熊野古道、大辺路の王子社
佐野王子と天御中主神社

和歌山県新宮市佐野字秋津野641
佐野の西端、王子橋付近 
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由緒

 若一王子とも呼ばれ、神域一帯は若一王子の森と呼ばれていた。 説明板には「佐野松原の西端、祓川(王子川)の近くにある熊野九十九王子社の一つ。 承元二(1472)年の『修明門院熊野御幸記』には、次有佐野昼御養事 次参王子、とある。 前の王子は浜王子(新宮市新宮王子町)であり、峠と三輪崎を越えて約8kmほどの行程であり、次の王子までもその位の距離である。

 王子跡と並んで、神武天皇顕彰碑が立っている。これは『日本書紀』の遂に狭野を越えて熊野の神邑に・・・に由来するもの。神武天皇の幼名に佐野命があるが、熊野は生まれ変わりの地、それゆえの命名だろうか。

石碑



佐野王子社は天御中主神社に合祀されている。  

天御中主神社 新宮市佐野山田 mapfan

祭神 天御中主神 配 天照大神、武南方大神、八坂刀売神、仁徳天皇

由緒 神社は中古より佐野(狭野)荘鎮守として、佐野字中地宮盛芝359番地に鎮座せしが、延宝5巳年3月(1677年)現在地に遷座する。
 佐野荘は大峰山と関係が深く、秦氏、藤原氏、熊野別当、石垣家との姻戚関係があり、例祭には石垣家古文書に記す上物と当家の当主が出席して神事をする習わしがある。
 現在では農耕(稲作)の神事を行なっている。戦後数間年まで、「柱祭り」と「花火」をあわせた神事が行われていた。時代によって、主神も変化したきらいがある。
 明治以後天御中主神を主神とする氏神である。

 社頭掲示の時代考証を紹介する。
 熊野地方は秦の始皇帝は蓬莱の地(新宮)へ徐福を派遣した。(弥生時代 約二千三百年前)
 狭野の根地原地域で弥生の土器出土
 新宮の神倉山の近くで銅鐸が発掘されている。(弥生文化)
 古事記(西暦七一三年)日本書紀(西暦七三〇年)の記述中、熊野征討の説は天皇賜杯を目指すヤマト軍団に敵対する熊野の地が祟る神々の集団クマの如き悪神と言われた。
 熊野に上陸したと言われるヒミコ系宗女の父(西暦247年)と推定すれば崇神天皇となる。
 櫛御神系の須佐之男命、大国主命の神々(土着民)が反抗し盟約を結んだ。(古事記による)弥生系

 神殿には兎の彫刻がある。

お姿 河川に挟まれた中之島の高台に鎮座。 暖帯林社叢で、ツブラシイ、ヤマモノ、クスノキ、イチイガシ、アラカシ、ツゲモチなどの照葉樹を中心としている。 動物ではヒメハルゼミ、ヒメボタル等の珍しい昆虫が見られる。神域ゆえ採集は厳禁。

天御中主神社 鳥居の左側に親カエルの上に子カエルの像



天御中主神社本殿


お祭り 
 
1月9日 例祭

佐野王子から那智大社近


前の王子社 浜王子
次の王子社 浜宮王子

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