あさもよし紀の国 ML・掲示板ログ

 平十三年十二月〜十四年三月 ML発信者のお名前は省略させて頂きます。

あさもよし紀の国メーリングリストご案内


[109] Re[108]: 智名曾について  Setoh 2002/03/21(Thu) 16:45 [Reply]
にぎはやひおたくさん こんにちは。
HP 神話の時代
天道根命━麻枳利命━比古麻夜真止乃命━智名曾命━鬼刀彌命━久志多麻命━大名草彦命━宇遅彦命

『紀伊続風土記』に引用の「國造家譜」
天道根命━比古麻命━鬼刀彌命━久志多麻命━大名草彦命━宇遅彦命
 これには「智名曾命」は出ていません。

和歌山市冬野鎮座の名草神社の社伝によれば「名草比古命は神産霊命五世の孫の天道根命の五代の孫とされており,その妻の名草比売命は紀國造「智名曽」の妹と説明されています。
 『先代旧事本紀』には「素盞嗚尊六世孫の豊御気主命(またの名を武甕依命)が紀伊の名草姫(紀伊国造智名曽の妹、中名草姫)を妻としたとあります。

 いずれにしても,系譜上では
にぎはやひおたくさん>智名曾と大名草彦は別人
でしょうね。ただ,智名曾の妹を中名草姫と称している所からは智名曾は「中名草彦」であったとできないでしょうか。

「神奈備掲示板」の2001/09/29に上田充夫さんが下記のことを書き込まれています。
【智名曾については「古屋家系図」にも現れます。溝口睦子さんの書かれた「古代氏族の系譜」に大伴氏の系譜があり、その中で「豊日命」の説明に「母紀直智名曾女乎束媛命」とかかれています。他の
豪族の系譜に現れるほどの名前であるのに、肝心の紀国造家に「智名曾」の名前が現れないのは不自然に感じられます。天皇家に対して、実名を記載するのがはばかられる事情があって「大名草比古」と表されたのではないかと考えています。】

また「HP:板東千年王国 紀伊氏系図」http://www.ne.jp/asahi/hon/bando-1000/data/kei/k06.htm
では,名草戸畔の子に智名曽と中名草姫をあげていますね。面白い考え方だと思います。紀伊氏とやっているのがシンドイのですが・・・。

[108] 智名曾について  にぎはやひおたく 2002/03/21(Thu) 13:23 [Reply]
ホームページ「神話の時代」を見ていたら、智名曾は天道根、麻き利、比古麻の次に位置しています。智名曾の後は鬼刀禰、久志多麻、大名草彦と続いており、智名曾と大名草彦は別人と思われますが、いかがでしょうか。出典は「古代豪族系図集覧」となっています。

[107]  なにがし [Url] 2002/03/18(Mon) 21:49 [Reply]
setoh様
>笹は竹の笹だと思いますが、
そうです、竹の笹のことです。

>薦、葦,茅などもササとよばれていたようです。
ええ〜!!!そうなんですか。と言うことは後世竹の笹に変わっていった可能性も無きにしもあらずでしょうか。setoh様の言われている方向からももう一度見なおしたほうがいいですね。ありがとうございます。

[106] Re[105]: 笹踊り  Setoh 2002/03/17(Sun) 15:21 [Reply]
なにがしさん こんにちは。
> 死者の霊を憑依し、荒れないように鎮めるための「依り代」として、天野の里では「笹」を採り物にした「笹踊り」があった。

 笹は竹の笹だと思いますが、薦、葦,茅などもササとよばれていたようです。天野の湿地帯にこれらの植物が生えていたら鳴石とよばれた水酸化鉄のスズが根元にできたかも知れませんね。天野の里が丹生都比売神の本拠地になるためには何かそれらしい特徴があったのでしょうが,それがスズの良好な産地だったと言うことはないのでしょうか。

 東北地方の「会津磐梯山」を歌った有名な民謡の歌詞
  ♪会津磐梯山は宝の山よ 笹に黄金(こがね)のまたなりさがる
 会津磐梯山は産鉄地であったようで,他に銅もとれているようです。この笹は竹の笹なのか薦、葦,茅などかですが,黄金が「なりさがる」と歌われているのは,根元にスズが出来ることを示唆しているとの見解もあるようです。(インターネット検索から)
 
 確かに墓地の近くには笹が多いように思います。これは人が住んでいる近だとも理解出来ますが,おっしゃる通り,天野の「笹踊り」は笹を依り代としているのかも知れませんが,何故「笹」なんでしょうか。正月の門松にも竹を使い,敷地の角に竹を立てますが,死霊が寄りついてはかないませんね。

【天野の特徴】 【笹はめでたい植物では】が浮かんできますね。

[105] 笹踊り  なにがし [Url] 2002/03/16(Sat) 22:46 [Reply]
以前より「笹踊り」の「ささ」は植物の笹を表すのか、お酒の「ささ」を表すのか、鉄の「ささ」を表すのか疑問がありましたが、それが分かりましたのでカキコ致します。
和歌山県伊都郡天野は岡野氏のコミック「陰陽師」の場面にもなった丹生都姫神社がある地です。「盆踊りは、亡霊に扮装して踊り、霊を招き集め、荒れないように鎮めてから墓地や村境、河や海へ送り出す芸能的儀礼であり、民俗宗教学では踊り念仏とか大念仏と呼ばれる念仏芸能に分類される。死者の霊を憑依し、荒れないように鎮めるための「依り代」として、天野の里では「笹」を採り物にした「笹踊り」があった。現在でも、かつらぎ町三谷に伝承されている。葛城修験を考察するキーワードにもなる」(「高野山麓 天野の文化と民俗」(天野歴史文化保存会)より)。
丹生都姫はある意味高野山寺院の一角を形成していますので、真言宗や修験者の影響がこの笹踊りに表れているのかも知れません。金属や鉱山師に関係あるのかと思っていましたが、どうも関係なかったようです。ただし、和歌山ではそうでしたが、その他の地域の「笹踊り」は違うことから始まっているところもあるようですので、地域によって内容はぜんぜん違うかも知れません。

[104] Re[103]: 丹生氏  Setoh 2002/03/04(Mon) 18:43 [Reply]
アコさん こんにちは。
空海と丹生については大変難しい所です。
下記のHPがお詳しいのでご覧下さい。

http://www.yasaka-io.com/
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mkn/index.html
http://www.kamnavi.net/ny/index.htm

[103] 丹生氏  アコ 2002/03/03(Sun) 19:00 [Reply]
水銀を採集して 暮らしていた民族(私の読んだ本には 何か違う種族のように書かれていましたが・・・)で 弘法大使は その人達を かなり利用した?形跡が あるそうです。だから その供養?業績の感謝の意味?ふまえて 丹生神社は 弘法大使が広めた?らしいと 何かの本で読みましたが 正しいかどうかは不明 弘法大使関係を 開くと
丹生一族 神社関係が かなりわかるかも (^^;

[102] Re[101][100]: 荒河戸畔について  なにがし [Url] 2002/02/24(Sun) 17:24 [Reply]
> 参考にした書籍が明記されているのであれば、その真贋は、サイト運営者の責任ではありません。
☆その通りですね。サイト運営者には責任はありませんね。

> 文献でしか知りえない事も多いですし、実際に現地に行って入手できる事であっても事実であるという保証はありません。
☆そうですね。ただ、天野祝家系図についてだけ言えば、ある1つの文献(丹生祝本系帳)だけみて空想を膨らませた家系図より、その文献を含めその他地元(天野祝丹生相見氏に残る家系図:東京大学資料編纂所の天野祝丹生祝氏家系図、などなど)の文献もみた上で書かれた家系図の方が信憑性はあると思います。ただ悲しいかな、本件のサイトで参考にされている本が一般の書店でよく売られている事です。天野祝のみで言えば間違った情報で一般の人に対して広がって行くこととなっています。この原因を作ったのは、丹生祝本系帳を書いたのは800年の丹生祝氏なのですが、実際丹生相見氏および丹生祝氏ではそれを家系図として扱っておられません。実際学者さんたちも本系帳を偽作と見られている方もおられますし。現在では学者さんたちも丹生廣良氏や東京大学に残る家系図を参考にされているようです。学者さんが正しいわけではありませんが。

