熊野古道中辺路、和歌山県の王子社
瀧尻王子宮十郷神社

田辺市中辺路町栗栖川859 バス滝尻

瀧尻王子宮 
地図



 五体王子の一つ。前の鮎川王子からここまでの古道は、富田川を何回も渡って垢離を繰り返しつつ来たのか、また山越えの道だったか、定かではないようだ。滝尻王子から熊野古道に入る方がおおいようで、ここには熊野古道館がたっている。

 明治二十二年の水害以前には神社前の石船川を渡った左岸にあったと言う。

 滝尻王子社は奥州の名族の藤原秀衡が建立したと伝えられ、秀衡が奉納したと云う宝剣を神宝にしている。しかし『為房卿記』の永保元年(1081)の条に「登滝尻之人宿」、『中右記』の天仁二年(1109)に「未明出宿所、渡石田川十九度、来着滝尻之前川上許一町 中略 昼養於向岸上祓、次参王子許奉幣」とあり、王子社はあったようだ。秀衡は、保安三年(1122)頃誕生、文治三年(1187)逝去。社殿を奉納したのかも知れない。



瀧尻王子碑

 滝尻王子社からいよいよ熊野の御山に入ることになる。
 増基法師の『いぬほし』には、「御山につくほどに、木のもとごとに手向けの神おほかれば、水のみにとまる夜、万代の神に手向しつ思ふことなりけむ」とある。大樹の根元に神々が住んでおり、大樹が生い茂る滝尻の山は、熊野の神々が集合する地と考えられ、ここでの垢離は重要であった。垢離とは川を渡ること、禊と祓とは神道の中心をなす行事で、熊野詣での場合、本宮(現在の大斎原)に入る前に音無川を渡ることで総仕上げとなる。


紀伊続風土記 巻之七十三 牟婁郡 栗栖川荘 芝村

瀧尻五体王子社  境内山周百六十間
 村より十二町栗栖川の東瀧尻にあり 御幸記に見えたり 全文下條に載す 此の地 急灘にして川水石に触れて激流す 当社其の側にあり 因りて瀧尻といふ 社辺に宝筐印塔ありて三四百年間の物と見ゆれとも石損して銘よみかたし 境内の山上を剱ノ山と云ふ 半腹に岩穴あり 深さ三間横二間許伝え云ふ 古奥州の秀衡妻を携へて熊野に参詣す 其の妻臨月なり 此の地に至り産の気あり 人家なきを以て此の岩崛の内に入りて三郎を産む その時立願して安産を得たり 因りて七堂伽藍を造営して諸経並びに武具等を其の堂中に納めしといふ 因りて其の堂を秀衡堂と号す 天正の兵乱に破壊し旧記も紛失して今は堂舎の跡もなし 岩穴の少し上に胎内くぐりといふ巖崛あり 深さ四間程入り口は四尺許 出口は三尺許の崛あり 毎年二月彼岸の中日には近郷より諸人王子に詣でて此の穴を潜ると云ふ 神宝に小太刀 長さ九寸 矢根鈴の三品あり 秀衡の奉納する所といふ 三種とも古色あり 今社司なきを以て村中観喜寺に納む 熊野古道廃せしより当社は参詣の人も稀にして大いに衰微せり

 



瀧尻王子宮十郷神社
田辺市中辺路町栗栖川859 
ゼンリン

拝殿



祭神 皇大神 配祀 日子火能迩迩藝命、天忍穗耳命、日子穗穗手見命、鵜茅葺不合命
由緒 熊野詣での際に、祓・沐浴・経供養・歌会・里神楽などのほか、神託のお告げがあったことで名高い。 明治末期、近隣の十一社を合祀し、社名を十郷神社と改めた。戦後、合祀各社が分離復社した。

本殿

祭礼 10月10日 秋季例祭

本殿背後の巨石



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