生田淳一郎の価値観 遺言

2011年

価値観記述 1 

個人、集団の価値観はこのように決められていた

 《 まえ口上 》
およそ、 2年半はサボっていたでしょうか、2010 /9 月 / 20日 久しぶりに価値観記述に取り組みます。
人間のこころは便利なもので、ときどきでも目を離さないでおけば、サボっている間でも深層心理がちゃんと埋め合わせの作業をしているもんです。

価値観記述に取り組むのは、これで7回めか 8回めです。
こんかい取り組みの動機は、Pikki さんから「右翼か左翼か」みたいな両極にらみの場に回答を与えよみたいな要望でしたが、答える以上は、いがみ合い、殺し合っている双方が納得できるものでなければなりません。
狭小なおたしの知見では、そのような人類規模の共通諒解を模索した思索はフッサールの現象学だけです。その現象学で、少しでも紛争や紛糾が止んだなどという実効があったのならともかく、これで紛争や問題が解決したタメシは “皆無” なんです。
この無効にあいそが尽きたのか、その後、人類には斯かる紛争阻止の思索は途絶えてしまいました。それだけに、今から書くことは、かなりの長文となることを認めてください。
先回、先々回ともに、印刷したときの枚数は A-4 で 30枚を超えました。
今回は、おたしの頭脳の中では、考えもかなりまとまり、記述要領もかなりインチキになりましたので、 20枚ぐらいには収まる見込みです。
でも、おたしは今、『神奈備 掲示板』脇の『青草談話室』で、佐々木天才さんを相手にチョー面白いことを追及中です。
時間にして最低 4〜5日はかかりそうですので、焦らず構えてほしいもんです。
もちろん、論述途中での質問・提案の記述はいつでもどうぞ。
なお、この書き込みは記録整理はしませんので、適宜きりとって、つないでください。

 《 なぜ “価値観” となるのか 》
一種の病人で大ヒマ抱えているので、おたしゃ子母沢寛著『勝海舟』を 10回読みました。
そこに今の文京区白山町を中心に、数万羽の雀が毎日々々雀合戦をして殺し合いを展開するくだりがあります。
増えすぎたネズミが集団となって崖から海へとび込んで集団自殺をする現象なども知られていますが、よくは解りませんが、いずれも生物の大義である種の保存という大枠のなかの異常として考えられるのではないでしょうか?
これら、自殺する動物は、「相手と考え方がちがうから」殺し合いをするのではありません。
人間の場合、まったく同じ考え方なのに、一つのモノ(精神性をも含む)を取り合って殺し合うこともありますが、そうでない場合は、必ず考え方のちがいや旧往事の恨みが関わっています。
ものごとをどう処理して行けばいいかの判断には、つねに「なにが大切なのか」その大切なことどもをどう順序だてて解決するのかの、手順が含まれ、それが切実な重要事となって判断に緊迫を添えています。
ここを、もう少し平べったく云いますと、《 1 》 無限にあるふれあい対象のうち、主体はナニを選択するのか《 2 》 そこに提示されている各種選択肢のうち、たちまちの対象とならなかった選択肢は、いったいどんな順位で選択しようというのか、 の二つの問題がふくまれています。いうなれば、それは価値観ということではないでしょうか?

価値観だけではなく、ヒトは世界観のちがいでも殺し合いをしました。1543年、コペルニクスは殺されるのがイヤなので、死ぬ年に合わせて地動説を本にして発表しました。へんな自我観を発表したソクラテスは、結局は毒杯を仰ぎました。
人類にはまだ不退転の世界観を説く宗教をくわえこんでいます。が、カソリックの総本山ともいうべきローマ法王は、1996年 9月 23日、進化論を容認する宣言を発表しました。パウロ・二世法王です。
このように、統一見解をせまる物理化学がしだいに宗教が持っている独断のカベを溶かしているのが現代です。
 ですから、宗教的偏見は、そのうち溶けてしまいますので、吾人は価値観に問題を絞りこむことになります。

 《 価値観を話す高橋稔とのめぐり合い 》  1
おたしは25歳のとき、自分という現象が怖くってたまらなくなりました。恩師に相談したところ、恩師は即座に「心霊学をやれ」と助言してくださいました。ちょうどその直後、会社の都合で東京に出ましたので、東京では心霊とか超常現象、超心理学、催眠学、UFO , スブドなどの本を読み漁りました。
そうこうするうちに、背中にニョッキリと 10本もツノが生えている写真を撮ったり、地震を予言したりするうちに、希代の霊能者・長谷川わかさんのところに出入りするようになりました。
わかさん宅にいっしょに行っていた篠原秀男氏が、「われわれも霊能力を出そう」と言い出したとき、おたしは「オレが霊能力なんざをだしたら、この人類はいったいどうなるんだ。誰がこの精神文明を世に普及させるのだ」ということに思いあたりました。そこで、27歳の 9月 23日、おたしは「精神文明の統一事業に一命を捧げる」との決意をしました。神風特別攻撃隊そこのけの精神です。
当時、銀行利子は 6%でした。この金利だけで賄って、無期限のオリンピック並みの世界精神文明会議を開催しようというのです。そのときの粗計算では最低 30億円のゼニを稼ぐ必要がありました。

そのゼニを稼いでやろうと、30歳から独立して「全国の職域・団体へ優秀企画の商品を斡旋してもらう仕事」を始めました。これはアイディア 1本での勝負です。アイディアのことなら自信があるところですので、まずはまちがいは無いと踏んでいました。
最初に取り組んだ商品は、固いセイロンオリーブの実(タネ)で作ったアクセサリーの販売です。たしかに数はまとまって売れました。しかし、単価が安い(平均 300円内外)ので、出張経費、荷作り発送費、通信費などを差し引くと、ほとんど儲けは残りませんでした。
なによりもの齟齬は、資本金ゼロから始めたことです。おたしは姉、兄がやってもらえなかった大学に、姉、兄の犠牲によって行かせてもらうことができたのです。資金面で家や姉、兄を頼ることはできないのです。
そのころ、女子工員は大工場にワンサといました。いるところも分かっていました。そして若い女の子には、この木の実のアクセサリーはとても評判が良いことも分かっていました。ですから、女の子がワンサいる工場に行って商売をすればいいんです。ところが、そういう大工場へ行って、ワンサと注文が来たときゃナンとしましょう。誰ァ〜れも仕入れ資金は貸してくれないのです。
そういうふうにして程よい大きさの工場を廻り、カツガツに暮らす生活がつづくいちに、アッというまに 8年の歳月が流れ去りました。

 《 価値観記述》  4
 《 高橋稔とのめぐり合い 2 》
胴体着陸寸前の低空飛行の営業をつづけていたある日、「心霊学をやれ」と奨めてくれた恩師・橋本正行先生がしばらく東京に滞在なさることになりました。
親友のユワ公といっしょに訪ねました。
そこで話題になったのが邪馬台国のことでした。
先生がおっしゃるには「あそこに出てくるミマショーなどという言葉は古代朝鮮語かアイヌ語にちがいない。それをつきとめれたらたいしたもんだ」でした。そのころおたしは毎年北海道に出ていましたので、アイヌ語のほうの追求を引き受けたのでした。
でも、それから 2年か 2年半というものは、それはそれはまったくの疾風怒濤。おたしゃアイヌ語が持っている魔力にとり憑かれて、夜もおちおち眠れないし、仕事も手がつかずに、大ぶん殴られにぶん殴られたような、さんざんな目に遭ったのでした。
それで、アイヌ語領域を離れることを狙って 39歳〜 40歳のとき、『アイヌ語の謎』という本を書きました。これで暗雲はきれいに払われたことになったのでした。
が、どっこい、その直後におたしゃ川崎真治さんを知った。
川崎真治さんは世界規模で古代語に開眼した人物で、言語面でも世界の先進文化圏のそれが日本や極東にも来ているという主張・論述です。おたしが『アイヌ語の謎』で世に訴えた中心テーマは、アイヌ語の中にゲルマン語々彙が 100もあるということでしたので、これには驚きました。
でも、アイヌ語には殺されそうになりながら苦しんだので、川崎真治さん宅にはしばしば押し掛けて話を聴くことはあっても、もう、そんなには狂いこむことはありませんでした。
それでも、営業成績のほうは、一向に改善されず、無為に時間が過ぎていっていました。
そうこうしているうちの、42歳か 43歳の春、扱い商品の苗木を浦和駅で出荷した帰り途で、おたしは喫茶店が新装開店しているのをみつけたのでした。
まだ電気配線をしている段階でしたが、おたしは立ちよりました。ちょっと立ち話をしたのでしたが、そのとき、何かのはずみみたいな調子で、30歳ぐらいのマスターらしい人に「あなた、実存主義はわかりますか」と訊いたのでした。
即座に「ワカリマす」と、実にハッキリした答えが返ってきました。
カイゼル髯みたいに両側をピンと撥ねた髯も、抜けるような血色のよさのため、悪い印象はありませんでした。
この人物こそ、それまで十年間、苦しみぬいたあげく、初めてシャバの風にあたった高橋稔だったのでした。

《 価値観記述 5 》
《 高橋稔とのめぐり合い  3 》
高橋稔は父親のことをオヤッサンと云っていました。高橋稔は絵がウマく、芸術関係の大学に合格したのですが、そのまえにオヤッサンが雇ってくれた二人の家庭教師から 、唯物弁証法理論を徹底的にたたきこまれ、あたまの中は真っ赤な共産主義者になっていました。
折しも60年安保闘争です。彼はオヤッサンが納めてくれた 4年分の月謝を「もう、大学には行かないから、全額かえしてくれ」と学務課に要求して、そのゼニをもとでに株で儲けて、それで棍棒とかヘルメットを買いました。早生まれで、いちばん年少でしたので、全学連の仲間には人気者で、いい顔役になっていたそうです。
「これで、間違いなく、この日本にも革命はおこる」と、本気になって信じていました。が、それが負けた! 挫折組ということばが流行りましたが、どこに身をもって行けばいいのか、「ザセツゥなんてぇもんじゃないよ」と云っていました。
あの学生闘争では、大きく報道されたので、警棒で叩かれて死んだ樺(かんば)美智子さんのことは、人びとの記憶に残っていますが、警棒で叩かれて痴呆になったり、自殺した学生がおおぜい出たのでした。
高橋稔もいろんなトリックを使ってノンポリ学生をデモに狩りだし、その狩り出された学生がバカになったり自殺したりしたのでした。わけても仲よくしていた仙台市郊外の素封家の一人息子が自殺したことは、口では云えない大ショックでした。

高橋稔はピノッキオみたいに純粋なこころの持ち主でした。じぶんがあの闘争でやったことについて「自分の責任」ということをまじめに考えました。彼はいくら飲んでも酔っぱらえないタチでしたが、アブサンなどの強い酒には、少し酔いました。苦悩を酒にまぎらわせているうちに、急性胆嚢炎にかかり、病院に担ぎこまれ、下宿していた部屋に担ぎこまれました。下宿は一階が食堂で二階には独身者が6〜8名個室にいるという造りでした。
もう、こうなったら酒にまぎらわせることもできません。
「自分の責任とはナニか」へ、正面から対決せざるをえないところまで追い込まれたのでした。
彼の知能指数は抜群で、子供のときには放課後に残されていろいろ試験をされたそうです。

その知能がアタマ真っ赤(共産主義)のままで考えたのです。「オレの責任といったところで、オレのからだは “ 他人 ” の両親が作ったもんじゃないか、オレのこの考えといったところで、その他人が作ったからだがシャバの風にあたって言葉を憶えただけじゃないか・・・・・・どこにオレと呼ばれていいカケラがあるのか」この鉄壁に気がついた彼は、もう考えることをやめて、万年蒲団の上に大の字になってひっくり返ってしまいました。

  価値観記述 6
 《 高橋稔との巡り合い 4》
人間が眠っていない状態で、言語意識を取りはらったらどうなるかは、インドのヨギ僧や座禅などでは十分にくりかえし、くりかえし確認されています。
そういうカラッポ・アタマの中でもイリュージョンとか幻影が現れ、これが後(あと)で記憶としてよみがえるのです。そういう “ 肉 ” のしくみを涅槃とかニルバーナと呼んでいます。この感受は意識主体(本人)が共産党員であろうと、アフリカのブッシュマンであろうと、大略でおなじものが現れます。
高橋稔もそのベルト・コンベアーに乗っかり、「じぶんとしては、考えてもいないのに」他律のドラマを見せつけられるのです。
共産主義に徹していた高橋稔は、精神文明の諸相を知ってるわけではなく、「じぶんはてっきり頭が狂った」としか思えませんでした。

後日談・・・ということになりますが、おたしが座禅のことなどをしゃべったとき、高橋稔は青くなって「ああ、オレは貴重な十年間というものを・・・・」と、いいながら震えていました。すぐにおたしは「そうではないヨ、マスターは唯物思想のまま、人跡未踏のジャングルを、誰ひとりとして導師ももたず、たったひとりで格闘した、それが人類的意味を持っている」などと云って慰めたもんでした。

そのときのイリュージョンとはナンなのか、類似概念のナニもなく、高橋稔は “ 知らなかった ” のですが、じぶんの肉を狙って関わってくるイメージの諸相・・・・・・ということには気がついていました。
ですが、ここで彼が偉らかった(知能指数の総合化?)のは、「オレは狂っているかもしれないが、とにかく本当のことを知りたい、教えてくれ!」との一念を貫き通したことです。ここが無かったならば、この価値観記述もありえませんでした。

肩に透明な大きな羽根を生やして、いつもセックスばかりしているトンボみたいな “ 妖精 ” たちも見せつけられましたし、カラス天狗からもバカにされてガハハと嗤われました。いわゆるボンテンさんにも導かれて、一種の秩序がありそうな “ あの世 みたいなもの・・・みたいなもの” も見せつけられました。
そういった他律主体がこっちの肉を狙っていることをしって、高橋稔は「あんたらァには関係ない。オレを解き放してくれ、解き放してくれるなら、この手をあげよう。足をあげよう」と交渉しました。身体はしだいに小さくなって、最後には「岩みたいなもの・・・みたいなもの」にしがみついていました。
この「岩みたいなもの、みたいなもの」から早く離れないことには次に行けないのに、なかなかそこを離れられない。・・・・・・そういった時間が、じつに永く永く続いた末、やっと離れることができた。
離れたとたんにバッシ〜ン!!と大きな音がきこえて、高橋稔は万年蒲団の上に弾きとばされていたのでした。

 《 価値観記述 7 》
 《高橋稔とのめぐり合い 5 》
狂った、狂わないは別にして、高橋稔には、なにも準拠基準というものがありません。へんな動物みたいな生き物が案内したり、こっちの肉をほしがっていることや、あっちの領域に入ることを拒絶されたことも、彼にとっては貴重なヨスガとして捉えざるをえません。
あっちの世界に入らざるを得ないことを、高橋稔はいつも指を下向けにして「おっこちる」と表現していました。おたしは、それを「突入」と表現しました。「入らざるをえない」というのは、「誰れが好きこのんで、あんな世界に入るもんか」という意味がこめられています。高橋稔にとっての「おっこちる」とは、「いやいやながらも、そこにしか行くところが無い、やむなく嵌りこむ」ということでした。
とくに、あとでおたしが告げたことですが、あっちの世界にはボンテンさんと呼ばれる一種の霊体がいます。死者の案内人とも考えられています。そのボンテンさんは、現れたり現れなかったりするのですが、その人物らしき人が何かを知っているらしい。
高橋稔はあっちの世界では「死んでもいい、ただほんとうのことが知りたい」の一念を貫き通しました。

突入は二次、三次と数回にわたって落ちてゆきました。はじめのうちの突入期間が短かかったのは、やはり大小便にかかわる神経作用によるものだと判断されます。
下の下宿のオッサンには「食べものは廊下に置いてくれ、食べてなかったら、そのまま下げてくれ」と云いおいていました。
何回目かにトイレに行くとき、部屋をふと見ると、水がもの凄くキラキラと輝いていて、奇異な思いをしたこと、水をやらないのでほとんど枯れていた福寿草が、「まだ生きている!」とハッキリ判ったことを記憶していたことを、おたしに告げました。

最後の、弾きとばされたときの突入は、どうみても1ヶ月半の時間がかかったのだろうと云っていました。というのも、弾き飛ばされたあと、ふらふらした身体で、鏡で顔を写してびっくりしたからです。肉という肉は総退却し、薄皮が骨にこびりついています。毛が顔じゅうに生えて、そこに大きな目玉がギョロリとこっちを睨んでいたからです。
長谷川わかさんもガン(願い)をかけて 1ヶ月の断食を決行したのですが、そのときでさえ、水と塩は欠かさなかったそうです。しかし、高橋稔の場合は、水も塩も摂らずの決行だったのです。
唯物論者の高橋稔は「あれは身体が燐とかカルシュームを燃やしていたのではなかったろうか」と云っていました。
とにかく弾き飛ばされたのだから・・・・・・ということで、万年蒲団をふらふらする身体で、めくってみて、更にビックリ! 畳がヒト形(大の字)に変色していたのです。身体の水分が蒲団を通して畳にまで浸透していたからです。
下宿のオヤジさんが整理してくれていたのか、配達された新聞紙は廊下に 1尺半(45cm)ほど、山になっていました。

