あさもよし紀の国 MLログ 平十二年十月 発信者のお名前は省略させて頂きます。


更新 2000/10/22

ログ



0123 名草郡7 00/10.25
 名草郡を神々の里と言いましても、共に名神大社である日前国懸神宮と鳴神社とは余りにも近すぎるのです。
 忌部氏が紀の国に登場するのは、実際の所は、紀氏が大きい勢力を紀の川河口に展開した後の事です。 大和王権が紀氏を牽制すべく、日前國懸神宮の祭祀を司る神人神奴を忌部氏の配下に組み替えたのが発端ではないかとされています。 (和歌山県史)。また蘇我氏が大和で権力を握っていた頃、紀氏は蘇我氏から相当な圧力を受けているとの事で、その先兵として忌部氏が送り込まれたと言う話があります。

 これらから考えますと、紀氏が力を付けたから忌部氏が現れたとなります。6世紀でしょう。 紀氏の勢力拡大にはやはり宮井川用水による灌漑の成功、名草平野の稲作の収穫量がその一助を担っていたでしょうから、忌部氏登場以前に既に宮井川は存在していたと言えます。宮井川の近くだから鳴神社と名をつけたのかも知れません。

 それにしても、鳴神社が式内大社として国家的奉幣を受ける存在となっているのは不思議な気がします。
 中臣氏が登場して以降衰えたとはいえ忌部氏は名門氏族でした。その忌部氏の朝廷での影響力などが陰に陽に働いているのではと考えられます。 もう一つは、後で天石戸隠れ事件でも触れる事になるでしょうが、忌部氏の祖神の天太玉命は日前神国懸神が天照大神とすれば、この神を祭る役割があったはずなのです。 祭るものがいなくなった神は朽ち果てるしかありません。神はおのれを祭る者を護らざるを得ないと言う事もあったのでしょう。すなわち日前國懸神宮の祭祀を司る神人神奴が忌部氏の配下に組み込まれたと言う見方が正鵠を得ているように思われます。
 その結果として、忌部氏の聖地としての神社は残ったようです。 しかも鳴神社は日前國懸神宮と紀氏の墳墓群との間に割り込んだ場所です。

 紀氏は喉元に刃を突きつけられた形になります。
 忌部氏の楔を名草郡に打ち込んだ際には、木材搬出の権利は忌部氏、宮井川の水の配分を司るのはやはり紀氏、しかし宮井川の取水口のある地域の統治は忌部氏のコントロール下において、紀氏を牽制するといった妥協が成り立ったのかもしれません。 宮井用水の取水口のある三毛には忌部氏の祖神彦狭知命を祭神とする上小倉神社が鎮座しています。 また桃山町には、安土桃山時代建築の文化財である三船神社も鎮座し、紀伊忌部氏の祖神を祭る名社です。
 紀州飛鳥と言われる貴志川町の遺跡の多くは忌部氏の残したものかもしれません。

0120、0122 金屋の由来 00/10.22
「和歌山の地名」(平凡社)という本を紹介してもらったので 夢中になって読んでいました。私なりの学習の成果です。 まー、何をいまさらと思われる方、興味の無い方は削除してくださいね。

◆有田郡金屋町金屋…「続風土記」に「古鋳物師などありて村名となれるなるし」とあるように、鋳物師がいたことによって発生した地名である。

◆那賀郡岩出町金屋…当地の地質は鋳型を作るのに適していたらしく、昔(18世紀頃か)、和歌山(市)の鋳物師たちがこの地の土を取りにやってきたという。「続風土記」より

◆和歌山市金谷…   昔、金谷銅山があり、江戸時代は銅の精錬が行われていたが煙害と鉱山水被害が起こり、柑橘・林木・作稲などに被害を与え住民の苦情が百出、さらに採算の合わないことから廃止した。「自大正元年至大正三年鉱山行政訴訟雑件」紀ノ川左岸土地改良区所蔵文書