> サイトの運営は、論文ではありませんから、「事実」を伝え、立証することが目的ではなく、「情報」を提示することです。
☆全くその通りです。

>単に「間違い」と言われても対応できません。中には、その方の思い込みや誤解もありますし、その方が信じて、拠りどころとしている資料そのものが誤記だったこともあります。
☆そうですね。かのサイトにメイルした時は文献名も書いたのですが、その他の氏族の家系図も同じ本より引用されていたので、天野祝だけ変える事はできなかったのだと思います。それはしょうがないと思っています。一応1度でもメイルしとけば、気づかれる方もおられるので、その程度の目的でメイルしました。あとはHPの管理人さんが自分成りにどう判断されるかなので、それはそれでいいと思っています。

[101] Re[100]: 荒河戸畔について  玄松子 2002/02/24(Sun) 14:53 [Reply]
> ちなみに、このサイトの天野祝の家系図は全くのうそです。参考にされた本を私も見ましたが天野祝についてはデタラメでした。文献のみで実地調査をされていないための間違いですね。

参考にした書籍が明記されているのであれば、その真贋は、サイト運営者の責任ではありません。
文献でしか知りえない事も多いですし、実際に現地に行って入手できる事であっても事実であるという保証はありません。たとえ事実であっても、伝承の一側面でしかありません。
サイトの運営は、論文ではありませんから、「事実」を伝え、立証することが目的ではなく、「情報」を提示することです。

> このサイトの方に間違っていることをメイルしたこともありますが、変わっておりません。

僕のサイトにもたまに、「間違っている」というメールをいただきます。資料・文献で確認できるものは、訂正する場合もありますが、単に「間違い」と言われても対応できません。中には、その方の思い込みや誤解もありますし、その方が信じて、拠りどころとしている資料そのものが誤記だったこともあります。

「問題」は、サイトに提示している「情報」のソース、参考資料、参考サイトを明記しない引用で、それは「パクリ」と呼ばれる行為だということです。

[100] Re[95][92][91]: 荒河戸畔について  なにがし 2002/02/24(Sun) 12:34 [Reply]
> http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/kinki/s_nyuu_2.html
> このサイトのことでしょうか。
> なんと、そこに掲載されている写真は 、僕が撮影したものでした。

そうなんですか。いろいろなところで繋がっているのですね。
ちなみに、このサイトの天野祝の家系図は全くのうそです。参考にされた本を私も見ましたが天野祝についてはデタラメでした。文献のみで実地調査をされていないための間違いですね。このサイトの方に間違っていることをメイルしたこともありますが、変わっておりません。そりゃ変えられないと思いますけど。というか、丹治は丹生からでただの、見てもどこからこのような家系図ができあがったのか、かすりもしていなかったので非常に驚いた記憶があります。
正しい丹生氏の家系図は丹生廣良氏の著書で書かれています。当方のHPでアップしてみました。ちゃんと参考文献のところで丹生さんの本も書いておりますので参考にしていただければと思います。ついでに、丹生氏の家系が書かれているとされている「丹生祝本系帳」についても私になりに私見を書かせていただいたページもアップいたしました。私見が真実というわけではありませんが、こんな考え方もあるんだなと見ていただければ幸いです。自分では久々に面白い内容になっているのではと思っています。

[99] Re[98][97]: はじめまして。  調月 2002/02/19(Tue) 16:58 [Reply]
早々、ご回答いただきありがとうございます。m(_ _)m

>伊太祁曽神社の奥宮司さんは戦国時代の毛利家の家臣

そうですか、毛利家ですか!
毛利家の家臣だったお方がどのようにして伊太祁曽の宮司さんに
なられたのか、そこにも物語がありそうですね('-^)

>調月さん。桃山町に縁の方でしょうか

はい、桃山町調月の生まれです。
現在、和歌山市に住まいしていますが実家は今もあります。
調月をご存じとはSetohさんカルトですね!
調月は地元以外で「つかつき」と読まれたことはなく
神奈備のHPでも調月の「大年神社」は掲載されていなく
寂しい思いをしていました。
でも、Setohさんが調月をご存じらしい?
ちょっと嬉しくなりました(^O^)

日根説、余りにも和歌山人好みの内容なので
鵜呑みにして良いのかどうか迷っていました。
これからはSetoh説、日根説2本立てで探索に
使わせていただきます('0')/

写真掲示板、私は「神奈備にようこそ」がガイドブックみたいなもので
珍しい写真はありません(^_^;)
神奈備に紹介されていない被写体に出会いましたら
投稿させていただきます。
ありがとうございました。m(_ _)m


[98] Re[97]: はじめまして。  Setoh 2002/02/18(Mon) 16:18 [Reply]
こんにちは 調月さん。桃山町に縁の方でしょうか。

伊太祁曽神社の奥宮司さんは戦国時代の毛利家の家臣だったと言っていましたね。

日根氏の本は貴重なものですね。説はともかくも,引用しておられる文献資料は正確にされておられ。信用できるように思います。setohも参考にさせて頂いています。
日野説ですが,一般の通説と違う説を立てられており,面白いのですが,setohも通説でもなく,日野説でない説をと隙間を探して『名草の神々』で苦戦中です。

神社のお写真など写真掲示板の神奈備別荘にでも投稿頂ければ幸甚です。

[97] はじめまして。  調月 2002/02/18(Mon) 11:23 [Reply]
ROM専で楽しく読ませていただいています。
16日の「ZIP!」観ました。愉快な宮司さんですねo(^-^)o
伊太祁曽の奥宮司さん家も「紀さん」とこみたいに何代も家系を
たどることができるんでしょうか?
4月の「木祭り」には訪ねてみます。

最近ですが、和歌山県図書館で「日根輝己」著の書籍を数冊読みました。
和歌山に住まいする者には夢のあるお話です。
で、Setohさんは日根氏の説はどう思われますでしょうか?
突然で質問ばかりですみませんm(_ _)m
「紀、記」も「マンガ日本むかしばなし」程度の知識しかなく
「名草の神々」など読ませていただいて県内神社を
デジカメ片手に探索を楽しんでいます。
(ここの掲示板に不適切な投稿でしたら済みません)

[96] Re[95][92][91]: 荒河戸畔について  Setoh 2002/02/17(Sun) 18:37 [Reply]
 この方のページは時々参考にさせて頂いているのですが・・。
 不要と言うか余計な所でのヘンナまねは残念ですね。
 そこそこの人でもマンビキや痴漢をやったりしますしね。
 自戒自重ですね。

[95] Re[92][91]: 荒河戸畔について  玄松子 2002/02/17(Sun) 16:47 [Reply]
> 余談
> 「社家の姓氏ー天野祝ー」の途中の説明文は「神奈備にようこそ」の丹生都比売神社の由緒を無断で切り取って使用しています。神奈備がまねをしたのではありませんので念の為一言。

http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/kinki/s_nyuu_2.html
このサイトのことでしょうか。
なんと、そこに掲載されている写真は 、僕が撮影したものでした。

このサイトの運営者の方には、紋章について、以前、メールでお世話になったことがあり、相互リンクもしていただいているのですが、ちょっとショックでした。

[94] 名草の神々69  Setoh 2002/02/15(Fri) 11:00 [Reply]
 紀氏が九州方面から来たとして、紀の川下流はどうして名草と呼ばれたのでしょうか。
 紀の川を遡ると那賀郡、伊都郡ですが、この那賀の地名は那珂川、伊都郡は伊都国と一応北九州の地名に合致しています。しかしどうも九州には「名草」と言う地名が見あたらないのです。

 『日本書紀』神功皇后摂政前紀に玄界灘沖を視察している「磯鹿海人名草」と言う者がでてきます。これは「磯鹿の海人で名前を草と言う者」と訓むの大方の理解ですが、『日本書紀』では人の名前を記すのにいちいち「名」を付けてはいないのです。「謂草」とか「曰草」とかただの「草」なのです。海の人の草さんなら「海人草」でいいのです。小生は「名草」と呼ばれた海人がいたのではないかと理解しています。ついでですが、磯鹿とは「漢委奴国王印」の金印で有名な志賀島のことです。
 志賀島には志賀海神社が鎮座しています。祭神は綿津見三神で、底津綿津見神、仲津綿津見神、表津綿津見神となっており、住吉三神とよく似ています。航海安全の神のようで、安曇連の祖神とされています。安曇連については「名草の神々66」でも触れました。
 志賀海神社の境内には穂高見神と安曇磯良神を祀る摂社があり、いずれも安曇連の祖です。神社を調べるには本殿に祀られている神様より摂社に注目するのが本当のことがわかると言います。本来の神様が何かの理由で脇に退き、新しい神様が本殿に祀られることがあるそうで、伊太祁曽神社奥宮司さんは神社や祭神には上にかぶさって祀られている重層構造があるからよく注意して神社を調べることと言われておられます。
 このように見ると、安曇磯良は神功皇后の乗船の舵を取った神と伝わっている所からも、安曇の本来の祖神であったとの見方が主流のようです。この安曇連は往古の北九州から瀬戸内海の海運・海賊・海軍であったとされています。 安曇連は畿内に進出して、祖の大濱宿禰が「海人宰」と言う海人の統率者に任じられています。また奉膳と言う海産物を公的な祭事で貢進する役割を与えられています。従って安曇氏は漁労にも長けていたのでしょう。魚を集めるのアツムがアヅミと転じたとの説があります。「アチメ オオオオ」なる古歌謡がありました。