価値観記述 8
 《 高橋稔との巡り合い 6 》
あっちの世界に戻ってみたところで、同じことの繰りかえしみたいなことが待っている。こっちの世界に居たところで・・・・・・。でも、死ぬのはいつでもできる。
弾きとばされたのを機に、高橋稔は生きる隘路をもとめて、みせつけられたイリュージョンなどを足場にしてなんとか行けるところまで行くよりしょうがなくなりました。
漠然とした目的意識のまま、彼はなにやらにとりかかろうとしました。が、すぐに気がついたことは、自分は脳をやられてキチガイになっているという自覚でした。キチガイ頭で考える・・・・・・、彼はこのことで大いに悩みました。
ですが、たまたま眼にした新聞記事が、なんと、昔のようになんなく理解できたのです。「オレは今はキチガイではないのではなかろうか・・・」。彼は毎朝新聞に眼を通しキチガイではないとの自信をもって、新聞に挟みこまれて配達されたチラシの裏の空白を利用して文字や記号などを書き連ねました。
こうして、約十年の歳月をかけて、彼はシャバ復帰を遂げたのでした。

生き続けられない状況から、生きてシャバに還ったことは高橋稔個人にはどうでもよかったことですが、この苦闘は人類にとって貴重な、奇蹟てきな実験だといえます。どのようにしてそれが奇蹟なみのできごとだったのかを箇条書きにしてみましょう。
1)  突入は 20才という若さが支えた。これが、あと3年も年少だったり年長だったりしたら、おそらく、死んでいたことでしょう。
2 ) 彼は画家志望で、絵が上手だったので、彼の将来に投機するスポンサーが二人もつきました。
3 ) 超がつく知能指数が遺憾なく発揮されました。
4 ) 絵描きなので、ことばにならない領域をなんとか表現しようとすることに長けていた。
5 ) 長男でしたが、オヤッサンとは激しい反抗心に燃えていましたし、おふくろさんや妹には、あの世で厳しい縁切りをやっています。家族からも解放されていました。仲間だった学生たちは就職したり郷里に帰ってしまって、雑音ゼロ。完全に孤独を守れました。

雇われマスターでしたが、彼が初めてじぶんの名でシャバに立ったのは、浦和駅東口ちかくの羅阿馬という小さな喫茶店でした。
はじめてしげしげとマスターの顔を見たおたしは「こんな顔、二代や三代で出来るもんじゃないぞ」とつぶやきました。とにかく抜けるように血色がいいのです。それもそのはず、十年前に身体に溜まっていた毒素という毒素をぜんぶ吐き出してしまったからです。
常連になった Kという青年は「マスターはキチガイだ」と云いましたが、おたしは「まだまだ湯上がり気分がつづいているのだ」と云いました。

価値観記述 9
 《 高橋稔との巡り会い 7》
おたしはその頃、職域販売の関係でひと月に十日ほどは出張していました。浦和にいるときは、主として出荷や仕入れ、カタログ整備などの業務です。そういうことですので、浦和にいるときには、午前中から羅阿馬に押しかけました。
マスター(高橋稔のこと)はおたしが行き始めて日の浅いとき、そういった夢のような茫漠としたイリュージョンのなかから、どうやって生きることとなったかに就いては、ことばでは云えないと云いました。高橋稔はじぶんの中央には「『そのもの』がいるといっていました。禅でいう無位の真人とか、無官の真人に逢着したらしいです。
「だが価値観ということなら、ことばでいえる」と云ったのです。

おたしの生涯の生きる道は「精神文明の統一事業」です。世界各地から哲学者や宗教家に会議してもらうのです。なんにも用意してなければ、ハナシはのっけから支離滅裂なものとなるのは火をみるよりも明らかです。おたしは「価値観」に焦点をしぼりました。九才とし下の高橋稔を師と仰いで教えを乞うわけです。
とはいえ、ザックバランにうちとけて、仲間に話す口調です。が、初めのころ、「旦那さん、旦那さん」というにはビックリしました。絵描きでのスポンサーもおたしと同じ年配だったのでしょう。
二人とも講義に飽き飽きしたら、碁盤をもちこん早や打ちのでケンカ碁をやりました。「碁盤には神さまが棲んでいる」とか云いながら、ひとゲームやるのに 5分とかかりません。
その頃、羅阿馬には近くで碁会所を経営している S さんがコーヒーのみにやってきていました。ハタで見ていたら、二人とも 13級ていどのヘボ碁だったそうです。
こうして始まった高橋稔の講義は 1年と経たないうちに取りやめになりました。というのは、マスターは浦和から西へ 15キロほど行った所沢市にエレファントという喫茶店を開き、いよいよ自分の名で経営することにしたからです。肩すかしみたいなのを食らわせられたおたしは、毎日、碁会所通いを始めました。そこへときどき、マスターが碁打ちにあそびに来たのでした。
あとで判ったことですが、マスターの周りにはレッキとした知能の持ち主がいなかった、おたしみたいな者でも、心霊畑に首をつっこんだことのある者は、やっぱなんだか頼りになれる存在だったのかもしれません。

その後もおたしのゼニモーケのほうは、パ〜ッとしません。そのような事情のとき、ふとした情報から、おたしは 28歳のときに出たおたしのアイディアで、ほかの人たちがかなり儲かっていることを知りました。足文式ミシンを卓上むきに改造するしごとです。
そんなら・・・・・というわけで、おたしは盛岡市のアパートを借り、そこを事務所にしてミシン改造業を始めました。
そこへマスターもやってきて、おたしのしごとは手伝いませんが、居候になりました。「つっこみ特攻隊」の場になれるかどうかの下見に、二人で青森県の眉ヶ岱に行ったり、沢内村にイワナ釣りに出かけたりしました。また、別の日ですが千葉県の大多喜町にハーブの研究に行ったこともありました。旅籠の中井さんが「あなたがたは親子ですか?」と訊いたのには、心底ガッカリしました。

ミシンの改造の注文電話はひっきりなしに鳴り、これならイケルと思ったとき、「今年も2年続きの凶作だ」との情報がながれ、電話はパタリと鳴り止みました。

盛岡から逃げて帰ったあとも、マスターはときどきあそびに浦和にきました。碁会所を出たあと、二人でレバニラ炒めをつつきながら、しゃべった話題は価値観でした。

価値観記述 2 

《 高橋稔とのめぐり合い 8 》
誰かが出資してくれたのか、高橋稔はそのころ南浦和駅ちかくにアパートを借りて、悩めるサラリーマンや青年たちの人生相談所みたいなことをやっていました。
そのころ、高橋稔は40枚以上にわたる「書いたもの」を造りました。それをみておたしはガッカリしました。それは、まるで教祖様が宣りたまうような書きっぷりです。新しい生き方を始めるのですから、平明なふだん記調で書かれなければならないはずです。
高橋稔は「これはカネになるはずだ、あんた(おたし)出版しないか」とまで云うしまつです。
考えてみると、高橋稔は超がつく知能指数には恵まれていましたが、中味は高校卒業のままなんです。
いちど、おたしに鈴木大拙の息子がどうのこうの・・・・・と云ったことがあります。それで、おたしはその時は、高橋稔の周辺には、ほかにまだまだ優秀な語り合いの相手や仲間がいるのだろうと思っていたのでした。
もちろん、出版などできないし、そういうモノイイにケチをつけたこともあってか、高橋稔は遠く沖縄へ行きました。
沖縄では「宗教ではない」と主張する イジュン(泉の沖縄なまり) という6000名の組織の幹部になりました。

盛岡で凶作の風に吹かれてたおたしゃ、その後 2ヶ月ほど仲間に雇われた形で、気仙沼や北海道に出て、ミシンの改造業をしました。
苫小牧の広い街区画を、疲れきった身体で重いミシンを持って家を探してまわったのが決定的なミスだったようです。家に帰っても、右上を見ながら歩くと、足がフラッ・・・、フラッとするようになりました。そして、どうも足どりが重い。
昭和の終わりごろ、むかしの仲間が「職域で天津甘栗が売れている」といって、職域販売を奨めてきました。ちょっと小当たりしてみたところ、優秀な職場は、ほとんど皆、他の業者がはいっている。そこでおたしは売り方に改革を加えてみました。すると「これでいくと、月収の 150万円は固い」との自信がもてる線がでました。ところが、そう思った翌々日あたりから、こんどはいよいよ足がしびれてきたのでした、あちこちの病院を訪ねてみましたが、原因不明のまま 3〜4年がたちました。子供たちは大学に高校に進み、いちばんゼニが要るときです。天津甘栗売りで少々儲かったゼニは、インチキまがしい治療にぜんぶ投下しました。
それが、ついに脊髄腫瘍(ガン)だとわかり、57才のおたしは 1994年(平成 4年)2月 26日、琉球大学付属病院で身の随を割る手術をすることになりました。
沖縄に着き、旅館からそのことをマスターへ電話したとき、マスターは「ああ、やっぱ来てくれたんだなあ〜」といいました。
マスターはしばしば病室に来てくれました。高い部屋から地上を見下ろしながら語ったことも価値観でした。

85日におよんだ入院が終わったあと、おたしはいつでも配布できる価値観チラシの原案を作ったあと、懸案だったネパール語に没頭しました。 7年をかけて『衝撃のネパール語』を世に出しました。
退院した 2年後だったでしたか、こんどは高橋稔が脳溢血で倒れ、半身不随になったということを知りましたが、どうしてあげることもできません。
てっきりダメだと思った高橋稔が、あんがい動けて、なんとか活躍していることを知ったのは、それから 5年ほど経ったときでした。
そうと分かったときから、一方通行でしたがおたしはしばしば手紙を出しました。
かわいい盛りの4歳のニライちゃんをつれて、わが枕頭にきました。奥さんも来ました。
おたしが倒れたあと、浦和には前後 5回ぐらいは来たことでしょう。

ところが 、1904年 4月 23日、高橋稔はXXXXに浮かんだのでした。

 《 高橋稔との巡り合い 9 》
そうとなったら、高橋稔が生涯かけて言い続けた「ことばで云える領域としての価値観の見解」は、だれかに立派にバトンタッチされているのかどうかが問題になります。そこでおたしも、あちこち打診してみたのでしたが、一流の人物には、価値観その他の考えは伝えていないことが判りました。どうも「鈴木大拙のご子息云々」は、高橋稔の云いちがいか、おたしの聞きちがいだろうということになってしまいました。
彼がつきあった人物は、おたしを含めて、どの一人を見ても、モノを書くことなどには向かない人ばかりのようです。
それでも、いちばんモノを書いているのはおたしでした。おたしは 25年前から、『ふだん記・津軽』の正規会員でしたし、ふだん記感覚でモノを書いてきました。おたしが出た法文法科では、卒業論文は書く必要がありませんでした。また、レポート提出を求められたのは、二度しかありませんでした。レッキとしたモノイイの書き物はやったことがないのです。レッキとした「モノイイ書き込み」にはまったく自信がないのです。
そこで、おたしゃ有名人や天才さんたちに、高橋稔が謂う価値観の “ 骨子 ” を訴えて、「おねがいします、書いてください!」と訴えました。C.W.ニコルさんや、一時ゲバゲバで有名になった太田竜氏にも訴えました。大手マスコミの R.K.Bの顔役さんにも訴えました。
それに応じてのまじめな回答は、なべて「あんた(おたし)がやるべきだ」でした。

論文調では自信がありませんので、やりかたを変えて、ジャーナリズムに携わる人びとに訴えるスタイルで記述してみました。でも、やっぱりまとまった文章ではありません。
今回の記述は、おたしが不明だと感じていることに焦点をあてながら、全体を揉みほぐそうと心がけています。
おたしが、あと何年生きられるかはわかりませんが、あと 2回か 3回、練りあげれば、世の識者が注目するだけの記述ができあがるのではないか・・・・・、そこを目やすにして、挑戦してみたいと思っています。



  後編

《 訴えようとする価値観の概略 》
「価値観」というと、首筋に緊張が走って、なにかムズカシイこと、普通の暮らしに関係ないことのように受け取られがちかと思います。が、ここでは、事態はその逆です。あそび感覚でふだん記調で記述しますので、どうか全身から緊張を解いてお読みください。
価値観の骨子を超短くいいますと、ひとがなにかをやろうとするとき、その「何か」は多くの概念のカタマリとなって主体(やろうとする人)の前に出現しています。それら概念のカタマリは数種類ある。その数種のカタマリのうち、どれを優先して「あやかりたい」とねがったり避けたりするのかで、「考えがちがう」ということになる。その「考えがちがうこと」が「価値観がちがう」ということになっている。・・・・・そういうことです。

価値観ということで検索してみてください。煮詰めた理論的解説のほとんどは経済的な価値を謂っています。価値は経済だけではないはずです。宗教的価値や物理化学面での価値もあるはずです。
このごろは、食べ物や趣味のちがいにも「価値観がちがう」などと云います。ですから、ここでは大きく、趣味嗜好をも含めて価値観として把握しましょう。


 《 進化する生物としてみる意識叢の展開 》
先進国の中で日本人ほどリクツが嫌いで、リクツによわい民族はほかにいないそうです。
地方では、すこしリクツをこねる人は、すぐにキチガイ扱いにされ、除け者にされます。
この原因はホトケ様のことばが、サンスクリット語からシナ語へ、シナ語から日本語に翻訳されるとき、仏教用語となった語彙の一つひとつが誤訳だらけだったにもかかわらず、その誤訳をゴリ押ししたことと、岩拝みから出発した日本神道(「しんとう」と発音するんだってサァ)が、しゃべらない神さまを祭ったからです。も一つ理由があります。それは仏教での誤訳に慣れきったアタマは、西洋思想が流入したとき、その思想の中核に位置した哲学畑で、これまた誤訳だらけの「日本語みたいな西洋哲学用語」をそのまま放置したことによります。
こりゃ、いったいなんでしょう? 答えは「よの中、丸ぁ〜るく収まりゃ、それでいい」といったスタイルで「真理なんざ、そっちのけ」の心情でしょう。ここはおぼえておいて下さい。あとで、現代の「学問の座」でモンダイになります。
あ、おたしゃ少々言語にはウルサいんです。ここ 35年ばかり、アイヌ語やネパール語をたよりに、我流でいろいろな言語をにらんでいます。
この日本には「リクツを云うようですが・・・・・」という挨拶語までが習慣化されています。リクツを云っちゃならないことが、てっていてきに行きわたっています。
すぐに「リクツはいやだ。オレはリクツには弱いんだァ」と云いだす人は、「自分ではない人」が自分の名前で生きていることに同意しなければなりません。このマスコミ社会にあっては、飼い殺しをうけても、そのことに気がつかない人種です。ま、ウシやニワトリに生まれようと、人間にうまれようと、どっちでもヨカッタんだァという人種です。


  《割り出し基準》

1)世界観と価値観
世界観と価値観・・・・・、あらためて云うまでもなく、「世界はどうなっているのか」を主に物質面から法則的なことを見出そうとするのが世界観で、「なにかにあやかって欲望達成を遂げようとするのが価値観」ということでしょう。
で、ここで展開させる価値観には世界観は関係ないのかというと、そうではありません。意識叢ということはがあります。意識には数種の「草むら」みたいなカタマリがあって、その数種のカタマリのうち、どれを優先して選択するかが価値観の中核機能になっているのですが、その数種の意識叢の中にはそれぞれ固有の世界観を展開させている「宗教」と「物理化学」があるのです。

ふつうの暮らしのなかで、むずかしい問題に遭遇すると、ひとは考えこみます。たとえば、結婚とか進学、就職、入信などの問題には、それが大きければ大きいほど、考えこみます。その心裏には世界観と価値観の二つが作用して、ものごとの「本質」を把握し、一つの選択をうながされているわけです。いわゆる「世慣れした人」とは、このような選択〜決断に多く遭遇し、「このようなときには、こういうことにしかならない」ことに多くの経験を積んで自信を持っている人のことです。

2) 価値とは
このごろは英語が流行っています。価値を英語でいえば useful ということで、世の中のモノゴトを利用するにあたって、それが個体の満足につながっていると見込める状況です。対象は物体だけではなく、「ことがら」もありましょうし、対象は純粋な精神性の場合もあります。
ですから、価値とは心理的な要素のつよい概念です。満足を求める活動とは、数種ある対象物からどれにするか選択する行為だともいえます。


3) 価値の基本は食うこと(交わること)の充足
さきほどから、「数種の意識叢」を云っていますが、このあとすぐ出す六種の意識叢のうち、肉(1)以外は、すべて肉の充足を合理的に計るための、一種の迂回手段です。現代人はゼニを得ようとしますが、それはゼニそのものを食べることではなく、ゼニによって、食うことをより安定にしようと計る行為です。


