杭全神社[くまた]
大阪市平野区平野宮町2-1-67 its-mo

杭全神社の鳥居


交通案内
JR大和路線平野駅 南出口より東へ700m

祭神
第一殿  素盞嗚尊
第二殿  伊弉冉尊、速玉男尊、事解男尊
第三殿(証誠殿) 伊弉諾尊

境外摂社 赤留比売命神社(式内論社)「赤留比賣命」
境内摂社 鎮守神社「粟柄神」 、宇賀神社「市杵島姫命」


杭全神社の参道と第三殿(証誠殿)



由緒
 坂上田村麻呂の子広野麻呂がこの地の開墾領主となり、その子の当道が貞観年間(862年)祇園の牛頭天王を氏神として勧請したのが創祀である。これが第一殿である。


杭全神社の第一殿と春日移しを示す模様
 



 後世、熊野詣が盛んになり建久元年(1190年)熊野三所権現を勧請して第三殿(証誠殿)が築かれた。さらに元亨元年(1321年)第二殿が建立された。


第二殿



 現在も広大な社域で、神木の大楠、ダンジリ、連歌、最古の熊野本地草子保存などの伝統を持つ貴重な神社である。


連歌処の三十六歌仙



 河内は木綿の産地で平野の繰綿は柏原船で平野川を通り、大坂天満に送られた。
 堺と並ぶ自治都市平野郷は環濠集落で有名であるが、その環濠の遺構が社域内に残っている。



お姿
 第一殿は檜皮葺の切妻造で奈良の春日大社の社を正徳元年(1711年)に移したものである。 第二殿は切妻造、平入りの流造、第三殿は檜皮葺春日造で永正十年(1513年)の棟札を持つ大阪市内で最古の建物とされている。


杭全神社の祭礼の日の巫女舞い



平野郷のダンジリの宮入り



摂社 宇賀神社「市杵島姫命」




 さてこの神社のホームページは既に宮司の藤江さんが立派な物を作成されて出しておられる。 杭全神社の公式ページ by 藤江さんを見ていただけば十分である。ここに敢えて小生が平野郷の杭全神社を取り上げたのは、この地が古き良き大坂商人の魂が残っている土地柄であり、その歴史的背景としての河内木綿の一大生産地であったからである。 かく言う小生も綿紡績に33年間勤務し、99年の春に第三次産業に身を転じた。33年間を記念として、木綿の歴史について以下、解説する。


木綿の略史

 三河渥美郡の阿曇氏に伝わる伝承がある。金達寿の『日本の中の朝鮮文化7』から引用する。
 応和二年中田利左衛門慶則が記したものと言う。我が祖先の始まりは推古天皇の時(592−628)であり、新羅の国王からはじめて日本国へ孔雀を献上した。 その時の大使が新羅の国王の弟で、日本の国は大変よい所だからまた来たいと申し上げた。それが許されたので、新羅へ帰って日本へ行きたいと願って、許しを得た。
 そして一年余りの間に苗木や種、綿の種などを持って大きな船で百人余りの従者を従えて国を出発し、渥美半島の和地に着陸した。
 山田村に城を築いて、持ってきた苗木を各所へ植え、また樹の種などを各所に蒔いてあちらこちらへ出かけた。
この頃、新羅で綿が育てられていたとは思えない。またもしあったとしても綿の種はおそらくは育たなかったのであろう。

 綿の種子は1200年前の延暦八年(799年)、三河国幡豆郡天竹村に漂着した昆崙人によってもたらされたと、日本後紀や類聚国史などに記載されている。 西尾市に鎮座する天竹神社は綿の祖神として祀られている。



天竹社 愛知県西尾市天竹町池田53(三河国幡豆郡)

祭神 天照皇大神、新波佗ノ神(にいはだ:意味は新秦で秦は絹、新秦は木綿。また大三元さんから『時代別国語大辞典上代編』では「にひはだ:共寝してはじめた男に触れる処女の肌」の意味があるとのお知らせを頂きました。 謝。

由緒(神社庁祭礼CDから)
 社伝に、廷暦18年(799)この地に崑崙人漂着し、綿の種子を伝える。 我国、綿花栽培の初りで、崑崙は天竺と同じで、地名を天竺と称した。 その徳を偲び、新波陀神と尊び、天保8年(1837)2月10日天竹社を祀る。



失敗した木綿の種まきの話

 類聚国史の記事にこの件が記載されているので概略を紹介する。
 昆崙人のもたらした綿種を紀伊、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐、太宰府に与え、植えさせた。 日の当たる土壌の良い地を選び、深さ一寸の穴で四尺離して蒔く。種は一晩水につけ、翌朝蒔いて、土をかける。毎日水を注ぎ、常に潤沢にする。
 南海道の温暖な地域が選ばれており、植え方まで詳しく指示されている。しかし結果は思わしくなかった。
 また、昆崙人は言葉が通じず、国籍不明、大唐の人は昆崙人と言う。後に中国語を習い、自ら天竺の人と言った。インド人であった。

