熊野古道、和歌山県の王子社
糸我王子と稲荷神社

有田市糸我町中番字別所谷930 ゼンリン


 JRきのくに線紀伊宮原駅から宮原橋を渡る。宮原橋の道の北側に宮原渡場跡の碑が立っている。 万葉歌碑、中將姫伝説の得生寺、糸我一里塚、稲荷大神社と現れる。糸我坂にかかるとすぐに民家の間に糸我王子社が祀られ、次にミカン畑の左手に糸我王子跡の碑と道標が立っている。 糸我王子は稲荷大神社に合祀されている。


得生寺の糸我の会式の説明板の写真と得生寺

赤い台は行列のため



紀伊国有田郡雲雀山で中將姫を殺害せんとした武士伊藤春時は姫の徳に打たれ殺害することが出来ず、名を得生と改め姫をお守りすることとなった。これが得生寺の寺名のおこりである。得生寺におまつりしている中將姫のご命日にちなんで毎年五月一三、一四の両日盛大に行われるのがこの来迎会式でまたの名を二十五菩薩練供養とも言い、姫のように美しく聡明なお徳を得させてもらおうと子供達が二十五菩薩となってお渡りするのである。



糸我王子社



糸我王子跡




稲荷神社 有田市糸我町中番329 its-mo


鳥居




祭神 倉稻魂神


神社の由緒書きから


 第27代安閑天皇(西暦531−535)の2年乙卯の春。 引きつづく凶作を憂えた郷民は、高山に登り集って供御を捧げ、神を祭って豊作を祷ること数日に及んだ。 このとき『われは倉稲魂神にして天下の蒼生(民草)の作りなす種々の穀物は皆われの司る所なれば、その五穀の登らざる禍を祓い清めむとなれば、今教え示さんことを守るべし』とのご神託が下った。 郷民は大詔(おおみことのり)を畏まって承り、神の教えのままに励んだ処、霊験現れて百の妖災忽に除き、年穀よく稔って豊饒の本にかえった。 翌年、宣化天皇(第28代)の元年丙辰の秋、郷民は高山の半腹に社を創って大神を祠り、稲葉根社と称した。

 第36代孝徳天皇(645−654)の白雉3年壬子の春、参詣に便なるよう社を麓に移し奉って稲生社と改めた。 時移って大神、紀伊國糸鹿に降臨されたあとの元明天皇(第43代・707−715)の和銅年間に、再び山城國三ツの峯(伏見)に降臨された。 この由を聞召された帝は、山城國鎮座の地を紀伊郡と名付けられた。 本朝最初の称号は、大神は伏見よりも170余年先に糸鹿の郷に降臨された、との伝承を裏付けている。

 熊野地のいと高山のこなたなる、宇気の女神の森の木々に、御饗盛りなす雪野おもしろ。古歌にある宇気の女神は申すまでもなく倉稲魂神であらせられ、熊野地のいと高山は糸高山。後世たの字が省かれ、転訛して糸鹿山に改まった。

社殿




 時代はさらに降って鳥羽天皇(第74代・1107−1123)の御宇、白河院熊野御幸の砌この辺に駐輦し、平忠盛をして奉幣せしめられたのも、神徳崇敬が故である。 またこの折のことであろうか平家物語(巻六)及び源平盛衰記に、「白河の院熊野へ御幸なる。 紀伊の國糸が坂という所に神輿を掻き据えさせ、暫時御休息ありけり。 其の時忠盛、薮に幾等もありける零餘子を袖に盛り入れ、御前に参り畏まって妹が子は這ふほどにこそ成りにけり(私の娘は這うほどに成りました)と申されたりければ、院はやがて御心得あって、忠盛とりて養育にせよとぞ下の句を附けさせ座しける」とある。 境内に立つ「御幣の岡」と馬場先に立つ「白川法皇みくるまをよせさせたまひし旧跡」。

 まだ苔むさぬこの二碑石は後世の再建か、近代の創建かは定かではないが、上記の伝承を裏付けている。 当社は舊くから除盗難、除火難、農漁繁栄、海上安全等の神符を出しているが、この御符を所持するとき、「その感応なしと云うことなし」熊野古道に沿う糸我王子社(廃社)は、当社の摂社(本社と末社の中間に位し、本社に対し縁故の深い神の祠社)であり、また往昔、鎮守さまとして糸鹿荘内の村々に祠られていた数多の神々は、いま社域に奉遷して合祠申し上げてある。

 10月12日 秋季大祭

神社風景



紀伊宮原から湯浅への地図




『紀伊続風土記』 在田郡 糸我荘 中番村 から

○稲荷社   境内周百五十間
 本社   末社三社 八幡社 弁財天社 諏訪社
  拝殿   神楽殿  神輿舎
  文庫   廳
  村中にあり 荘中三箇村の産鎚神なり 殿舎も宏麗に神田も多くあり 祭事も厳かなりしに天正の兵火豊太閤検田の時皆没収廃絶すといふ 舊は両部にて別当寺もありしならん 今猶境内に観音堂あり 当時唯一にして神主を林氏といふ 古き鏡を蔵む 唐鏡の様に見ゆ
 

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