4) 高橋稔と語ったときは 意識叢は 4種でした
おたしは高橋稔から約28年間にわたって価値観を教わったのですが、そのときに用いた意識叢の種類は「肉」、「自然」、「叡智」、「経済」の 4種類でした。
肉だけだった単細胞生物が「自然」の状況をいろいろと自分のものとして取り込む。そして取り込んだものが失われていく度に、英語でいう miss の心情が生まれます。miss ・・・・・無くなって寂しいという思いです。そこから、新たに「今度はこういうものを取り込んだらいい」との願望〜策略の意識がはたらいてきて、ここに「情動」という心理がD.N.A様にインプットされ、遺伝形質の一つとなります。アプリオリ(先天性)という哲学用語は、現代流に云えばこのことです。
ヒトが眠っていない状況下で、言語意識を取り払ったとき、すなわち、ニルバーナとか涅槃の境地では、高橋稔が見せつけられたような、定番のイリュージョンが展開され、それが記憶に残るしくみがありますが、このとき、肉は青色のモヤに包まれ、「自然」とのやりとり(情動)は黒い色のモヤで包まれています。それが記憶になっています。青は「いのち」でもあります。いのちが衰退していくときの色が黒色かもしれません。いや、黒(自然そのもの)から発生した「いのち」が青光りしているとも受け取れます。
自然が変形して「いのち」が出たと考えたいところですが、現代科学でも「いのち」という事物の正体は分っていません。ビッグ・バーンによっていまの宇宙が出来たとのことですが、宇宙のむかしは「果てなし」です。何億回も何兆回もビッグ・バーンが繰り返されたのか、……それは、わかりません。
超新星爆発などでは、ものすごい温度が発生しますので、そういう高熱をくぐり抜けて生きつづける単細胞生物はいないだろうと思うのは、ヒトの勝手よみかもしれません。
この「いのち」と「自然をとり込んだ情動」の二つは、単細胞生物以外の高等動植物は共通に持っていて、この鉄ワクから逃れ出ることはできません。
ところがヒトは言葉をおぼえることで、「叡智」の領域を持つに至りました。論理学という分野がありますが、論理学とはことばが持っているいろいろな局面に名前をつけ、その作用〜関係を考究する学習です。ことばも自然が持っている秩序をも取り込んでいます。ことばになっていないモノを云う人はキチガイです。ことばは論理展開の領域です。一時、高橋稔は「ことばは 3(後述・・・・・、叡智)だ」と云った時間帯がありました。これはすぐに二人の間で訂正されましたが、それほどに、ことばは論理的(3に酷似)です。
「叡智」という用語をつかいましたが、この領域は「集団形成」とも置き換えられます。初期の叡智は、とくに集団形成で発達したからです。
ソクラテスが個別自我という、へんな自我観を提唱したとき、ギリシャ人のほとんどは、集団で固められた自我意識しか知らなかったので、総スカンを食らわせられたソクラテスは毒杯を仰がざるをえませんでした。
では、この「叡智」と呼ばれる意識は、ニンゲンだけに見られる現象かといえば、そうでもありません。

● これは観察中の動物学者の目の前で起こった、カラス社会の出来事です。よその巣から枝ぶりがいいのを盗んだわ〜るいカラスが、同じ木にいた十数羽のカラスから、つつき殺された事実があります。
● 鮭が溯上する季節になるとヒグマ(羆)は臭いでそれを知り、川へやってきます。そのとき、他の個体が川に入っているときには、あとから来た羆は、すぐには漁獲はせずに、先に入った羆の脇にジーっと佇みます。そして拒絶されないことを確認したあとで、鮭を獲り始めます。

わずか二つの例を挙げただけですが、このクセはイルカや猿、犬などにも認められます。これは倫理であり、集団形成です。しかも、カラスや羆のD.N.A様にはそれらのクセがインプットされていることを物語っています。

高橋稔から教わった価値観の意識叢は、上にのべた「自然」、「情」、「集団形成」の次は「経済」でした。当時は経済が急成長ちゅうで、経済の嵐が吹き荒れていましたので、そのぶん、よけいに目についたということもありましょう。経済は人心を侵すこと、甚しいものがあるのです。
これらに、それぞれ 1 , 2 , 3 , 4 の符号をつけました、
そのころも「価値観の多様化」が云われていました。では多様化々々々というが、価値観とは何種類あるのかといえば、優先順列ですので、価値観のありようは 4 × 3 × 2ですので、これで全部で、24種類しか無かったのです。
高橋稔が最後におたしの枕頭に来たとき、二人のあいだで、「“叡智” の中にキリスト教と共産主義が同居している。4種ではダメだ」が共通諒解になりました。意識叢という表現も、そのとき高橋稔も諒承したのでした。


5) 意識叢相互間の拮抗矛盾 と 運動法則
この章のはじめに、リクツをいう人は嫌われて除け者にされることを書きました。なぜリクツ屋を除け者にするかに就いて、その心情は最終のもくろみを「全体がウマ〜く行くこと」を狙っているからだと、書きました。
しかし、ここはもう少し深く、穿った見方をしなければならない隘路があります。リクツを嫌う日常生活者とは、情念(2)を第一選択基準として生きている人びとです。そしてリクツとは叡智〜集団形成の 3 です。「2 と 3 が氷炭相容れない関係にある」からこそ、この価値観がしゃしゃり出てきたという次第です。
ぜんたいがウマ〜く行くように計るのは3(集団形成) の分野ですから、人びとはリクツ屋さんをのけ者にしてはならないどころか、大歓迎するのがスジというものです。・・・・・が、現実にはそうしない。受け入れると自我の崩壊を呼び込むからです。ここは先でもっと詳しく観察します。

これから先、意識叢は六種に増えます。「その一つひとつの意識叢は他と氷炭相容れない関係に立つ」とみるのが基本です。そういうことなら、2〜6の意識叢はすべて 1(肉)と矛盾を起こしている・・・・・・とも考えられ、そうならば、2〜6 はなんのために用意されたのかがわからなくなります。
事実、そういった現象も実際におこります。
ここは、もう少しさきで述べたいところでうが、「1・2 」が永く続いた生物としての生きざまは D.N.A様にインプットされ、1 と 2 は渾然一体となっていて「ここは 1 だ、ここは 2 だ」と峻別できない心情が多いのです。むかし、サムライの社会には「ご機嫌うかがい」という一種の制度がありました。殿様の機嫌がわ〜るいときには、何を申しあげても効を奏しません。機嫌がわ〜るい殿様には、社会ぜんたいが迷惑するのです。

記述が整然としなくってすみません。「1 ・2」渾然一体の意識とは、高等動物とか野蛮人の意識で、自然法の世界・領域です。ヒトは 3 の意識をえてその自然法の世界・領域に闖入します。すると、3 は人を上下に区分します。同様に「1 ・2」に闖入した 4 は、人と人を対立関係に置きます。
そういったアコギな意識叢を得てでも、人は 1(食うこと、交わること)を確保しようとするのです。
そうは言っても、これら六種のうちの 3〜6は 「 1 」とか「1・2」の欲求充足を合理的、円滑に運ぼうとしているのが基本です。

あとで述べる六種の意識叢では、複雑になりますので、ここで1 〜 4 固有の運動法則をみておきましょう。
《 1・・・肉 》は 1点反復の運動形態です。時間が経ったらハラがへる、それです。この運動はオシログラフによく表れています。
《 2・・・自然 》は、おなじ所をグルグルまわるサイクル運動です。3〜4歳の幼児や老人は、同じ物語を何度聴いても飽きません。
《 3・・・叡智 》は、1点からの演繹、1点への集中(帰納)の、ヒエラルキー形成です。人は少しでも高い部位に就きたがります。
《 4・・・経済 》は、右肩あがりの一直線上昇の運動です。小沢一郎さんが主席投票に破れました。さて、このさき、経済はどうなることやら。

経済は食料確保という意味で、「食うこと」にモロにかかわります。十分な蓄財、貯金があれば、その分だけ最低線の食料が確保できます。経済が支配的になっている社会では、金満家は 3 で成功したと同様の扱いをうけ、尊敬されてきました。この現象をフシギに思ってください。
ホリエモンは「何でもカネで買える」と云い放ちましたが、今のこの社会ではホントーのことで、けだし名言でした。

これまで価値観は野放し状態でしたし「レッセ・フェール(自由にさせろ)」のかけ声が鳴りひびいていました。個人の自由は「個人勝手」と同じでした。4種の意識叢のうち、何を第一選択基準に執るかもカラスの勝手でした。
自分もどこかの意識叢を第一選択として持っていながら「あの人は、ゼニまみれの考え方のニンゲンだ」などといって、他人をケナすスタイルも許されてきました。そんなのは、チリ紙で鼻汁を拭きながら、エコだの環境保全だのを叫ぶのと同列です。

価値観記述 3

6) 六種の意識叢
現在の世情は価値観の多様化を歓迎しています。これはとんでもないことです。
価値観の多様化を歓迎し、標榜する人は「ちがう意識や考えがあれば、それに触発されて、社会全般がレベルアップされる」との楽観を前提にしています。しかし、現代人は価値観の違いを乗り超える力があるのでしょうか? それが絶望的だからこそ、この価値観を書く必要があるのです。
価値観のちがいがあると、議論はどこまでも平行線をたどり、共通諒解や合意は得られません。
さきに仲間からリンチを受け、つつき殺されたカラスの例をみました。ほんとうなら「1 ・2」の意識だけなら「みんなで楽しく」がつづいていたカラス社会にも 3(集団形成)の意識があったればこそ、だいじな社会構成要員を抹殺する挙となったのでした。

価値観ということの素性を、もういちど云いいますが、いろんな意識叢があって、その意識叢の選択の順番のことです。ですから、選択対象の意識叢は少なければ少ないほうがいいのです。ほとんどの高等生物は「1 ・2」だけですが、カラス、イルカ、ヒグマ、猿、犬などはひじょうに未発達な 3までを獲得しているのです。ヒトの意識は、それらを基盤にし、その上にほかの高等生物には見られない、発達した意識叢を持つに至ったのです。

ここで高橋稔と語った四種の意識叢のうちの 4(経済)と 動物の意識の関係をみる必要がありましょう。またカラスですが、カラスの忘れ柿というのがあります。今は食べなくっても、将来の空腹にそなえて、食べ物を木や土の中に置いておくのですが、これは多くの鳥やリスなどにも見られます。
経済の本質を将来の食料確保ということでみると、この動物が持っているクセも、微弱な未発達段階の現象といいえましょう。
・・・・となったら、高橋稔と語った 1〜 4の価値観とは、ひじょうに微弱ながらも、すべてその基礎は天然の生体の中に備わっていたということになります。その 1〜 4 のうち、「1 ・2」以外の 3 、4 は、人間が発達させたことばが、“ 質 ” を変えたのです。そのとき 1(肉)には大した変質作用は加えなかった・・・・と、いえます。2 は音楽や芸術を発達させたりして、みごとな自然離れをやっています。

高橋稔が最後におたしの枕頭に来たとき、3(叡智・集団形成)の中に、共産主義とキリスト教が同居している、「これはマズイ」とまでは合意しました。
その後、人類史での心理の発達を診たとき、「茫漠とした宗教がらみの意識」を母体とし、そこから政治(集団形成)と物理化学が分家していった跡が出ましたので、新しく宗教と物理化学を、それぞれ 4 , 5 と略号を打って、(経済は 6 として)ここに新たに 「1 〜 6」が、その座を占めるところとなりました。

意識叢が一つ増えると、24 × 5 となって、主体の価値観ありようは 120 となり、さらにもう一つ増えれば 720種もの価値観を持つ人間がいることになります。
価値観の多様化は、極力抑えねばなりません。その方途はあるのでしょうか。

 《 六種意識叢の一覧表 》
ここで “ 新規 ” の「1 〜 6」を一覧表にしてみましょう。おたしが 28年間、高橋稔と語ったときの「1 〜4 」は忘れてください。

1 肉の世界・意識・領域     食い気 、色気 、眠気
一点反復うんどう
2 自然の世界・意識・領域    喜怒哀楽 情 ロマン ふれあい あそび ゲーム 芸術 自然法    サイクルうんどう
3 集団形成の世界・意識・領域  論理 論理体系 成文法 集団 イズム イデオロギー 主義主張    頂点を持つヒエラルキーうんどう
4 宗教の世界・意識・領域    教祖が持つ独断の世界観の展開 集団陶酔 いのちの処理・捨て場    遥か上空に一点を持つヒエラルキー
5 物理化学の世界・意識・領域  科学的手法による帰納・演繹                     頂点を予定しない円錐の土台部分
6 経済の世界・意識・領域    将来の食料確保 金融 恐慌 利潤 利益               右肩あがりの一直線上昇うんどう

この区分けはおたしが、三十年戦争やフランス革命などでの、諸勢力の盛衰盛興亡をたどって得た、意識叢の葛藤から割り出した結論です。
では、イスラーム圏などには当て嵌らないのかというと、そうではありません。一切の意識に適用できるはずです。
上の六種の意識叢の先どり順位が、価値観となって現れます。ですから、現代の価値観のありようは 6× 5 ×24 で、720通りあるということになります。
● 未開人には、集団形成、物理化学、経済の意識は動物並みで、「無い」として処理したほうが早い。
● 同時に、150年前の沖縄やアイヌ民族は、集団形成、物理化学、経済での意識が、きわめて低かったことが注目されます。沖縄やアイヌの宗教は、純粋なものを感じさせますが、それは現代的意味での「自我」がなく、原始宗教というもので、「自我の処理」という面で、まるでちがっています。
いまでも沖縄では、集団形成、経済の意識がきわめて低いことが懸念されます。

上の六種の意識叢については、次項でその特徴を逐一解説します。その前にどうして 4(宗教)と 5(物理化学)が意識叢となったのかを解説します。
日本の近代化は、明治維新のとき、西洋の考え方を受け継ぐということで始まり、いまもそれがつづいています。ですから日本で意識をみるときには、西洋の意識をたどってみる必要があります。それは先ほども申しましたが、三十年戦争とフランス革命、アメリカ独立のうごきに要約されています。
でも、説明の手順として、われわれには「まつりごと」というかっこうの言葉を持っていますので、そこをつつきましょう。どの社会も原始から文明へと、同じコースを経ているので、西洋のことを、日本語で理解しようとするのは、道理から外れてません。
いや、この「まつりごと」というのは西洋系の言葉〜概念だったのです。現代でもマトリックスという言葉は、一点が他のすべてに連動機能する意味をもっていますが、太古の「まつり」の意味は「自分らがいる土地」という意味でした。英語の mother(母)が意転して、大地となり、つづいて「自分らの土地」となったのでした。「まつろわぬ民」の語がありますが、これは「領土意識がない人びと」というのが基本です。
アメリカ独立戦争のとき、英国議会に乗り込んで「われに自由を与えよ」と叫んだアメリカ人のヘンリーさんは、パトリック・ヘンリーと呼ばれ尊敬されました。その patric(愛国)とは matri・・・の変形です。ネパール語では「母国語」は matri-bhasa といいます。bhasa はことばです。
古代のまつりごとには、「政治(軍事)」と「じぶんたちの土地神祭り」の二つの意味がありました。この二つは渾然一体となっていたのですが、一つの概念として認識されていました。そのボヤッとしたぶわぶわの概念から「政治(集団形成))が “家出 ” したのでした。
“ 家出 ” は、政治だけではありませんでした。宗教は、はるか彼方の上空に、神なる一点を据えて「世界観」を説明していたのです。キリスト教での教えでは、「地球の周りを天体がうごいている」という神のことばだったのです。それが 1543年、コペルニクスが死ぬ時と同時に発表した地動説によって、無惨にも打ち砕かれました。神の権威は大きく失墜し、ボヤッとしたぶわぶわ領域の宗教から、物理化学の領域も家出をやらかしたのです。
若い者が家出したあとのボロ屋に、老婆がひとり侘しい暮らしをつづけている・・・・・、それが現代の宗教のありさまです。


 《 意識叢の 一つひとつ をみる 》
普通の並みの人間は、成人になる過程で、 1 〜 6 のすべてを取り込み、これを常識にしています。
人間の認識は、多くの事物がからまる概念の複合体を「あんなもんだ、こんなもんだ」と、巾のある漠然とした把握しかできません。だからといって、一つひとつの対象が個人よって異なるかといえば、大略のところで同じ認識を得ているものです。ここで述べる価値観も、漠然とはしていても「大略おなじ」ということを前提にしています。それは意識叢を捉えるときでも同じことです。それがあるからこそ、価値観を衝くことで紛争解決も可能だとするこの主張〜論述となってくるのです。
意識叢一つ ひとつのうけ取り方は大略同じでも、六つの意識叢ぜんたいのうけ取り方法に、優先とか「そんなには急がない、だいじにはしない、避けたい」などと出る評価の差がある。それこそが価値観のちがいとなって表面化するのです。
デカルト出現このかた、総合把握思考の牙城として隆盛をみせた西洋哲学は、いま、崩壊しています。しかし、最後の哲学といわれているフッサールの現象学は、人びとの共通諒解・・・・・すなわち考え方のちがいによる紛争を解決することに狙いをしぼって、その論述を展開させています。が、この手法では、意見調整とか諒解によっての解決はまだ一つも達成されていないのです。フッサールは共通諒解を得るにあたって、人びとが思い込みや独断によって歪んだ認識をしているので、思考を一時停止させて、根源的なところまで双方が降りていくことの重大さを訴えたのですが、その必要はなかったのです。というのは、事物の本質把握の点で、フッサールが「われわれは、(言語的に)もう知っているじゃないか」と云っているところに、一切が出尽くしているかと思います。
ここは、意識叢というところから離れて、「事物一切」で良いでしょう。事物の認識は、漠然としていながらも、大略において、すでに共通諒解は達成されているのです。

いま上で、「うけ取り方」という言葉を遣いました。ここには人類共通の「(法則じみた)クセ」がはたらきます。一見、個々人のうけとり方がちがうと見えたのは、大脳思考による推論の差ではなく、陥りやすい「ただのクセ」でした。これはとても重要な点ですので、のちほど診ます。
また、六種の意識叢を通じての総合俯瞰も不可欠です。これも、のちほどみます。

