是相 照しよく其意を得て細看すれは其事の始末自見つへし先書 紀の本説に鏡を造る事を云はす又伊勢日前両大神宮と崇 祭る御霊寶なる事をいはす此等の事の漏れたれはにやご一書 を挙げて本説の足らさる所を補はるゝと見えたり 然して一 書の前説ば唯日前大神宮の事のみあり後説ば唯伊勢大神 宮の事のみあり偏を取りて云ふ時持伝の異なる如くにて一 の御鏡を以て或は伊勢大神と称し或日前大神と称し たりし歟の疑あり古語給遺に初度所鋳と次度所鋳との事あり て始めて其事の始未明なる事を得たり彼是参へ考へて富 宮両大神の御霊」寶は鏡と日矛なる革も明なり
 国造家舊記日 以神鏡為日前大神之御神體以日矛為 国懸大神之御神體也 天津彦彦火瓊々杵尊為豊葦原中 国之主君欲天降之時天神授三種之神寶其外種々之神 寶之時同授二此二種之神寶也故 瓊々杵尊彼三種之 神寶共持此二種之神寶而初降臨干日向国臼杵郡高千穂 之峰興向床共殿以為斎鏡以為斎矛是也
寛永記に出たり

 右の文にて両大神御霊寶の事明なり

舊事記に曰令鋳造日矛此鏡少不合意則紀伊国所坐日前 神是也

大倭本紀一書曰 天皇之始天降来之時共副護斎鏡三面子 鈴一合也 一鏡者天照大神之御霊名天照大神也一鏡者天照大神之前御霊 名国縣大神紀伊国名草宮崇敬鮮祭神也一鏡及子鈴者
天皇御食津神朝夕御食夜護日護斎奉大神今巻向穴師社宮所坐鮮祭大神也○按 するに此文にては天孫の天降り給ふとき大神の授け給へる御霊寶の八咫鏡の 外に三の鏡を相副て授け給へるなり其三の鏡とは紀伊国名草宮の天縣大神と 国縣大神と巻向穴師大神との三なりとの文也天縣大神とは即日前大神なり

 日本紀畧天徳四年(960)内裏回禄條に曰 賢所三所遷御奉縫殿寮 之聞内記奉納威所三所一所鏡件鏡雖在猛火上而不涌く 損即云伊勢御神云云中右記及釈記に引く 村上御記に其径八寸許とあり 一所円形無破損長六寸許一所鏡巳涌乱破損紀伊国御神云々 釈記に引く 外記文同じ又小右記引故澱御日記曰恐所雖在火炭燼之中曽不焼損云鏡三面伊勢大神紀伊国日前国縣云々とあり○按するに賢所の三大神の御霊宝は天孫の持て天降り給ひし三大神の御霊宝を模し鋳さしめ給へるなれは大小形状同しかるへけれは賢所の両大神の御霊宝の鏡なるを以ても当宮両大神の御霊宝の鏡なる事を知るへく日矛の鏡なる事甚明なり 又此文に伊勢大御神の神鏡を径八寸許とし紀伊国大御神の神鏡を長さ六寸許とあるを照らし考ふるに径りとは鏡の径り長さとは柄の長さと見ゆ 其はことに目に立つはかり柄の長さより日矛の名は起りしならむ 矛は鉾刃ある物のみにあらむ 総て棒といふものの類を云ふなり 日矛は日神の美麗き御光彩の御像をほこに捧げたるさまをいふなるへし

 暦應三年(1340)造俊文款状文安四年(1447)国造行長款状享徳四年(1455)国造 行孝款状曰 日前国懸両宮者天照皇神之前霊也和光ト南海之 月崇敬年舊尊説貌亦留北闕之雲霊験日新云云  此文にて両大神御霊宝賢所と当宮尊睨の一なる事を知るへし 釈記に引く所の私記に間今如日本紀者紀伊国大神は是日矛之神也今代伝云紀伊国大御神者是亦鏡也何其相違哉とあるにても当宮両大神の鏡なる事盆明なり
 以上の文にて日矛は鏡にしで鋒刃の矛にあらさる事明なり 舊事紀の伝へ古伝説と見ゆ

