***** 古事記 (中つ巻) ***** 古事記 目次 古事記中巻 神武天皇(ジンムテンノウ)  1 東遷  2 布都御魂(フツノミタマ)と八咫烏(ヤタガラス)  3 兄宇迦斯(エウカシ)と弟宇迦斯(オトウカシ)  4 久米歌(クメウタ)  5 伊須気余理比売(イスケヨリヒメ)  6 当芸志美美命(タギシミミノミコト)の反逆 綏靖(スイゼイ)天皇・安寧(アンネイ)天皇 懿徳(イトク)天皇・孝昭(カウセウ)天皇・孝安(カウアン)天皇 孝霊(カウレイ)天皇 孝元(カウゲン)天皇 開化(カイクワ)天皇 崇神(スジン)天皇  1 后妃(コウヒ)と御子(ミコ)  2 三輪山(ミワヤマ)の大物主神(オホモノヌシノカミ)  3 建波邇安王(タケハニヤスノミコ)の反逆  4 初国知らしし天皇(スメラミコト) 垂仁(スイニン)天皇  1 后妃と御子  2 沙本毘古(サホビコ)と沙本毘売(サホビメ)  3 本牟智和気王(ホムチワケノミコ)  4 円野比売命(マトノヒメノミコト))  5 時じくの香(カク)の木(コ)の実(ミ) 景行(ケイカウ)天皇  1 后妃と御子  2 大碓命(オホウスノミコト)  3 倭建命(ヤマトタケルノミコト)の熊曾(クマソ)征討  4 倭建命の出雲建(イヅモタケル)討伐  5 倭建命の東国征討  6 美夜受比売(ミヤズヒメ)  7 思国歌(クニシノヒウタ)と倭建命の死  7 白智鳥(シロチドリ)と御葬歌(ミハブリウタ)  8 倭建命の子孫 成務(セイム)天皇 仲哀(チュウアイ)天皇  1 后妃と御子  2 神功(ジングウ)皇后の神がかりと神託  3 皇后の新羅(シラギ)遠征  4 忍熊王(オシクマノミコ)の反逆  5 気比大神(ケヒノオホカミ)  6 酒楽(サカクラ)の歌 応神(オウジン)天皇  1 后妃と御子  2 大山守命(オホヤマモリノミコト)と大雀命(オホサザキノミコト)  3 矢河枝比売(ヤカハエヒメ)  4 髪長比売(カミナガヒメ)  5 国栖(クズ)の歌  6 百済(クダラ)の朝貢  7 大山守命の反逆  8 天之日矛(アメノヒボコ)の渡来  9 秋山の下氷壮夫(シタヒヲトコ)と春山の霞壮夫(カスミヲトコ)  10 天皇の子孫 −−−−− 石王版「古事記」40 −−−−− 古事記 中巻 神武天皇(ジンムテンノウ) 1 東遷 神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイハレビコノミコト)、そのいろ兄(エ)五瀬命(イ ツセノミコト)と二柱、高千穂宮(タカチホノミヤ)に坐(イマ)して議(ハカ)り て云(ノ)りたまはく、「何(イヅ)れの地(トコロ)に坐(イマ)さば、平(タ ヒ)らけく天(アメ)の下の政(マツリゴト)を聞こしめさむ。なほ東(ヒムガシ) に行かむと思ふ」とのりたまひて、即(スナハ)ち日向(ヒムカ)より発(タ)ちて 筑紫(ツクシ)に幸行(イ)でましき。かれ、豊国(トヨクニ)の宇沙(ウサ)に到 りましし時、その土人(クニビト)、名は宇沙都比古(ウサツヒコ)・宇沙都比売 (ウサツヒメ)の二人、足一騰宮(アシヒトツアガリノミヤ)を作りて、大御饗(オ ホミアヘ)献(タテマツ)りき。其地(ソコ)より遷移(ウツ)りまして、竺紫(ツ クシ)の岡田宮(ヲカダノミヤ)に一年(ヒトトセ)坐(イマ)しき。またその国よ り上(ノボ)り幸(イ)でまして、阿岐国(アキノクニ)の多祁理宮(タケリノミ ヤ)に七年(ナナトセ)坐(イマ)しき。またその国より遷(ウツ)り上(ノボ)り 幸(イ)でまして、吉備(キビ)の高島宮(タカシマノミヤ)に八年(ヤトセ)坐 (イマ)しき。 故(カレ)、その国より上り幸(イ)でましし時、亀の甲(セ)に乗りて、釣りしつ つ打ち羽(ハ)ふり来る人、速吸門(ハヤスヒノト)に遇(ア)ひき。ここに喚 (ヨ)びよせて、「汝(イマシ)は誰(タレ)ぞ」と問ひたまへば、「僕(ア)は国 つ神なり」と答へ曰(マヲ)しき。また「汝(イマシ)は海つ道(ヂ)を知れりや」 と問ひたまへば、「よく知れり」と答へ曰(マヲ)しき。また「従ひて仕へ奉(マ ツ)らむや」と問ひたまへば、「仕へ奉(マツ)らむ」と答へ曰(マヲ)しき。かれ ここに、槁機(サヲ)を指(サ)し渡し、その御船(ミフネ)に引き入れて、即(ス ナハ)ち、名を賜ひて槁根津日子(サヲネツヒコ)と号(ナヅ)けたまひき。こは倭 国造(ヤマトノクニノミヤツコ)等(ラ)の祖(オヤ)なり。 故(カレ)、その国より上り行(イ)でましし時、浪速(ナミハヤ)の渡(ワタリ) を経て、青雲(アヲクモ)の白肩津(シラカタノツ)に泊(ハ)てたまひき。この 時、登美(トミ)の那賀須泥毘古(ナガスネビコ)、軍(イクサ)を興(オコ)して 待ち向(ムカ)へて戦ひき。ここに御船(ミフネ)に入れたる楯(タテ)を取りて下 (オ)り立ちたまひき。故(カレ)、其地(ソコ)を号(ナヅ)けて楯津(タテツ) といひき。今に日下(クサカ)の蓼津(タデツ)と云(イ)ふ。ここに登美毘古(ト ミビコ)と戦ひたまひし時に、五瀬命(イツセノミコト)、御手(ミテ)に登美毘古 (トミビコ)が痛矢串(イタヤクシ)を負ひたまひき。かれここに詔(ノ)りたまは く、「吾(ア)は日の神の御子(ミコ)として、日に向ひて戦ふこと良からず。故 (カレ)、賎(イヤ)しき奴(ヤツコ)が痛手(イタデ)を負ひぬ。今より行き廻 (メグ)りて背(ソビラ)に日を負ひて撃(ウ)たむ」と期(チギ)りて、南の方 (カタ)より廻り幸(イ)でましし時、血沼海(チヌノウミ)に到りて、その御手の 血を洗ひたまひき。故(カレ)、血沼海(チヌノウミ)といふ。其地(ソコ)より廻 り幸(イ)でまして、紀国(キノクニ)の男之水門(ヲノミナト)に到りて詔(ノ) りたまはく、「賎(イヤ)しき奴(ヤツコ)が手を負ひてや死なむ」と男建(ヲタ ケ)びして崩(カムアガ)りましき。故(カレ)、その水門(ミナト)を号(ナヅ) けて男(ヲ)の水門(ミナト)と謂(イ)ふ。陵(ミハカ)は紀国(キノクニ)の竈 山(カマヤマ)にあり。 −−−−− 石王版「古事記」41 −−−−− 2 布都御魂(フツノミタマ)と八咫烏(ヤタガラス) 故(カレ)、神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイハレビコノミコト)、其地(ソコ)よ り廻(メグ)り幸(イデマ)して、熊野村(クマノノムラ)に到(イタ)りましし 時、大熊髣(オホクマホノカ)に出(イ)で入(イ)りて即ち失(ウ)せぬ。ここに 神倭伊波礼毘古命、たちまちにをえまし、また御軍(ミイクサ)も皆をえて伏しき。 この時、熊野の高倉下(タカクラジ)、一ふりの横刀(タチ)をもちて、天(アマ) つ神の御子(ミコ)の伏したまへる地(トコロ)に到りて献(タテマ)りし時、天つ 神の御子すなはち寤(サ)め起きて、「長く寝(イ)ねつるかも」と詔(ノ)りたま ひき。かれ、その横刀(タチ)を受け取りたまひし時、その熊野の山の荒ぶる神、自 (オノヅカ)ら皆切り仆(タフ)さえき。ここにその惑(ヲ)え伏せる御軍(ミイク サ)悉(コトゴト)に寤(サ)め起きき。 かれ天つ神の御子(ミコ)、その横刀(タチ)を獲(エ)し所以(ユヱ)を問ひたま へば、高倉下(タカクラジ)答へ曰(マヲ)さく、「己(オノ)が夢(イメ)に云は く、天照大神(アマテラスオホミカミ)・高木神二柱の神の命(ミコト)以(モ)ち て、建御雷神(タケミカヅチノカミ)を召して詔(ノ)りたまはく、『葦原中国(ア シハラノナカツクニ)はいたくさやぎてありなり。我が御子等、不平(ヤクサ)みま すらし。その葦原中国は、専(モハ)ら汝(イマシ)の言(コト)向(ム)けし国な り。かれ、汝(イマシ)、建御雷神(タケミカヅチノカミ)降(クダ)るべし』との りたまひき。ここに答へて白(マヲ)さく、『僕(ア)は降(クダ)らずとも、専 (モハ)らその国を平(コトム)けし横刀(タチ)あれば、この刀(タチ)を降すべ し』とまをしき。この刀(タチ)の名は佐士布都神(サジフツノカミ)と云ひ、亦の 名は甕布都神(ミカフツノカミ)と云ひ、亦の名は布都御魂(フツノミタマ)と云 ふ。この刀(タチ)は石上神宮(イソノカミジングウ)に坐(イマ)す。『この刀 (タチ)を降(クダ)さむ状(サマ)は、高倉下(タカクラジ)が倉の頂(ムネ)を 穿(ウカ)ちて、それより堕(オト)し入れむ。かれ、あさめよく汝(ナレ)取り持 ちて、天つ神の御子(ミコ)に献(タテマツ)れ』とのりたまひき。かれ、夢(イ メ)の教(ヲシ)への如(マニマ)に、旦(アシタ)に己(オノ)が倉を見れば信 (マコト)に横刀(タチ)ありき。かれ、この横刀(タチ)を以(モ)ちて、献(タ テマツ)るのみ」とまをしき。 ここにまた高木大神の命(ミコト)以(モ)ちて、覚(さと)して白(マヲ)したま はく、「天つ神の御子を、これより奥つ方(カタ)に、な入(イ)り幸(イデマ)さ しめそ。荒ぶる神いと多(サハ)となり、今、天(アメ)より八咫烏(ヤタガラス) を遣はさむ。かれ、その八咫烏引道(ミチビ)きなむ。その立たむ後(シリ)より幸 行(イデマ)すべし」とまをしたまひき。かれ、その教へ覚(サト)しの随(マニ マ)に、その八咫烏の後(シリ)より幸行(イデマ)せば、吉野河の河尻(カハジ リ)に到りましし時、筌(ウヘ)を作りて魚(ウヲ)を取る人あり。ここに天つ神の 御子、「汝(イマシ)は誰ぞ」と問ひたまへば、「僕(ア)は国つ神、名は贄持之子 (ニヘモツノコ)と謂(イ)ふ」と答へ白(マヲ)しき。こは阿陀(アダ)の鵜養 (ウカヒ)の祖(オヤ)なり。 そこより幸行(イデマ)せば尾(ヲ)生(オ)ひたる人、井より出(イ)で来たり き。その井に光ありき。ここに「汝(イマシ)は誰ぞ」と問ひたまへば、「僕(ア) は国つ神、名は井氷鹿(ヰヒカ)と謂(イ)ふ」と答へ白(マヲ)しき。こは吉野首 (ヨシノノオビト)等(ラ)の祖(オヤ)なり。即ちその山に入りたまへば、また尾 (ヲ)生(オ)ひたる人に遇(ア)ひたまひき。この人、巌(イハホ)を押し分けて 出(イ)で来たりき。ここに「汝(イマシ)は誰ぞ」と問ひたまへば、「僕(ア)は 国つ神、名は石押分之子(イハオシワクノコ)と謂(イ)ふ。今、天つ神の御子幸行 (イデマ)すと聞きし故、参(マヰ)向(ムカ)へつるのみ」と答へ白しき。こは吉 野の国巣(クズ)の祖(オヤ)なり。そこより踏み穿(ウカ)ち越えて、宇陀(ウ ダ)に幸(イデマ)しき。かれ、宇陀(ウダ)の穿(ウカチ)と曰(イ)ふ。 −−−−− 石王版「古事記」42 −−−−− 3 兄宇迦斯(エウカシ)と弟宇迦斯(オトウカシ) かれ、ここに宇陀(ウダ)に兄宇迦斯(エウカシ)・弟宇迦斯(オトウカシ)の二人 あり。かれ、先(マ)づ八咫烏(ヤタガラス)を遣(ツカ)はして、二人に問はしめ て曰(イ)はく、「今、天つ神の御子幸行(イデマ)せり。汝(イマシ)等(タチ) 仕(ツカ)へ奉らむや」といひき。ここに兄宇迦斯(エウカシ)、鳴鏑(ナリカブ ラ)を以(モ)ちてその使を待ち射(イ)返(カヘ)しき。かれ、その鳴鏑(ナリカ ブラ)の落ちし地(トコロ)を訶夫羅前(カブラサキ)と謂(イ)ふ。待ち撃(ウ) たむと云(イ)ひて軍(イクサ)を聚(アツ)めしかども、軍(イクサ)を得(エ) 聚(アツ)めざりしかば、仕へ奉らむと欺陽(イツハ)りて、大殿(オホトノ)を作 り、その殿の内に押機(オシ)を作りて待ちし時、弟宇迦斯(オトウカシ)、先」 (マ)づ参(マヰ)向(ムカ)へて拝(ヲロガ)みて白(マヲ)さく、「僕(ア)が 兄(イロエ)兄宇迦斯(エウカシ)、天つ神の御子(ミコ)の使を射返し、待ち攻め むとして軍を聚(アツ)むれども、得(エ)聚(アツ)めざりしかば、殿(トノ)を 作りその内に押機(オシ)を張りて待ち取らむとす。かれ、参(マヰ)向(ムカ)へ て顕(アラ)はし白(マヲ)す」とまをしき。 ここに大伴連(オホトモノムラジ)等(ラ)の祖(オヤ)道臣命(ミチノオミノミコ ト)・久米直(クメノアタヒ)等(ラ)の祖(オヤ)大久米命(オホクメノミコト) の二人、兄宇迦斯(エウカシ)を召(ヨ)びて罵詈(ノ)りて云はく、「いが作り仕 へ奉れる大殿(オホトノ)の内には、おれ先(マ)づ入(イ)りて、その仕へ奉らむ とする状(サマ)を明(アカ)し白(マヲ)せ」といひて、即(スナハ)ち横刀(タ チ)の手上(タガミ)を握(トリシバ)り、矛(ホコ)ゆけ矢(ヤ)刺(サ)して、 追ひ入るる時に、すなはち己が作りし押(オシ)に打たえて死にき。ここに即(スナ ハ)ち控(ヒ)き出(イダ)して斬り散(ハフ)りき。故(カレ)、其地(ソコ)を 宇陀(ウダ)の血原(チハラ)と謂(イ)ふ。 然してその弟宇迦斯(オトウカシ)が献(タテマツ)りし大饗(オホミアヘ)は、悉 (コトゴト)にその御軍(ミイクサ)に賜ひき。この時、歌曰(ウタ)ひたまはく、 宇陀(ウダ)の 高城(タカキ)に 鴫罠(シギワナ)張る 我が待つや 鴫(シ ギ)は障(サヤ)らず いすくはし 鯨(クヂラ)障(サヤ)る 前妻(コナミ)が  肴(ナ)乞(コ)はさば たちそばの 実(ミ)の無けくを こきしひゑね 後妻 (ウハナリ)が 肴(ナ)乞はさば いちさかき 実の多けくを こきだひゑね え え しやこしや こはいのごふそ ああ しやこしや こは嘲笑(アザワラ)ふぞ 《10》 とうたひたまき。故(カレ)、その弟宇迦斯(オトウカシ)、こは宇陀の水取(モヒ トリ)等(ラ)が祖(オヤ)なり。 石王版「古事記」43 −−−−− 4 久米歌(クメウタ) 其地(ソコ)より幸行(イデマ)して忍坂(オサカ)の大室(オホムロ)に到(イ タ)りましし時、尾生ひたる土雲(ツチグモ)八十建(ヤソタケル)その室にありて 待ちいなる。故(カレ)ここに天つ神の御子(ミコ)の命(ミコト)以(モ)ちて、 饗(アヘ)を八十建(ヤソタケル)に賜ひき。ここに八十建に宛(ア)てて、八十膳 夫(ヤソカシハデ)を設け、人(ヒト)毎(ゴト)に刀(タチ)佩(ハ)けて、その 膳夫(カシハデ)等(ドモ)に誨(ヲシ)へて、「歌を聞かば、一時(モロ)共(ト モ)に斬れ」と曰(ノ)りたまひき。故(カレ)、その土雲(ツチグモ)を打たむと することを明(アカ)せる歌に曰(イ)はく、 忍坂(オサカ)の 大室屋(オホムロヤ)に 人多(サハ)に 来(キ)入(イ)り 居(ヲ)り 人多(サハ)に 入(イ)り居(ヲ)りとも みつみつし 久米(ク メ)の子が 頭(クブ)椎(ツツ)い 石(イシ)椎(ツツ)いもち 撃(ウ)ちて し止まむ みつみつし 久米(クメ)の子等(ラ)が 頭(クブ)椎(ツツ)い 石 (イシ)(椎ツツ)いもち 今撃(ウ)たば宜(ヨラ)らし《11》 かく歌ひて、刀(タチ)を抜きて、一時(モロトモ)に打ち殺しき。 然る後に、登美毘古(トミビコ)を撃(ウ)たむとしたまひし時、歌ひて曰はく、 みつみつし 久米の子等(ラ)が 粟生(アハフ)には 臭韮(カミラ)一本(ヒト モト) そねが本(モト) そね芽(メ)繋(ツナ)ぎて 撃ちてし止(ヤ)まむ。 《12》 また歌ひて曰はく、 みつみつし 久米の子等(ラ)が 垣下(カキモト)に 植ゑし椒(ハジカミ) 口 ひひく 吾(ワレ)は忘れじ 撃ちてし止(ヤ)まむ《13》 また歌ひて曰はく、 神風(カムカゼ)の 伊勢の海の 生石(オヒシ)に 這(ハ)ひもとほろふ 細螺 (シタダミ)の い這ひもとほり 撃ちてし止(ヤ)まむ《14》 また、兄師木(エシキ)、弟師木(オトシキ)を撃(ウ)ちたまひし時、御軍(ミイ クサ)暫(シマ)し疲れき。ここに歌ひて曰(イ)はく、 楯(タタ)並(ナ)めて 伊那佐(イナサ)の山の 木(コ)の間(マ)よも い行 きまもらひ 戦へば 吾はや飢(ヱ)ぬ 島つ鳥(ドリ) 鵜養(ウカヒ)が伴(ト モ) 今助(ス)けに来(コ)ね《15》 故(カレ)、ここに邇芸速日命(ニギハヤヒノミコト)参(マヰ)赴(オモム)き て、天つ神の御子に白(マヲ)さく、「天つ神の御子、天降(アモ)りましぬと聞き しかば、追ひて参(マヰ)降(クダ)り来(キ)つ」とまをして、即(スナハ)ち天 津瑞(アマツシルシ)を献りて仕へ奉りき。故(カレ)、邇芸速日命(ニギハヤヒノ ミコト)、登美毘古(トミビコ)が妹(イモ)登美夜毘売(トミヤビメ)を娶(メ ト)して生みし子、宇麻志麻遅命(ウマシマヂノミコト)。こは物部連(モノノベノ ムラジ)・穂積臣(ホヅミノオミ)・○<女へんに「采」>臣(ウネメノオミ)の祖 (オヤ)なり。故(カレ)、かく荒ぶる神等(ドモ)を言(コト)向(ム)け平和 (ヤハ)し、、伏(マツロ)はぬ人等(ドモ)を退(ソ)け撥(ハラ)ひて、畝火 (ウネビ)の白祷原宮(カシハラノミヤ)に坐(イマ)して、天(アメ)の下(シ タ)治(シ)らしめしき。 −−−−− 石王版「古事記」44 −−−−− 5 伊須気余理比売(イスケヨリヒメ) 故(カレ)、日向(ヒムカ)に坐(イマ)しし時、阿多(アタ)の小椅君(ヲバシノ キミ)の妹(イモ)、名は阿比良比売(アヒラヒメ)を娶(メト)して生みし子、多 芸志美美命(タギシミミノミコト)、次に岐須美美命(キスミミノミコト)、二柱坐 (イマ)しき。然れども更に大后(オホキサキ)とせむ美人(ヲトメ)を求(マ)ぎ たまひし時、大久米命(オホクメノミコト)白(マヲ)さく、「ここに媛女(ヲト メ)あり。こを神の御子と謂(イ)ふ。その神の御子と謂ふ所以(ユヱ)は、三島湟 咋(ミシマノミゾクヒ)の女(ムスメ)、名は勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)、 その容姿(カタチ)麗美(ウルハ)しかりき。故(カレ)、美和(ミワ)の大物主紳 (オホモノヌシノカミ)、見(ミ)感(メ)でて、その美人(ヲトメ)の大便(ク ソ)まる時、丹塗矢(ニヌリヤ)に化(ナ)りて、その大便(クソ)まる溝(ミゾ) より流れ下りて、その美人(ヲトメ)のほとを突きき。ここにその美人驚きて、立ち 走りいすすきき。 すなはちその矢を将(モ)ち来て、床の辺(ヘ)に置けば、忽(タチマ)ちに麗(ウ ルハ)しき壮夫(ヲトコ)に成りぬ。