◆和歌山市北新金屋町…町の東の中野島村にあった銭座に関連する地金納家などが居住したことによるという。

 ついでに中野島銭座(和歌山市中之島)というのは、紀州藩が熊野銅山からの銅を用いて鋳銭した場所らしいです。「南紀徳川史」より
和歌山から、鉄ではなくて銅が産出されたことがわかっただけでもすっきりしました。 これからも和歌山の歴史について勉強したいと思います。

0120、0121 お伊勢さんを通じて、日本文化の原点を考える 00/10.19
和歌山と直接関係ありませんが、熊野詣でのことが含まれていますので 伊勢文化フォーラムの開催を案内します。 
東京と伊勢で開催されます。

東京会場
 とき  平成12年12月16日(土)14:00〜17:00
 ところ よみうりホール(有楽町)
 参加費 1、000円 
 基調講演「貴人たちの祈りと旅」千田稔(国際日本文化研究センター教授)
 シンポジウム「熊野詣でと伊勢参り」
  パネラー 加門七海 (作家 風水を基軸に日本の神々の存在を探る)
        神坂次郎 (作家 熊野にまつわる歴史や文化に造詣が深い)
        千田 稔 (東方信仰を中心に伊勢の空間論を展開)
        西山 克 (京都教育大学教授 参詣曼荼羅に関して造詣が深い)
  司会   神埼宣武 (民俗学者)
        韓   敏 (国立民俗学博物館助教授 中国の観光人類学者) 

伊勢会場
 とき  平成13年1月20日(土)14:00〜18:00
 ところ 神宮会館(有楽町)
 参加費 1、000円 
  シンポジウム part1
パネラー 石森秀三 (国立民俗学博物館教授)
        権 粛寅 (韓国淑明女子大学助教授)
        柴 桂子 (女性史研究家)
        渡辺文雄 (俳優)
  シンポジウム part2
  パネラー 岡田 登 (皇學館大學史料編纂所教授)
        高田公理 (武庫川女子大学教授)
        原田大二郎(俳優)
        ヘイウンズ・ノルマン(國學院大學日本文化研究所専任講師)  
      
  司会   神埼宣武 (民俗学者)
        レーグラント・マリー・ルイゼ(ドイツボン大学大学院日本文化研究科) 

主催 旅の文化研究所
後援 読売新聞社
協賛 三重県 伊勢市 神宮司庁 伊勢商工会議所 伊勢市観光協会 近畿日本鉄道 など

「伊勢文化フォーラム」に関するHPです。
http://www.knt.co.jp/kouhou/bunkaken.htm     

0119 名草郡6 00/10.18
イザナギノ命を祀る古社としては、淡路島津名郡の伊弉諾神宮や滋賀県の多賀大社が知られています。

 余談ですが、淡路島と琵琶湖の形、180度回転させたら重なる位よく似ていると思いませんか。琵琶湖は淡海といいます。 この二つの「淡」を重ね合わせる回転軸が摂津(吹田)に当たり、ここに何と、式内の伊射奈岐神社二座が鎮座しています。どうも偶然とは思えない立地と、どうも今のところ私一人が孤立無援で言っています。 (近くに阪急淡路駅!) 

 イザナギノ命、イザナミノ命が海の神に次いで生んだ水門の神は速秋津彦命、速秋津姫命と言います。和歌山市鳴神の鳴神社には「速秋津彦命、速秋津姫命」が祀られています。
 この神々は、水門を守る神々です。また、鳴神社には、江戸時代に、神官と氏子との間でもめごとがあり、氏子は天太玉命を日前宮に遷し、それ以来水門の神を祀る事になったとか伝えが残っています。 氏子に離れられた鳴神社は衰えていきました。

 鳴神社の「なる」は朝鮮語で「水」を意味するとか。紀の川の水をひいてきた宮井川の水門が鳴神社の近くにあります。この水が名草平野を豊かな穀倉地帯にしたのでしょう。

 宮井川が作られたのは土木技術がある程度向上した古墳時代だろうと思われます。初期の頃の取水口は田井ノ瀬の辺りで、徐々に水位と陸地の高低の関係で、東へ東へと移っていったのでしょう。 和佐に井ノ口という地名が残っています。

 最初に宮井川をひいたのは、その時代の名草の支配者でしょうね。一体誰でしょうか?