   降臨鎮坐
 謹みて両大神宮鎮坐の始末を考ふるに 崇神天皇の御世 漸神威を畏み給ひ 天照太神の御霊賓五十鈴宮日前宮国 縣宮の三神鏡を更に鋳さしめ宮中に斎き祠らせ給ひ 天孫 の天降らせ給ひしより斎き奉りし三神鏡は豊鋤入姫命に牽 き奉らしめて大和国より始めて諸国に鎮坐すへき地を覓給 ひ五十一年四月八日に本国名草浜宮に遷らせ給ひ三年の間 宮を並へて共に住ませ給ふ五十四年伊勢大神は吉備国名方 浜宮に遷らせ給ひ日前国縣両大神は猶名草浜宮に留まり坐 し 垂仁天皇の御世伊勢大神は伊勢国五十鈴川上に鎮坐 し日前国縣両大神ば名草渚宮より伊太祁曽大神の舊地名草 万代宮に遷り鎮まり坐せり
 是今宮の地なり  今を距る事凡二千百有餘 年其事の古書舊記に見はれたるを左に録す

  日本紀曰 崇神天皇六年先是天照大神和大国魂二神並祭於 天皇太殿之内然畏其神勢共住不安故以天照大神託 豊鍬入姫命奉於倭笠縫邑七年定天社国社及神地神戸垂 仁天皇二十五年三月離天照大神於豊鍬入姫命託于倭姫 命云々随大神教其祠立於伊勢国因興斎宮干五十鈴川 上二十七年令祠官卜兵器為神幣吉之故弓矢及横刀 納諸神之社仍更定神地神戸以時祠之

 古語拾遺曰 至干磯城瑞垣朝漸長神威同殿不安故更 令斎部氏奉石凝姥神斎天目一箇神斎氏更鋳鏡造 剱以為護身御璽是今践祚之日所献神璽鏡剱也仍就於倭 笠縫邑殊立磯城神籬奉遷天照大神及草薙剱令皇 女豊鍬入姫命奉斎焉云云

 大同元年大神宮本紀曰 御開城入彦五十瓊殖天皇干時天照 大神乞給国伊豆久曾止随大神教命求坐奉詔皇子豊次比 賣命奉戴而従倭内国始而覓給云々従此奉行而木乃 国奈久佐浜宮三年斎其時紀国造進地口御田

 倭姫世紀曰 御開城入彦五十瓊殖天皇五十一年甲戌遷三木乃 国奈久佐浜宮積三年之間奉斉斎干時紀伊国造進舎人紀 麻呂良地口御田五十四年丁丑遷吉備名方濱宮四年奉斎 云云

 国造家舊記曰 崇神天皇御宇豊鋤入姫命拳戴天照大神之御 霊同五十一年四月八日遷干当名草浜宮之時日前国縣両 大神並宮而共住同五十四年天照大神者雖遷于吉備名方 濱宮日前国縣両大神者留住于名草浜宮至于垂仁天皇十 六年自浜宮遷于同郡神宮名草萬代宮而鎮座 今宮地是也 寛永記に出たり 

 永享五年(1433)和佐荘と神宮郷と堰水争論の文に曰 今神宮領葦原 千町為当社手力雄尊敷地鎮坐之處日前国縣影向之刻進 彼千町於両宮御遷座山東 伊太祁曽社家の伝に此御神昔は加宇の宮と申す所に御草創ありしか 是より山の東 伊太祁曽といへる所あれば御跡を日前宮へ譲り此伊太祁曽の地へ遷り給ふとあり 加宇の宮は即神の宮なり 此事日前宮舊記に見はるる所なしといへとも和佐及伊太祁曽の伝る所此如くなれは信にしかるなるへし

