青草掲示板ログ平十四年十一月
2002.8
多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。湯嶽神・菊嶽神の集い。
素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!
 青草掲示板

[463] 所造天下大神  かたばみ [Mail] [Url] 2002/11/30(Sat) 19:15 [Reply]
スサノオ時代では日向〜豊前豊後〜宗像〜糸島とその後ろの背振山(大年神の子、曾富理ソフリ?)の吉野ケ里がその人々の活動地域、とみています。
スサノオの日本での故郷は北九州、この頃の中国地方はまだ半縄文の地(日本海側は大穴持神の在る所)。

後に大国主が豊前豊後を譲って引退した場所が島根出雲の杵築大社。
大国主以降の出雲神族は瀬戸内〜近畿に進出し、そして出雲が崩壊。
各地の出雲神話は島根出雲に集約されていった。
このあたりは記紀の意図の中枢のひとつ、そう考えています(風土記含む)。


風土記で「所造天下大神大穴持命」が何度もでてきますが、「所造天下大神」だけで大穴持命の名が書かれていない記述も多数登場します。
単なる省略なら名を書いたり書かなかったりはしないでしょう。
1カ所だけ八つ口の関係で単なる省略かもしれない「所造天下大神」だけの部分がでてくるのが、かえって意図のあることを感じてしまうのです。

大穴持命の名のある伝承が島根出雲本来の伝承であり、それ以外は他から移された伝承ではないかとみています。
抹殺されてしまった出雲神族系の伝承を残すために、あいまいな表現を使って移した。
移したのは中臣氏に対抗した忌部氏(出雲臣族)。

八岐大蛇伝承は古事記に記載されているので移す必要なし。
国引き伝承は記紀に載らなかったので移されている、といった具合です。


[462] Re[459]: 八俣、八頭、八口  かたばみ [Mail] [Url] 2002/11/30(Sat) 19:10 [Reply]
コシはどこにでもありえる地名で、「山越え」「川越え」「船越え」の意で古い言葉だろうと思います。
三越なんてのは三回も山を越えないといけない場所の意(^^;
新潟の場合は山越えかな、山古志村なんてのもあります。
富山に残る古志は川越えかもしれない。

対馬の大船越、小船越は舟を陸に引き上げて反対側の海へ運んだ場所です。
(現在は運河になっている)
松江市の古志は宍道湖〜美保湾の船越でしょう。佐太神社の古志は宍道湖〜日本海。
出雲市の古志も縄文海進時代では海辺になる地域、こちらも舟がらみであった可能性あり。


宮崎県の日向に五瀬川、五十鈴川、耳川が並んでます。

五ケ瀬川→神武の兄の五瀬命(^^; 上流は高千穂の峰から阿蘇高原へ抜ける。
五十鈴川→猿田彦の住まい。
猿田彦は高千穂で出迎えて日向への沢下りルートを道案内したと推定。

耳川→魏志倭人伝のなになにミミ、などいろいろのミミ。
神武の子は手研耳、八井耳、淳名川耳、全員ミミつき。
アシナヅチの後の役職名もスガノヤツミミ。
「スガ」は菅(スゲ)の古形。
(関東に多い須賀神社はこれだろうとみています。菅、箕笠→スサノオか)

耳川上流の西郷村の支流に八岐川があります(ヤカエと読む、なぜそう読むか不明、カヤ?)。
うねうねと深い峡谷が何本にも分かれる地形で、苔むす大蛇にぴったり(現地を見たことないですが)。
そこから3キロほど東南へ耳川を越えたあたりに「越」という村あり(^^;

ウエツフミには、草薙の剣は天照大神が「落としてなくした剣」とあります。
(スサノオが取り返して天照大神に返還したということになる)
天孫降臨は九州、景行天皇は耳川上流〜阿蘇高原で土蜘蛛と戦っている。
このあたりの山中に「それぞれの時代での支配者」に抵抗していた部族がいておかしくない。

などなど・・怪しげではあってもいろいろの怪しげが阿蘇〜日向にあることに注目しています。


[461] Re[460][459]: 八俣、八頭、八口  神奈備 2002/11/30(Sat) 16:17 [Reply]
越の八口の平定の途中に拝志郷(玉造温泉付近)が出てきます。
越の八口を平定後に現れたのは母里郷(能義郡伯太町)で伯耆の国に近い所です。
そうして、「出雲以外は皇御孫命が知らせ、出雲国は我が静まり坐さむ国」としています。
出雲国内では逆らうものはいない、そういう状況を作ったのでしょう。尤も隣の伯耆国内が騒々しかったかので、ちょいと出かけたのかも。

> 大原の郡の、神社の項の筆頭に、矢口の社(八口神社)がありますが、関係有りますか?
 大原郡木次町大字西日登の八口神社(印瀬の壷神様)のことですね。『平成データCD』の由緒から。

 古老の伝として社記には次の如く記されている。
簸ノ川をさか上った天ケ渕には八岐大蛇が住んでいた。脚名槌、手名槌の老夫婦の末娘稲田姫を取りに来るというので泣き悲しんでいた老夫婦から事情を聞かれた須佐男命は、現社地に仮に館を建てさせ、見事大蛇を退治されたという。(八岐大蛇退治の物語)
 今境内に「壷神さん」として祀られているのは、その時の酒壷の一つであるという。昔土民がその壷に触れたところ、俄に天はかきくもり、山は鼓動して止まず、八本の幣と八品の供物を献じて神に祈ってようやく静まったという。村人たちは人の手に触れることを恐れ、多くの石で壷を覆い玉垣で囲み注連をめぐらして昔のままの姿を昔のままの場所に安置することにつとめた。

 由緒によりますと、いかにも関係ありそうですが、そうすると、平定後に母里郷に現れたのはどう言う琴なんでしょう鐘。逃げるのを追いかけたとか。大和の日の谷へ行ったのか!

> 大原の郡、阿用郷の目一鬼(まひとつおに)の動動(あよあよ)話

 そうですね。この話のすぐ前に須佐能袁命の踊る話がありますね。

[460] Re[459]: 八俣、八頭、八口  習志野のてつ [Mail] 2002/11/30(Sat) 12:21 [Reply]
> 素盞嗚尊の八岐大蛇退治の物語は…『風土記』にはない、が定説のようです。
> で、『風土記』を探しますと:ー
> 「所造天下大神大穴持命、越の八口を平け賜ひて」
> 「所造天下大神大穴持命、越の八口を平けむとして」

 私の持っている「風土記」は、平凡社ライブラリー、吉野裕 訳 です。
 母理(モリ)の郷の項で「越の八口を平定し賜(給)うて、お還りになった」
 …「出雲の国は、私が鎮座する国として…」
 全体に国譲りを前提にしたわざとらしい部分ですが、出雲の国だけは自分の領有
 とはっきり宣言しているように読めますが?
全くの余談ですが
 同じ出雲の国大原の郡、阿用郷の目一鬼(まひとつおに)の動動(あよあよ)話
 おどろおどろしくて好みです。
余談ではなく
 > …新潟県岩船郡関川町八ツ口のようではなく、出雲国内のように思えます。
 大原の郡の、神社の項の筆頭に、矢口の社(八口神社)がありますが、関係有りますか?

[459] 八俣、八頭、八口  神奈備 2002/11/29(Fri) 21:41 [Reply]
素盞嗚尊の八岐大蛇退治の物語は『記紀』には記述されていますが、『風土記』にはない、が定説のようです。
『古事記』足名椎・手名椎曰く「・・高志の八股の大蛇・・」
『日本書紀』「毎年、八岐大蛇に食われて」
で、『風土記』を探しますと:ー
「所造天下大神大穴持命、越の八口を平け賜ひて」
「所造天下大神大穴持命、越の八口を平けむとして」
とあり、『風土記』記述の前後から見ると、この越は加藤義成の注釈にある新潟県岩船郡関川町八ツ口のようではなく、出雲国内のように思えます。
高志と越、八股の大蛇の口は八ツ、退治することは平けると言える、と記紀と風土記は素盞嗚尊と大穴持命との違いがあっても、同じ伝承を指しているのかも。

[458] Re[457]: 椎根津彦命  神奈備 2002/11/29(Fri) 06:43 [Reply]
> 椎根津彦命の別名に、祇知津彦というのがあるらしい。
> 「かむしりつひこ」と読むらしい。久延彦のような名前ですが、案内人として、地紙を知り尽くしているということだろうか。

八隅知之大王、天皇のこと。「知」には統治の意がありそうですね。
港港を治める男の国津神?

[457] 椎根津彦命  玄松子 2002/11/28(Thu) 21:11 [Reply]
雑談。

椎根津彦命の別名に、祇知津彦というのがあるらしい。
「かむしりつひこ」と読むらしい。久延彦のような名前ですが、案内人として、地紙を知り尽くしているということだろうか。

[456] Re[455][454]: 菊く耳  神奈備 2002/11/28(Thu) 13:34 [Reply]
>> カキクケコは草木。
> カグツチ、カナヤマヒコなどを思い浮かべて、困惑中。
これらの神名を見て小生も酔いが醒めて困惑。草木にカキクケコが多いのかなと言った程度のことが言えるかどうかですね。
[454] は、あっさり撤回。<(_ _;)>り。

[455] Re[454]: 菊く耳  玄松子 2002/11/28(Thu) 09:05 [Reply]
> サシスセソが鉄、
> カキクケコは草木。
> ナニヌネノは土に絡みそう。

少し例を挙げてもらえませんか。
カグツチ、カナヤマヒコなどを思い浮かべて、困惑中。

[454] Re[451][447]: 菊く耳  神奈備 2002/11/27(Wed) 21:48 [Reply]
> 潜、泳を「ククル」という、水をもって祓うの意であろうという折口信夫説があります。
> うーん・・ひねりすぎではなかろうか(^^;
> 菊理姫は日精や月精のイメージかも。
> 太陽神や月神ではないがその精気を宿す者。縄文末期の野辺に咲く野菊の娘(^^;

木祖句句迺馳はククノチでよさそうです。句句迺馳の次に顕れる神は草野姫。
野菊の娘の菊理姫もククリヒメとはならないのかな。
木精を句句迺馳、草精を草野姫即ち菊理姫と思いたい所ですね。
かっては草も木も言葉を発していたとか。いかにも縄文的。

サシスセソが鉄、カキクケコは草木。ナニヌネノは土に絡みそう。
では、ハヒフヘホは人体か? マミムメモは?