 さて、仲哀天皇の皇子の忍熊王は宇治に軍を構えており、これを武内宿禰が精兵を率いて攻めようとしますが、忍熊王に皇位を譲るようなことを言い、だまし討ちにします。当時はだまし討ちは称えられる手段であって、神武天皇も兄宇迦斯をだまし討ちにしていることが物語られています。今も昔も、だまされる方は馬鹿と言うことでしょうか。

 神功皇后と誉田別命(後の応神天皇)は大和へ向かうのですが、名草郡から紀の川沿いに鎮座している多くの八幡神社の由緒には、神功皇后と誉田別命の行宮であった所に欽明天皇の時に神社を創建していったように記されています。元々、紀の国の女神達が祀られていた所に同じ女神である神功皇后をかぶせたケースなどが多くあったのではないかと推測していますが、定かではありません。また牟婁の湯に来られた斉明天皇(女帝)の行宮などを憚って神功皇后を祭神とする八幡神社としていったことなどが推測されますが、勿論のこと、何も裏付ける資料が残っている訳ではありません。


 紀の国には八幡」との名を持つ神社は60社を越え、摂社になっている八幡社も20社を越えています。
 八幡社は宇佐神宮や筥崎宮・香椎宮などが古いようで、発祥は九州のようです。わけても宇佐八幡宮は和気清麻呂に神託を与えて弓削道鏡が天皇になることを防いだとして有名です。 また東大寺大仏の鋳造に当たり香春の銅を供給し、「天神地祇を率い誘いて建立を成就せしめるであろう」と神託をし、神々の先頭に立ったのです。多くの神々の先頭に立てたのは、仏教に帰依した最初の神であったことが、時代の流れをうまくつかまえた時の神官大神氏の才覚によるものでしょう。 銅を供給と云う具体的方策の前には伊勢神宮なども手をこまねくしかなかったのでしょう。

 欽明天皇の時代、蘇我稲目の力によって蘇我氏が執政権を手に入れ、各地に八幡神社を勧請していきます。おそらくは各地の豪族支配の地にくさびを打っていったのでしょう。紀の国でもこの頃の勧請とされる八幡神社が幾つか見いだせます。
 和歌山市相坂の安原八幡神社、海草郡野上八幡神社、橋本市の隅田八幡神社、広川町の廣八幡神社・津木八幡神社などが社伝で欽明天皇の頃の勧請としています。
 また宇佐八幡宮は平安の都人から見ますといかにも遠い、異界の地に鎮座しているように思われたのでしょう。石清水八幡宮に勧請してります。これは南都大安寺の僧行教が、清和天皇の貞観元(859)年、豊前国宇佐八幡大神の「吾れ都近き石清水男山の峯に移座して国家を鎮護せん。」 との御託宣を蒙ったとして勧請したものです。行教は紀朝臣の出であったゆえ代々の別当には紀氏出身僧が多くつとめたそうです。石清水八幡宮は各地に荘園を持ち、そこへ八幡神社を勧請していきました。紀の国では次の神社などが石清水からの勧請と由緒書で述べています。荘園があったとは限りません。
 和歌山市府中の八幡神社、野上町の小川八幡神社、粉河町の鞆淵八幡神社、清水町の清水八幡神社、田辺市の芳養八幡神社などが石清水八幡宮からの勧請と伝えられています。
 他に八幡大神は、高野山関係で空海が創建と伝わる高野町の西郷八幡神社や紀三井寺の若宮八幡神社は紀三井寺の守護の為に勧請されているようです。
 鎌倉時代になると、源氏の諸御神となった鶴ヶ丘八幡宮からの勧請もあり、和歌山市有本の若宮八幡、岩出町の舩津八幡神社などは鎌倉からの勧請とされています。

 八幡神社の由緒には、神功皇后と応神天皇の渡韓以後の東征譚がついています。紀の国で面白いのは加太付近の八幡神社は日高への南下の途中で立ち寄った行宮跡を神社としたとあり、逆に紀の川沿いに鎮座する八幡神社の由緒には日高から大和へ入る途上の行宮跡とされています。具体的に紹介します。

日高への途中
加太淡嶋神社(和歌山市加太)神功皇后が出兵からの帰途、嵐にあい、ながれのままに友が島にたどり着き、そこに少彦名命が祀られていた祠があったのでこれに奉幣した。
射箭頭八幡神社(和歌山市本脇)半島より帰国され加太浦に御着船の際、御弓を携えかぶら矢を射られ紀水門飽浦の下地尾の崎に止まった地。
木本八幡宮(和歌山市西庄)神功皇后が凱旋された時、大臣武内宿禰が幼帝応神天皇をお守りして、この海口(日本書紀にいわゆる紀伊水門の地)に泊り、この地に上陸して頓宮(仮の宮)を造り、留まった所。
潮崎本之宮神社(串本町串本) 皇后は武内大臣に皇子を守護し紀伊に赴いた際、南に漂流し当地に着いた。

日高付近
産湯八幡神社(日高郡日高町産湯) 皇子をご分娩の地
衣奈八幡神社(日高郡由良町衣奈) 衣奈の地名は譽田別命の(胎胞(エナ))を納めた故

小竹宮
小竹八幡神社(御坊市薗) 神功皇后の小竹宮跡とする伝承がある。
志野神社(粉河町北志野) 同上

日高から大和へ
岡田八幡神社(海南市岡田) 誉田別命を抱き大和へ向かう途中に留まる。
安原八幡神社(和歌山市相坂) 日高郡衣奈まで迂回をして、再び安原の津田浦(小学校付近)に御上陸の地。
貴志川八幡宮(貴志川町岸宮)小竹の宮に赴く途中に留まる。
隅田八幡神社(橋本市隅田町)紀伊の衣奈浦を経て大和の都に御還幸の途次に留まる。

 これを見ていますと、一応『記紀』に記述の行程にそった由緒となっています。きれいすぎますね。

 神功皇后は100歳で崩じました。

その二完  


[93] zip探偵団  Setoh 2002/02/12(Tue) 17:30 [Reply]
2月16日放送のzip探偵団,伊太祈曽が登場します。
関西では8チャンネル午前10時からです。

[92] Re[91]: 荒河戸畔について  Setoh 2002/02/11(Mon) 11:15 [Reply]
> 「社家の姓氏ー天野祝ー」をクリックしてみてください。荒河戸畔は天道根命の4代の子孫にあたります。彼女の娘は崇神天皇や物部大新河の妻となりますので、紀国造の歴史を考える上で、重要な人物です。

にぎはやおたくさん こんちには

>荒河戸畔は天道根命の4代の子孫
一説には鬼刀禰と同一とも言われています。
 この荒河刀弁のいた場所ですが、候補地として次の二つがあげられています。
那賀郡桃山町の平野部、ここに鎮座する三船神社は遠津年魚目目微比売の子の豊鋤入姫の創建と伝わります。
和歌山市黒田(JR和歌山駅東北)太田黒田遺跡地。後の紀氏の本拠地です。
http://www.kamnavi.net/kinokuni/majime-rekisi3.htm

余談
「社家の姓氏ー天野祝ー」の途中の説明文は「神奈備にようこそ」の丹生都比売神社の由緒を無断で切り取って使用しています。神奈備がまねをしたのではありませんので念の為一言。

[91] 荒河戸畔について  にぎはやひおたく 2002/02/11(Mon) 09:47 [Reply]
「社家の姓氏ー天野祝ー」をクリックしてみてください。荒河戸畔は天道根命の4代の子孫にあたります。彼女の娘は崇神天皇や物部大新河の妻となりますので、紀国造の歴史を考える上で、重要な人物です。