 候補1 鳴神社を祀った忌部氏の祖先。
 鳴神社の鎮座地は忌部郷と呼ばれていました。この神社の祭神は忌部氏の遠祖の天太玉命であったとも、また紀州忌部氏の祖の彦狭知命とも言われています。 現在は天太玉命を祭神としていますが、これは3年ほど前の宮司さんが取り入れたようで、それまでは、水門の神だけでした。 今の岡崎に当たる忌部村にも天太玉命を祭る忌部里神社がありました。
 忌部氏は中臣氏台頭以前は朝廷の祭祀を司って来た氏族です。従って橿原宮造営に力を発揮したと伝わるように宮大工的な技術者集団でもあったようです。

 候補2 日前國懸神宮を祀った紀直氏の祖先。この紀氏がまた謎が多い氏族です。ルーツについても諸説あるようです。 先ず、地元で力を付けてきてのし上がった豪族なのか、そこそこの集団として紀の国へやってきたのか、に分かれます。
 更に、やってきたとすれば、いつ頃か、どこからか、ど経緯でやってきたのか、と言う事です。 朝鮮半島からの渡来人か、それは高句麗か百済か新羅か、また渡来系が九州(広うござんす)で力をつけて名草へ来たんでしょうか、 神話にあるが如く、磐余彦軍とともにやってきて、この地におさまったのか、崇神天皇の頃か、神功皇后の頃か、 どうも決定的な説はないようですね。
 宮井川を誰が作ったにしろ、最終的に紀直氏が司る事になるようですが・・。

 候補3 伊太祁曽神社を祀っていた人々。その代表的な巫女が名草戸畔?。彼女の名前はお聞きになった事がおありだと思います。 磐余彦(後の神武天皇)が「名草邑に至る。則ち名草戸畔といふ者を誅す。」と出ている名草の女王です。
戸畔「ここはあがとこやいしょ、どっかへいっておしまい」(紀州弁のつもり)
磐余「¢£%#&*でごわす、おいどんがいただきもうす」(南九州弁のつもり、前半聴き取れず)と殺されてしまったのです。

 名草戸畔の話でついでに。海南市に宇賀部神社(おこべさん)、杉尾神社(おはらさん)、千種神社(あしがみさん)が鎮座しています。 『謎の巨大氏族・紀氏』 (内倉武久さん)三一書房によりますと、邑人は捨て置かれた名草戸畔の頭、胴、足をそれぞれ葬り、祀ったとの伝承があるようです。 杉尾神社の由緒書きにでは「伝承によると、和歌の浦のどの浦か定かではないが、大きな龍が流れつき、どのような場所に葬るか占ったところ、「その浦より巽の方角にまつれ」と言われ、腹部を当神社におまつりになったという。 このころから、おはらさんとして崇拝され始めたのであろう。」とあります。

 さて、宮井川をひいた氏族、すなわち、古墳時代初期の名草の支配者は誰だったのでしょうか?