按するに國造家舊記に 神日本磐余彦天卓東征之時以此二種之神寶託于天道根命而令斎祭也 天皇経國々而到于摂津國難波 天道根命拳戴此二種之神寶到于紀伊國名草郡毛見郷奉安置于琴浦之海底之岩上至 崇神天皇御字 豊鍬入姫命奉戴天照大神之御霊遷名草浜宮之時日前國懸両大神離海底之岩上移于名草浜宮並宮而共住とあり此伝に依る時は 神武天皇の御世に天道根命を紀伊國造に定め給へる時より両大神宮本國に鎮まりまして國造の斎祠る神なり 其伝古き伝とは御ゆれとも古書に絶えて其徴なく叉書紀以下の伝と自齟齬し古のさまに叶ひかたし
 天孫の天降り給ひし時持給へる神寶は皆 崇神天皇の御世まて宮を共にし殿を同くし給ひしを其御世より神威を畏れ給ひ外に斎き祠らしめ給ひし事書記以下に見えて夫より先に護身の為に天神の授け給へる神寶を外に祭り紛ひし事絶へて其証なし 又其伝によれば賢所に日前國懸大神を伊勢大神と同く斎祠り給ふ 其濫觴闕けたり
 日前国懸両大神ば伊勢大神ぎ御同体の事なれは 朝廷よりの御崇敬総ての始末伊勢大神と同じく 崇神天皇の御世に始めて宮中を出給へる跡に同く尊貌をどめ給ひ
 垂仁天皇の御世同く宮居の地を伊勢國磯宮と紀伊囲萬代官とに定め給ふへき事必然の理なれは両大神の御霊寶も 崇神天皇の御世より以前外の御世に鋳造り給ふへき理なし又 神武天皇摂津国難波に到り給へる時に天道根命に両大神の御霊代を戴き奉らせて独本國に到らせ給ふといふも他に其由なく且 神武天皇本国に到り紛へるとき軍到名草邑則誅名草戸畔と書記にあれは本国も虜軍の国にして皐師を防きし事明なり 然るに虜の平ならさる先に道根命のみ神寶を奉して賊虜の地に到れる事其謂なしと云ふへし 
因に云 崇神天皇より以前には紀伊国造の主として斎き祠るへき神は五十猛神大屋都比売都麻都比売の三神なり 三神は神代より本國に坐し今の日前宮の地に鎮座まして道根命国造に命ぜられしより崇神天皇の御世まで國造の主として斎き祠るへき神なり 旧事記に伊太祁曽大屋都比売都麻都比売 此三柱並坐紀伊国 即紀伊国造斎祠神云々とあるの拠ある伝なるへし

  両宮神号
 延喜式神名帳名草郡日前神ノ社 
名神大月次相嘗新嘗
 延喜式神名帳名草郡国懸神ノ社 
名神大月次相嘗新嘗
 本國神名帳名草郡日前大神宮
 本国神名帳名草郡国懸大神宮
 書記神代巻に紀伊国所座日前神とある是日前神の国史に見えたる始なり 天武紀朱鳥元年奉幣於居紀伊ノ国国懸とあり是国懸神の国史に見えたる始なり 文徳実録嘉祥三年(850)向紀伊国日前国懸大神社策命とある 是国史に日前国懸両大神宮を並へ挙けたるる始なり 謙みて両宮の神号を考ふるに日前の称は旧は両宮に通する称なる事書記古語拾遺に単に日前神なるにて明なり 両宮の御名は往古は日像之鏡をは天懸大神と称へ奉り日矛の鏡は国懸の大神と称へ奉り両御神を合せて日前の大神と称へ奉りしに後に日前の号を天懸大神に負せ日前国懸両大神宮の称起りしより天懸の御名を称する事絶えて国史以下にも載せすなりしならみ 今に至りても土人は日前宮とのみ称し奉りて国懸宮をも兼たる称とするも古の遺称ならむ 
日前神を天懸神と称し奉る事御霊寶の條に出たり 朱鳥元年に国懸ノ神にのみ幣を奉り給へるはよしある事なるへしと其事今詳ならす