すなはちその美人を娶(メト)して生みし子、 名は富登多多良伊須須岐比売命(ホトタタライススキヒメノミコト)と謂(イ)ひ、 亦の名は比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)と謂ふ。こはその ほとといふ事を悪(ニク)みて、後(ノチ)に名を改めつるぞ。故(カレ)、ここを 以(モ)ちて神の御子と謂(イ)ふなり」とまをしき。 ここに七媛女(ナナヲトメ)、高佐士野(タカサジノ)に遊行(アソ)びしに、伊須 気余理比売(イスケヨリヒメ)その中にありき。ここに大久米命(オホクメノミコ ト)その伊須気余理比売を見て、歌を以(モ)ちて天皇(スメラミコト)に白(マ ヲ)して曰(イ)はく、 倭(ヤマト)の 高佐士野(タカジノ)を 七(ナナ)行く 媛女(ヲトメ)ども  誰(タレ)れをしまかむ《16》 ここに伊須気余理比売(イスケヨリヒメ)は、その媛女(ヲトメ)等(ドモ)の前 (サキ)に立てり。すなはち天皇、その媛女(ヲトメ)等(ドモ)を見て、御心(ミ ココロ)に伊須気余理比売の最前(イヤサキ)に立てるを知らして、歌以(モ)ちて 答曰(コタ)へたまはく、 かつがつも いや先(サキ)立(ダ)てる 兄(エ)をしまかむ《17》 ここに大久米命、天皇の命(ミコト)以(モ)ちて、その伊須気余理比売に詔(ノ) りし時、その大久米命(オホクメノミコト)の黥(サ)ける利目(トメ)を見て、奇 (アヤ)しと思ひて歌ひて曰(イ)はく、 あめつつ ちどりましとと など黥(サ)ける利目(トメ)《18》 ここに大久米命、答へて歌ひて曰はく、 媛女(ヲトメ)に 直(タダ)に逢はむと 我(ワ)が黥(サ)ける利目(トメ) 《19》 故(カレ)、その嬢子(ヲトメ)、「仕へ奉らむ」と白(マヲ)しき。 ここにその伊須気余理比売命の家、狭井河(サヰガハ)の上(ヘ)にありき。天皇、 その伊須気余理比売の許(モト)幸行(イデマ)して、一宿(ヒトヨ)御寝(ミネ) 坐(マ)しき。その河を佐韋河(サヰガハ)と謂(イ)ふ由(ユヱ)は、その河の辺 (ヘ)に山ゆり草多(サハ)にありき。かれ、その山ゆり草の名を取りて、佐韋河 (サヰガハ)と号(ナヅ)けき。山ゆり草の本の名は佐韋(サヰ)と云ひき。後(ノ チ)にその伊須気余理比売宮の内に参入(マヰ)りし時、天皇御歌に曰(ノ)りたま はく、 葦原(アシハラ)の しけしき小屋(ヲヤ)に 菅畳(スガタタミ) いやさや敷き て 我が二人寝(ネ)し《20》 然して生(ア)れ坐(マ)しし御子の名は、日子八井命(ヒコヤヰノミコト)、次に 神八井耳命(カムヤヰミミノミコト)、次に神沼河耳命(カムヌナカハミミノミコ ト)、三柱なり。 −−−−− 石王版「古事記」45 −−−−− 6 当芸志美美命(タギシミミノミコト)の反逆 故(カレ)、天皇(スメラミコト)崩(カムアガ)りましし後(ノチ)、その庶兄 (ママセ)当芸志美美命(タギシミミノミコト)、その適后(オホキサキ)伊須気余 理比売(イスケヨリヒメ)を娶(メト)せし時、その三(ミハシラ)の弟(オト)を 殺さむとして謀(ハカ)りし間に、その御祖(ミオヤ)伊須気余理比売、患(ウレ) へ苦しみて、歌もちてその御子(ミコ)等(タチ)に知らしめたまひき。歌ひて曰 (イ)はく、 狭井河(サヰガハ)よ 雲立ちわたり 畝火山(ウネビヤマ) 木(コ)の葉さやぎ ぬ 風吹かむとす《21》 また歌ひて曰はく、 畝火山(ウネビヤマ) 昼は雲とゐ 夕されば 風吹かむとそ 木(コ)の葉(ハ) 騒(サヤ)げる《22》 ここにその御子(ミコ)聞き知りて驚き、すなはち当芸志美美(タギシミミ)を殺さ むとしたまひし時、神沼河耳命(カムヌナカハミミノミコト)、その兄(イロエ)神 八井耳命(カムヤヰミミノミコト)に白(マヲ)さく、「汝(ナ)ね、汝(イマシ) 命(ミコト)、兵(ツハモノ)を持ちて入(イ)りて、当芸志美美(タギシミミ)を 殺したまへ」とまをしき。故(カレ)、兵(ツハモノ)を持ちて入りて殺さむとせし 時、手足わななきて、得(エ)殺したまはざりき。故(カレ)、ここにその弟(イロ ド)神沼河耳命(カムヌナカハミミノミコト)、その兄(イロエ)の持てる兵(ツハ モノ)を乞ひ取りて、入(イ)りて当芸志美美を殺したまひき。故(カレ)、またそ の御名(ミナ)を称(タタ)へて、建沼河耳命(タケヌナカハミミノミコト)と謂 (イ)ふ。 ここに神八井耳命(カムヤヰミミノミコト)、弟(イロド)建沼河耳命(タケヌナカ ハミミノミコト)に譲りて曰(マヲ)さく、「吾は仇(アタ)を殺すこと能(アタ) はず。汝(イマシ)命(ミコト)はすでに仇をえ殺したまひき。故(カレ)、吾 (ア)は兄(アニ)なれども上(カミ)となるべからず。ここをもちて汝(イマシ) 命(ミコト)上(カミ)となりて、天の下治(シ)らしめせ。僕(ア)は汝(イマ シ)命(ミコト)を扶(タス)けて、忌人(イハヒビト)となりて仕へ奉(マツ)ら む」とまをしき。故(カレ)、その日子八井命は、茨田連(マムタノムラジ)・手島 連(テシマノムラジ)の祖(オヤ)。神八井耳命は、意富臣(オホノオミ)・小子部 連(チヒサコベノムラジ)・坂合部連(サカヒベノムラジ)・火君(ヒノキミ)・大 分君(オホキタノキミ)・阿蘇君(アソノキミ)・筑紫の三家連(ミヤケノムラジ) ・雀部臣(サザキベノオミ)・雀部造(サザキベノミヤツコ)・小長谷造(ヲハツセ ノミヤツコ)・都祁直(ツケノアタヒ)・伊余国造(イヨノクニノミヤツコ)・科野 国造(シナノノクニノミヤツコ)・道奥(ミチノク)の石城国造(イハキノクニノミ ヤツコ)・常道(ヒタチ)の仲国造(ナカノクニノミヤツコ)・長狭国造(ナガサノ クニノミヤツコ)・伊勢の船木直(フナキノアタヒ)・尾張の丹波臣(ニハノオミ) ・島田臣等の祖(オヤ)なり。神沼河耳命は天の下治(シ)らしめしき。 凡(オホヨ)そこの神倭伊波礼毘古天皇(カムヤマトイハレビコノスメラミコト)の 御年(ミトシ)、壱佰参拾漆歳(モモチマリミソマリナナトセ)。御陵(ミハカ)は 畝火山(ウネビヤマ)の北の方の白梼尾(カシノヲ)の上(ヘ)にあり。 −−−−− 石王版「古事記」47 −−−−− 安寧(アンネイ)天皇 師木津日子玉手見命(シキツヒコタマデミノミコト)、片塩(カタシホ)の浮穴宮 (ウキアナノミヤ)に坐(イマ)しまして、天(アメ)の下(シタ)治(シ)らしめ しき。この天皇、河俣毘売(カハマタビメ)の兄、県主(アガタヌシ)波延(ハエ) の女(ムスメ)、阿久斗比売(アクトヒメ)を娶(メト)して生みましし御子、常根 津日子伊呂泥命(トコネツヒコイロネノミコト)。次に大倭日子○<金へんに 「且」>友命(オホヤマトヒコスキトモノミコト)、次に師木津日子命(シキツヒコ ノミコト)。この天皇の御子等(タチ)、并(アハ)せて三柱の中(ウチ)、大倭日 子○<金へんに「且」>友命(オホヤマトヒコスキトモノミコト)は、天(アメ)の 下(シタ)治(シ)らしめしき。 次に師木津日子命(シキツヒコノミコト)の子、二王(フタミコ)坐(イマ)しき。 一(ヒトハシラ)の子孫(コ)は、伊賀の須知(スチ)の稲置(イナキ)・那婆理 (ナバリ)の稲置・三野の稲置の祖(オヤ)。一(ヒトハシラ)の子、和知都美命 (ワチツミノミコト)は、淡道(アハヂ)の御井宮(ミヰノミヤ)に坐しき。故(カ レ)、この王(ミコ)、二(フタハシラ)の女(ムスメ)ありき。兄(イロネ)の名 は蝿伊呂泥(ハヘイロネ)。亦(マタ)の名は意富夜麻登久邇阿札比売(オホヤマト クニアレヒメノミコト)。弟(イロド)の名は蝿伊呂杼(ハヘイロド)なり。天皇の 御年、肆拾玖歳(ヨソヂアマリココノトセ)。御陵(ミハカ)は畝火山(ウネビヤ マ)の御陰(ミホト)にあり。 −−−−− 石王版「古事記」46 −−−−− 綏靖(スイゼイ)天皇 神沼河耳命(カムヌナカハミミノミコト)、葛城(カヅラキ)の高岡宮に坐(イマ) して、天(アメ)の下(シタ)治(シ)らしめしき。この天皇、師木県主(シキノア ガタヌシ)の祖(オヤ)河俣毘売(カハマタビメ)を娶(メト)して生みましし御 子、師木津日子(シキツヒコ)玉手見命(タマデミノミコト)。一柱。天皇の御年 (ミトシ)、肆拾伍歳(ヨソヂアマリイツトセ)。御陵(ミハカ)は衝田崗(ツキタ ノヲカ)にあり。 石王版「古事記」48 −−−−− 懿徳(イトク)天皇 大倭日子○<金へんに「且」>友命(オホヤマトヒコスキトモノミコト)、軽(カ ル)の境崗宮(サカヒヲカノミヤ)に坐(イマ)して、天の下治(シ)らしめしき。 この天皇、師木県主(シキノアガタヌシ)の祖(オヤ)賦登麻和訶比売命(フトマワ カヒメノミコト)、亦(マタ)の名は飯日比売命(イヒヒヒメノミコト)を娶(メ ト)して、生みましし御子、御真津日子訶恵志泥命(ミマツヒコカヱシネノミコ ト)、次に多芸志比古命(タギシヒコノミコト)。二柱。かれ、御真津日子訶恵志泥 命(ミマツヒコカヱシネノミコト)は天(アメ)の下治(シ)らしめしき。次に多芸 志比古命(タギシヒコノミコト)は、血沼之別(チヌノワケ)・多遅麻(タヂマ)の 竹別(タケノワケ)・葦井(アシヰ)の稲置(イナキ)の祖(オヤ)。天皇の御年、 肆拾伍歳(ヨソヂアマリイツトセ)。御陵(ミハカ)は畝火山(ウネビヤマ)の真名 子谷(マナゴタニ)の上(ヘ)にあり。 −−−−− 石王版「古事記」49 −−−−− 孝昭(カウセウ)天皇 御真津日子訶恵志泥命(ミマツヒコカヱシネノミコト)、葛城(カヅラキ)の掖上宮 (ワキガミノミヤ)に坐(イマ)して天の下治(シ)らしめき。この天皇、尾張連 (ヲハリノムラジ)の祖(オヤ)奥津余曽(オキツヨソ)の妹(イモ)、名は余曽多 本毘売命(ヨソタホビメノミコト)を娶(メト)して生みましし御子、天押帯日子命 (アメオシタラシヒコノミコト)、次に大倭帯日子国押人命(オホヤマトタラシヒコ クニオシヒトノミコト)。二柱。かれ、弟(イロド)帯日子国忍人命(タラシヒコク ニオシヒトノミコト)は天の下治(シ)らしめき。兄(イロエ)天押帯日子命(アメ オシタラシヒコノミコト)は、春日臣(カスガノオミ)・大宅臣(オホヤケノオミ) ・粟田臣(アハタノオミ)・小野臣(ヲノノオミ)・柿本臣(カキノモトノオミ)・ 壱比韋臣(イチヒヰノオミ)・大坂臣(オホサカノオミ)・阿那臣(アナノオミ)・ 多紀臣(タキノオミ)・羽栗臣(ハグリノオミ)・知多臣(チタノオミ)・牟耶臣 (ムザノオミ)・都怒山臣(ツノヤマノオミ)・伊勢の飯高君(イヒタカノキミ)・ 壱師君(イチシノキミ)・近淡海国造(チカツアフミノクニノミヤツコ)の祖なり。 天皇の御年、玖拾参歳(ココノソヂアマリミトセ)。御陵(ミハカ)は掖上(ワキガ ミ)の博多山(ハカタヤマ)の上(ヘ)にあり。 −−−−− 王版「古事記」50 −−−−− 孝安(カウアン)天皇 大倭帯日子国押人命(オホヤマトタラシヒコクニオシヒトノミコト)、葛城(カヅラ キ)の室(ムロ)の秋津島宮(アキヅシマノミヤ)に坐(イマ)して、天(アメ)の 下治(シ)らしめしき。この天皇(スメラミコト)、姪(メヒ)忍鹿比売命(オシカ ヒメノミコト)を娶(メト)して、生みましし御子(ミコ)、大吉備諸進命(オホキ ビモロススミノミコト)、次に大倭根子日子賦斗邇命(オホヤマトネコヒコフトニノ ミコト)。二柱。かれ、大倭根子日子賦斗邇命は、天の下治(シ)らしめしき。天皇 の御年、壱佰弐拾参歳(モモアマリハタチアマリミトセ)。御陵(ミハカ)は玉手岡 (タマデノヲカ)の上(ヘ)にあり。 −−−−− 石王版「古事記」51 −−−−− 孝霊(カウレイ)天皇 大倭根子日子賦斗邇命(オホヤマトネコヒコフトニノミコト)、黒田の廬戸宮(イホ トノミヤ)に坐(イマ)して、天(アメ)の下治(シ)らしめしき。この天皇、十市 県主(トヲチノアガタヌシ)の祖(オヤ)、大目(オホメ)の女(ムスメ)、名は細 比売命(クハシヒメノミコト)を娶(メト)して、生みましし御子(ミコ)、大倭根 子日子国玖琉命(オホヤマトネコヒコクニクルノミコト)。一柱。また春日(カス ガ)の千々速真若比売(チチハヤマワカヒメ)を娶(メト)して、生みましし御子、 千々速比売命(チチハヤヒメノミコト)。一柱。また意富夜麻登玖邇阿礼比売(オホ ヤマトクニアレヒメノミコト)を娶(メト)して、生みましし御子、夜麻登登母母曽 毘売命(ヤマトトモモソビメノミコト)、次に日子刺肩別命(ヒコサシカタワケノミ コト)、次に比古伊佐勢理毘古命(ヒコイサセリビコノミコト)、亦(マタ)の名は 大吉備津日子命(オホキビツヒコノミコト)、次に倭飛羽矢若屋比売(ヤマトトビハ ヤワカヤヒメ)。四柱。またその阿礼比売命(アレヒメノミコト)の弟(イロド)、 蝿伊呂杼(ハヘイロド)を娶(メト)して、生みましし御子、日子寢間命(ヒコサメ マノミコト)、次に若日子建吉備津日子命(ワカヒコタケキビツヒコノミコト)。二 柱。この天皇の御子(ミコ)等(タチ)并(アハ)せて八柱。男王(ヒコミコ)五 (イツハシラ)、女王(ヒメミコ)三(ミハシラ)。 かれ、大倭根子日子国玖琉命(オホヤマトネコヒコクニクルノミコト)は天(アメ) の下治(シ)らしめしき。大吉備津日子命(オホキビツヒコノミコト)と若建吉備津 日子命(ワカタケキビツヒコノミコト)とは、二柱相(アヒ)副(ソ)ひて、針間 (ハリマ)の氷河(ヒカハ)の前(サキ)に忌瓮(イハヒヘ)を居(ス)ゑて、針間 を道(ミチ)の口(クチ)として、吉備国(キビノクニ)を言(コト)向(ム)け和 (ヤハ)したまひき。かれ、この大吉備津日子命(オホキビツヒコノミコト)は、吉 備の上道臣(カミツミチノオミ)の祖(オヤ)なり。次に若日子建吉備津日子命(ワ カヒコタケキビツヒコノミコト)は、吉備の下道臣(シモツミチノオミ)・笠臣(カ サノオミ)の祖(オヤ)。次に日子寤間命(ヒコサメマノミコト)は、針間の牛鹿臣 (ウシカノオミ)の祖(オヤ)なり。次に日子刺肩別命(ヒコサシカタワケノミコ ト)は、高志(コシ)の利波臣(トナミノオミ)・豊国(トヨクニ)の国前臣(クニ サキノオミ)・五百原君(イホハラノキミ)・角鹿済直(ツヌカノワタリノアタヒ) の祖なり。天皇の御年、壱佰陸歳(モモアマリムトセ)。御陵(ミハカ)は片岡の馬 坂(ウマサカ)の上(ヘ)にあり。 −−−−− 石王版「古事記」52 −−−−− 孝元(カウグヱン)天皇 大倭根子日子国玖琉命(オホヤマトネコヒコクニクルノミコト)、軽(カル)の堺原 宮(サカヒハラノミヤ)に坐(イマ)して天(アメ)下治(シ)らしめき。この天 皇、穂積臣(ホヅミノオミ)等(ラ)の祖(オヤ)内色許男命(ウツシコヲノミコ ト)の妹(イモ)、内色許売命(ウツシコメノミコト)を娶(メト)して生みましし 御子(ミコ)、大毘古命(オホビコノミコト)、次に少名日子建猪心命(スクナヒコ タケヰゴコロノミコト)、次に若倭根子日子大毘々命(ワカヤマトネコヒコオホビビ ノミコト)。三柱。また内色許男命(ウツシコヲノミコト)の女(ムスメ)、伊迦賀 色許売命(イカガシコメノミコト)を娶(メト)して生みましし御子、比古布都押之 信命(ヒコフツオシノマコトノミコト)。また河内青玉(カフチノアヲタマ)の女 (ムスメ)、名は波邇夜須毘売(ハニヤスビメ)を娶(メト)して生みましし御子、 建波邇夜須毘古命(タケハニヤスビコノミコト)。一柱。この天皇の御子(ミコ)等 (タチ)并(アハ)せて五柱なり。 かれ、若倭根子日子大毘々命(ワカヤマトネコヒコオホビビノミコト)は天(アメ) の下治(シ)らしめしき。その兄(イロエ)大毘古命(オホビコノミコト)の子、建 沼河別命(タケヌナカハワケノミコト)は、安倍臣(アベノオミ)等(ラ)の祖(オ ヤ)。次に比古伊那許士別命(ヒコイナコジワケノミコト)。こは膳臣(カシハデノ オミ)の祖(オヤ)なり。比古布都押之信命(ヒコフツオシノマコトノミコト)、尾 張連(ヲハリノムラジ)等(ラ)の祖(オヤ)意富那毘(オホナビ)の妹(イモ)、 葛城(カヅラキ)の高千那毘売(タカチナビメ)を娶(メト)して生みし子、味師内 宿禰(ウマシウチノスクネ)。こは山代の内臣(ウチノオミ)の祖なり。また木国造 (キノクニノミヤツコ)の祖(オヤ)宇豆比古(ウヅヒコ)の妹、山下影日売(ヤマ シタカゲヒメ)を娶(メト)して生みし子、建内宿禰(タケシウチノスクネ)。この 建内宿禰の子并(アハ)せて九(ココノ)たり。男七(ナナ)たり、女二(フ)た り。 波多八代宿禰(ハタノヤシロノスクネ)は、波多臣(ハタノオミ)・林臣(ハヤシノ オミ)・波美臣(ハミノオミ)・星川臣(ホシカハノオミ)・淡海臣(アフミノオ ミ)・長谷部君(ハツセベノキミ)の祖(オヤ)なり。次に許勢小柄宿禰(コセノヲ カラノスクネ)は、許勢臣(コセノオミ)・雀部臣(サザキベノオミ)・軽部臣(カ ルベノオミ)の祖(オヤ)なり。次に蘇賀石河宿禰(ソガノイシカハノスクネ)は、 蘇我臣(ソガノオミ)・川辺臣(カハベノオミ)・田中臣・高向臣(タカムクノオ ミ)・小治田臣(ヲハリダノオミ)・桜井臣・岸田臣(キシダノオミ)等(ラ)の祖 (オヤ)なり。次に平群都久宿禰(ヘグリノツクノスクネ)は、平群臣(ヘグリノオ ミ)・佐和良臣(サワラノオミ)・馬御○<「織」の糸へんの代わりに木へん>」連 (ウマノミクヒノムラジ)等(ラ)の祖(オヤ)なり。次に木角宿禰(キノツノノス クネ)は、木臣(キノオミ)・都奴臣(ツヌノオミ)・坂本臣(サカモトノオミ)の 祖(オヤ)なり。次に久米能摩伊刀比売(クメノマイトヒメ)、次に怒能伊呂比売 (ノノイロヒメ)、次に葛城(カヅラキノ)長江(ナガエノ)曽都毘古(ソツビコ) は、玉手臣(タマデノオミ)・的臣(イクハノオミ)・生江臣(イクエノオミ)・阿 芸那臣(アギナノオミ)等(ラ)の祖(オヤ)なり。また若子宿禰(ワクゴノスク ネ)は、江野間臣(エノマノオミ)の祖(オヤ)なり。この天皇の御年(ミトシ)は 伍拾漆歳(イソヂアマリナナトセ)。御陵(ミハカ)は剣池(ツルギノイケ)の中 (ナカノ)崗(ヲカ)の上(ヘ)にあり。 −−−−− 石王版「古事記」53 −−−−− 開化(カイクワ)天皇 若倭根子日子大毘々命(ワカヤマトネコヒコオホビビノミコト)、春日(カスガ)の 伊耶河宮(イザカハノミヤ)に坐(イマ)して天(アメ)の下治(シ)らしめき。