青草掲示板ログ平十五 三月
2003.1
多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。湯嶽神・菊嶽神の集い。
素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!
 青草掲示板

[760] Re[756][750]:綾部山39号墳  神奈備 2003/03/29(Sat) 09:09 [Reply]
 日本最古とされるホケノ山古墳と同時期で、構造も「石囲い(石塁壁)・竪穴式石榔・木棺」と似ている(ホケノ山古墳は「石囲い・木榔・木棺」)。
 これを、「ホケノ山の木槨を石槨に替えた形式。」と表現すると、いかにもヤマトからの影響と思ってしまいますが、どちらが先かはわかりませんね。
 また、特長の石囲いは、徳島や香川で発達したと考えられていますので、「阿讃播連合」?

 御津町は岩見、朝臣とか、面白そうな地名が見られますが、黒崎の基山が気にかかります。

[759] Re[755]: ヤマトタケル  神奈備 2003/03/28(Fri) 07:57 [Reply]
 今日、3月28日の日経新聞文化欄にヤマトタケルの東征コースを調査されている方(丸出大八郎氏)が投稿されています。克明に尊を祭神とする神社を中心に歩かれておられるようです。
君津市にはヤマトタケルの子孫もおられるとか、陸行と海沿いの二人のヤマトタケルがいたとか。

[758] ひみこ=ひほこ  菅原眞道 2003/03/27(Thu) 23:34 [Reply]
二日(か) 三日(か)と言うように、日は(か)と発音します。
姫路に神谷(こたに)と言う地名があり、神を(こ)と発音します。
          加古(かこ)=日神=氷上(ひかみ)
となるのではないでしょうか。

卑弥呼の時代は、中国の品物や中国人の考え方が、一番最高であると思っていたのではないでしょうか。
神谷の様に、三方が山に囲まれ、一方が小川に面している場所が、聖なる所であり
高貴な人が住むには、最適な場所である、という思想が中国人にはあります。
天蚕の別名は山(こ)です。
かいこの意味は、貝のように美しい光沢のある糸を吐く(こ)ではないでしょうか。
よって こ=蚕となるのでは。
神谷(こたに)の意味は、神に仕える蚕子(ひめこ)=卑弥呼のいる谷では。


[757] Re[756][750]:綾部山39号墳  神奈備 2003/03/27(Thu) 08:21 [Reply]
 交野市に森古墳群があります。私有地の山中で最近まで古墳であることすら気づかれなかったものです。小学生が土器の破片を拾ったことかの発見されたようです。その中の最古の古墳を鍋塚古墳とよびます。基底部は240m、確定はできていないようですが、弥生末期のものだとか。葺石には緑泥石片が使われており、これは紀の川か阿波の吉野川沿いに分布するもので、その地からやってきた長の墓かもしれません。
 交野は物部の地として有名で、後に秦氏、さらに百済王族、平安時代には遊興詩歌の地、また天の川が流れ七夕伝説や空海など歴史物語には多彩な興味津々の地です。
 また、有名な吉向窯があります。七代松月すなわち蕃斉先生は歴史に深い造詣をお持ちで、時々御高説を伺っております。
 http://www.kikkogama.co.jp/

[756] Re[750]:綾部山39号墳  豆石光 2003/03/25(Tue) 22:16 [Reply]

> 御津町でホケノ山古墳と並ぶような古墳が確認されたようですが、御津も松原と同じく神功皇后縁の土地ですね。

 阿波−讃岐−播磨;「阿讃播連合」が3世紀中頃、揖保川右岸の海辺にあった!と、言うこと。
出雲、吉備、大和、との交流より前?、同時期?。(権現山51号墳;3世紀後半)

アマテラス、卑弥呼、神功皇后、の関係が??? 

 海も、梅の木も、語らない。        イヨちゃ〜ん!おしえて〜。

[755] ヤマトタケル  勇者ロト [Mail] [Url] 2003/03/23(Sun) 16:44 [Reply]
日岡神社にも是非行ってみたいとと思いつつまだ行ったことがありません。

でも確か、播磨風土記にはヤマトタケルのことは載ってないんですよね?

下記は私のページのヤマトタケルと出雲神話についてです。

http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/kodaishi/yamatotakeru.shtml

[754] Re[753]: 桃太郎・ヤマトタケル。  豆石光 2003/03/23(Sun) 00:59 [Reply]

> そして、日岡神社には、景行天皇と伊那毘の大郎女との間に生まれた倭健の誕生地という、伝承があります。

日岡神社の南、約1kmの加古川市美乃利に、古くから伝わる「ヤマトタケルの産湯の盥」(竜山石製)が、存在するゆえ、事実!、マチガヒナシ!!?