[90] 名草の神々 68    Setoh 2002/02/09(Sat) 11:55 [Reply]
 日高についてもう少し。
 渡来系の人々の中にも豪族となった秦氏のような存在ではなく、テクノクラートとして得意分野
での能力を発揮した者もいました。難波吉士(ナニワノキシ)、日鷹吉士(ヒタカノキシ)と呼ばれる
渡来人です。なお、紀の国の豪族の紀氏は『記紀』の時代には「キノウジ」であり「キシ」ではあり
ません。吉士が多く居住した所には「キシ」と云う地名が残っています。大阪では富田林市に喜志
があります。紀の国では和歌山市に貴志と云う所があります。南海本線難波行きが市内の平地
から山間に入っていく所です。昔は今よりは海岸地帯でした。また那賀郡の貴志川町は紀州飛
鳥と呼ばれる遺跡の多い地域ですが、両方の貴志は紀の川でつながっています。
 日高郡にも吉士が居たようです。日高の場合にはキシと云う地名は寡聞にて承知していないの
ですが、日鷹吉士の拠点であったものと思われます。おそらくは紀氏の配下に入っていた吉士の
一団であって、神功皇后と応神天皇との再会の場としてはふさわしいものとされたのでしょう。

 さて、話を戻します。宇治に陣取った忍熊王を攻めようとして、神功皇后は更に小竹宮(しのの
みや)に遷ります。
 この小竹宮について瀬藤でも四箇所の候補地を知っています。他にもあるのでしょうが、寡聞
にしてこれだけです。それなりに尤もらしいので紹介しておきます。

 その前に小竹宮での一つの出来事が起こっています。神功皇后が小竹宮に移ったその時に、
夜のような暗さになってしまい、何日も続きました。神功皇后は紀の直の先祖、豊耳にこの変事
の訳を尋ねました。一人の翁が言うには「このような変事を阿豆那比(あづなひ)の罪と言い、二
社の祝者(神官)を一緒に葬ってあるから。」とのことでした。 村人は「小竹の祝と天野の祝は仲
の良い友人であった。小竹の祝が病没すると、天野の祝が激しく泣いて「どうして死後異なる穴に
入れようか」と言い、屍の側で死んでしまった。それで、合葬した。」と言ったので、棺を改めて別
の所に埋めた所、日の光が輝きだした。
 と言う不思議な物語です。

 この物語ではじめて、紀直の祖の名前が、豊耳として初めて登場します。また、天野の祝として
は、伊都郡かつらぎ町上天野の丹生都姫神社の存在が『日本書紀』にあらわれたとも理解でき
ます。この話は後で触れることになると思います。

 さて、懸案の小竹宮についてその候補地を紹介します。
●小竹八幡神社(和歌山県御坊市薗)
 小竹宮に比定するのは、社名からの推定ですが、天野祝とともに葬られて暗い世にしたとする
小竹祝をこの神社の神人とし、ここには祝塚と言われるものもあるとか。

●志野神社(和歌山県那賀郡粉河町北志野
 天正の時代に兵火に焼かれていた神社があり、再建されている。地名社名からの推測である。
ただ、天野祝を丹生都比売神社の祝とするならば、両祝が仲がよいとする距離感にはあいそう
に思う。

●波宝神社(奈良県吉野郡西吉野村夜中)
 小竹宮と呼ばれていたことがあります。大山源吾著『天河への招待』には、「神功皇后は紀伊
日高に上陸、紀和国境を越えて、吉野丹生の里、銀峯山小竹宮(シヌ)に入ったと、この地の伝
承は伝える。」と記している。吉野とは「よ」+「小竹:しぬ」であると言う。ここにも神功皇后にまつ
わる伝承が多い。地名の「夜中」も暗くなった名残と言う。

●舊府神社、小竹宮(大阪府和泉市信太)
 『大阪府全志』には神功皇后縁の小竹宮跡とする。一時、今はやりの阿部晴明生誕伝説の信
太森神社(葛ノ葉稲荷神社)に合祀されていたが、現在は近くの伯太神社に合祀されている。伯
太神社の祭神の中に小竹祝丸、天野祝丸の名が見える。「丸」は男のことか。小竹祝、天野祝を
祭神とした神社は伯太神社しか見つかっていません。

 さて、四箇所の候補地を紹介してきましたが、皆さんはどこだと思いますか。また上記以外の比
定地があれば、ご紹介下さい。

 紀直の祖の豊耳と言う名前がここに出てきました。紀氏の系図から見ますと紀氏の祖神の天
道根命の五世孫の宇遅比古の三世の孫と言う所に出てきます。宇遅比古の孫(二世孫)が武内
宿禰ですからほぼ同年代と言えます。

 この豊耳のミミについてですが、谷川健一氏の名著『青銅の神の足跡』に、「古代史の中で銅
や鉄に関連深い人物がミミの名のつく酋長の一族と婚姻を通じていること、またたんに海で漁を
するとか、田を耕す程度の海人族ではなく、金属精錬に由縁を持つ」と解説をされています。
 紀豊耳の豊は豊の国に通じ、当時の紀氏の瀬戸内海の航路が、紀の川の河口と九州豊後を
つないでいたであろうことや、豊の国と言えば秦氏の拠点であったことを思わずにはいられませ
ん。

 神功皇后が豊耳に尋ねた所「一人の翁が言うには阿豆那比(あづなひ)の罪云々」と答えまし
たが、豊耳は紀直の祖と紹介されながら、この件については知らなかったと言うことです。紀の国
ではない所の出来事なら豊耳には尋ねないでしょうから、やはり紀の国での出来事と考えるのが
良さそうです。豊耳は紀の国では新参者だったと言うしかありません。この辺りの物語も神話の
世界かも知れませんが、更に古くから紀の国の支配者であったとするべく、神武天皇の時代に名
草戸畔を誅した話や、天道根命が神鏡を奉じてやって来た話になっていったとも考えられます。
で、紀氏はどこから紀の国へやってきたのでしょうか。

 神功皇后が来たのは九州からです。それのお供として来たのでしょうから、やはり九州と考える
べきでしょう。火前国(ひのみちのくに)と呼ばれた肥前国の『肥前国風土記』の藤津郡の條に
「紀直らの祖穉日子(わかひこ)」と言う言葉が出てきます。肥前の藤津郡とは今の佐賀県藤津郡
のことで、温泉で言うと嬉野温泉のある嬉野町、ここは水銀の産地で、丹生神社も多く鎮座して
います。また五十猛命を祭神とする太良岳神社の鎮座する太良町も藤津郡です。すぐ北には五
十猛命上陸伝説の杵島郡や武内宿禰誕生伝説を持つ武雄温泉の武雄市があり、実に紀の国
の神々とは縁の深い地域です。
 『国造本紀』には成務朝(仲哀天皇・神功皇后の一世代前)に紀直同祖の大名草彦命の児若
彦命を葛津(ふじつ:藤津)国造に定めたとあります。紀の国の次男坊を肥前国藤津郡に転勤さ
せたのでしょうか。そうではなく、大名草彦命そのものも九州に居たと言うことを物語っているもの
と思います。紀国造の祖とされる宇遅比古命と葛津国造の若彦命は兄弟のようです。

 宇遅比古命の曾孫になる豊耳の名は丹生都比売神社に伝わる『総神主系図』に丹生神主家
の祖として出てきます。丹生の地(伊都郡)を治めていた国主神の女子の阿牟田刀自(阿牟田:
庵田は九度山の慈尊院付近を言う。)の元に名草郡より通ったと江戸時代に作成された『紀伊州
続風土記』に記載されています。通い婚は『源氏物語』にも出てくる古代の普通の結婚の形です
が、紀国造の祖とされる豊耳が『総神主系図』に現れる初めての人名とも読める所から、豊耳の
頃に紀の川沿いを一挙に支配下においたと見ることができます。豊耳の耳は金属に大いに縁の
あった人物と言うことで、丹生の地に大いに関心があったのでしょう。

[89] 名草の神々 67  Setoh 2002/02/02(Sat) 10:18 [Reply]
 「名草の神々」64で、「武内宿禰については、どこの風土記にもその逸文にも出てきません。」と書きましたが、間違いでした。『万葉緯』に引用されている「因幡国風土記逸文」に、御年三百六十余歳で当国でお隠れになった。」と記されていました。お詫びして訂正いたします。

 神功皇后の半島往来に貢献した神々は多くいます。特に軍船の運行に寄与した神をあげておきます。
 住吉三神 荒魂は先鋒として軍船を導く。(『日本書紀』 
 阿曇連磯良丸命 神功皇后御征韓に際しては神裔阿曇連磯良丸命をして舟師を導かしめ給ふ (志賀海神社由緒)
 伊太氏の神 息長帯比売命が韓国を平定しようと渡海された時、「御船前(みふねさき)の伊太氏の神こにおいでになる。(『播磨国風土記』)