0118  00/10.14
鳥居について、お話しが出ていましたので、お知らせします。
 神社の神域を示すもので、神社の門として建立され、形式的に大別すると、直線式 の神明鳥居(神明系)、曲線式の明神鳥居(明神系)が基本的であり、この両者から 各種の様式が派生した。神明系は柱・笠木・貫により建立され、柱にはころびがな く、縦柱・横木とも直線的である。代表的なものに、黒木鳥居、白丸太鳥居、伊勢鳥 居、鹿島鳥居がある。明神系の鳥居は、仏教建築の影響を受け曲線的であり、笠木の 下に島木があるのが特徴的で、島木鳥居とも呼ばれる。代表的なものに、春日鳥居・ 八幡鳥居・住吉鳥居・台輪鳥居・両部鳥居・山王鳥居・唐破風鳥居などがある。さら に特殊なものとして三柱鳥居や三輪鳥居、注連縄鳥居などがある。
 鳥居の語源・起源に関しては様々な説があって、定まっていないようです。私は大 神神社の拝殿に見られる、二本の柱に注連縄を懸けたものが最も古い形式ではないか と思うのですが、どうでしょうか。また、神明系の黒木鳥居は、丸太材を樹皮の着い たままで使用するもので、最も原始的なものと言われているようです。語源では日本 神話で天照大神が天の岩戸へ隠れた折、八百万の神々が天照大神のお出ましを願う 時、長鳴鳥を横木に止まらせて鳴かせたという話しから、鶏栖(とりい)、鶏棲木 (とりすぎ)となった説が魅力的です。『和名抄』に「鶏栖をよめり、鳥居の義な り。神社に必ず鳥居あるは、神代記の長鳴鳥の故より起これり」とあります。

0117  00/10.12
> それが後に空海上人より狩場明神とよばれる
> 「百合草野号百合野社五月三日祭之空海家信乎崇狩場明神」

丹生官省符神社の由緒書きを見ていましたら、一人の気高い猟師は、従えていた白・黒二頭の犬を放たれ空海を高野山へと導かれました。空海は、地主神である高野御子大神が化現狩場明神(姿を猟師に現し)となりご教授示下さったものであると想念の内に観得され、云々 とありました。

狩場明神をより古い時代に持っていきたい訳ではないのですがすなわち、この地域に高野神の伝承が残っており、当に丹治家信さんの狩人たる雰囲気・行動が、空海にはありがたく見えたと言うか、高野の地の確保の信仰的基盤を強化すると言う意味で、高野神が狩人の姿で出現したものとして、狩場明神と呼んで崇めたとは考えられないでしょうか。

0116  00/10.12
官省符について、どうもありがとうございます。
鳥居については、伊勢鳥居と神明鳥居は、一番上のかさぎの両端が、丸いままか、角張って斜めに切られているかの違いのようです。
八幡鳥居はどんなものか、違いよくはわかりませんが、一体どうしてこんな違いができたのか???です。

0115 鳥居 00/10.10
官省符によって、荘園で不入(国の干渉を受けない)、不輸租(無税)の特権が与えられたと言う事のようです。
官国幣社の制は近代の神道政策のひとつです。

鳥居の形は詳しくはありませんが、伊勢鳥居と神明鳥居とは同じものではないでしょうか。
八幡神社は八幡鳥居が多いですが、明神鳥居と見分けにくいですね。

0114 狩場明神2 00/10.10
丹生照元には男の子がおらず、女の子の照千代だけであった。そのため、養子をもらうことになります。それが後に空海上人より狩場明神とよばれるようになる丹治家信です。丹生氏の家系図より家信のところには、
「号宮内太郎犬山師本姓者二十九代宣化天皇九代之後裔三位宮内丹治家義之男 也丹治之系別有之也延暦十二年丹生氏之養子ト成ル」
書店で販売されてます家系図の本で丹治(武蔵武士丹党)の家系をみると、
家義−家信−武信 
となっています。この家信が直系から離れ丹生氏の養子になったようですが、その理由はわかりません。現在調査中。

二十九代宣化天皇となっているのは二十八代の間違いだと思います。
二年後惣神主職を相続します。そして、弘仁十年に惣神主を譲るのですが、空海が猟人(家信)と出会ったとされるのは弘仁七年から十年の間だと思いますので、家信はまだ惣神主をやっていました。再び丹生氏家系図家信の項より、
「空海上人引道於高野山約密教守護」
つまり、丹生家信は空海と出会い、密教を守護する事を約束したと言うことでしょう。どなた(司馬遼太郎?)の本だったか空海が奈良で猟人に会い、その後九度山の川のほとりに丹生と言う名の家に泊まったとありました。おそらくは、その当時丹生惣神主家はかつらぎ町三谷で住んでおりましたので、慈尊院から丹生家まで3〜4KMぐらいでしょうから、九度山の川のほとりに泊まったのではなく、丹生惣神主家に泊まったのではないかと推測しています。
その後家信は弘仁十三年五月三日に小河内郷皮張村にて葬られます。享年55〜56歳。
「百合草野号百合野社五月三日祭之空海家信乎崇狩場明神」
狩場明神と言う名は、丹生家信の死後空海によってつけられた事になると思います。
これは丹生氏の家系図だけでの話で、丹治氏の家系図にどうかかれているか確認していませんので、片手落ちとも言えます。現在丹治氏については調査中です。
ここでの疑問は少しあるのですが、それらはこれからのテーマです。
(つづく)