こ の天皇、旦波(タニハ)の大県主(オホアガタヌシ)、名は由碁理(ユゴリ)の女 (ムスメ)、竹野比売(タカノヒメ)を娶(メト)して生みましし御子(ミコ)、比 古由牟須美命(ヒコユムスミノミコト)。一柱。また庶母(ママハハ)伊迦賀色許売 命(イカガシコメノミコト)を娶(メト)して、生みましし御子(ミコ)御真木入日 子印恵命(ミマキイリヒコイニヱノミコト)、次に御真津比売命(ミマツヒメノミコ ト)。二柱。また丸邇臣(ワニノオミ)の祖(オヤ)日子国意祁都命(ヒコクニオケ ツノミコト)の妹(イモ)、意祁都比売命(オケツヒメノミコト)を娶(メト)して 生みましし御子(ミコ)、日子坐王(ヒコイマスノミコ)。一柱。また葛城(カヅラ キ)の垂見宿禰(タルミノスクネ)の女、○<つちへんがない「壇」の右に「鳥」> 比売(ワシヒメ)を娶(メト)して生みましし御子(ミコ)、建豊波豆羅和気(タケ トヨハヅラワケ)。一柱。この天皇の御子等并せて五柱なり。男王(ヒコミコ)四 (ヨハシラ)、女王(ヒメミコ)一(ヒトハシラ)。 かれ、御真木入日子印恵命(ミマキイリヒコイニヱノミコト)は天の下治(シ)らし めき。その兄(アニ)比古由牟須美王(ヒコユムスミノミコ)の子、大筒木垂根王 (オホツツキタリネノミコ)、次に讃岐垂根王(サヌキタリネノミコ)。二王。この 二王(フタミコ)の女五柱(イツハシラ)坐(イマ)しき。次に日子坐王(ヒコイマ スノミコ)、山代(ヤマシロ)の荏名津比売(エナツヒメ)、亦の名は苅幡戸弁(カ リハタトベ)を娶(メト)して生みし子、大俣王(オホマタノミコ)、次に小俣王 (ヲマタノミコ)、次に志夫美宿禰王(シブミノスクネノミコ)。三柱。また春日 (カスガ)の建国勝戸売(タケクニカツトメ)の女、名は沙本(サホ)の大闇見戸売 (オホクラミトメ)を娶(メト)して生みし子、沙本毘古王(サホビコノミコ)、次 に袁耶本王(ヲザホノミコ)、次に沙本毘売命(サホビメノミコト)、亦の名は佐波 遅比売(サハヂヒメ)。この沙本毘売命は、伊久米天皇(イクメノスメラミコト)の 后(キサキ)となりき。次に室毘古王(ムロビコノミコ)。四柱 また近淡海(チカツアフミ)の御上(ミカミ)の祝(ハフリ)がもちいつく天之御影 神(アメノミカゲノカミ)の女(ムスメ)、息長水頼比売(オキナガノミヅヨリヒ メ)を娶(メト)して生みし子は、丹波比古多々須美知能宇斯王(タニハノヒコタタ スミチノウシノミコ)、次に水穂之真若王(ミヅホノマワカノミコ)、次に神大根王 (カムオホネノミコ)、亦の名は八瓜入日子王(ヤツリノイリヒコノミコ)、次に水 穂五百依比売(ミヅホノイホヨリヒメ)、次に御井津比売(ミヰツヒメ)。五柱。ま たその母の弟(イロド)袁祁都比売命(ヲケツヒメノミコト)を娶(メト)して生み し子、山代(ヤマシロ)の大筒木真若王(オホツツキマワカノミコ)、次に比古意須 王(ヒコオスノミコ)、次に伊理泥王(イリネノミコ)。三柱。凡(オホヨ)そ日子 坐王(ヒコイマスノミコ)の子、并せて十一王(トヲアマリヒトミコ)なり。 かれ、兄大俣王(オホマタノミコ)の子、曙立王(アケタツノミコ)、次に菟上王 (ウナカミノミコ)。二柱。この曙立王は、伊勢の品遅部君(ホムヂベノキミ)・伊 勢の佐那造(サナノミヤツコ)の祖(オヤ)なり。菟上王(ウナカミノミコ)は、比 売陀君(ヒメダノキミ)の祖(オヤ)なり。次に小俣君は、当麻勾君(タギマノマガ リノキミ)の祖(オヤ)なり。次に志夫美宿禰王(シブミノスクネノミコ)は、佐々 君(ササノキミ)の祖(オヤ)なり。次に沙本毘古王(サホビコノミコ)は、日下部 連(クサカベノムラジ)・甲斐国造(カヒノクニノミヤツコ)の祖(オヤ)なり。次 に袁耶本王(ヲギホノミコ)は、葛野之別(カヅノワケ)・近淡海(チカツアフミ) の蚊野之別(カノノワケ)の祖(オヤ)なり。次に室毘古王(ムロビコノキミ)は、 若狭(ワカサ)の耳別(ミミノワケ)の祖(オヤ)なり。その美知能宇志王(ミチノ ウシノミコ)、丹波(タニハ)の河上(カハカミ)の麻須郎女(マスノイラツメ)を 娶(メト)して生みし子、比婆須比売命(ヒバスヒメノミコト)、次に真砥野比売命 (マトノヒメノミコト)、次に弟比売命(オトヒメノミコト)、次に朝廷別王(ミカ ドワケノミコ)。四柱。この朝廷別王は、三川(ミカハ)の穂別(ホノワケ)の祖な り。 この美知能宇斯王(ミチノウシノミコ)の弟(イロド)、水穂真若王(ミヅホノマワ カノミコ)は、近淡海(チカツアフミ)の安直(ヤスノアタヒ)の祖(オヤ)なり。 次に神大根王(カムオホネノミコ)は、三野国(ミノノクニ)の本巣国造(モトスノ クニノミヤツコ)・長幡部連(ナガハタベノムラジ)の祖なり。次に山代(ヤマシ ロ)の大筒木真若王(オホツツキマワカノミコ)、同母弟(イロド)伊理泥王(イリ ネノミコ)の女(ムスメ)、丹波(タニハ)の阿治佐波毘売(アヂサハビメ)を娶 (メト)して生みし子、迦邇米雷王(カニメイカヅチノミコ)。この王(ミコ)、丹 波(タニハ)の遠津臣(トホツオミ)の女、名は高材比売(タカキヒメ)を娶(メ ト)して生みし子、息長宿禰王(オキナガノスクネノミコ)。この王(ミコ)、葛城 (カヅラキ)の高額比売(タカヌカヒメ)を娶(メト)して生みし子、息長帯比売命 (オキナガタラシヒメノミコト)、次に虚空津比売命(ソラツヒメノミコト)、次に 息長日子王(オキナガヒコノミコ)。三柱。この王は、吉備(キビ)の品遅君(ホム ヂノキミ)・針間(ハリマ)の阿宗君(アソノキミ)の祖(オヤ)なり。また息長宿 禰王(オキナガノスクネノミコ)、河俣(カハマタ)の稲依毘売(イナヨリビメ)を 娶(メト)して生みし子、大多牟坂王(オホタムサカノミコ)、こは多遅麻国造(タ ヂマノクニノミヤツコ)の祖(オヤ)なり。 上(カミ)に謂(イ)へる建豊波豆羅和気王(タケトヨハヅラワケノミコ)は、道守 臣(チモリノオミ)・忍海部造(オシヌミベノミヤツコ)・御名部造(ミナベノミヤ ツコ)・稲羽の忍海部(オシヌミベ)・丹波(タニハ)の竹野別(タケノワケ)・依 網(ヨサミ)の阿毘古(アビコ)等の祖(オヤ)なり。天皇の御年(ミトシ)は陸拾 参歳(ムソヂアマリミトセ)。御陵(ミハカ)は伊耶河(イザカハ)の坂の上にあ り。 −−−−− 石王版「古事記」54 崇神(シウジン)天皇 1 后妃(コウヒ)と御子(ミコ) 御真木入日子印恵命(ミマキイリヒコイニヱノミコト)、師木(シキ)の水垣宮(ミ ヅカキノミヤ)に坐(イマ)して天(アメ)の下治(シ)らしめしき。この天皇(ス メラミコト)、木国造(キノクニノミヤツコ)、名は荒河刀弁(アラカハトベ)の女 (ムスメ)、遠津年魚目々微比売(トホツアユメマクハシヒメ)を娶(メト)して生 みましし御子、豊木入日子命(トヨキイリヒコノミコト)、次に豊○<金へんに 「且」>入日売命(トヨスキイリヒメノミコト)。二柱。また尾張連(ヲハリノムラ ジ)の祖(オヤ)意富阿麻比売(オホアマヒメ)を娶(メト)して生みましし御子、 大入杵命(オホイリキノミコト)、次に八坂之入日命(ヤサカノイリヒコノミコ ト)、次に沼名木之入日売命(ヌナキノイリヒメノミコト)、次に十市之入日売命 (トヲチノイリヒメノミコト)。四柱。 また大毘古命(オホビコノミコト)の女、御真津比売命(ミマツヒメノミコト)を娶 (メト)して生みましし御子、伊玖米入日子伊沙知命(イクメイリヒコイサチノミコ ト)、次に伊耶能真若命(イザノマワカノミコト)、次に国片比売命(クニカタヒメ ノミコト)、次に千々都久和比売命(チチツクワヒメノミコト)、次に伊賀比売命 (イガヒメノミコト)、次に倭日子命(ヤマトヒコノミコト)。六柱。この天皇の御 子等、并(アハ)せて十二(トヲアマリフタ)柱なり。男王(ヒコミコ)七(ナナハ シラ)、女王(ヒメノミコ)五(イツハシラ)なり。かれ、伊久米伊理毘古伊佐知命 (イクメイリビコイサチノミコト)は天の下治(シ)らしめしき。次に豊木入日子命 (トヨキイリヒコノミコト)は、上毛野(カミツケノ)・下毛野君(シモツケノキ ミ)等(ラ)の祖なり。妹(イモ)豊○<金へんに「且」>比売命(トヨスキヒメノ ミコト)は、伊勢大神(イセノオホカミ)の宮を拝(イツ)き祭りき。次に大入杵命 (オホイリキノミコト)は、能登臣(ノトノオミ)の祖なり。次に倭日子命(ヤマト ヒコノミコト)。この王(ミコ)の時に、始めて陵(ハカ)に人垣(ヒトガキ)を立 てき。 −−−−− 石王版「古事記」55 −−−−− 2 三輪山(ミワヤマ)の大物主神(オホモノヌシノカミ) この天皇(スメラミコト)の御世(ミヨ)に○<にんべんに「殳」>病(エヤミ)多 (サハ)に起りて、人民(タミ)尽きなむとしき。ここに天皇愁(ウレ)へ歎きたま ひて、神牀(カムトコ)に坐(イマ)しし夜、大物主大神(オホモノヌシノオホカ ミ)御夢(ミイメ)に顕(アラハ)れて曰(ノ)りたまはく、「こは我が御心なり。 かれ、意富多々泥古(オホタタネコ)を以(モ)ちて、我が前を祭らしめたまはば、 神の気(ケ)起らず、国も安平(ヤスラケ)くあらむ」とのりたまひき。ここを以 (モ)ちて駅使(ハユマヅカヒ)を四方(ヨモ)に班(アカ)ちて、意富多々泥古 (オホタタネコ)といふ人を求めたまひし時、河内(カフチ)の美努村(ミノノム ラ)にその人を見得(エ)て貢進(タテマツ)りき。ここに天皇、「汝(イマシ)は 誰(タ)が子ぞ」と問ひ賜へば、答へて曰(マヲ)さく、「僕(ア)は大物主大神 (オホモノヌシノオホカミ)、陶津耳命(スヱツミミノミコト)の女(ムスメ)、活 玉依毘売(イクタマヨリビメ)を娶(メト)して生みましし子、名は櫛御方命(クシ ミカタノミコト)の子、飯肩巣見命(イヒカタスミノミコト)の子、建甕槌命(タケ ミカヅチノミコト)の子、僕(アレ)意富多々泥古(オホタタネコ)ぞ」と白(マ ヲ)しき。 ここに天皇大(イタ)く歓(ヨロコ)びて詔(ノ)りたまはく、「天下(アメノシ タ)平(タヒ)らけく、人民(タミ)栄えむ」とのりたまひて、即(スナハ)ち意富 多々泥古命(オホタタネコノミコト)を以ちて神主(カムヌシ)として、御諸山(ミ モロヤマ)に意富美和之大神(オホミワノオホカミ)の前を拝(イツキ)祭(マツ) りたまひき。また伊迦賀色許男命(イカガシコヲノミコト)に仰せて、天(アメ)の 八十(ヤソ)びらかを作り、天神(アマツカミ)地祇(クニツカミ)の社(ヤシロ) を定め奉(マツ)りたまひき。また宇陀(ウダ)の墨坂神(スミサカノカミ)に赤色 の楯(タテ)矛(ホコ)を祭り、また大坂神(オホサカノカミ)に黒色(クロイロ) の楯(タテ)矛(ホコ)を祭り、また坂の御尾(ミヲ)の神また河の瀬の神に、悉 (コトゴト)に遺忘(ワス)るることなく幣帛(ミテグラ)を奉(タテマツ)りたま ひき。これによりて○<にんべんに「殳」>(エヤミ)の気(ケ)悉(コトゴト)に 息(ヤ)みて、国家(クニ)安平(ヤスラケ)くなりき。 この意富多々泥古(オホタタネコ)といふ人を神の子と知りし所以(ユヱ)は、上に 云(イ)へる活玉依毘売(イクタマヨリビメ)、その容姿(カタチ)端正(キラキ ラ)しくありき。ここ壮夫(ヲトコ)ありて、その形姿威儀(カタチスガタ)時に比 (タグヒ)なきが、夜半(ヨナカ)の時に○<「修」の「彡」の代わりに「黒」>忽 (タチマチ)に到来(キタ)る。かれ、相(アヒ)感(メ)でて共婚(マグハヒ)し て住める間(ホド)に、未だ幾時(イクダ)もあらねば、その美人(ヲトメ)妊身 (ハラ)みぬ。 ここに父母(チチハハ)、その妊身(ハラ)みし事を恠(アヤ)しみて、その女(ム スメ)に問ひて曰(イ)はく、「汝(ナ)は自(オノヅカ)ら妊(ハラ)みぬ。夫 (ヲ)无(ナ)きに何の由(ユヱ)にか妊身(ハラ)める」といへば、答へて曰 (イ)はく、「麗美(ウルハ)しき壮夫(ヲトコ)ありて、その姓名(カバネナ)も 知らぬが、夕(ヨヒ)毎(ゴト)に到来(キタ)りて住める間(ホド)に、自然(オ ノヅカラ)懐妊(ハラ)みぬ」といひき。 ここを以(モ)ちてその父母、その人を知らむと欲(オモ)ひ、その女に誨(ヲシ) へて曰(イ)はく、「赤土(ハニ)を以(モ)ちて床の前に散らし、へその紡麻(ウ ミヲ)を針に貫(ヌ)き、その衣(キヌ)の襴(スソ)に刺(サ)せ」といひき。か れ、教への如くして旦時(アシタ)に見れば、針著(ツ)けし麻(ヲ)は、戸の鉤穴 (カギアナ)より控(ヒ)き通りて出(イ)でて、ただ遺(ノコ)れる麻(ヲ)は三 勾(ミワ)のみなりき。ここに即ち、鉤穴(カギアナ)より出(イ)でし状(サマ) を知りて、糸のまにまに尋ね行けば、美和山(ミワヤマ)に至りて神の社(ヤシロ) に留(トド)まりき。かれ、その神の子とは知りぬ。かれ、その麻(ヲ)の三勾(ミ ワ)遺(ノコ)りしによりて、其地(ソコ)を名づけて美和(ミワ)といふなり。こ の意富多々泥古命(オホタタネコノミコト)は、神君(ミワノキミ)・鴨君(カモノ キミ)の祖(オヤ)なり。 −−−−− 石王版「古事記」56 −−−−− 3 建波邇安王(タケハニヤスノミコ)の反逆 またこの御世(ミヨ)に大毘古命(オホビコノミコト)をば高志道(コシノミチ)に 遣(ツカ)はし、その子建沼河別命(タケヌナカハワケノミコト)をば東(ヒムカ シ)の方(カタ)十二道(トヲアマリフタミチ)に遣(つか)はして、そのまつろは ぬ人等(ヒトドモ)を和平(ヤハサ)しめたまひき。また日子坐王(ヒコイマスノミ コ)をば旦波国(タニハノクニ)に遣はして、玖賀耳之御笠(クガミミノミカサ)、 こは人の名なり、を殺さしめたまひき。かれ、大毘古命(オホビコノミコト)高志国 (トコシノクニ)に罷(マカ)り往(ユ)きし時、腰裳(コシモ)服(ケ)せる少女 (ヲトメ)、山代(ヤマシロ)の幣羅坂(ヘラサカ)に立ちて歌ひて曰(イ)はく、 御真木入日子(ミマキイリビコ)はや 御真木入日子はや 己(オノ)が緒(ヲ)を  盗み殺(シ)せむと 後(シリ)つ戸よ い行き違(タガ)ひ 前つ戸よ い行き 違ひ 窺(ウカカ)はく 知らにと 御真木入日子はや《23》 とうたひき。ここに大毘古命(オホビコノミコト)恠(アヤ)しと思ひて、馬を返し てその少女(ヲトメ)に問ひて曰はく、「汝(ナ)が謂(イ)ひし言(コト)は何の 言ぞ」といひき。ここに少女答へて曰はく、「吾は言(モノイ)はず。ただ歌を詠 (ウタ)ひしのみ」といひて、即ちその所如(ユクヘ)も見えずて忽(タチマ)ち失 (ウ)せにき。 かれ、大毘古命(オホビコノミコト)さらに還(カヘ)り参(マヰ)上(ノボ)り て、天皇に請(コ)ふ時、天皇答へて詔(ノ)りたまはく、「こは山代国(ヤマシロ ノクニ)なるなが庶兄(ママセ)建波邇安王(タケハニヤスノミコ)、邪(キタナ) き心を起せし表(シルシ)ならむのみ。伯父(ヲヂ)、軍(イクサ)を興(オコ)し て行(イデマ)すべし」とのりたまひて、即ち丸邇臣(ワニノオミ)の祖(オヤ)、 日子国夫玖命(ヒコクニブクノミコト)を副(ソ)へて遣(ツカ)はしし時、即ち丸 邇坂(ワニサカ)に忌瓮(イハヒヘ)を居(ス)ゑて罷(マカ)り往(ユ)きき。こ こに山代(ヤマシロ)の和訶羅河(ワカラガハ)に到(イタ)りし時、その建波邇安 王(タケハニヤスノミコ)軍(イクサ)を興して待ち遮(サイギ)り、各河を中に挟 (ハサ)みて、対(ムカ)ひ立ちて相(アヒ)挑(イド)みき。かれ、其地(ソコ) を号(ナヅ)けて伊杼美(イドミ)と謂(イ)ふ。今豆美(イヅミ)と謂(イ)ふ。 ここに日子国夫玖命(ヒコクニブクノミコト)乞ひて云はく、「其廂(ソナタ)の 人、まづ忌矢(イハヒヤ)弾(ハナ)つべし」といひき。ここにその建波邇安王(タ ケハニヤスノミコ)射(イ)つれども得(エ)中(ア)てざりき。ここに国夫玖命 (クニブクノミコト)の弾(ハナ)ちし矢は、即ち建波邇安王(タケハニヤスノミ コ)を射て死にき。かれ、その軍(イクサ)悉(コトゴト)に破れて逃げ散(アラ) けぬ。ここにその逃ぐる軍を追ひ迫(セ)めて、久須婆(クスバ)の度(ワタリ)に 到(イタ)りし時、皆迫(セ)め窘(タシナ)めらえて、屎(クソ)出(イ)でて褌 (ハカマ)に懸(カカ)りき。かれ、其地(ソコ)を号(ナヅ)けて屎褌(クソバカ マ)と謂ふ。今は久須婆(クスバ)と謂ふ。またその逃ぐる軍(イクサ)を遮(サイ ギ)りて斬(キ)れば、鵜(ウ)の如く河に浮きき。かれ、その河を号(ナヅ)けて 鵜河(ウカハ)と謂(イ)ふ。またその軍士(イクサビト)を斬(キ)りはふりき。 かれ、其地(ソコ)を号(ナヅ)けて波布理曽能(ハフリソノ)と謂(イ)ふ。かく 平(ヤハ)し訖(ヲ)へて、参(マヰ)上(ノボ)りて覆(カヘリゴト)奏(マヲ) しき。 −−−−− 石王版「古事記」57 −−−−− 4 初国(ハツクニ)知らしし天皇(スメラミコト) かれ、大毘古命(オホビコノミコト)は先(サキ)の命(ミコト)のまにまに、高志 国(コシノクニ)に罷(マカ)り行きき。ここに東(ヒムカシ)の方(カタ)より遣 はさえし建沼河別(タケヌナカハワケ)、その父大毘古(オホビコ)と共に相津(ア ヒヅ)に往(ユ)き遇(ア)ひき。かれ、そこを相津と謂(イ)ふ。ここを以(モ) ちて各遣はさえし国の政(マツリゴト)を平(コトム)け和(ヤハ)して覆(カヘリ ゴト)奏(マヲ)しき。ここに天(アメ)の下太平(タヒラ)けく、人民(タミ)富 み栄えき。ここに初めて男の弓端(ユハズ)の調(ミツキ)、女(ヲミナ)の手末 (タナスヱ)の調(ミツキ)を貢(タテマツ)らしめたまひき。かれ、その御世(ミ ヨ)を称(タタ)へて、初国(ハツクニ)知らしし御真木天皇(ミマキノスメラミコ ト)と謂(マヲ)すなり。またこの御世に依網池(ヨサミノイケ)を作り、また軽 (カル)の酒折池(サカヲリノイケ)を作りき。天皇の御歳、壱佰陸拾捌歳(モモチ マリムソアマリヤトセ)。戊寅(ツチノエトラ)の年の十二月(シハス)に崩(カム アガ)りましき。御陵(ミハカ)は山辺道(ヤマノベノミチ)の勾(マガリ)の岡の 上(ヘ)にあり。 −−−−− 石王版「古事記」58 −−−−− 垂仁天皇 1 皇妃と御子 伊久米伊理毘古伊佐知命(イクメイリビコイサチノミコト)、師木(シキ)の玉垣宮 (タマガキノミヤ)に坐(イマ)して天下(アメノシタ)治(シ)らしめしき。この 天皇、沙本毘古命(サホビコノミコト)の妹(イモ)、佐波遅比売命(サハヂヒメノ ミコト)を娶(メト)して生みましし御子(ミコ)、品牟都和気命(ホムツワケノミ コト)。一柱。また旦波比古多々須美知宇斯王(タニハノヒコタタスミチノウシノミ コ)の女(ムスメ)、氷羽州比売命(ヒバスヒメノミコト)を娶(メト)して生みま しし御子、印色入日子命(イニシキノイリヒコノミコト)、次に大帯日子淤斯呂和気 命(オホタラシヒコオシロワケノミコト)、次に大中津日子命(オホナカツヒコノミ コト)、次に倭比売命(ヤマトヒメノミコト)、次に若木入日子命(ワカキイリヒコ ノミコト)。五柱。またその氷羽州比売命(ヒバスヒメノミコト)の弟(イロド)、 沼羽田之入毘売命(ヌバタノイリビメノミコト)を娶(メト)して生みましし御子、 沼帯別命(ヌタラシワケノミコト)、次に伊賀帯日子命(イガタラシヒコノミコ ト)。二柱。 またその沼羽田之入日売命(ヌバタノイリヒメノミコト)の弟(イロド)、阿耶美能 伊理毘売命(アザミノイリビメノミコト)を娶(メト)して生みましし御子(ミ コ)、伊許婆夜和気命(イコバヤワケノミコト)、次に阿耶美都比売命(アザミツヒ メノミコト)。二柱。また大筒木垂根王(オホツツキタリネノミコ)の女、迦具夜比 売命(カグヤヒメノミコト)を娶(メト)して生みましし御子、袁耶弁王(ヲザベノ ミコ)。一柱。また山代(ヤマシロ)の大国之淵(オホクニノフチ)の女、苅羽田刀 弁(カリハタトベ)を娶(メト)して生みましし御子、落別王(オチワケノミコ)、 次に五十日帯日子王(イカタラシヒコノミコ)、次に伊登志別王(イトシワケノミ コ)。またその大国之淵(オホクニノフチ)の女、弟(オト)苅羽田刀弁(カリハタ トベ)を娶(メト)して生みましし御子、石衝別王(イハツクワケノミコ)、次に石 衝毘売命(イハツクビメノミコト)、亦の名は布多遅能伊理毘売命(フタヂノイリビ メノミコト)。二柱。凡(オホヨ)そこの天皇の御子(ミコ)等(タチ)十六王(ト ヲアマリムハシラ)なり。男王(ヒコミコ)十三(トヲアマリミハシラ)、女王(ヒ メミコ)三(ミハシラ)。 かれ、大帯日子淤斯呂和気命(オホタラシヒコオシロワケノミコト)は、天下(アメ ノシタ)治(シ)らしめしき。御身(ミミ)の長(タケ)一丈二寸(ヒトツヱフタ キ)、御脛(ミハギ)の長さ四尺一寸(ヨサカヒトキ)なり。次に印色入日子命(イ ニシキノイリヒコノミコト)は、血沼池(チヌノイケ)を作り、また狭山池(サヤマ ノイケ)を作り、また日下(クサカ)の高津池(タカツノイケ)と作りたまひき。ま た鳥取(トトリ)の河上宮(カハカミノミヤ)に坐(イマ)して、横刀(タチ)壱仟 口(チフリ)を作らしめ、これを石上神宮(イソノカミノカムミヤ)に納め奉(マ ツ)り、すなはちその宮に坐(イマ)して河上部(カハカミベ)を定めたまひき。次 に大中津日子命(オホナカツヒコノミコト)は山辺之別(ヤマノベノワケ)・三枝之 別(サキクサノワケ)・稲木之別(イナキノワケ)・阿太之別(アダノワケ)・尾張 国の三野別(ミノノワケ)・吉備(キビ)の石无別(イハナシノワケ)・許呂母之別 (コロモノワケ)・高巣鹿之別(タカスカノワケ)・飛鳥君(アスカノキミ)・牟礼 之別(ムレノワケ)等(ラ)の祖なり。次に倭比売命(ヤマトヒメノミコト)は、伊 勢大神宮(イセノオホカミノミヤ)を拝(イツ)き祭りたまひき。次に伊許婆夜和気 王(イコバヤワケノミコ)は、沙本(サホ)の穴太部之別(アナホベノワケ)の祖 (オヤ)なり。次に阿耶美都比売命(アザミツヒメノミコト)は、稲瀬毘古王(イナ セビコノミコ)に嫁(トツ)ぎましき。次に落別王(オチワケノミコ)は、小月之山 君(ヲヅキノヤマノキミ)・三河之衣君(ミカハノコロモノキミ)の祖なり。次に五 十日帯日子王(イカタラシヒコノミコ)は、春日山君(カスガノヤマノキミ)・高志 池君(コシノイケノキミ)・春日部君(カスガベノキミ)の祖。次に伊登志和気王 (イトシワケノミコ)は、子(コ)无(ナ)きによりて、子代(ミコシロ)として伊 登志部(イトシベ)を定めき。次に石衝別王(イハツクワケノミコ)は、羽咋君(ハ クヒノキミ)・三尾君(ミヲノキミ)の祖。次に布多遅能伊理毘売命(フタヂノイリ ビメノミコト)は、倭建命(ヤマトタケルノミコト)の后(キサキ)となりたまひ き。 −−−−− 石王版「古事記」59 −−−−− 2 沙本毘古(サホビコ)と沙本毘売(サホビメ) この天皇(スメラミコト)、沙本毘売(サホビメ)を后(キサキ)としたまひし時、 沙本毘売命の兄(イロエ)沙本毘古王(サホビコノミコ)、そのいろ妹(モ)に問ひ て曰はく、「夫(ヲ)と兄(イロエ)といづれか愛(ハ)しき」といへば、「兄(イ ロエ)ぞ愛(ハ)しき」と答曰(コタ)へたまひき。ここに沙本毘古王謀(ハカ)り て曰はく、「汝(イマシ)まことに我(アレ)を愛(ハ)しと思はば、吾(アレ)と 汝(イマシ)と天(アメ)の下を治(シ)らさむ」といひて、即ち八塩折(ヤシホヲ リ)の紐小刀(ヒモカタナ)を作りて、その妹(イロモ)に授けて曰はく、「この小 刀(カタナ)を以ちて天皇(スメラミコト)の寝(イ)ねませるを刺(サ)し殺せ」 といひき。かれ、天皇その謀(ハカリゴト)を知らさずて、その后(キサキ)の御膝 (ミヒザ)を枕(マ)きて寝(イ)ねましき。 ここにその后、紐小刀(ヒモカタナ)を以(モ)ちて、その天皇の御頸(ミクビ)を 刺さむとして、三度(ミタビ)挙(フ)りたまひて、哀(カナ)しき情(ココロ)に 忍びず、頸(クビ)を刺すこと能(アタ)はずて、泣く涙御面(ミオモ)に落ち溢 (アフ)れき。すなはち天皇驚き起きたまひて、その后に問ひて曰(ノ)りたまは く、「吾(アレ)異(ケ)しき夢(イメ)見つ。沙本(サホ)の方(カタ)より暴雨 (ムラサメ)零(フ)り来て、急(ニハ)かに吾(ア)が面(オモ)を沾(ヌラ)し き。また錦色(ニシキイロ)の小さき蛇(ヘミ)、我が頸に纒繞(マツハ)りき。か くの夢は、これ何の表(シルシ)ならむ」とのりたまひき。 ここにその后、争はえじと以為(オモ)ほして、即ち天皇に白(マヲ)して言はく、 「妾(ア)が兄(イロエ)沙本毘古王(サホビコノミコ)、妾(アレ)に問ひて曰 (イ)はく、『夫(ヲ)と兄(イロエ)と孰(イヅ)れか愛(ハ)しき』といひき。 この面(マノアタリ)問ふに勝(ア)へざりし故に、妾(アレ)、『兄(イロエ)ぞ 愛(ハ)しきか』と答曰(コタ)へき。ここに妾(アレ)の誂(アトラ)へて曰は く、『吾(アレ)汝(イマシ)と共に天(アメ)の下治(シ)らさむ。かれ、天皇を 殺しまつれ』と云ひて、八塩折(ヤシホヲリ)の紐小刀(ヒモカタナ)を作りて妾 (アレ)に授けつ。ここを以(モ)ちて、御頸(ミクビ)を刺さむと欲(オモ)ひて 三度(ミタビ)挙(フ)りしかども、哀(カナ)しき情(ココロ)忽(タチマ)ちに 起りて、頸(クビ)を得(エ)刺(サ)さずて、泣く涙(ナミタ)落ちて御面(ミオ モ)を沾(ヌラ)しつ。必ずこの表(シルシ)ならむ」とまをしき。 ここに天皇詔(ノ)りたまはく、「吾(ア)は殆(ホトホト)に欺(アザム)かえつ るかも」とのりたまひて、すなはち軍(イクサ)を興して沙本毘古王(サホビコノミ コ)を撃(ウ)ちたまひし時、その王稲城(イナキ)を作りて待ち戦ひき。この時、 沙本毘売命(サホビメノミコト)その兄(イロエ)に得(エ)忍(シノ)びず、後門 (シリツト)より逃げ出(イ)でて、その稲城に納(イ)りましき。この時その后妊 身(ハラ)みませり。ここに天皇、その后の懐妊(ハラ)みませること、また愛重 (ウツクシ)みたまふこと三年(ミトセ)に至(ナ)りぬるに忍びたまはざりき。か れ、その軍(イクサ)を廻(メグ)らして急(スミヤ)かには攻迫(セ)めたまはざ りき。かく逗留(トドコホ)りし間に、その妊(ハラ)みませる御子、既に産(ア) れましぬ。 かれ、その御子を出(イダ)して稲城の外(ト)に置きて、天皇に白(マヲ)さしめ たまはく、「若(モ)しこの御子を、天皇の御子と思ほしめさば、治めたまふべし」 とまをさしめたまひき。ここに天皇詔(ノ)りたまはく、「その兄(イロエ)を怨 (ウラ)むれども、なほその后を愛(ウツク)しむに得(エ)忍(シノ)びず」との りたまひき。かれ、即ち后を得たまはむ心ありき。ここをもちて、軍士(イクサビ ト)の中に力士(チカラビト)の軽く捷(ハヤ)きを選(エ)り聚(アツ)めて、宣 (ノ)りたまはく、「その御子(ミコ)を取らむ時、すなはちその母王(ハハミコ) をも掠(カソ)ひ取れ。髪にもあれ手にもあれ、取り獲(エ)むまにまに、掬(ツ カ)みて控(ヒ)き出(イダ)すべし」とのりたまひき。 ここにその后、予(カネ)てその情(ココロ)を知りたまひて、悉(コトゴト)にそ の髪を剃(ソ)り、髪以(モ)ちてその頭(カシラ)を覆ひ、また玉の緒を腐(ク タ)して三重(ミヘ)に手に纒(マ)かし、また酒以(モ)ちて御衣(ミケシ)を腐 (クタ)し、全(マタ)き衣(ミケシ)の如(ゴト)服(ケ)しき。かく設(マ)け 備へて、その御子を抱(ムダ)きて城(キ)の外(ト)にさし出(イダ)したまひ き。 ここにその力士(チカラビト)等(ドモ)、その御子を取る即ちその御祖(ミオヤ) を握(ト)りき。ここにその御髪を握(ト)れば、御髪自(オノヅカ)ら落ち、その 御手を握(ト)れば、玉の緒また絶え、その御衣(ミケシ)を握(ト)れば、御衣便 (スナハ)ち破(ヤ)れぬ。ここを以ちてその御子を取り獲(エ)て、その御祖(ミ オヤ)を得ざりき。かれ、その軍士(イクサビト)等(ドモ)還(カヘ)り来て奏言 (マヲ)さく、「御髪自(オノヅカ)ら落ち、御衣(ミケシ)易(ヤス)く破(ヤ) れ、また御手に纒(マ)かせる玉の緒便(スナハ)ち絶えぬ。かれ、御祖(ミオヤ) を獲(エ)ずて、御子を取り得つ」とまをしき。ここに天皇悔い恨(ウラ)みたまひ て、玉作りし人等(ドモ)を悪(ニク)み、皆その地(トコロ)を奪(ウバ)ひたま ひき。かれ、諺(コトワザ)に「地(トコロ)得ぬ玉作(タマツクリ)」と曰ふ。 また天皇、その后に命詔(ミコトノリ)して言はく、「凡(オホヨ)そ子の名は必ず 母の名づくるを、何とかこの子の御名を称(マヲ)さむ」とのりたまひき。ここに答 へて白(マヲ)さく、「今、火の稲城(イナキ)を焼く時に当りて、火中(ホナカ) に生(ア)れましぬ。かれ、その御名(ミナ)は本牟智和気御子(ホムチワケノミ コ)と称(マヲ)すべし」とまをしき。また命詔(ミコトノリ)したまはく、「何 (イカ)にして日(ヒ)足(タ)し奉(マツ)らむ」とのりたまへば、答へて白(マ ヲ)さく、「御母(ミオモ)を取り、大湯坐(オホユヱ)・若湯坐(ワカユヱ)を定 めて、日(ヒ)足(タ)し奉るべし」とまをしき。かれ、その后の白(マヲ)したま ひしまにまに日(ヒ)足(タ)し奉りき。 またその后に問ひて曰(ノ)りたまはく、「汝(イマシ)の堅めしみづの小佩(ヲヒ モ)は誰かも解(ト)かむ」とのりたまへば、答へ白さく、「旦波比古多々須美智宇 斯王(タニハノヒコタタスミチノウシノミコ)の女(ムスメ)、名は兄比売(エヒ メ)・弟比売(オトヒメ)、この二(フタハシラ)の女王(ヒメミコ)、浄(キヨ) き公民(タミ)なり。かれ、使ひたまふべし」とまをしき。然して遂にその沙本比古 王(サホヒコノミコ)を殺したまひしに、そのいろ妹(モ)も従ひき。 −−−−− 石王版「古事記」60 −−−−− 3 本牟智和気王(ホムチワケノミコ) かれ、その御子(ミコ)を率(ヰ)て遊びし状(サマ)は、尾張(ヲハリ)の相津 (アヒヅ)にある二俣榲(フタマタスギ)を二俣小舟(フタマタヲブネ)に作りて、 持ち上(ノボ)り来て、倭(ヤマト)の市師池(イチシノイケ)・軽池(カルノイ ケ)に浮かべて、その御子を率(ヰ)て遊びき。然るにこの御子、八拳鬚(ヤツカヒ ゲ)心前(ムナサキ)に至るまで真事(マコト)とはず。かれ、今高往(タカユ)く 鵠(ククヒ)の音(コヱ)を聞きて、始めてあぎとひしたまひき。 ここに山辺之大○<「帝」の右に「鳥」>(ヤマノベノオホタカ)、こは人の名な り。を遣(ツカ)はして、その鳥を取らしめたまひき。かれ、この人その鵠(クク ヒ)追ひ尋ねて、木国(キノクニ)より針間国(ハリマノクニ)に到り、また追ひて 稲羽国(イナバノクニ)に越へ、すなはち旦波国(タニハノクニ)・多遅麻国(タヂ マノクニ)に到り、東(ヒムカシ)の方(カタ)に追ひ廻(メグ)りて近(チカ)つ 淡海国(アフミノクニ)に到り、すなはち三野国(ミノノクニ)に越え、尾張国より 伝ひて科野国(シナノノクニ)に追ひ、遂(ツヒ)に高志国(コシノクニ)に追ひ到 りて、和那美(ワナミ)の水門(ミナト)に網を張り、その鳥を取りて持ち上(ノ ボ)りて献(タテマツ)りき。かれ、その水門(ミナト)を号(ナヅ)けて和那美 (ワナミ)の水門(ミナト)と謂(イ)ふ。またその鳥を見たまはば、物言はむと思 ほししに、思ほすが如く言ひたまふことなかりき。 ここに天皇(スメラミコト)患(ウレ)へたまひて御寝(イネマ)しし時、御夢(ミ イメ)に覚(サト)して曰(ノ)りたまはく、「我が宮を天皇(スメラミコト)の御 舎(ミアラカ)の如修理(ヲサメツク)りたまはば、御子必ず真事(マコト)とは む」とのりたまひき。かく覚(サト)したまふ時、ふとまにに占(ウラナ)ひて、何 (イヅ)れの神の心ぞと求めしに、その祟(タタリ)は出雲(イヅモ)の大神の御心 なりき。かれ、その御子をしてその大神の宮を拝(ヲロガ)ましめに遣はさむとせし 時、誰人(タレ)を副(ソ)はしめば吉(ヨ)けむとうらなひき。ここに曙立王(ア ケタツノミコ)卜(ウラ)に食(ア)ひき。 かれ、曙立王(アケタツノミコ)に科(オホ)せてうけひ白(マヲ)さしめて、「こ の大神を拝(ヲロガ)むによりて誠(マコト)に験(シルシ)あらば、この鷺巣池 (サギスノイケ)の樹(キ)に住む鷺や、うけひ落ちよ」とまをさしめき。かく詔 (ノ)りたまひし時、うけひしその鷺地(ツチ)に堕(オ)ちて死にき。また「うけ ひ活(イ)きよ」と詔(ノ)りたまひき。爾(シカ)すれば更に活(イ)きぬ。また 甜白梼(アマカシ)の前(サキ)なる葉広熊白梼(ハビロクマカシ)をうけひ枯ら し、またうけひ生(イ)かしき。ここに名をその曙立王(アケタツノミコ)に賜ひ て、倭者(ヤマトハ)師木登美豊朝倉(シキトミトヨアサクラノ)曙立王(アケタツ ノミコ)と謂(イ)ひき。すなはち曙立王・菟上王(ウナカミノミコ)、二王(フタ ハシラ)をその御子に副(ソ)へて遣はしし時、「那良戸(ナラト)よりは、跛(ア シナヘ)・盲(メシヒ)遇(ア)はむ。大坂戸(オホサカト)よりも跛(アシナヘ) ・盲(メシヒ)遇(ア)はむ。ただ木戸(キト)ぞこれ掖月(ワキヅキ)の吉(ヨ) き戸」と卜(ウラナ)ひて出(イ)で行かしし時、到(イタ)ります地(トコロ)ご とに品遅部(ホムヂベ)を定めたまひき。 かれ、出雲(イヅモ)に到(イタ)りて、大神を拝(ヲロガ)み訖(ヲ)へて還(カ ヘ)り上(ノボ)ります時、肥河(ヒノカハ)の中に黒き樔橋(スバシ)を作り、仮 宮(カリミヤ)を仕(ツカ)へ奉(マツ)りて坐(イマ)せたり。ここに出雲(イヅ モノ)国造(クニノミヤツコ)の祖(オヤ)、名は岐比佐都美(キヒサツミ)、青葉 の山を餝(カザ)りてその河下(カハシモ)に立てて、大御食(オホミケ)献(タテ マツ)らむとする時、その御子詔(ノ)りたまはく、「この河下(カハシモ)に青葉 の山の如(ゴト)きは、山と見えて山に非(アラ)ず。もし出雲の石○<石へんに 「同」>(イハクマ)の曽宮(ソノミヤ)に坐(イマ)す葦原色許男大神(アシハラ シコヲノオホカミ)を以(モ)ちいつく祝(ハフリ)の大庭(オホニハ)か」と問ひ たまひき。ここに御伴(ミトモ)に遣はさえし王(ミコ)等(タチ)、聞き歓(ヨロ コ)び見喜びて、御子をば檳榔(アヂマサ)の長穂宮(ナガホノミヤ)に坐(イマ) せて、駅使(ハユマヅカヒ)を貢上(タテマツ)りき。 ここにその御子、一宿(ヒトヨ)肥長比売(ヒナガヒメ)に婚(マグハ)ひしたまひ き。かれ、その美人(ヲトメ)を窃(ヒソ)かに伺ひたまへば蛇(ヲロチ)なりき。 即(スナハ)ち見(ミ)畏(カシコ)みて遁逃げ(ニ)げたまひき。ここにその肥長 比売(ヒナガヒメ)患(ウレ)へて、海原(ウナハラ)を光(テ)らして船より追ひ 来(ク)。かれ、益(マスマス)見(ミ)畏(カシコ)みて、山のたわより御船(ミ フネ)を引き越して、逃げ上(ノボ)り行(イ)でましき。ここに覆奏(カヘリゴ ト)言(マヲ)さく、「大神を拝(ヲロガ)みたまひしによりて、大御子物(モノ) 詔(ノ)りたまひき。かれ、参(マヰ)上(ノボ)り来つ」とまをしき。かれ、天皇 歓喜(ヨロコ)びたまひて、即ち菟上王(ウナカミノミコ)を返して神宮(カムミ ヤ)を造らしめたまひき。ここに天皇、その御子によりて、鳥取部(トトリベ)・鳥 甘部(トリカヒベ)・品遅部(ホムヂベ)・大湯坐(オホユヱ)・若湯坐(ワカユ ヱ)を定めたまひき。 −−−−− 石王版「古事記」61 −−−−− 4 円野比売命(マトノヒメノミコト) またその后(キサキ)の白(マヲ)したまひしまにまに、美知能宇斯王(ミチノウシ ノミコ)の女(ムスメ)等(タチ)、比婆須比売命(ヒバスヒメノミコト)、次に弟 比売命(オトヒメノミコト)、次に歌凝比売命(ウタゴリヒメノミコト)、次に円野 比売命(マトノヒメノミコト)、并(アハ)せて四柱を喚上(メサ)げたまひき。然 るに比婆須比売命(ヒバスヒメノミコト)・弟比売命(オトヒメノミコト)の二柱を 留(トド)めて、その弟王(オトミコ)二柱は、いと凶醜い(ミニク)きによりて、 本(モト)つ土(クニ)に返し送りたまひき。 