紀の国の民話・昔話・伝承 海草郡、海南市編
起き上った岩
海草郡美里町は山の深いところじゃ。
なにしろ町の八割が森やというもんのう。
そいで、むかし、むかしのことやが、このあたりは毛無原と呼ばれていたらしわ。
毛無ちゅうのもおもしやい名前やわな。
実は、このあたりにいつの頃からか大イノシシが棲みついてな、村人がわずかな土地に拓いた田畑の実りを、根こそぎ食い荒らしてしまうんや。
そいで畑は植え付けしなかったと同じ有様になってしまうので毛(むかしの植え付けるという言葉)無原と呼ばれるよになってしもたらしいで。
若者たちは、落し穴を掘ったり、ワナを仕掛けたりして、必死の抵抗をするんやけど、てんで歯が立つかよう。
三度の食事にも事欠くはど因ってたとこへ、どこからか立派な弓矢を手にした強そうな狩人がやってきたんや。
そいでその人に頼んで「あばれイノシシ」を退治してもらうことになったんやしょ。
その狩人は、山奥深く分け入ってとうとう獲物を見つけ出し、ビユンビユン矢を放ったんやが、てんで手ごたえがないんや。
そらそうや、なにさま年を経たイノシシだけに、針のようなごっつい毛と、ニカワを固めたような厚い皮をしてるよって、矢など受けつけやんねやして。
逆に狩人の方が貴志川のふちまで追いつめられる始末や。
万事休す・・・という時、その狩人は川の真ん中にある大きな岩に向って「我は村人のために害をなすものを退治せんとす。汝、我を救わんとするならば、たった今、その場に立ち上がれ!」
と命令したんやと。
そしたら不思議なことにこの岩がムックリ立ち上ったんや。
狩人はその岩の頂上に立って、ほぼ真上から大イノシシをねらって、ヒョーツと矢を放ったら、これが急所に命中、さすがの大イノシシもすってんころりやった。
後に、村の人たちは、あの狩人こそ狩場明神さま(丹生都比売の子で、天野大社や高野山にも祀られている)に違いないちゅうて、近くにお社を建てて祀ったんと。
そのお社も、そして大きな岩も今でも残ってるで。
それからあと、毛無原は毛原宮と呼ばれるようになったんやと。
関連する神社 丹生狩場神社 海草郡美里町毛原宮241 祭神 丹生都比賣命、狩場明神
藤白の筆捨松
いまの海南市の南の方に、あの藤白坂がそびえ立ってるわな。
あそこを越えていかねば熊野詣では出来やなんだんや。
そやよってあの険しい藤白坂も、往来する人は絶えやなんだそうな。
むかし、むかし、そやな、平安時代のことに巨勢金岡という当代きっての絵描きがいたんやが、この人が藤白坂のことを人から聞いたんや。
「そらもう黒牛潟(昔の黒江湾)や歌に名高い和歌浦まで一目で見下ろせるすばらしいところや。
どんな立派な絵描きでも、あの眺めは描けやんやろかい・・」
ちゅうので、この金岡は腹が立った。
(なーに、天下一と云われているこのわしに描けやんものなどあるはずないわ・・・)
そう思てはるばる藤白坂までやってきたんやて。
なるはど、なるはど。やっばり絶景やった。
金岡は感心してさっそく写生に取りかかろうとした時、ぴょこんと一人の子どもが現われて
「おじさん、絵描きかい? それじや、ここからの眺めを描きくらべしよらよ・・」
て云うんやしょ。
子どもの挑戦に金岡は腹を立て、ようし、天下一の金岡の腕前を見せて肝をつぶしてやるぞ…と筆を走らせたんや。
さあ、絵は出来あがった。
金岡はそこに見えてる松の木にウグイスのとまっているところを描き、子どもはカラスのとまっているのを描いたんや。
どっちもなかなかうまいもんや。なかなかに甲乙つけられやんはどで、金岡もうなったな。
そしたら子どもは、バンパンと手を叩いて、金岡の描いた絵からウグイスを追い出した。今度は金岡が手を叩くと、子どもの描いた絵からカラスがパーツと飛び立っていった。
(こら勝負なしやな、けどこんな子どもに勝てやんとは・・・)と金岡が口惜しがってると、子どもはまた手を叩いて、なんと飛び去ったウグイスを呼び戻し、金岡の描いた絵にキチンとはめこんだもんや。
びっくりした金岡が手を叩いてカラスを呼び戻そうとしたけど、もう二度と戻ってこなんだんやと。そこで金岡も呂分の負けを認め、絵筆をポ−イと放りなげてしもたんやとい。
この子ども、実は熊野権現の身代わりで、金岡の慢心を戒めたんやと。それからこの松を「筆捨松」と呼ぷよになったんやと。
藤白の王子社 藤白神社