[453] 鳥見山傳称地私考(要旨)8  神奈備 2002/11/27(Wed) 21:02 [Reply]
第三章  考古学上よりの考察
○上代の神祇鎮祭の霊代としての磐座の存在
二、磐境の構築
ー続きー
 今鳥見山の磐境をみるに以上の条件に全て適合してゐるのである。この磐境は古代の儘の完全なものではない。所有者福井氏の手記にある如く「山の七合目辺から奇岩巨石が重なり合ってゐて石の間から木が殊更に生えてゐる観がありましたが、今から十二・三年前に石工との間に採取契約を結び三年間石を採取いたしまして、為に西側は表面に出て居た巨石の大部分を取り去られ、山の形を非常に損じたことを今は残念に思って居ります。」今は残念ながら不完全なる環状の磐境しか見られない。

 頂上二十平方米は砂地にて樹木もなく神聖の地域とされ不浄物を置くと祟られるとさへ伝えられ、稍西方即ち正面と思はれる所に中心石(根廻り十尺高さ二尺八寸)があってそれから十四尺離れて東南から東北へ環状に六個の巨石が弧を描いてその石と石との間隔が二尺五寸乃至三尺位となってゐる。

 中心石より南西部に又高き地上二尺八寸の巨石、それが環状の一石であり又それを一つの中心石として今「御山大神」と刻まれてゐる。南西に三個北西に三個合計六個の巨石を以て環状となし小磐境を形成している。その中心と環状との半径が三尺許である。又その前(西)にも一段下がって一個の磐境がある。この形式は前述の如く大なる磐境を中心としてその傍らに数個よりなる磐境があり上代信仰の遺蹟に相違ないと思はれる。

 頂上より少し下がれば横五尺乃至十尺の、縦五尺乃至十数尺の巨石が大磐境をなし、むしろ磐城かも知れない。何れも自然石を縦に起こし根石を入れ少々人工的に立て並べてあることが推察出来る。

[452] 「意富多牟」は「秋」  hvhy [Mail] 2002/11/27(Wed) 18:41 [Reply]
yanaseさんの言われる「秋山之下氷」と「春山之霞」の話は、
他の神話の諸要素をゴチャゴチャに混ぜたような感じですよね。
例えば「兄/弟」が争うのは「海佐知/山佐知」の話に似てます。

私が注目するのは「八十神雖欲得是伊豆志袁登売」という部分。
話の展開は異なりますが、結局だれが得るのかについて言う限り、
「春山之霞」は「大穴牟遅」(つまり大国主)に全く重なるんです。

・速須佐之男………………櫛名田比売…………秋……南
・八島士奴美………………木花知流比売………冬……西
・布波能母遅久奴須奴……日河比売……………春……北
・深淵之水夜禮花…………天之都度閇知泥……夏……東
・淤美豆奴…………………布帝耳………………秋……南
・天之冬衣…………………刺国若比売…………冬……西
・大国主(大穴牟遅)……………………………春……北

他の系譜についてはともかく、この系譜に関しては何となく、
季節が関係しているように思います。ここで幾つか確認すると、
「速」(ハヤ)は「南風」(ハエ)との掛詞。また「冬」に対し
「木花知流」と言われ、「夏」に対し「水夜禮花」と言われている。

---------------------------------

さらに詳細に見ると、「櫛名田比売」は書紀で「奇稲田姫」。
「淤美豆奴」が「八束水臣津野」(出雲風土記)と仮定すると、
鳥取県に「八束水」(やっかみ)という地名があることなどから、
この「淤美豆奴」は「稲羽之八上比売」に重なる。つまりいずれも
「秋」に「稲」という対応になっている。これも偶然とは思えません。

少し前の書き込みで述べましたが、「秋」と言えば「葉月」。
また「御綱葉」の「葉」は「柏」(箇始婆)と書紀で読まれる。
全く意味不明の「淤美豆奴」が「御綱」に結びついても来ますが、
一方に「意富多牟和気−−布多遅比売−−稲依別」なる系譜があり、
「淤美豆奴」の妻の「布帝耳」(フテジ)は「布多遅」に繋がります。
ここにまた「意富多牟」(オホタム)と「稲」の関係が見られたりする。

#というわけで、「伊豆志袁登売」が「八上比売」なら、
#また「伊豆志袁登売」は「布帝耳」(布多遅)でもある。
#「伊豆志袁登売」が「多遅摩」の系統であるのは当然だが、
#「稲依別」に重なる「河俣稲依毘売」の子の「大多牟坂」は
#「多遅摩国造」と書かれている。このように噛み合うのだから、
#件の「伊豆志袁登売」は(意外でも)「秋」の色彩を帯びている。

[451] Re[447]: 神紋、家紋  かたばみ [Mail] [Url] 2002/11/26(Tue) 20:57 [Reply]
≫ヘビの紋とかあれば、吉野裕子さんなら狂喜するかもしれない

鏡餅もみんな蛇だからなあ(^^;
蛇が自然神の象徴だとするとまともに紋にするにはおそれ多いのかも。
動物紋は猿が意外に少ないですね。熊はまったくみあたらない。
農耕社会になってからは印象が弱いのかもしれない。


以下菊について若干
書紀と先代旧事本紀に菊理姫として「菊」が登場するのが最初だと思います。
最初からほとんど余談。
潜、泳を「ククル」という、水をもって祓うの意であろうという折口信夫説があります。
うーん・・ひねりすぎではなかろうか(^^;

万葉2448 白玉のあひだ空けつつ貫ける緒もくくり寄すれば後あふものを
万葉2790 玉の緒のくくり寄せつつ末つひに行きは別れず同じ緒にあらむ

こちらは結びつける意の「ククリ」で、菊理姫の登場が伊弉諾伊弉冉の夫婦喧嘩の調停をした状況であるならば単純明快。
どちらにせよ書紀では漢字の意味を無視して当て字するとは考えにくい。
菊になんらかのイメージを重ねているのだと思います。

万葉集に「菊」はでてきませんが、若菜摘みに「うはぎ」がでてきます。
「和名抄」に白菊、紫菊、黄菊あり、カハラヨモギ、カハラオハギといい日精草なり、とあります。
「本草和名」に菊花は月精でカハラオハギというとあります。
(字訓/白川静より)

菊理姫は日精や月精のイメージかも。
太陽神や月神ではないがその精気を宿す者。縄文末期の野辺に咲く野菊の娘(^^;

オハギ=「うはぎ」は野菊(ヨメナ、嫁菜)でしょう、万葉では花ではなく山菜とみているわけです。
そして懐風藻(751)で菊花の歌がでてきます。

飛鳥あたりに遣唐使が栽培種の菊花を輸入し、奈良あたりで宮廷内に観賞用として広まり始めた。
平安あたりで一般化して文様となり、平安末期〜鎌倉あたりで紋章として用いられ始めた。
そのあたりではないかと。


ダビデ紋について補足。
まず下図をごらんください。
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/k_data/david.jpg

左は2世紀頃のユダヤ教会遺跡の紋様。中は11世紀のエジプトの紋様。右はメノラ紋様。
△+▽紋様はロータス紋様同様に普遍的にエジプト中近東で用いられていた紋様のようです。
(五角の星マークも使われているのに注目)
(景教渡来といっしょに△+▽紋様として持ち込まれている可能性はある(^^;)

△+▽紋様をダビデ紋として使ったのは17世紀にプラハでユダヤ人組織ができたときだそうで、これ以降に広まり、イスラエル建国で国旗にもなったようです。
明治以前に「ダビデ紋」は存在していないわけです。

なお、メノラ紋様はモーゼの出エジプトのときにユダヤの象徴として用いられており、これは古いです。
(明治以前でこの紋様が日本に存在したかどうかは不明)


巴紋は今のところなにもわからずです。
弓を射るときの道具の鞆の図案化の説があるけど・・納得しません。
中国の周、中央アジアのスキタイなどにも類似紋様があるので、雲や水流といった自然現象からのイメージである可能性が高いと思っています。
それらに勾玉のイメージが重なれば容易にシンボル化して神社系に使われそうです。


[450] 鳥見山傳称地私考(要旨)7  神奈備 2002/11/26(Tue) 08:57 [Reply]
第三章  考古学上よりの考察
○上代の神祇鎮祭の霊代としての磐座の存在
二、磐境の構築
磐座は神奈備とも神籬ともいふ。磐境・磐城と共に神祇の鎮祭所の意味である。磐城は自然的であり磐境は巨石を人力によって構築されたものである。
 人工を加えた磐境の実例として大和の大神神社の神体山三輪山がある。同社の古伝に依ると三輪山に辺津磐境、中津磐境、奥津磐境といふ古代民族の神祭の跡が現存するのである。
 又出雲大社の後方の山の頂上に人工を加えた磐境の形蹟がある。
 又尾張国小牧山の頂の径五十間に環状態に三十二個の巨石が配列せられてゐて有史以前のストーンサークル(磐境)であると文学博士鳥居龍蔵氏は立証せられている。
 また自然的磐境の一例として三河の一の宮である砥鹿神社の奥宮本宮山の禁足地や尾張二の宮大件神社の奥宮、尾張富士の禁足地がある。
 巨石を以て神体又は霊代とする信仰即ち磐座の一例として伊勢神宮の摂社五十鈴川御手洗場の南側の宮は岩を中心として奉齋せられ神楽殿の東の左側の自然石又は御裏御門の西側の巨石も巨石崇拝でなく、神の霊代とされている。
 有史以前の民族の神祇崇拝の形式は殿舎を設けるやうなものでなく、磐座磐境であったことは神代史が実証している。
 磐境の形式として大なる磐境を中心としてその傍らに一箇の乃至数箇の小さい磐境が設けられてある。中心は天神で傍らのものは奉斎者の祖神であらう。その実例として大神神社と砥鹿神社が代表せられる。(以上遠山氏の研究発表を参考とした。)
ー続くー

[449] Re[448]: 神紋、家紋  玄松子 2002/11/25(Mon) 20:56 [Reply]
家紋はあまり詳しくないのですが。

> > 神紋と家紋はどう違うのでしょうか?
> 玄松子の記憶> 神紋・社紋は、その神社の祭神に由来するものもあるが、多くは、神社の社家や、パトロンである領主の家紋を用いている。
> とありますね。

神紋は神の紋、家紋は家の紋、この程度の違いしかないのではないでしょうか。
領主の家紋を神紋にする神社もありますし、神紋を家紋にする家もあります。(徳川家は賀茂の家系なので、賀茂神社の神紋・葵を用いています)

> > ヘビの紋とかあれば、吉野裕子さんなら狂喜するかもしれない。
> 三つ巴はそのルーツは蛇だったの言うような説はないのでしょうか。

そんな説を見た記憶はあります。でも忘れました。
蛇そのものは知りませんが、蛇目紋、龍紋は存在します。

家紋の発生については、通説では平安期となっているようです。
現在のデザイン化され洗練された紋章を、家の紋章として用いたのはその頃でしょう。
でも、用いられている図案は、それ以前から用いられていますし正倉院でも見られます。
また、刺青をしていたと思われる縄文時代では、刺青の紋様の違いが部族の違いを示していたかもしれません。部族や家族という集団に共通の(あるいは似た形状の)紋章を用いて他と差別化・区別化するという発想は、家紋以前からのものでしょう。
他と識別するためのマークと、シンプルな図案としての紋章が家紋に集約されたのかもしれません。
このように、家紋はデザインですから装飾的な意味があります。花を飾る習慣はありますが、動物を飾る習慣がないので、植物紋が多いのではないでしょうか。


ついでに、
籠目紋は、三角形を二つ組み合わせた六角紋。山陰地方では出雲の亀甲も六角紋。四角・三角は図形の基本なので、造形としてはシンプルですから、ある意味、ありふれた形と言えるでしょう。
似ているからユダヤとするのは早計で、その他の背景が必要です。

[448] Re[447]: 神紋、家紋  神奈備 2002/11/25(Mon) 19:11 [Reply]
> 玄松子さんの、(中略) 領域か?
> 神紋と家紋はどう違うのでしょうか?
よこから。
玄松子の記憶> 神紋・社紋は、その神社の祭神に由来するものもあるが、多くは、神社の社家や、パトロンである領主の家紋を用いている。
とありますね。

> ヘビの紋とかあれば、吉野裕子さんなら狂喜するかもしれない。
三つ巴はそのルーツは蛇だったの言うような説はないのでしょうか。
見た目にはオタマジャクシですが。

[447] 神紋、家紋  習志野のてつ [Mail] 2002/11/24(Sun) 01:42 [Reply]
神奈備掲示板からです。
神紋と家紋はどう違うのでしょうか?
はたまた、いつ頃から在るのか。発生したのか?
なぜ、動物を紋にせず、主に植物が紋になるのか?
ヘビの紋とかあれば、吉野裕子さんなら狂喜するかもしれない。
゛疑紋”は尽きないのですが、判らない状態です。
玄松子さんの、あるいは?紋"次郎さんの領域か?