一覧表では「世界・意識・領域」とやりましたが、これには「欲」「欲動」などの言葉が追加されてもかまいません。一つの意識叢の場に入ったら、その意識叢固有の様相がキャッチできるということです。

六種の意識叢を揉みほぐすにあたって、東西南北に見られる “ 色 ” のことを、もういちど俯瞰しておきましょう。じつは、意識叢が 4種だったとき、高橋稔は沖縄に行ったのち、さかんにこのトンナンシャーペーにひっかけて、多くのモノイイをやっていたのです。
「東はいのちの青龍、南は叡智の赤雀、西は経済の白虎、北は自然の黒い亀」という割り出しは、主にシナで云われました。これは「司法・立法・行政」などの集団形成と物理化学が高度に確立される以前の空想であることがわかります。青龍、朱雀、白虎、玄亀などというと、なんだかいかにもナニかありそうな感じがしますが、時代がすすむと(意識叢の数がふえると)、このように過去の権威は水泡に帰します。この価値観記述はナニモノにも捕われずに、白日のもと、平明思考で推論したいと思っています。

 《 1 肉》
単細胞生物から高等動物になるまでの経過時間をゼロにしたような考え方をしたいもんです。
ただひたすらに食って五体を大きくして、子孫をつくる。まったくD.N.A様が支配する領域です。食料が目の前にくれば、くちを開けて食べるのが 1 です。たべものが無ければ飢餓のまま死んでしまうのが 1 です。
この 1 には「もっと、もっと」とか挽回〜保全の欲動はありません。「もっと、もっと 」や挽回〜保全は 2〜 6 の欲動です。
病気になって、「もっと生きつづけたい」と願うのは、1 の知ったことじゃないんです。


 《 2 自然を写した情念 》
2の始源は 1 の器官の一つだったと思われます。ちょうどベロのように「この食い物は取り込んでもいいかどうか」を選別する器官みたいなものだったと思うんです。
1 のところで説明すべきでしたが、われわれは単細胞生物というと、人間などと較べてとても低級なものに思いがちですが、どうしてどうして、アッと目を見張るようなことをやっています。親が生きてきた場所には、子はそのまま生きれるというのが、すべての生物に云えることです。
単細胞生物もそのとおりで、口さえ開けたらたべものが口に入ってくるといった状況下で生きています。ところが、生体がたてこんでくると、身のまわりには老廃物(ウンコ)もたてこんできて、これが続けば種の保存はできません。
多くの単細胞生物は「単細胞のなかに!」有機質モーターを 20ヶも 30ヶも “ 自らの力 ” で造り、わが身を裂いて、そのモーターで、身体の中に溜まっていたウンコを押し出し、どんなセンサー(感知器官)かは分りませんが、食料の場所を知り、それを体内に取り込んでいるのです。
こんなセンサー、こんなモーター・・・・・、現代文明で作れましょうか?

さいきんも又、ロッキー山脈の西側で捨てられた子猫が、ロッキー山脈を越えて、皮膚がボロボロになって、むかしの飼い主の家まであるいて還って来たという報告がありました。鹿児島から北海道までの距離に相当します。これは犬がとくいとする嗅覚を使ったのではありますまい。
生物〜動物には、人類がまだ気づいていない未知の感覚器官が備わっているようです。

肉の中にできた外交折衝専門の器官が、じぶんと関わる環境が失われたり、失われそうになるたびに、それを感受し、 miss(・・・が無くて寂しい) と思ったり、肉に指令を発して、災厄を未然に防いだり、保全を計ることになったのでしょう。
2 は、肉のあんばいをモロに決定するので、多くの動植物は、この器官によって護られてきました。

 《 1 と 2 の癒着 》
ですから、1 と 2 は切り離して考えることが困難だと思える側面を多く見せます。
しかし、歌、おどり、芸術、あそびなどは、明らかに肉とは異なり、別の領域であることになります。
チンパンジーは日本人よりもじょうずにハモってコーラスを歌います。
ヒトはおもしろくって、遊びすぎて体調を崩すことがよくあります。ここには 1 と 2 の意識叢間の拮抗・対立がみられる・・・・といった次第。
35年前、おたしが書いた『アイヌ語の謎』の原稿がオモシロすぎて、伊達市にいたタイピストの奥さんは、三晩徹夜して死んでしまいました。


 《 3 集団形成 》
犬、猿、イルカ、カラス、ひぐまが、かなり発達した 3 を持っていることは、さきにみました。
群れて生きる生物は、どういう経緯か、微弱にせよ、この 3 を持っているようです。5 〜 6本の同じ高等植物の林に、害虫が一匹やってくると、いっせいに樹液を放散させて、虫を追い払うことは、かなり広く知られています。
お猿さんと変わらなかった段階の人間に、いちど氏族間抗争がおこると、言語発達と相俟って、3 の意識も急激に発達します。
兵士になった青年の胸に、隊長さんに貢ぐために叔父叔母が蓄えていたコメを略奪する正当性が生まれます。
三十年戦争では、雇われた先が違っていた兄弟が殺し合いをしました。このことがあって、戦っていた諸勢力に厭戦気分が充満しました。

物理化学では教授は考え方や実験の方法を教えますが、その教師・学徒のあいだには生涯にわたっての徒弟関係はできません。なにか新しい原理がでても、それを実験すればいいからです。ところが、「よくは分らない領域を残している学問には、生涯に亘っての徒弟制度があります。先生のいうことが真理と化けるからです。
「沖縄語は日本語と起源を一つにしている」という学説が定着しそうでした。そこで去年、おたしが調べてみたところ、 13世紀以前は、いまのわれわれが北にアイヌ語をみるように、沖縄には日本語とはまったくちがう言語があったことが判明しました。
文科系学問や医学などには、権力者にこび諂う護擁学説がはびこり易いのです。顔のつながり = 真理

三十年戦争には、十種にもなるいろんな勢力がみずからの主張を貫くために、みずから武装して、あるいはよその国(スイス人が多かった)から青年を雇って傭兵として戦ったのでした。スイスの兄弟が戦って、弟が兄を殺したのです。「兄弟は助けあわねばならないのに、オレたちゃ何をしてるのか」との反省がヨーロッパじゅうに充満したところへ、「わたしはキリスト教徒が安泰でありさえば、それでいいのよ」とスウェーデン女王が発言したことをきっかけにして「現状維持・武闘停止」で合意したのが、1648年に締結されたウエストファリア条約でした。
三十年戦争は 1618年から始まりました。これは日本が鎖国をした直後でのできごとで、それまでの日本は汚物〜ゴミ処理、経済政策、人心安定などでは世界一の先進国家だったのです。
おたしは三十年戦争がはじまる 100年も前ですが、1524年に起こったドイツ農民戦争に注目します。農民は三十年戦争には直接には関与せず、戦闘主体にはならなかったのですが、その後 1789年のフランス革命までにくすぶりつづけた諸勢力の興亡をみるとき、「敷き込まれた勢力」として非常に重要な位置を占めているかと思っています。[ 集団、制度、建造物も “ ことば ” です ]。
歴史の進行は、けっきょく最下層の人びとが天下を取り、大衆(市民)国家がうまれ、黒人大統領の出現となっています。
三十年戦争以後の諸勢力の興亡とは、その諸勢力が内包しでいた精神性の淘汰・止揚にほかなりません。この淘汰・止揚を経験できなかったヨーロッパ以外の国々は、後進国になった・・・・。そういうことです。
イギリス留学から帰国した夏目漱石は講演会の演題に立ち「われわれは西洋の文明・考え方をとりいれた。その文化は西洋数千年の産物である。しかし、取り入れた以上は、なんとかコナさねばならない。が、それは不可能事に近い」と云って、並みいる聴衆を前にして長嘆息をしてみせました。
しかし、何ということはない。価値観で意識叢の変革をみれば、先進国だった日本には、かなり楽観できることだったのです。

すべての生物には「親が生きてきた環境には、子も生きつづけられる」という鉄則があります。アフリカの難民など前後のみさかいもなくジャカスカ子供を産みつづけています。それで、どこの社会でも、食糧生産から離れた剰余人口をかかえます。シナではいつも数万の流民の群がでました。この剰余人口をどう始末つけるかで、いちおうの成功をみた社会では、領土規模(支配規模)が巨大化し、広域言語圏が出現します。
「まつりごと」から 3 と 5(物理化学)が家出して、4(宗教)が老いぼれバァさんみたくになったことは、さきに申しました。 3 がのしあがったのは、剰余人口対策には4(宗教)よりも 3(政治・軍事)のほうが直接的で効き目が早いから、といった功利的判断が大きく作用したこともたしかでしょう。

大きな宗教が広まったのは、剰余人口対策に、とかなんとか成功してきたからでした。
シナでは為政者によるブッタクリと戦闘で、なんとか切り抜けようとしました。狭い渭水盆地に起こった武力集団の言語が、シナ大陸一円に拡張しました。
ヨーロッパでは行政技術とキリスト教の抱き合わせが効を奏しました。
インドでは宇宙の究極の実在者(ブラフマン)と究極の自我(アートマン)の合体を、この世で実現させるのだ! とのモノイイで、大量の修行者をつくり、食糧はそのへんを廻って民間から貰え(托鉢せよ)といいました。
広域の同質文化は巨大言語圏を必要とします。インドでは 2500年前に作られた人造のサンスクリット語がハバを利かすようになり、周辺にも広まる傾向をみせています。ヨーロッパではギリシャ哲学用語に基礎をおいたラテン語が高級言語としてハバを利かせています。


 《 4 宗教 》
神が宗教を作ったのではなく、宗教が神を作っているのだ、と、よくいわれます。
キリスト教は先に地動説をみとめ、さいきんでは 1996年 9月 23日に進化論を容認しました。そういうふうに宗教が世界観を説くなどとは、付随的なことであることがわかります。宗教の本質的な部分は「わたしが、死ぬ」をめぐって、ほんとうの人生のありかたを掴もうとする願い〜たたずまいでしょう。
それは「いのちの場」をしっかりみつめることから始まりましょうが、ここには、ともすれば陥りがちな隘路がいくつものカベをつくっています。

人は生まれたはじめから、死ぬように出来ている。それはアタマでは解っていることですが、サテ、自分が死ぬとなると、ほとんどの人は慌てるのではないでしょうか。宗教はこのへんのことを本場の土俵にして展開されてきたかと思います。
このへんのことに就いて、おたしは司馬遼太郎さんのことを例に引き、人類にひとつの覚度を提供したいと思います。

おたしは 30歳のとき、医者をやっている K氏に「人類はもっともっと死ぬ技術を開発すべきだ」と訴えたことがあります。それは今でも変わりません。
ひとが死ぬのを怖がるのは、「タマシイ」という概念を持っていること、そしてナニかを理解しようとするときには言語意識でそれをやり遂げようとしていることが前提になっています。この二つは手順として、あとで述べたいのですが、いま、含みおいてください。

司馬遼太郎さんの対談集で知りましたが、この人は死ぬことをまったく怖がっていなかったんです。その、怖がらないことに内心あきれてさえもいたようです。
それは、この人の神経のありようですが、それをそうさせたは、同氏の特異な看破にあった。司馬遼太郎さんは厖大な知識に満ちていましたが、それを要約したような、インドで謂われるアラヤーシキなどが、深層心理での整理箱、整理棚みたいなもんであることを看破したことだったと、おたしゃ思うんです。
一切の思念がそこから出入りしていると、バキッと知ってしまえば、「わたし」は他人に早変わりするじゃありませんか。バキッ・・・です バキッ!!
司馬遼太郎さんが、そこまで自分のことを知らなかったはずはありません。「なぜ、それを書き遺さなかったのか」については、それは端的にいえば、司馬遼太郎さんが大阪の人だったからだと思います。司馬遼太郎さんは終世、「日本人には友情は育たない」と云いつづけました。誰れだって、そんなことをいう人とは友達にはなりたくないですよね。そんなことを云ったのは、大阪という土地柄がいわせた偏執だと思います。近畿京阪の氏族は、天皇様と直結し、特殊技術や生産物に関して、一つづつ特権を貰って生業としてきました。それが、果ては「めんつだて」となり、「他人はあっても友人ではない」といった寂しいことになりました。
司馬遼太郎さんが多くの友人の顔をみて、その反応を体得していたら、個人主義みたいな場で死ぬことはなく、アラヤーシキ認知が大きくひとの役に立つことに、もっと自信が持てたと思えて残念です。
おたしは上で友人の顔のことを訴えました。へんな個人主義がまかり通っている現代、文字情報があふれている現代、表情を伴った情報の価値が忘れられています。

さて、タマシイはあるのか、無いのか。100%ちかくの人びとは、目にはみえないが、なにかホタルの灯みたなのが、“ わたしのカタマリ ” として、この宇宙空間に漂っていて、それがなにかのひょうしで、今のこの肉に付着した・・・・・みたいなことを想っていると、おたしは考えます。
ですが、1990年からスタートしたアメリカ政府唱導で「これからは大脳科学だ!」とのかけ声で急発展した意識学は、一切の思念だ大脳の所産であることが、明らかになりました。
でもでも、おたしが長谷川わかさんの葬式の晩、みせつけられた巨大な蜘蛛のうごきは、「心霊現象はあるとは断言できないが、無いといってはウソになる」との結論を抽きだすに至っています。

心霊、超能力、超常現象、PK、UFO などの割り出しにかかわる言語(意識)については、ほとんど開拓の鍬は振りおろされてもいない「文明情況」です。
が、ハッキリ云える言語の領域もあります。
司馬遼太郎が看破したアラヤーシキみたいに、整理箱となる資格が付与されてもおかしくはないと思いますので、ご披露です。
ちょっと大きく構えすぎましたか、要するに「ことばというものは、台所むきにできている」ということです。

● 西洋の哲学者は、ほとんど皆、素朴的実在論を軽蔑しました。現象の裏には、なにか、その現象を現象たらしめている “ 実体 ” 的な存在がなければならないとするのは、一見、高邁なプラトンに起源をもつもののようです。が、これはほとんどの原始宗教にみとめられることです。そしてけっきょく、1960年に当時はやりの実存主義が「レヴィストローフさんから「科学的でない」との誹りをうけて、哲学そのものが溶けてしまったのでした。
素朴的実在論のアタマにある「ソ」、科学のアタマにある「カ」をおぼえておいてください。以下もおなじ調子で・・・。
● コペルニクスさんの地動説に触発されて、ニュートン力学が花咲き、迷信だらけだった常識分野に合理のメスが入り、啓蒙思想となって結実しました。
● 大脳思考とは言語思考と同一です。D.N.A様の支配するところです。
● ユークリッド幾何学というものがあって、非ユークリッド幾何学が誕生しました。平面の上の一本の線に平行な直線は、何本もあるとの見解ですが、われわれには、一本の直線には一本の平行線で十分です。ヒトにはユークリッド幾何学だけでじゅうぶんです。
一つのA点から Bのカベを通りぬけて、 P点に達する素粒子は、Bのカベを抜けるとき 二つの場に痕跡を残します。このうごきは、アインシュタインさんにもなかなか理解ができませんでした。
そういえば、宇宙空間には曲がりやひずみがあるという相対性原理も、われわれには必要ありません。

そこで、おたしは ソデューダカコという箱をこしらえてみました。非ユークリッド幾何学、素粒子力学、相対性原理むきの箱の名前は ヒソソーです。
あそび半分ですが、こんなの、シカメッツラすりゃいいってぇもんじゃござんせん。
ことばは、ソデューダカコの中だけで通じます。修練をつんだ科学者間ではヒソソーでも意思疎通は計れます。
ついでに云っておきます。科学(物理化学)はてっぺん部分は持たないし、予定もしていません。そのテッペン部分は不見当識と呼ばれています。時空の無限なこと、真空やモノの存在理由などがそれです。
物理化学の科学者どうしが、どんなに謙虚に構えて、相手の主張を真摯に理解しようとつとめても、どうしても意見の一致にたどりつけないことがしゅったい(出来)するそうです。それを科学哲学用語で「通約不可能性」と呼ばれているそうです。
ヒソソー領域でのことばが進化して、心霊、超能力、超常現象、PK、UFO などの原始が日常生活のなかで話される日があるといいですね。

司馬遼太郎さんが「天才を 20人も集めたような人だ」と評した人物が井筒俊彦さんです。人類は大量の天才をそだてて、その天才さんたちに言語学をやってもらう必要を痛感します。しかし、それは戦争よりも遥かにはるかに容易なことです。

民主党のトップ選びの選挙をやったとき「選挙が終わったらノーサイドだよ」ということばが跳び交いました。宗教と物理化学は世界観を創っている双璧です。両サイドです。

150年前までの日本人は、ツバメは冬になるとしじみ貝になると信じて疑いませんでした。宗教の多くはいまだに、そういった迷信じみたことを栄養分として棲息しつづけているようです。そして、そこに寄ってくる知能はいづれもイッパシではない。なぜそうなのか、おたしには理解できぬところです。
1534年に結成されたイエズス会の宣教師たちは、海外に行けば、胸に二つの目を持っているニンゲンがいると、本気になって信じていました。