ここに円野比売(マトノヒメノ)慚(ハ)ぢて言はく、「同じ兄弟(ハラカラ)の中 に、姿醜きを以(モ)ちて還(カヘ)さえし事、隣里(チカキサト)に聞えむ、これ いと慚(ハ)づかし」といひて、山代国(ヤマシロノクニ)の相楽(サガラカ)に到 (イタ)りし時、樹(キ)の枝に取り懸(サガ)りて死なむとしき。かれ、其地(ソ コ)を号(ナヅ)けて懸木(サガリキ)と謂(イ)ひしを、今は相楽(サガラカ)と 云(イ)ふ。また弟国(オトクニ)に到(イタ)りし時、遂(ツヒ)に峻(サガ)し き淵(フチ)に堕(オ)ちて死にき。かれ、其地(ソコ)を号(ナヅ)けて堕国(オ チクニ)と謂(イ)ひしを、今は弟国(オトクニ)と云(イ)ふなり。 −−−−− 石王版「古事記」62 −−−−− 5 時(トキ)じくの香(カク)の木(コ)の実(ミ) また天皇(スメラミコト)三宅連(ミヤケノムラジ)等(ラ)の祖(オヤ)、名は多 遅多摩毛理(タヂマモリ)を以(モ)ちて常世国(トコヨノクニ)に遣はして、とき じくのかくの木(コ)の実(ミ)を求めしめたまひき。かれ、多遅摩毛理(タヂマモ リ)、遂(ツヒ)にその国に到(イタ)りて、その木(コ)の実(ミ)を採り、縵 (カゲ)八縵(ヤカゲ)・矛(ホコ)八矛(ヤホコ)を以(モ)ちて将(モ)ち来た りし間に、天皇すでに崩(カムアガ)りましき ここに多遅摩毛理(タヂマモリ)・縵(カゲ)四縵(ヨカゲ)・矛(ホコ)四矛(ヨ ホコ)を分けて大后に献(タテマツ)り、縵(カゲ)四縵・矛四矛を天皇の御陵(ミ ハカ)の戸に献り置きて、その木の実をフ(ササ)げて叫(サケ)び哭(オラ)びて 白(マヲ)さく、「常世国(トコヨノクニ)のときじくのかくの木(コ)の実を持ち て参(マヰ)上(ノボ)りて侍(サモラ)ふ」とまをして、遂に叫び哭(オラ)びて 死にき。そのときじくのかくの木の実は、これ今の橘(タチバナ)なり。 この天皇の御年(ミトシ)、壱佰伍拾参歳(モモチアマリイソヂアマリミトセ)。御 陵(ミハカ)は菅原の御立野(ミタチノ)の中にあり。またその大后比婆須比売命 (ヒバスヒメノミコト)の時に石祝作(イハキツクリ)を定め、また土師部(ハニシ ベ)を定めたまひき。この后は、狭木(サキ)の寺間陵(テラマノハカ)に葬(ハ ブ)りまつりき −−−−− 石王版「古事記」63 −−−−− 景行天皇 1 后妃と御子 大帯日子淤斯呂和気天皇(オホタラシヒコオシロワケノスメラミコト)、纒向(マキ ムク)の日代宮(ヒシロノミヤ)に坐(イマ)して天下(アメノシタ)治(シ)らし めしき。この天皇、吉備臣(キビノオミ)等(ラ)の祖(オヤ)若建吉備津日子(ワ カタケキビツヒコ)の女(ムスメ)、名は針間之伊那毘大郎女(ハリマノイナビノオ ホイラツメ)を娶(メト)して生みましし御子(ミコ)、櫛角別王(クシツヌワケノ ミコ)、次に大碓命(オホウスノミコト)、次に小碓命(ヲウスノミコト)、亦の名 は倭男具那命(ヤマトヲグナノミコト)、次に倭根子命(ヤマトネコノミコト)、次 に神櫛王(カムクシノミコ)。五柱。また八尺入日命(ヤサカノイリヒコノミコト) の女(ムスメ)、八尺之入日売命(ヤサカノイリヒメノミコト)を娶(メト)して生 みましし御子(ミコ)、若帯日子命(ワカタラシヒコノミコト)、次に五百木之入日 子命(イホキノイリヒコノミコト)、次に押別命(オシワケノミコト)、次に五百木 之入日売命(イホキノイリヒメノミコト)。また妾(ミメ)の子、豊戸別王(トヨト ワケノミコ)、次に沼代郎女(ヌシロノイラツメ)。また妾(ミメ)の子、沼名木郎 女(ヌナキノイラツメ)、次に香余理比売命(カゴヨリヒメノミコト)、次に若木之 入日子王(ワカキノイリヒコノミコ)、次に吉備之兄日子王(キビノエヒコノミ コ)、次に高木比売命、次に弟比売命(オトヒメノミコト)、また日向(ヒムカ)の 美波迦斯毘売(ミハカシビメ)を娶(メト)して生みましし御子(ミコ)、豊国別王 (トヨクニワケノミコ)。 また伊那毘能大郎女(イナビノオホイラツメ)の弟(イロド)、伊那毘能若郎女(イ ナビノワカイラツメ)を娶(メト)して生みましし御子(ミコ)、真若王(マワカノ ミコ)、次に日子人之大兄王(ヒコヒトノオホエノミコ)。また倭建命(ヤマトタケ ルノミコト)の曽孫(ヒヒコ)、名は須売伊呂大中日子王(スメイロオホナカツヒコ ノミコ)の女(ムスメ)、訶具漏比売(カグロヒメ)を娶(メト)して生みましし御 子(ミコ)、大枝王(オホエノミコ)。凡(オホヨ)そこの大帯日子天皇(オホタラ シヒコノスメラミコト)の御子(ミコ)等(タチ)、録(シル)せるは廿一王(ハタ チアマリヒトハシラ)、記(フミ)に入らざるは五十九王(イソアマリココノハシ ラ)、并(アハ)せて八十王(ヤソハシラ)の中に、若帯日子命(ワカタラシヒコノ ミコト)と倭建命(ヤマトタケルノミコト)とまた五百木之入日子命(イホキノイリ ヒコノミコト)、この三王(ミハシラ)は太子(ヒツギノミコ)の名を負ひたまひ、 それより余(ホカ)の七十七王(ナナソアマリナナハシラ)は、悉(コトゴト)に 国々の国造(クニノミヤツコ)、また和気(ワケ)、また稲置(イナキ)・県主(ア ガタヌシ)に別けたまひき。かれ、若帯日子命(ワカタラシヒコノミコト)は天下 (アメノシタ)治(シ)らしめしき。小碓命(ヲウスノミコト)は東(ヒムガシ)西 (ニシ)の荒ぶる神、また伏(マツロ)はぬ人等(ヒトドモ)を平(コトム)けたまひき。次に櫛角別王(クシツヌワケノミコ)は、茨田下連(マムタノシモノムラジ) 等(ラ)の祖(オヤ)。次に大碓命(オホウスノミコト)は、守君(モリノキミ)・ 大田君(オホタノキミ)・島田君(シマダノキミ)の祖(オヤ)。次に神櫛王(カム クシノミコ)は、木国(キノクニ)の酒部阿比古(サカベノアヒコ)・宇陀(ウダ) の酒部(サカベ)の祖。次に豊国別王(トヨクニワケノミコ)は、日向(ヒムカノ) 国造(クニノミヤツコ)の祖なり。 −−−−− 石王版「古事記」64 −−−−− 2 大碓命(オホウスノミコト) ここに天皇、三野(ミノノ)国造(クニノミヤツコ)の祖(オヤ)大根王(オホネノ ミコ)の女(ムスメ)、名は兄比売(エヒメ)・弟比売(オトヒメ)の二(フタリ) の嬢子(ヲトメ)、その容姿(カタチ)麗美(ウルハ)しと聞こしめし定めて、その 御子(ミコ)大碓命(オホウスノミコト)を遣(ツカ)はして喚(メ)しあげたまひ き。かれ、その遣はさえし大碓命召し上げずて、すなはち己(オノレ)自(ミヅカ) らその二(フタリ)の嬢子(ヲトメ)と婚(マグハ)ひして、さらに他(アタ)し女 人(ヲミナ)を求めて、詐(イツハ)りてその嬢女(ヲトメ)と名づけて貢上(タテ マツ)りき。ここに天皇その他(アタ)し女(ヲミナ)なることを知らして、恒(ツ ネ)に長眼(ナガメ)を経(ヘ)しめ、また婚(マグハ)ひしたまはずて、惚(ナ ヤ)ましめたまひき。 かれ、その大碓命(オホウスノミコト)、兄比売(エヒメ)を娶(メト)して生みし 子、押黒之兄日子王(オシグロノエヒコノミコ)。こは三野(ミノ)の宇泥須和気 (ウネスワケ)の祖。また弟比売(オトヒメ)を娶(メト)して生みし子、押黒弟日 子王(オシグロノオトヒコノミコ)。こは牟宜都君(ムゲツノキミ)等(ラ)の祖。 この御世に田部(タベ)を定め、また東(アヅマ)の淡水門(アハノミナト)を定 め、また膳(カシハデ)の大伴部(オホトモベ)を定め、また倭(ヤマト)の屯家 (ミヤケ)を定め、また坂手池(サカテノイケ)を作りて、すなはち竹をその堤に植 ゑたまひき。 −−−−− 石王版「古事記」65 −−−−− 3 倭建命(ヤマトタケルノミコト)の熊曽(クマソ)征討 天皇、小碓命(ヲウスノミコト)に詔(ノ)りたまはく、「何とかも汝(イマシ)の 兄(イロエ)は朝(アシタ)夕(ユフベ)の大御食(オホミケ)に参(マヰ)出 (デ)来(コ)ざる。専(モハ)ら汝ねぎ教へ覚(サト)せ」とのりたまひき。かく 詔(ノ)りたまひて以後(ノチ)、五日に至るまでなほ参(マヰ)出(デ)ざりき。 ここに天皇、小碓命に問ひたまはく、「何とかも汝(イマシ)の兄(イロエ)は、久 しく参(マヰ)出(デ)ざる。もし未(イマ)だ誨(ヲシ)へずありや」ととひたま へば、答へて白さく、「既にねぎつ」とまをしき。また「如何(イカニ)かねぎつ る」と詔(ノ)りたまへば、答へて白さく、「朝曙(アサケ)に厠(カハヤ)に入 (イ)りし時、待ち捕へ○<手へんに「u」>(ツカ)み批(ウ)ちて、その枝を引 き闕(カ)きて、薦(コモ)に裹(ツツ)みて投げ棄(ス)てつ」とまをしき。 ここに天皇、その御子(ミコ)の建(タケ)く荒き情(ココロ)を惶(カシコ)みて 詔(ノ)りたまはく、「西の方に熊曽建(クマソタケル)二人あり。これ伏(マツ ロ)はず礼(ヰヤ)无(ナ)き人等(ドモ)なり。かれ、その人等を取れ」とのりた まひて遣はしき。この時に当りて、その御髪(ミカミ)を額(ヌカ)に結(ユ)はし き。ここに小碓命(ヲウスノミコト)、その姨(ヲバ)倭比売命(ヤマトヒメノミコ ト)の御衣(ミソ)・御裳(ミモ)を給はり、剣(ツルギ)を御懐(ミフトコロ)に 納(イ)れて幸行(イ)でましき。かれ、熊曽建(クマソタケル)の家に到(イタ) りて見たまへば、その家の辺(ホトリ)に軍(イクサ)三重に囲(カク)み、室(ム ロ)を作りて居(ヲ)りき。ここに御室楽(ミムロウタゲ)せむと言ひ動(トヨ)み て、食物(ヲシモノ)を設(マ)け備へたり。かれ、その傍(カタハラ)を遊び行 (アル)きて、その楽(ウタゲ)の日を待ちたまひき。 ここにその楽(ウタゲ)の日に臨みて、童女(ヲトメ)の髪の如(ゴト)その結はせ る御髪を梳(ケヅ)り垂り、その姨(ヲバ)の御衣(ミソ)御裳(ミモ)を服(ケ) し、既に童女(ヲトメ)の姿に成りて、女人(ヲミナ)の中に交(マジ)り立ちて、 その室(ムロ)の内に入(イ)りましき。ここに熊曽建(クマソタケル)兄弟(エオ ト)二人、その嬢子(ヲトメ)を見感(メ)でて、己(オノ)が中に坐(マ)せて盛 (サカ)りに楽(ウタゲ)しつ。かれ、その酣(タケナハ)なる時に臨み、懐(フト コロ)より剣を出(イダ)し、熊曽(クマソ)の衣の衿(クビ)を取りて、剣をその 胸より刺し通したまひし時、その弟建(オトタケル)見(ミ)畏(カシコ)みて逃げ 出(イ)でき。すなはち追ひてその室(ムロ)の椅(ハシ)の本(モト)に至り、そ の背(ソビラ)の皮を取りて、剣を尻より刺し通したまひき。ここにその熊曽建(ク マソタケル)白言(マヲ)さく、「その刀(タチ)をな動かしたまひそ。僕(ワレ) 白言(マヲ)すことあり」とまをしき。ここに暫(シマ)し許して押し伏せたまひ き。 ここに「汝(イマシ)命(ミコト)は誰(タレ)ぞ」と白言(マヲ)しき。ここに詔 (ノ)りたまはく、「吾は纒向(マキムク)の日代宮(ヒシロノミヤ)に坐(マ)し まして大八島国(オホヤシマクニ)知らしめす、大帯日子淤斯呂和気天皇(オホタラ シヒコオシロワケノスメラミコト)の御子(ミコ)、名は倭男具那王(ヤマトヲグナ ノミコ)なり。おれ熊曽建二人、伏(マツロ)はず礼(ヰヤ)無しと聞こしめして、 おれを取殺(ト)れと詔(ノ)りたまひて遣はせり」とのりたまひき。 ここにその熊曽建(クマソタケル)白(マヲ)さく、「信(マコト)に然(シカ)な らむ。西の方(カタ)に吾(ワレ)二人を除(オ)きて、建(タケ)く強(コハ)き 人無し。然るに大倭国(オホヤマトノクニ)に、吾二人に益(マサ)りて建(タケ) き男(ヲ)は坐(イマ)しけり。ここをもちて吾(ワレ)御名(ミナ)を献(タテマ ツ)らむ。今より以後(ノチ)は、倭建御子(ヤマトタケルノミコ)と称(タタ)ふ べし」とまをしき。このこと白(マヲ)し訖(ヲ)へしかば、すなはち熟瓜(ホソ ヂ)の如(ゴト)振り析(サ)きて殺したまひき。かれ、その時より御名を称(タ タ)へて倭建命(ヤマトタケルノミコト)と謂(イ)ふ。然(シカ)して還(カヘ) り上(ノボ)ります時に、山の神、河の神、また穴戸(アナト)の神を皆(ミナ)言 (コト)向(ム)け和(ヤハ)して参(マヰ)上(ノボ)りたまひき。 −−−−− 石王版「古事記」66 −−−−− 4 倭建命(ヤマトタケルノミコト)の出雲建(イヅモタケル)討伐 すなはち出雲国に入りまして、その出雲建(イヅモタケル)を殺さむと欲(オモ)ひ て、到りますすなはち友(トモガキ)を結びたまひき。かれ、窃(ヒソ)かに赤梼 (イチヒ)以ちて詐(イツハリ)の刀(タチ)を作り、御佩(ミハカシ)として、共 に肥河(ヒノカハ)に沐(カハアミ)したまひき。ここに倭建命(ヤマトタケルノミ コト)河より先(マ)づ上りまして、出雲建(イヅモタケル)が解(ト)き置ける横 刀(タチ)を取り佩(ハ)きて、「刀(タチ)易(カヘ)せむ」と詔(ノ)りたまひ き。かれ、後に出雲建河より上りて、倭建命の詐(イツハリ)の刀(タチ)を佩 (ハ)きき。 ここに倭建命、「いざ刀(タチ)合(ア)はせむ」と誂(アトラ)へて云(ノ)りた まひき。ここに各(オノオノ)その刀(タチ)を抜く時、出雲建詐(イツハリ)の刀 (タチ)を得(エ)抜かざりき。すなはち倭建命その刀を抜きて、出雲建を打ち殺し たまひき。ここに御歌に曰(ノ)りたまはく、 やつめさす 出雲建(イヅモタケル)が 佩(ハ)ける刀(タチ) 黒葛(ツヅラ) さは巻き さ身(ミ)無(ナ)しにあはれ《24》 とうたひたまひき。かれ、かく撥(ハラ)ひ治めて、参(マヰ)上(ノボ)りて覆 (カヘリゴト)奏(マヲ)したまひき。 −−−−− 石王版「古事記」67 −−−−− 5 倭建命(ヤマトタケルノミコト)の東国征討 ここに天皇、また頻(シ)きて倭建命(ヤマトタケルノミコト)に詔(ノ)りたまは く、「東(ヒムカシ)の方(カタ)十二道(トヲアマリフタミチ)の荒ぶる神、また まつろはぬ人等(ヒトドモ)を言(コト)向(ム)け和平(ヤハ)せ」とのりたまひ て、吉備臣(キビノオミ)等(ラ)の祖(オヤ)、名は御○<金へんに「且」>友耳 建日子(ミスキトモミミタケヒコ)を副(ソ)へて遣はしし時、柊(ヒヒラギ)の八 尋矛(ヤヒロホコ)を給ひき。かれ、命(ミコト)を受けて罷(マカ)り行(イ)で ます時、伊勢の大御神宮(オホミカミノミヤ)に参(マヰ)入(イ)りて、神の朝廷 (ミカド)を拝(ヲロガ)みて、すなはちその姨(ヲバ)倭比売命(ヤマトヒメノミ コト)に白(マヲ)したまはく、「天皇既に吾を死ねと思ほすゆゑか、何(ナニ)と かも西の方の悪(ア)しき人(ヒト)等(ドモ)を撃(ウ)ちに遣はして、返り参 (マヰ)上り来(コ)し間、未(イマ)だ幾時(イクダ)もあらねば、軍衆(イクサ ビトラ)を賜はずて、今更(サラ)に東の方十二道(トヲアマリフタミチ)の悪 (ア)しき人等(ヒトドモ)を平(コトム)けに遣はすらむ。これによりて思惟(オ モ)へば、なほ吾既に死ねと思ほしめすなり」とまをしたまひて、患(ウレ)へ泣き て罷(マカ)ります時に、倭比売命(ヤマトヒメノミコト)草那芸剣(クサナギノツ ルギ)を賜ひ、また御嚢(ミフクロ)を賜ひて、「若(モ)し急(ニハ)かなる事あ らば、この嚢(フクロ)の口を解きたまへ」とのりたまひき。 かれ、尾張国(オハリノクニ)に到(イタ)りて、尾張(オハリノ)国造(クニノミ ヤツコ)の祖(オヤ)美夜受比売(ミヤズヒメ)の家に入(イ)りましき。すなはち 婚(マグハ)ひせむと思ほししかども、また還(カヘ)り上(ノボ)らむ時に婚(マ グハ)ひせむと思ほして、期(チギ)り定めて東(アヅマ)の国に幸(イデマ)し て、悉(コトゴト)に山河の荒ぶる神、また伏(マツロ)はぬ人等(ヒトドモ)を言 (コト)向(ム)け和平(ヤハ)したまひき。 かれ、ここに相武国(サガムノクニ)に到(イタ)りましし時、その国造(クニノミ ヤツコ)詐(イツハ)りて白(マヲ)さく、「この野の中に大沼(オホヌマ)あり。 この沼の中に住める神、いとちはやぶる神なり」とまをしき。ここにその神をみそな はしに、その野に入(イ)りましき。ここにその国造(クニノミヤツコ)、火をその 野に著(ツ)けき。かれ、欺(アザム)かえぬと知らして、その姨(ヲバ)倭比売命 (ヤマトヒメノミコト)の給ひし嚢(フクロ)の口を解(ト)き開(ア)けて見たま へば、火打(ヒウチ)その裏にあり。ここに先(マ)づその御刀(ミハカシ)もちて 草を苅(カ)り撥(ハラ)ひ、その火打もちて火を打ち出(イ)でて、向火(ムカヒ ビ)を著(ツ)けて焼き退(ソ)けて、還(カヘ)り出(イ)でて皆その国造(クニ ノミヤツコ)等を切り滅ぼし、すなはち火を著(ツ)けて焼きたまひき。かれ、今に 焼津(ヤキツ)と謂(イ)ふ。 そこより入(イ)り幸(イデマ)して走水海(ハシリミヅノウミ)を渡りたまひし 時、その渡(ワタリ)の神浪を興(オコ)し、船を廻(モトホ)して得(エ)進み渡 りたまはざりき。ここにその后(キサキ)、名は弟橘比売命(オトタチバナヒメノミ コト)白(マヲ)したまはく、「妾(アレ)御子(ミコ)に易(カハ)りて海の中に 入(イ)らむ。御子は遣(ツカ)はさえし政(マツリゴト)遂(ト)げて覆(カヘリ ゴト)奏(マヲ)したまふべし」とまをしたまひて、海に入りたまはむとする時に、 菅畳(スガタタミ)八重(ヤヘ)・皮畳(カハタタミ)八重(ヤヘ)・○<「施」の 「方」の代わりに糸へん>畳(キヌタタミ)八重(ヤヘ)を波の上に敷きて、その上 に下(オ)りましき。 ここにその暴波(アラナミ)自(オノヅカ)らなぎて、御船得(エ)進みき。ここに その后歌曰(ウタ)ひたまはく、 さねさし 相武(サガム)の小野に 燃ゆる火の 火中(ホナカ)に立ちて 問ひし 君はも《25》 とうたひたまひき。かれ、七日(ナヌカ)の後(ノチ)、その后の御櫛(ミクシ)海辺(ウミヘ)に依(ヨ)りき。すなはちその櫛を取りて、御陵(ミハカ)を作りて治 め置きき。 そこより入(イ)り幸(イデマ)して、悉(コトゴト)に荒ぶる蝦夷(エミシ)等 (ドモ)を言(コト)向(ム)け、また山河の荒ぶる神等(ドモ)を平和(ヤハ)し て、還り上(ノボ)り幸(イデマ)しし時、足柄(アシガラ)の坂本(サカモト)に 到りて御粮(ミカレヒ)食(ヲ)す処に、その坂の神白き鹿(カ)に化(ナ)りて来 (キ)立(タ)ちき。