ダビデ紋(カゴメ紋)
昔ユダヤ人の友人を、伊勢神宮に案内しました。参道の石灯篭のダビデ紋を
見せる為です。「ダビデの星のマークがある」と云って連れて行き、見せま
した。反応は「これは何、こんなに小さいのは!」でした。「ダビデの星と
同じ形をしているだけ」と言っていました。

菊華紋
幼稚園や小学校低学年の子、特に女の子が描く絵は、太陽があり花があること
が多い。花弁が4枚の双子葉系の花が多い。倍数の8枚、16枚も、デザイン
として描きやすい。(=似た紋が出来た。が私見です)

石上神宮の紋
先日石上神宮に参拝しました。その折神宮の紋が入った湯呑みを頂きました。
登り藤です。「藤原家の家紋は下がり藤で、当神宮よりも後のものです。」
とおっしゃっていました。「フツノミタマ」と「フツヌシ」についても、
似たような趣旨のことをおっしゃっていました。
神職さん、湯呑み有り難うございました。
この場をお借りして再度御礼申し上げます。
いまも机の上で、いい「グイ呑み」になっています。

「植物学リソース」というすばらしいHPがあります。2300ものHPへリンク。
問題は、(Jp)となっていないと読めないこと。(個人的問題です、はい)
   http://horagai-web.hp.infoseek.co.jp/plantlink.html
双子葉植物の範疇に「ががいも」も「かたばみ」も、そして
ゲーム界で有名な「オトギリソウ」(音切草?)も載っています。
その中で「菊」については下記に
   http://www.afftis.or.jp/kiku/kiku02.htm

[446] 新しい国家社会の建設を目指して   小林佳子 [Mail] [Url] 2002/11/23(Sat) 12:21 [Reply]
拝啓
 2001年9月11日の米国中枢同時テロ事件により、世界は正に歴史的大転換に差し掛かろうとしている。今回のテロ事件の背後に、米国(ロックフェラー)と欧州、特に英国(ロスチャイルド)との覇権争い、シオニスト派と反シオニスト派、ユダヤとワスプとの対立、マネー経済派と実物経済派との争いが感じられる。そして世界統一政府を目指す陰の陰謀組織の内部分裂が表面化してきたものであろう。即ち、米国内のユダヤ系金融資本の切り捨てであろうと思われる。更に、根本理念において重大なる誤りを内包したキリスト教、イスラム教、ユダヤ教等の世界的三大宗教の前身である古代バビロニア王国時代からの悪魔崇拝宗教の、実に数千来の歴史的総決算に突入したと言えよう。

 そして、2004,5年頃には日本が貿易上の破綻から国家破産に追い込まれていくだろう。その結果、米国と欧州にも波及して、2005,6年頃には米国連邦政府崩壊、EU(欧州連合)の破綻をも招き、また、中国の発展著しい地域や韓国や東南アジア、そして中南米諸国をも巻き込んで行くであろう。即ち、日本が米国と欧州、そして中国の一部や韓国などを道連れにして共倒れになっていくものである。また2006年から2008年に掛けて、ロシアの東西への再分裂をも生じさせて行くであろう。更には、世界の覇者として台頭する中国の全体も2012,3年頃には大分裂させ、共産党一党独裁の中央集権体制国家の崩壊をもたらしていくことであろう。

 2001年の9.11テロ事件後の世界の歴史展開は、これまでの10年が1年に相当するほどの、実に10倍の猛スピードで展開し、100年後くらいの出来事がたった10年後くらいに達成されてしまう急激な変化の到来と言えよう。ところが2002年7月10日の欧州勢による米国株総売りによる米株安、ドル安を境に一段と歴史が急展開し、何と従来の100倍の猛スピードの展開になってきたようだ。米国からの資金流出や株安、ドル安、エンロンやワールドコム、エリクの粉飾決算による底無しの米国のバブル崩壊により、逆に米国の経済崩壊が、イラクなどへの対テロ戦争拡大と相まって、2004,5年頃の日本の国家破産に先行し、早ければ2003年にも迫ってきたようだ。


 実に、アメリカ連邦政府の崩壊は資本主義体制自体の崩壊に繋がるものであろう。最早、大量消費を狙った戦争によって資本主義の行き詰まった経済を立て直すシナリオも通じなくなってきたようだ。これは、そうした破局に至るまでの一大歴史的ドラマの展開に焦点を合わせて、様々な分野における提言をしていくものである。ここに提言するものは、新しい国家社会の建設を目指して、広範多岐に亘る諸問題を総合的且つ多角的に検討し解決策を提示するものだ。

 具体的には、世界最大の未利用資源の火山灰を活用した新素材技術や、真の仏身登場による新思想を元にして、外交問題、種々の法制度の整備、行政改革、立法府改革、司法改革、憲法改正、民法改正、産業構造改革、景気対策、内需拡大、国土開発、省資源・省エネ対策、放射性・産業廃棄物処理、コンクリート劣化対策、砂漠の緑化、自然と調和した環境造り、創造立国、創造教育、健全な家庭と生活、真の男女共同参画社会の在り方、夫婦別姓問題、少子化対策、霊魂と神仏の正しい概念、真の宗教と信仰の在り方等を提示し、文明史の大転換を図り、日本のみならず、全世界の窮状を救済して行こうとするものである。


 併せて、真の仏身顛化の歴史的大偉業の達成を御紹介し、国家危急存亡に際して、国内外の邪悪で猜疑な想念の一掃、廃絶、淘汰を目指して、数千年来の歴史を総決算し、新たなる光輝ある仏土を厳浄し衆生を理益せんとするものである。詳細は某HPを参照下さい。
http://www4.ocn.ne.jp/~mukzke98

[445] Re[444]: 自己レス  日雲 2002/11/22(Fri) 02:21 [Reply]
>滝壺に牛とか馬の頭を投げ込む
? あれは元は汚物じゃなくて、生贄か……? 
穢れ観が変容して、投げ入れるものが「汚物」だと見られるようになってしまったのか……?
すると、愛宕のはいつ頃からのものなのだろう……?
或いは、「滝壺に牛馬」と「神体を汚す」は元々別のもので、それが習合というか、ごっちゃになって「滝壺にうんこ」化したのだろうか……?
うーん……?

[444] Re何かこの界隈  日雲 2002/11/22(Fri) 01:01 [Reply]
地蔵菩薩や虚空蔵菩薩の石像を泥まみれにするとか、アレンジは方々にありました(各地の史誌とか読むと。今でもまだやったりするのかな?)。
滝壺に牛とか馬の頭を投げ込むというのもありますよね(これはもうやらないでしょうけど)。

[443] Re[442]: ドラゴン・ロック  玄松子 2002/11/21(Thu) 20:46 [Reply]
> そういえば、どこかの雨乞いで、なかなか降らないときには、龍神の棲むといわれる池に雲古(排泄物)を投げ入れて怒らせて降らせるという話しを読みました。雨の切実さ。

穢れと水の関係でしょうか。穢れを祓う水、穢れあるところに水がある。まるでサスケのような。

[442] Re[441][440]: ドラゴン・ロック  香具 2002/11/21(Thu) 15:44 [Reply]
> 京都の愛宕では、太郎天狗の硯石という石があり、石の上の水を汚れた柄杓で荒らすと、天狗の怒りで降雨になるという雨乞法があるとか。
> 祈るのではなく、怒らせるのは、天狗が神ではないからでしょうか。

そういえば、どこかの雨乞いで、なかなか降らないときには、龍神の棲むといわれる池に雲古(排泄物)を投げ入れて怒らせて降らせるという話しを読みました。雨の切実さ。
畏れ多い方法ですが、『肥え』と考えると昔は身近なものですね。
(あ、今でも生活上、身近は身近でした。)

[441] Re[440]: ドラゴン・ロック  玄松子 2002/11/20(Wed) 22:41 [Reply]
全然違う場所ですが。

> さて、他所を殆ど知らないのですが、降雨祈祷に関する聖地では、似たようなものなのでしょうか?

京都の愛宕では、太郎天狗の硯石という石があり、石の上の水を汚れた柄杓で荒らすと、天狗の怒りで降雨になるという雨乞法があるとか。
祈るのではなく、怒らせるのは、天狗が神ではないからでしょうか。

[440] Re[439]: ドラゴン・ロック  香具 2002/11/20(Wed) 22:19 [Reply]
> 香具さん> 桃尾の奥の院とされる禁足地の『龍王池』
> 龍福寺と龍王池との関連も一考の余地があるのかも。

そうですね。ドラゴンを観じた誰かの証言がなければ『龍』の文字を当てはめることはなかったでしょうね。自然や気候天候のせいなのか?時の政治なのか?国家宗教なのか?民衆信仰なのか?風俗習俗なのか?ささやかな願いなのか?ハッタリなのか?・・・そこは判りませんが、一種の渇望(タンハー)を昇華させたい『意』は、かの地のバリヤーを形成していたのかも知れません。後になって(下山して)そんな妄想を抱かせる処です。

逆に『龍福寺』が隆盛の頃には、山頂付近の竜王池あたりとて、そんなに山深い場所ではありません。行場のすぐ近くという印象でしょうか。竜王池が特別な聖地として活発に機能しだすのは、むしろ龍福寺のことも遥か古代となった頃のように思っています。実際、龍福寺跡とされる、現在の大親寺付近の土地を歩くと、古代の龍福寺が山中にしては相当な寺院群だった印象です。一帯は現代でこそ檜山ですが、古代の植生とは異なるでしょうね。さて、他所を殆ど知らないのですが、降雨祈祷に関する聖地では、似たようなものなのでしょうか?

[439] 鳥見山傳称地私考(要旨)6  神奈備 2002/11/20(Wed) 17:37 [Reply]
kokoroさん お久しぶりです。相変わらずのkokoro節、引き込まれますね。
> 龍頭寺、龍腹寺、龍尾寺
龍頭寺は龍光寺と改名とか、龍王山付近の鎮座地は要調査ですね。何れにしても三輪山の神がその頭部を押さえていると言うことが、龍は南北に延びているようですね。
龍を東西に延ばしたのが、当麻町の長尾神社が尾、大和高田市の石園座多久虫玉神社を頭、また巳の尾が長尾神社、頭は三輪明神との伝承もあります。何れにしても、大和では三輪に足を向けては寝ないようです。

> 龍神と御霊信仰は関係深いもの
義淵は明日香の龍蓋寺(岡寺)を建立、藤原氏の繁栄を願ったと言いますが、建立地は若くして死んだ草壁皇子の宮跡だそうです。(以上は『大和紀伊寺院神社大辞典』)やはり鎮魂かも。

香具さん> 桃尾の奥の院とされる禁足地の『龍王池』
龍福寺と龍王池との関連も一考の余地があるのかも。


鳥見山傳称地私考 第三章  考古学上よりの考察
○上代の神祇鎮祭の霊代としての磐座の存在
一、神祇鎮祭の位置
 磐座・磐境は有史以前よりの信仰遺蹟で神社は多くこの磐城・磐境。磐座に起源するものが多い。これらは単なる山嶽崇拝・巨石崇拝に留まるものではない。神の霊代としての神祇の鎮祭地である。巨石は神霊の鎮ります霊代であった。即ち嶽や巨石は信仰の対象でなく神祇鎮祭の位置選定の必要条件は
(A)土地の高層であること。
(B)土地が或る川と他の川との合流点に、聳えていること
(C)四方の景色を一眺のもとに収め得られる土地
である。その一例として三輪山は長谷川と纏向川との合流点で山上から大和平野が一眺のもとに眺られ、三河の砥鹿神社奥宮本宮山も豊川と西南方の山脈を以て海岸に及ぶ土地で三河平野が眺望され、尾張二の宮大縣神社本宮山も大山川とその支流によって挟まれている。
 斯くの如く古代神社の位置は
(一)外に向かって闘争的に最も枢要なる地域であり
(二)には生活上に於いて
(三)には土地を統御するに於いて便利なる場所であったが後世に於いて生活地帯が高地から低地に移転し、仏教の伝来と共に神社方面に影響をして来た。以上は磐城・磐境の研究者遠山正雄氏の「皇學」宇佐見景堂氏の「磐城・磐境の研究」から得たものである。

