青草掲示板ログ平十四年十月 2002.8 |
[393] Re[390][389]: 王朝とは かたばみ [Mail] [Url] | 2002/10/30(Wed) 23:51 [Reply] |
私も政治学などはまったく??です。 王朝という表現は「王の系譜」に比重をおいた表現。 王国という表現はその集団の運営形態に比重をおいた表現。 「国」の体裁をもたないと王朝とも王国とも呼ばないと思います。 そんなように考えています。 考古学の文章ではよく「クニ」とか「ムラ」という表現がでてきます。 国や村ではないがそれに近いものといった意味で使われていると理解しています。 どこかに区分するべきなにかがあるはずですが・・知る限りではあいまいみたい(^^; システム運営のための「租税」が存在し、共通の「掟」(法)が存在すること、これが「国」とみなせる必要条件だと考えています。 それをコントロールするのが複数の人々の協議であってもかまいません。その協議が中央集権の場です。 (部族会議とは別物、これがポイント) 平安の天皇が象徴にすぎない場合があったとしても、同じ系譜の天皇がいるなら王朝でいいと思います。 モンゴル帝国かあ(^^; 農耕民ではありませんからちょっと様相が違いますね。 海の民とよく似ていると思います。 狩猟や漁労は日々限られたパイの取り合いだと思います。 パイに余剰がない場合は当初から部族同士の抗争がおきやすい。 抗争を防ぐ目的で部族間の協議が行われ、租税はなくても早々に「国」に近い組織ができるだろうと思っています。 生産物の流通が安定すれば、ある部族は野菜だけを作るなんてことが可能になって生産効率が上がる。 総合の食料生産量に余剰が生じるなら、食料生産に従事なくてもよい人々が登場できます。 土器だけを作るとか船だけを作るといった手工業の登場です。 漁業から離れて海運だけに専念する人々も登場する。 縄文世界をメインにして段階的に国に至るちょい前の段階だったのが弥生出雲だと考えています。 (天孫は中国文化を受けてそれより早く国に近づいた) |
[392] Re[391]: 家島。 神奈備 | 2002/10/29(Tue) 22:10 [Reply] |
> ながい間、お世話になりました。ひとまずは一段落です。 豆石煌さん、家島への航路、ご苦労様でした。 > 現在、西島の高内(こうない)へは、一般の船はありません。秘境です。 時々、ツアーがあるようですね。またご紹介ください。 |
[391] 家島。 豆石 煌 | 2002/10/29(Tue) 21:06 [Reply] |
家島は、「いえしま」か、「えじま」か。(地元では、通常「えじま」) まず、「家」は、「え」とは読めないし、「えじま」では万葉集がよめない。 それで町章も「i」になった。 家島は 名にこそありけれ 海原を 吾が恋ひ来つる 妹もあらなくに(万葉3718) 家島のよさは、やはり家島の住人の方に聞くべきと思う。 このシリーズの、はじめの、[115]のKAZZさ〜ん。よろしく。 http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Forest/8406/ (「国生みの島」など。) (KAZZさんは、「コウナイの石」の守護神(人):上野忠彦氏の一番デシでもある。) 上野氏の自費出版本「コウナイの石」(小説)や、1998年の新聞報道により感化され、単独行にて「石神さま」まで、たどり着いた女性がいる。ルポライターの荒木有希さんである。 ルポの「夕鶴の住む島」は「週刊金曜日」(246,247号)(1998年) また、姫路の詩人、伊藤三樹夫さんは「コウナイの石」について、感銘深い詩をシリーズで創作なさいました。 そして、上野氏は、自らの論説と、ルポと、詩とを含めた本、第二弾 「秘境・家島・コウナイの石」を自費出版なさいました。(1999年) ちょうどその頃、私(豆石)は、詩人の伊藤さんに偶然に出逢ったのである。まずは誰も行かないであろう姫路市街の山の頂上。 播磨国風土記の「因達の神山」(八丈岩山)の頂上。2000年1月2日のことでありました。 −−−−−−−−−−−−−−−−− もう一度、石の表情をじっくり、否、ボケ〜と見てみて下さい。 神奈備;写真付き参詣掲示板 http://kamnavi.hp.infoseek.co.jp/h1406.htm の3枚目。 (なんびきかの動物が居るように思えてなりません???私には・・・、だったら・・・) −−−−−−−−−− ながい間、お世話になりました。ひとまずは一段落です。 神奈備のみなさん、ありがとう御座いました。 では、またね。 豆石 煌。 |
[390] Re[389]: 王朝とは 玄松子 | 2002/10/29(Tue) 19:41 [Reply] |
> 王朝とはなにかという定義だけでもむずかしいですね。 基本的に「王朝」には、時代・時期・期間といった時間の概念が含まれているので、今回は、王国と村の違いということですが。 > しかし、議長は各部族内のことには干渉しない。 > それぞれの部族内のことはその族長に全ての権限があり、議長はまとめ役で王とは違うわけです。 > 族長も「王」ではなく、「家族とその長」の拡大版です。 > 総じて「村長」のイメージに近いと思います。 議会制か、絶対君主制かということでしょうか。 王国であっても、議会制を用いているイギリスは、どうなるのでしょう。 平安時代の帝も、実質は飾りです。 村というのは、人の集まりや集落という、「物理的」な意味でも使われますが、行政上では地方の公共団体。上位の行政として市や県、国があるのではないかと思います。 上位に行政組織が存在しない場合、国と呼ぶのではないかと思います。 各部族の代表者会議(族長会議)であっても、その上に行政組織がなければ、それは国会であり、その議長は王ではないでしょうか。モンゴル帝国も「国」ですよね。 *政治学のこと、よく知りませんが、その手の本を読めば明確な違いが説明されているのでしょうね。 |
[389] 王朝とは かたばみ [Mail] [Url] | 2002/10/29(Tue) 18:22 [Reply] |
神奈備掲示板3501玄松子さんへのコメント ≫この場合の王朝と村の違いって何ですか 王朝とはなにかという定義だけでもむずかしいですね。 いろいろな論があると思います。 王朝へ移行する過渡期だったりするとますますあいまいになりそうです。 出雲の末期あたりに、ある程度の中央集権が登場しはじめていたと考えています。 纒向の矢塚とか勝山といった初期古墳ができるころ(AD200頃)としておきます。 (ホケノ山は微妙な境目、箸墓は次世代の天孫系譜の墓) それまでの出雲は各地の族長が必要に応じて族長会議を開く共同体で、出雲に神様が集まる神無月あるいは神在月の話は族長会議のイメージを源にするとみています。 インディアンの酋長が集まって大酋長(議長)のもとで重要議題について全体の意思統一を図る、これと同じです。 大勢力をかかえる族長もいれば小規模な族長もいるわけで、大きい集団の族長の方が発言力があるでしょう。 あるいは流通といった重要部分を握っている人物も発言力があるでしょう。 その中から経験豊富、人望といった暗黙の了解で議長が選ばれた。 かって新しい文化をもたらした人々の子孫であるならなおさらだと思います。 しかし、議長は各部族内のことには干渉しない。 それぞれの部族内のことはその族長に全ての権限があり、議長はまとめ役で王とは違うわけです。 族長も「王」ではなく、「家族とその長」の拡大版です。 総じて「村長」のイメージに近いと思います。 部族(≒村)が互いに協力し合う体制が発達したもの、それが出雲だと考えています。 無意識に出雲王朝とやってしまうこともありますが、王朝という言葉が気づかぬうちに、漢王朝のごときイメージを出雲に重ねてしまいやすいので要注意と思います。 こういう状況を表す適切な言葉がないですけど、出雲連合あたりが妥当かなあ。 対抗するのが天孫連盟(^^; 部族内の生産と分配の権限はそれぞれの族長にあるわけですが、その権限が他者に移って中央集権化されたとき、それが王朝のはじまりの目安と考えています。 租税の登場でもあり、命令の伝達には文字の一般化も必須です。 ナガスネヒコと饒速日、これを出雲末期の事象だとして・・ 饒速日は大和の議長+αあたり。 ナガスネヒコ伝承は出雲末期の混乱で各部族への指示が不徹底だったこと、あるいは指示に従わない部族もあったことを源にするとみています。 なお崇神、垂仁時代でもまだ本格的な王朝には至っていないと考えています。 大きな力を持ち始めたが、諸地域の生産を管理するらしき体制がみえないからです。 成務紀に「諸国に造長を立て、県、邑に稲置を置き、盾と矛をさずけてしるしとした」とあります。 これが生産と分配の中央集権化の最初とみています。 |
[388] 家島航路 豆石 煌 | 2002/10/27(Sun) 19:51 [Reply] |
神奈備のみなさまへ、ご紹介いたします。 時刻表を見ると、家島へは、家島汽船の時刻表しか載っておりませんが・・・ 家島に行くには、先ず、 JR姫路駅の北側の姫路市営バスにて「飾磨港」行きにて、約25分かかります。 家島本島(真浦、宮)へは、3社の船が各8往復、すなわち、一日に24往復。(日中、約30分毎) 家島汽船−−−−飾磨〜(たんが)〜真浦〜宮。 高福丸−−−−−飾磨〜 〜 〜真浦〜宮。 高速いえしま−−飾磨〜 〜 〜真浦。 坊勢島(坊勢港)へは、2社。やはり、8往復ずつぐらい。 (坊勢汽船、ラピート桂) 途中の、男鹿島(タンガ港)に立ち寄るモノと、直行するモノとがあります。 所要時間は、約30分。片道1000円ぐらい。(各社で異なる。) 現在、西島の高内(こうない)へは、一般の船はありません。秘境です。 「家島神社」は、家島本島の東端で、宮でお降りが便利です。 よい天気の日に、真浦〜宮の道を、海の香を満喫しながら歩くのも たのしいです。(約30〜40分)。 おすすめの船便は、行きは、やはりデッキのある中型高速船「ささゆり」(家島汽船)でしょうか。帰りは、上記のよう何本でも船はあります。便利な離島です。 |
[387] Re[385][382]: 相撲→海部 神奈備 | 2002/10/27(Sun) 10:22 [Reply] |
農具なんかは千年以上あまり形が変わっていないような場合があります。そのように人間の生き様や社会の仕組みはそんなに変わっていくようではありませんね。 そのような意味からもかたばみさんの > (海の民は)境界線といった感覚は持たず、情報や最新技術の伝達者ともなった縄文〜弥生の人々。 をベースにされた発想に同感です。 [385] の様子はまるで中世を見るようですが、それ以前千年前でもよく似ていたと思わざるをえませんね。 > 早晩日本の海全体をとりまとめる組織になったと考えています。 列島だけではなく、半島や大陸沿岸部も含めてゆるやかなネットワークがあったと思います。 |
[386] Re[384] 伊刀嶋=家島本島? 神奈備 | 2002/10/27(Sun) 10:21 [Reply] |
> 最西部の院下島を、伊刀嶋と仮に比定する。 東へのあこがれ(と畏れ)は古代日本の人々の意識の奥にあったのでは。 そうすると、西から東を斎祀る古例が残っているはず。 例えば:− 伊都国 → 志賀島(漢委奴国王の金印出土) 紀伊伊都郡 → 丹生都比賣神社、高野山は伊都郡の東側 出雲 → 大和 大和の皇女 → 伊勢神宮 伊豆半島鎮座の神社 → 伊豆火山島 豆石さんの言われる「神嶋は、伊刀嶋(院下島)の東にあります。」は正鵠を得ておられるように思います。 |
[385] Re[382]: 相撲→海部 かたばみ [Mail] [Url] | 2002/10/27(Sun) 00:06 [Reply] |