やっぱ、宗教行為の中核概念は「死に場所えらび」ではないかと思います。
言語での制約から免れようとする宗教は、古代衣装や左右対称のお飾り、おごそかなモノイイなどに頼ろうとしますが、行きつくのは音楽でしょう。お経を朗読するその「坊さん個人」が、どれくらいシッダルタさんの教えを体得してるかよりも、「声がいい・わ〜るい」ことのほうに評価基準がおかれる。
いや、音楽でなくっても、つまるところは 集団陶酔が達成されるかどうかでしょう。
いずれにしても、現代までの宗教には「集団 と 陶酔」がつきものでした。いまとなっては(この価値観メカで照射できるので)、宗教の中の集団形成は過去の遺物であり、不要です。できるだけ、これを切り離す必要がありましょう。

程度や志向はちがいますが√ ?? アカシヤの雨にうたれて このまま死んでしまいたい ?? や、「ヨンさまいのち」あたりも、陶酔といえば陶酔です。アクメのとき「シヌ、シヌ !」とか「殺して !」と叫ぶご婦人が多いそうです。このごろ読んだ心理学関係の本では、いろんな願望があるが、死ぬことを希望する願望〜欲望があるともいわれています。こうなると、宗教での “死” は、単に死の恐怖からの逃避ではなく、なにかもっと別の欲動がからんでいて、歪んだ(あるいは変質した)ものかもしれません。生物全体が堂々と死んでゆくさまには、なにか一種の大道を感じます。

ではなぜ宗教は陶酔境をだいじにするのでしょうか。それはまず、アタマ意識(言語による理論)を切り崩すことによって得られる「神経展開の場」が、無謀にも、「心霊、超能力、超常現象、PK、UFO などの感覚の場とイクオールに置かれる」と、短絡・錯覚しているからではないでしょうか。
あ、かなり、表現がまずいようです。おたしは「マントラやお経を唱えさえすれば、フラフラの陶酔意識のうちに超常現象が理解できたり、体得できると信じられているのか」、ということを云っているんです。
たしかに、この世では次のようなこともあります。
マントラの文句は長ければ長いほうがいいというもんではありません。ことば意識を消すのが狙いですので「ジュゲム・ジュゲム」ぐらいが適当な長さです。これを唱える前、中、後、一生懸命になって願いを集中させるのです。その時間は長がければ長いほど効果的です。すると、治療がむずかしい病気が奇跡的に治ってしまうのです。
創価学会は、これで勢力を拡張しました。長谷川わかさんが、頭の中に神さまの声が聞こえるようにしたのも、30日間の断食と、この方法によったのでした。

生き方を説く仏教は、日本では葬式屋さんみたくになってしまいました。
現代人類の先祖だといわれているクロマニョンの墓には、花が添えられていたらしい。ひとが死んだらなんらかの形で行動・態度に表わしたいのが人情でしょうか。アマカネを連発するニューギニア高地石器時代人には、肉親の死に合うたびに、こころの痛みに替えて、手の指を 5本も 6本も切りおとしていたオバンがいたことを、本多勝一さんが報告していました。
こういう習慣は形式化したまま、一種の “ことば” になって、数百年も数千年も残るものらしい。レーニン廟では、もう100年間も唯物論者が葬式をつづけています。兵隊さんが 5秒に一歩の割で、あるいてるんです。

ピグミーの意識の中には、神も精霊も悪魔も龍もありません。言語が入りにくい宗教領域での意識蓄積(文化・記憶)は、えてして偶然に(誰かが酔っぱらったりして)飛び込んできたことばが迷走集積したあげくに社会に定着する・・・・そういったものではないでしょうか。
宗教は喋るにこと欠いて、ついつい倫理とか道徳を多く説きます。しかし、ピグミーが住んでいる近くには陰部を丸だしにして暮らす氏族がいます。アマゾン河上流の森に暮らす氏族も丸出しです。


 《 5 物理化学》
すでに説明しましたが、宗教がいいかげんな世界観を云うので、物理化学は宗教がいう世界観を修正し、煮詰めたような領域事をうけもち、宗教をむこうにまわして両サイドを形成します。ここは「科学」と置けば良いのかもしれませんが、このごろは人文科学みたいなのがはびこっている。混同は避けるべきですので、ハッキリ「物理化学」として全面に出しました。

いま、ここの表現のうえで、物理化学は人文科学と一線を画させましたが、意味はお分りでしょうか。理由は、世の中のほとんどの人が、すべての “科学” にはテッペン部分があると、勝手に 錯覚 ないし 激しい思い込みをしているからです。
オウム真理教が事件を起こす直前、特殊な発声装置をつけ、車イスに乗ったホーキングさんがテレビなどに出て、宇宙の原理を短い数式で表わしてみせました。それを見た人びとは、内容の理解はともかく、特殊発声装置に驚きました。このオドロキと短い数式がクセモノだったんです。
オウムのお兄ちゃんたちも「テッペン部分」を指し示す原理的なことを見せつけられて、物理化学にもテッペン部分が「ないワッキャない」と、早やとちりししました。宗教にも物理化学にも、その厳然たる領域・限界があることに気がつかなかったのです。

おたしが今、価値観を記述するにあたって、いちばん気になっていることは、医学(生物学)の座です。ここは、5(物理化学)と 1(肉)が交叉する場であることは間違いありません。1 と 5 を衝けばいいのです。が、大脳科学が頓挫したために、領域が把握しにくくなっていることです。
大脳というのは神経の変化したものだそうです。その神経伝達には素粒子のうごきが大きく絡んでいるのですが、現代の物理化学では素粒子が計量できないのです。そのことは 5年ほど前、天外司朗さんと茂木健一郎さんとの対談集に出ていました。この素粒子計量がうごかない限り、文明は現状維持の足踏みをし続けることになります。
素粒子計測での、大脳科学のゆき詰まりは、医学だけではなく、各方面にかなりの足踏み時間を迫るようです。西洋医学を東洋の漢方並みに経験科学の座に引き戻すことになるでしょう。同時に心霊、超能力、超常現象、PK、UFO などのジャンルも、これまで通り、言語意識のほうから見ての「フシギだ、フシギだ」がつづくことになります。
現在では空想にしかなりませんが、大脳神経のうごきを正確に把握できたら、投資や経済、政治・政策も心理操作ですので、法則的な割り出しが利くようになります。

ほかに書く場所が見当たらないので、ここに書きます。人類は破局をむかえようとしたたびに、各種の天才が出現して破局を免れてきました。
そのとき、へんな経験をした天才がいるのです。多くはてっとり早やかったのか、宗教での指導者になりましたが、現代なら物理化学者になっていたかもしれません。
空中に 1m ぐらいの大きさで、橙色〜ピンクの透明な球が漂っていて、それが個人の胸の中に飛びこんでくるのです。これを目撃だけした人びとも多いらしいです。じつは、おへま(おたしの愛妻)も、文通で仲良くしている青森市の尼さんも見ています。
これは、私見では素粒子のカタマリだと想うのです。これを経験した人は、空海さん、黒住教の教祖、日蓮さん。インドネシアの市役所職員の青年・・・・・この人は「スブド」という対座による解脱方法を広めました。
名前を忘れてしまって残念ですが、福島県郡山市の中年男性は、あるひベランダに出て、ぼんやりと空をみていたところ、赤い透明な火の玉が空中に漂っていて、それが急に近づいてきたかとおもうと、胸の中に跳びこんできたそうです。その夜はなんということもなかったのでしたが、翌日起きてみたら、人体の素成が詳しく理解できていて、「自分は治療師として世に奉仕すべきである」ことも分かったそうです。
この方は、南浦和駅を出てすぐのエンピツ・ビルの 5階を治療所にしていました。『クレス宇宙愛好会(Tel ; 048 822 7202)』といのがそれで、足がしびれて困っていたおたしは 17回もそこへ通いました。
赤い火の玉は、素粒子が濃密だったからこそ、それを受けた身体は、ニューロン・ネットが凋蜜につながって機能するようになったのだと思います。
「あ、火の玉だ」という記憶もなく、ある日突然に気分が “超” さわやかになって、楽しくってたまらなく人もいます。富良野市の『唯我独尊』のマスターは、この型で悟ったのだと想っています。


詳述もれ ; ● 物理化学のスキマに入ってくる宗教  ● 下部構造の技術をになう物理化学  ● 意識叢相互間の拮抗


 《 6 経済 》
1 に直結している意識叢です。1 がアングリと口を開けて待っていたら、6が定期的にたべものを運んでくることが保証されれば、2〜5 などというやヤヤこしいものは不要なんです。ところが、人類も他の生物同様に食料が確保されてなかったので、2〜5 という迂回手段が言語発達と併せて発達してきたわけです。
経済は通貨という等価交換手段の出現によって、飛躍的な発展を遂げました。通貨を持つことで、多くの有用物(精神性を含む)へ交換できる「手段だった時代」から離れて、通貨獲得そのものを目的とするうごきへと変貌してきました。
通貨がどこまでも、等価交換手段にとどまるものであれば、仮に資本を投下しても、その資本が膨れあがるみたいな現象は出ないはずですが、“利潤” が公認されるや、それが可能となりました。フランス革命以後、一部有産階級が叫んだ「自由」は、投下資本の膨張を図ろうとするものでした。
「1(肉)に直結している意識叢」であるだけに、経済(6)は現代の暴風となって吹き荒れています。それ故に権利を保証された低所得層へのヒズミも大きく注目され、日本で民主党政権がうまれました。初期の民主党は不幸にも、ゼニまみれの意識のままだった二人の有力者が党をリードしましたが、すぐに党首選挙によって、ゼニまみれの小沢一郎氏を駆逐し、あたらしい見識での経済政策を実現しようとしています。
これは、まだ一般の人びとには認識されていないようですが、一世を風靡した共産主義運動と同価の試みです。
ロシア革命、スターリンの粛正・投獄、シナの文化革命、ベトナム独立闘争・・・・・、新しい社会を創るため死を賭して旧体制と戦い、いのちを失った者は数百万・数千万人にも達しました。
小沢氏を駆逐した人びとは、どこまで肚をくくっていることでしょうか。理想とする体制実現のためには、いまの食糧生産が養える比率からいって、現有人口の半分が「剰余人口」になることが見込めます。一人ひとりが、特に老人は、平成の特攻隊員となる覚悟を必要とされます。
菅首相は「だれ一人として、国民は犠牲にできない」などと、おもて向きの発言をしていますが、内実面ではそういうことはありません。3 (集団形成)の “国” にとっては、国民一人ひとりは「法益」なんです。徴兵に例をみるまでもなく、「死ね」と命ずる強権発動をいつも保留しているのです。
菅さんは試金石です。民主党みたいな政権が、二度三度とくりかえされるうちに、次第に革命路線があきらかになってくることでしょう。

暴風となって吹き荒れている経済の風とは資本主義だからこそ起こります。諸悪の根源は利潤にあります。地代、銀行利子は即時に撤廃すべきです。
利子がない銀行なんて・・・・・と、あなたは戸惑いをおぼえられますか? イスラーム圏での銀行は利子の考えがありません。
いまから 20年ぐらいまえの正月元旦、N.H.Kから招聘されたドイツの経済学者がテレビにでて「人類はこの右肩あがりを、なんとかして克服しなければ・・・・・」と訴えました。が、どう克服するのかの実践要領は、ひとことも言えませんでした。

優秀遺伝因子を持つ者は、それを持たない者に奉仕するのが種として生きている動物の鉄則です。「みんなで生きている」のです。優れた遺伝因子を持つものだけが優遇されるような社会のありかたは、まちがっています。特許制度も廃止しなければなりません。
ことの序でにいいますが、いまのカタワ者は威張りすぎています。カタワ者は社会の片隅で静かに余生を送る・・・ぐらいの常識を自ら体得すべきです。
現代ではレッキとした太い主根(意識叢)ですが、経済は幻影の産物です。叡智(3)によって修正克服できると思います。右肩あがりは克服できます。→価値観の多様化から、価値観の寡少化へ。

小沢氏は、成文法の上では無罪かもしれない。しかし、「みんなで生きる(2)」を標榜する純粋民主党の路線(2)・・・・自然法(2)の上では有罪なんです。


 《 意識叢通観 》
意識叢という概念を立てた理由をくり返し申し述べます。世にいう「考え方のちがい」とは、数種の意識叢の先取り順位のちがいだとの割り出しから出たことでした。その意識叢それぞれは、人間がこれに触れるとき、それぞれ固有の世界・意識・領域・欲があるので、その世界・意識・領域・欲はまとまったカタマリを形成している。だからここに「氷炭相容れない関係をもつ」と判じました。

しかし、この判断は正しかったのでしょうか? そこをこれから概括的に俯瞰してみます。
● 2(情)は 1(肉)からうまれました。「1 ・2」という独立した意識叢があると置きたい現象が多々あります。
● 4(宗教)は 2 での迷信を栄養分にし、自らの基盤を固めようとしている。これは どの意識叢も他と氷炭相容れないのが原則なのだから 4(宗教)が2(情念)を邪魔もの扱いにするのがスジのはず。なのに、みずから 1・2(陶酔)をお家芸としているみたいです。
● より合理的な 3(集団形成)を図ろうとすれば、 5(物理化学)や 6(経済)を援用せざるをえません。もちろん、1(肉)や 2(情)もじょうずに利用する。

上のように、「意識叢それぞれが他と氷炭相容れない」と表現することとは矛盾する局面も出ています。これは一つにはおたしの認識方法や観察のしかたが皮相的なこととか、表現のしかたにも問題があるのかもしれません。今後の課題です。

しかし、次のような疑問もでます。
▲ 6(経済)は 5(物理化学)と 2(自然)にバラすことができるらしい。それを遂行させるのは 3(叡智)だ・・・・が、出たばかりです。ここは経済現象は「そもそも虚構であったこと」を、もう少し掘りさげて考える必要がありそうです。
▲ 「民族学(2)などの学問は 5(物理化学)に媚びへつらっている」とも云いました。これは一見、2 が 5 と対立するのではなく、融和する傾向を持つように見うけられます。ですが、これは 2(民族学)に携わる人びとの見識が浅く、錯覚だったと言うべきでした。
さきに、医学の座が素粒子把握の点で揺れていることを申しあげました。生物学や医学の座が決まらないからこそ、ここに心霊などの「まやかし領域」出て混乱が深まっているかと想えるのです。

高橋稔と28年間話し合ったときは、意識叢は 肉・自然・叡智・経済の四つしかなかったせいもあったかで、高橋稔は「氷炭相容れない」という表現をさかんに用いました。おたしも、こんな立場になって、価値観を記述しようなどとは夢にも思ってなかったので、理解もいい加減だったのです。
意識叢ということばは、最後になっておたしが提案し、高橋稔も諒承したのでした。二人とも意識叢どうしが融和する点を持っているなどとは気がついていませんでした。ただ矛盾した数種の意識叢を抱えながら、なぜ人は平気でいられるのかは、問題にしていました。
これについては、高橋稔は「無矛盾の法則」というのを立てました。意識主体は「ああいったもの、そういったもの」というふうに、漠然と思って「個人内部でまとまった一つ世界観で、すべてが説明できると、思っているから だ」と説明していました。
たしかに、個人は、とことん意識やものごとを追求することはしません。漠然と思っているだけです。それが長時間かけての議論となると、敷きこんでいる矛盾が表面に出て、収集のつかない事態になるわけです。

価値観記述 4

《 意識叢間の乖離を具体例でみる 》
こんごの記述のながれですが、次稿ではいよいよ人間の「認識グセ」について抉りだしをやってみようと思っています。その次に価値観の眼で、世の価値観の推移を追って、おわりとします。そのまえに、1 だ 3 だ 6 だと訴えつづけてきた固有の意識叢が他の意識叢に出会うとどういう矛盾拮抗をしめすのか、起こすのかを具体例で少し見てみましょう。

▲ 《ことばと意識叢》・・・・・意識叢を俯瞰してとくに気がつくことは宗教の座です。ソデューダカコのことはすでに述べましたが、宗教はソデューダカコやヒソソーの外の領域を形成していることに最大の特徴があります。ことばが通じないのに一つの領域や人びとの集団を作っているのです。
1 のことばは身振り語と咆哮語で、2のことばにはオノマトペア(擬音擬態語)や音楽、感嘆詞、挨拶語、囃しことばが多くみられます。
われわれは、ことばは “普通”3 で喋っています。3 のことばを 5、6 にも適用し、1 、2 の観察もやっています。 5 の領域でいよいよ難しいところはヒソソーが喋られているわけです。ここが高橋稔が「ことばは 3 である」と(一時でしたが)誤解したところです。
宗教(4)が今でもモノイイをつづけているのは、3(集団形成)と 5(物理化学)が家出する前の「まつりごと時代のモノイイ」の習慣を無反省無検討のままに続けているからだと思います。ほんとうは、この領域はヒソソーのように特殊用語を開発して、それに則って喋られるべきでしょう。
要するに 4(宗教)は現代にあっては、ヘテロ(異分子)的存在になっているということが云えましょう。
それには、いま吹き荒れている経済という嵐が大きくかかわっています。どの国でも為政者は国民を飢えさせてはなりません。大衆社会にあっては、最下層の人であっても、基本的人権として「食うこと」が保証されていなくてはなりません。1 の充足のためには、6が最も手っとり早いのです。