 この見地から鳥見山も山容といひ四園の眺望といひ古代人の神霊地帯として神祇鎮祭の地と首肯されるものがある。磐境をもつ山の原則としての二筋の川が分水し然もそれが山の麓で合流することはこの山に於いてぴったり適合する。鳥見山は南と北に二河流れて南は布留河となり、北は高瀬川となって遂には大和川に注いでいる。山頂即ち磐境のある地点は豁然として眺望を恣に出来る。大和平野は一眺のもとに収められる。民間伝承として昔は神聖なる地域として地方人の接近することを許されず山頂は神の鎮祭地といはれ、山そのものが神の本体とさへ言はれている。
今尚 山は森厳なる神霊清浄の場所として地方人の尊び恐れられている。其の山林を伐採し嚴石を割出すならば必ず祟れて死ぬと伝えられ、又実際に負傷し病気に罹ったりした種々の事件が起こったのである。

[438] 菊(ククノチ)と刀(ククリ)とゴトビキ岩   焼尻紋次郎 [Mail] [Url] 2002/11/20(Wed) 11:26 [Reply]
コーヒーを淹れたあと、消え残った小さな泡に光が反射し、黄色や紫・青・赤 と、実に美し
い純粋な輝きを見せています。
 この光輝に神を見れなくなった現代人は、まさにバチアタリです。

 そのまえに、二日前クマノ・ライフ http://www.kumanolife.com/guestbook/
にカキコした『菊と刀』をぜひ、ご覧下さい。

 ついでに月とヒキ蛙 http://jp.y42.photos.yahoo.co.jp/bc/lunacity6/lst?.dir=/
%a5%b7%a5%eb%a5%af%a5%ed%a1%bc%a5%c9&.view=t
 に出ている蛙(×板中央の、神としての蛙)も、ひと目ご覧になっててください。
 ×印はヤス……神のマークです。水はいのち、蒙古では魚を食べません。

 まず訂正です。小生は呉音の kiok(菊)を見落としていました。「鬼+ KUT(ミコの神お
ろし神事)」など不要な迷路を書いてしまいました。訂正です。
 でも、このミスで、香具さんが鋭意探してくれた「生田神社は神戸“一の宮〜”とは別であ
ること」が、意味の上からも判明。まさにケガの功名でした。

 出雲の「ぐく」だった蛙神は、ごとびき岩によって現代まで継承されてきました。
 われわれはそこに込められていた国造りの精神性をことばの混成を辿ることで俯瞰できる…
…という幸いを享受できるのです。
 それは南越語の CUC(菊)が朝鮮語 KUKHWA(国花……菊)とごっちゃになったところ
へ、さらに南越語の COC(ひき蛙)が入ってきて、これがまたまたタジク語 GUC(蛙)と混
合し「蛙=土地神〜国神」という座を得たものと推量されます。

 GUC に O(神)を添えた語形が GOC-O ですが、これではゴチョです。
 しかし、末尾辞の -CHO には南越語で軽蔑の意味合いが込められていますし、チョなどと
いう拗音は倭人の好む音ではありません。これが「ゴトビキ」のゴトとして定着した主要因だ
と思われます。
 ビキはネパール語 BIK(毒)-I(もの)が語源です。
 蛙はそのままでは食べられません。しかし表皮を剥ぎ、煮だしてやれば食べられます。
 諏訪には冬眠している蛙を掘る 神事が伝わっています。

[437] 龍神の胴体  kokoro [Mail] 2002/11/20(Wed) 00:10 [Reply]
☆ ほにゃらか、なくなりましたね。浦島太郎のような気分です。

11月17日> 南西林尾の中途に龍福寺蹟があり、義淵僧正と伝える。更に降って布留瀧がある。
11月18日> 桃尾山(トウビザン)大和名所図絵(寛政三年)には(注:寛政三年は1789年)『桃尾山(トウビザン)龍福寺布留山の北にあり』

 ここにみられる龍福寺について、私なりに考証してみました。

 奈良県にはかって、桃尾山龍福寺の他に、もう一つの「龍ふく寺」がありました。奈良市北之庄町にあった龍腹寺がそれです。現在は廃寺のようですが、かっては同町に現在もある白山神社の境内付近にあり、その神宮寺でした。この龍腹寺には、次のような伝承が残っています。

【龍腹寺の由来】
 昔、奈良に大旱魃があった。水は涸れて土は裂け、秋の実りはとうてい無理な有様だった。そこで、雨ごいの祈祷として法華八経を修することとなり、人々はこぞって聴聞した。
 請が終わり皆が帰ったあとも、ひとりの翁だけがそこに残っており、講師を勤めた僧にむかっていった。
「さきほどの龍女成仏の文は、まことに有り難く身にしみました。実は私は、龍宮の龍です。お礼に雨を差し上げたく思いますが、私は小龍の身、大龍王の許しを得ないで雨を降らせれば、怒りに触れ、命をとられます。しかし、皆さんの気の毒なありさまを見るにしのびません。露より安く、塵よりより軽い命です。わが身を捨てて雨を降らせましょう。後生菩提のことは、おまかせいたします。」と言い終わったかと思うとたちまち雲が下りてきて、龍は空に隠れてしまった。
 はたして、龍がいったとおり風はにわかに雲をおこして恵みの雨が降り、村人は助かったが、やがて雨が晴れると、にわかにものすごい物音とともに何かが天から落ちてきた。
 驚いてよくみると、龍の身体が三つ断ち切られて死んでいるのだった。
 村人がこの龍を憐れんで、頭、腹、尾のそれぞれを三ケ所に葬り、寺をたて、龍頭寺、龍腹寺、龍尾寺と名付けた。神殿村(現在は奈良市北之庄町)の龍腹寺はそのひとつである。(竹原威滋、丸山顯徳編『世界の龍の話』P25〜26)

 こうしてみると、龍腹寺は龍神の胴体と関係深い寺院であったことになりますが、奈良盆地東部の山地には、龍王山が龍の頭部、桃尾付近がその胴部、菩提山が尾に該当し、三輪山の神がその頭部を押さえている、というわりと有名な伝承があり、龍福寺のある桃尾付近は龍神の胴体と関係付けられているわけです。してみると、龍の胴体を介して2っの同名の寺院、龍福寺と龍腹寺が繋がるわけであり、両者には何らかの関わりがあるように思われます。

>南西林尾の中途に龍福寺蹟があり、義淵僧正と伝える。

 ここには義淵ギイン僧正の名が登場します。もちろん、これだけでは何も分かりませんが、少なくとも龍福寺に、「義淵僧正と関係がある」との観念があったのは確かでしょう。薬師寺の傍らに龍王社に、次のような伝承が伝わっています。

【薬師寺の龍王社の由来】
 現在、薬師寺の傍らにまつられている龍王社は、もと寺の西南にある勝間田池のところにあったのを移したもので、この池の龍神がまつられている。
 昔、天武天皇の皇子、大津皇子が二上山にこもって謀反をおこしたといううわさがたち、加守の地(現在の当麻町)で禁固ということになった。
 そして、七日目。皇子は突然悪龍に化身した。
 あたりに毒を吐き散らし、人々を苦しめたので、皇子の平生の師であった義淵僧正が弟子の修円とともに朝廷の命を奉じて調伏に向かった。皇子の霊はなかなか鎮まらなかったが、その霊をなぐさめるために寺院を建立すること約束してようやくこれを鎮めることができた。それが龍峯寺(加守寺)という寺であるが廃寺となって今はない。
 西ノ京の勝間田池の龍神はこの龍と化した大津皇子の霊を勧請したものであると伝えられており、毎年七月二十五日に勝間田池を灌漑用水として利用している周辺の5ヶ大字によってまつられ、薬師寺の僧侶が観音経をあげ、その供養を行っている。<後略> (『同書』P28〜29)

こうしてみると、義淵は龍と関わり深かったことが分かります。そしてその関わりは、政争に敗れて悪龍と化した大津皇子の鎮魂・調伏にあったわけで、ここに濃厚な御霊信仰色が感じられます。興味深いのは、北之庄町の龍腹寺付近は、3社の祟道天皇神社があり、ここらは県下でも祟道天皇を祭神とする神社が集中する地域なのです。また、龍腹寺から2.5qほど東南に祟道天皇御陵もあります。こうしてみると龍腹寺は、龍神と関係があると共に、祟道天皇の御霊信仰や、その鎮魂と関係があった可能性があります。なお、もともと龍神と御霊信仰は関係深いもので、大和岩雄氏の著書等で突っ込んだ考究がなされています(大和岩雄氏『神社と古代民間祭祀』所収の「御霊神社・今宮神社」等)。
 こうしてみると、関係があるらしい北之庄町龍腹寺からの類推や、義淵僧正が関係する伝承があることから、桃尾の龍福寺もまた龍神と関係すると共に、何かしら怨霊の鎮魂に関わるような寺院であった可能性があります。『石上布る(※澑≠ゥらさんずい≠とった字)神宮略抄 下』によれば八箇石ヤツイシは、最晩年の天武天皇が草薙剣の祟りで重病となり、この剣を熱田神宮に返還した日の翌日、東の高山の末に出雲建雄神が顕現し、その際、随伴した8匹の龍の化身したもの、とされます。あるいは、この草薙剣の怨霊の鎮魂と龍福寺は関係があったかもしれません。

[436] 鳥見山傳称地私考(要旨)5  神奈備 2002/11/19(Tue) 16:18 [Reply]
(三)鳥見の地名(歴史的考察)の続き
鳥見氏 鳥見山の中腹に龍福寺があった。その寺侍に鳥見氏がいた。その子孫は士族として現存しているが、これなどは桃尾が鳥見山といったから名付けられたのであらう。或いは姓氏録「鳥見姓は饒速日命の裔とあるから由緒孵化器家柄であらうと思われる。(後項参照)

桃尾氏 モモノヲ トビ よみ不明。

鳥見の山中 『日本書紀』には「乃立霊畤鳥見ノ山中」とあって、鳥見山の中とせず、鳥見の山中としてある。鳥見といふのは地名であるか又山名であるかは疑問である。何れにしても布留の石上神功を中心として周囲を繞る山嶽丘陵をすべて鳥見といったと思われる。(布留神社略記)
 その最高峰を鳥見山と考えられる。それが桃尾にある国見山に当たるのである。大和地方の俗語として「クンナカ」「サンチュ」の言葉がある。「クンナカ」は大和平野、即ち平地部を指し「サンチュ」は山間を指すのである。(中村元次郎著の『霊地鳥見山』参照)
 鳥見山はこの山中に含まれる。

小野(上小野榛原 下小野榛原)
 今の布留から瀧本へかけて布留川に沿える一帯が布留の小野である。一名布留小野ともいふ。かきつばた(布留瀧・桃尾山龍福寺跡辺に多い)で名高い。古歌にも(山辺郡誌。丹波市町概観。参照)
 「 石上 布留川小野の かきつばた 春の日かずは へだてきにけり 」
この布留から布留瀧までの間が小野としての地勢をなしその中に掛橋、針尾がある。上小野榛原とは今の上瀧本(カケハシ)をいひ、下小野榛原は今の下瀧本(坂、針尾)をいふのではなかろうか。
 『大和名所図会』(寛政三年)にも
「布留柄小野、石上ふるから小野も野の名なり 石上ふるの中道ともよめり 小野とは枯野といふにやらとけど同音也。布留の乾(かわき)たる野といふにや 顕注密勘拾三
  君が世に ふるから小野の 本柏 もとに帰るや 我身なるらん  慈鎮

榛原(上小野榛原 下小野榛原)
一、ハリハラとは山の中腹を開拓したといふ意味ではなかろうか。ハリは墾であり小墾田(ヲハリタ)、墾道(ハリミチ)等のハリの義と考えられる。即ち新開地のことであらうと。『神武天皇御東遷聖蹟考(勝井純著)』によれば、榛原は山復の、人の身体でいへば腹のような地形の場所を墾いた所と云ふべき義でハリは即ち小墾田、墾道等のハリの義だらうと想像されます。
二、又榛原が萩原であったと考え、萩の生茂った野原とも考えられる。木村正辞博士は萩と榛と同一なることを説かれている。
三、榛原は榛の木の原とも考えられる。
四、榛は針と同じと考えられる。(榛原古風土記)
 何れにしてもハリハラは時代によって誤られ訛られてゆくのはやもうえない。大字瀧本はもとの熊橋村桃尾村針尾村の三小村を後世合併したものである。大字瀧本なる地名は明治維新後、市町村制上、前記の三小村を合併したものである。要するに針尾村は上代の榛原でそれがは針尾と訛ったのであると想像されるのである。(『山辺郡誌』、『丹波市町概観』にも同意見の文あり )
 針尾村は今の瀧本の中間に位置すれど、上代は全部が針尾ではなかっただらうか。(『播磨国古風土記』には、榛、針、萩はハリと読み、皆等しい。)
○郷中鎮守神名記(文政十一年三月布留社)には
一。八王子 桃尾村  一、弁財天  針之尾村
など、江戸時代の村名に、桃尾村、針尾村、熊橋村 とある文献の引用があるが、略。