 住吉大神が神功皇后に神託をあたえ、自らの名を告げる言葉は美しいので紹介しておきます。
 日向国(ひむかのくに)の橘小門(たちばなのをど)の水底(みなそこ)に所居(ゐ)て、水葉(みなは)も稚(わかやか)に出(い)で居(る)神、名(みな)は表筒男(うはつつのを)、中筒男(なかつつのを)、底筒男(そこつつのを)の神有(ま)す。
 水の澄んでいる様、海草の若芽が揺らいでいる様がありありと目に浮かびます。『古事記』では墨江大神と記していますが、海の水が澄んでいる状態にも神を感じたのでしょう。 森浩一氏は『記紀の考古学』の中で、「住吉の神の最初の登場は摂津の海では想定しにくい」とされています。難波にとっては新来の神とされています。
 おそらくは、西国方面からの勧請でしょう。隼人に頭を押さえられていた安曇氏が奉斎していたのでしょう。「名草の神々59」で天道法師(菩薩)縁起を紹介しました。これには、対馬の豆酸(つつ)の天道童子は、母が日光に感じて懐妊したと伝えられています。 霊峰竜良(たてら)山に、天道法師の墓所と称する聖地がある。と言う内容でした。 住吉の神を筒男と呼びますが、対馬なら現在でも海の水が澄んでいる所です。
 ついでに、又かと思われるでしょうが、竜良(たてら)山に厳めしさの「イ」を付けるとイタテラ、伊達と五十猛命をも思わせます。

 これはさておき、もう一つ又かをやります。阿曇連の祖神は阿曇連磯良丸命で、先に神功皇后渡韓に功のあった神とされています。磯良丸は磯武良とも書かれ、イソタケラと読まれます。五十猛命はイソタケ、イタケルと読まれ、よく似て来ます。 
 阿曇連ー住吉神ー紀伊三所神ー伊達神社ー五十猛命ー磯武良ー阿曇連 とくるりっとつながりました。

 神功皇后に話を戻します。
 神功皇后も紀の国へ行き、皇子に日高で合います。紀の国へ来たのは、仲哀天皇の宮であった徳ろ津宮があったとこ、紀の国の豪族の力が当時の近畿ではずば抜けており、大和侵攻には紀の川をさかのぼるのが常識であったことなどが考えられます。また日高に行ったのは、異境で生まれた小童神である誉田別皇子(後の応神天皇)は天孫日嗣の御子としてこの国の日高に留まる物語は意味があったのですが、次回に述べますが、もうひとつの意味がありました。とにかく天孫の名前には日高が多くついていることは事実です。

 日高は今の日高郡や御坊市のことと思われますが、痕跡は残っているのでしょうか。
 日高郡日高町大字産湯に産湯八幡神社が鎮座、その由緒に「神功皇后帰還後、当地で皇子を分娩、武内宿禰はこれを守護して暫く留まった。」とあります。この神社を以て痕跡とはしにくい所ですが、伝承が伝わっていることには違いありません。
 産湯八幡神社の南西5kmに日高町阿尾と言う所があります。この「アオ」は神武東征の水先案内人の椎根津彦の後裔が祀った青海神社のアオに通じます。要注意の場所と言えます。



[88] 名草の神々 66  Setoh 2002/01/26(Sat) 14:16 [Reply]
 武内宿禰は皇子(応神天皇)を抱いて紀伊水門に迂回していました。
 「名草の神々12」でも書きましたが、武内宿禰が祀ったと伝わる紀伊三所神と言われる神々がいます。
 大和岩雄氏は『日本の神々3住吉大社』の中で「息長足姫命(神功皇后)は日神であり、大八嶋の天の下に日神を船出させた船を紀ノ国で祀ったのが武内宿彌である。その神々とは紀ノ国の志摩社、静火社、伊達社の三社は船玉神で紀の国の紀氏の氏神であると『住吉大社神代紀』に記すと」とされています。
 この住吉大社とはご承知の南海電車の沿線の住吉大社のことで、昔は神社の近くにまで海辺だったようです。ここに摂社として船玉神社が鎮座しており、紀直が祀る神とのことで、紀伊三所神の元社とされています。

 また、武内宿彌が祀った船は住吉大社の祭祀を司った船木氏が作ったとされます。この船木氏の本貫の地は伊勢国佐那県で、三重県多気郡多気町仁田には佐那神社が鎮座、祭神は天手力男命です。この神は天岩戸から天照大神を導き出した神として著名で、やはり日の神を運んでいます。江戸時代でしょうが、日抱尊として、伊太祁曽神社の祭神となりかかったこともあります。
 余談に近いのですが天手力男命とは岩の扉を開く神で磐押別神などと同じ神格で、内在するそのパワーはもの凄いものがあり、雷神でもあり、密教的には九頭竜神でもあったものと思われます。『紀伊続風土記』の名草郡手五箇荘の出島村(現在の安原の朝日地区)に九頭明神社が鎮座、これは伊太祁曽神社末社からの勧請と書かれており、伊太祁曽神社にも天手力男命のにおいがしていたのでしょう。

 住吉大社に伝わる『住吉大社神代記』には住吉大神を祀る神社として、紀伊国伊都郡丹生川上天手力男意気続々流住吉大神と言う長い名前の神名が出てきます。『紀伊国神名帳』にも紀伊国伊都郡の項に天手力雄気長足魂住吉神と言う神名を あげています。後裔社としては、橋本市胡麻生の本殿がきらびやかな色彩の相賀八幡神社とされていますが定かではありません。同じく、『住吉大社神代記』には、住吉大神を木国管川の藤代の峯に鎮め祀ったが後に針間国に渡ったと記しています。(この辺りの記述は『古代の鉄と神々:真弓常忠』によっています。)
 さて、「木国管川の藤代の峯に鎮め祀られた神」として思い浮かぶのは、丹生都姫神です。『播磨国風土記逸文』に、神功皇后は、新羅を平定しようとするために祈願を行うと国を固めた大神の子の爾保都比売命が征伐の方法を神功皇后に教えるには「私の祭祀を良くしてくれるなら、効験あらたかな赤土を与えよう。赤土を天逆鉾に塗って神の船の前後に立て、兵士の着衣を染め云々」と託宣し、その効あって新羅を征するに至る。そこで神功皇后は爾保都比売命を、紀伊国管川の藤代の峰にお鎮め申し上げた。と記載されています。丹生都比売神社創建の由緒と言えます。

 丹生都比売(爾保都比売)はおそらくは播磨国から伊都郡筒川(筒香)へ、片や住吉大神は筒香から播磨へ、面白い対比です。現在の筒香の付近には住吉大神の姿は見えません。丹生都姫神と入れ替わったと言うことでしょうか。

 さて、住吉大社の祭祀を司った船木氏ですが、住吉大神を播磨に遷すのに関わっているそうです。住吉大神の遷座については真弓常忠氏は丹生川上よりも砂鉄の豊富な播磨へ船木氏が移動していった物語の反映と見ておられます。

 式内社で見ますと、播磨国には住吉神社が鎮座していますが、爾保都比売を祭神とする神社は見あたりません。。『播磨国風土記逸文』に出てくるから播磨国と決めつけずに、お隣の摂津国(神戸市山田)の入比売神社ではないかと言われております。


[87] 名草の神々 65  Setoh 2002/01/19(Sat) 17:13 [Reply]
 『日本書紀』によりますと、神功皇后の軍は新羅を制圧し、金銀財宝を沢山の船に乗せて
帰還しました。元々新羅の王子の天之日矛命の血をひいている神功皇后がなぜ新羅を攻
める物語ができたのか、これについての大方の見方は『記紀』作成の頃の対新羅との緊張
関係が言われています。新羅の使節に対する態度も大きかったようです。

 また実際に丁度神功皇后の物語が年代として想定できるのは4世紀後半となりますが、
こにお時代に倭兵が新羅を襲ったことが『新羅本記』に出てきます。『百済本記』や『魏志倭
人伝』とともに『記紀』作成時の参考文献だったかもしれません。
新羅本記 364 倭兵が大挙して侵入
百済本記 392 高句麗の広開土王が侵入 多くの領土を奪われる
新羅本記 393 倭軍が侵入 籠城戦を行う
百済本記 395 高句麗の広開土王と戦うも大敗する
百済本記 397 倭国と国交を結び王子の腆支を人質とする
新羅本記 402 倭国と国交を結び奈忽王の子の未斯欣ミシキンを人質に送る
百済本記 402 倭国に使者を送り大珠を求む(大珠の意不明)
百済本記 403 倭国の使者を特に手厚くねぎらう
新羅本記 405 倭兵が侵入
新羅本記 407 倭人が東部と南部へ侵入
新羅本記 408 倭人が対馬に軍備を増強するを知って対抗策を案ずる
新羅本記 415 倭人と戦い勝利
 他に高句麗広開土王の石碑があり、倭軍の侵入を妨げて敗退させたと彫られています。