  衣笠大臣の歌 敷島のやまとにあらぬから人の うゑてし綿の種は絶にき
 残念、と言う思いが伝わる。


チョマと大麻 太古は麻の一種が主な素材

 古来、日本の民衆の衣料は麻が中心であった。麻の時代は栽培から紡績・織布に至る仕事は未分化であり極めて手間のかかる作業であった。
 関ヶ原合戦の時代頃から麻から木綿の時代へと遷ってきた。木綿の使用とともに衣料の生産の工程の分化が出来てきて、商品としての生産の度合いが強くなってきた。 結果として衣料生活は一変し、保有量でも一挙に豊かになった。
 柳田国男は「木綿以前の事」の中で、木綿の良さについて @肌触り A染めが容易 をあげ、「木綿の幸福」として、 @ 衣料への中綿の使用で延び縮みが自由になった。A 綿の風合いの好さは常人の肌膚を多感にした。 B天然の色が人間に近寄り、人間の生活の味わいが濃やかになった。 と鋭い感性でとらえている。


衣料と女性

 魏志倭人伝には卑弥呼の使いが絹や麻を使った生地を献上している事が見えるように、弥生時代の出土物などに紡錘が発見されている。 繊維を束ねて撚りをかけて巻き取っていく道具である。また織機の部品なども出土し、絹片も発見されている。

 万葉集の中にも麻を題材にした歌がある。

  麻衣着ればなつかし紀の国の 妹背の山に麻蒔く吾妹
  庭に立つ麻手刈り干し布さらす 東女を忘れたまふな

 麻作は主に女の仕事であった。
 神話の中にも機織りは女の仕事として出ている。天照大神はじめ七夕の織り姫など、多くの女神達は機を織っていた。


木綿の登場

 大陸では後漢の時代に既に木綿が伝わり、唐の時代には栽培されていた。遣唐使などはその方面にまで頭が回らなかったのであろう。
 天竹神社の由緒でもあるように平安初期に昆崙人によって綿種が持ち込まれたが、これを試植したが失敗し、消滅しているのは先に示した通りである。
 実際には綿製品は大陸の宋の商人によってもたらされたと元久元年(1204年)の史料に記載されている。鎌倉初期である。
 戦国時代には軍衣として木綿の性能が注目され、半島からの購入量が多くなった。半島の内需分がなくなる程の勢いであり、公的貿易の制限が強くなったが、民間サイドの小舟での行き来は多かった。また唐木綿への動きも活発であった。 また15世紀になると木綿で幔幕を引くという記事がある。儀式分野で使用され、今日まで行われている。


木綿の生産

 永原慶二氏の発見になるが国内木綿生産の初見史料は高野山の金剛三昧院に保存されていて、院の荘園であった筑前国粥田荘からの「木綿一端」の進上文書である。 この時期には京都付近、越後などでも木綿栽培が行われだした。
 三川木綿も登場してくる。三河は天竹神社に伝承がある地である。昆崙人から700年ほどの歳月が流れている。 16世紀、三河、伊勢、摂津の小妻木綿が登場してくる。摂・河・泉木綿の登場である。

 寛永年間(17世紀前半央)富田林では機屋晒屋など木綿関係の営業者がいた。これらの生産と取引の中心が平野郷である。平野郷には木綿の畑があり、田畑の2/3は木綿であった。 自治都市の伝統もあり、過度の綿作禁止の幕府令を完全に無視していた。手間がかかるが、利益も大きかったと言うことである。

ある教科書の抜粋を示す。
歴史を掘り下げる 綿作と女性
 綿の栽培には干鰯や油かすなどを買い入れなければならないため,米にくらべて約2倍半の費用がかかりました。そのうえ気候に影響されやすく,年によって値段が大きく動きました。また,綿作にはやがて重い年貢がかけられるようになりました。
 綿は6月ごろ種をまくと,8月には1mほどに生長して白や黄色の花を咲かせます。実が大きくなってはぜると,中から真っ白な綿毛がはみ出します。一月ほどの間,実をつみとって種をとりさり,糸につむいで布に織りあげます。このように綿つみ・綿くり・糸つむぎ・機織りなどは,多くは農家の女性たちによってになわれており,女性の労働は農村でも重要なものでした。


頑張る大坂商人

 幕府は摂河泉の木綿作の発展に対応して大坂の三所綿問屋の買い占め特権を強化し、生産者の手許から利潤を吸い上げようとした。こうした抑圧には激しい抵抗が起こるのは当然である。 文政六年(1823年)摂津河内の1007村の綿作農民が手を結び、三所綿問屋の独占にたいして立ち上がり、空前規模の「国訴」を起こし、譲歩を勝ち取った。自治都市の伝統、関西人の性根を見る思いである。


近代の木綿

 明治維新後、最初に工業化した綿紡績は外貨獲得に大いに貢献し、近代化の源泉となり、大陸にも多くの工場を持っていた。終戦後の復興もまた綿紡績からであり、輸出産業の先陣を切って、日本の貿易収支に大きい貢献したが、 糸で縄を買ったと言われる沖縄返還と綿の自由貿易行為とがアメリカと取り引きされ、また東南アジアでの綿産業の勃興により、綿紡績は凋落の一途をたどっている。
 国内の綿作はそれより早くに海外の綿花に押しやられ、いまはガーデニングの分野である。



公式杭全神社
熊野古道九十九王子社

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