Setoh注:和名抄 山辺郡には 都介、星川、服部、長屋、石成、石上 石上布留が出てくる。
添下郡 鳥貝の項に 登見郷 があり、鳥見、登美、迹見池などが見える。平安貴族の気まぐれではないと思うが・・・。

[435] 「虚」は「飛び」  hvhy [Mail] 2002/11/18(Mon) 19:57 [Reply]
>虚見地(トミノチ)布留神社略記には
>『以其祓詞布瑠部由良由良止故 布留神社奉申 本源是也。舊土地定給者 天照皇大神之御宇以前 
>虚星天降 虚草顕給所謂 虚者 富亦臣復民是長生草之事而今神殿之北有此地 虚見地云往昔 
>魁神虚長髄根彦云以此名也 虚白庭山麓地是也・・・寛保二年神籬翁著 石上神宮蔵板』
>と虚は當臣民の意であるとし、長髄彦がトミを称へたのはこれによるとしてある。

しばしば「建御名方」にも「トミ」が添えられますが、
「御名方」〜「胸方」〜「虚方」ですから、伝承の通り
「虚」が「トミ」ならば、「建御名方」が「トミ」なのは
言わば同語反復ということになり、極めて理解しやすいです。

では「虚」が「トミ」(トビ)と言われる理由は何か。
例えば「倭飛羽矢若屋比売」という名前があり、さらに
「曙立王」は「倭者師木登美豊朝倉曙立王」とも言われる。
読み方の問題はともかく、「飛」も「登美」も同じでしょう。

>虚有四星。形如飛鳥。一日一夜。共月而倶。
>豆糜為祭。屬婆藪神。姓喬陳如。(※「喬」は宛字)

「飛ぶ鳥の飛鳥」などという定型句がありますが、
『摩登迦経』を見てみると、「虚」の形状について
「形は飛ぶ鳥の如し」(形如飛鳥)と記されています。
言うまでなく「虚」が「トミ」(トビ)と称されるのは、
この記述ないし知識から来ている。これは簡単明瞭ですね。

#但し「是長生草之事」と伝承にある点は問題です。
#「長生きする為のもの」という意味で「訶梨勒」を
#「長生草」と呼ぶことがあったかどうか。ここは不明。
#いわゆる『宿曜経』は「虚」を「訶梨勒」としています。

[435] 「虚」は「飛び」  hvhy [Mail] 2002/11/18(Mon) 19:57 [Reply]
>虚見地(トミノチ)布留神社略記には
>『以其祓詞布瑠部由良由良止故 布留神社奉申 本源是也。舊土地定給者 天照皇大神之御宇以前 
>虚星天降 虚草顕給所謂 虚者 富亦臣復民是長生草之事而今神殿之北有此地 虚見地云往昔 
>魁神虚長髄根彦云以此名也 虚白庭山麓地是也・・・寛保二年神籬翁著 石上神宮蔵板』
>と虚は當臣民の意であるとし、長髄彦がトミを称へたのはこれによるとしてある。

しばしば「建御名方」にも「トミ」が添えられますが、
「御名方」〜「胸方」〜「虚方」ですから、伝承の通り
「虚」が「トミ」ならば、「建御名方」が「トミ」なのは
言わば同語反復ということになり、極めて理解しやすいです。

では「虚」が「トミ」(トビ)と言われる理由は何か。
例えば「倭飛羽矢若屋比売」という名前があり、さらに
「曙立王」は「倭者師木登美豊朝倉曙立王」とも言われる。
読み方の問題はともかく、「飛」も「登美」も同じでしょう。

>虚有四星。形如飛鳥。一日一夜。共月而倶。
>豆糜為祭。屬婆藪神。姓喬陳如。(※「喬」は宛字)

「飛ぶ鳥の飛鳥」などという定型句がありますが、
『摩登迦経』を見てみると、「虚」の形状について
「形は飛ぶ鳥の如し」(形如飛鳥)と記されています。
言うまでなく「虚」が「トミ」(トビ)と称されるのは、
この記述ないし知識から来ている。これは簡単明瞭ですね。

#但し「是長生草之事」と伝承にある点は問題です。
#「長生きする為のもの」という意味で「訶梨勒」を
#「長生草」と呼ぶことがあったかどうか。ここは不明。
#いわゆる『宿曜経』は「虚」を「訶梨勒」としています。

[435] 「虚」は「飛び」  hvhy [Mail] 2002/11/18(Mon) 19:57 [Reply]
>虚見地(トミノチ)布留神社略記には
>『以其祓詞布瑠部由良由良止故 布留神社奉申 本源是也。舊土地定給者 天照皇大神之御宇以前 
>虚星天降 虚草顕給所謂 虚者 富亦臣復民是長生草之事而今神殿之北有此地 虚見地云往昔 
>魁神虚長髄根彦云以此名也 虚白庭山麓地是也・・・寛保二年神籬翁著 石上神宮蔵板』
>と虚は當臣民の意であるとし、長髄彦がトミを称へたのはこれによるとしてある。

しばしば「建御名方」にも「トミ」が添えられますが、
「御名方」〜「胸方」〜「虚方」ですから、伝承の通り
「虚」が「トミ」ならば、「建御名方」が「トミ」なのは
言わば同語反復ということになり、極めて理解しやすいです。

では「虚」が「トミ」(トビ)と言われる理由は何か。
例えば「倭飛羽矢若屋比売」という名前があり、さらに
「曙立王」は「倭者師木登美豊朝倉曙立王」とも言われる。
読み方の問題はともかく、「飛」も「登美」も同じでしょう。

>虚有四星。形如飛鳥。一日一夜。共月而倶。
>豆糜為祭。屬婆藪神。姓喬陳如。(※「喬」は宛字)

「飛ぶ鳥の飛鳥」などという定型句がありますが、
『摩登迦経』を見てみると、「虚」の形状について
「形は飛ぶ鳥の如し」(形如飛鳥)と記されています。
言うまでなく「虚」が「トミ」(トビ)と称されるのは、
この記述ないし知識から来ている。これは簡単明瞭ですね。

#但し「是長生草之事」と伝承にある点は問題です。
#「長生きする為のもの」という意味で「訶梨勒」を
#「長生草」と呼ぶことがあったかどうか。ここは不明。
#いわゆる『宿曜経』は「虚」を「訶梨勒」としています。

[434] 鳥見山傳称地私考(要旨)4  神奈備 2002/11/18(Mon) 18:38 [Reply]
(三)鳥見の地名(歴史的考察)
 古代よりの口碑として、この山を鳥見山又国見山と伝え来りしが何時の世か桃尾山と称へられるやうになった。

鳥見山 石上神宮の「鎮魂祈祷祝詞」の中に
『天祖御祖の大語を稟給ひて、饒速日命天磐船に乗りて河内國河上哮峯に天降坐て大和國鳥見の山麓白庭の高庭に遷坐せて鎮齋給ひ石上大神と号け称奉る』
と明らかに鳥見山と記されている。

桃尾山(トミノヤマ) 石上神宮十種祓に
『・・・饒速日命は天磐船に乗りて河内國の河上哮峯に天降坐て大和國桃尾山(トミノヤマ)の麓白庭の高庭に遷坐して鎮い齋奉給 号て石上大神と申奉る・・・』

桃尾山(トビノヤマ)石上神宮十種祓に
『・・・大和国桃尾山(トビノヤマ)麓・・・』とある。原本は氏子石西氏所蔵

排尾の山(ヒキノヤマ)石上神宮十種大祓(布留倍之祓とも云ふ)に
『・・・大和国排尾の山の麓 ・・・』
これは桃を排と誤写したもので、草書にすれば酷似、排はおしひらく意味でヒキノヤマとなったものであろう。

虚見地(トミノチ)布留神社略記には
『以其祓詞布瑠部由良由良止故 布留神社奉申 本源是也。舊土地定給者 天照皇大神之御宇以前 虚星天降 虚草顕給所謂 虚者 富亦臣復民是長生草之事而今神殿之北有此地 虚見地云往昔 魁神虚長髄根彦云以此名也 虚白庭山麓地是也・・・
寛保二年神籬翁著 石上神宮蔵板』
と虚は當臣民の意であるとし、長髄彦がトミを称へたのはこれによるとしてある。
(Setoh:寛保二年は1742年。饒速日尊が虚空見日本國と称したが、これとの関連は。)

太宇部(トウビ)布留社記には
『梯村にあり 其處に小社坐す 桃尾の御前と云ふ 俗訛りて太宇部能語牟膳牟と云ふ。神名不詳』

桃尾山(トウビザン)大和名所図絵(寛政三年)には (注:寛政三年は1789年)
『桃尾山(トウビザン)龍福寺布留山の北にあり』  以下考察は省略します。

この章 まだつづきます。

[433] Re[432]: お待たせ致しました  神奈備 2002/11/18(Mon) 08:34 [Reply]
>  二上山から向こうに何が見えたか?


香具さん、ありがとうございます。
頂いた写真をさわって見ましたら、淡路島南部が浮かび上がりました。
http://www.kamnavi.net/as/yamanobe/kunimi.htm

 やはり、肉眼では見えていたのですが、ふつうの写真では・・・肉眼のすばらしさがよく分かりますね。尤も、タマユラは写真に限るようで。何、超音波のようなもの。??

[432] お待たせ致しました  香具 2002/11/17(Sun) 22:12 [Reply]
 拙アルバムを22時に更新完了しました。奈良県天理市滝本町大国見山です。山頂からは大和平野の北半分をまさに『国見』できます。北は遠くに北摂の山並みから、信貴山系や生駒山系、その向こうに六甲山系、二上山から葛城山系が見えます。二上山から向こうに何が見えたか?それは神奈備先生に〜、お願い致します。(画像遅れてます)m(__)m
 とくに石上神宮と山頂との位置関係を観て頂ければ嬉しく思います。山頂からは布留の高庭がとても良く見えますし、高庭からも山頂が眺めやすいのです。
 さらに今回は、大国見山頂の磐座群だけでなく、桃尾の奥の院とされる禁足地の『龍王池』も公開させて頂きました。私の場合、山中で迷って偶然に通りかかりましたが、本来は立入禁止ということですので、詳細な場所の説明は控えさせて頂きます。

[431] 鳥見山傳称地私考(要旨)3  神奈備 2002/11/17(Sun) 21:14 [Reply]
(二)鳥見山の位置(地理的考察)
奈良県山辺郡丹波市町大字瀧本の小字丸尾といふ所に(「の」)霊畤伝説地に磐岩、磐座がある。これは頂上より少し下がった所にある。その頂上は矢倉王岳といひ、同村(「町」)大字岩屋谷領である。
最高峰(頂上)は海抜496.6mである。鳥見山(桃尾山トウビ)といひ山の中に小字大國見といふのがある。鳥見山は布留川と高瀬川との分水嶺をなす。南に桃尾の元官有地があり、北に高瀬山(高橋山ともいふ)地番弐百弐拾町歩がある。これは櫟本外拾三ヶ所の大字の共有地である。元禄十三年に上郷、下郷に分割、現在上郷は私有地、下郷は共有地である。
 この王岳(頂上)より東方に八ツ岩といふ所がある。伝説(古記録あり)によれば、天より一振るの劔が降った。そして大岩が八つに割れ飛んだといふ。その劔を出雲建雄神社(石上神宮境内摂社式内社)の縁起となっている。八つ岩の近くには天狗岩、クツカケ、イワシ(レ」か)谷、日の谷、登山せんとするには大道といふ地名のあるコースをとる。
 東方の少し下った所に水の涸れない小池がある。龍神を祀り旱魃を祈願す。俗に桃尾の奥の院といふ。南西林尾の中途に龍福寺蹟があり、義淵僧正と伝える。更に降って布留瀧がある。