 皇后は帰還後、後の応神天皇を筑紫で生みます。 皇子を伴い海路、都に向かいます。
瀬戸内海を進み大和へ向かったと言うことです。九州でなくなった仲哀天皇の御子の香坂
の王と忍熊の王が一戦を交える準備をしつつ待ちかまえます。 神話の中での兄弟そろっ
ての抵抗の話は珍しいと思いますが、香坂の王は占いの最中に猪にかみ殺されてしまい
ます。

 『日本書紀』では、忍熊の王が待ちかまえているので、武内宿禰は皇子(応神天皇)を抱
いて紀伊水門に迂回します。 ここでは武内宿禰が日の神の移動に絡んでいます。
 また、幼児である皇子の東征譚であり、これは童神の降臨のイメージで、天孫の瓊瓊杵
尊が赤ん坊のまま高天原から葦原中国への降臨と同じスタイルです。神の子である王者
が治めるべき国土に来臨するのは童神のスタイル、これは半島の神話にも見えます。翁神
と童神が同時に顕れています。南方系と北方系の結合の神話のようです。
 これに比べると神武天皇の大和入りの物語は、中年の神武天皇の物語となっています。
強いて言えば、年代感は倭人の祖と言われた大陸の呉の太伯の話に似ています。
 この話は、前漢の時代に書かれた史書『史記:呉太伯世家』の「周の太王の息子に太
伯、仲雍、季歴の三兄弟の内、季歴とその息子の昌は賢く聖人の資質があったので、太王
は後継者にと考えていた。それと察した仲雍と季歴は、南方の地に去り、入れ墨断髪をし
て後継ぎの意志のないことを示した。太伯は自らを鈎呉と称して、呉の開祖となり、呉の太
伯と呼ばれた。孔子から「至徳」の聖人と仰がれた。
 倭は自らを呉の太伯の後裔と信じていたと言います。

 神武天皇の東征の話は、それよりも後の継体天皇や天武天皇が皇位を奪った話の焼き
直しなのかもしれません。

 余談はさておき、忍熊王は宇治に陣取りをします。やはり壬申の乱の大友皇子を揶揄し
ているのかもしれません。

[86] 名草の神々 64  Setoh 2002/01/12(Sat) 20:56 [Reply]
古風土記には神功皇后の説話は多く出てきます。摂津・播磨・備前・四国・九州です。西
日本中心に語られていた伝承だったのでしょう。
 また不思議にも武内宿禰については、どこの風土記にもその逸文にも出てきません。『記
紀』に300年も長生きして朝廷に仕え、東国視察まで行ったと記されているにもかかわらず
です。 おそらくは『記紀』を記述する前に誰かが設定した舞台回し用の人物としての大臣だ
ったのかも知れません。女帝神功皇后を補佐する大臣ですから、推古天皇を補佐した蘇
我馬子や持統天皇を補佐した藤原不比等をモデルにしたものでしょう。 先入観として武内
宿禰を固有名詞としていますが、「武:軍事を司る」「内:内裏のこと即ち朝廷」「宿禰:良い
霊感を持った大臣」とでも理解すれば、政務神事を司る補佐役と言えます。
 先走りますが、武内宿禰を人格化して共通の祖先とした新興氏族(紀朝臣など)が切り開
いた歴史が応神天皇からの朝廷との認識があったのでしょう。

 塩椎神、塩土老翁とか塩筒爺と呼ばれる海の化身のような神様がいます。紀の国では和
歌の浦の玉津島神社の隣の鹽竈神社や田辺市の豊秋津神社の摂社に祀られています。
この神は天孫の山幸彦(彦火火出見尊)に教えて海神の宮に行かせたり、その孫に当た
る、まだ九州にいた神武天皇(彦火火出見尊)に、東の方に良い土地があることを教えて
います。何か海を支配しているような物知りの神様ですが、この神からも武内宿禰を連想し
てしまいます。単に翁のイメージだけかも知れませんが。
 塩筒爺の名前から筒男、即ち住吉三神の底仲表の筒男をも連想します。武内宿禰と住
吉の神とは、誉田別命(後の応神天皇)の本当の父親ではないかとの説は根強く語られて
いるようですが、収斂するのは塩筒爺だったとなれば、一体何が言えるのか、と話は発展
してきます。そうしますと塩筒爺を奉斎していた氏族を探さねばなりません。山幸彦に海神
の宮への行き方を教えていますが、海神訪問神話はインドネシア方面にも残っており、南
方系の氏族の神話であったとされています。南方系だから単純に南九州だとしてしまうの
は危険です。浦島太郎の神話は丹後半島に残っています。しかし仲哀天皇が死ぬ物語の
場所は明らかに九州での出来事です。仲哀天皇は熊襲を攻めて敗北します。敗北者は何
を差し出したのでしょうか。そうです。皇后を南九州の酋長に差し出したのです。神功皇后
の息子の誉田別命とは熊襲・隼人の血をひいているのです。隼人の血が皇室に流れてい
るからこそ、神武天皇以前の天孫は南九州にいたように『記紀』に記載されているのでしょ
う。邪馬台国に敵対した狗奴国の後裔の国が熊襲・隼人をまとめていたのかも知れませ
ん。
 塩筒爺=隼人の酋長=武内宿禰=住吉三神、彼が誉田別命の父親となります。新大阪
駅の東に応神天皇を祭神とする八幡系でない珍しい神社である大隅神社が鎮座していま
す。社伝によればこの地はかっては大隅島と言う島であって、応神天皇が離宮を営んで、
これを大隅宮と称したとあります。この大隅島は近畿の隼人の要のような土地、九州の隼
人の中継地のような所と『馬.船・常民』の中で森浩一氏が述べています。応神天皇と隼人
とのつながりを示しています。

 住吉の神と武内宿禰が南方系の神であることを示す傍証をもうひとつ。
 福岡県の東海岸に八幡古表神社と言う古社が鎮座しています。ここに神相撲の神事が
伝わっています。磯良大神とか 伊多手大神とか中には女神と思われる神々も相撲をとると
いう神事です。そうしていつも「おんくろう神」と呼ばれる住吉大神が全勝して勝ち残ります。
西方の神です。所が住吉大神の傀儡子は、他の神々よりも小さく、かつ黒いのです。「黒
い」だけで南方系の隼人の神と言ってしまうのはどうかと思いますが、黒いことには違いあ
りません。
 更に、宇佐八幡宮はじめ、幾つかの神社に黒男神社と言う神社が鎮座しており、武内宿
禰が祀られています。この黒男と上記の住吉大神の黒い傀儡子とがつながっているとすれ
ば、これほどの確かなことはありません。


[85] 名草の神々 63  Setoh 2002/01/03(Thu) 13:41 [Reply]
 あけましておめでとうございます。
 年の始めにあたり皆様のご多幸とご健康をお祈りいたします。本年もよろしくお願いいたします。

 さて、仲哀天皇と神功皇后は背いた熊襲を鎮圧するべく、九州にやって来た訳です。以下、『日本書紀』の語る物語です。
 対熊襲戦の軍議を行っている最中に、皇后が神懸かり、「熊襲は戦うに値しない。それよりも金銀の多くある新羅の国を討てと託宣され、神をよく祀ったら戦うまでもなく従う、新羅を服従させれば熊襲も従うであろう。 その神祭りには天皇の御船と穴門で献上された水田ー名付けて大田と言うーをお供えしなさい。」との託宣がありました。
 仲哀天皇はこれを疑い、熊襲を討ちに行きましたが、討てずに帰ってきて、翌日には亡くなってしまいました。大臣武内宿禰は穴門の豊浦宮に仮葬しました。
 豊浦宮とは下関市の忌宮神社のこととされています。いよいよ武内宿禰の登場ですが、その前に「水田ー名付けて大田と言うー」の一文が気にかかります。