≫海部と思いますが尾張には登場しているようですが丹後にはまだと あの図で伊勢濃尾を赤くしているのは天火明後裔の勢力です(^^; ま、物部の祖のひとりといってもいいですけど。尾張系譜の祖でもいいいです。 海の民は縄文末期には共同体意識をもっていたと考えています。 まず季節ごとに魚を追って漁場を移動するであろうこと。 (北海道縄文では礼文島と苫小牧を季節移動していた縄文人が確認されています) それに伴って各地に陸上拠点あるいはなじみの村落が登場するであろうこと。 頼まれれば物や人を運んだりするようになるであろうこと。 これらを行うには共通の暦や記録手段が必要になり、祭祀など行動様式も共通化するであろうこと。 境界線といった感覚は持たず、情報や最新技術の伝達者ともなった縄文〜弥生の人々。 早晩日本の海全体をとりまとめる組織になったと考えています。 物部も海部も安曇もその一員を祖にしていると考えています。 したがって海部の拠点はどこといったことはあまり意識していません。 その地域にいた海の民が後に海部を名乗った、といった程度です。 最古級の謎めいた神社がある場所はこれらの人々(海の民)の拠点あるいは交易地になっていた場所だとみています。 熊野の場合は造船拠点、熊野川流域の材木です。紀ノ川も同様。 杉がどんどん植林されたと考えています、海の民=林業者でもある。 伊勢は交易拠点だろうなあ。若狭は日本海側の総合拠点でしょう。 交易で儲かるようになれば商業中心に変身する人々もでてくる。 そして金属探しでも武器売買でもなんでもやる集団へ、ま総合商社ですね(^^; 自衛力も必要になって軍事にも長じる、それが物部氏の祖と考えています。 |
[384] 伊刀嶋=家島本島? 豆石 煌 | 2002/10/26(Sat) 21:34 [Reply] |
播磨国風土記には、揖保郡の冒頭部分と、揖保郡の浦上の里の神嶋との、2ヶ所に「伊刀嶋」が見られる。 冒頭の部分では、「伊刀嶋は、いろいろな島の全体の名(=家島群島)です。」とあり、 神嶋の部分では、「神嶋は、伊刀嶋の東にある。」と、あるので、従来は、群島の最東部の「上島」が、「神嶋」とされてきた。すなわち、「神嶋=上島」。 新しい解釈として、「伊刀嶋=院下島」としたら、どうでしょうか?? 群島、最西部の院下島を、伊刀嶋と仮に比定する。西方より見るのである。一番手前が伊刀嶋。その東の群島全部が伊刀嶋諸島(すなわち、家島群島。) 「神嶋は、伊刀嶋(院下島)の東にあります。この島(神嶋=西島)の西の辺に石神(コウナイの石)が居ます。形が仏像(作成予定の奈良の大仏の首部分)に似ています。・・・・・」 この解釈は、無理でしょうか? それもこれも「コウナイの石」さまさま です。 (この石の価値を見出したのは、上野忠彦先生=元・坊勢診療所院長、なのです。) −−−−−−−−−− それにしても、解らないのが、加古郡や(印南郡)に記された「南ビ都麻嶋」である。 一般の説は、「ナビツマ嶋=加古川の河口にあった島」であるが、 含芸(かむき=神吉)の里の部分では、 「郡の南の海中に小島がある。名をナビツマといいます。」と記されている。「海中に」である。「河口に」では、ないのである。 さて、・・・??? (私、家島に着いたら、皆様とお別れしなくては、ならないのです。石神の命令により。だから、ゴジャゴジャ・・・) あと2回ぐらい か なあ? |
[383] Re[372]: 訂正・追加;万葉の粟島。 豆石 煌 | 2002/10/26(Sat) 20:09 [Reply] |
一首、脱落が御座いました。追加いたします。 > > 万葉集には、6首の「粟島」と、1首の「粟の小島」を詠んだ歌がある。 > > 周防のおそらく屋代島の付近で詠まれた歌。(遣新羅使人の) > > (3631)いつしかも 見むと思ひし 粟島を よそにや恋ひむ 行くよしをなみ > (3633)粟島の 逢はじと思ふ 妹にあれや 安眠も寝ずて 吾が恋わたる > −−−−−−−−−−− > 以下の粟島は、淡路島の近海のモノらしい。 > > ( 358)武庫の浦を 漕ぎ廻る小舟 粟島を そがひに見つつ ともしき小舟 > ( 509)・・・鄙の国辺に 直向かふ 淡路を過ぎ 粟島を そがひに見つつ・・・ > (1207)粟島に 漕ぎ渡らむと 思へども 明石の門波 いまだ騒けり > (1711)百伝ふ 八十の島廻を 漕ぎ来れど 粟の小島は 見れど飽かぬかも 追加(3167)波の間ゆ 雲居に見ゆる 粟島の 逢はぬもの故 我に寄する児ら > |
[382] 相撲 神奈備 | 2002/10/25(Fri) 08:26 [Reply] |
> 考古学的出土物がまずチェックポイントです、ついで中国史書など、次いで記紀を含む古伝書類。 > 神社伝承は最後です、後世に変化している可能性が高い。 > 民間レベルの変化なら逆算も可能と思いますが、お上の意志によって変化した場合は推測できないからです。 かたばみさんらしい素晴らしいアプローチです。目が離せませんね。 地図拝見、海部と思いますが尾張には登場しているようですが丹後にはまだと言うことでしょうか。 > 旧出雲の力自慢の野見宿禰と新王朝の力自慢の当麻蹴速が格闘競技を行って当麻蹴速が敗れた。 神事として相撲が今でも行われます。これは力比べのような競技なのでしょうが、敢えて戦争の残映と見るよりも、戦争結果の占いなのかも。吉備前津屋の大女と小女を争わせた話などが残っていますね。 |
[381] Re[380]: 当麻蹴速と出雲 かたばみ [Mail] [Url] | 2002/10/24(Thu) 00:38 [Reply] |
> 下記の図をごらんください。 アドレス間違えました http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/g01.files/12/ad50jousei.gif です。 |
[380] 当麻蹴速と出雲 かたばみ [Mail] [Url] | 2002/10/24(Thu) 00:33 [Reply] |
神奈備掲示板3481から引っ越し ≫当麻とは西の出雲の象徴、すなわち負けたのは島根出雲、勝ったのが大和出雲と言う構図でしょうか YESかNOだけならすべてNOです(^^; 失礼して長文です。 これらを歴史として捉えるなら年代の設定が必須です。 加えてその前後にある事象が不自然にならずに連続してつながってゆくかどうかも重要です。 ある事象をAD250とみるなら、少なくともその前後数百年のいろいろをシミュレートして不自然にならないかどうかのチェックをするわけです。 その他の事象に不自然さが生じないならシミュレートは正しい可能性が高い、そう判断してさらに先へ進む。 どこかでおかしくなったら元へ戻ってシミュレートをやり直す。 これを繰り返しながら時代を下る、そういうやりかたをしています。 しかし弥生〜古墳にはいるとチェックポイントが増えるのでたいへんです、少しづつ文章化するつもりです。 考古学的出土物がまずチェックポイントです、ついで中国史書など、次いで記紀を含む古伝書類。 神社伝承は最後です、後世に変化している可能性が高い。 民間レベルの変化なら逆算も可能と思いますが、お上の意志によって変化した場合は推測できないからです。 すると記紀の内容がシミュレートに乗らない場合がいろいろでてきます。 どうしても乗らない場合は、記紀のほうがおかしいからだと判断せざるを得なくなる。 この判断は微妙ですけど、ひねった設定や理屈づけをしないですむ流れ、シンプルな流れを選ぶ、を基本にしています。 その結果、記紀は特定の目的のための偽がセットされているが、それ以外は事実を伝えていると感じています。 ということで、シミュレーションのなかから野見宿禰と当麻蹴速については下記となります。 崇神が出雲の中枢である大和を制圧してそこに新王朝を建てた。 旧出雲の力自慢の野見宿禰と新王朝の力自慢の当麻蹴速が格闘競技を行って当麻蹴速が敗れた。 それだけです(^^; どこにでもありそうな伝承です。 当麻蹴速には負けねばならない定めがあったのかもしれない、といった空想をするのみ。 そこらじゅうが出雲であることはシミュレート済みなので、野見宿禰がどこに住んでいてもかまいません。 下記の図をごらんください。 http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/kf12.html 大国主の国譲りとはどこを譲ったのでしょうか。記紀ではわかりません。 広大になりつつあった出雲のうちの豊前豊後を譲ったとみています(実際には奪われた)、AD50頃。 そして大国主が強制的に引退させられた場所が島根だと考えています。 タケミナカタの諏訪と同じく周囲と距離を置ける場所、ま、島流しに近いものです。 記紀はこれを神話時代の禅譲と書いた。 (国譲り後のAD50〜AD250の出雲の中枢が大和) 国譲り後の出雲を書くわけにいきません、神代で存在を消したとしていますから。 その後の各地に「出雲の痕跡」があればそれらは大国主時代の出雲(=島根)に集約してごまかす他はありません。 風土記でも同様ですが、ちょいちょいとほころびがでてくる。 結果、大国主に多数の別名があるようにもなってしまうわけです。 AD250頃に天孫がその広大な出雲も制圧した、どういう制圧なのか。 100人の民間人を10人の軍隊が制圧した、ということです。 しかし、武力で押さえつけても意識を消すことはできません。 拠点だけ確保しても食糧がなければどうにもなりません。 100人の民間人(旧出雲)の協力が必要です。 崇神が必死にいろいろな神様(おそらく出雲系の神々)を祭ったのはその協力を得るため。民心を得るため。 その最たるが、大物主と倭迹々日百襲姫の結婚です。 邪馬壹国の卑弥呼の流れを継承するもので女王に等しい巫女だったとみています。(箸墓の巨大さ) 大物主は旧出雲の王ないしその象徴でしょう。 形式的な婚姻儀礼だけだと思いますけど。 旧出雲の協力を得られないうちは「祟られていた」わけですが、なんとか民心を得てようやく新王朝の経営が軌道に乗りはじめた、それが崇神時代。 崇神の在位期間は持論では248-273です。 年輪年代法で纒向の石塚古墳がAD200前後の古墳という結果がでています。 前方後円墳(ホタテ貝型)を最初に築造したのは出雲勢力ということになります。 埴輪はまだありませんが、石柱を立てるといったいろいろなタイプの古墳がAD100頃には登場しています。 ホタテ貝型は大和出雲の形式だったのでしょう。 開化と崇神以降がその古墳形式を取り込み、そして古墳時代が到来したと考えています。 野見宿禰はその埴輪造りに協力したわけで、妥当な伝承と思います。 それまでの天孫は葬送儀礼に殉葬をおこなっていたのかもしれません。 野見宿禰と当麻蹴速の前後関係だけでも多数のチェックポイントがでてきます。 多くが状況証拠でのシミュレートですが、前後の時間軸を連続させて歴史として空想することがミソなんです。 |
[379] 初めまして Pepper's | 2002/10/23(Wed) 23:13 [Reply] |
今年の暮れあたり、フェリーで勝浦に上陸して、那智と本宮大社を経由して西 へ抜けたいなぁ、と思っているのですが(最終目的地は出雲大社に初詣)。 車で走る場合には、時間はどれくらいかかるのでしょうか?。 |
[378] えしま・えじま・いえしま。 豆石 煌 | 2002/10/22(Tue) 22:18 [Reply] |
地元の家島の人は元より、姫路の者も、約20年前までは「家島」と書いて「えじま」と呼んでいた。否、今でも通常「えじま」と呼ぶ。 そして、ヤヤコシイことに、近海の淡路島の岩屋にも「えしま」がある。 「絵島」である。http://www.civilnet.or.jp/culture/chosatai/eshima.htm 中・近世の紀行文を見ても、家島も絵島も「えしま」と表記せられ、文の前後を見ても、どちらのことなのか不明のものも多い。また、記述者側の混乱もあるようである。 岩屋の絵島は、すぐ南の大和島と共に、じつに美しい。 絵島のてっぺんに小さな神の祠がある。これは、平清盛が「兵庫の港」(今の神戸港の元)を築くとき、その築港を成功に導く為に、大勢の人々の身代わりになり自ら進んで「人柱」となった、清盛の小姓の、若い「松王丸」が祀られている。 この岩屋の地からは、海峡越しに、その兵庫の和田岬もよく見え、歴史ロマンに心を打たれるのだが、 しかし、明石海峡大橋を通り抜けるだけの観光客に、その歴史を知る人はすくないだろう。 −−−−−−−−−− 次にこそ、家島へ。 注!!「現在、コウナイの石 のある、西島への一般の船便はありません。」 |
[377] 書肆徘徊中年・秋 香具 | 2002/10/22(Tue) 15:13 [Reply] |