香具さん、ありがとうございます。
http://myalbum.ne.jp/cgi-bin/a_menu?id=fc872655
が更新されていますよ。

[430] 鳥見山傳称地私考(要旨)2  神奈備 2002/11/15(Fri) 16:34 [Reply]
第二章 鳥見山について
(一)鳥見の意義
 姓氏録に依れば鳥見姓は饒速日命の裔とある。トミの語源は支配者を意味し即ち鳥見山とは支配者の山の義に解せられる。また鳥見は富(トミ)また臣・民(オミ・タミ)で長生の意味とも言う。『国史の根源』(勝井純著)によれば「鳥見の語源より云ふも、トミ支配者即ち掌る、神、帝王を意味する言葉であるから、神の山、支配者の山のこと舊倭の山を云ったのであることは云ふまでもない。」
 内藤虎次郎博士は「民族と歴史」の一の四に「夫餘國」の始祖「東明」高句麗の先祖「朱蒙」百済の遠祖「都慕」等は何れも同じ音が種々の文字で表されたに過ぎないので、恐らくは誇大に於いて此等の國々の間に「神」若しくは「帝王」の義の語として用ひられたものであらう。従って我が国の大山祇、海神「のツミ、天富命のトミ、天皇の御諱の中にある[金且]友のトモの同系の語であろう」と。
 白鳥博士は史学雑誌第十七編に「国語に於ける敬称語の原義に就いて」の中に「君kimiは神、上kami、首kubi、株kabu、又后kisaki、渠師ukasi、等と同根の語で、一種の敬称語から起こったもの、臣omi、忌寸imikiは身mi、本moto、幹miki、親mutu、愛mede、等と語源を同じうするもので、是も敬称語である。
 トミなる地名は大和国内に多い。生駒郡の鳥見、磯城郡の鳥見、吉野郡の鳥見などは富、跡見、外山、等彌の文字を使っている。
 長髄彦は饒速日命を奉じてゐた。長髄彦の本拠は生駒郡であったらしい。饒速日命は最初河内の哮峯に居られたが、後に山辺郡の鳥見(布留を中心とする地方)に移遷なされたことは石上神宮の祝詞に明瞭である。長髄彦(古事記には一名登美毘古)の女に登美屋姫といふのが居られて饒速日命と婚せられた。姓氏録によれば鳥見姓は饒速日命の裔にて長髄彦は其の外戚に当たるのである。鳥見とは饒速日命の居られた所であらねばならぬ。即ち山辺郡鳥見(布留地方國見山をも含む)は饒速日命の子宇麻志麻治命は物部氏の祖で、石上神宮の祭神である。

[429] Re[428]: ノラリクラリ  香具 2002/11/14(Thu) 21:46 [Reply]
> 天理市滝本町 大国見山
> と思われる。確かに大国見山からの見晴らしは抜群。
> 早晩 http://myalbum.ne.jp/cgi-bin/a_menu?id=fc872655 で見ることができるのでは。

<(__)> へへ〜!ヘェィ。今度の日曜(17日)にアップ作業をさせて頂きます。しばしご猶予のほどをお願い申し上げます。

[428] 鳥見山傳称地私考(要旨)1  神奈備 2002/11/14(Thu) 17:35 [Reply]
鳥見山傳称地私考(要旨)は昭和十四年に丹波市町大字瀧本の乾健治氏の作になる手書き謄写版の小冊子で、K氏、M氏とともに桃尾の滝の麓でお借りしたものです。抄を紹介いたします。

第一章 鳥見の霊畤に就いて

神武天皇は諸虜を御平定遊ばされ、功賞の御事終わって霊畤(まつりのには)を鳥見(とみ)の山中に立てて天神を祭らせ給ひ、大孝を申(の)べさせられ、其地を号けて上小野榛原、下小野榛原とい曰ふ。これ御一代二大親祭中の其の一である。

(一)国史上に於いて
日本書紀 神武天皇四年春三月の天神郊祀と鳥見霊畤建立の記事
古語拾遺 霊畤を鳥見山中に立て、天富命の幣をつらねての祝詞の記事
神皇正統記 霊畤を鳥見の山中に立て、天神地祇を祭る記事
ほかの引用

(二)霊畤について
霊畤とは斎場(まつりのば)のことで、久米博士は「『霊畤とは前後になき漢訳なり。説文には「所基址祭地也」と解し、漢志の注に「必於高山之下畤」命曰畤是則凡土高處皆曰畤也」と解す」即ち、畤とは土地の高所をいふのである。従って、大和一国を一望する佳勝の地ならねばならぬ。鳥見山(桃尾山)は最も適し、南は吉野群山をはじめ大和三山は申すに及ばず、地は奈良木津、西は生駒信貴連峰を越えて晴朗の日遙かに堺の海まで見られるのである。霊畤伝承地六ヶ所中最も絶佳の霊山である。
更に一歩進めてその霊畤の形式を考ふるに 石上神宮舊記に「石上邑の地底に磐石を以て境となし、地に石窟を作り布都御魂横刀 左坐為東方 天爾瑞寶十種 右坐為西方 同じく共に蔵む。其の上に高く地を築く、諸を高庭の地といふ。高庭の地に神器の上に當り磐座を設け、神籬を立つ・・・・之を霊畤と謂ふ」とある。

setoh注 霊畤伝承地六ヶ所
東吉野村萩原  木津峠から深吉野への途中の山中 丹生川上神社中社の北
桜井市桜井 鳥見山の麓 等弥神社の東南
奈良市石木町 登彌神社
奈良市中町 大倭神宮
榛原萩原 鳥見山公園に「鳥見山中霊畤跡」と刻まれた石碑 
天理市滝本町 大国見山
と思われる。確かに大国見山からの見晴らしは抜群。
早晩 http://myalbum.ne.jp/cgi-bin/a_menu?id=fc872655 で見ることができるのでは。

[427] 題名はあった方がよいですよ。  玄松子 2002/11/12(Tue) 16:26 [Reply]
> >「天」という概念は、かたばみさんの書かれているように中国の天帝から来ているのでしょう。
> これは「テン」ということでよろしいんですよね?
> それ以前には「天空の神々の統べるところ」という観念や認識が日本列島にはなかった、ということではないのですよね?

拘りますねぇ。
「日本列島にはなかった」というのは、中国から輸入される以前という意味では、なかったと、僕は思います。(つっこまれると白旗揚げますが)

太陽や、雨などの自然崇拝は勿論あったでしょうが、統治者としての人格・性格は、中国産だと思います。「統治」「統べる」という概念自体がいつ発生したか、というのが問題ですが、これは、王の発生に依存します。で振り出しに戻った気分です。

[426] Re[425]  日雲 2002/11/12(Tue) 15:17 [Reply]
>船板一枚下の水も、日の上る水平線も、海としか表現できないのではないでしょうか。私が言っていたのは「水平線の“彼方”」なのですが……うーん……何の証拠もない単なる妄想なんですが、私には「生活関連の場」と「神々の住まう異界」には、違った単語があったとしか思えないのです……こう、
「当時の海民の世界の見え方はどんなだったろうか?」
と、それを主観的にシミュレーションしてみた時に……これはどうも違っていたんじゃないかなあ、と。

あとは例えば、あまり観念的に分けるのもどうかとは思いますが、あえて、
「海を生活の場としていた人達」
「海の存在を知ってはいたが、日頃見ることなく生活していた人達」
という風に分けるなら、例えば、波打ち際という部分の感じ方も違うはずですし、
(前者にとっては日常の場ですし、後者にとってはすでに異界の始まりでしょうし)
この両者が同じ言葉で「海自体」を呼んでいたかどうか、とか……
違っていたとしたら、「海=アマ」とはどっちの言葉であったか、とか……
そもそも「アマ」の本義は何だったのかとか……
(私は「天空の神々の統べるところ」だったと思っているのですが……)

相変わらずとっ散らかっていて、すみません。どれも妄想なので、これこそ放置して下さい。
あ、一つだけ質問です。
>「天」という概念は、かたばみさんの書かれているように中国の天帝から来ているのでしょう。
これは「テン」ということでよろしいんですよね?
それ以前には「天空の神々の統べるところ」という観念や認識が日本列島にはなかった、ということではないのですよね?

[425] Re[424] すいません、放置してやってください  玄松子 2002/11/11(Mon) 21:24 [Reply]
> それから、例の訳の解らない文章は、海の近くにいれば、「水平線の彼方」と「天蓋」の区別は不分になるであろうから、ここで「天=水平線の彼方」となるのは解るが、海を生活基盤としていた者達が、「海自体」と「水平線の彼方」を同じ言葉で呼んだろうか

「天」という概念は、かたばみさんの書かれているように中国の天帝から来ているのでしょう。それが海人へ伝播した段階で、=海の彼方と理解されたすれば、わかりやすい。
ところで、船板一枚下の水も、日の上る水平線も、海としか表現できないのではないでしょうか。「雨」と「海」とが根が同じだと仮定すると、水全般に「アマ」という音が用いられていたかもしれない。(これは根拠のない無責任な思いつき)

[424] Re[422] すいません、放置してやってください  日雲 2002/11/11(Mon) 06:01 [Reply]
玄松子様>この文章、よく理解できないのですが
うーん、確かに……我ながら、何を書いてあるのやら、サッパリ解りません(;−−
やれどもやれども終らない仕事という目の前の現実から逃避するために、心身ともにグッタリしながらこのようなところにやって来てみても、ロクなことにならぬという好例ですね。真に失礼致しました。
で、えー……どうやらこの日雲とかいう輩が言わんとしていた書斎云々というのは、恐らく彼的にも、
「古代においては、『水平線の彼方=天』という認識があった」
「天も海も『アマ』と呼ばれることがあった」
「天津神の子孫と称する者達は、ある時期の日本列島に居住していた人間達から見れば海の彼方からやって来た者達であった」
――といったことには、多分、疑問は抱いておらぬのです。それぞれに個別の事象としては。けれども、それらをひとまとめにして、
「『海(アマ)の向こうからやって来たから、天(アマ)津神』」
とされると、「それはまとめすぎ!」という感じがどうしてもしてしまうといった感じなのでしょう、きっと。どうも俯瞰から見すぎているという気がしてしまう、と。
天津神・国津神という場合の「アマ」はあくまで「天」の意でいいのではないか――海のことも天と同様に『アマ』と言うこともあったし、水平線の彼方を天と同一視する認識も(少なくとも海民達には)あったろうが、それとこれを一緒くたにしなくても良いのではないか、と。

それから、例の訳の解らない文章は、海の近くにいれば、「水平線の彼方」と「天蓋」の区別は不分になるであろうから、ここで「天=水平線の彼方」となるのは解るが、海を生活基盤としていた者達が、「海自体」と「水平線の彼方」を同じ言葉で呼んだろうか――海部などに見られる「アマ=海」と言うのは、「海自体」をアマと呼んでいるのだろうから、ここにはかたばみ様のおっしゃるような、
>後に海にも天の意をかぶせてアマとも読んだのではないか
といった、言葉の交錯・変化などがあったんではなかろうか、というようなことを言いたかったものと思われますが、今さら改めて書き直すほどの価値も時間も気力も御座いませんので、
「嗚呼、言語障害を引き起こすほど世間に追い込まれていたのだね。お可哀さうに」
と、ここは一つ見なかったことにして、放置してあげて下さいませ(;−−。
何せ、やってるのにやってるのに、まだ当分終りそうにない……。
(だったら書くなよという話ですが)