ここに即ちその咋(ク)ひ遺(ノコ)したまひし蒜(ヒル)の 片端(カタハシ)以(モ)ちて待ち打ちたまへば、その目に中(アタ)りてすなはち 打ち殺さえき。かれ、その坂に登り立ちて、三たび歎かして「あづまはや」と詔 (ノ)りたまひき。かれ、その国を号(ナヅ)けて阿豆麻(アヅマ)と謂ふ。 すなはちその国より越えて甲斐(カヒ)に出(イ)でまして、酒折宮(サカヲリノミ ヤ)に坐(イマ)しし時、歌曰(ウタ)ひたまはく、 新治(ニヒバリ) 筑波(ツクハ)を過ぎて 幾夜(イクヨ)か寝(ネ)つる《2 6》 とうたひたまひき。ここにその御火焼(ミヒタキ)の老人(オキナ)、御歌に続 (ツ)ぎて歌ひて曰(イ)はく、 日日(カガ)並(ナ)べて 夜(ヨ)には九夜(ココノヨ) 日(ヒ)には十日(ト ヲカ)を《27》 とうたひき。ここを以(モ)ちてその老人(オキナ)を誉(ホ)めて、即ち東(アヅ マノ)国造(クニノミヤツコ)を給ひき。 −−−−− 石王版「古事記」68 −−−−− 6 美夜受比売(ミヤズヒメ) その国より科野国(シナノノクニ)に越えて、すなはち科野(シナノ)の坂の神を言 (コト)向(ム)けて、尾張国(ヲハリノクニ)に還(カヘ)り来て、先(サキ)の 日に期(チギ)りたまひし美夜受比売(ミヤズヒメ)の許(モト)に入(イ)りまし き。ここに大御食(オホミケ)献(タテマツ)りし時、その美夜受比売大御酒盞(オ ホミサカヅキ)を捧げて献りき。ここに美夜受比売、そのおすひの襴(スソ)に月経 (ツキノサハリ)著(ツ)きたり。かれ、その月経(ツキノサハリ)を見て、御歌よ みたまはく、 ひさかたの 天(アメ)の香具山(カグヤマ) 鋭喧(トカマ)に さ渡る鵠(ク ビ) 弱細(ヒハボソ) 撓(タワ)や腕(ガヒナ)を 枕(マ)かむとは 我(ア レ)はすれど さ寝(ネ)むとは 我(アレ)は思へど 何(ナ)が著(ケ)せる  襲(オスヒ)の裾(スソ)に 月立ちにけり《28》 とうたひたまひき。ここに美夜受比売(ミヤズヒメ)、御歌に答へて曰(イ)はく、 高光る 日の御子(ミコ) やすみしし 我(ワ)が大君 あらたまの 年が来 (キ)経(フ)れば あらたまの 月は来(キ)経(ヘ)行く 諾(ウベ)な諾(ウ ベ)な 君待ちがたに 我が著(ケ)せる 襲(オスヒ)の裾(スソ)に 月立たな むよ《29》 とうたひき。かれ、ここに御合(ミアヒ)しまして、その御刀(ミハカシ)の草那芸 剣(クサナギノツルギ)をその美夜受比売(ミヤズヒメ)の許(モト)に置きて、伊 服岐(イブキ)の山の神を取りに幸行(イデマ)しき。 −−−−− 石王版「古事記」69 −−−−− 7 国思歌(クニシノヒウタ)と倭建命(ヤマトタケルノミコト)の死 ここに詔(ノ)りたまはく、「この山の神は、徒手(ムナデ)に直(タダ)に取りて む」とのりたまひて、その山に騰(ノボ)りましし時、白猪(シロヰ)山の辺(ヘ) に逢(ア)ひき。その大きさ牛の如し。ここに言(コト)挙(アゲ)して詔(ノ)り たまはく、「この白猪(シロヰ)に化(ナ)れるは、その神の使者(ツカヒ)なら む。今殺さずとも、還らむ時に殺さむ」とのりたまひて、騰(ノボ)りましき。ここ に大氷雨(オホヒサメ)を零(フ)らして、倭建命(ヤマトタケルノミコト)を打ち 惑(マト)はしき。この白猪に化(ナ)れるは、その神の使者(ツカヒ)にあらずて その神の正身(タダミ)に当りしを、言(コト)挙(アゲ)によりて惑はさえつるな り。かれ還(カヘ)り下りまして、玉倉部(タマクラベ)の清水(シミヅ)に到りて 息(イコ)ひましし時、御心稍(ヤクヤク)寤(サ)めましき。かれ、その清水(シ ミヅ)を号(ナヅ)けて居寤清水(ヰサメノシミヅ)と謂(イ)ふ。 其処(ソコ)より発(タ)ちて、当芸野(タギノ)の上(ヘ)に到(イタ)りましし 時、詔(ノ)りたまはく、「吾(ワ)が心、恒(ツネ)は虚(ソラ)より翔(カケ) り行かむと念(オモ)ひき。然るに今吾(ワ)が足得(エ)歩(アユ)まず、たぎた ぎしくなりぬ」とのりたまひき。かれ、其地(ソコ)を号(ナヅ)けて当芸(タギ) と謂(イ)ふ。其地(ソコ)より差(ヤヤ)少し幸行(イデマ)すに、甚(イト)疲 れませるによりて、御杖(ミツヱ)を衝(ツ)きて稍(ヤクヤク)に歩みたまひき。 かれ、其地(ソコ)を号(ナヅ)けて杖衝坂(ツヱツキザカ)と謂ふ。尾津前(ヲツ ノサキ)の一松(ヒトツマツ)のもとに到りまししに、先に御食(ミヲシ)したまひ し時、其地(ソコ)に忘れたまひし御刀(ミハカシ)、失(ウ)せずてなほありき。 ここに御歌(ミウタ)うたひたまはく、 尾張(ヲハリ)に 直(タダ)に向へる 尾津(ヲツ)の崎なる 一つ松 あせを  一つ松 人にありせば 大刀(タチ)佩(ハ)けましを 衣(キヌ)着せましを 一 つ松 あせを《30》 とうたひたまひき。其地(ソコ)より幸(イデマ)して三重村(ミヘノムラ)の到 (イタ)りましし時、また詔(ノ)りたまはく、「吾(ワ)が足は三重(ミヘ)の勾 (マガリ)の如(ゴト)くして、甚(イト)疲れたり」とのりたまひき。かれ、其地 (ソコ)を号(ナヅ)けて三重と謂(イ)ふ。 そこより幸行(イデマ)して能煩野(ノボノ)に到(イタ)りましし時、国を思(シ ノ)ひて歌曰(ウタ)ひたまはく、 倭(ヤマト)は 国のまほろば たたなづく 青垣(アヲカキ) 山(ヤマ)隠(ゴ モ)れる 倭(ヤマト)しうるはし《31》 また歌曰(ウタ)ひたまはく、 命(イノチ)の 全(マタ)けむ人は たたみこも 平群(ヘグリ)の山の くま白 梼(カシ)が葉を うずに刺せ その子《32》 この歌は国思(クニシノヒ)歌(ウタ)なり。また歌曰(ウタ)ひたまはく、 愛(ハ)しけやし 我家(ワギヘ)の方(カタ)よ 雲居(クモヰ)立(タ)ち来 (ク)も《33》 とうたひたまひき。こは片歌(カタウタ)なり。この時御病(ミヤマヒ)甚(イト) 急(ニハ)かになりぬ。ここに御歌うたひたまはく、 嬢子(ヲトメ)の 床の辺(ベ)に 我(ワ)が置きし 剣(ツルギ)の大刀(タ チ) その大刀はや《34》 歌ひ意(ヲ)へて即(スナハ)ち崩(カムアガ)りましき。ここに駅使(ハユマヅカ ヒ)を貢上(タテマツ)りき。 −−−−− 石王版「古事記」70 −−−−− 8 白智鳥(シロチドリ)と御葬歌(ミハブリウタ) ここに倭(ヤマト)に坐(イマ)す后(キサキ)等(タチ)また御子(ミコ)等(タ チ)、諸(モロモロ)下(クダ)り到(イタ)りて御陵(ミハカ)を作り、すなはち 其地(ソコ)のなづき田に葡匐(ハ)ひ廻(モトホ)りて、哭(ナ)きて歌曰(ウ タ)ひたまはく、 なづきの田の 稲幹(イナガラ)に 稲幹に 葡(ハ)ひ廻(モトホ)ろふ 野老蔓 (トコロヅラ)《35》 ここに八尋(ヤヒロ)白智鳥(シロチドリ)に化(ナ)りて、天(アメ)に翔(カ ケ)りて浜に向きて飛び行(イ)でましき。ここにその后またその御子(ミコ)等 (タチ)、その小竹(シノ)の苅杙(カリクヒ)に足○<「足へんに「非」>(キ) り破れども、その痛きを忘れて哭(ナ)きて追ひたまひき。 この時歌曰(ウタ)ひたまはく、 浅小篠原(アサシノハラ) 腰なづむ 空は行かず 足よ行くな《36》 またその海塩(ウシホ)に入(イ)りて、なづみ行きましし時に歌曰(ウタ)ひたま はく、 海が行けば 腰なづむ 大河原(オホカハラ)の 植(ウ)ゑ草(グサ) 海がはい さよふ《37》 また飛びてその礒(イソ)に居たまひし時に、歌曰(ウタ)ひたまはく、 浜つ千鳥(チドリ) 浜よは行かず 礒(イソ)伝(ヅタ)ふ《38》 この四歌は、皆その御葬(ミハブリ)に歌ひき。かれ、今に至るまでその歌は、天皇 (スメラミコト)の大御葬(オホミハブリ)に歌ふなり。 かれ、その国より飛び翔(カケ)り行きて、河内国(カフチノクニ)の志幾(シキ) に留(トド)まりましき。かれ、其地(ソコ)に御陵(ミハカ)を作りて鎮(シヅ) まり坐(マ)さしめき。すなはちその御陵(ミハカ)を号(ナヅ)けて、白鳥御陵 (シラトリノミハカ)と謂(イ)ふ。然るにまた其地(ソコ)よりさらに天(アメ) に翔(カケ)りて飛び行(イ)でましき。凡(オホヨ)そこの倭建命(ヤマトタケル ノミコト)、国を平(コトム)けに廻(メグ)り行でましし時、久米直(クメノアタ ヒ)の祖(オヤ)、名は七拳脛(ナナツカハギ)、恒(ツネ)に膳夫(カシハデ)と して従ひ仕へ奉(マツ)りき。 −−−−− 石王版「古事記」71 −−−−− 9 倭建命(ヤマトタケルノミコト)の子孫 この倭建命(ヤマトタケルノミコト)、伊玖米天皇(イクメノスメラミコト)の女 (ムスメ)、布多遅能伊理毘売命(フタヂノイリビメノミコト)を娶(メト)して生 みましし御子(ミコ)、帯中津日子命(タラシナカツヒコノミコト)。一柱。またそ の海に入(イ)りたまひし弟橘比売命(オトタチバナヒメノミコト)を娶(メト)し て生みましし御子(ミコ)、若建王(ワカタケルノミコ)。一柱。また近淡海(チカ ツアフミ)の安国造(ヤスノクニノミヤツコ)の祖(オヤ)、意富多牟和気(オホタ ムワケ)の女(ムスメ)、布多遅比売(フタヂヒメ)を娶(メト)して生みましし御 子(ミコ)、稲依別王(イナヨリワケノミコ)。一柱。また吉備臣建日子(キビノオ ミタケヒコ)の妹、大吉備建比売(オホキビタケヒメ)を娶(メト)して生みましし 御子(ミコ)、建貝児王(タケカヒコノミコ)。一柱。また山代(ヤマシロ)の玖々 麻毛理比売(ククマモリヒメ)を娶(メト)して生みましし御子(ミコ)、足鏡別王 (アシカガミワケノミコ)。一柱。また一妻(アルミメ)の子、息長田別王(オキナ ガタワケノミコ)。凡(オホヨ)そこの倭建命の御子等、并(アハ)せて六柱なり。 かれ、帯中津日子命(タラシナカツヒコノミコト)は天(アメ)の下治(シ)らしめ き。次に稲依別王(イネヨリワケノミコ)は、犬上君(イヌカミノキミ)・建部君 (タケルベノキミ)等(ラ)の祖(オヤ)。次に建貝児王(タケカヒコノミコ)は、 讃岐(サヌキ)の綾君(アヤノキミ)・伊勢之別(イセノワケ)・登袁之別(トヲノ ワケ)・麻佐首(マサノオビト)・宮首之別(ミヤノオビトノワケ)等の祖(オ ヤ)。足鏡別王(アシカガミワケノミコ)は鎌倉之別(カマクラノワケ)・小津(ヲ ヅ)・石代之別(イハシロノワケ)・漁田之別(イサリダノワケ)の祖(オヤ)な り。次に息長田別王(オキナガタワケノミコ)の子、杙俣長日子王(クヒマタナガヒ コノミコ)。この王(ミコ)の子、飯野真黒比売命(イヒノマグロヒメノミコト)、 次に息長真若中比売(オキナガマワカナカツヒメ)、次に弟比売(オトヒメ)。三 柱。かれ、上(カミ)に云(イ)ひし若建王(ワカタケルノミコ)、飯野真黒比売 (イヒノマグロヒメ)を娶(メト)して生みましし子、須売伊呂大中日子王(スメイ ロオホナカツヒコノミコ)。この王(ミコ)、淡海(アフミ)の柴野入杵(シバノイ リキ)の女(ムスメ)を娶(メト)して生みましし子、迦具漏比売命(カグロヒメノ ミコト)。かれ、大帯日子天皇(オホタラシヒコノスメラミコト)、この迦具漏比売 命(カグロヒメノミコト)を娶(メト)して生みましし子、大江王(オホエノミ コ)。一柱。かれ、この王(ミコ)、庶妹(ママイモ)銀王(シロガネノミコ)を娶 (メト)して生みましし子、大名方王(オオナガタノミコ)、次に大中比売命(オホ ナカツヒメノミコト)。二柱。かれ、この大中比売命(オホナカツヒメノミコト) は、香坂王(カゴサカノミコ)・忍熊王(オシクマノミコ)の御祖(ミオヤ)なり。 この大帯日子天皇(オホタラシヒコノスメラミコト)の御年(ミトシ)、壱佰参拾漆 歳(モモトセアマリミトセアマリナナトセ)なり。御陵(ミハカ)は山辺(ヤマノ ベ)の道の上(ヘ)にあり。 −−−−− 石王版「古事記」72 −−−−− 成務天皇 若帯日子天皇(ワカタラシヒコノスメラミコト)、近淡海(チカツアフミ)の志賀 (シガ)の高穴穂宮(タカアナホノミヤ)に坐(イマ)して天(アメ)の下治(シ) らしめしき。この天皇、穂積臣(ホヅミノオミ)等の祖(オヤ)建忍山垂根(タケオ シヤマタリネ)の女(ムスメ)、名は弟財郎女(オトタカラノイラツメ)を娶(メ ト)して生みましし御子(ミコ)、和訶奴気王(ワカヌケノミコ)。一柱。かれ、建 内宿禰(タケシウチノスクネ)を大臣(オホオミ)として、大国(オホクニ)・小国 (ヲクニ)の国造(クニノミヤツコ)を定めたまひ、また国国の堺、また大県(オホ アガタ)・小県(ヲアガタ)の県主(アガタヌシ)を定めたまひき。天皇の御年、玖 拾五歳(ココノソトセアマリイツトセ)。乙卯(キノトウ)の年の三月(ヤヨヒ)十 五日(トヲアマリイツカ)に崩(カムアガ)りましき。御陵(ミハカ)は沙紀(サ キ)の多他那美(タタナミ)にあり。 −−−−− 石王版「古事記」73 −−−−− 仲哀(チュウアイ)天皇 1 后妃と御子 帯中日子天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト)、穴門(アナト)の豊浦宮(トヨ ラノミヤ)、また筑紫の訶志比宮(カシヒノミヤ)に坐(イマ)して天(アメ)の下 (シタ)治(シ)らしめしき。この天皇、大江王(オホエノミコ)の女(ムスメ)大 中津比売命(オホナカツヒメノミコト)を娶(メト)して生みましし御子、香坂王 (カゴサカノミコ)・忍熊王(オシクマノミコ)。二柱。また息長帯比売命(オキナ ガタラシヒメノミコト)。こは大后なり。を娶(メト)して生みましし御子、品夜和 気命(ホムヤワケノミコト)、次に大鞆和気命(オホトモワケノミコト)、亦の名は 品陀和気命(ホムダワケノミコト)。二柱。この太子(ヒツギノミコ)の御名(ミ ナ)に大鞆和気命(オホトモワケノミコト)と負はせし所以(ユヱ)は初め生(ア) れましし時、鞆(トモ)の如き宍御腕(シシミタダムキ)に生(ナ)りき。かれ、そ の御名に著(ツ)けまつりき。ここをもちて腹中(ハラヌチ)に坐(イマ)して国を 知らしめしき。この御世に淡道(アハヂ)の屯家(ミヤケ)を定めたまひき。 −−−−− 石王版「古事記」74 −−−−− 2 神功皇后の神がかりと神託 その大后(オホキサキ)息長帯日売命(オキナガタラシヒメノミコト)は、当時(ソ ノトキ)帰神(カムガカリ)したまひき。かれ、天皇(スメラミコト)筑紫(ツク シ)の訶志比宮(カシヒノミヤ)に坐(イマ)して、熊曽国(クマソノクニ)を撃 (ウ)たむとしたまひし時、天皇御琴(ミコト)を控(ヒ)かして、建内宿禰大臣 (タケシウチノスクネノオホオミ)沙庭(サニハ)に居(ヰ)て、神の命(ミコト) を請(コ)ひき。ここに大后帰神(カムガカリ)して、言(コト)教へ覚(サト)し て詔(ノ)りたまはく、「西の方(カタ)に国あり。金(クガネ)銀(シロガネ)を 本(ハジメ)として、目の炎耀(カカヤ)く種々(クサグサ)の珍(ウヅ)の宝、多 (サハ)にその国にあり。吾(ワレ)、今その国を帰(ヨ)せ賜はむ」とのりたまひ き。 ここに天皇答へて白(マヲ)したまはく、「高き地(トコロ)に登りて西の方を見れ ば、国土(クニ)は見えず。ただ大海のみあり」とまをしたまひて、詐(イツハリ) せす神と謂(オモ)ほして、御琴(ミコト)を押し退(ソ)けて控(ヒ)きたまは ず、黙(モダ)坐(イマ)しき。ここにその神大(イタ)く忿(イカ)りて詔(ノ) りたまはく、「凡(オホヨ)そこの天下(アメノシタ)は、汝(イマシ)の知らすべ き国にあらず。汝は一道(ヒトミチ)に向ひたまへ」とのりたまひき ここに建内宿禰(タケシウチノスクネノ)大臣(オホオミ)白(マヲ)さく、「恐 (カシコ)し。我(ワ)が天皇(スメラミコト)、なほ大御琴をあそばせ」とまをし き。ここに稍(ヤクヤ)くその御琴を取り依せて、なまなまに控(ヒ)きましき。か れ、未(イマ)だ幾久(イクダ)もあらずて、御琴の音(オト)聞(キコ)えざり き。すなはち火を挙げて見れば、既に崩(カムアガ)りましぬ。 ここに驚き懼(オ)ぢて、殯宮(アラキノミヤ)に坐(イマ)せまつりて、更に国の 大ぬさを取りて、生剥(イケハギ)・逆剥(サカハギ)・阿離(アハナチ)・溝埋 (ミゾウメ)・屎戸(クソヘ)・上通下通婚(オヤコタハケ)・馬婚(ウマタハケ) ・牛婚(ウシタハケ)・鶏婚(トリタハケ)・犬婚(イヌタハケ)の罪の類(タグ ヒ)を種々(クサグサ)求(マ)ぎて、国の大祓(オオハラヘ)をして、また建内宿 禰(タケシウチノスクネ)沙庭(サニハ)に居て神の命(ミコト)を請(コ)ひき。 ここに教へ覚(サト)したまふ状(サマ)、具(ツブサ)に先の日の如(ゴト)く、 「凡(オホヨ)そこの国は、汝命(イマシミコト)の御腹(ミハラ)に坐(イマ)す 御子(ミコ)の知らさむ国ぞ」とさとしたまひき。 ここに建内宿禰白(マヲ)さく、「恐(カシコ)し。我が大神、その神の腹に坐(イ マ)す御子(ミコ)は、何(イヅ)れの子(ミコ)にか」とまをせば、「男子(ヲノ コゴ)なり」と答へて詔(ノ)りたまひき。ここに具(ツブサ)に請(コ)ひまつら く、「今かく言(コト)教(ヲシ)へたまふ大神は、その御名(ミナ)を知らまく欲 し」とこへば、即ち答へて詔(ノ)りたまはく、「こは天照大神の御心なり。また底 筒男(ソコツツノヲ)・中筒男(ナカツツノヲ)・上筒男(ウハツツノヲ)の三柱の 大神なり。この時にその三柱の大神の御名は顕(アラハ)れき。今まことにその国を 求めむと思ほさば、天神(アマツカミ)地祇(クニツカミ)、また山の神と河海の諸 (モロモロ)の神に悉(コトゴト)に幣帛(ミテグラ)を奉り、我が御魂(ミタマ) を船の上に坐せて、真木(マキ)の灰を瓠(ヒサゴ)に納(イ)れ、また箸(ハシ) と葉盤(ヒラデ)を多(サハ)に作りて、皆皆大海に散らし浮けて度(ワタ)ります べし」とのりたまひき。 −−−−− 石王版「古事記」75 −−−−− 3 神功皇后の新羅遠征 かれ、備(ツブサ)に教へ覚(サト)したまひし如(ゴト)くして、軍(イクサ)を 整へ船双(ナ)めて度(ワタ)り幸(イデマ)しし時、海原の魚、大小(トホシロク チヒサ)きを問はず悉(コトゴト)に御船を負ひて渡りき。ここに順風(オヒカゼ) 大(イタ)く起りて、御船浪の従(マニマ)にゆきつ。