>てつ様 久しぶりに胸が震えるような書籍に出会いました。 『縄文社会論究』(春成秀爾・著/塙書房・版) 衝動買いしそうになりましたが、懐が氷河期なので適いません。図書館で待ちます。 内容は・・・、お骨が一杯!(^^)/ henjin-deshita. |
[376] 荒波々幾神 神奈備 | 2002/10/20(Sun) 14:10 [Reply] |
荒波々幾神を祀る神社に祭神が荒波々幾神の神社が漏れていましたので追加しました。 金峰神社「金山毘古神、金山毘賣神、荒羽々岐神、安閑天皇」秋田県平鹿郡雄物川町大沢字上法寺75です。 おそらくは近隣の荒波々幾神社を合祀したものでしょう。 なお、『平成祭礼データ』では荒波々幾神が祭神になっている神社はここだけでした。いかに祭神の変更があったかを物語る典型的な例ですね。 また小生は納得できていないのですが『逆説としての「記紀」神話』と言う本には、面足神、惺根神を「われわれはアラハバキ」と呼んでいる」と記載されています。この我々はとは著者達のことなのか、世間一般なのか不明ですが、仏教的には弟六天神とするそうです。確かに面足神を祀る神社にはいくつかの弟六天神社の祭神に面足神の名が見えるというか、神社本庁でも面足神=大六天神としているようです。 |
[375] Re[374]: 老婆心ながら 神奈備 | 2002/10/19(Sat) 08:31 [Reply] |
ニョクマム(魚醤)など発酵食品の伝達はこの方面から黒潮にのってと言われています。 和歌山の「なれ寿司」は別名「くさりずし」とも呼ばれ、鯖(場所によって秋刀魚など)に塩をして塩抜きをし、これを御飯の上にので、アセと言う植物の葉でぐるぐるまいて樽に漬け込みます。お酢などは一切入れません。樽の蓋に重石を置きます。十分発酵したものですととてつもない臭いがし、味はいいのですが、人によっては食べられないこともあります。同種の食品は琵琶湖のフナ寿司など、敷衍すれば味噌醤油もそうでしょうね。 ヴェトナムに行ったことはありませんが、国民性としては日本人に近いように感じます。また田園風景の写真なんかを見ると日本の昔の田舎を思わしますね。最も、韓半島の田舎もそうですが。 痕跡をたどるのは難しいのでしょうが、人の渡来や交流が古来より行われていたのでしょうね。 ヴェトナムの田舎の神祭りや昔の集落の信仰はどんだったのでしょうね。 |
[374] 老婆心ながら ヴェトナムの風 | 2002/10/18(Fri) 21:31 [Reply] |
>>ヴェトナム語の一端に触れることが出来、ありがとうございます。 >>言語から説き起こし「マチガヒなし。」はこのタイプの人々の口癖では。 神奈備さん今晩は、ご丁寧にレスをありがとうございます。 「一端」といえば、最近は日本でもベトナムの調味料のニョクマム(nuoc mam)は有名ですね。 このnuoc(ヌック)がすなわち水ですが、これを「ノウチ」と読んで「ククノチヒメ」の語源だなどと、 余りのことに慌て驚き一言申し上げたような次第であります。 ヴェトナム語は中国を始め、元宗主国のフランス、マレーなどの近隣諸国語からの大量の借用語 が混入している上、借用語かどうか判然としない語もたくさんあります。ですから辞書の字面をざっ と眺めただけでも聞いたことがあるような語彙がよく見つかりますが、借用語である場合が多い。 ですから小生としては「お気をつけて・・」と老婆心からご忠告することにしておきます。 現在はローマ字による表記が一般化して、読む分にはタイ語やカンボジア語に較べて格段に楽です。 |
[373] れれれのおじさん 神奈備 | 2002/10/17(Thu) 08:30 [Reply] |
豆石さん こんにちは。日本書紀の粟島。 『日本書紀一書』に、伊弊諾尊を生んだ神として沫蕩尊(あわなぎ)の名が見えます。 伊弊諾尊は淡路島の国魂と言えるのでしょうが、その親神と見なされた神が沫蕩尊で、粟島の国魂と見ていいのでしょうね。ある方面から淡路島を見ると、その景色の正面に優美に見えたであろう島が粟島と推定できるのでは。 > (3)淡路島の北西に、かつて存在した属島。 今は存在しないとすると、低い島で岩礁同然だったとすれば、波にうたれていつも泡が立っていて白く見えていたことでしょう。 頬那藝神、沫蕩尊は九州の神であって、瀬戸内海に持ち込まれた(降臨)のかも。 沫蕩尊を祀る神社 福島県田村郡三春町 沫蕩神社「沫蕩神、見渡神。大地魂神」 徳島県三好郡三加茂町 五滝神社「伊邪那岐命、伊邪那美命、沫那藝命、沫那美命、頬那藝神、頬那美神 など」 長崎県島原市宮の町 猛島神社「五十猛神など 配 沫那藝命、沫那美命など」 長崎県島原市中原町 海神社「沫那藝神、沫那美神」 熊本県上益城郡益城町 津森神宮「速秋津彦神、速秋津姫神、沫那藝神」 大分県東国東郡武蔵町 白石社「沫那藝神、頬那藝神 ほか」 ヴェトナムの風さん こんにちは。 ヴェトナム語の一端に触れることが出来、ありがとうございます。 言語から説き起こし「マチガヒなし。」はこのタイプの人々の口癖では。 ひろさん こんにちは。 今日10月17日の日本経済新聞に印鑑を読み解く話が載っています。 漢委奴国王は 漢の伊都国王 としています。教科書で教えられたのとは違います。 |
[372] 万葉の粟島。 豆石 煌 | 2002/10/16(Wed) 21:28 [Reply] |
記紀の「淡嶋」「淡洲」は、天上のモノ かもしれない。(淡嶋神社は・・・) これに対し、万葉の「粟島」は、おそらく地上のモノを詠んだと思われる。万葉集には、全部で6首の粟島を詠んだ歌がある。しかし、粟島は依然、行方不明である。 まず、周防のおそらく屋代島の付近で詠まれた歌がある。(遣新羅使人の) (3631)いつしかも 見むと思ひし 粟島を よそにや恋ひむ 行くよしをなみ (3633)粟島の 逢はじと思ふ 妹にあれや 安眠も寝ずて 吾が恋わたる −−−−−−−−−−− 以下の粟島は、淡路島の近海のモノらしい。 ( 358)武庫の浦を 漕ぎ廻る小舟 粟島を そがひに見つつ ともしき小舟 ( 509)・・・鄙の国辺に 直向かふ 淡路を過ぎ 粟島を そがひに見つつ・・・ (1207)粟島に 漕ぎ渡らむと 思へども 明石の門波 いまだ騒けり (1711)百伝ふ 八十の島廻を 漕ぎ来れど 粟の小島は 見れど飽かぬかも さて、上記4首の粟島は、同一の島とは限らないが、 どこで、どちらを見て詠んだのでしょうか・・・・・・??? 粟島は、 (1)四国の阿波方面の島。 (2)屋島の北の島。 (3)淡路島の北西に、かつて存在した属島。 (4)新潟県の岩船郡の粟島(新潟市の北、約57km) などの説が、あるようです。 (もし、アレが神嶋ではない!としたら・・・???) −−−−−−−−−−−− 次にこそ、家島に行きたいな〜! やっと。 |
[371] 古地名の発音 ひろ | 2002/10/16(Wed) 01:49 [Reply] |
写真の掲示板に阿羅波比神社を掲載し、返答を戴いて気になったことです。 私は日本古語の発音に関する書籍は「古代国語の音韻に就いて」しか 読んだことがないのですが、このサイトで取り扱っているような 中国側の記録しかない時代の中国古語としての発音は 研究されているのでしょうか?。 学生時代のことですが、ふと同じ疑問を抱いて中国人に 古地名を読んでもらったことがあります。 もちろん現代発音ですが、それでも「ハッ」とするような経験をしたことがあります。 もしこのような研究が進んでいるなら、どのような結果が得られているのでしょうか?。 教えていただければ幸いです。 |
[370] ベトナム語について ヴェトナムの風 | 2002/10/16(Wed) 00:06 [Reply] |
わたくしは基本的に他人のご意見を出来る限り尊重し、余計な雑音を入れない主義で あります。 しかしながらベトナム語を少し齧った身としては、明白な誤りを「マチガヒなし」とまで 言い切られたのをそのままにしておくのは却って不親切ではないだろうかと考えるに 至り(他の読者のためにも)、一箇所だけ指摘させていただきます。 >>更に NOuC には「水」がある。タケノウチさんなんざは「水軍」であること、これマチガヒなし。 ベトナム語のローマ字表記では水は「NUOC」、発音は「ヌック」のはずです。「NOuC」とある そうですが、興味深いので差し支えなければその辞書の名前を教えて下さいませんでしょうか。 北(ハノイ方言)でも南(サイゴン方言)でも「C」は「カ行」、それも「ヌッk」の如く語尾を飲み込む ぐらいで、「チ」にはなりません。「チ」は「CHAI(チャイ=お茶)」のように「CH」で表します。 以上です、少しでも参考になれば幸いに存じます。 |
[369] ククタ 習志野のてつ [Mail] | 2002/10/15(Tue) 16:08 [Reply] |
少し近いだけですが、ついでに。 菊田(きくた)神社 元々は、久久田(くくた)だった。(元々の地名) いつのまにか、菊田と変わり、神紋も菊の下に45度傾けた菱形の「田」の字に なっています。でも全国でも珍しい「藤原時平」(菅原道真を配流した張本人) を祀る神社です。藤原氏の一族が船で流れ着いた所と云われています。 でも「ククタ」とは? 「キクリ」とも「キキリ」とも違いますが、近い? http://www.jca.apc.org/~ttakubo/7maturi/kenkyu/k-taisai.html |
[368] Re[367]: 虫の知らせ 香具 | 2002/10/15(Tue) 10:53 [Reply] |
アイヌ語で『キキリ』は虫なんだそうですね。たまたま、パラパラとめくっていた本にありました。恐い畏れられている虫としての昔話があるそうです。なんだかこの『キキリ』のほうが『ククリ』に繋がらんかナ〜?という素人妄想です。m(__)m |
[367] ちょっと、ベトナムの空から 焼尻紋次郎 | 2002/10/14(Mon) 20:02 [Reply] |
ミナシャァ〜〜ン、おおいによそ見をしませう。 ククリヒメ(刀剣の禊)とククノチヒメはよう似いちゅうと思ってきましたが、違っていた。 前々から「クク」を追いかけると、朝鮮語の国と菊が、どうもワキャワカランままにオーバーラップして、こっちのアタマもオーバー・ラップしていました。 されど、ベトナム温泉につかっていたら、なんとなんと CUCに「菊と国」とが同居していたのでアリマス。熊本県菊池郡カネ。 更に NOuC には「水」がある。タケノウチさんなんざは「水軍」であること、これマチガヒなし。 木内さんは秋田。キノウチさんね。 このカキコ、気にいったら消さないでおくれ。 神奈備から青草へ遷しました。神奈備 |
[366] 講演会のお知らせ ZOU | 2002/10/14(Mon) 00:37 [Reply] |
またも場所をお借りすることになるので「青草」に(^_^;) ************** 桜井宇陀歴史文化講演会 『宇陀の水分神 室生の龍穴神』 ☆開催日時 2002年11月24日(日) 13:00〜15:30(受付12:00〜) ☆会場 室生村振興センター 奈良県宇陀郡室生村大字大野1637 ☆記念講演 「宇陀の水分神 室生の龍穴神」 和田 萃 氏 (京都教育大学教授 橿考研指導員) ☆郷土芸能 「室生龍穴太鼓」 室生村室生龍穴太鼓「龍神」のみなさん ●定員300名 入場無料 ●お申し込み・お問い合わせ先 室生村役場 企画調査課 〒633-0392 奈良県宇陀郡室生村大字大野1641 TEL0745-92-2001 |
[365] Re[364][359]: 上島の別称。 豆石 煌 | 2002/10/13(Sun) 19:55 [Reply] |