 「大田」とは何か、これについて触れておきたいと思います。「名草の神々15」でも概略を書いたのですが『播磨国風土記』揖保郡大田の里の説明に次のような一文があります。
 大田の由来は、かって呉の勝[くれのすぐり」が韓国から渡って来て、始め紀伊の国の名草の大田の村に着いた。その後、分かれて来て摂津の国の三島の賀美の郡の大田の村に移って来て、それがまた揖保の郡の大田の村に移住した。これはもといた紀伊の国の大田をとって里の名としたのである。とあるのです。
 紀伊の国の大田には、江戸時代に作られた『紀伊名所図会』によりますと、弓天神、内天神と云う神社が鎮座していました。普通、天神と云うと菅原道真を祀った神社が多いのですが、本来の天神とは天の神を祀ったもので、これは希望的推測ですが、「弓」は神功皇后を思わせ、「内」は武内宿禰を思わせるような気がします。

 呉の勝の勝姓は秦氏の一族とされ、秦氏の系統の集団が紀伊、摂津、播磨を行き来していっている様を云っているように読めます。紀氏と秦氏の関係を示している物語かもしれません。この大田については、また後述することになると思います。

 神功皇后の物語に戻ります。
 『古事記』では仲哀天皇を葬った後、「この国は、汝の胎中の子が治める国」との神の託宣を受けます。 託宣神の名を尋ねると、天照大神と住吉の三柱の神と名乗りました。 天照大神は皇祖神として固まって来るのはもう少し後の時代のことでしょうからこれは後世の付会、住吉の神が託宣したと考えていいでしょう。 住吉の神は、自らの御魂を船の上に祀り、新羅へ渡るように教えます。

 『記紀』と並ぶ資料に『古風土記』があります。 これは奈良時代に成立した最古の地誌・民俗誌で、各国のものが作られたのでしょうが、出雲や播磨国など五国のものが残っており、それ以外の国の風土記は他の文献に引用された形でしか残っていません。 これを逸文と言います。紀の国の場合には、『万葉集抄』と言う古典に、手束弓、あさもよひについてのも引用文が残っているに過ぎません。

 風土記の中から神功皇后が渡海する以前の事柄について記したものがあります。紀の国に関係ありそうな話を紹介します。

 『播磨国風土記』飾磨郡
 神功皇后が韓国平定のとき、御船の前が伊太代神の在した所だったので、ここを因達里(兵庫県姫路市飾磨区)とした。(伊太代神とは伊達神、五十猛命のことと思われます。)
 この伝承を伝える神社として、姫路市に射楯兵主神社や中臣印達神社が鎮座しています。

 『播磨国風土記』逸文
 神功皇后は、新羅を平定しようとするために爾保都比売命に祈願をする。 すると爾保都比売命は石坂比売命に託宣して「私をよく祀れば、赤土を出して、新羅の国を平伏させようと。」と言い、赤土を出した。 その土を天の逆桙に塗ったりした。その効あって新羅を平伏させることになった。そこで神功皇后は爾保都比売命を、紀伊国管川の藤代峰にお鎮め申し上げた。

 紀伊国管川とは和歌山県伊都郡冨貴村筒香とされており、丹生都比売神社の創建譚ともなっています。

[84]   斯くは書くべ  焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2001/12/23(Sun) 11:34 [Reply]
 神社という場所へ先輩たちがナニを込めようとしたのか‥‥、ここの視野
を外してジンジャエールしたんでは、ガキあそびと同じこった。

 『かむなび』さんに3年いたら、柱(神)と柱(神)に鋏まれた結界として
の、われわれの居住空間……そういう古代偏執(文化)も浮上してきました。

 柱(神)偏執(文化)……蛇の支配から自らの足を切って自らの「死」への
昇華……これも出てきました。
 『かむなび』こそ日本文化の中核たらめ。「気高さ志向」カネ。

[83] 名草の神々 62  Setoh 2001/12/22(Sat) 20:00 [Reply]
 「伊蘇志臣 滋野宿禰同祖。天道根命之後也。」については「名草の神々の56」で次のように書きました。
 摂津国武庫郡(宝塚市伊孑志)の式内大社伊和志津神社の鎮座地は、伊蘇志臣の居住地であったようです。 また、伊蘇志臣は後に滋野朝臣と改めており、大和国葛上郡(御所市)の駒形大重神社の祭神に滋野貞主命の名前が見え、この辺りにも一族がいたことが分かります。

 さて、神功皇后と天日矛を語る際、どうしても出てくる古代氏族の秦氏のことについて少し触れておきたいと思います。
 『日本書紀』「応神天皇十四年、十六年」から
 弓月君が百済より来朝して言うことには、「私の国の百二十県の人民を率いてやって来ました。しかし新羅人が邪魔をしているので、みな加羅国に留まっています。」 そこで葛城襲津彦を遣わして、弓月の人民を加羅に呼びました。しかし三年たっても襲津彦は帰らなかったのです。

 『日本書紀』「応神天皇十六年」から
 平群木莵宿禰・的戸田宿禰を加羅に遣わした。精兵を授けて、詔して「襲津彦が長らく帰ってこない。きっと新羅が邪魔立てしているにちがいない。 汝等、急ぎ行って新羅を討ち、その道をひらけ」といわれました。 是に、木莵宿禰等、精兵を進めて、新羅の境に臨みました。新羅の王はおそれてその罪に服した。そこで弓月の人民を率いて、襲津彦とともに帰ってきました。

 『新撰姓氏録』の山城国諸蛮に秦忌寸の説明に「弓月王、大和国の朝津間の腋上の地に置かれた」と出ています。

 腋上の地とは上記の滋野朝臣の居住した処です。奈良県御所市です。ここの駒形大重神社の祭神に滋野貞主命の名前が見えるのです。大重神社はシゲノサンとも呼ばれており、これを裏付けているようです。
 何を言いたいか、そうです。秦氏とは天日矛命から出た一族ではなかろうか、と言う事です。

 もう一つ、弓月岳と呼ばれる山があります。大和平野の東山麓に山辺の道と呼ばれる古代を味わえる趣の古道があります。 この途中を少し外れて更に東へ登って行きますと、穴師坐兵主神社が鎮座しています。元の鎮座地は弓月岳の上であったと言います。 この弓月岳とはどの山であったかについては三つの山が候補山とされていますが、問題は弓月の名前です。先に紹介しました秦氏の部民を率いて渡来して来た人物(神かも?)の名前も弓月です。 この兵主神社とは秦氏の祖神を祀ったものか、少なくとも秦氏の斎祀った神社だったと言えます。この神社の神体は国懸神宮と同じく日矛です。 天日矛命を祀っていると考える学者もいます。千田稔氏は『王権の海』の中で同様の考証をされています。氏は更に、天日矛命がおさまったとする但馬には古い兵主神社が多く鎮座していることを指摘されています。

 ここに、紀氏←天道根命=天日矛命→秦氏 の関係がでてきました。(矢印は祖神と氏族を表します。)


[82] 名草の神々 61  Setoh 2001/12/16(Sun) 15:08 [Reply]
 『日本書紀』にそって神功皇后の動きを追いかけてみます。
 神功皇后は多くの魚の協力を得ながら西へ向かいます。日本海側の海人と云われる宗像一族や海部一族
などの海人族の協力を言っているのでしょう。また多くの魚が集まるイメージはアツム、安曇と言う海人の頭領
となった氏族の協力をも思わせます。
 九州へ入った天皇は筑紫の伊覩(伊都)県主の五十迹手(いとて)の服属儀礼をともなった出迎えを受けま
す。
 そこで天皇は五十迹手の「いそいそさ」をほめて「伊蘇志:いそし」と言われ、五十迹手の国を伊蘇の国とさ
れ、これが訛って伊覩となったとしています。
 伊覩国の場所は現在の福岡県糸島郡(怡土郡と志摩郡を合併)で、邪馬台国のことが記載されている『魏志
倭人伝』に「代々王有り」と紹介されている伊都国のこととされています。 古来より大陸・半島への玄関口だっ
た処です。だから元々から「いと」だったので、「いそ」の説話は別に目的があって語られたのでしょう。
 この伊都国は紀の国にゆかりの深い土地だと言われています。
 一つは丹生都比売を奉じた人々が上陸した地点と、和歌山県の歴史家で丹生都姫神社ゆかりの丹生良広
氏が『丹生神社と丹生氏の研究』で述べておられるのです。 氏によりますと、伊都国王の後裔が紀州丹生氏
や大分豊後丹生氏になっていったとの見解を示され、和歌山の伊都郡の名はここから人々と共に運ばれてい
たとされています。
 また別に、伊都国の氏神の高磯比メ神社の祭神を丹生都姫とされる方や阿加流比売神とされる方もおられ
ます。