 天懸国懸の御名は阿免加加須久爾加加須と訓むへし 国懸を神名式にくにかかすと訓をつけたり
 天と国とを対へて称へ奉るは天邇岐志国邇岐志また天照国照彦なとの例なり 加加須は令曜(カカス)にて加加は鏡の加加に同じく光輝照曜をいふ 須は令する詞なり 当宮の祝詞に宇豆乃美加加志賜丹生祝文に国加加志給ひとあるも同語にて 
 後世此語にやくといふ形状を添へて云ひしより遂にかかすといふ語は絶たり 天照と申す御名と同義なり 懸は借字なり  懸を古 かかさむ かかし かかす かかせ と活かしたる故に令曜に借りたるならん 按するに曜かす事が体言にいへはかかしと云ふ例なり 故に祝詞には皆加加志といへり 是に拠るに此御名をも阿免加加志久爾加加志と申へけれと大神と云ふ体言へ直に連ぬる故に加加志とは申ささるなり 即天照大神の御名の天須と同例なり 因て神号を天懸乃神国懸乃神と乃を添へて称すは誤なり 然れとも神号即社号の如くまりては国懸乃神社と乃を添へて称すへし 是国懸乃神のます神社の意にて大神を略きて唱ふるなり  日前は比乃久末と訓すへし  神名式にもひのくまと訓をつけたり 神代巻の訓にひのまへとあるは僻訓なり 

 後世なれとも国造俊文俊長行文の歌に皆比乃久末と読めり 比乃久末は檜隈にして地名よりおこれる社号なり 古語拾遺に採材斎部所居謂之御木造殿斎部所居謂之麁香当郡名に小忌部荒賀あり 荒賀は麁香にして忌部は御木なり 良材ある地なるを以て御木と名つけ忌部氏の居地なるに因て忌部と名つくるなり 国造旧記に忌部山は古檜山にて両宮造営の材出る所なりとあり 今両宮の地形を察(ミル)に忌部山東南に連きて宮地其隈曲に在なつときは檜隈の号これより起こる事明なり 檜隈と書せすして日前の字を借用ひたるは釈紀引私記曰 問奉称日前神其義如何 答師説曰前度所鋳日像之鏡故有日前之号耳とある説の如く又俊文等の款状に日前国懸両宮者天照大神之前霊也なとの義によれるならむ 前の字を古書に阿隈曲の字と同く久末と訓めり
 
 按するにもしは前の字を久末と訓むは神号に日前の文字を書くといへとも猶地名によりて比乃久末と称しより日と檜とは同訓なれは前の字自隈の仮字の如くになりしならむ 他の地名に前を久末と訓は当宮より始まれる訓ならむか されとも大和国高市郡檜前郷の名古書に多く見wたれは本国の日前より檜前偶中して其訓おこれりとも定め難かるへし 又別に説かなさは淡路国三原郡神稲郷ありて久末志禰(クマシネ)とよめり 久麻は隈隠(クマコモル)等の義にして幽事の幽も義同じく幽事を加微碁登とよめるをおもふに旧加彌(カシ)を久麻とは通音にて同義なるより神稲を久麻志彌とよめるなるへし さて神一神を一前といひ二神を二前といひ神名帳に神名前なといふを日前と云ふ字と併せ考ふるに日前は即日神といふ義にて比乃久麻とはよめるならむか猶定めかたし 姑併せ書して後の考に備ふ

 両宮の称古書に見えたるを左に列す
 天懸大神
 国懸大神
 古両御神の御名にして大倭本紀に出たり

 日 前 神 書記神代巻古語拾遺
 紀伊大神 
書記持統天皇六年の條
 日前国懸大神社 文徳実録嘉祥三年(850)の條
 紀伊国名草宮 大倭本紀
 紀国大御神  日本紀私記
 日前国懸両大神宮 正平綸旨
 檜隈宮
 名草萬代宮
  以上両宮を総て称し奉れるなり
 以上諸称の中 日前国懸大神又直に紀伊大神との称さるは外に殊なる御尊敬にして凡国史に本国の神を載せたる中に大神の称あるは当宮のみに限れり 
旧神代巻一書に伊太祈曽神を紀伊国所在大神とあれと続紀以降は皆伊太祈曽神と称して大神とは称せす
 然れとも延喜以前未宮号の称あらす 安元以後諸家記録及綸旨院宣本国神名帳等に両大神皆宮を以て称するときは延喜の後に官符社号を改めて宮号を授けられしならむ 
神名秘書を閲するに伊勢両宮の外に宮と称する者多くは貞観九年官符を賜ふとあり土宮は大治三年(1128)風宮は正応六年(1293)官符を賜ふと云ふ これ式の後社号を改めて宮号を授せらるる例なり
 授位の事は未嘗てきこえす 伊勢大神と同じく尊貴無上の故なるへし