> > 神島は、色々あります。 上島の別称もたくさん有ります。(神戸新聞によると、24通り。) 上島(国土地理院)は、播磨国風土記の「神島」に比定されているが、クスシキ島なること、はなはだしい。 風土記をはじめとし、昔の紀行文、には、 神島−−−−播磨国風土記 かみ島−−−「帰家日記」 井上通女(1689年) かめしま−−「筑紫紀行」 菱屋平七(1806年) 亀島−−−−「薩陽往返記事」高木善助(1837年) をはじめ、 火水島(かみしま?)・稲目妻・(火ヘンの砲)と烙で=ホウラク島「兵庫のむかしむかし」など。 古絵図(古地図)では、(その場所と思われるもの。) か免し萬(または,か見し萬)・蓑島・かミ島(または、かこ島)などが見られる。 現在においても、それぞれの地区の古老に聞くと古名は、(豆石;調べ) おわんじま(姫路市飾磨)・まるやま(姫路市妻鹿)・まるしま(姫路市白浜)・ほうらくじま(姫路市八家)・ほうらっきゃま(姫路市木場)・うっしゃま(=牛山?)(高砂市伊保)・ほうらくじま(播磨町阿へ〜〜明石市林崎)、など、いろいろである。 明治時代の終わりごろに、「上島灯台」が作られては、いるのだが。無人島ゆえ、の喜劇か?? −−−−−−−−−−−−−− さらに、付近には、比定出来ていない島がある。 「ナビツマ島」(風土記)と、「加古の島」(万葉)である。 判らん!分からん!解らん!! だれか、決めてください。 「あわしま」も有るで〜??? |
[364] Re[359]: かみしま・神島 神奈備 | 2002/10/12(Sat) 09:19 [Reply] |
> 神島は、色々あります。 紀州田辺から白浜へ海岸沿いに行きますと、神島があります。 南方熊楠が植物を調査した島です。またの名は田辺加島です。 鹿島も神島だったのかも。 |
[363] かみしま・上島−2 豆石 煌 | 2002/10/11(Fri) 14:13 [Reply] |
上島は、周囲わずか1kmの小さな無人島。(島に成りきれなかった島???) この島には、灯台と神の祠がある。糞が落ちているので、ウサギとタヌキは居るらしい。 上島は、一島多称で日本一の島だ、とも言われる。 呼び名は全部で24通り、と、昭和30年代の神戸新聞は語っている。 Can Moreさんに「上島・家島クルージング」に連れて行ってもらいましょう。よろしく。 http://www.anc.meta.ne.jp/~kankan/canmore/nikki/ |
[362] Re[361]: つぶやきジロー 神奈備 | 2002/10/10(Thu) 18:00 [Reply] |
週刊 神社紀行 全50巻 シリーズ名 : 『週刊 神社紀行』 (各巻タイトルはこちら) 体 裁 : A4変形判 オールカラー 総ページ36p 逆中綴じ 定 価 : 560円(本体533円)、創刊号のみ350円(本体333円) 刊行予定 : 平成14年10月17日(木)創刊 毎週木曜日発売(1・2号は2週間売) 指導・監修 : 薗田 稔(京都大学名誉教授・秩父神社宮司) 発 行 : 株式会社 学習研究社 特に歴史と伝統のある有名神社約70社を全国から選りすぐり 伊太祁曽神社は70社にははいらんだろうな〜・・ http://www.gakken.co.jp/gakken-now/now03_1.html 予想通り、和歌山は熊野だけだった。 薗田稔さんは「祭り」がお好きなようで、その写真が多くでるといいですね。 |
[361] つぶやきジロー 香具 | 2002/10/10(Thu) 17:35 [Reply] |
最近、いろいろなテーマの写真雑誌?が刊行されていますが、ついに『週刊・神社紀行』なるものも創刊されるそうですね。 どんなんかな〜?という興味もある反面、なんだかな〜!と、シラける気分も少し。 全何冊シリーズと広告されても揃えませんからネ。エエ、そのつもり。前もって自分に釘をさしておきます。 お宮のミニチュアが付録についてないでしょうねぇ。まさか、ミニ御札が入っていたりして! |
[360] かみしま・上島 豆石 煌 | 2002/10/09(Wed) 22:23 [Reply] |
おや〜!!? 「かみしま・神島」の画像が神隠れ したようです。すみませ〜ん。 こちらは? どうでしょうか。 http://miyake.net/japan/sukinauta/suki253/suki253.htm |
[359] かみしま・神島 豆石 煌 | 2002/10/09(Wed) 22:07 [Reply] |
神島は、色々あります。 (1)神島(かみしま)。鳥羽市と伊良湖崎との間の「潮騒」の舞台で有名な島。 (2)万葉集の神島。 「月読の 光を清み 神島の 磯間の浦ゆ 舟出す 我は」(万葉−3599) この歌は、遣新羅使人の歌であり、広島県福山市の「鞆の浦の付近」で詠まれたらしい。 (2−1)神島は、広島県 福山市 西神島(にしかしま)町? (2−2)神島は、岡山県 笠岡市 神島(こうのしま) ? (3)播磨国風土記の神島。 揖保の郡 浦上の里 神嶋(上島)(?)。伊刀島の東。石神の島。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 他にも有りますでしょうか? さて、家島群島の最東端の、 「上島」に行きましょう!! 小さな無人島です。上島灯台があります。 (私は子供ごころに、「ひょこり、ヒョウタン島」の舞台だと思っていました。) 播磨の海辺、播磨の山々、淡路島、六甲山からも見えます。生駒山からも?? http://www.kiss-on-net.com/~wrainbow/cr_ioho/kamijima.html |
[358] 赦し難き、阿波の海景。 神奈備 | 2002/10/09(Wed) 09:35 [Reply] |
> 神奈備さまの故郷、和可山(歌)に、豆石は1年だけ住んだことがあるが、この時も、川が東から西に流れ、海が西に、山が東にあること、そして国鉄線(当時)が南北に走ることが許せなかった。これが(風土)のちがいの根本であろう。おもしろい〜。 阿波の国で3年ほど住んで、久しぶりの同窓会。夜、船で大阪へってことがありました。 徳島港では「な!なんと東が海ではないか。」「うぅ。海から月が登っている。月は山からではなかったか!」と思ったことがさりました。 アフリカと南アメリカの如く、紀の国と阿波の国も、太古に撲ちきられた同じ所との親近感を持っていましたんですがね〜。 |
[357] 赦し難き、明石の海景。 豆石 煌 | 2002/10/08(Tue) 23:10 [Reply] |
柿本人麻呂を初めとする万人が愛でる、明石の海の風景を、許し難いとする私、豆石は変人である。 神が創り給うた島々に、イチャモンを付けるのは、神への冒讀である。 しかし、姫路の住人としては、瀬戸内の島々の配列は東から順に 淡路島〜上島〜家島群島〜小豆島、である。 ところが、である。明石(林崎漁港)から見ると、東から順に 淡路島〜小豆島〜家島群島〜上島〜本土、の順になるのである。(要は、南から順か・・) 豆石は、このこと(特に淡路島と小豆島が隣り合うこと)が許せないのである。 日本地図(関西の地図)にスケールを当ててみれば納得も出来るが、やはり、許せない!! 神奈備さまの故郷、和可山(歌)に、豆石は1年だけ住んだことがあるが、この時も、 川が東から西に流れ、海が西に、山が東にあること、そして国鉄線(当時)が南北に走ることが許せなかった。 これが(風土)のちがいの根本であろう。おもしろい〜。 上記の島々の配列が逆転するポイント。すなわち、島々がほぼ一直線に並んで見えるのは、石の宝殿(生石神社)の裏山の上から見たときである。 この線を南西に伸ばせば、さきの[305]の五剣山、五色台山、さらにその先には、日向の天岩戸神社。逆にそのラインを北東に辿れば、アメノヒボコの後輩?のツヌガアリシトの銅像の建つ敦賀駅前を通る。 偶然ではあろう。奇しき、神奈備!!! |
[356] 少名彦の死因 日雲 | 2002/10/08(Tue) 18:54 [Reply] |
残念ながら、毒を盛られたような話は現段階では発見できておりませんが、伊予には、 「道後温泉で生気を取り戻した後、少名彦が肱川を渡ろうとした時、近くで洗濯をしていた老婆がいたので、『どの辺が浅いか?』と問うたところが、『その辺が深いですよ』と老婆が答えたのを、思い切りカン違いして自ら深いところに踏み入って溺れ死んだ」 という、はるばる海を渡ってきた割には、少名彦は実はカナヅチだったという衝撃的事実を伝える伝説がありますが、或いはこの老婆が騙したのか……!? も、もしや、これが問題の魔女か!? ガビーン! な、何奴!? 因みに、少名彦が溺れた場所を「宮が瀬」、遺体が流れ着いた場所を「みこがよけ」、少名彦がかぶっていた冠が流れ着いた川辺の岩場を「御冠岩」、壺に入れて葬った場所を「御壺谷」と称しているそうです。 上記の伝説が史実でなければ、川にまつわる祭祀が少名彦とからんであったのでしょうか、この界隈には……? |
[355] Re[354]: 知らない 玄松子 | 2002/10/08(Tue) 08:21 [Reply] |
> しかし、この場合、「では、誰がリンゴに毒を盛った魔女であったか?」という謎が残りますね。 > くれぐれ申し上げて、私は一般常識を知らぬ人間で御座いますから、質問もかねてなのですが、これには定説のようなものは……? 僕も常識はありません。少名彦命が毒をくらったという話は知りません。風土記に載っているんですか? 毒を盛られたんですか? 白雪姫とイザナミ命の対比において、白雪姫の毒リンゴは、イザナミへの桃と考えられます。漫画・宗像教授伝奇考にも載っています。 |
[354] Re[353] 日雲 | 2002/10/08(Tue) 00:40 [Reply] |
玄松子様>7人の小人が少名彦命の原型ではないだろうか。 なるほど……するとこの場合、 「本来、白雪姫が食べるはずであった毒リンゴを、小人達がつまみ食いしてしまった」 ということになる訳ですね? そして、そこでオオナムチがキスしてあげれば助かったであろうものを、残念ながらそんなこともなく、早々に海に流してしまったと……神話とは言え、涙を禁じえぬ話です。 しかし、この場合、「では、誰がリンゴに毒を盛った魔女であったか?」という謎が残りますね。 くれぐれ申し上げて、私は一般常識を知らぬ人間で御座いますから、質問もかねてなのですが、これには定説のようなものは……? |
[353] 少名彦―雑― 玄松子 | 2002/10/07(Mon) 23:14 [Reply] |
少彦名命が、異形の神であることは事実。 温泉と薬から来る職能は、穴掘りをして山野を移動する民。西洋のドワーフ、これも小人。白雪姫の7人の小人と、イザナミ命の八雷神を比較する説もあるように、7人の小人が少名彦命の原型ではないだろうか。移動する民であるがゆえに、突然来て、突然去る。7人の小人の中には医者も存在する。 穴掘りなので、根裂・岩裂ではある。 元々「クス」には小さな・細々としたという意味があったのか。 くすぐる・くすねる・くすぶる。小さな銅鑼は「クスミ」というらしい。クスリと笑うのは、ささやかな笑い。 ちなみに、「粟」とは非常に小さいものの意味がある。「粟粒」は非常に小さい粒。「粟子」は魚類の小さい卵。「粟散国」は小さな国(=日本)。 |
[352] 紀の国の 要所要所の 少名彦 神奈備 | 2002/10/07(Mon) 21:16 [Reply] |
粟嶋神社 景行天皇二年八月、二十一人の民人が少彦名命降臨の地粟嶋におまつりしたのが始まりであるという。 潮御崎神社 第十二代景行天皇二八年潮岬は字御崎の地にある「静之窟」へ少彦名命を始めて勧請した。潮御崎神社の創始である。 熊野本宮大社にかっては音無天神社が鎮座、祭神は少名彦名命。本宮は音無川上流域に鎮座、音無天神社が発端の神社かも。新宮の速玉神社摂社の新宮神社にも多くの神の中に少彦名命が見える。 少名彦の別名は久斯之神、楠に通じ、紀の国には熊野久須毘命と似たように見られていたのかもしれません。少なくとも熊野本宮のルーツとすれば、素盞嗚尊や牛頭天王に通じ、これらの神々の身代わり的存在と言えるのかも。「大と少」「国と那」「主と彦」何か機能を分けたような名前ですし、聞く所によると『ウエツフミ』では大国主を治療したのが少名彦で、伝承の混乱がありますね。どっちでもよかったと言うこと。 |
[351] 自己レス 日雲 | 2002/10/06(Sun) 22:19 [Reply] |
読み返してみましたら、てにをはの類がグダグダな如何にもインチキな文になっておりましたが、青草ゆえにここは目を閉じておきませう(;−−。 最後の方の、 >もし、したとすれば、何ゆえに「死亡して常世に渡って末裔を残さなかった」風に描かれたのか? は書き添えるまでもなく少名彦のことですが、ちょっと(か?)文の流れに飛躍が御座いますね。青草ゆえにここも目を閉じておきませう(;−−。 |