0113  ものすごく初歩的な質問なのですが 00/10.10
今日丹生津姫神社に行って来たのですが、あそこの鳥居は両部式(字が違っていたら すみません。)という下に4つ足の支えがあり、上も屋根になっていますよね。調べ ると鳥居には、神明式、伊勢式、明神式、両部式の4つあるそうなのですが、形の違 いはわかるのですが、何か意味はあるのでしょうか?それから、官幣大社(官省符神 社?)ってどんな神社なのですか?どなたか教えて下されば、ありがたいのですが。

0112 名草郡5 00/10.10
 イザナギ命、イザナミ命は、次に海に関する神、水門、風、木、山川草木、霧、穀物、火などの神を生みます。 ここまでの神々は漁労、採取、焼き畑などを連想する神々だと思われます。 記紀が編纂された7世紀頃の人々の頭の中には、縄文的な生活の記憶が残っていた事や、まつろわぬ国や、離れ小島、山奥での生活を原始的なものと見ていたと言う事でしょう。
 火の神を生んでイザナミ命はなくなります。イザナミ命は古事記では広島県比婆郡とされる比婆の山に葬られます。 日本書紀(一書)では紀の国熊野の有馬の村に葬られたとします。ここは現在熊野市の花窟神社となっている所です。
 「この神の魂を祭るには、花の時には花を以て祭る。又鼓吹幡旗を用て、歌ひ舞ひて祭る。」とあります。式内社にはなっていない所を見ると、神社と言う形になっていなかったのかも知れません。 しかしながらここの祭は、現在にまでお綱かけ神事として伝えられ、実際に行われているのと言う事が凄いことだと思います。伝承が神社の祭祀の形を持つと1000年2000年と伝えられていくと言う事が実感できますね。 これには地域の方々の保存へのご努力があるわけで、これに頭が下がりますね。日本人の原点とも言える神社と祭りは、是が非でも次の世代に伝えていかねばなりませんね。

 ここは海岸の洞穴への埋葬の場であったと言われています。島根県や房総半島、紀伊半島の海岸には点在しているようです。 船形の木棺に埋葬された状態のものも出土しています。田辺市の磯間磐陰遺跡からは男の子が埋葬されており、胸の上には渡り鳥が抱かれていました。 他界へ無事に導かれ、再び蘇ってほしいとの親の願いが見て取れます。最近の多くの親に拝ましたい遺跡ですね。 海洞は黄泉の国へつながっていたのです。同時に子宮でもあり、生命の誕生、復活の洞穴でもありました。

 花窟神社の磐座と神倉神社の磐座を、海から眺めると男根、女陰のセットに見えるそうです。見たことはありませんが、どなたか写真でもお持ちじゃないでしょうか?

0111 00/10.5

質問1−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
994年(正暦5年)に起きた諸堂塔落雷炎上事件について詳しい資料を探しています。
どんな些細なことでも良いので、何か知っている方、教えていただけませんでしょうか?
もしくは該当するサイトを知っているというお方も、是非お力添えください。
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質問2−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
和歌山市内で雅楽をやっている団体、神社を知ってる方居ませんか?
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0110 名草郡4 00/10.4
国生み神話では、オノゴロシマに続いて出来た島は淡路島となっています。古事記では続いて四国、隠岐島、九州、壱岐、対馬となっています。日本書紀の本文では、淡路島、本州、四国、九州の順となっています。