 祭祀奉幣等
 日本紀天武天皇朱鳥元年(686)秋七月癸卯奉幣於居紀伊国懸神
 同持統天皇朱鳥六年(691)五月庚寅遣使者奉幣于四所伊勢大倭住吉紀伊大神告以新宮云々
 同十二月甲申遣大夫等奉新羅調於五社伊勢住吉紀伊大倭菟名足云々

 文徳実録嘉祥三年(850)冬十月甲子遣左馬助従五位ノ下紀ノ朝臣貞守向紀伊ノ国日前国懸大神策命曰 天皇詔旨掛畏大神等広前申給波久止先先神財奉進牟止祈申賜比支故是以種々神財潔備令捧持奉出此状聞食天皇朝廷常磐堅護幸奉賜天下平安助賜倍止見毛申給波久止

 三代実録貞観元年(859)七月十四日丁卯遣使諸社奉神宝幣帛散位従五位下紀ノ朝臣宗守為日前国懸両社使

 神祇令云仲冬上卯相嘗祭義晦謂大倭住吉大神穴師恩地意富葛木鴨紀伊国日前神等類也神主各受官幣帛而祭云云

 日本紀略天慶三年(940)十月三日乙未紀伊国言九月十七日日前国懸大神御殿戸振鳴由

 百練抄長寛二年(1164)正月廿八日紀伊国日前国懸社焼亡拾御正體者奉出事

 同安元元年(1175)六月十六日連花王院総社鎮座八幡巳下廿一社其外日前宮熱田厳島気比等社本地御正体図絵像但日前宮熱田御本地無所所見仍被用鏡

 同承久元年(1219)五月十四日戌申有軒廊御卜日前国懸両社ノ司申去四月十六日国懸ノ宮御戸不慮外令開御事

 同嘉禎元年(1235)五月十二日甲辰奉幣日前宮使先例神祇官人也今度破用紀氏者造替引之由被謝申之

 吉記に曰安徳天皇寿永元年(1182壬寅二月十十七日戊午ト日前宮ノ怪異於軒廊

 西宮記に日 上郷者着侍従所行奉幣事之部寛平元年(889)十月十五日奉伊勢宮使還向之間忌穢事諸社紫蓋桙剱弓箭小鏡例幣伊勢宇佐賀茂日前国懸錦紫綿劔尺綬玉佩金銀幣宇佐如例石清水但告事由或奉神宝云々

 同書曰  諸社行幸之部 延喜七年(907)十月一日使道明仰左大臣仁和寺可御紀伊国若可有所申否大臣令申云云ニ日使仲平朝臣奉問途中云々十八日拝伊勢賀茂上下松尾石清水春日平野住吉日前等神祈皇道中乎否云々

 北山抄奉諸社御宝之部 曰天慶ノ例宇佐ノ御装束僧俗並后装及女装並四襲云々神宝五十七具伊勢二具宇佐雄四具賀茂二具稲荷三具日前国懸二具合五十七具石清水只奉幣帛也

 江家次第曰大神輩次第延久七年(1075)四月七日云々 於石炭壇御覧神宝御直衣大十備伊勢二宇佐二加小石清水加小加茂ニ日前国懸各一次第覧之云々

 後烏羽院熊野行幸之日記定家郷 曰八日天霽払暁出道云々 先出儲御禊所ワサ井ノクチ 云々 日前宮御奉幣也予為御奉幣使其儀 小時於此所有御禊予取御幣立御幣訖返給廳官神馬二匹令引相具御幣日前宮社頭甚厳重浄衣折鳥帽子甚凡也但道之習何為乎坐両社之間中央石帖如舞台 上 敷薦二枚為座切中西東料歟 依テ社司之訓取御幣拝ス 前後両段 付社司云々

