紀の国の古代史  神功皇后、八幡神と武内宿禰




神功皇后の伝承の神社



加太淡嶋神社 和歌山市加太116
神功皇后が出兵からの帰途、嵐にあい、ながれのままに友が島にたどり着き、そこに少彦名命が祀られていた祠があったのでこれに奉幣した。
射箭頭八幡神社 和歌山市本脇260
 射箭頭の社号は古く、息長足姫尊(神功皇后)が三韓より帰国され加太浦に御着船の際、御弓を携えかぶら矢を射られ紀水門飽浦の下地尾の崎に止まった。 神功皇后と品陀皇子が其處を尋ね来られ鎮座された。住民は弓の弦で餅を切り献上したことから地名を「糸切」と呼ぶようになった。

木本八幡宮 和歌山市西庄1
 社伝によると、神功皇后が三韓から凱旋された時、大臣武内宿禰が幼帝応神天皇をお守りして、この海口(日本書紀にいわゆる紀伊水門の地)に泊り、この地に上陸して頓宮(仮の宮)を造り、暫く留まられた。
大年神社 和歌山市梅原403
 息長足姫尊(神功皇后)の伝承がある。岩神とされる巨巖がある。

玉津島神社 和歌山市和歌浦中3-1066
息長足姫命は即ち神功皇后である。皇后が新羅をおうちになられたときに玉津島の神が非常な霊威をあらわせられたため、皇后殊のほか尊崇せられ、後に御自身も合祀されることとなった。

八幡神社 和歌山市相坂671
神功皇后三韓より御凱旋の際、忍熊王の難をさけ、難波から紀水門(安原付近)に御到着、御子誉田別命(応神天皇)を武内宿称に護らせ、皇后みづからは更に日高郡衣奈まで迂回をして、再び安原の津田浦(小学校付近)に御上陸、頓宮を造られ御滞在なされた跡が当社である。

加太淡島神社 和歌山市加太 116
息長足姫命は厚く大神を崇め給い、御加護によって応神天皇をご安産された。その御孫仁徳天皇が淡島に御幸の際、御祖母の御崇敬された神として当地に遷座された。

且来八幡神社 海南市且来219
その昔、神功皇后が応神天皇を抱き奉り、朝鮮から凱旋なされたときのこと、里人たちは仮殿を造って皇后をお迎えし、当地への御永住を懇願した。 皇后はいたく感動なさり、「あした(旦)来よう。」と約束なされた。これが「旦来」という地名の起こりであり、ときの仮殿跡が御社となったという伝承がある。

岡田八幡神社 海南市岡田29
岡田の森(入船山)は神功皇后が、誉田別命を抱き大和へ向かう途中、聖籠を止めた聖地である。

粟嶋神社 海草郡下津町方101
神社の前方、山麓の古道に沿い「幣使の隈」という古跡がある。神功皇后が征韓のおり、お産の予兆あり、帰還まで支えられるよう祈願される。勅使が風浪の為ご社参できず、この丘より奉幣されたという。御帰還の後、皇后がお参りになったという。

野上八幡宮 海草郡野上町小畑623
 当八幡宮の縁由は古く、神功皇后が三韓より御帰還なさる途中三年間の頓宮の跡といわれる。

志野神社 那賀郡粉河町北志野557
 神功皇后の三韓征伐の行幸地の小竹の宮にも比定される。

貴志川八幡宮 那賀郡貴志川町岸宮1124
 神功皇后筑紫より御凱旋の時、皇子とともに柏原(現安原)に上陸し、小竹の宮に赴く途中、当地に立ち寄ったとの伝承がある。

隅田八幡神社 橋本市隅田町垂井622
 神功皇后が外征後、筑前国から紀伊の衣奈浦を経て大和の都に御還幸の途次、この地に滞留なさせ給いし旧蹟にして、第29代欽明天皇の詔によりその遺蹟に八幡宮が勧請されたと言う。

丹生神社 伊都郡高野町上筒香330
 筒香は「播馬国風土記」逸文に、神功皇后が三韓出兵のとき丹生都比売命の神託で勝利したため、同神を「紀伊国管川藤代之峰」に鎮座したと書かれている“管川”のことと言われる。

小竹八幡神社 御坊市薗642
 神功皇后の小竹宮跡とする伝承がある。

産湯八幡神社 日高郡日高町産湯313
 社伝によれば、「神功皇后、三韓ご征討から帰らせ給ひ、浪華より転じて当地に立ち寄られ、皇子をご分娩、武内宿祢これを守護し奉りて暫く駐まる。

衣奈八幡神社 日高郡由良町衣奈669
 創建鎮座の由来は衣奈八幡宮縁起に、譽田別命の行宮跡とされ、衣奈の地名は命の(胎胞(エナ))を納めた故という。

宇佐八幡神社 日高郡由良町里169
 応神天皇御由緒の地と伝わる。

潮崎本之宮神社 西牟婁郡串本町串本517
 神功皇后帰還の折り大和で忍坂王の反乱を知り、皇后は武内大臣に皇子を守護し紀伊に赴いた際、南に漂流し当地に着き、住吉大神を祀ったという。

水門神社 西牟婁郡串本町大島73-2
 神功皇后の一行が皇子を守護しこの地に仮宮をされたと云う。

武内神社 和歌山市安原
 近くに武内宿彌誕生井がある。


参考文献 和歌山県史 原始・古代 和歌山県
     和歌山県神社誌 和歌山県神社庁


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