[350] これぞ青草、いっそ妄想アラベスク 日雲 | 2002/10/06(Sun) 21:45 [Reply] |
右に左に枝葉を伸ばし、てんでに描くスパイラル。 無闇に広がる青草模様、錯乱まがいのアラベスク。 京都・五條天神の祀られたる所以を見るに、 「光仁帝の大和に社を建てたるを桓武帝が京に遷した」 とありしが、この所伝に偽りなければ、北天を深く拝したであろう光仁帝が、何ゆえに少名彦の社を建て、かつ、そを「天神」と称したか……? 「高皇産霊尊の子神と認識されたる」と、 「少名彦を天神と祀り上ぐる」の、 果たしていずれが先のことにてあったかや……? 先の方が早ければ、その理由や如何? 後の方が早ければ、何ゆえに高皇産霊の子とされた上に、記紀の神物語にて、 「千五百もの中の小さな一柱」と姿されたか? 「神の教えに従わぬ悪戯もの」と心されたか? 少名彦の原像や如何。 温泉社祭神――「風土記」以降のこじつけなり。没。 粟島社祭神――恐らく、「粟」つながり故ならん。苦しい。 薬神――これは無闇に否定することあたわず。 天神――これも称され始めた時期不明のゆえに否定し切れず。 薬神にして天神――これが原像か? 翻って、伊予の国の方々を見聞するに、墓所をはじめ少名彦の事跡の伝えの多きこと甚だし。 こは何らかの人的存在のあったればこそか? 実在のモデルがあったと云うことか? 少名彦とは出雲神には非ず。出雲が受容した神=存在なり。 されば、少名彦とは渡来した「X」の事跡を「出雲系氏族の認識」によって切り取られ、出来あがったものではなかったか? その「X」は「薬と天神」を持ちて渡り来たったか……? 眼なこ転じて、いささか気になる少名彦の神やしろ。 美作国久米郡の倭文庄、こに坐す「少名彦名神社」、傍らに「倭文神社」を置き、合わせて「上社」「下社」と並び称す。 旧称を「赤子(しゃくし)宮」と云い、「幼子の守り神」とて崇敬され、また境内一角に坐す自然石を陰陽石と称し、本殿につぐ信仰対象とせり。 はて? 一方、陰陽石を神体とし、各地分社にて「幼子の守り神」とて崇敬されること最も多く、「しゃくし」と称されることの甚だ多き諏訪ミシャグジ――この類似や如何? (加えて申せば、倭文庄周辺には往時、カカセオ神社と号せしもの多く在り) 或いは、この赤子宮はかつてミシャグジであったものを、明治の世に社名の改めると共に、祀れる神の名も改めたか? 伝えにては、さには非ず。当宮は旧称の頃より少名彦を祀れるものとの社伝あり。 (氏子総代家かに何らかの秘文書あれども、宮司同席になくば紐解くを許さずとの由にて、閲覧叶わず) さても、この地にはかつてに何かあらんか。 資料漁るに、秩父の丹党中村氏の一流が倭文庄に移住したとの記録あり、この地の少名彦やカカセオの名称にての祭祀は、恐らくはここに源のあらん。 すなわち、名真井原に大星やカカセオを祀ると「同じ心」にて祀られた天神・少名彦――この事跡が(秩父神社に妙見が合祀される以前に)持ち込まれたのが、倭文庄のカカセオや少名彦ではなかったか? であれば、素直に筋は通る。 皆木某氏(漢字なく読みも判らぬゆえ失礼)は『丹党・中村氏の事跡と伝承を訪ねて』に、 「大河原氏は中村一族として美作の富美庄、倭文庄を領し、奥津に城を構えていました。この美作の地に中村氏が勢威を持った時期は『応仁の乱』以降でした。『応仁の乱』の時、美作を三年で制圧出来たのは美作の国人領主層の支持があったと推測されます」 と記ししが、されば、丹党中村氏を支持した国人領主層とは如何なる者達であったか。 倭文庄周辺の美作には、どのような人々が住んでいたか。 この界隈、本州西日本の星信仰のメッカなり。 されど、それ以上に見逃せぬのが、倭文庄より二里ばかり離れたところに坐す美作一宮・中山の神やしろ(『今昔物語』の「猿神退治」の舞台なり)。 祭神諸説あれど、一言で申してしまえば「中山神」。こは大和朝廷系にして、それより前に先住者ありて――これを物部肩野乙麿と云う。 この者、オオナムチを崇敬せしが、中山神に征服・追放せられて三里ばかり離れた未開の地に赴き、開拓して志呂神社を建立したと云う(祭神・コトシロヌシ。シロつながりの駄洒落か。因みに、この地にては、乙麿は開拓の祖として讃えられたり)。 さて、この乙麿の先住せし中山神社に語られる「猿神退治」、元は乙麿ら物部の持っていた伝承と祭祀を、征服者・中山神側が義の主役の立場を奪ったこと、幾らかでも探り見れば容易く明らかなり。「猿神退治」の筋の骨子は、 「かつて人身御供が行われていたのを止めて、代わりに鹿の頭を供えるようになった」 と云うことにて、これが中山神社と志呂神社において往時行われていた祭祀の由緒なり。 この二社においては、例祭に鹿の頭が供えられていた。その動機、祭祀ともに諏訪前宮の御頭祭に見事に合致せり。 されば――この辺りから、諏訪前宮の神宝とされし「鉄鐸」でも出土してはおらぬかやと伺いに行ってみれば、人に問うまでもなくアッサリと津山市立の博物館に展示されおりてあり。 加えて申せば、かつて中山神社の奥の院と称された黒澤山万福寺、ここは界隈の猟師が星神の顕現を発見したことから祭祀が始まったとの由緒を持ち、江戸中期までは拝殿と本殿を分ける神社建築で、かつ石を御神体としておった。この猟師は先住の物部=「猿神退治」の猿と直結する筋のものであるらしい。すなわち、ここにいた先住民は、 「星信仰と、『人身御供を止めて代わりに鹿を供えるようになった』という伝承と祭祀、そして鉄鐸を持っていた」 そうした者であった――つまり、諏訪前宮系と極めて類似した祭祀を持った人間達であったのである(諏訪前宮や秩父にも、それぞれいつしか守屋を通した物部の影が入るようになっていたことも忘れてはならぬ)。 諏訪、秩父、美作。 秩父においては、「我々が諏訪から来た人間であるということは、秩父の人間にとってみれば常識である」との発言すら得られ(個人によって温度差はあろうとは察せられるが)、 一方、諏訪と祭祀的に通底する風にしか見え難い美作においては、その国人層が秩父からの丹党達を支持したという。 そうした中にある「カカセオらと同じ心にて祀られた天神・少名彦」とは。 美作に在るカカセオや少名彦が秩父源流のものであるならば、これは裏から見れば、秩父の由緒に見られる少名彦は、記述の混乱なく、まさしく書かれてあるとおりの「同じ心」で祀られたものであった可能性が極めて高くなる。 さても、天神・少名彦とは一体何か? されば、死亡に至るまでの様々なる事跡を伝える伊予の国には何がある? 目を引くは、物部。 そに関わる社としてことさらに目を引くのは、太祖ニギハヤヒを祀れる北条市の国津比古神社と、越智物部が諏訪同様の「大祝」を勤めた大三島の大山積神社。 前者において気になるのは、例祭は妻神を祀る櫛玉姫神社と合同で神婚風に行われるとの由であるが、この妻神(天道姫と云う)に関わる祭事を「宵の明星神事」と称すことである(名の所以は知らず)。 後者において気になるのは、一遍上人が止めさせるまで例祭に鹿や鳥を供えていたと云うことと、神使を有名な「白鷺」とする一方で「うなぎ」ともするらしきこと。うなぎを神使とするのは、虚空蔵信仰を初めとする星信仰において広く見られることは云うまでもなし(諏訪の御射山祭などでも、ウナギの放流の行事が今にまで伝わっている)。 ここまで枝葉を広げ来たれば、天道姫も気になるし、伊予風土記の「和多志大神」の記述も勿論気になるし、そもそもが日本書紀本文の「天神が大山積を娶って産まされた子がコノハナサクヤ姫である」という、その「天神」とは一体何ぞやというところまで。 ……戻りて。 少名彦とは渡来した「X」の事跡を「出雲系氏族の認識」によって切り取られ、出来あがったものではなかったか? 「X」は「薬と天神」を持ちて渡り来たったか? 脳裏によぎる、諏訪薬。北斗を祀った守屋神長家秘伝の薬剤知識。 ……問い。 少名彦は何ゆえに、高皇産霊の子神とされた挙句に、 「千五百もの中の小さな一柱」と姿されたか? 「神の教えに従わぬ悪戯もの」と心されたか? 逆に申せば、少名彦とはかように突飛な姿で描かれフィクション化したゆえに、元よりの原像が全く不明になった神との可能性は本当にないものか? (その後に、粟島社や温泉社で祀られたが故に、それにさらに拍車がかかったとは?) それとも或いは、「少名彦と同一視される何らかの因をもった別の天神」があったのか? ……いずれにせよ。 「天神」は間違いなくあった訳だが、それは一体何であったか? (阿蘇では天神=北斗と伝えるが?) そして、その信仰を持ち込んだ者は何者であったか? (「和多志」とは大山積ではなく、書紀に云う「天神」の方ではなかったか?) (「うなぎ」の神使はそちらの方からのものでなかったか?) さても、「X」は実在したのか……? もし、したとすれば、何ゆえに「死亡して常世に渡って末裔を残さなかった」風に描かれたのか? そして、それと入れ違うかのようにして大物主が海の彼方からやって来たのは、全く意図のない単なる偶然であったのか……? かくて、眼前一面に広がる妄想アラベスク。 長くなり過ぎました、真に失礼、ドンドンドンドンドン……テテン。 |
[349] Re[348][347][343]: 上島(かみしま)見ゆ。 神奈備 | 2002/10/06(Sun) 21:07 [Reply] |
> > 追伸;(西島・こうない地区での採石は、現在、ストップしているようです。)会心 改心か不景気か? > 阿菩大神は揖保、五十猛に通じないか・・・・ 五十猛命が祀られているかもしれない出雲の神名火山である仏経山の南側に伊佐賀神社が鎮座。 阿菩大神を祀る出雲の伊佐賀神社(簸川郡斐川町出)について、『式内社調査報告』では 阿菩は粒(いぼ)に変化、粒山は播磨国揖保郡中臣山のことで中臣印達神社が五十猛命を祭神としているので、阿菩大神を五十猛命と見る。見方が紹介されています。 『播磨国風土記』では上岡に神が鎮座とあります。現在神岡にはそれらしい神社は見あたりませんが、山一つ越えた林田八幡神社に五十猛命が配祀されており、これかな、と想像しています。 林田八幡神社 http://www.kamnavi.net/it/kinki/hayasida8.htm 神岡の椰八幡神社の由緒全文です。(平成祭礼データ) 当梛八幡神社の創立は不詳でありますが和銅六年(凡そ千三百六十七年前)に編された播磨風土記を始め播磨鑑、播磨国式内外神社記、峰相記微考、播磨名所巡覧図絵等に当社の名がでており、古くから大社として広く里人等の信仰厚く崇敬された神として鎮座されており、神社名も那祇八幡宮、那祇山八幡大菩薩、上岡明神那祇八幡宮、梛八幡宮そして明治七年二月梛八幡神社として旧社格郷社に列せられ、村より幣帛供進の神社とされました。社伝によると、神宮皇后三韓より凱戦の砒、北方に紫雲たなびき霊香ただようを感ぜられ附近に神霊地ありとおぼしめされ、道主命に命じ尋ねしめ給う、この時何処からともなく獅子が現らはれ道案内をして、無事この梛山白檀の木の下に案内する、霊香ここより発しており、山には榊の木が繁茂して神霊地であることを知りこのこと奏上する。この白檀の木御神霊木として崇へ神を祭る、これ当神社創立の始めで神事獅子舞の起因でもある。また播磨風土記には出雲国阿菩大神が大倭へ上られる途中、この地においてその乗られていた船を覆して坐し給う、この姿阜に似ているので神阜となづけ給うこの阿菩大神を上岡里上岡明神に祭る・・・とあって、神岡の郷名となり郷名も「加無都乎加」神阜、上岡、神岡と変っているように思はれる。 天平宝字七年新羅軍船当国に攻め入り家嶋、高嶋に陣を取る。国司藤原朝臣貞国追討の命を承け出陣に当り当那祇八幡大神外五社六寺に戦勝祈願をして魚吹津より発向し大勝利を得る貞国神慮を感謝し長く幣帛を献じ厚く崇敬されたという凡そ千二百三十年前のことであります。その後代々の国司地頭領主等の崇敬篤く、播州那祇の宮、上岡那祇の獅子舞の宮として近郷近在広く衆庶に崇敬され当社の例祭秋祭の翌日より稲刈りが始まるといはれ常に里人と共に日々が存った御祭神であります。元禄二年四月二十九日残念ながら火災に罹り書類一切焼失しており不詳となったのであります。 |