 メーリングリストの仲間であります、ひまわり亭さんは、氏のホームページ http://www.kh.rim.or.jp/~himawari/ で、オノゴロ島の場所の候補として隠岐の後島をあげておられます。 文化伝達の要路に当たります。一つの見識だと思いますが、ここでは、オノゴロシマの次は淡路島となっている事から素直に考えて淡路島の近くだったとしておきます。

 矛が潮を固める話は播磨の海にも出てきます。『播磨国風土記』が伝える葦原志挙乎命(伊和大神)と天日槍(天日矛)とのやりとりの中で、天日槍は上陸を拒否され、潮を固めてとどまったとあります。やはり淡路島の近くです。

 日本書紀の国生みの範囲は雄略天皇の支配した地域だそうです。そうして九州の熊曾と言う表現がありますが、これは古い言葉で、記紀が書かれた頃は隼人と呼んでいたそうです。伝承としては古いのでしょう。この神話は淡路の海人が大和へ持ち込んだのではと言われています。

 古事記では、国生みが終わると、イザナギ命、イザナミ命は、家屋の神とおぼしき神々(角川古事記の注)を生みます。土地を確保して住宅を建てると言う順です。理屈にかなった話です。 家屋の神は六柱です。最後の神の名は大屋毘古の神です。この大屋毘古の神は、和歌山市山東の伊太祁曽神社(延喜式名神大社)の祭神の五十猛命の別名とされています。 いよいよ、紀の国の神の登場です。古事記のここでは大屋毘古の神の生成を語っているだけで、何をした云々は書かれていません。

 大屋毘古の神の「大」は敬称で、これを取ると「やひこ神」となります。弥彦神は新潟県の弥彦村の式内大社の伊夜比古神社(現在は彌彦神社)の祭神です。この「伊」も敬称でしょう。 この神社には、弥彦神は一つ目だったとする伝承があります。たたら製鉄に関係する神かもしれません。
 余談ですが、彌彦神社の一角に「アラハバキ門」があったそうで、山東の伊太祁曽神社の近くの木枕にあった履き物が奉納されている足守神社との関係なんかも面白いと思って参詣したのですが、どうもこの神社は12世紀に根来寺を開いた覺鑁上火が山城の愛宕山から勧請したとなっていました。

 尤も、「や」もエデン語(古代世界共通語、ほんまかいな?)では神の意だそうで、伊太祁曽神社・彌彦神社の両社とも「偉大な神様」を祀っているのだと言っているだけかも知れませんが。・・それをいっちゃお終いよの世界ですね。

 伊太祁曽神社の話に入りますと、えんえんと続きそうです。これは後のお楽しみとしまして、とりあえず次に進みたいとおもいます。

0109 00/10.3
最近ホームページを作るのが面倒になってきまして、自分のホームページはゆっくり作るとし、分かっている事をこの場をお借りし、発表させていただこうかなと思います。テーマは「狩場明神」です。

狩場明神って、知られているようで知られていないというのが、現実のようです。
高野山の守護神、地主神とされていますが、そうなる理由が伝説ではなく事実としてあるのです。

天平宝字のころの丹生惣神主の行動状況について、丹生都姫神社の惣神主は伊都郡かつらぎ町三谷に在住し、行事があるときには天野の丹生都姫神社まで出ていって祭祀をしていた。なぜわざわざ三谷に住んで祭祀の時だけ天野に上ったのかは、一つの疑問ではあるが、とりあえずそれはおいておいて、この状況をふまえ次に進みたい。

天平宝字四年丹生惣神主(丹生一麿家)を相続した丹生照元は男子に恵まれなかった。ただ照元には一人女の子がいた。名を照千代と言う。
丹生惣神主家の血を絶やさないため、照千代は養子をもらう事になる。実はその人が後に空海上人より狩場明神として崇められる事になる人物である。
(つづく)

0108 00/9.28
粉河寺のすぐそばに住んでいますので、また、何かお役に立つことがあったら、言って下さい。

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