日岡神社の主神;天伊佐佐比古命さま(稲日大郎女の叔父様)は、= 吉備津彦命(=桃太郎さま)(=彦五十狭芹彦命)のこと、と、噂されておりまする。

[753] ひみこ=ひほこ  菅原眞道 2003/03/22(Sat) 23:35 [Reply]
氷上(ひかみ)と言う地名の意味は、氷川(加古川)の上流部と言う意味だそうです。
しかし、日本で最も低い中央分水界(標高95.45m)が在る場所ですから、
氷は張りにくいのではないでしょうか。

加古川の下流東岸に日岡と言う地名があります。
これは、日川の側にある岡、という意味では。

そして、日岡神社には、景行天皇と伊那毘の大朗女との間に生まれた倭健の誕生地という、伝承があります。
これは、日川の下流→日下=日本=倭
からきているのではないでしょうか。
よって氷=日となるのでは。



[751] Re[747][745]: 山のカッパ。海のカッパ。  豆石光 2003/03/21(Fri) 23:07 [Reply]
>先の、「カッパ」の文は、太公望の「波平どん」(はまちどり)さんのものです。

波平どん、ありがとう御座いました。

「波平どん」−−−検索で出ます。カッパも、お魚も、満載です。
  さかな、さかな、さかな〜・・・

[750] KAGさん  勇者ロト [Mail] [Url] 2003/03/20(Thu) 11:36 [Reply]
そうだったのですか!!
ロムしていただいてたのですね。
機会がありましたら内の掲示板にも登場してくださいね!

喧嘩祭りといえば、松原八幡宮ですね。

御津町でホケノ山古墳と並ぶような古墳が確認されたようですが、御津も松原と同じく神功皇后縁の土地ですね。

[749] Re[745]: なんたって伊太祁曽神社  神奈備 2003/03/19(Wed) 21:45 [Reply]
> 『亥の杜』は禁足地なのですか?
丸い鎮守の杜で中に小さい祠が南向きで鎮座しております。社伝では垂仁天皇の時代に、日前国懸神宮鎮座地からまずここへ遷座して来たと言われています。
戦後すぐまでは今の倍の直径でしたが食糧難で畑にされてしまい、今は田になっています。

どなた様も参拝される予定が判りましたら、是非ご一報下さい。御案内ができない場合にはお伝えいたします。

[748] Re[746]: 穴師と妻鹿  豆石光 2003/03/19(Wed) 21:18 [Reply]

> 元は、妻鹿のけんか祭と呼ばれていたので、妻鹿祭が本当の名前ではないでしょうか。そして、穴師の人たちが祭を司っていたのでは

>菅原真道さまへ。
姫路・飾磨の・阿成の「早川神社」と、
[747]の「かっぱ」の文中の、
奈良の桜井市巻向駅の東の穴師の
穴師坐兵主神社との関係は・・・・??

今は、妻鹿と阿成との間に大きな「市川」がありますが、
太古には、今の「市川」は小川。「市川」の本流は今の「野田川」であろうと、妄想中です。

  

[747] Re[745]: 川のカッパ。海のカッパ。  豆石光 2003/03/19(Wed) 20:31 [Reply]
自然のままの湿地帯などでは、(洪水時でなくとも)その横断に成功率50%という土地があったかもしれません。突き進む前には、やはり神様に祈ったことでしょうね。
>
「人喰い沼」:見てみたい。行ってみたい。 でも、怖い。
http://homepage1.nifty.com/hamatidori/140820kappa.htm

[746] 穴師と妻鹿  菅原眞道 2003/03/19(Wed) 00:48 [Reply]
穴師の意味は、素晴らしい祭祀、神事を司ること、天下に他なし。
から来ているのではないでしょうか。
灘のけんか祭と言う、間抜けな名をつけた祭があります。
灘は他にもある、ありふれた名であるし、けんかをする事が,立派な事と思っているのでしょうか。
元は、妻鹿のけんか祭と呼ばれていたので、妻鹿祭が本当の名前ではないでしょうか。そして、穴師の人たちが祭を司っていたのでは
姫路の地名の由来は、姫路城の天守がある姫山の姫と、西の丸がある鷺山の、鷺の字の上部にある路からきているのでは。