[348] Re[347][343]: 上島(かみしま)見ゆ。 豆石 煌 | 2002/10/06(Sun) 17:44 [Reply] |
神奈備さま、ありがとうございます。(皆様、吉備?の海路の旅、ご同行、お疲れ様でした。) 五色の内の二色、阿菩大神は揖保、五十猛に通じないか・・・・ 上記のところ、素人にも分かり易く、もう少し・・・。よろしく。 追伸;(西島・こうない地区での採石は、現在、ストップしているようです。) |
[347] Re[343]: 上島(かみしま)見ゆ。 神奈備 | 2002/10/06(Sun) 10:22 [Reply] |
豆石さん 航海ご苦労様です。飾磨港には菅公伝承があるのが気がかりです。 『日本史を彩る道教の謎』と云う本には、射楯兵主神社の一つ山祭には、青、黄、赤、白、紫の布で「置山」を巻く。「五色山」というが、五色は道教が儒教から借りてきた考え方とも言う。 とあります。 この兵主神は山東半島の五岳に対応しているのかも。 日本に仏教が入ってきたとき、伽藍などの色が鮮やかで、今までの日本人には見たこともない色だったそうで、これは凄い、御利益もありそうだ、と信者の獲得に役立ったとか。 ところで、少名彦命と天神が別に話題になっていますが、家島本島の天神鼻に 家島神社[いえしま]「大己貴命、少名彦命、天滿大神」が鎮座しています。家島は石器縄文弥生の遺跡がある地域で、菅公の天神さん以前からの地名だろうとは思いますが、面白いのは向かいの龍野の椰八幡神社との関連です。獅子舞が奉納されるとか。家島が奥宮、龍野が里宮のような関係があったのかも。椰八幡神社の由緒の中に 「神功皇后三韓より凱戦の砒、北方に紫雲たなびき」、「白檀の木御神」「出雲国阿菩大神が大倭へ上られる」「天平宝字七(763)年新羅軍船当国に攻め入り家嶋、高嶋に陣を取る。」とあるのも、興味津々。五色の内の二色、阿菩大神は揖保、五十猛に通じないか、新羅軍船と神功皇后、何かとんでもない歴史が横たわっているのかも。 |
[346] 自己レス;パソコン壊れたんだろうか? 日雲 | 2002/10/06(Sun) 06:53 [Reply] |
>ということについて長々と妄想スパイラルしてみましたのですが、いきなりエラーが出て、全部フッ飛んでしまいました。 というのは、「一旦書いては見たものの、書いてる途中でエラーが出て、書いた内容が消えた」という話で、私の頭の中身がフッ飛んだという話ではありません。 ――と書こうとしたら、何か急に自動的に送信されちゃうし。散々ですね。ヤバいかな。 (すいません、下の[345]消してくださいませ) |
[344] Re[342]天神だったのか? 日雲 | 2002/10/06(Sun) 03:40 [Reply] |
ということについて長々と妄想スパイラルしてみましたのですが、いきなりエラーが出て、全部フッ飛んでしまいました。 内容がエラーだったのだろうか(;^^ 私が一番気になりますのは、 「記紀神話的世界観において高皇産霊の子だとされたのと、少名彦を天神として祀ることのどちらが先だったのだろう?」 ということです。 ハナッから高皇産霊の子だとされていたとは思いにくいのですが……? |
[343] 上島(かみしま)見ゆ。 豆石 煌 | 2002/10/05(Sat) 23:42 [Reply] |
神奈備には、ホド遠いが、早く家に帰らなくては・・・ 前のつづき。 フェリーは家島本島の北方を東へ進む。 北東へ開ける家島本島の真浦・宮の家々や、船舶が見える。特徴ある形の石運搬船(ガット船)が多数停泊している。不況の表れか? 本島の東端に家島神社の鳥居が見える。 その東に、採石で異様な形になった男鹿島(タンガ)が見える。タンガの北西に、同じ形の二つの小島がある。二つセットで宇和島という。 (双子の島???) 南に、太島(フトン島)、鞍掛島(クラカケ)が見え、東に、淡く、淡く、上島(かみしま)が見える。上島までは、約20km離れている。(淡島とは???) 「上島」は、播磨灘の真中にあり、よく目立つ島である。にもかかわらず、無人島であり、色々な意味でワケが判らない。故に、魅力的な島である。(後日、別記) 無事、定刻通り、飾磨港入港。帰宅。(お付き合い、ありがとう御座いました。) |
[342] 難問 愚&青草答 神奈備 | 2002/10/05(Sat) 21:57 [Reply] |
少名彦命は大国主命とコンビで国土開拓に従事した神で、どちらかと云えば中国地方以東で主祭神とする神社が鎮座しているように思います。これは『魏志倭人伝』で云う「女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり、また侏儒國その南にあり。人の長三、四尺、女王を去る四千余里。」とある侏儒國に重なるように感じます。侏儒の祖霊であったのでは。 天神だったのか? 少名彦命を祀る式内社例 沙沙貴神社[ささき]「滋賀県蒲生郡安土町常楽寺1 猿投神社摂社広沢天神社[ひろさわてんじんしゃ]「少名彦神」愛知県豊田市猿投町小黒見 金桜神社[かなざくら]「少名彦命、大己貴命、素佐之男命、日本武命、櫛稻田媛命」山梨県甲府市御岳町2347 たまたまでしょうが、「さき。さわ、さく」が神社名についています。これは根裂・磐裂の裂ではなかろうか、星神少名彦命、雲霞の如く現れた侏儒達、星からの遣いに思われたのかも。 他に、生根神社[いくね]「少名彦命」大阪府大阪市住吉区住吉2-3-15 があります。これは根裂につながって星い・・・ 静の窟、海辺です。少名彦命が常世へ去っていった場所ですが、流れ星の行き着く先は遠く海のかなたと云うことでは。 |
[341] Re[338] [340] 日雲 | 2002/10/05(Sat) 04:33 [Reply] |
愚問に御返答、どうもありがとうございました。 しかし、これは我ながら本当に愚問だったかも知れません。 依然として何か自分の中でハマり切らない感は拭えないのですが、どうもそのシックリ来なさを言葉にしてみようとするや、果てしなく様々が転がってゆき、どうやらこれは底なしの状況に陥らざるを得ない困りものの問いだったようです。 何かこう……光仁天皇が死後に北天と合わせ祀られたような形でか、人と神を同一視することをもって、メジャーな人格的存在の陰に隠れてしまった「何か重要な古代の神」があったような気がしてならないのですが……といって、ここから何かを問わせて頂いても、ドツボにハマッてまた愚問になるのでしょうね。 ときに――具体的なネタで、前々から疑問だったのですが、五条のものを始め、全国の菅原系ではない天神社で、やたらと少名彦が祀られていますが、アレは何故でしょう? 祭神がお父さんの高皇産霊とかならば解るのですが、色々子神さんもいらっしゃるでしょうに、どうして特に少名彦が『天神』なのでしょうか? これについて何か定説のようなものはあるのでしょうか。少名彦についてまとまった研究をした本などはないものかと見て回ったこともあったのですが、どうもそういったものも見当たらず、神農と似てるぞとかそんなことくらいしか読めていません。 地域によっては、旧被差別部落によく祀られていたとか、私的には非常に謎の神様なのですが……? 個人的に、秩父の名真井原に大星やカカセオと「同じ心」において祀られたというのが、非常に気になっているんですけれど……。 もしかしたら、記紀において一寸法師みたいなファンタジックでキャッチーな姿で紹介されて以後、急速に歪んでしまった神様だったのではなかろうか、とか。 伊予などの風土記で温泉話に登場して以後、オオナムチと共に日本全国の温泉の神様になってしまったように。 これについては、果てしなく妄想が転がっていきそうで困っております。 |
[340] Re[338][337]: >速日シリーズでいくと 神奈備 | 2002/10/04(Fri) 21:52 [Reply] |
> これは素直に「伊弉諾尊から十種神宝と布瑠之言を与えられた」と伝えられるようになるのではないでしょうか > 記紀神話に出てくる神々とは完全にイコールに出来ない神格があったからこそ、「天津御祖」と一般名詞的に語られたのではなかったか 饒速日尊の場合と云うか物部連の場合、記紀の扱いの中では天孫と同族とはされているのですが、『旧事本紀』でも、勢力の衰えた物部連の背伸びか見栄があるものの、伊弉諾尊からとは、すなわち饒速日尊をして天照大神と兄弟とは言えなかったとの通常の理解があてはまるのかも。 > 基本的なことを知らない私です > 一般常識がないってイヤですねえ。 これは神奈備が神の名を創作したことこそ、上記に当てはまります。 紅顔のつきあたりです。 速日 勝速日命がいましたね。忍骨耳命のこと。 |
[339] 吉備の五色島は神社の中。 豆石 煌 | 2002/10/04(Fri) 21:49 [Reply] |
吉備にも、「五色山」がある、という。よりによって、吉備津彦神社の中?だという。 NOB'Kさんの「楯築遺跡で思うこと」;http://www.infonet.co.jp/nobk/okym/tatetuki.htm の、下から11行目。 関係なし。で、あろうが、場所が場所だけに、気には、なる。 吉備の祭祀−−−−環状列石。? |
[338] Re[337]: >速日シリーズでいくと 玄松子 | 2002/10/04(Fri) 21:21 [Reply] |
> どういえばいいのか……記紀神話に出てくる神々とは完全にイコールに出来ない神格があったからこそ、「天津御祖」と一般名詞的に語られたのではなかったか、と考えられはしないものでしょうか。 記紀に登載された神話・伝承のソースは一つではありませんよね。多くの古伝を寄せ集め、編集したものですね。 ですから、一つの神格であっても、幾つかの名で呼ばれ、幾つかの事績が記載されているのではないでしょうか。大己貴命が良い例ですね。 個人的には、「名前が違えば別の神」と思っていますが。 |
[337] Re[334][335]: >速日シリーズでいくと 日雲 | 2002/10/04(Fri) 18:03 [Reply] |
具体的に周知の事実となりましたように、基本的なことを知らない私ですので、質問もかねてなのですが、 setoh様>饒速日尊に十種神宝と布瑠之言を与えたとされる天津御祖とは伊弉諾尊の剱を介しての誕生と云うことでは、伊弉諾尊なんでしょうね。 ということであれば……これは素直に「伊弉諾尊から十種神宝と布瑠之言を与えられた」と伝えられるようになるのではないでしょうか……? どういえばいいのか……記紀神話に出てくる神々とは完全にイコールに出来ない神格があったからこそ、「天津御祖」と一般名詞的に語られたのではなかったか、と考えられはしないものでしょうか。 例えば、「旧事記」の秩父国のくだりに「拝祀大神」とあって、この「大神」とは一体なんぞや、との論議が色々あるようですが(オオナムチだ、アマテラスだ、オモイカネだ、素朴な山の神だ、と)、そうした中、例の「天照国照の秘伝」をきかせてくれたお社の宮司さんは、 「私はニギハヤヒのことであると考えている」 と申されておりました……けれども、 日雲> 例えば「ニギハヤヒが信仰していた神」とはどんな神様だったのでしょうね? と私が申しましたのは、その時に、 「ニギハヤヒ(の血族)が秩父に来てたなら来てたでいいけれども、ニギハヤヒ達も何らかの神様を信仰していたんだろうから、そしたら秩父にはその神様が祭られていた筈で、それを『大神』って物部の末裔達は言ったとは考えられないのか?」 などと思ったことから発生した問いだったのです。 古代祭祀関係の本などを読んでいると、「素朴なアニミズム」「記紀神話以前の自然神」などといった言葉がよく出てきますが、読んでいると、どうもこうした世界から記紀神話の世界へのジャンプが激しすぎるような気がするんです。 前者から後者へ移行する期間というのが、様々な地域差を見せながら、たっぷり何百年間かはあった筈で――であれば、「アマツミオヤ」は何処までも「アマツミオヤ」と言っておくしかない神であり、秩父の「大神」は何処までも「大神」としておくほかない神ではなかったか、と……? 例えば、菅原道真以前の「天神」に似たような趣の……? |
[336] 性格の共通点 hvhy [Mail] | 2002/10/04(Fri) 09:39 [Reply] |