▲ 経済という用語と、その内意のことですが、ここで謂う「経済」には、家計簿などでのやりくりは含ませません。サラリーマンの金銭は収入があたま打ちしていて「右肩上がり」などではなく、これは 2(自然、ふれあい)の領域です。「金銭」ということで、二者の概念は似ていますが、まったく別のものです。
これまでの政治は経済と不可分の関係でありました。新聞をみても、政治と経済はこんがらがっています。そのような「経済」にタッチしていないで、経済がわからない人びとが大衆となって、実業家と同じ一票を投票しているのは由々しいことです。この乖離になんらかの意識操作が介入しないはずはありません。
義務教育が終わって社会人になれば、人は経済が分かってるような顔をしています。社会も「いちおう知っているはずだ」みたいな顔をしています。しかし、「就職率」がさかんに話題になっていますが、高校や大学を卒業したら「どこかの “会社”に就職する」とはナニゴトですか!
企業というのは、「こうやれば儲かる」と、だれかが思ったことが始まりでしょう。経済を知っているのなら、みんなは、一度は “企業する”べきではないでしょうか。

経済はアタマではなく、身体を動かせて苦労しながら体得できるものです。

ここも価値観割り出しで見られるおもしろい意識叢の乖離ですので、お聴きください。親族間の問題解決に金銭のことを持ち出すと、アタマだけで経済を知っている常識派は、「おげれつだ」と言わんばかりに眉をしかめます。しかし、相続となったら、お行儀のよさなどかなぐり捨て、眼をサンカクにして、骨肉あいはむ(食う)ぶん取り合戦を展開します。ただで大金がもらえるからです。
相続が云われ始めるまえ、なんでもかんでも金銭(6)に解決のメドを求める意向には、アタマ(3)で「情実(2)がたりない」と判断するのでしょう。それが「相続」となったら、骨肉(1)を否定して、錯覚の経済(6 ?)を画策(3)するのです。

▲ おたしが「場ちがい現象」として、いつもひき合いにだすのが同窓会のことです。
同窓会は、いまさら勉強(3)するわけでもないので 2(ふれあい)の領域であるはずです。
ところが・・・・、これはじっさいにあったことですが、いい大学に進学し、地位と名誉(3)を獲得した M は同窓会があるたびに出席します。これにアテられた地位も名誉もない連中は、同窓会をひらいても、しだいにやって来なくなりました。
ところが 28歳から 32歳ごろになると、宗教や主義主張をもちこんくるヤツが出てきます。主義主張を聴いたみんなは「なにかオカシイ」とは感じますが、そのオカシさは反論のことばとなってあげることはできません。宗教(4)や主義主張(3)ではついてゆけないヤツでもブスブスくすぶるだけです。
中にはグループでマルチをやろうと言いだすヤツも出ます。出たとたんに、座はドッチラケになります。6(経済)が人と人を対立関係に置くことを直感するからではないでしょうか。
28歳から 32歳ぐらいが、いちばん 3 4 5 6 に狂い込む年齢でしょうか、M はそのころ、近くの別の学校を出てえら〜く出世した者を、われわれれ学校の同窓会の名誉会員にして、掛け軸を贈ってオベッカ垂れて、みずからの仕事を有利にしてもらおうと図ったのでした。
としが 60歳をこえ、地位や名誉、財産が関係なくなってくると、同窓会に出席する者も増えてきました。ですが、 73歳がピークで、あとばボロボロ、ボロボロと死んで行っています。

▲ ヒトは2 の情念すらなんにもないD.N.A様に縛られた 1(肉)のカタマリとして生まれ落ち、2 を獲得すして少年少女となり、次に 3 4 5 6 を得たあと、としを取ると、立場がなくなって 6 が消え、主義主張も宗教(3・ 4)も煩わしくなり、友人とのふれあいす(2)すら関係なくなり、ふたたび肉のカタマリとなって消える。

▲ 拙宅の近くの道に張り紙がでました。そこには「この道路はあいさつ道路、出会ったらおたがいに挨拶しましょう」とありました。その張り紙をみてスナオに挨拶できる人はキチガイです。見知らぬひと(多分に 3 では敵)に挨拶(2)などを、張り紙(3の主張)をみて、どんなツラ下げてモノイイをするのでしょう。この張り紙を出したのは「霊波の光」の連中でした。

▲ 25年ほどまえ、未明の浦和東口の広場を、数人のオバンがちりとりと箒を持ってきれいにしていました。「なかなか感心なことだ」と思ってふとみると、肩から胸に「浦和倫理実践隊」と書いた布が下がっていました。広場をきれいにしようとのボランティア奉仕(2)が、「浦和倫理実践隊」という 3 (アタマ・デッカチ)でツヤ消しになったのです。

▲ 日本経済(6)の枢要にいるオッチャンたちが、5〜6名、ズラリ並んでハゲ頭を 5秒間以上さげる風景は、すっかり馴染みになりました。この分析には、あとでみるように、一つの情報はすぐに社会の常識となる(三日ぼうずの法則)、そして同時に経済の上では係数となって固定されることが前提になっています。
そしてそこへ、経営の舵とり役の重役には、「右肩あがり」が至上命令としてのしかかるのです。今年度は前年度よりも、より多くの利潤をあげねばならないのです。そこで成文法(3)を蹂躙してでも、右肩あがりを確保しなければならなくなる。役員さんたちは頭をさげて、ゆるし(2)をねがっているのです。
経済は、ねっから違法の構造をもっています。官僚(3)が犯す違法行為ではありません。大幅な情状酌量がなされて当然です。

▲ 千葉の社長さんが、家庭も夫もある超美人に熱をあげました。そのとき「オレは禅に詳しいんだ」と告げて超美人にアプローチしたんです。この社長さん、じぶんの人相風体(1)に自信がなかったのか、禅(3・ 4 )でカムフラージュしようと図ったわけです。

▲ 禅宗では、ごはんを食べるべるときには喋ってはいけないことにしています。食べるは 1 。喋るのは 2 or 3 。



 《 考え方のクセ 》
にんげんは言葉で考えています。言葉とは logos であり、 logos は論理です。人間が考えるのは言葉が持っている logos に沿っているのだから、ロジカルな(論理学的な)考えになっているはず。・・・・・と想うのは、大まちがい。人間はおしまいには論理・合理の前にはこうべ(頭)を垂れますが、その論理に気づき、あやまちを訂正するに至るまでには「これでいいのら」と思って、多くのてまえ勝手な誤ったジンクスをふりまわします。
価値観とは 諸般の対象が useful だとか un-useful だと思うことですが、その対象選択にあたって、非論理的な側面がおおいに影響しています。
言語は氏族〜部族間の闘争によって発達しました。それからしだいに発達して、いろんな概念の脈絡を系統づけて考えられるようになったのは、わずか 2500年前ではないかと想われます。シッダルタさん、イエスさん、孔子さんなどが活躍したのが大略 2500年前だったので、そう云っているのです。
2500年といえば、永い時間のように見えましょうか? おたしは今、 76歳です。おたしみたいな人生時間が 30人分も重なれば、2500年ですので、これはアッという間の時間経過です。人が農業で定着しはじめたのは早いところで 1万年前です。税金とりたての都合で文字ができたのが 5500年前です。
ここを想うとき、人の言語によるロジカル思考がどんなものなのかは、おおよそのところで、見極めがつこうというもんです。

また、「考え」を執行している大脳細胞とは、神経の発達したモノだそうです。そこから神経伝達にかかわる多方面でのクセも湧出します。

“意識” はじつに永いあいだ 1 の中に漬かっていました。ですから、1(肉)から規制される領域は圧倒的です。そして高等動物になっても、意識は [ 1+ 2 ] で、ここには融和した「1・2」領域が目立ちます。ですから、これから追求するクセとは 1 および 2 の時代に培われた、非論理のクセです。

「人文科学」というべきでしょうか、文科系現象は「総てが総てに依存する」と、よくいわれます。おへまはおたしに「身のまわりの片付けができない」といつもこぼします。
大きなクセから、小さなクセへと順序ただしく記述しなければならないところですが、ここは順不同で並べ、後日の整理に期待します。


<A> 一時には一つのことしか考えきれない
多方面に亘る複雑概念は、関係あるものすべてを同時に抑えねばなりません。が、そんな芸当はふつうの人間にはできません。

<B> 目の前のことに惹き付けられて振り回される。
同時に、どうでもいいことは意識にすらならない。ここに優先選択順位が “決定化” されます。

<C> 「これは重要になってくるかもしれない」と気がついても、そのことに就いての主体性をかけた対決は、先送りする。
いわゆる、深層心理へ送りこもうとするクセです。

<D>  新規なことには与しない。避ける。

<E> なにかワカラヌことには、身を投じない。与しない。
上のD とともに、これは「乞食三日の法則」に包含されます。それまで「とかなんとか食えたという事実」は、ナニモノにも代え難い天与の恵みです。そこには理由など必要ありません。

<F> 三日坊主の法則
「乞食三日の法則」とはちがいます。投資や先物取り引きなどでは、どんなに破天荒な新しい情報でも、それを知ってしまった瞬間から、当たり前〜陳腐なことになってしまいます。新しいことが興っても、そこにはすぐに他との関連で「常態」がおこり、係数となって把握されます。新規の事態は、すぐに「全体」の一部を構成します。

<G -- 1> ○○××の法則の 1
人とか事物は、○○だ ○○だと思って見つづけていると、いつのまにか ××があることをド忘れして、「○○が本当だ」と思い込み、信念となります。その反対に××だ ××だと思って見つづけていると、いつのまにか ○○があることをド忘れして、「××が本当だ」と思い込み、信念となります。
ヒトラーが「百万遍もウソを云いつづければ、そのウソは本当のことになる」と云ったのはコレです。

<G -- 2> ○○××の法則の 2
積極姿勢だけに恵沢がもたらされるということ。おたしがやっている異言語間の語彙比較などには、如実に現れる効果ですが、二つの語彙が似ているがどうかを検討するとき、少々ムリでも「似てる」とする措置には、想わぬ効果、メリットがもたらされる。その反対に「ちがう、ちがう、関係ない」とする判断は、まったく恵沢にはめぐまれない。
学者などには、さも知ったような顔して、消極的判断ばかりをするのがいますが、その学者の将来の人生はみえみえです。

<H> 既得甚大概念( キトク・ジンダイ・ガイネン)
すでに飲み込んでいる巨大な概念に振り回されるクセ。神などという巨大(多くの関連を持っている)概念ができあがった氏族・民族は、例外なく、すべての現象の蔭に神をみます。おたしがすぐにD.N.A様を引き合いに持ってくるのも、コレかもしれません。

<I> 四大要素、四天王・・・・ 4で収まる、収める・・・クセ
建築様式〜四つ柱が強執になったのかもしれません。物理的には三点のほうが安定するのですが・・・。
「強執、偏執」こそ、原始時代の文化というものです。

<J> あんなもの・こんなもの・・・で収まる、収める、記憶とそれを思いだすときのクセ
客観というシロモノはどこにもありません。感受は、具体的な “誰れか” が、見たり聞いたりしたものです。その “個” がキャッチした共通点が寄り集まって客観といわれるガス体を形成しています。この客観とは、ま、共通自我の領域でしょうか。個がいう「あんあもの、こんなもの」は、あんがい客観性を持っているんです。
記憶の群れ〜カタマリには、なにかアンテナみたいな象徴〜目じるしが出ているのではないでしょうか。記憶を想いだす作業とは、そのシンボルを求めて、なにものかが、秒速 340m の速度で走りまわるのです。

<K> ウサギ道の法則
「この地上にはもともと道などなかった、人びとが歩いて行ったあとが道になったのだ」は、毛沢東のことばでしたか。でも、ひとは けもの道をたどって歩いたというのがホントです。ウサギなどは臆病ですから、なかなかに違った道には出ません。
これは神経伝達のクセだと思います。同じような刺激への反応は、少々ちがっていても同じルートを辿っているのだと想うのです。いつも使う神経ルートは、太く、頑強になります。それだからこそ、意識にカタマリ(叢)ができるのだと想うのです。
いちどやったことは、次には与(くみ)しやすい。その安心感は「好き」となり、めんどうで、困難なことは「嫌い」になります。
ウメボシが嫌いな人は、初めてウメボシに接したとき、なにか周囲に不愉快なことが起こっていたのではないでしょうか。この逆に、好きで好きでたまらない恋人がウメボシが好きだと知ったら、ウメボシを食べるようになるのではないでしょうか。

 < 極端の法則 >
ものごとは、その事態が極端な方向へ進んだ場合のことを考えてみたら、ワカリがはやい。

 < A細胞 T細胞 >  ・・・白血球内の攻撃型細胞
「自分でないモノ、もの」を殺し、領域外に追い出そうとする単細胞生物以来のクセ。

 <専門バカ>
一つのことに永いあいだ携わっていると、そこに眼が釘づけになったみたいになって、視野が偏る。
理髪店の人が街を歩くと、他人のヘア・スタイルばかりが気になり、靴屋が街を歩くと下のほうばかりを見る。



 ● ● 《 断点 》 ● ●
宇宙にあまねく存在する物質(2)とその存在を支配している法則(2)は、個々でのちがいを呈しながらも、全体を形成しています。この自然を取り込んだ言語も、部分ではちがいを見せながらも、全的な総体をみせています。
われわれの思考は、全的なもののうちの部分を切り取るのですが、そこには物質とは異質の「 1(肉)」が持っているうごきの法則から大きな制約を受けます。ここに心理と呼ばれる領域が展開されます。
1990年以降、大脳科学の爆発的進展をみましたが、神経に及ぼす素粒子の計測面で蹉跌をきたし、肉(1)の座が不安定なままに、現代が進行して行っていることは、先にのべました。そういった「徹底できない割り出しの場」で “心理” がはたらいているのです。

価値観は心理展の場です。価値観をみるとき、論理よりも心理(情動)を衝かねばなりません。以下はそこを 支配している生物学的視野を中心とした原則を、眼についたものから少々“切り取” ってみましょう。

 <ホログラフィ−>
ホロは 英語の whole(総て) グラフは「書く」。
パソコンでも、長文の一部を反転させて脇に出せば、これにアイコンがつき、それを text 作りの皿に入れると、隠されていた文字群が再び再生したような格好で、再現されます。60兆個あるヒトの細胞は、どれ一つを取っても、そこからクローン人間を創れるようになりました。
個は全体を写し込んだ状態で成立しています。そういう秘めた能力は、常態では表面に出さないでいます。
一つの思念は、具体的な一つを衝けば全部が出るといった関係で、成りたっています。
matrix(個と全との連携)で成立しているのですから、個人主義(とくに特許、地代)というものが、どんなに生物としての正道からハミだしているか・・・・・です。

 <D.N.A様>
おたしは、3年前から D.N.A様と、必ず “様” つきで表現しています。D.N.A様は、ちょっと昔の人には「神さま」でした。われわれの思念を徹頭徹尾絞めあげ、ワク嵌めをします。そこには人間の自由は・・・・無い。
「自分が生きている」と思うのは、実は、生きているのはD.N.A様のほうで、自分とはその影だったのです。そういう錯覚のもとで人生が展開しています。
先祖から伝わったD.N.A分布の差が、体質や性質を決定します。ヒトは大略同じ傾向を持ったD.N.A様を共通に持っています。ちがいを云いたてる愚は、さきに述べました。

 <カスケード的発達>
カスケードとはサカ語で「小さな滝」ということから来ている語だそうです。生物学で謂われるのは、源流から始まる落水が、途中で別の流れと合流して行く概念だとのことです。四つ五つの条件が整うと、なだれのように急激に事態が変化することを意味する用語です。
が、おたしは、受精卵が胚割をつづけて胎児となる過程にみられる「整った段階を俟っての、次の進展を遂げる現象」に注目します。
「どこか旅行に行こうか」といった場合、仲間が 三人では行く気にはなれないが、「四人が行く」と決まれば、「では行こうか」となるような気のうごきの現象です。

 <フェティシズム>
フェティシズムという用語は、このごろは女性の下着を狙う変質者の意味に使われたり、「物神」と訳されたりしています。が・・・、すべての個の経験は自我と化けるのです。それをおたしはフェティシズムと呼ぼうと思います。サンテグジュペリがその著『星の王子様』で「象を食ったら象になる、うわばみを食ったらうわばみになる」と云ったそれです。
志望校の受験に合格したり、失敗したりは、大きく個の在り方を決定しますが、小さなところではジャンケンに勝ったり負けたりしても、当座の自我ができます。
個性というものは「個々が持ったフェティシズムのちがいの集積」でできています。

 <パースペクティヴィズム>
パースペクティヴィズムということばは、絵画の遠近法から生まれでて、ニーチェによって「諸般のえぐり出し」作用が強調されました。今では「教壇カタリ」のセンセーたちによってさかんに喋られています。謂わんとしていることは、(なぜかウイーンですが)人びとがウイーンの街をみるとき、「観察者ごとに観察用のトランシット測量器を立てる場所がちがえば、得られる画像はちがうのだから、ちがう認識しか得られない」との主張・見識です。
このトランシット立脚点だけが教壇カタリでしゃべられるので、学生や一般人の受け取りが浅薄なものとなっていいます。謂わんとしていることは、市街地やモノではなく、問題となるのは、むしろ精神性のことでしょう。
見識・認識のちがいは、先祖いらいのD.N.A様の組み方のちがいとか、個が蓄積したフェティシズムの差へと還元できましょう。日本に入ってきたパースペクティヴィズムなることばは、ベロを噛むし、誤解されてしまっているので、ヤメにしたほうがいいです。