かれ、その御船の波瀾(ナ ミ)、新羅(シラギ)の国に押し騰(アガ)りて、既に半国(クニノナカラ)に到 (イタ)りき。ここにその国王(コニキシ)畏惶(カシコ)みて奏言(マヲ)さく、 「今より以後(ノチ)天皇(スメラミコト)の命(ミコト)のまにまに、御馬甘(ミ マカヒ)として、毎年(トシノハ)に船双(ナ)めて、船腹(フナバラ)乾(ホ)さ ず、○<木へんに「施」の(方」の無い字>(サヲ)<「楫」の右に「戈」>(カ ヂ)乾さず、天地(アメツチ)の共(ムタ)退(タユ)むことなく仕へ奉らむ」とま をしき。 かれ、是(ココ)をもちて新羅国(シラギノクニ)は御馬甘(ミマカヒ)と定め、百 済国(クダラノクニ)は渡(ワタリ)の屯家(ミヤケ)と定めたまひき。ここにその 御杖(ミツヱ)以(モ)ちて新羅の国主(コニキシ)の門(カド)に衝(ツ)き立 て、すなはち墨江大神(スミエノオホカミ)の荒御魂(アラミタマ)を以ちて、国守 ります神として祭り鎮(シヅ)めて還(カヘ)り渡りたまひき。 かれ、その政(マツリゴト)未(イマ)だ竟(ヲ)へざりし間に、その懐妊(ハラ) みたまふが産(ア)れまさむとしき。すなはち御腹(ミハラ)を鎮(シヅ)めたまは むとして、石を取りて御裳(ミモ)の腰に纒(マ)かして、筑紫国(ツクシノクニ) に渡りまして、その御子(ミコ)はあれましぬ。かれ、その御子の生(ア)れましし 地(トコロ)を号(ナヅ)けて宇美(ウミ)と謂(イ)ふ。またその御裳に纒(マ) かしし石は、筑紫国の伊斗村(イトノムラ)にあり。 また筑紫の末羅県(マツラノアガタ)の玉島里(タマシマノサト)に到(イタ)りま して、その河の辺に御食(ミヲシ)したまひし時、四月(ウヅキ)の上旬(ハジメノ コロ)に当たりき。ここにその河中の礒(イソ)に坐(イマ)して、御裳(ミモ)の 糸を抜き取り、飯粒(イヒボ)を餌(ヱ)にしてその河の年魚(アユ)を釣りたまひ き。その河の名を小河と謂(イ)ふ。またその礒の名を勝門比売(カチトヒメ)と謂 ふ。かれ、四月(ウヅキ)の上旬(ハジメノコロ)の時、女人(ヲミナ)裳の糸を抜 き、粒(イヒボ)を餌(ヱ)にして年魚(アユ)を釣ること、今に至るまで絶えず。 −−−−− 石王版「古事記」76 −−−−− 4 忍熊王(オシクマノミコ)の反逆 ここに息長帯日売命(オキナガタラシヒメノミコト)、倭(ヤマト)に還(カヘ)り 上(ノボ)ります時、人の心疑はしきによりて、喪船(モフネ)を一つ具(ソナ)へ て御子(ミコ)をその喪船に載(ノ)せて、まづ「御子は既(スデ)に崩(カムア ガ)りましぬ」と言ひ漏(モ)らさしめたまひき。かく上(ノボ)り幸(イデマ)す 時、香坂王(カゴサカノミコ)・忍熊王(オシクマノミコ)聞きて、待ち取らむと思 ひて、斗賀野(トガノ)に進み出(イ)でてうけひ○<けものへんに「葛」>(ガ リ)をしき。 ここに香坂王(カゴサカノミコ)、歴木(クヌギ)に騰(ノボ)り坐(イマ)すに、 ここに大きなる怒り猪(ヰ)出(イ)でて、その歴木(クヌギ)を堀りて、即ちその 香坂王(カゴサカノミコ)を咋(ク)ひ食(ハ)みき。その弟(イロド)忍熊王(オ シクマノミコ)、その態(ワザ)を畏(カシコ)まずて軍(イクサ)を興(オコ)し て待ち向(ムカ)へし時、喪船(モフネ)に赴(オモム)きて空船(ウツホフネ)を 攻めむとしき。ここにその喪船より軍(イクサ)を下(オ)ろして相戦ひき。この時 忍熊王(オシクマノミコ)、難波(ナニハ)の吉師部(キシベ)の祖(オヤ)伊佐比 宿禰(イサヒノスクネ)を将軍(イクサノキミ)とし、太子(ヒツギノミコ)の御方 (ミカタ)には、丸邇臣(ワニノオミ)の祖(オヤ)難波波根子建振熊命(ナニハネ コタケフルクマノミコト)を将軍(イクサノキミ)としたまひき。かれ、追ひ退 (ソ)けて山代(ヤマシロ)に到(イタ)りし時、還(カヘ)り立ちて各(オノオ ノ)退かずて相戦ひき。 ここに建振熊命(タケフルクマノミコト)権(タバカ)りて、「息長帯日売命(オキ ナガタラシヒメノミコト)は既に崩(カムアガ)りましぬ。かれ、更に戦ふべきこと なし」と云(イ)はしめて、即ち弓絃(ユヅル)を絶ちて、欺陽(イツハ)りて帰服 (マツロ)ひき。ここにその将軍(イクサノキミ)既に詐(イツハリ)を信(ウ)け て、弓を弭(ハヅ)し、兵(ツハモノ)を蔵(ヲサ)めき。ここに頂髪(タキフサ) の中より設弦(ウサユヅル)を採(ト)り出(イダ)して、更に張りて追ひ撃ちき。 かれ、逢坂(アフサカ)に逃げ退(ソ)きて、対(ムカ)ひ立ちてまた戦ひき。ここ に追ひ迫(セ)めて沙々那美(ササナミ)に敗(ヤブ)り、悉(コトゴト)にその軍 (イクサ)を斬りつ。ここにその忍熊王(オシクマノミコ)と伊佐比宿禰(イサヒノ スクネ)と、共に追ひ迫(セ)めらえて、船に乗りて海に浮かびて、歌ひて曰はく、 いざ吾君(アギ) 振熊(フルクマ)が 痛手(イタデ)負(オ)はずは 鳰鳥(ニ ホドリ)の 淡海(アフミ)の海に 潜(カヅ)きせなわ《39》 とうたひて、即ち海に入りて共に死にき。 −−−−− 石王版「古事記」77 −−−−− 5 気比大神(ケヒノオホカミ) かれ、建内宿禰命(タケシウチノスクネノミコト)、その太子(ヒツギノミコ)を率 (ヰ)て、禊(ミソキ)せむとして淡海(アフミ)また若狭国(ワカサノクニ)を経 歴(ヘ)し時、高志(コシ)の、前(ミチノク)の角鹿(ツヌガ)に仮宮(カリミ ヤ)を造りて坐(イマ)さしめき。ここに其地(ソコ)に坐す伊奢沙和気大神(イザ サワケノオホカミ)の命(ミコト)、夜の夢(イメ)に見えて、「吾が名を御子(ミ コ)の御名(ミナ)に易(カ)へまく欲し」と云(ノ)りたまひき。ここの言祷(コ トホ)ぎて白(マヲ)さく、「恐(カシコ)し。命(ミコト)のまにまに易(カ)へ 奉(マツ)らむ」とまをしき。またその神詔(ノ)りたまはく、「明日(アス)の旦 (アシタ)、浜に幸(イデマ)すべし。名を易(カ)へし幣(マヒ)献(タテマツ) らむ」とのりたまひき かれ、その旦(アシタ)浜に幸(イデマ)しし時、鼻毀(ヤブ)れたる入鹿魚(イル カ)、既に一浦(ヒトウラ)に依(よ)りき。ここに御子(ミコ)、神に白(マヲ) さしめて云(ノ)りたまはく、「我に御食(ミケ)の魚(ナ)を給ひき」とのりたま ひき。かれ、またその御名(ミナ)を称(タタ)へて御食津大神(ミケツオホカミ) と号(ナヅ)けき。かれ、今に気比大神(ケヒノオホカミ)と謂(イ)ふ。またその 入鹿魚(イルカ)の鼻の血臭(クサ)かりき。かれ、その浦を号(ナヅ)けて血浦 (チヌラ)と謂(イ)ひき。今は都奴賀(ツヌガ)と謂(イ)ふ。 −−−−− 石王版「古事記」78 −−−−− 6 酒楽(サカクラ)の歌 ここに還(カヘ)り上(ノボ)りましし時、その御祖(ミオヤ)息長帯日売命(オキ ナガタラシヒメノミコト)、待酒(マチザケ)を醸(カ)みて献(タテマツ)らし き。ここにその御祖(ミオヤ)御歌に曰(ノ)りたまはく、 この御酒(ミキ)は 我が御酒(ミキ)ならず 酒(クシ)の司(カミ) 恒世(ト コヨ)に坐(イマ)す 石(イハ)立(タ)たす 少名御神(スクナミカミ)の 神 (カム)寿(ホ)き 寿(ホ)き狂(クル)ほし 豊(トヨ)寿(ホ)き 寿(ホ) き廻(モト)ほし 献(マツ)り来(コ)し御酒(ミキ)ぞ あさず食(ヲ)せ さ さ《40》 かく歌ひて大御酒(オホミキ)を献(タテマツ)りき。ここに建内宿禰命(タケシウ チノスクネノミコト)、御子(ミコ)の為に答へて歌ひて曰(イ)はく、 この御酒(ミキ)を 醸(カ)みけむ人は その鼓(ツヅミ) 臼(ウス)に立てて  歌ひつつ 醸(カ)みけれかも 舞ひつつ 醸(カ)みけれかも この御酒(ミ キ)の 御酒の あやに うた楽(ダノ)し ささ《41》 こは酒楽(サカクラ)の歌なり。 凡(オホヨ)そ帯中津日子天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト)の御年(ミト シ)、伍拾弐歳(イソトセアマリフタトセ)。壬戌年(ミヅノエイヌノトシノ)六月 (ミナツキ)十一日(トヲカアマリヒトヒ)に崩(カムアガ)りましき。御陵(ミハ カ)は河内の恵賀(ヱガ)の長江(ナガエ)にあり。皇后(オホキサキ)は御年一百 歳(モモトセ)にして崩(カムアガ)りましき。狭城(サキ)の楯列陵(タタナミノ ミササキ)に葬(ハブ)りまつりき。 −−−−− 石王版「古事記」79 −−−−− 応神天皇 1 后妃と御子 品陀和気命(ホムダワケノミコト)、軽島(カルシマ)の明宮(アキラノミヤ)に坐 (イマ)して、天(アメ)の下治(シ)らしめしき。この天皇、品陀真若王(ホムダ ノマワカノミコ)の女(ムスメ)、三柱の女王(ヒメミコ)を娶(メト)したまひ き。一(ヒトハシラ)の名は高木之入日売命(タカキノイリヒメノミコト)、次に中 日売命(ナカツヒメノミコト)、次に弟日売命(オトヒメノミコト)。この女王(ヒ メミコ)等(タチ)の父品陀真若王(ホムダノマワカノミコ)は、五百木之入日子命 (イホキノイリヒコノミコト)、尾張連(ヲハリノムラジ)の祖(オヤ)建伊那陀宿 禰(タケイナダノスクネ)の女(ムスメ)、志理都紀斗売(シリツキトメ)を娶(メ ト)して生みし子なり。かれ、高木之入日売(タカキノイリヒメ)の子、額田大中日 子命(ヌカタノオホナカツヒコノミコト)、次に大山守命(オホヤマモリノミコ ト)、次に伊奢之真若命(イザノマワカノミコト)、次に妹(イモ)大原郎女(オホ ハラノイラツメ)、次に高目郎女(コムクノイラツメ)。五柱。中日売命(ナカツヒ メノミコト)の御子(ミコ)、木之荒田郎女(キノアラタノイラツメ)、次に大雀命 (オホサザキノミコト)、次に根鳥命(ネトリノミコト)。三柱。弟日売命(オトヒ メノミコト)の御子(ミコ)、安倍郎女(アベノイラツメ)、次に阿貝知能三腹郎女 (アハヂノミハラノイラツメ)、次に木之菟野郎女(キノウノノイラツメ)、次に三 野郎女(ミノノイラツメ)。五柱。 また丸邇(ワニ)の比布礼能意富美(ヒフレノオホミ)の女(ムスメ)、名は宮主 (ミヤヌシ)矢河枝比売(ヤカハエヒメ)を娶(メト)して生みましし御子(ミ コ)、宇遅能和紀郎子(ウヂノワキイラツコ)、次に妹(イモ)八田若郎女(ヤタノ ワキイラツメ)、次に女鳥王(メドリノミコ)。三柱。またその矢河枝比売(ヤカハ エヒメ)の弟(イロド)、袁那弁郎女(ヲナベノイラツメ)を娶(メト)して生みま しし御子(ミコ)、宇遅之若郎女(ウヂノワキイラツメ)。一柱。また咋俣長日子王 (クヒマタナガヒコノミコ)の女(ムスメ)、息長真若中比売(オキナガマワカナカ ツヒメ)を娶(メト)して生みましし御子(ミコ)、若沼毛二俣王(ワカヌケフタマ タノミコ)。一柱。また桜井の田部連(タベノムラジ)の祖(オヤ)、島垂根(シマ タリネ)の女糸井比売(イトヰヒメ)を娶(メト)して生みましし御子(ミコ)、速 総別命(ハヤブサワケノミコト)。一柱。 また日向(ヒムカ)の泉長比売(イヅミノナガヒメ)を娶(メト)して生みましし御 子(ミコ)、大羽江命(オホハエノミコ)、次に小羽江王(ヲハエノミコ)、次に幡 日之若郎女(ハタヒノワキイラツメ)。三柱。また迦具漏比売(カグロヒメ)を娶 (メト)して生みましし御子(ミコ)、川原田郎女(カハラダノイラツメ)、次に玉 郎女(タマノイラツメ)、次に忍坂大中比売(オサカノオホナカツヒメ)、次に登富 志郎女(トホシノイラツメ)、次に迦多遅王(カタヂノミコ)。五柱。また葛城(カ ヅラキ)の野伊呂売(ノノイロメ)を娶(メト)して生みましし御子(ミコ)、伊奢 能麻和迦王(イザノマワカノミコ)。一柱。この天皇の御子等(タチ)、并(アハ) せて廿六王(ハタチアマリムハシラ)。男王(ヒコミコ)十一(トヲアマリヒトハシ ラ)、女王(ヒメミコ)十五(トヲアマリイツハシラ)。この中に大雀命(オホサザ キノミコト)は、天(アメ)の下治(シ)らしめしき。 −−−−− 石王版「古事記」80 −−−−− 2 大山守命(オホヤマモリノミコト)と大雀命(オホサザキノミコト) ここに天皇(スメラミコト)、大山守命(オホヤマモリノミコト)と大雀命(オホサ ザキノミコト)とに問ひて詔(ノ)りたまはく、「汝(イマシ)等(タチ)は、兄 (エ)の子と弟(オト)の子と○<「塾」の字の「土」が無い字>(イヅ)れか愛 (ハ)しき」とのりたまひき。天皇この問を発(オコ)したまひし所以(ユヱ)は、 守遅能和紀郎子(ウヂノワキイラツコ)に天下(アメノシタ)治(シ)らさしめむの 心ありつればなり。ここに大山守命(オホヤマモリノミコト)、「兄(エ)の子ぞ愛 (ハ)しき」と白(マヲ)したまひき。次に大雀命(オホサザキノミコト)は、天皇 の問ひ賜ひし大御情(オホミココロ)を知らして白(マヲ)したまはく、「兄(エ) の子は既に人と成りぬれば、これいぶせきこと無きを、弟(オト)の子は未(イマ) だ人と成らねば、これぞ愛(ハ)しき」とまをしたまひき。 ここに天皇詔(ノ)りたまはく、「佐耶岐(サザキ)、吾君(アギ)の言(コト)ぞ 我が思ふが如(ゴト)くなる」とのりたまひて、即(スナハ)ち詔(ノ)り別(ワ) けたまはく、「大山守命(オホヤマモリノミコト)は山(ヤマ)海(ウミ)の政(マ ツリゴト)せよ。大雀命(オホサザキノミコト)は食国(ヲスクニ)の政を執りて白 (マヲ)したまへ。宇遅能和紀郎子(ウヂノワキイラツコ)は、天津日継(アマツヒ ツギ)を知らしめせ」とのりたまひき。かれ、大雀命は天皇の命(ミコト)に違(タ ガ)ひたまふことなかりき。 −−−−− 石王版「古事記」81 −−−−− 3 矢河枝比売(ヤカハエヒメ) 一時(アルトキ)、天皇近(チカ)つ淡海国(アフミノクニ)に越え幸(イデマ)し し時、宇遅野(ウヂノ)の上に御(ミ)立(タ)ちして、葛野(カヅノ)を望(ミ サ)けて歌ひて曰はく、 千葉(チバ)の 葛野(カヅノ)を見れば 百(モモ)千(チ)足(ダ)る 家庭 (ヤニハ)も見ゆ 国の秀(ホ)も見ゆ《42》 かれ、木幡村(コハタノムラ)に到(イタ)りましし時、麗美(ウルハ)しき嬢子 (ヲトメ)その道衢(チマタ)に遇(ア)ひき。ここに天皇、その嬢子に問ひて曰 (ノ)りたまはく、「汝(イマシ)は誰(タ)が子ぞ」とのりたまへば、答へて白 (マヲ)さく、「丸邇(ワニ)の比布礼能意富美(ヒフレノオホミ)の女(ムス メ)、名は宮主(ミヤヌシ)矢河枝比売(ヤカハエヒメ)なり」とまをしき。 天皇、すなはちその嬢子(ヲトメ)に詔(ノ)りたまはく、「吾(アレ)、明日(ア ス)還(カヘ)り幸(イデマ)さむ時、汝(ナ)が家に入(イ)りまさむ」とのりた まひき。かれ、矢河枝比売、委曲(ツブサ)にその父に語りき。ここに父答へて曰 (イ)はく、「こは天皇に坐(イマ)すなり。恐(カシコ)し。我が子仕へ奉(マ ツ)れ」と云ひて、その家を厳(ヨソヒ)餝(カザ)りて候(サモラ)ひ待てば、明 日(アクルヒ)入(イ)りましき。かれ、大御饗(オホミアヘ)を献(タテマツ)り し時、その女(ムスメ)矢河枝比売命(ヤカハエヒメノミコト)に大御酒盞(オホミ サカヅキ)を取らしめて献りき。ここに天皇、その大御酒盞(オホミサカヅキ)を取 らしめながら、御歌(ミウタ)に曰(ノ)りたまはく、 この蟹(カニ)や いづくの蟹 百(モモ)伝(ヅタ)ふ 角鹿(ツヌガ)の蟹 横 (ヨコ)去(サ)らふ いづくに到(イタ)る 伊知遅島(イチヂシマ) み島に着 (ト)き 鳰鳥(ミホドリ)の 潜(カヅ)き息づき しなだゆふ 佐々那美道(サ サナミチ)を すくすくと 我(ワ)がいませばや 木幡(コハタ)の道に 逢はし し嬢子(ヲトメ) 後方(ウシロデ)は 小楯(ヲダテ)ろかも 歯並(ハナミ)は  椎菱(シヒヒシ)なす 櫟井(イチヒヰ)の 和邇坂(ワニサ)の土(ニ)を 初 土(ハツニ)は 膚(ハダ)赤らけみ 底土(シハニ)は 丹黒(ニグロ)きゆゑ  三(ミ)つ栗(グリ)の その中つ土(ニ)を かぶつく 真火(マヒ)には当てず  眉(マヨ)画(ガ)き こに画(カ)き垂れ 逢はしし美女(ヲミナ) かもがと  我(ワ)が見し子ら かくもがと 我(ア)が見し子に うたたけだに 向ひ居 (ヲ)るかも い添ひ居(ヲ)るかも《43》 とうたひたまひき。かく御合(ミアヒ)しまして生みましし御子(ミコ)は、宇遅能 和紀郎子(ウヂノワキイラツコ)なり。 −−−−− 石王版「古事記」82 −−−−− 4 髪長比売(カミナガヒメ) 天皇(スメラミコト)、日向国(ヒムカノクニ)の諸県君(モロガタノキミ)の女 (ムスメ)、名は髪長比売(カミナガヒメ)その顔容(カタチ)麗美(ウルハ)しと 聞こしめして、使ひたまはむとして喚上(メサ)げたまひし時、その太子(ヒツギノ ミコ)大雀命(オホサザキノミコト)、その嬢子(ヲトメ)の難波津(ナニハヅ)に 泊(ハ)てしを見て、その姿容(カタチ)の端正(キラキラ)しきに感(メ)でて、 すなはち建内宿禰(タケシウチノスクネノ)大臣(オホオミ)に誂(アトラ)へて告 (ノ)りたまはく、「この日向(ヒムカ)より喚上(メサ)げたまひし髪長比売(カ ミナガヒメ)は、天皇の大御所(オホミモト)に請(コ)ひ白(マヲ)して、吾(ア レ)に賜はしめよ」とのりたまひき。ここに建内宿禰大臣大命(オホミコト)を請へ ば、天皇すなはち髪長比売を以(モ)ちてその御子(ミコ)に賜ひき。賜へる状(サ マ)は、天皇豊明(トヨノアカリ)聞こしめしし日に、髪長比売に大御酒(オホミ キ)の柏(カシハ)を握(ト)らしめて、その太子(ヒツギノミコ)に賜ひき。ここ に御歌に曰(ノ)りたまはく、 いざ子ども 野蒜(ノビル)摘(ツ)みに 蒜(ヒル)摘(ツ)みに わが行く道の  香(カ)ぐはし 花橘(ハナタチバナ)は 上枝(ホツエ)は 鳥居(トリヰ)枯 (ガ)らし 下枝(シヅエ)は 人取り枯(ガ)らし 三つ栗(グリ)の 中つ枝 (エ)の ほつもり 赤ら嬢子(ヲトメ)を いざささば 宜(ヨ)らしな《44》 とうたひたまひき。また御歌に曰(ノ)りたまはく、 水(ミヅ)溜(タマ)る 依網池(ヨサミノイケ)の 堰杙(ヰグヒ)打ちが さし ける知らに 蓴(ヌナハ)繰(ク)り 延(ハ)へけく知らに 我が心しぞ いや愚 (ヲコ)にして 今ぞ悔(クヤ)しき《45》 とうたひたまひき。