古事記や日本書紀の神話においては、同じモチーフが 少しずつ変化して繰り返されるという点は、今までにも しばしば述べてきたところです。しかもこれらの書物には 「循環する時間構造」が採用されている。これを踏まえれば、 登場する段階が早いか遅いかは、あまり本質的ではありません。 古事記で「邇藝速日」に近い名前をあえて捜すなら、 「火之夜藝速男」でしょう。別名「火之迦具土」です。 別途論証が必要ですが、「邇藝速日」が「大物主」なら、 「大物主」と「迦具土」の性格には重なる部分があるので、 やはり「邇藝速日」と「迦具土」(軻遇突智)も重なります。 一方の「大物主」は「丹塗矢」(火に近い?)になり、 「勢夜陀多良比売」の「ホト」を突き、子供が生まれる。 また一方の「迦具土」は「伊邪那美」の「ミホト」を炙き、 これまた子供が生まれる。これは同じモチーフの変化形です。 故に少なくとも「大物主」と「迦具土」の性格はダブっている。 #というわけで、玄松子さんの妄想スパイラルとやらは、 #妄想では済まない話と私は考えます。それはそれとして、 #「火之火玄毘古」とか「火之迦具土」とかの名前について。(※「火玄」は一字) #名前の固有部分は「火玄」(カガ)や「迦具」(カグ)です。 #これは「火」を意味するペルシャ語(むしろ中期イラン語?)。 #意味を鑑みれば、そう考えるのが最も素直。捻る必要ありません。 |
[335] Re[334]: >速日シリーズでいくと 玄松子 | 2002/10/04(Fri) 08:32 [Reply] |
まじめな議論の中、妄想を挟んで申し訳ないですが。 > 軻遇突智命が切られた際の神々は金属溶解なり火山なりに関連した神と云われますが、石柝の神、根柝の神など、どうやら火山のイメージが濃いようにも感じます。 日月海は、天孫系の神として祀られていますが、天上に輝いているにもかかわらず、星がない。 饒速日を軻遇突智命系列と仮定すると、星宮に祀られている石柝・根柝の神も軻遇突智命系列。 軻遇突智命は、親にあだなす児として愛宕に祭られ、反逆のイメージ。カカセオにも反逆のイメージ。カカセオをナガスネヒコ系列の土着の反逆者と重ねて見ると、カカセオ=饒速日というのもスムーズに思われる。 「カカ」と「カグ」を近いと断じるならば、軻遇突智命(愛宕神)は、火産靈神とも思われ、火照・火明にも通じると見ると・・・妄想スパイラル。 |
[334] Re[330]: >速日シリーズでいくと 神奈備 | 2002/10/04(Fri) 08:17 [Reply] |
>> 饒速日、別名から見ると本来饒速日であるべき場所を乗っ取ったと言えます。 > 私はまた何か自分の全然知らないスジのネタから、こういう大胆な見解を出してる人もいるもんなのかとばっかり。 星信仰の余波で、どうやら饒速日尊の誕生のポイントを発見したような気がしています。これが正解とすると、饒速日尊に十種神宝と布瑠之言を与えたとされる天津御祖とは伊弉諾尊の剱を介しての誕生と云うことでは、伊弉諾尊なんでしょうね。軻遇突智命の血からと見れば、親神はどちらかと迷う所ですが、天津御祖と云う表現は伊弉諾尊にふさわしいと思いますので・・。 軻遇突智命が切られた際の神々は金属溶解なり火山なりに関連した神と云われますが、石柝の神、根柝の神など、どうやら火山のイメージが濃いようにも感じます。石見の物部神社の近くに三瓶火山がありますし、豊布都神の二上山も元は火山でした。砂鉄地域に木の枝があり、その上に溶岩が流れ込むと、木の枝の形の一見鉄の剣(七枝刀のような)を思わせるものが出来る可能性があり、これらのことが饒速日尊をして布都御魂としたのかも。 |
[333] Re[331]: 星神の悪津 玄松子 | 2002/10/04(Fri) 04:11 [Reply] |
> > 「おりもんのかみさん」 > 栲幡千々姫命は倭文神社祭神には出てきませんが、この姫は一説には饒速日尊の母神でしたね。 そうですねぇ。 単に、織物というだけではなく、衣通姫の「そとおり」と倭文「しとり」の音の類似も、必要な要素かもしれません。 |
[332] 家島の島影。 豆石 煌 | 2002/10/03(Thu) 23:59 [Reply] |
家島は 名にこそありけれ 吾が恋い来つる 妹もあらなくに。(万葉−3718) こころよい船路。移り行くおだやかな家島の島々。 (景観学では、シークエンス景と言うそうな)西田正憲著「瀬戸内海の発見」(中公新書1466) この航路から見て、家島の島々が左右に二分されて見える一瞬がある。室津の加茂神社の真南を通過するときである。 それは、西島と坊勢島との間。そこに、干潮の時にのみ海の中をジャバジャバと歩いて渡れた浅瀬が有った。これを「天の浮橋」と言った。約20年前に浚渫し、今は船が通れるようになっている。 「天の浮橋」を、海の中を、小学生が列をなして渡っている写真が、「播磨文学紀行」(橘川真一著)(神戸新聞総合出版センター)p124に載っている。奇妙な光景ではある。 (まるで「珍島物語」) 奇妙と言えば、現在市販中の日本地図の半数に、さきの「院下島」が「院家島」。出版社によって、二通りの表示が有るのも、奇妙である。 西島の西方は、近世以降?「しもら」であって、家島の文化圏では無かった?。人の居ない所には文化は無い! ここに入り込んだのが「大規模な採石業」であった。約30年前から、徐々に、徐々に。 「削り取られていく家島諸島」;http://www.hk.sun-ip.or.jp/sghr1/ejima.htm 「家島探訪」;http://village.infoweb.ne.jp/~fwif3334/iesi.htm 姫時港 到着まで あと30分。 |
[331] Re[326][325]: 星神の悪津 神奈備 | 2002/10/03(Thu) 23:48 [Reply] |
>
例えば「ニギハヤヒが信仰していた神」とはどんな神様だったのでしょうね? これは難しい問いかけですね。 物部連の遠祖として、おそらくは構想されたであろう人格神である饒速日尊が神を信仰したかと云うことは、とりもなおさず、物部連の祖先達が饒速日尊以前に信仰していた神は、と置き換えて考えてみますと、鳥越説では河内国高安郡の恩智神社に祀られている御食津神が思い浮かびます。 また河内への航海安全を祈願したであろう神、金属精錬・銅鐸生産の為の神、それらであったのでしょう。 物部連の好んだ神としては、川の神(恩智神社、広瀬神社)、磐座(磐船神社、神倉神社)、銅鐸祭祀あたりかも。 > 「おりもんのかみさん」 栲幡千々姫命は倭文神社祭神には出てきませんが、この姫は一説には饒速日尊の母神でしたね。 |
[330] >速日シリーズでいくと 日雲 | 2002/10/03(Thu) 23:22 [Reply] |
>饒速日、別名から見ると本来饒速日であるべき場所を乗っ取ったと言えます。 いやあ、昼間は笑わして頂きましたが、私はまた何か自分の全然知らないスジのネタから、こういう大胆な見解を出してる人もいるもんなのかとばっかり。 一般常識がないってイヤですねえ。 |
[329] Re神奈備 [3423] 玄松子 | 2002/10/03(Thu) 11:20 [Reply] |
> 若日子の葬儀の後で味鋤高彦根神の名を歌って > 天なるや 弟棚機の うながせる 云々 > の弟棚機は織り姫でもあり下照姫でもあるのかも。 弟棚機あるいは、この歌を歌ったタカヒメ(字忘れ)あるいは下照姫命を、織姫とみるのは自然なことで、昔から行われていたと思いますよ。 衣通姫を、下照姫命とする説もあり、和歌三神の一ですね。歌も歌います。 倭文神が、機織・織物の神ということから、織姫→下照姫と関連付けられたもの、つまり、後世に連想付会されたものである可能性の方が高いのではないでしょうか。 さらに、鳥取の倭文からの勧請で、付いてきた神とも考えられるのではないかと思います。 倭文と服部との混同も見受けられるので、特定の人物神ということではなく、「おりもんのかみさん」的ニュアンスで継承され、神明帳記載に際し、特定されただけではないか、と思うのですが。 確たる根拠も無いので、青草に書きました。 |
[328] Re[327][326][325]: 星神の悪津 日雲 | 2002/10/03(Thu) 10:02 [Reply] |
>
混乱させて申し訳ありません。昨日創作しました。 あははははははははははははははははははは(爆)! |
[327] Re[326][325]: 星神の悪津 神奈備 | 2002/10/03(Thu) 09:16 [Reply] |
> > 入れ物シリーズと見ると籠速日とか筒速日 > この二神は私聞いたことなかったのですが、どちらにお見えになる神様なのでしょうか? 混乱させて申し訳ありません。昨日創作しました。 |
[326] Re[325]: 星神の悪津 日雲 | 2002/10/03(Thu) 08:43 [Reply] |
>
日雲さんの星神への造詣は感動物ですね。 いえ、きっと扱っているネタがマイナーで、調べてらっしゃる方が少ないだけのことで。 古代史のコの字にも興味がなかった者が、ここ2〜3年でにわかに始めてみているだけのことですから、星以外の事は全く何も存じませんで、お恥ずかしい限りです。 >この女神は本当に出雲に関連があったのでしょうか、いささか疑問が残りますね。 > 葛城(葛上:南部)は賀茂族の拠点、また葛下(北部)には葛木倭文坐天羽雷命神社が鎮座、大和国のことですから倭文部が置かれたのも早かったと思われ、倭文神社としては古い方と見ていいでしょう。おっしゃるように賀茂方面に答えがあるのかも。 気になりましたので、ちょっとこの視点で軽く調べてみようかと祭データを起動してみましたところ、興味深いものがチラホラと。 ★博西神社(はかにしじんじゃ) 639-21 奈良県北葛城郡新庄町寺口1231/旧大和国 葛下郡 【祭神】下照比賣命 菅原道眞 【例祭】10月7日 例祭 【由緒書】 当社の鎮座由緒並びに創始年代等は不祥とも、往古より葛木倭文坐天羽雷神社と称し波加仁志明神と唱え祭神は元、天羽雷命、菅原大神を斎祀されていたが、明治初年のころ大和志の書載するところにより、祭神を天羽雷神社は同郡当麻町加守に所定し、祭神を下照姫命を祭るようになった由、その理由不明。 早くも出雲〜但馬間以外で下照姫とハヅチオの関連が見つかってしまいましたが(;^^ やっぱり何かありそうですね。また、もう一つ気になったのは、 ★天水分神社(あめのみくまりじんじゃ) 638 奈良県吉野郡大淀町畑屋232/旧大和国 吉野郡 【祭神】天羽槌雄命 【例祭】10月16日 例祭 10月17日 例祭 です。水神としてハヅチオが祀られていたとは、知りませんでした。「倭文」のキーワードだけで調べて、祭神検索を今までしていなかったのでしょうか……? 先日のyanase様との話に出ました天稚彦も気になりますし、もうちょっと突っ込まねばなりませんね。 葛城の方も気になりますし……別掲示板の方でもチラッと書いたのですが、高知の山奥に清川星神社というものがありまして、ここには「京都梅宮と同体」という伝があるそうで。 > 『古事記』での武甕槌命の登場は、カグツチを切った刀の血が湯津石村に走ってついた際に成った神で、甕速日、桶速日、次に建御雷、またの名は建布都あるいは豊布都とあります。 岡山県あたりでは、『日本書紀』でいう 稜威雄走〜甕速日〜桶速日 のラインの神々を、星信仰社で祭っているケースがあります。 どうしてこれらが星神として祀られるようになったかは解らないのですが、一方のフツヌシの親神(?)の系譜であるイワサク〜イワツツメまでの神々も星信仰社で祭られており、こうしてみると、タケミカヅチ&フツヌシの先祖が、ともに星神スジとして祭祀されているというのは、何やら漠然とですが、気にかかります。そうして、この辺の視点から見ても、 > 速日シリーズでいくと饒速日、別名から見ると本来饒速日であるべき場所を乗っ取ったと言えます。 これは気になりますね。 島根の松崎神社ではニギハヤヒを星神だとする伝があるそうですし、愛知にはニギハヤヒを祭神とする星大明社がありますし……勿論、何でもかんでも星神にするのは考えものですが、どうも大和朝廷以前に、かなり広範な氏族に星信仰を持った者達が入り込んでいたのではないか。 ホアカリ〜ニギハヤヒの系譜や、宗像、加茂、倭文……この辺に「混じっている」ぽいです。 記紀神話的な名称で、「この族の祖とされている神が、その源の星神である」と言う風なことは出来ませんが。 (しかし、例えば「ニギハヤヒが信仰していた神」とはどんな神様だったのでしょうね?) で、すみません、 > 入れ物シリーズと見ると籠速日とか筒速日 この二神は私聞いたことなかったのですが、どちらにお見えになる神様なのでしょうか? |