[423] Re[417]: 「クニ」  かたばみ [Mail] [Url] 2002/11/10(Sun) 19:00 [Reply]
≫ここでは「天」に対立する概念として、「国」がでてきます

天、海は呉音も漢音もテンとカイしか発音はないようですから、アマもウミも日本の古い言葉なんだろうと思います。
綿津見のワタがパタと兄弟だろうな。
いくつかの言葉が共存していた可能性がみえますね。

ウミには海の意しかなかったが、後に海にも天の意をかぶせてアマとも読んだのではないかと思うのです。
内陸系の人々は神々の住まいを空に見る(垂直)、しかし沖縄などではそれを海の向こうに見る(水平)。
これが合体されたのではないかと考えています。
天孫降臨が空からのようでもあり、船で海からのようでもあるのも合体によるためだと考えています。

どちらも神々の住むところ、の意として。
(天からだけじゃないぞ、という圧力があった(^^;)

だが支配者は天からなのだ・・それが天津神(天神)と国津神(地祇)の表現になっているのではないかと。
本来は先住者の住む所が「クニ」で、これに国の文字をあてたわけです。

中国でのかっての「国」とはそれぞれの領主が治める諸地域のことで、皇帝(天帝)はそれを支配する、そういう意味のようです。
記紀がその概念を取り込んだのなら、国津神とした意味がわかるような気がしています。


[422] Re[419]: 天津神・国津神  玄松子 2002/11/10(Sun) 18:27 [Reply]
> よしや、「古代人は海の彼方に天上世界を見ていた」といったことがあったとしても、それは「海」と「天」という異なった二つの概念がイメージ的に結びついたということで、これらが結びつくには、その前提として、「海」と「天」がまずそれぞれ別個に脳裏になければならないはずです。

この文章、よく理解できないのですが、原初から、天と海を同じもの・同一のもの・同根のものと見ることも有りえると思いますよ。

天は、頭上ではなく、海の彼方という考えは、決して書斎から発想されるものではないのではないでしょうか。日が海から昇り、海に沈む、島国においては、特に。

降臨する神の多くが、舟でやってくるのは、何故でしょう。

[421] Re[417]: 「クニ」  かたばみ [Mail] [Url] 2002/11/10(Sun) 18:23 [Reply]
≫ここでは「天」に対立する概念として、「国」がでてきます

天、海は呉音も漢音もテンとカイしか発音はないようですから、アマもウミも日本の古い言葉なんだろうと思います。
綿津見のワタがパタと兄弟だろうな。
いくつかの言葉が共存していた可能性がみえますね。

ウミには海の意しかなかったが、後に海にも天の意をかぶせてアマとも読んだのではないかと思うのです。
内陸系の人々は神々の住まいを空に見る(垂直)、しかし沖縄などではそれを海の向こうに見る(水平)。
これが合体されたのではないかと考えています。
天孫降臨が空からのようでもあり、船で海からのようでもあるのも合体によるためだと考えています。

どちらも神々の住むところ、の意として。
(天からだけじゃないぞ、という圧力があった(^^;)

だが支配者は天からなのだ・・それが天津神(天神)と国津神(地祇)の表現になっているのではないかと。
本来は先住者の住む所が「クニ」で、これに国の文字をあてたわけです。

中国でのかっての「国」とはそれぞれの領主が治める諸地域のことで、皇帝(天帝)はそれを支配する、そういう意味のようです。
記紀がその概念を取り込んだのなら、国津神とした意味がわかるような気がしています。


[420] Re[415]: 猿の集団は、村か国か  かたばみ [Mail] [Url] 2002/11/10(Sun) 18:12 [Reply]
≫猿山のボスは、村長か国王か

なはは、どっちかといえば王でしょう、ただし私は「国の王」とは認めないです。
王とは権限をひとりの人物が持った場合。
権限をその時々できまぐれに使っていたら・・それが猿山のボス。

なにがしかの規範を持たないと国の王にはなれないと思います。
規範は別人が作り王はその実行者、なんてパターンもでてくる。
中世ヨーロッパのように大司教と王が対立する、などもありえて複雑な部分だと思います。

≫考え方によっては、日本人全部が血縁関係とも

その通りと思います。拡大すれば世界中(^^;
そこでも、国という考え方がでてくるのだと思います。
血縁関係があっても別の国になりえるし、血縁関係がなくても同じ国になりえる。

国とは血縁と文化の複合体(錯綜体)だと考えています。
そして文化は環境が創り出すと考えています。海の文化、森の文化、砂漠の文化・・

≫律令国家

そこまでゆけば完璧。そこまでゆかなくても国でよかろうといったイメージです。
あいまい(^^;


[419] 天津神・国津神  日雲 2002/11/10(Sun) 17:12 [Reply]
この対比の名称は、どういう人物のどんな視点から見て付けられたものなのでしょう?

習志野のてつ様>アマ(海人、海女)から、天(アマ)を連想するのは、違う気がします。
同感につき、一票。
よしや、「古代人は海の彼方に天上世界を見ていた」といったことがあったとしても、それは「海」と「天」という異なった二つの概念がイメージ的に結びついたということで、これらが結びつくには、その前提として、「海」と「天」がまずそれぞれ別個に脳裏になければならないはずです。
「天」はどこまでも「天」として捕らえるしかないように思います。
「海=アマ=天」となっても、「天津神=海津神」ではないですし。
「海(アマ)の向こうからやって来たから、天(アマ)津神」
といったような見方は、後代の書斎から出がちな錯覚というものではないでしょうか。
(或いは、「天」というのは昔の人の抱いた迷信に決まっておるという傲慢から?)

[418] 「ムラ」  玄松子 2002/11/10(Sun) 10:50 [Reply]
村を群れ(ムレ)と同根の語とすると、村は集団・人の集まりと理解できます。
村を、邑や邨、屯と書くと、土地という意味が付加されそうです。

家をホームともハウスとも訳しますが、ホームというと家庭で、家という構造物に依存せず人の集まりに意味があり、ハウスといえば、家という構造物そのものです。

どういう場面で「ムラ」という語を用いるかによって、概念は変化するのではないかと思います。

斑とも同根と仮定すると、部分という概念も出てきそうです。


> 天津神と国津神(アマツカミとクニツカミ)との言葉があります。
> 海(ウミ)は、縄文時代は(パタもしくはワタ)といわれたそうです。

天津神と言う言葉が、縄文時代にできたのであれば、海とは無関係かもしれませんが、天津神という語の発生した時期に、海をアマと呼んでいるのなら、話は別ですね。

[417] 「クニ」  習志野のてつ [Mail] 2002/11/10(Sun) 07:50 [Reply]
天神地祇(テンジンチギ)との言葉があります。
ここでは「天」に対立するのは「地」です。
天と地とは、よく理解できます。
他方で
天津神と国津神(アマツカミとクニツカミ)との言葉があります。
ここでは「天」に対立する概念として、「国」がでてきます。
「国」と「地」とは、ある面では、同一の概念のようです。一方
天(テンもしくはアマ)とは何でしょうか?

海(ウミ)は、縄文時代は(パタもしくはワタ)といわれたそうです。
アマ(海人、海女)から、天(アマ)を連想するのは、違う気がします。

[416] Re[413]: 祖、庸、調  玄松子 2002/11/09(Sat) 19:04 [Reply]
> くりかえしになりますが、私の目安としては、「国」という場合は中央集権と租税の登場であろうと考えているわけです(こちらは血縁とは無関係)。

律令国家?

[415] 猿の集団は、村か国か  玄松子 2002/11/09(Sat) 18:44 [Reply]
見方を変えて。

猿山のボスは、村長か国王か。
二つの猿の集団があり、縄張り争いをする。
結果、一つの集団に統合されることになります。その後、グループ内で婚姻が進み、血縁関係となっていきます。
(血が濃くなりすぎるので、グループ間での血の交換が行なわれると、以前なにかで見た記憶があるが、忘れた)

血は拡散していくものではないでしょうか。枠(生活圏)が拡がれば、さらに拡散していく。以前、神奈備掲示板で書かれていたように、考え方によっては、日本人全部が血縁関係とも。

[414] Re[409]:弥生の豊かさ  かたばみ [Mail] [Url] 2002/11/09(Sat) 17:45 [Reply]
≫三内丸山では、稲は無くても縄文ポシェットに見られるように、手間隙
≫かけた豊かな暮らしをしていたようです。「『豊かさ』とは何か?」と
≫なると、又別の話でしょうけれど

弥生の西日本の豊かさは物質的なもので、わずかな人数しか養えなかった地域(東日本の1/20程度)で人口が爆発的に急増したひずみが表れていると思っています。

埴輪や土器など、技術や形式は整っているけれど勢いを感じないんです。
縄文最盛期の土器の迫力や創造性(芸術性)には及ぶべくもないと思うのです。
参考までに下図は東北の縄文後期(BC1500頃)の土瓶と耳飾りです。
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/j_doki01.jpg

東日本ではその後の寒冷化で人口が減少、文化も衰退するようです。
避難民はより温暖な地域へ移動してゆく(三内丸山も消滅する)
近畿あたりがその接点にある地域。それらすべてが混じり合っている地域だと考えています。

かたばみ

[413] Re[408][407]: 祖、庸、調  かたばみ [Mail] [Url] 2002/11/09(Sat) 17:31 [Reply]
≫「国とは」「国と村の違いは」という問いに対しては不適切な回答ではないかと感じています

最初に村長会議とか部族(≒村)としましたが、やっぱり問題ですね。
考古学にならってあいまいにムラとします。
家族→家族の集合体→部族=ムラです。ただしあくまで私はそう解釈するということです。
(血縁関係でつながる集団)

くりかえしになりますが、私の目安としては、「国」という場合は中央集権と租税の登場であろうと考えているわけです(こちらは血縁とは無関係)。
単にムラが集まっただけでは国ではなくクニでしょう。
なお村とするばあいは国家ができてからの行政区分のひとつと解釈しています。

前に書いた変化のパターンは人々の生活の変化の根元が食料にあることからの最もシンプルな変化にしたつもりです。
ムラの集合体となった時点で国とみる人もいるでしょう、「王」が登場した場合に「国」という人もいるでしょう。
これだけでもどこから国と考えるかは人それぞれだと思います。
実際には様々な要素が加わってきますが、そうするとそれこそ人類史をすべて網羅しないとだめですね。


余談
後漢はAD57に「奴国王」と表現していますが、どういう判断で「国」としたのだろうか。

かたばみ

[412] Re[410]: クニとムラ  玄松子 2002/11/08(Fri) 11:03 [Reply]
>  今ひらめいた、まったくの思いつきですが。

青草掲示板ですからね。それで十分だと思います。

> >この窮地を脱却するには、買う・もらう・交換する・奪う・・・・
>  食料その他の資源が乏しくなって来たら、最も単純な解決法は「(豊かな所へ)
> 移住する」ことではないでしょうか?。

その「豊かな所」に、他の村や国があるかないか、ですね。

ある場合は、奪うことになるか、交換するか、もらうことになります。
交換には、奴隷として働くことで糧(資源)を得ることも含まれます。

他の国がない場合は、いまだ窮地ではないのでしょう。遊牧民がそうですね。

[411] Re[410]: クニとムラ  サン・グリーン 2002/11/08(Fri) 10:43 [Reply]
こちらには、はじめて参加させて頂きます。サン・グリーンです。

>  今ひらめいた、まったくの思いつきですが。>
>  クニとムラの違いには、土地への執着の差が、あるのではないでしょうか。

すばらしい!ひらめきですね。ヒラメキは神の啓示だそうですよ。
それで、思い出したのですが沖縄に琉球開闢神話の伝わる久高島という小さな島があります。
そこにはいまでも地割制度(土地共有制度)が生きているそうです。
おそらく日本ではここだけだろうということです。
稲作は無く、わずかな畑と漁業だけで戦前までは定期船も通わない独立した平和な島だったようです。
久高島は沖縄の人々からは神の島と呼ばれていて、特殊神事12年に一度の午年のイザイホーで知られていますが、神女になる有資格者が無いため今年も中止になったようです。