 <統覚>
*ap(ad)perceptionの日本語訳が「統覚」です。すべての個による認識は「この感受はじぶんがやったのだ」という荷札がつけられています。いいだしっぺはライプニッツでしたが、この考えはカントによって「うん、人間にはそういう能力(?)がある」と肯定され、ひき継がれました。
そのとき、おたしがわからないのは、そういう能力が人間に “ある” というとき、カントは、その “ある” を Es gipt (ある)という語を遣っていなかったか、大脳思考のことをどう考えていたか・・・・です。Es gipt を詮じつめると「神与」です。
ところが、1990年からの大脳科学の爆発的進展によって、経験が「じぶんのものだ」と受け取る大脳の部位が、「ここだ」と、突き止められたのです。
これによって、哲学では把握が難しかった自我現象が、科学の手によって、D.N.A様へと還元できるようになったのでした。
統覚に用いられている「荷札みたいなもの」の集積はフェティシズムに還元できます。少なくとも自我はモヤみたいなものだったのです。

価値観記述 5 -- 完 --

特別項目 大問題 ・ <霊魂(タマシイ)はあるか >
さて、ここまで述べ来たったとき、意識叢のうち、物理化学と宗教が両サイドの世界観をみせていることを、問題とせざるをえないことだろうと思います。そこを解決しようとしたとき、現代でもそとんど常識になっていて、うすらボンヤリと意識されているタマシイのことが、キー・ワードになっていることに気づかされます。
ここで「タマシイという語を使いましたが、正確には超常現象と言い換えたほうがいい面もあります。
しかし、どうも、超常現象と霊魂とのあいだには、概念としてのかなりな隔たりがあるようです。問題だ問題だといって騒ぎたてるには、霊魂といったほうがピッタシです。
ですから、ニラミ先は超常現象だけではなく、超能力、U,F,O、スブド、などは当然にも含ませたいのです。しかし、それが、超心理学、催眠学、深層心理学あたりになってくると、含ませて良いものがどうか、微妙な境界線がありそう・・・・・です。

霊魂という「ことば・概念」は暮らし向きにはとてもべんりであることに気づきます。
肉親や親しい人が死んだら何らかの形で “式” みたいなことをして、気分を切り替えたいし、故人が旅立って行ったさきのあの世を仮想でも想定すれば、まだ死んでない人びとの会話が弾みます。じぶんが死んでも「行き先」が、なんとなくあるように想えて、そこには錯覚ながらも「生の連続」が、保証されているような気分になります。
「あるのか」or 「無いのか」をトコトン煮つめないままに、ふやけた概念として雑世間に抛りだしたままにしておくのも、坊さんが「食い」易くするテクニックでもありましょう。

しかし、ここは、「ほんとうのところ」、「霊魂はあるのか、無いのか」・・・・、ギリギリの理脈を追いかけまわしてみましょう。
ここは「○○××の法則」では済まされません。すなわち、あると思いつづけたら「ある」が確定し、ないと思いつづけたら「無い」が確定するといったたぐいの論理の場ではないのです。
では、超常現象などは無いのか・・・・・と、問えば、事態は「別次元の霞」にはいったようになって、別論理の谷間に入っていきます。

ここでは、おたしが経験した最大の事件を申しのべ、その事件からタマシイのことを掴みあげたいと思います。
それはおたしが 34歳か 35歳のとき、長谷川わかさんの葬式の夜に起こりました。

この長谷川わかさん葬式の晩におこった事件を説明するためには、Sさんのことを紹介しなければなりません。
おたしが自分という現象が怖くてたまらなくなって、東京に出て、心霊学みたいな本を読みあさっていたとき、おたしの隣室に、これも霊能力が高かかった和気さんがいたこともあって、地震を予言したり、少年を催眠誘導したりしていたとき、背中に 10本ほどの鹿のツノみたいなのが生えている写真ができました。その写真を持って,ちょうど目黒区大岡山で開催されていた「心霊座談会」みたいなところへ出かけたのでした。
そこに、居合わせたのが当時 30歳の S さんで、千葉大学の経済学部を卒業し、駒沢大学で数学を専攻した経歴を持っている人でした。その数ヶ月前には甲府昇仙峡の禅寺で、見性(悟った)した立派な人物です。
座談会の休憩時間に、おたしのところにやってきてくれました。おたしは 27歳か 28歳でしたので、将来を共にできる男と想われたのでしょう。
廊下に出て話したのですが、S さんがおたしに「この近くに、長谷川わかという霊能者がいる。いまどき、心霊なんざあってたまるか、オレは行くのだが、よかったらあんた(おたし)もいっしょに行かないか、行って化けの皮をひっぺがしてやろうじゃないですか」と云うのです。
それを聞いていた渡辺政治さん(検索可)が、「わたしも連れて行ってください」と、云いはじめました。それをまた聞いていた田中千代松先生(東洋大学 検索可)は、若い者のうごきに心配されたか、「できるだけ科学的な思考方法から離れないようにしてくださいネ」と助言してくださいました。
渡辺政治さんは、その 3年ほどまえ東京から郷里の福島に帰ったのでしたが、しばしば出羽三山の修行者だった玄武という霊体がのりうつり、いろいろな予言ができて、人びとの助けになるので、人口の多い東京へ再び出てきたばかりのタイミングだったのでした。
当時は電話をひいた家などありません。渡辺政治さんと S さんと 3人が急に押しかけたのでしたが、わかさんは幸い在宅でした。
眉間中央に深いタテしわをもった 65歳ぐらいのおばぁさんでした。眉間のタテしわを除けば、やさしいお婆さんです。
4人が座についても、ハナシの接ぎ穂がありません。そこで、渡辺政治さんが「では一つ、わたしの降霊のやりかたをご覧になって頂きましょうか」と云って、すぐに両手のひと指しゆびを胸の中央に合わせました。それからそのままの指を上に高くもって行きましたが、サッと下したかと思うや、眼はつぶったまま「うん? 玄武じゃがナ、なにか用かな?」と云いました。
わかさんが「玄武様がのりうつっていらっしゃるんですよ」と、若い二人に小声でおしえてくれました。

その様子を見聞きしていた S さんは、あろうことか驚天動地、びっくり仰天、「でで、では、ゲゲゲんぶ様は、天国でどんな食事をしていらっしゃるのですか」など、まったく腑がぬけたような質問をしていました。
この降霊のイッパツで、ミイラ取りだったはずの S さんがミイラになってしまったのでした。

このことがあって以来、 Sさんとおたしは、日曜のたびに長谷川わかさん宅に押しかけました。いろんなフシギなハナシをいっぱい聞かされました。
わかさんのお兄さんは、わかさんをとても可愛がっていましたが、ある冬の寒い日に亡くなってしまったそうです。その命日にお墓参りをするたびに、どこからともなくカマキリがやってきて、墓石まで先にたって案内するようにして飛んで行ったそうです。お墓を拝んでいると、そのカマキリは墓石のてっぺんにとまって見下ろし、帰ろうとして振り向いたとき、カマキリは涙を流していたそうです。

その後も日曜には長谷川わかさん宅に S さんと二人で通いました。
その頃、わかさんと三人で『日本心霊医学協会』というところにも二度ほど行きました。
そこには、13歳ぐらいの女の子がトランスになってしゃべったことだの発表があったことは、いまになって考えると、ギョッとするような報告でしたので、ここに付記します。
その女の子は、トランスが醒めたあとは、じぶんが何をしゃべったのか、まるで分らないそうですが、そのしゃべりの主旨は「心霊とか予知などの超能力は、生殖器が喋らせているのだ」という主張でした。
この視角はわれわれ文明全般を俯瞰するにあたって、きわめて重大な、それこそ・・・コペルニクス的転回のキーを持っているはずです。

そういうことが 5〜 6回も続いた 9 月 23 日、Sさんが「われわれも超能力を出そう」と云いだしました。
その日は、「では、さっそくやるべ」となりました。
わかさんが「あんたらは般若シンキョーを知っているか」と聞いてきました。
二人とも知らんと云いましたら、「ま、ナンミョウホーレンゲッキョでいいでしょう。祭壇にむかってそれを一時間だけ唱えなさい。手・足・胴の身体はじぶんのしたいようにするがいい.、一時間のことは心配しないでもいいよ、そのときになったら神様がちゃんと知らせてくださいますから」と云いました。
おたしは手をぶらぶらさせただけでしたが、 S さんは立ち上がって、網をたぐるような声としぐさをしながら、エンヤトットみたいな調子で元気よくナンミョウホーレンゲッキョを唱えていました。わかさんは傍らで、二人の様子をじっとみていました。

わかさん宅から帰ったその夜、おたしは考えました。
そうでなくっても、足の引っぱり合いだらけの、この精神文明の領域、オレがその領域のメンバーの一人になったら、この素晴らしい世界のことを、だれが世間に広めてくれるんだ」が、第一番に出てきました。同時に「オレは修行が足りずに、たとえ地獄に堕ちようとも、全人類が一歩でも先に進めば、それでいいじゃないか」が出ました。国民学校 5年生までに叩きこまれた特攻精神です。この夜決まった人生の大s方針を、おたしは「精神文明の統一」と呼ぶことにしました。

そういうわけで、それを、二人に告げて、おたしは「わかさん第一線」から外れました。
S さんは、つづけてわかさんを師匠として霊能開発をつづけました。
そんなとき、こんなこともありました。S さんも霊能力がでたのか、寝ていたところ、夜中の 2時ごろ、突然、急に背骨の真ん中に、氷のやいばをゾクッ・・・ゾクッゾクッ!! と、3 〜4回続けて刺しこまれたようなショックを受け、跳ね起きました。起きたらすぐに「あ、いま、世界の大物が事故死した」との直感をえたそうです。その時刻は、ケネディ射殺と完全に一致しています。

わかさんのところには、べつにお弟子さんもいなかったので、S さんはわかさんにとってのたった一人のまな(愛)でしだったわけです。
それからすぐ、おたしは勤務しているミシン会社の現場が、あまりにもモタモタしているので、上司に願い出て、名古屋営業所の販売主任として転勤させてもらうことになりました。
「それはお名残り惜しい」と、ある日、わかさんと S さんの三人で千葉の成田山へお詣りすることになりました。
成田山では「1年経ったら、ふたたび関東へ還してください」とガン(願)をかけました。それから、成田山の裏山にはお稲荷さんが祭ってあるそうだから、と、成田山の裏にも足をはこんでみました。
その、お稲荷さんへの参道の脇、道のすぐ横に、ちいさな祠を置いて、血走った眼をした老婆が、なにやら唱えていました。聞いてみたところ、意味は掴めなかったものの、 3分間に 4回も 5回も「神の軍勢」という語が出てきてました。
わかさんは「あのひと、狂っている、ちゃんとした修行をしないと、あんなふうになる。こわいもんですよ」と云いました。

じまんします。おたしが販売主任として赴任した名古屋営業所は、ビリから二番目の営業成績でしtが、ここに半年いて、去るときには、トップから二番目の営業成績になりました。
それから、1ヶ月半の幹部研修をうけ、四国の高松営業所に行きましたが、次の千葉営業所に店長として赴任したのは、紙を貼り合わせたように 1日の間隙もダブりもなく、関東を出て、ちょうど 1年目でした。しかも成田山のお膝もと。
フシギといえばフシギですが、おたしは、こんなことで、心霊があるかないかなどを論議する基準にするようなマヌケではないつもりです。

おたしが 34歳か 35歳のとき、長谷川わかさんは亡くなりました。
葬儀一切は Sさんが切り盛りしてくれました。
わかさんは一人暮らしでしたので、六畳二間ぐらいで、広い部屋ではありません。それでも職業がら、祭壇は1間半ありました。祭壇にむかって右がわに 4 〜5人の親戚の方が座っていました。ですから、そこでの参列者はみんなで十人前後でした。

夜の 9時ごろでしたか、葬式もだいたい終わったので、S さんがお焼香をしようとして、あれは「鐘木」と呼んでいいのでしょうか、小さな叩き棒を右手にもって、リンを叩こうとしたその瞬間、S さんの右親指のつけねに、どこから降ってわいたか、ふいに巨大な蜘蛛がとりついたのでした。
おたしは S さんの左うしろに座っていました。「あ、生田くん・・・、これ」といって見せてくれた蜘蛛はカニの大きさで、左の足先から右足先までは、13cmはあったと記憶しています。
こんな大きな蜘蛛は見たことがありません。ふくらんだ部分の腕には白い毛がはえていました。あとで、図鑑をみたところ、たしかに、こういう巨大な蜘蛛が載っていました。

すると、その蜘蛛は S さんの左脚を伝って下りてゆき、畳を張って、祭壇中央のいちばん下の壇に彫ってある菊紋の真ん中に、下向きになって貼りつきました。
みんなは「ああ、わかさんがお礼を云い、別れを告げているんだ」などとささやき合っていました。
そんな時間は 4〜5分ぐらいでしたか、そこへ、親戚の若い男の方が、「おそくなりました」と、大声で云いながら、座敷へ上がってきました。
思わず、みんなはその人のほうを見ました。
そして、ふり返ったとき、蜘蛛の姿は、消えていました。

そのころの人びとは、今のようにカメラを持ち歩くことはありませんでした。このわずか 4 〜 5分、写真を撮らなかったのは、返すがえすも残念です。千載一遇のチャンスを逃がすとは、まさにこのことです。


サテ、この蜘蛛のうごきは、少しでも霊を信じている人びとには、なんらかの形で、わかさんの霊が、蜘蛛をあやつったとしかならないでしょう。
では、霊の存在を信じない人はどう考えるのでしょうか。
これは、たしかにおたしが、この眼で見た現象です。「そんなのウソだ」とか「あんた(おたし)の錯覚だ」などという人がいたとしたら、そんなヤツは、おたしの名においてブッコロしてやりたい。

ふつうの頭では、この巨大蜘蛛のうごきは、次のように、奇蹟だとしか考えられない特徴を示しています。
1 希代の霊能者・長谷川わかさんにかかわるできごとであった。
2 その葬式の晩だったこと。
3 ただ一人のまな弟子の S さんへサインをしたこと。
4 リンを叩こうとしたときに、ふいに現れた。
5 ある瞬間に現れ、ある瞬間から、いなくなった。消えるとき、どこかその周辺にいてもよさそうな時間だったが、見当たらなかった。
6 その巨大さは、だれも見た(経験した)ことのない大きさだった。
7 祭壇のいちばん下で(へり下って)挨拶していた。
8 祭壇の菊の彫り物のド真ん中だったこと
9 しかも、下むきになって(おじぎをするみたにして)貼りついていた。

これを説明できる最も「唯物論的〜科学的思考」は、後遺催眠と呼ばれている現象でしょう。この後遺催眠はドイツだったかで、犯罪に使われて問題になりました。催眠にかかっている被術者に、覚睡後、すなわち正常な意識のときに、特定サインをみた瞬間に、普通なら犯さないはずの犯行をさせる催眠術です。
これを拡大〜敷衍させると、わかさんの意識がまだあるとき(その無意識下あたりで)そのへんにいる小動物に一種の催眠をかけておいた・・・・・とみる視角です。
ここで想いだすのは、わかさんが兄さんのお墓まいりのときに出現したカマキリのことです。わかさんは小動物を霊能力で使う名人だった・・・?
これは、わかさんから聴いたハナシです。わかさんには、わかさんをとても軽蔑し、ことごとにつらく当たった姻戚の女性がいたそうですが、その女性が寝ようとしたら、毎晩、天井に龍が這いまわって、いまにも襲いかかろうとして苦しめたそうです。

まだ、われわれの催眠にかかわる文化は、共通諒解がえられていない分野ばかりだと想われます。
催眠誘導中におこった意識は、覚睡のあと、ことばで伝達されるので、いまのところ人間の意識だけです。これが動物・昆虫にまで拡張できるなどとは、およそ共通諒解などはえられない文化段階ではないでしょうか。

おそらく、ここは「現段階でのことばを通じさせることができない領域事」だろうと思います。ここを終わるにあたって、おたしが経験した催眠術のことを述べて諸賢の参考に供したいと思います。
長谷川わかさんのところに通い始める直前ぐらいの時間帯です。
ある日、販売部長が「将来が見えないので苦しんでいる 16歳の青年がいる。生田くん何とかならんか、とにかく君に任せるから、解決してくれ」というのです。
そこでおたしは、阿佐ヶ谷の個室に同君を呼んで、催眠のことを説明して安心させました。電燈を消し、ろうそくの灯を見つめさせたあと、 6歳ごろまで年齢を溯行させ、つづけて 26歳ごろの将来を見させたのです。
催眠は鮮やかに成功し、その 16歳の少年(?)は、シッカと 10年後のじぶんの姿を掴めて、晴れ晴れとした顔になりました。
そのとき、 6歳ぐらいの年齢のできごとをしゃべったのでしたが、そのとき甦った記憶もあざやかなもので、おたしは、それを「となりのミヨちゃんの赤いはな緒」と呼んでいます。
親しかった幼馴染みたちの顔、名前が、ありありと再現されたのでした。

忘れた記憶は多いものですが、それは本当に忘れたのではなく、ただ「憶いさせない、言語化できない」だけなんです。
個の経験のすべては、大脳にインプットされています。われわれの文明がそれに気づいていないだけです。そういう経験の集積が「誕生後」の個を形成しています(フェティシズム)。