 平安時代に作成された『新撰姓氏録』には畿内し住む氏族の自己申告で、粉飾もありそうなルーツを記して
います。 これに「伊蘇志:いそし」と言う名前の氏族が載っています。 すなわち、「伊蘇志臣 滋野宿禰同祖。
天道根命之後也。」と出ています。 滋野宿禰については「紀直同祖。神魂命五世孫天道根命之後也。」とあ
り、紀の国の国造家である紀直も天道根命の後裔とされていますので、同じルーツだと記していることになりま
す。

 また五十迹手については、『筑前国風土記逸文』に、「高麗の国の意呂山(おろやま尉山(うるさん))に天か
ら降ってきた日桙の末裔」と名乗ったとしています。
 糸井造なる一族がおり、伊都国にルーツを持つと言われています。大和の『日本の神々4大和』の中の糸井
神社の項に「糸井造は、考合の結果、三宅連あるいは伊蘇志臣と同祖で新羅国天日槍の後裔と見られる。」と
出ています。天日槍とは天日矛のことです。

 一つの結論に近づいています。紀氏は天之日矛命につながる氏族ではなかろうかと言うことです。
 一つの氏族が天道根命の後裔であり、天日矛命の後裔でもある、このことは天道根命と天日矛命とは同一
系列の神と言えることになり、これから自然に導かれてしまう結論です。
 これで、日矛鏡を御神体とする国懸神宮の祭神は紀氏の祖神の日矛神であり、同時に天道根命でもあると
いうことになり、これはまさに国懸神宮の由緒の謎の説明にうまくはまります。共に日の神の動きに連動するの
です。

 また五十猛命は伊達(いたて)命とも呼ばれており、五十迹手との名前の近さが気になるところです。糸島郡
には五十猛命を祀る神社が濃く分布しています。五十猛命は有功(いさおし)の神と呼ばれています。 天道根
命と天日矛命の後裔が「いそし」、SAOをSOと読めば同じです。これはどう云うことでしょうか。

[81] Re[80]: 「あかるい」からアカル…… やろかね   Setoh 2001/12/14(Fri) 11:03 [Reply]
善果報紋さん こんにちは。

★ 質問 1 「ヒホコという道具」は確認できてるのカネ。
日前国懸神宮では戦国時代に燃えてしまったとか,誰も見ていないそうな。
日矛とは日槍で,「日」プラス,今で言う「ヤリ」らしい。

★ 質問 2 アカルというのは「岩戸」にかくれたアマテラス(だったか?)を、引っ張り
       出すいろんな「試みの代名詞の名前」の神のひとつやろ? するってぇと、こ
       こでは「姿を表す(AKAR)」が考えられる。「あかるい」の「る・い」「る・き」
       あたりの用法、そんなに古いかねのみことカネ。 
> 「試みの代名詞の名前」の神のひとつ
『日本書紀』の天の岩戸の所では、一書(第三)に天明玉命(あまのあかるたまのみこと)の名が出てくる。流石,詳細に読んでおられる。この神は八坂瓊(やさかに)の曲玉を作ったそうな。
> アカル
新羅の王子の天之日矛命が追いかけた女神を「阿加流比売神」(あかるひめ)と言います。
用法については阿呆の音痴言語でやんす。

[80] 「あかるい」からアカル…… やろかね   焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2001/12/14(Fri) 07:13 [Reply]
 ここ、『あさもよし』の前科紋の紋次郎にござんす。

★ 質問 1 「ヒホコという道具」は確認できてるのカネ。
★ 質問 2 アカルというのは「岩戸」にかくれたアマテラス(だったか?)を、引っ張り
       出すいろんな「試みの代名詞の名前」の神のひとつやろ? するってぇと、こ
       こでは「姿を表す(AKAR)」が考えられる。「あかるい」の「る・い」「る・き」
       あたりの用法、そんなに古いかねのみことカネ。
 

[79] 名草の神々 60  Setoh 2001/12/07(Fri) 16:46 [Reply]
 紀氏の祖神とされている天道根命について若干触れておきたいと思います。
 不思議なことですが、この神の名は『古事記』『日本書紀』には登場して来ません。 これらが書かれた時代、紀氏は中央の紀朝臣(きのあそん)と紀の国の紀直(きのあたえ)に分かれていました。 中央の紀朝臣の祖神は武内宿禰命で、この神は無理矢理にも登場して来ている事と比べますと、地方の国造(大名のような存在)である紀直の力量は、当時にはさほど評価されていなかったのでしょうか。
 『記紀』が書かれた8世紀初頭の瀬戸内海への港湾は、すでに紀の川水運よりは大和川に移り、また木津川から淀川へ移っていたようです。また例えば藤原京造営の用材を供給したのが近江の田上山であるように、木材の産出国としても、その地位が下がっていたようです。
 このような中でも、日前国懸神宮の存在は大きくなり、後に伊勢神宮と共に位をつけるのも憚られるようになりました。聖地、神々への崇敬の念は現在とは比較にならないほどのものだった上に皇祖神を祭っていると思われて来ていたと言うことでしょう。

 これを斎祀ったのが国造家の紀氏でした。その紀氏が祖神とする天道根命、この神の名は平安時代に書かれた『先代旧事本紀』と言う古書に出てきます。この書物は物部氏が自らに伝わる伝承を記して、古代より建国に当たった粗略にはできない一族であることを再確認させようとした意図がある書物とも言われています。 例えば、物部氏の遠祖である饒速日尊が天降する時のお供の中に、時の権力を恣にしていた藤原氏の祖とされる「天児屋根命」を入れてあります。藤原氏への対抗意識か嫌がらせかと言われていますが、まさか嫌がらせとは思いにくい所で、物部氏にはそのような古い伝承が残っていたのかも知れません。

 この『先代旧事本紀』に物部氏の遠祖饒速日尊の降臨に「防衛[ふせぎまもり]として天降り供へ奉る」とされた神々の中に「天道根命 川瀬造等の祖」と記載されているのです。この川瀬造は泉州にいたであろう豪族で、紀氏とは同系列と言えます。
 泉州であるとしたのは、平安時代に作成された畿内豪族の素性を書いた『新撰姓氏録』の抄録によっています。畿内には紀の国は含まれていません。この本文は散逸しているようですが、レジメが残っている貴重な資料です。 この中に、「和泉国神別。川瀬造。神魂命五世孫天道根命之後也。」とあるのです。 同じく「河内国神別。紀直。神魂命五世孫天道根命之後也。」とあります。 紀氏の一部は現在の大阪府八尾市付近にいたようです。

 『先代旧事本紀』には紀国造は神武天皇の時代に設けられたと記してあり、これは史実とは思われませんが、比較的古い時代に大和王権に服属した氏族であったとは言えるでしょう。

 現在の日前国懸神宮には境内の小祠は僅かになっていますが、かっては多くの摂社末社が鎮座していました。その中に先ほど紹介した「防衛[ふせぎまもり]として天降り供へ奉る」神々の名前が並んでいました。 物部氏の影響下に置かれた時代があったことを推測させます。
 同時これは日前宮の祭神にかかわる問題かも知れません。現在の祭神は両宮とも天照大神ですが、皇祖神の天照大神が日の神として最高神になる以前の時代には、一般的には日の神としては天照御魂神と呼ばれた神が知られていたとされます。 松前健一さんは中公新書『日本の神々』で、各地の天照御魂神の多くは皇祖神の天照大神に置き換わっていったのであろうと述べられていますが、現在でもこの神の名前を付けた古い神社が残っています。京都の蚕の社と呼ばれている三柱鳥居のある木嶋坐天照御魂神社が著名です。 この天照御魂神は物部氏の遠祖饒速日尊と同一神と見られたりして、天照国照彦火明櫛玉饒速日尊と言う長い名前の神として『先代旧事本紀』に記載されています。こうなれば、日本海丹後の海部氏の奉斎した籠神社や尾張国の一宮の真清田神社 を祀った尾張氏と物部氏は同族であったと言うことになり、大和王権の地盤が確立される以前のいわば群雄割拠時代の100万石の大名のような存在だったのでしょう。

 神武天皇以前の大和の先住支配者として饒速日尊の名前が『記紀』に記載されています。 『先代旧事本紀』記載の内容を信じるとすれば、饒速日尊に天道根命がお供していたことになり、そうしますと紀氏は思ったより古くから紀の国にいたのかもしれません。


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