[325] 星神の悪津 神奈備 | 2002/10/02(Wed) 21:56 [Reply] |
日雲さんの星神への造詣は感動物ですね。 下照姫の名は『出雲国風土記』には出てきません。アジスキ神は6ヶ所。 また『延喜式神名帳』でも、 アジスキ神 阿須伎神社 天若日子神 天若日子神社 と下照姫の兄や夫の神々を示すと思われる神社名が見えますが、肝心の下照姫神社とか高照姫神社の名はありません。 ただ、出雲国意宇郡の賣豆紀神社[めづき]、秋鹿郡の宇多紀神社[ウタキ]の祭神は下照姫命とはなっていますが、この女神は本当に出雲に関連があったのでしょうか、いささか疑問が残りますね。 > アジスキタカヒコネや下照姫のラインも絡むとなると、カモ方面も気になってきますが……? 葛城(葛上:南部)は賀茂族の拠点、また葛下(北部)には葛木倭文坐天羽雷命神社が鎮座、大和国のことですから倭文部が置かれたのも早かったと思われ、倭文神社としては古い方と見ていいでしょう。おっしゃるように賀茂方面に答えがあるのかも。 所で、藤原氏へ偏見を持っているわけではありませんが、 > 建葉槌命は武甕槌命にゴマスリをした名前 『古事記』での武甕槌命の登場は、カグツチを切った刀の血が湯津石村に走ってついた際に成った神で、甕速日、桶速日、次に建御雷、またの名は建布都あるいは豊布都とあります。三神目ですが、名前はイレギュラーです。入れ物シリーズと見ると籠速日とか筒速日、速日シリーズでいくと饒速日、別名から見ると本来饒速日であるべき場所を乗っ取ったと言えます。鹿島にこの神が祀られていたのを氏神として神代の誕生へ持ち込んだもの、記紀作成時に創作されたのか、どちらのしても、割り込み神のようで、豊布都神を祀っていたと思われる二上山の麓に建葉槌命も祀られていたのを丸ごと頂いてしまったのが藤原氏と言えるのでは。 日神月神につづく素盞嗚尊も割り込まされた神のようですね。 |
[324] Re[315]: 院下島海域。 豆石 煌 | 2002/10/02(Wed) 00:23 [Reply] |
香具様〜、大変ですね。あっ、豆石センセ〜は、いけません。「フウテンの豆石」とお呼び下さい。 旅日記、続けます。 院下島海域。 > この海域で、ヨットマンにして「霊気を感じる。」と言う。私も、何か おどろおどろしさ、を感じる。 このことの、非科学的考察。 原因は、やはり「気」にある、と思うのです。 あそこは、ちょうど四国と淡路島との間の鳴門海峡を通った風が西島あたりに当たり、あの海域を千種川の谷へ向けて、北へ強風が吹き抜けるため、海難事故も多いと聞きます。 高い西島の北側で、なんとなく薄暗く、「あらしの前の静けさ」のようなモノを感じます。 デッキに居ると船の音、波の音が小さくなるようなので、ここは気圧が低いのかなあ、と思ったり・・・? 否!・・・石神に因るのか?? (播磨国風土記の新羅人の海難事故現場は、どこなのでありませうか??) −−−上島のあたりでは、どうも納得できない、豆石であります。−−− フェリーは、なおも東へ進みます。 姫路港へ、あと35分。 |
[323] Re[321]:樽流し 香具 | 2002/10/01(Tue) 22:58 [Reply] |
てつさん、ありがとうございます。 > 岡山と香川の県境を決めるとき、樽を流して境界線を決めることにした。 > 樽は、岡山県近く寄りを流れたので、殆どの島が香川県の所属になった。 > 片方が不利と思えば、こんなことはしないはず。簡単には判らないほど > 潮の流れが複雑である事は示しているのでは? んで、思い出したのが、金毘羅さんにお参りに行ったとき。 昔、瀬戸内を航行する船が、遥か金毘羅さんを望む沖合いを通過する際、参拝する余裕のないときには、樽に初穂料をいれて目立つ幟を括り付け海に流したそうです。それを見つけた近隣の漁師は、樽を引き揚げて金毘羅さんまで代参し奉納。依頼主のご祈祷を済ませた宮司さんは大きな木のお札を船主に発送したそうです。(byバスガイドさんの解説) そういえば1mぐらいの大きな木のお札もありました。船中の神棚に祀るそうで、難破したときにこのお札に縋り付いていて救出された例もあったとか。・・・かなり眉唾の四方山でした。<(__)> でも昇殿参拝したら、神様の包容力を実感できる素晴らしい神社でありました。 |
[322] 本殿より移動 日雲 | 2002/10/01(Tue) 22:36 [Reply] |
日雲>しかし、挙げて頂いたデータからすると、丹後の方ではもう見られないのですね、下照姫。 >但馬〜出雲間でしか見られないというのが、重要な気がします。 >で、思ったのですが……青草の方に移動しますかね……? ということで、前々から朧に思っていたことと合わせての推理なのですが、 @ある種の星信仰を持っていた古代氏族のうち、織物を生業としていた者を、彼ら独自の織物の名を取って、倭文部と称したのではないか。 これはカカセオなどと同族で、カカセオ存命時に倭文部の長だったような位置の男がハヅチオだったのではないか。 Aこの倭文部と、いわゆる出雲系氏族と濃厚な血縁を見せた地域でのみ、下照姫を祀っているのではないか。 丹後以東の倭文社が、彼らのオリジナルに近い社なのではないか。 それらの倭文系の神社で星進行性が微かに並存している気配があるのは、彼らが元々持っていた信仰の残滓なのではないか。 「タケハヅチも星神」というよりは、「彼らは星信仰を持っていた」というべきなのではないか。 (その信仰の対象である『星神』は、いわゆる記紀的な意味での神名は付随しないものだったのではないか) B下照姫は宗像系のスジでもあるが、宗像神を祭神とする星信仰社もまま見られる。 カカセオやハヅチオと同系譜の星信仰族と、宗像族には、何処かの時点で何らかの接点があったのではないか。 宇佐のオモト山の三石や、地主とされる北辰神社などと合わせて気になるところである。 と、こういうのはどうでしょうか? アジスキタカヒコネや下照姫のラインも絡むとなると、カモ方面も気になってきますが……? |
[321] Re[319][316]: 倭文の神 習志野のてつ [Mail] | 2002/10/01(Tue) 20:59 [Reply] |
> >
鹿島の神と倭文の神、すなわち、武甕槌命と建葉槌命との関連ですが、 ・・・・実は同一神だったのでしょう。・・・・ 建葉槌命は倭文の神ですが、また服部(はたおり→はっとり)の神です。 加賀の国山代温泉にある式内社服部神社は、祭神は天羽槌雄命ですが、 天太玉命に属す、となっています。同一視は少し無理筋かとおもいます。 「神奈備神名帳」http://www.kamnavi.net/en/kaga.htm 私見では、武甕槌命にゴマスリをして、改名したのでは? 足利尊氏(元は高氏、後醍醐天皇の名前「尊治」から、一字を賜る) 『「槌」様の端(は)に、お加え下さい。→ハヅチ』青草の一席 > 茨城日立市に、大甕倭文神社ってのがあって、祭神は武葉槌命。 調べてみたら、3年前の過去ログにもありましたね。凄い。 更に驚いたのは、こんなHPがあったこと。 『太古の星神 天津甕星(アマツミカホシ)様をお迎えし世界平和の祈りを行います。』 ここでは、天津甕星は、金星だそうです。 homepage2.nifty.com/o-ennetwork/kaiin/sasaki.htm 香具さん>[317] マドロスのてつ? 恐縮ですが、よく判りません。少し時間を下さい。 ごく最近の話ですが、こんな話はあります。(とってつけた話でしょう) 岡山と香川の県境を決めるとき、樽を流して境界線を決めることにした。 樽は、岡山県近く寄りを流れたので、殆どの島が香川県の所属になった。 片方が不利と思えば、こんなことはしないはず。簡単には判らないほど 潮の流れが複雑である事は示しているのでは? |
[320] Re[319][316]: 三輪と鹿島 神奈備 | 2002/10/01(Tue) 18:28 [Reply] |
吉野ヶ里遺跡の甕棺の埋葬を見たことがありますが、そこに神社が在った訳ではありませんが、その近くに小さい神社(多分日吉神社)があったように記憶しています。最も甕棺の埋葬地を拝む方向ではなかったようで関係ないのかも。 しかし弥生時代には甕棺に遺体を入れて埋葬したり水葬したりして、それを神として祀ったのかも知れません。これが三輪や鹿島の「甕」につながるのなら、これは面白いですね。 所で、甕をミカと云うのはミカメの略でしょうか、蜜柑も同じ構造だから?青草。 |
[319] Re[316]: 三輪と鹿島 玄松子 | 2002/09/30(Mon) 23:57 [Reply] |
>
鹿島の神と倭文の神、すなわち、武甕槌命と建葉槌命との関連ですが、甕槌はミカツチ、ミハツチ、このミは敬称でハツチが原形で、実は同一神だったのでしょう。 個人的には、ミカ+ツチと夢想中。ミカ=ミハ=三輪で、 ツチもタマも神霊と解釈すると、ミカツチ=ミカタマ。なんてね。 なんでもありって感じの妄想ですが。 茨城日立市に、大甕倭文神社ってのがあって、祭神は武葉槌命。 |
[318] Re[317]: 下記訂正 香具 | 2002/09/30(Mon) 23:44 [Reply] |
失礼しました、訂正します。 > そして『瀬戸内頭部のサヌカイト原産地』として、 (正)『瀬戸内東部のサヌカイト原産地』 ひがし部分です。<(__)>・・・頭でどないすんねん? |
[317] Re[305]: はるか百済以前でさえ 香具 | 2002/09/30(Mon) 23:38 [Reply] |
豆石センセ〜、まだ足が悪し、本格的に治りません。貴乃花に先を越されたです? 遅くなりましたが『五色台山』に引かれて・・・、 > 山頂から、北東方に五色塚(神戸市垂水)、東方に五色浜(淡路・五色町)、南方に五剣山(香川県庵治町)、南西方に五色台山(坂出市)などが見えると、説明を受ける。絶景!! 『新修神戸市史』歴史編T(第7章 弥生時代、第一節 水稲農耕の開始と発展)に、石器の原産地推定の項目があります。 『神戸市内の各遺跡から発見されたサヌカイト製石器の石材産地分析は比較的多量に行われていて、特に明石川流域においては弥生時代前期から中期末までの全期間の流れの概略が推定できる。』そうです。 そして『瀬戸内頭部のサヌカイト原産地』として、 「石器原材として良質とみられる産地」を、1・二上山地域、2・(淡路島)岩屋地域、3・淡路島中部地域、4・(香川)金山・五色台地域、5・(広島)冠山地域。 「あまり良質でないとみられる産地」を、6・(西宮)甲山、7・(鳥取)馬ノ山、8・(香川)豊島、9・小豆島、10・屋島、11・紫雲山、12・(愛媛)皿ヶ峰地域、 と図で紹介されていました。 面白いのは、この本の405ページに図125として、『遺跡別サヌカイトの原産地推定比率(単位%)』というグラフです。 六甲山地南麓、明石川流域、神戸北部に大別された遺跡群のサヌカイトの仕入先の割合の変遷が%表示されています。主な仕入先は二上山と岩屋と金山です。 仕入先と表現したのは私の勝手な書き方ですが、このグラフがまさに営業のシェアの競争を示しているように感じたからです。弥生時代の産業と流通を物語っていますヨ。 今回、詳細を投稿できず中途半端で残念ですが、機会を得て青草い妄想を書き込せて頂きたく思います。 > 船の航路について聞くと「関西汽船の航路のような『沖乗り』航路の発達は近世になってから、で、古代の航路は陸地添いの『地乗り』航路だ」と教えてくれた。では、仁徳帝は・・・? 縄文時代でさえ黒曜石を採取しに太平洋へ出てますからネ。弥生時代や古墳時代の瀬戸内ではじゅうぶん『沖乗り』航路だったのではないかと夢想してます。このあたりについては、海の男!マドロスのてつさんに実感を伺いたく思います。てつ様、お教え下さいませ! |