 戦中戦後の価値観の推移
<江戸期の価値観>
邪馬台国で出現したヒミコなどの豪族連合のシンボルはインドのクマル(少年神・少女神)を写したものでした。このシンボルが転位したのが天皇制で、江戸期には士・農・工・商の上に天皇家が支配するというスタイルでした。
武士は “階級” みたいな性質を示していましたが、藩主の統括するところのものであって、藩をこえての武士どうしの横の連絡は皆無でした。
武士(3)はその前身が奴隷だったらしく、じぶんで考える力がなく、「なにかあったら死ねばいいんだろう」ぐらいにしか考えることができなかった。
江戸末期になるにしたがって、商人の力(経済・6)が増大してきて大名(3)をも抑える実力も持つようになった。
江戸庶民は空を飛んで罰されたり、灌漑用トンネルを開けて罰された箱根用水などの例で明らかなように、科学的創意工夫(5)は皆無だった。
まだ「まつりごと」ということばを用いていましたが、「寺社奉行」ということばでもわかるとおり、まつりごとの中の「拝みごと」は集団形成(政治・3)を優先させました。
ですから、江戸期を通じての価値観形態は 3・6・4・5・2・1 の順列となりましょうか。

<文明開化と価値観>
1867年を画期として線引きできるでしょう。欧米の考え方や制度を全面的にうけ容れようとの大方針が樹立されました。こうして生まれ変わった日本人は、もはや東洋人ではなく、西洋人になってしまいました。西洋人が他国を侵略したように、日本は当然にも他国を侵略してもいいとの正当性を得ました。
それでも、天皇を頂点に戴き(3)、軍隊(3)がのさばりましたが、そのために「みずからのいのちを捧げる」というサムライ精神は変わりません。当時叫ばれた富国強兵には経済重視が入っています。3・6 が頭にたち、 1(いのち)が選択の最下端に立っています。
で、価値観の順列形態は 「3・6・○・○・○・1」の順列です。

<戦前戦中の価値観>
「3・6・○・○・○・1」のアタマと末尾は、いちおう変わりません。
宗教(4)の座が問題です。キリスト教のように国家体制に密着した強力な宗教がなかったので、日本では幕末に水戸藩が起こした廃仏毀釈の運動からの進展は、結局は神社にまします「モノ言わぬ神」を前面に押し出しました。で、結局は宗教色ゼロの意識が支配的となりました。
自然科学(5)は強力に軍事(3)や経済(6)を支える機能を持つところから、鋭意開発が期待されました。
で、その価値観順列は「3・6・○・○・○・1」の中央部に 5 が優先され、宗教が 肉(1)よりも疎んじられたところから、「「3・6・5・2・1・4 」の様子を呈するところとなりました。人びとはおおいに神社に詣りましたが、祈ることとは必勝祈願であり、三度目の神風が吹くようにとの神だのみでした。
この無宗教の間隙を衝くようにして顕れたのが哲学畑の西田幾多郎を頂点とした「死へのリクツだて」でした。何十万もの日本兵士が、ワカラヌ言葉にあやつられたまま、自分の死よりも、天皇陛下のイヤサカを願って死んでゆきました。

<戦後、混乱期の価値観>
マッカーサーとかけてへそと解く。そのこころはチンの上にあり。天皇さまがいちばん偉いと信じていたのに、いやもう、大変でした。
ヤマト・ナデシコの貞操を護るんだとかいって、街には髪の毛をハンカチで結わえたパンパンガールが闊歩しました。パンパンとは朝鮮語 panpan hada で「恥しらず」という言葉です。
ガリガリ亡者という言葉が流行りました。モノ一切が欠乏していてヤミ・ブローカーが暗躍したのも、敗戦後のドサクサ期でした。
天皇(3)という集団形成のイズムが無くなって、それがクセになっていた者たちが、 3 で反応した行き先は共産主義(3)や労働組合運動でした。

これまでのおたしの説明で、「意識にはカタマリがある」といいました。そのカタマリを(種別に)意識叢と呼んだのでした。しかしまた「一つの意識はすべてとの関連において成り立っている」ことも重要な視角でした。
敗戦によって 3 の頂点、天皇が崩れたのです。そのことによって、それまでの「 3 の意識叢全般」が崩れたのが、敗戦直後の世相でした。
街にパンパンが闊歩し、ヤミブローカーが暗躍したのは、倫理(3)が崩れ、法(3)を犯すやつらが横行したということです。3というカタマリが、さながら地盤が移動するみたいになって、“総” くずれをおこした現象は、価値観として見逃せません。
それまでの理論 “ 体系 ”」どころではなく、そのころ巷間には「リクツなし」との言葉が、よく云われるようになりました。

 < バンカラ旧制高校生 と 黒幕 >
おたしは、日本型の「高踏派」という言葉を考えています。高踏派の「高踏」は旧制高等学校の「高等」にひっかけたものです。なによりもの特徴は高下駄はいて酒のんで肩を組み合って街を練り歩くのです。破れ帽子にはワセリン塗ってボロボロ、腰には煮しめたような手ぬぐいをぶら下げていました。ときどき立ちどまって、両の親指を袴に指し、立ちションベンするように下腹を突きだし、詩吟を詠います。
旧制高等学校といえば、哲学をよく教えました。が、なぁ〜に、そんなリクツの一つひとつは血にも肉にもならず、デカンショ(デカルト・カント・ショペンハウエル)の歌を覚えたぐらいのもんです。

 √ ?? デカンショ デカンショ で 半年ャ暮らせ ヨイヨイ あとの半年ャ 寝て暮らせ ??
 √ ?? よしあし云うヤツァ バカなやつ 飲めや歌えや 跳ねまわれ ??

ファイヤー・ストームでの狂気の気概がしんしょうです。
とはいえ、肚とか胆力は今の高校生の 73倍ぐらいは培われていました。相手の顔をみて口角泡を飛ばして激論し、乾坤一擲の勝負ダマシイができていました。

多情多感だった彼らの多くは、学徒動員にとられ、多くの学友が戦死し、そして敗戦です。
彼らが敗戦後におもったことは「戦争には負けたが、経済で戦争に勝って、学友の仇討ちをしてゃろう」でした。
価値観順列は・・・・、まず強い意力(2)が表に出ています。経済戦争を勝ち抜くためには技術(5)です。「リクツ抜き」を普及させたのは彼らだったはず。で、「2・5・6・3・1・4 」の優先順列が、この高踏派の価値観形態だったと診れます。

田中角栄が失脚したとき、巣鴨刑務所へ向かうクルマの中で「ユダヤから嵌められた」と洩らしました。ユダヤというべきか、アメリカ C.I.Aというべきか、彼らアメリカ謀略家が恐れたのは田中角栄型価値観ではなく、それを底支えしていた “高踏派” だったことでしょう。
時間にズレがあって見えにくいのですが、アメリカ人たちが集まって日本車のフロント・ガラスをハンマーで叩き割る風景がありました。この時点で、高踏派はアメリカに経済戦争で勝利したのでした。

昔日の高踏派たちは、毎年、十一月三日に寮歌祭をやってテレビ放映していました。それを見るたび、おたしャ、「なにをコンヤロ、エリート風吹かせやがって、ちったぁ進学できなかった仲間のことを考えてもみやがれ」とぐらいにしか受けとらなかったのでした。が、20年ほどまえ、彼ら高踏派たちも歳をとり、「これが最後の寮歌祭」という放映をみたときには、涙が流れてしかたがありませんでした。
 √ ?? くれない萌ゆる 岡の花 さみだれ 匂う岸のいろ ??  太鼓のネ(音)とは、じつに淋しいもんですね。

国やぶれて山河あり・・・・・、日本が戦闘に負けたとはいえ、日本というアイデンティティーが無くなったわけではありません。その逆に、まだまだ当分のあいだ「国家エゴ」が世界をのさばり歩くことは、まちがいありません。

公共時事業落札の奪い合いは、なにも戦後日本にかぎったことではありませんが、戦後では、「オレが・オレが」のガリガリ亡者に触発された野郎どもが、やくざの世界にも政治の世界にものさばり返りました。
そういったガリガリの群の一つが黒幕です。
いっぱしの男たるを自認する男は、まずは、どこかの親分の「お流れ(盃)」を頂戴することで、「半おおやけ」と繋がる。これが重層して、ヤミ世界の法王ができあがります。この現象の底辺には 14歳ぐらいのとき、道を踏み外してどうしようもなくなった不良・チンピラの群がいます。そいつらを、それ以上あばれないように、上から「重し(おもし)」をきかせてやるというのが、やくざ、テキ屋の大義名分です。
「そういうこととは別次元だよ」ってな装いを執ってのさばるのが、政界の黒幕です。
政界の黒幕たちは、例外なく「カネと権力」をカオで勝ち取ろうとします。手段は周辺の人びとに「死の恐怖(ドスがありますよ、ピストルのほうがすきですか)」で迫ることです。云ってみれば、群で暮らす動物にみられるボスの座を奪い合う格闘の延長です。

黒幕たちは、例外なく、優秀な頭脳をもち、いちおう「愛国心」を持っています。
でも、「これでいいんだ!」といったような「全方位の周辺事情処理」には自信がなかった! やっぱ、アタマが足りないんだナァ。いや、やっぱアタマがいいのか、要するに価値観での見方がまったく出来てなかった時代です。
そこで、なにかありそうな・・・を、装って “裏” にまわった。speaking is silver ,scilent is gold. アマカネ。
これには、日本の伝統的な男の評価のやりかたが、おおいに関わっていることと思われます。すなわち、大名とか殿様、戦国時代の武将に寄せられた “器量” という見方です。清濁併せ呑んで、ぜんたいを収斂させる能力です。結局、これは考え方ではなく、個人の「たたずまい」という風格に還元する評価形式です。
別の見方では、「オトコの押し」の世界です。第二次世界大戦中、ナチスの思想をリードしたハイデガーは、ついに処罰されることを免れましたが、それをやり遂げさせたのは論理とか弁舌での糾弾が、ハイデガーの風貌から撥ね飛ばされたからでしょう。
前まえから、おたしが述べていた「1 と 2 の融和」を想いだしてください。オトコの打ち出しの世界とは 1 と 2 が絡みあった [ 1・ 2 ] です。
この黒幕ちが持っていた価値観形態を述べるにあたって、縦列の最初に 2・1が立ちますが、この 1 は「眠気、食い気、いろけ」にかかわる欲望ではありません。で、黒幕たちがもっていた価値観形態は 「 [ 2・1 ]・3・6・5・1・4 」という変形した順列となります。

 <田中角栄型価値観>
朝鮮戦争でひと儲けして、世の中が安定しつつあったとき、いっぽうでは婦人に投票権が付与され、日本でも大衆社会が現実のものとなりました。いよいよ経済(6)を知らない大衆が投票することになったのです。
ここに政治黒幕の流れを汲んで田中角栄が政界のトップに踊りでました。
言うことは単純でした。いわく、「列島(2)を改造して経済を活性化する、そのためにはモーレツ社員が身(1)を賭してガンバリ抜く」です。
ですから、価値観順列は 「 6・3・5・2・1・4 」です。
しかし、タイミングがよかったのか、悪かったのか、そこへ、光化学スモッグ、イタイイタイ病、水俣病、スモン病ばどの、経済の環境破壊が社会問題となって浮上しました。経済を半分も知らない大衆は、経済(6)がモロに健康(1)を破壊することを知って震えあがりました。


 <田中角栄後、大衆の価値観>
まさにビックリ仰天です。庶民感覚ではみずからの意識には無反省無検討ですので、「そうなったら、集団形成の位置はどうなるの?」だの「科学技術の座はどうなる?」だのの詮議〜意識は、はたらきません。「ぶるぶるるる、いのちあってのモノダネだ」の強烈な反応が世を風靡しました。
それまで、どちらかといえば順列の終わりのほうに押しやられていた 1 が全面におどり出ました。
それまで、クリスマスといえばモーレツ社員が取引先の顧客を歓待するチャンスで、いつもクリスマスのよるはキャバレーが大にぎわいていました。ところが、あれは45年前のクリスマスの夜です。銀座のキャバレーは灯が消えたようにひっそりとしてしまいました。
それまでのモーレツ社員は家庭(1・2)に戻り、マイホーム・パパに変身したのでした。
田中角栄後、大衆の価値観形態は 「 1・2・3・5・6・4 」となりましょうか。この場合の 6 は錯覚に基づく経済理解なので、6 とはいえません。

 <民主党が政権をとるまでの価値観>
民主党が政権をとるまでの自民党の考え方(体質)は、理想とするイデーも無く、議員個人々々が先輩たちのやりざまを見習って、オレが・オレがを演じ集団でしかありませんでした。
投票権(決定権)を持っている大衆は、資本とかまとまったお金の威力を怖がっているのです。隣国のイミヨンパク大統領が 30億の私財産を投げ出してみせても、カエルのツラにションベンで、シランっぷりができるる体質でした。これは民主党政権発足初期にトップの座に就いた小沢・鳩山も 「2 の目からみれば」自民党と同罪です。
2 の目でみる人間群像の評価とは……、偉い人、あたまがいい人といえど、そこに至るまでの D.N.A様 と個の経験の組み合わせが、ちょっと違っただけじゃないか、カタワで生まれついた者も、天才といわれる人も、人間である以上は同じ評価が下されねばならない・・・・・、そういった考えです。

この考えは大衆にはワカリやすい。それを現実のものにしようと計ったのが民主党でした。出発当初、自民党型のボロをまとった二名のトップを浄化したかのようですが、今後の国家エゴの荒波をどうくぐり抜けていくか、とくに経済政策の面が心配です。
自民党の価値観形態は「6・[ 2・1]・3・5・4」でしょう.。[ 2・1 ] は,「オレが・オレが」の連続です。
トップ二人を排斥したあとの民主党の価値観形態は「 1・3・2・5・6・4 」でしょう。「経済(6)をおろそかにしてはならない」と、唱えてはいますが、イズム(3)や事実の世界(5)での意識が先走っていますので、なら(均)してみると熾烈な国際競争に弱いような蔭がさしています。



 《価値観順列の数は減らせるか》
価値観の多様化を歓迎するようなムード判断が横行しています。しかし、現に人類は価値観のちがいで殺し合いをやっているのですから、それは多様化した価値観を処理しきれなくなったあげくの、ふてくされとかケツまくりの「逃げ」にほかなりません。

意識叢の数が増えれば増えるだけ、いろんな価値観像が増えてきます。
おたしが高橋稔と話し合ったときの意識叢は 4種でした。ですから価値観像は( 4 × 3 × 2 によって得られますので)24通りでした。
それが、「まつりごと」という概念で渾然一体となっていた 意識叢から、歴史の推移で「科学」と「集団形成」が家出したので、「まつりごと」は三つに分裂したのでした。計 6種・・・・・、価値観像は 720種。これは幼稚な言語しか持っていない現代人類にとっては、危険信号だと言わねばなりません。
意識叢を、もっと減らす方法はないのでしょうか。

これまでの記述のなかで、チラッとみたように、経済はいつも利潤追求・・・・・右肩あがりの指数を要請されている虚構の「世界・意識・領域・欲」でした。
たしかに、現実には自家用飛行機をもって、広大な庭とプールを備えた富豪の者もいますが、「向こう三軒両となり」に住み、おたがいの個性を楽しむ平民にとっては、そういった奢侈品は無用です。このような平民が、みな飛行機をとばし、広大な邸宅に住めば、それだけ環境破壊もすすみます。
いま、シナやインドなどを筆頭に多くの発展途上国では、経済発展の指数が急傾斜の右肩あがりであればあるほど、そこの政府・住民は無条件に喜んでいます。が、三日坊主の法則でみたように、新しい事態はすぐに常態となって、「それがあたりまえの指数」を形成します。
民主党がめざす社会のありかたは、今後、多大の紆余曲折の難儀を迫られることでしょうが、地球保護の一点からいっても、経済を統制(3)下におく施策はさけられないことになります。
とにかく、経済を意識叢の外におくことができれば、価値観像は 120種へと激減します。

では、宗教はどうでしょう。世界規模では、宗教はまだまだ根づよい意識支配をしています。
しかし、こと日本にかぎって観察すれば、日本は少なくとも明治維新このかた、無宗教の国といってもよい形態をとりつづけてきました。それ以前はインド発、シナ経由の仏教を借用した面もありますが、そこに遣われている言葉は誤訳だらけの用語であって、仏教信者は一生かかってアタマで教条を勉強する必要があります。ここでは「生きるヒマ」など、ほとんど無いざまです。
アタマで教条を理解する姿勢は、物理化学のそれとほとんど同じです。物理化学領域はテッペン部分の理解は不可能と言っているのですから、仏教理解をアタマでするということは、不可能なはずです。

そこで、こんなやりかた(要領)はどうでしょう。
暮らしのなかで、宗教がらみの衝突があったときには、いちど宗教をタナあげしてもらうことです。
とはいえ、宗教家の意識は、何一つとってみても、宗教色に染め尽くされていますので、宗教を信じない人びととの対話は困難でしょう。ですから次善の策は「いまのこの日本だけでも、登録されている宗教法人は五万もあるのですから、ほかの三つほどを勉強するので、たちまちの懸案は未解決のまま保留にしてもらう」テです。
五万とある宗教は、それぞれはウチがいちばん正しい」と主張するからこそ、五万とあるのです。一つひとつの宗教は「ウチ以外の 4999の宗教は正しくない」と言っているのです。なぜ、その個人が、その特定宗教を信じるに至ったかを静かに思っていただければ、鋭鋒は即座にナマクラになること必定です。

宗教も経済も対立抗争のワクから外れることができれば、価値観像は 24種になります。

価値観記述 完

神奈備にようこそ
inserted by FC2 system