クニもムラも過去の遺物?になりつつあるのは寂しいですね。

[410] クニとムラ  BareHare 2002/11/07(Thu) 21:56 [Reply]
 今ひらめいた、まったくの思いつきですが。

>この窮地を脱却するには、買う・もらう・交換する・奪う・・・・

 食料その他の資源が乏しくなって来たら、最も単純な解決法は「(豊かな所へ)
移住する」ことではないでしょうか?。
 部族やムラが困窮した場合には、そろって移住してしまえば問題は解決します。

 クニとムラの違いには、土地への執着の差が、あるのではないでしょうか。

[409] 税を取るシステム  習志野のてつ [Mail] 2002/11/07(Thu) 21:12 [Reply]
安本美典さんは、「租税システムは、中国から伝わったシステム」だと
おっしゃっていました。余剰生産を多く生む稲作とセットで全国に普及
させていった、との説だと思います。 「非『稲作』でも、豊かな暮ら
しがある。もっと(中世における)海の交易(漁業を含む)による豊か
さを見直すべきだ。」と云うのが、網野さんの説だと思います。
三内丸山では、稲は無くても縄文ポシェットに見られるように、手間隙
かけた豊かな暮らしをしていたようです。「『豊かさ』とは何か?」と
なると、又別の話でしょうけれど。

[406] Re[405]: 祖、庸、調  玄松子 2002/11/05(Tue) 19:46 [Reply]
最初の疑問は、村と国の違いでしたね。

> 最初に国といえるものが登場したとき、国とみなすにはどういう条件がそろった場合か、というのと
> 後世(近世)に国として存在するにはなにが必要か、が入り混じっているようです。

「最初に国といえる」とある、「いえる」は現代の我々の観点ですから、古代の国も現代の我々の定義で良いのではないでしょうか。昔と今と、国の定義が違うというのなら別ですが、それは、別のテーマですよね。


> 最初の国の場合はまず食料生産に余剰が必要です。

で、話を戻して、
食料生産が必要なのは、村でも云える事ですね。「余剰」が必要条件でしょうか。
「余剰」しない国は、有り得ないのでしょうか。

また、食料と交換できる資源があれば良いのなら、必要条件は食料ではなくなりますね。さらに、水の無い国ならば、資源を水に交換する必要がありますし、燃料の無い国では、燃料を他国から獲得する必要があるので、食料に限定するよりも、人間が生活できることが条件となります。
これは、国や村という以前の大前提ですから、ことさら「国の条件」とは言えないのではないでしょうか。

> で、持論では租税の登場をもって国とみなす、としているわけです。
> (そうでない場合は部族連合、あるいは部族協調の段階、出雲はこの段階とみる)

「租税」というのは、いつから存在しているのでしょうか。
出雲民族が他国と交戦する場合の資金や食料は、自腹ではなく、国民から供出されていたと考えると、それも租税ではないでしょうか。

というか、租税の無い国ってありえないのかなぁ。

僕としては、以前にも書いたように、他の行政区分の一部ではない、独立した集団を国と呼ぶのですが。
まぁ、「国と村」の境に関して、素人がとやかく書いても、単なるイメージや概念論になってしまうので、不毛であり、青草ではありますね。

[405] Re[403][401]: 祖、庸、調  かたばみ [Mail] [Url] 2002/11/05(Tue) 19:03 [Reply]
なんかこんがらかってきたですね(^^;

最初に国といえるものが登場したとき、国とみなすにはどういう条件がそろった場合か、というのと
後世(近世)に国として存在するにはなにが必要か、が入り混じっているようです。

最初の国の場合はまず食料生産に余剰が必要です。
この余剰が交換物資になり、手工業や商業に変化し、ついには租税にもなってゆくわけです。

で、持論では租税の登場をもって国とみなす、としているわけです。
(そうでない場合は部族連合、あるいは部族協調の段階、出雲はこの段階とみる)

それを行うには法も必須、この法は「部族の掟」や祭祀の延長上にあるかもしれませんけれど、本質的に異なるものと思います。
(部族で異なる掟や祭祀を統合しなければならない、出雲はこの段階には達していたと推定)
(そのベースとなったのが海運者が先行して持っていたであろう暦や掟だった、と考えています)


後世での観光資源とか技術資源というのは従属的に派生した資源ですが、結局は食料に交換しているわけです。
潜水艦大和の話はこちらでの話になります。

潜水艦大和は食料に交換すべき資源を持っているのか?
それを持たないなら国とみなせない、ただし軍事力をその資源とするならそれも国かもしれない、ということです。

[404] 紀の国  神奈備 2002/11/05(Tue) 16:29 [Reply]
大国主命と少彦名命が行った「国作」は農地開拓のような行為に見えます。この場合の国とは農地そのもの。
『魏志倭人伝』や倭王武の上奏文には多くの国が出てきますが、イメージとしては郡程度のようですね。
「お国はどちらですか?」「和歌山です。」、都道府県を示しているようで、律令時代の頃に固まってきた概念ですね。
 
 国と云う限り統治機構はあったのでしょう。役割は代表者、呪術(鬼道や祭祀)、暦があれば、民人から徴税や動員が出来たのかも。

[403] Re[401]: 祖、庸、調  玄松子 2002/11/04(Mon) 19:19 [Reply]
> ちょっとまってください、一番大事なのは食料です(^^;

「国」が、人(民衆)の存在の上に成立することから、人が生きていくのに必要な食料や水が大事であることは確かです。
が、それは、国に限ったことではなく、人手による全ての事象に関係する大前提なので、次元の異なる話でしょう。

食料が「生産」できなくても、「獲得」できれば良いというのは、かたばみさんの言うとおりですね。
生産できなくても、天然資源や工業・観光で外貨が獲得できれば良いわけで、宗教でも可能でしょう。(バチカン市国って、そういうやつじゃなかったでしょうか)自給できなければNGなら、日本はNGですからね。

> 食料生産をしないで国を成立させるには軍事力で奪うほかはありません。
> ただし、石油資源など他者がほしがる交換資源がある場合は別です。
> 古来から交易ルートの要に商業都市国家が無数に成立しましたが、そのいくつが現存するか・・

石油もいつかは枯渇することが分かっていますね。国が存続する条件も、国の成立条件とはまた別の話だと思いますよ。

[401] Re[400][399]: 祖、庸、調  かたばみ [Mail] [Url] 2002/11/04(Mon) 17:33 [Reply]
ちょっとまってください、一番大事なのは食料です(^^;

食料生産に余剰がでてはじめて他のことが可能になります。
労働は食べたエネルギーの一部を別の形に変えただけです(物納も同じ)。

食料生産をしないで国を成立させるには軍事力で奪うほかはありません。
ただし、石油資源など他者がほしがる交換資源がある場合は別です。

技術力や商業力なども交換資源にできますが、これらは世界の微妙なバランス上で成り立つもの。
そのバランスが崩れれば食料と交換できなくなる=その国は消滅です。
古来から交易ルートの要に商業都市国家が無数に成立しましたが、そのいくつが現存するか・・


[400] Re[399]: 祖、庸、調  玄松子 2002/11/04(Mon) 14:02 [Reply]
> BareHare さん、はじめまして。よろしくお願いします。
> 貴兄の意見に賛成。
> >  ふと思うのですが、大和の乗組員の給与はどうなっていたのでしょう?。
> > (漫画の)大和の場合には、兵役と言うか、労働力の供出そのものが税で
> > あったと見て良いのでは?。
>
>   税のありよう。律令国家の税は、
> 祖 、庸 、調 とありますが、庸が、労力の提供でした。

大和の乗務員の給与が、自衛隊同様であったと考えると、徴用と考えるより、全員が国家公務員とみるべきでしょう。
国家公務員の労働が「租税」と考えると、給与から引かれているのは2重払いになってしまいます。
ということで、「給与から租税が引かれていた」と、思うのですが、どうでしょう。
ただし、それで国家が維持できるわけではないので、国として他国へ軍事力(防衛力)の賃貸で収益を得ていることになりますね。

[399] Re[396]: 祖、庸、調  習志野のてつ [Mail] 2002/11/04(Mon) 13:17 [Reply]
BareHare さん、はじめまして。よろしくお願いします。
貴兄の意見に賛成。
>  ふと思うのですが、大和の乗組員の給与はどうなっていたのでしょう?。
> (漫画の)大和の場合には、兵役と言うか、労働力の供出そのものが税で
> あったと見て良いのでは?。

  税のありよう。律令国家の税は、
祖 、庸 、調 とありますが、庸が、労力の提供でした。
年に10日働くのが原則ですが、一般的には布で代納しました。
成年男子は布2丈6尺(約8m)。
調は昔の読み方は「ミツキ」。貢物の「ミツギ」はこれから出た説もあります。
調神社(つきじんじゃ:武蔵国式内社)の名のいわれです。

役:(えだち)と云う税としての労役も、大化(律令国家)以前はあり、
江戸時代でも、道路普請などに、その近郷の百姓は駆り出されました。

英国海軍のギャングプレス(強制徴募:むりやり連行:拉致)は有名。
ひどいときは、結婚式の最中に、連れて行かれたことも有ったとか。
船から逃げ出すと、脱走兵とされ、原則死刑。ひどい話でした。でも
ほんの少しはサラリーをくれたし、敵国の艦を拿捕すると、懸賞金が貰
えました。ここでの税金は、やっぱり「労力」でしょう。

[398] Re[397]: 八丈岩山。  青人草 2002/11/03(Sun) 12:06 [Reply]
豆石さんの弟の光さん、こんにちは。神奈備の弟の青人草と言う者です。
春の八丈岩山には登ったのですが、秋の紅葉の山も見応えがあるでしょうね。頂上に高岳神社の旧地の石碑が建っています。麓には高岡神社。
高岳神社はなぜか遷座しています。現社地北側の蛤山は崩れかかっており、すざましい光景でした。防止工事をしているようですが、されで効果があるのかなと思わす程でした。頂上部の木を切りすぎたのでしょうか。

余談ですが、高岡と言う地名は神崎の里にも出ています。ここに奈具佐山と言う山が出てきます。現在の七種山ナグサ(681m)。神崎の里である福崎町に七種神社が鎮座、しちぐさじんじゃと呼ぶようですね。

[397] 八丈岩山。  豆石 光 2002/11/03(Sun) 09:59 [Reply]
はじめまして。よろしくお願い致します。
兄が、とっても皆様にお世話になりました。弟の、光です。

今日は、私たちの仲間の HASSIさんのH・Pの、ご紹介です。

「播磨国風土記−−−十四丘伝説の山々」 (その一:八丈岩山)(これから の様です。)
 http://www2u.biglobe.ne.jp/~HASSHI/hatizyoganzan.htm

ご覧下さいませ。

[396] 無題  BareHare 2002/11/03(Sun) 03:03 [Reply]
>「租税」に関しては、大和の乗務員(国民)に租税はあったのでしょうか。

 ふと思うのですが、大和の乗組員の給与はどうなっていたのでしょう?。

(漫画の)大和の場合には、兵役と言うか、労働力の供出そのものが税で
あったと見て良いのでは?。

[394] Re[393: 王朝とは  玄松子 2002/11/01(Fri) 07:06 [Reply]
> システム運営のための「租税」が存在し、共通の「掟」(法)が存在すること、これが「国」とみなせる必要条件だと考えています。

「租税」と「掟」ですか。なるほど。

以下は、無責任な青草話。
かわぐちかいじの「沈黙の艦隊」で、潜水艦大和が日本国からの独立を宣言し、国連も、これを「国」と認めましたね。
「掟」は、どのような集団であっても存在するので、置いておいて、「租税」に関しては、大和の乗務員(国民)に租税はあったのでしょうか。
漫画なので厳密な考証はなされていないかもしれませんが。
大和が「国」と認められた要件は何でしょうか。「租税」や行政システムではないのでは。


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