かく歌ひて賜ひき。かれ、その嬢子(ヲトメ)を賜はりし後、太 子(ヒツギノミコ)歌ひて曰(イ)はく、 道の後(シリ) 古波陀(コハダ)嬢子(ヲトメ)を 雷(カミ)のごと 聞こえし かども 相(アヒ)枕(マクラ)まく《46》 とうたひたまひき。また歌ひて曰はく、 道の後(シリ) 古波陀(コハダ)嬢子(ヲトメ)は 争はず 寝(ね)しくをしぞ も うるはしみ思ふ《47》 とうたひたまひき。 −−−−− 石王版「古事記」83 −−−−− 5 国栖(クズ)の歌 また吉野の国主(クズ)等(ドモ)、大雀命(オホサザキノミコト)の佩(ハ)かせ る御刀(ミタチ)を瞻(ミ)て歌ひて曰はく、 品陀(ホムダ)の 日の御子(ミコ) 大雀(オホサザキ) 大雀 佩(ハ)かせる 大刀(タチ) 本剣(モトツルギ) 末ふゆ ふゆ木の すからが下樹(シタキ)の  さやさや《47》 とうたひき。また吉野の白梼上(カシノフ)に横臼(ヨクス)を作りて、その横臼に 大御酒(オホミキ)を醸(カ)みて、その大御酒を献る時、口鼓(クチツヅミ)を撃 (ウ)ち伎(ワザ)をなして、歌ひて曰はく、 白梼(カシ)の生(フ)に 横臼(ヨクス)を作り 横臼に 醸(カ)みし大御酒 (オホミキ) うまらに 聞こしもち飲(ヲ)せ まろが父(チ)《49》 とうたひき。この歌は、国主(クズ)等(ドモ)大贄(オホニヘ)を献(タテマツ) る時々に、恒(ツネ)に今に至るまで詠(ウタ)ふ歌なり。 −−−−− 石王版「古事記」84 −−−−− 6 百済(クダラ)の朝貢 この御世に海部(アマベ)・山部(ヤマベ)・山守部(ヤマモリベ)・伊勢部(イセ ベ)を定めたまひき。また剣池(ツルギノイケ)を作りき。また新羅人(シラギビ ト)参(マヰ)渡(ワタ)り来つ。ここを以(モ)ちて建内宿禰命(タケシノウチノ スクネノミコト)引き率(ヰ)て、渡(ワタリ)の堤池(ツツミノイケ)として百済 池(クダラノイケ)を作りき。また百済の国主(コニキシ)照古王(セウコワウ)、 牡馬(ヲマ)壱疋(ヒトツ)・牝馬(メマ)壱疋(ヒトツ)を阿知吉師(アチキシ) に付けて貢上(タテマツ)りき。この阿知吉師は阿直史(アチキノフビト)等(ラ) の祖(オヤ)。また横刀(タチ)と大鏡とを貢上(タテマツ)りき。また百済国に、 「若(モ)し賢(サカ)しき人あらば貢上(タテマツ)れ」とおほせたまひき。か れ、命(ミコト)を受けて貢上(タテマツ)りし人、名は和邇吉師(ワニキシ)、す なはち論語十巻・千字文一巻、并(アハ)せて十一巻(トヲアマリヒトマキ)をこの 人に付けてすなはち貢進(タテマツ)りき。この和邇吉師(ワニキシ)は文首(フミ ノオビト)等(ラ)の祖(オヤ)。また手人(テヒト)韓鍛(カラカヌチ)名は卓素 (タクソ)、また呉服(クレハトリ)の西素(サイソ)二人を貢上(タテマツ)り、 また秦造(ハタノミヤツコ)の祖(オヤ)、漢直(アヤノアタヒ)の祖(オヤ)、ま た酒を醸(カ)むことを知れる人、名は仁番(ニホ)亦(マタ)の名は須須許理(ス スコリ)等(ラ)参(マヰ)渡り来つ。かれ、この須々許理大御酒(オホミキ)を醸 (カ)みて献(タテマツ)りき。ここに天皇、この献りし大御酒にうらげて、御歌 (ミウタ)に曰(ノ)りたまはく、 須々許理が 醸(カ)みし御酒(ミキ)に われ酔(ヱ)ひにけり ことな酒(グ シ) ゑ酒(グシ)に われ酔ひにけり《50》 かく歌ひて幸在(イデマ)しし時、御杖(ミツヱ)以(モ)ちて大坂の道中(ミチナ カ)の大石(オホイハ)を打ちたまひしかば、その石(イハ)走り避(サ)りき。か れ、諺(コトワザ)に「堅石(カタシハ)も酔人(ヱヒビト)を避く」といふ。 −−−−− 石王版「古事記」85 −−−−− 7 大山守命(オホヤマモリノミコト)の反逆 かれ、天皇崩(カムアガ)りましし後(ノチ)、大雀命(オホサザキノミコト)は天 皇の命(ミコト)に従ひて、天下(アメノシタ)を宇遅能和紀郎子(ウヂノワキイラ ツコ)に譲りたまひき。ここに大山守命(オホヤマモリノミコト)は、天皇の命(ミ コト)に違(タガ)ひてなほ天下(アマノシタ)を獲(エ)と欲(オモ)ひて、その 弟(オト)皇子(ミコ)を殺さむの情(ココロ)ありて、窃(ヒソ)かに兵(ツハモ ノ)を設(マ)けて攻めむとしき。ここに大雀命(オホサザキノミコト)、その兄 (アニ)の兵(ツハモノ)を備ふることを聞かして、即ち使者(ツカヒ)を遣はし て、宇遅能和紀郎子(ウヂノワキイラツコ)に告げしめたまひき。 かれ、聞き驚かして、兵(イクサ)を河の辺(ヘ)に伏せ、またその山の上に○ <「施」の「方」の代わりに糸へん>垣(キヌガキ)を張り帷幕(アゲハリ)を立て て、詐(イツハ)りて舎人(トネリ)を王(ミコ)になして、露(アラ)はに呉床 (アグラ)に坐(イマ)せ、百官(モモノツカサ)恭敬(ヰヤマ)ひ往(ユ)き来 (キ)する状(サマ)、既に王子(ミコ)の坐す所の如くして、さらにその兄王(ア ニミコ)の河を渡らむ時のために、船・○<「楫」の右に「戈」>(カヂ)を具(ソ ナ)へ餝(カザ)り、さな葛(カヅラ)の根を舂(ツ)き、その汁の滑(ナメ)を取 りて、その船の中の簀椅(スバシ)に塗り、踏(フ)まば仆(タフ)るべく設(マ) けて、その王子(ミコ)は布(ヌノ)の衣褌(キヌハカマ)を服(ケ)して、既に賎 (イヤ)しき人の形(スガタ)になりて、○<「楫」の右に「戈」>(カヂ)を執り て船に立ちたまひき。 ここにその兄王(アニミコ)、兵士(イクサビト)を隠し伏せ、衣(コロモ)の中に 鎧(ヨロヒ)を服(キ)て、河の辺に到(イタ)りて船に乗らむとする時に、その厳 (ヨソヒ)餝(カザ)れる処を望(ミサ)けて、弟王(オトミコ)その呉床(アグ ラ)に坐(イマ)すと以為(オモ)ひ、かつて○<「楫」の右に「戈」>(カヂ)を 執(ト)りて船に立ちたまへるを知らずて、即ちその執○<「楫」の右に「戈」>者 (カヂトリ)に問ひて曰はく、「この山に忿怒(イカ)れる大猪(オホヰ)ありと伝 (ツテ)に聞けり。吾(ワレ)その猪(ヰ)を取らむと欲(オモ)ふ。もしその猪を 獲(エ)むや」といひき。 ここに執○<「楫」の右に「戈」>者(カヂトリ)答へて、「能(アタ)はじ」と曰 (イ)ひき。また問ひて、「何の由(ユヱ)にか」と曰(イ)へば、答へて「時々(ヨリヨリ)、往々(トコロドコロ)に取らむとすれども得ざりき。ここをもちて能 (アタ)はじと白(マヲ)すなり」と曰(イ)ひき。河中に渡り到りし時、その船を 傾(カタブ)けしめて、水の中に堕(オト)し入れき。ここにすなはち浮き出(イ) でて、水のまにまに流れ下りき。即ち流れつつ歌ひて曰はく、 ちはやぶる 宇治(ウヂ)の渡(ワタリ)に 棹(サヲ)執(ト)りに 速けむ人し  わがもこに来(コ)む《51》 とうたひき。 ここに河の辺に伏し隠れたる兵(イクサビト)、彼廂(カナタ)此廂(コナタ)もろ ともに興りて、矢(ヤ)刺(サ)して流しき。かれ、訶和羅(カワラ)の前(サキ) に到(イタ)りて沈み入(イ)りき。かれ、鉤(カギ)を以(モ)ちてその沈みし処 を探れば、その衣の中の甲(ヨロヒ)に繋(カカ)りて、かわらと鳴りき。かれ、其 地(ソコ)を号(ナヅ)けて訶和羅(カワラ)の前(サキ)と謂(イ)ふ。ここにそ の骨(カバネ)を掛(カ)き出(イダ)しし時、弟(オト)王(ミコ)歌ひて曰は く、 ちはや人 宇治の渡(ワタリ)に 渡り瀬(ゼ)に 立てる 梓弓(アヅサユミ)檀 弓(ミマユミ) い伐(キ)らむと 心は思(モ)へど い取らむと 心は思へど  本方(モトヘ)は 君を思ひ出(デ) 末方(スヱヘ)は 妹(イモ)を思ひ出 い らなけく そこに思ひ出 かなしけく ここに思ひ出 い伐(キ)らずそ来る 梓弓 (アヅサユミ)檀弓(ミマユミ)《52》 とうたひたまひき。かれ、その大山守命(オホヤマモリノミコト)の骨(カバネ) は、那良山(ナラヤマ)に葬(ハブ)りき。この大山守命は、土形君(ヒヂカタノキ ミ)・幣岐君(ヘキノキミ)・榛原君(ハリハラノキミ)等(ラ)の祖(オヤ)な り。 ここに大雀命(オホサザキノミコト)と宇遅能和紀郎子(ウヂノワキイラツコ)と二 柱、各(オノオノ)天下(アメノシタ)を譲りたまひし間に、海人(アマ)大贄(オ ホニヘ)を貢(タテマツ)りき。ここに兄は辞(イナ)びて弟(オト)に貢(タテマ ツ)らしめ、弟は辞(イナ)びて兄に貢(タテマツ)らしめて、相譲りたまひし間 に、すでにあまたの日を経(ヘ)たり。かく相譲りたまふこと一(ヒトタビ)二時 (フタタビ)にあらざりければ、海人(アマ)すでに往還(ユキキ)に疲れて泣きけ り。かれ、諺(コトワザ)に「海人や、己が物によりて泣く」と曰(イ)ふ。然るに 宇遅能和紀郎子(ウヂノワキイラツコ)は早く崩(カムアガ)りましき。かれ、大雀 命(オホサザキノミコト)天下(アメノシタ)治(シ)らしめしき。 −−−−− 石王版「古事記」86 −−−−− 8 天之日矛(アメノヒホコ)の渡来 また昔、新羅(シラギ)の国王(コニキシ)の子ありき。名は天之日矛(アメノヒホ コ)といふ。この人参(マヰ)渡(ワタ)り来ぬ。参(マヰ)渡り来ぬる所以(ユ ヱ)は、新羅国に一つの沼あり。名は阿具奴摩(アグヌマ)といふ。この沼の辺(ホ トリ)に一(ヒトリ)の賎(イヤ)しき女、昼寝(ヒルイ)したりき。ここに日の耀 (カカヤ)き虹(ニジ)の如くその陰上(ホト)を指(サ)しき。また一(ヒトリ) の賎(イヤ)しき夫(ヲトコ)ありて、その状(サマ)を異(アヤ)しと思ひて、恒 (ツネ)にその女人(ヲミナ)の行(ワザ)を伺(ウカガ)ひき。かれ、この女人、 その昼寝(ヒルイ)せし時より妊身(ハラ)みて、赤玉を生みき。ここにその伺ひし 賎しき夫(ヲトコ)、その玉を乞ひ取りて、恒(ツネ)に裹(ツツ)みて腰に著 (ツ)けたりき。 この人田を山谷(タニ)の間に営(ツク)りき。かれ、耕人(タヒト)等(ラ)の飲 食(ヲシモノ)を、一つの牛に負(オホ)せて山谷(タニ)の中に入(イ)るに、そ の国主(コニキシ)の子、天之日矛(アメノヒホコ)に遇逢(ア)ひき。ここにその 人に問ひて曰はく、「何しかも汝(ナ)は飲食(ヲシモノ)を牛に負(オホ)せて山 谷(タニ)に入る。汝(ナレ)必ずこの牛を殺して食ふならむ」といひて、即ちその 人を捕へて獄囚(ヒトヤ)に入れむとす。その人答へて曰(イ)はく、「吾(アレ) 牛を殺さむとするにあらず。ただ田人(タヒト)の食(ヲシモノ)を送るにこそ」と いひき。然れどもなほ赦(ユル)さざりき。ここにその腰の玉を解きて、その国主 (コニキシ)の子に幣(マヒ)しつ。 かれ、その賎しき夫(ヲトコ)を赦して、その玉を将(モ)ち来て床の辺(ヘ)に置 きしかば、即ち美麗(ウルハ)しき嬢子(ヲトメ)になりぬ。よりて婚(マグハ)ひ して嫡妻(ムカヒメ)としき。ここにその嬢子(ヲトメ)、常に種々(クサグサ)の 珍味(タメツモノ)を設(マ)けて、恒(ツネ)にその夫(ヒコヂ)に食はしめき。 かれ、その国主(コニキシ)の子、心奢(オゴ)りて妻(メ)を詈(ノ)るに、その 女人(ヲミナ)の言はく、「凡(オホヨ)そ吾(アレ)は、汝(イマシ)の妻(メ) となるべき女(ヲミナ)にあらず。吾(ワ)が祖(オヤ)の国に行かむ」といひて、 即ちひそかに小船に乗りて逃遁(ニ)げ度(ワタ)り来て、難波(ナニハ)に留まり き。こは難波の比売碁曽社(ヒメゴソノヤシロ)に坐(イマ)す阿加流比売(アカル ヒメ)といふ神なり。 ここに天之日矛(アメノヒホコ)、その妻(メ)の遁(ニ)げしことを聞きて、すな はち追ひ渡り来て、難波に到らむとせし間(ホド)に、その渡(ワタリ)の神塞 (サ)へて入れざりき。かれ、更に還(カヘ)りて多遅摩国(タヂマノクニ)に泊 (ハ)てき。即ちその国に留まりて、多遅摩(タヂマ)の俣尾(マタヲ)の女(ムス メ)、名は前津見(マヘツミ)を娶(メト)して生みし子、多遅摩母呂須玖(タヂマ モロスク)。この子、多遅摩斐泥(タヂマヒネ)。この子、多遅摩比那良岐(タヂマ ヒナラキ)。この子、多遅麻毛理(タヂマモリ)。次に多遅摩比多訶(タヂマヒタ カ)、次に清日子(キヨヒコ)。三柱。この清日子、当摩之灯縺iタギマノメヒ)を 娶(メト)して生みし子、酢鹿之諸男(スガノモロヲ)、次に妹(イモ)菅竈由良美 (スガクドユラドミ)。かれ上(カミ)に云(イ)ひし多遅摩比多訶(タヂマヒタ カ)、その姪(メヒ)由良度美(ユラドミ)を娶(メト)して生みし子、葛城(カヅ ラキ)の高額比売命(タカヌカヒメノミコト)。こは息長帯比売命(オキナガタラシ ヒメノミコト)の御祖(ミオヤ)なり。かれ、その天之日矛(アメノヒホコ)の持ち 渡り来(コ)し物は、玉つ宝と云ひて、珠(タマ)二貫(フタツラ)、また浪振るひ れ・浪切るひれ、風振るひれ・風切るひれ、また奥(オキ)つ鏡・辺(ヘ)つ鏡、并 (アハ)せて八種(ヤクサ)なり。こは伊豆志(イヅシ)の八前(ヤマヘ)の大神な り。 −−−−− 石王版「古事記」87 −−−−− 9 秋山之下氷壮夫(アキヤマノシタヒヲトコ)と春山之霞壮夫(ハルヤマノカスミ ヲトコ) かれ、この神の女(ムスメ)、名は伊豆志袁登売神(イヅシヲトメノカミ)坐(イ マ)しき。かれ、八十神(ヤソガミ)この伊豆志袁登売(イヅシヲトメ)を得むと欲 (オモ)へども、皆得(エ)婚(マグハ)ひせざりき。ここに二(フタハシラ)の神 あり。兄(アニ)は秋山之下氷壮夫(アキヤマノシタヒヲトコ)と号(ナヅ)け、弟 (オト)は春山之霞壮夫(ハルヤマノカスミヲトコ)と名づく。かれ、その兄、その 弟(オト)に謂(イ)はく「吾(アレ)、伊豆志袁登売(イヅシヲトメ)を乞へど も、得(エ)婚(マグハ)ひせず。汝(ナ)はこの嬢子(ヲトメ)を得むや」といひ き。答へて曰(イ)はく「易(ヤス)く得む」といひき。ここにその兄曰(イ)は く、「若(モ)し汝(ナレ)この嬢子(ヲトメ)を得ることあらば、上下(カミシ モ)の衣服(キモノ)を避(サ)り、身の高(タケ)を量(ハカ)りて甕(ミカ)に 酒を醸(カ)み、また山河(ヤマカハ)の物を悉(コトゴト)に備へ設(マ)けて、 うれづくをせむ」といひき。 ここにその弟、兄の言ひしが如く、具(ツブサ)にその母に白(マヲ)せば、すなは ちその母、ふぢ葛(カヅラ)を取りて、一宿(ヒトヨ)の間(ホド)に、衣(キヌ) ・褌(ハカマ)また襪(シタクツ)・沓(クツ)を織り縫ひ、また弓矢を作りて、そ の衣(キヌ)・褌(ハカマ)等(ドモ)を服(キ)せ、その弓矢を取らしめて、その 嬢子(ヲトメ)の家に遣はせば、その衣服(キモノ)また弓矢悉(コトゴト)に藤の 花になりぬ。ここにその春山之霞壮夫(ハルヤマノカスミヲトコ)、その弓矢を嬢子 の厠(カハヤ)に繋(カ)けき。ここに伊豆志袁登売(イヅシヲトメ)その花を異 (アヤ)しと思ひて、将(モ)ち来る時に、その嬢子の後(シリ)に立ちてその屋 (ヤ)に入る即ち婚(マグハ)ひしつ。かれ、一(ヒトハシラ)の子を生みき。ここ にその兄に白(マヲ)して曰(イ)はく、「吾(ア)は伊豆志袁登売(イヅシヲト メ)を得つ」といひき。 ここにその兄、弟の婚(マグハ)ひしつることを慷慨(イキドホ)りて、そのうれづ くの物を償(ツクノ)はざりき。ここに愁(ウレ)へてその母に白(マヲ)しし時、 御祖(ミオヤ)答へて曰(イ)はく、「我(ワ)が御世の事、よくこそ神(カミ)習 (ナラ)はめ。またうつしき青人草(アヲヒトクサ)習へや。その物償(ツクノ)は ぬ」といひて、その兄(エ)の子を恨みて、すなはちその伊豆志河(イヅシガハ)の 河島の一節竹(ヒトヨダケ)を取りて、八目(ヤツメ)の荒籠(アラコ)を作り、そ の河の石を取り、塩に合(ア)へてその竹の葉に裹(ツツ)みて、詛(トコ)はしめ て言はく、「この竹の葉の青むが如く、この竹の葉の萎(シナ)ゆるが如く、青み萎 (シナ)えよ。またこの塩の盈(ミ)ち乾(フ)るが如く、盈(ミ)ち乾(ヒ)よ。 またこの石の沈むが如く、沈み臥(コ)いよ」と言ひき。かく詛(トコ)はしめて、 烟(カマド)の上に置きき。ここをもちて、その兄八年(ヤトセ)の間、干(ヒ)萎 (シナ)え病(ヤ)み枯れぬ。かれ、その兄患へ泣きて、その御祖(ミオヤ)に請へ ば、即ちその詛戸(トコヒド)を返さしめき。ここにその身、本の如く安らけく平 (タヒ)らぎき。こは神うれづくの言(コト)の本なり。 −−−−− 石王版「古事記」88 −−−−− 10 天皇の子孫 またこの品陀天皇(ホムダノスメラミコト)の御子(ミコ)、若野毛二俣王(ワカノ ケフタマタノミコ)、その母の弟(イロド)、百師木伊呂弁(モモシキイロベ)、亦 (マタ)の名は弟日売真若比売命(オトヒメマワカヒメノミコト)を娶(メト)し て、生みし子、大郎子(オホイラツコ)。亦(マタ)の名は意富々杼王(オホホドノ ミコ)。次に忍坂之大中津比売命(オサカノオホナカツヒメノミコト)。次に田井之 中比売(タヰノナカツヒメ)、次に田宮之中比売(タミヤノナカツヒメ)、次に藤原 之琴節郎女(フヂハラノコトフシノイラツメ)、次に取売王(トリメノミコ)、次に 沙禰王(サネノミコ)。七柱。故(カレ)、意富々杼王(オホホドノミコ)は、三国 君(ミクニノキミ)・波多君(ハタノキミ)・息長(オキナガ)の坂君・酒人君(サ カヒトノキミ)・山道君(ヤマヂノキミ)・筑紫の米多君(メタノキミ)・布勢君 (フセノキミ)等(ラ)の祖(オヤ)なり。また根鳥王(ネトリノミコ)、庶妹(マ マイモ)三腹郎女(ミハラノイラツメ)を娶(メト)して生みし子、中日子王(ナカ ツヒコノミコ)、次に伊和島王(イワジマノミコ)。二柱。また堅石王(カタシハノ ミコ)の子は、久奴王(クヌノミコ)なり。 凡(オホヨ)そこの品陀天皇(ホムダノスメラミコト)の御年(ミトシ)、壱佰参拾 歳(モモトセアマリミソトセ)。甲午(キノエウマ)の年の九月(ナガツキ)九日 (ココノカ)に崩(カムアガ)りましき。御陵(ミハカ)は川内(カフチ)の恵賀 (ヱガ)の裳伏崗(モフシノヲカ)にある。 ***** 古事記(中) 完 *****