 永仁年中(1293〜)の旧記曰国造社頭重奉拝見御宝蔵ノ神宝云々 同十五日被下院宣云

  日前国懸遷宮神宝事
  国司禁忌之間可被■献
  之由春宮大夫殿御奉行所
  候也仍執達如件
   十月十五日    敦  雄  奉
  謹上 紀伊国造殿
  以上


   古代宮造

 日前大神宮
 堂宮造屋禰八幡造檜皮葺也 千木両方  鰹木七本 面七間妻五間中ノ間一丈三尺 脇間一丈宛 是を六尺五寸常間にすれば十二間に八間  表大御戸二枚 傍菅原御戸二枚小御戸也 裏ニ大戸二枚 前後御拝 前ノ御拝前一丈脇三丈三尺 後ノ御拝者一丈三尺四方 刻鏤文飾あり

 内陣 面一丈二尺六寸妻五尺千木鰹木等あり
  宝 蔵  一丈四方
  忌 殿  面五間妻三間本社の後にあり 此殿内に専女神社を祀れり
  廳    面五間妻三間
  中 門  四面にあり 東西二十二間 南北三十二間

 国懸大神宮
  宮殿内陣宝蔵忌殿廳中門玉垣等日前宮に同し

 中言社 二社
  ニ社各五尺五寸四方千本鰹木東西有中門  面七尺妻一丈四尺

 五末社 神名下巻に見える 二尺五寸四方 御拝あり 千木鰹木なし 餘社皆同じ

 六十末社 神名下巻に見える

   宮 無社 芝畳のみ

 回   神  無社 石のみ

 楠   神  無社 楠木あり

 若   宮

 深 草 社

 今   宮

 市衣比須社  廳囲垣あり

 草宮伏拝所  芝畳あり

 草   宮  周囲玉垣あり 国造苑中にあり

   諸  殿

 院 御 所  面五間 妻三間

 女 客 殿  面七間 妻三間 后宮之御所

 男 客 殿  面七間 妻三間 勅使御出所

 拝   殿  面三間 妻二間 神楽所

 権 現 堂  面五間 妻四間 祈祷所

 護 摩 堂  三間四方

 経   蔵  三間四方 一切経仏具等納之

 酒 殿 廳  面六間 妻二間 御酒造所

 御 供 所  面九間半 妻三間 御供造所

 伶人居所   面五間 妻三間

 御 鉾 倉  面七間 妻三間 御鉾神宝等を納

 番   屋  面七間 妻三間 社人居之

 楽   屋  面四間 妻三間 猿楽居之

 舞   台  二間四方 田楽猿楽白拍子等

 総   門  面五間 妻三間 諸人往還之門

 芝 原 廳  面七間 妻三間 十列流鏑馬等見所

 鳥   居  四間

 反   橋

 小 反 橋  国造参宮之時過之

 青 侍 廳  面六間 妻二間

  以 上

   東西社僧

大神宮寺   社外東辺

 本   堂  三間四方 本尊釈迦如来

 寺      面五間 妻四間

 鎮 守 社  三尺四方

 鐘   樓  中間一尺 脇間六尺

 青 侍 廳  面五間 妻二間

 大   門  面三間 妻二間

  以 上

貞福寺    社外西辺

 本   堂  中間一丈三尺 脇間一丈 妻一丈

 寺      面五間 妻四間

 鎮 守 社  三尺五寸

 鐘   樓  中間一丈 脇間六尺

 大   門  中間一丈三尺 脇間一丈 妻二丈

  以 上

 按するに元暦元年日前宮政所より坂田村浄土寺への置文に当寺者大神宮本地之伽藍釈迦善逝之御霊像と云ふ文あり 浄土寺は国造槻雄弘仁年中(810)建立するする所なれは当宮の本地といふもさる事なるへし 然れとも宮地の内寺を建て本地佛なと唱ふる事はなかりしにや 百練抄に 詳に奉幣條に出つ 是らを以て考ふれは宮地に佛舎を建て本地佛なとを置しは安元の頃より稍後の事なるへし

 両宮造営次第   略

 

公式日前国懸神宮
古代史街道貴志川線

紀の国 古代史街道
神奈備にようこそ
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