有間皇子の話
海南の藤白神社の一隅に、有馬皇子を偲ぶ人たちの手によって、そのみ霊を慰めるための小さなお社が建てられたことは知ってるわな。
千二百年も前に亡くなられた皇子が、いまもみんなの心に残っているのは、あまりにも悲しい話が伝えられてるからやして。
・・・かいつまんでお話してみよかの。
有間皇子ちゅうのは孝徳天皇のお子さんでな、聡明なお人やったそうな。
そいでやがては、立派な天皇になられるやろ…と周囲の人も期待してたらしいわ。
この人の従兄に、中大兄皇子(のちの天智夫皇)ちゅう人があった。
この人もまた次の天皇をねろてたんやしょ。
ま、有間皇子のライバルやったんやな。そいでいつかワナをしかけてやろと思てたらしいで。
ある年、斉明天皇と中大兄皇子らが紀州の白浜温泉へ湯治にでかけたんやしょ。
その時、都をあずかってた留守隊長の蘇我赤兄がやってきて
「この機会に兵を挙げましょう。はんのわずかな兵士があれば、紀州との交通を絶つことができるし、帝や中大兄皇子をとじこめることができます。そしたら次の天皇にはあなたが・・・」
というてしきりに誘うんやしょ。
皇子も若いよって、ふっとそんな気になり、いよいよ決心しようと思た時、もたれてた机の足がポキリと折れたんや。
そいでこれは不成就の前兆や思て、その計画は取り止めることにしたんや。
その晩、赤兄の軍勢が皇子の邸を取り囲み「有間皇子には謀反の企てあり」
ちゅうて皇子を捕えてしまい、裁判を受けさせるため、白浜へ護送したんや。
無茶苦茶やな。どうせ中大兄と赤兄とは腹合わせてやったんやろかい。
その途中、有間皇子はいまも万葉集に残るすばらしい歌を二首も残してるんやしょ。
さて白浜に送られた皇子は、斉明天皇や中大兄皇子の厳しい調べに
「わたしは知らない。天と赤兄が知るのみ」
と答えて、あとはなんにもしやべらなんだ。
そいで都へ送り返され、あとでもう一度調べられることになったんやけど、中大兄皇子に命じられた兵士らによってこの藤白坂で、まぁ暗殺されたんや。年十九。
この悲しい物語は、ずっと熊野街道を行き交う人たちの涙をしぼらせてきたそうな。
藤白の王子社 藤白神社
藤白のお仙狐
海南の藤白峠ちゅうたら、まるで屏風のそそり立ったよな険しい山やのう。
あの山にな、むかし「お仙」と名前のついた女ギツネが住んでいたそうな。
キツネでも「お仙」という名前をもらうくらいやから、なかなか人を化かすのも上手やったちゅうこっちや。
ある日、峠を越えて加茂谷の在所までよばれに行った二人の村人がな、そらもうええ心地になって峠をヒョロヒ∋ロとくだってきたんやと。
もう日も暮れかかって薄暗うなってきてた。
二人がヒョツと繁みの方を見ると、一匹のキツネがな、どうせに木の葉を頭に乗せてんねやしょ。
「あっ。あれはお仙やど」
「あいつ、きっとわいらをだまそとしてんねや」
そういうと、二人はキツネの前後へ拘って逃げれやんよにしといて
「こらつ、お仙! お前はまたわしらをだまして、このど馳走をとりあげよと朗てんねやろ。
そうはいかんぞ、こんどはアベコベにお前をつかまえて、キツネのエリマキにでもしてやるからそう思え!」
とどなりつけると、お仙ギツネはびっくりして
「アレ、わたしはお前さんらをだまそとしてるんとちゃうでえ。
ほうれ、いま下の方からこの峠を登ってくる人があるやろ。その人をだますんや。
まあそう云わんと、お仙の腕のええ化けっぷりを見てておくれよう・・」
ていわしょ。
「そらおもしやいな、ではちょつと拝見させてもらおか……」
と二人の相談がまとまった時、このお仙ギツネの姿がパッと消えた。
二人は荷物を置いたまま、あちこちの木蔭をのぞいてみたんやが、お仙ギツネの姿は見当たらなんだ。
(ひょつとすると……)と急に気味悪うなって、慌てて自分の荷物を置いたところへ戻ってみると、ありゃこれはどうじや。
ご馳走を入れてあった二つの包みは影も形もないんやしょ。
これをキツネ忍法「二度だまし」というそうな。
もっとも、お仙にだまされるのは、どうやら洒をのんで酔っばらってる時が多かったらしいわ。
そんな時は、「一寸あやしいな」と思うても、別嬢さんを見ると、ついフラフラとなるのが男の弱いとこで、そこをお仙につけこまれるんやろ。
近くの神社 藤白神社
参考文献
和歌山県史 原始・古代 和歌山県
日本の民話紀の国篇(荊木淳己)燃焼社