姫路と妻鹿の距離と方向に、よく似た場所がもう一つあります。
鳥取県八頭郡八東町です
mapionで妻鹿を捜すと全国で鳥取県と兵庫県の二ヶ所だけ
姫路は全国で三ヶ所で鳥取県と兵庫県と大分県にあります
姫路と妻鹿  鳥取県は姫路と妻鹿野です
このような珍しい地名が、同じような距離と方向にあるのは偶然ではなく、特別な意味があるのではないでしょうか。




[745] なんたって桜小道!  KAG 2003/03/19(Wed) 00:22 [Reply]
>勇者ロトさま
こちらこそよろしくお願い致します。かなり前からのROM野郎です。きんたろうさんや大三元さん、ペギラさんのところへもよく覗きに行ってます。以前きんたろうさんの所では30000番のキリ番を頂きました。たまに姫路方面へもフラつきますので・・・ア、米がささやく。

神戸にある銅鐸の出土地に行ったことがありますが、平地からヒョイと仰ぎ見れる丘なのに、現地へ辿り着くには意外とナンギな処だったりしました。その場で思い浮かんだのは『埋葬?』のイメージです。(遺体ではなくて)魂の依り代となってきた祭器の、その役割の終焉があったのでしょうか。興味の尽きない出土品ですね。

>豆石さま
赤穂では関電発電所の一番高い所から睥睨してみました。ルール違反ですね。こりゃ鳥の目であって古代人の目にはなりませんです。m(__)m
半殺しの神さまの件は、添付の第四紀の地図を見て古代の地形への妄想が広がりました。治水の行われていない自然のままの湿地帯などでは、(洪水時でなくとも)その横断に成功率50%という土地があったかもしれません。突き進む前には、やはり神様に祈ったことでしょうね。

>神奈備さま
布留の神様には第二の布留里を頂きました。
恋川亭から南へ向って遥拝すれば、大阪湾を挟んで紀泉山脈の向こう側にご鎮座されているのが、伊太祁曽神社です。第三の古里にさせて頂けるかどうか、参拝の機会を作りたいです。先月の表紙の写真『亥の杜』は禁足地なのですか?
(クダカーは第0の古里になるかしら?予定はヒト月先ですが、それまで世界が平和でありますように。祈)

[744] 草=日=目  菅原眞道 2003/03/18(Tue) 22:59 [Reply]
       一日(ついたち) 二日(ふつか) 三日(みっか) 
と言うように、日を(か)と発音します。
貝(かい)は、目と八で作られています、目が(か)で八が(い)ではないでしょうか。
月は、真丸い物である、日が欠けた状態を表しているならば、(タ)の様な字になるはずが、目の底辺の一を取ったような字になっている。
日(たち)=太刀(たち)=(刀鍛冶の神 天目一命)に在る目
よって、日=目となり、目は(くさ)と発音し、目川となるのでは。
そして、なぜ目なのか、それは市川を挟んで東側にある妻鹿(目賀)の目から来ているのではないでしょうか。

[743] Re[742][739]: 県民のビーフン  勇者ロト 2003/03/18(Tue) 22:30 [Reply]
> 兄(豆石 煌さん)が、とっても皆様にお世話になりました。弟の、光です。
> Re:[735] > KAGさま、ご無沙汰いたしておりました。(ありゃ?僕は弟の方だったかなあ)
>
> ようわからんとこですね。

えっ豆石さんってお二人おられるのですか??(@_@)

下記アドレスは「銅鐸の謎」。お笑いです(^^ゞ

http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/kodaishi/doutaku.shtml

[742] Re[739]: 県民のビーフン  神奈備 2003/03/18(Tue) 20:52 [Reply]
> あ、ここは紀州様の御屋敷でしたね。
豆石さんは紀の国を第二の故郷として頂いており、第一の故郷とするもんからは感謝です。

Re:[397] (豆石 光さん)> はじめまして。よろしくお願い致します。
兄(豆石 煌さん)が、とっても皆様にお世話になりました。弟の、光です。
Re:[735] > KAGさま、ご無沙汰いたしておりました。(ありゃ?僕は弟の方だったかなあ)

ようわからんとこですね。

[741] Re[740]: KAGさんはじめまして  豆石光 2003/03/18(Tue) 00:42 [Reply]

> 神尾山といえば、比子神、比売神の話よりどうしても半殺しの荒神が思い起こされます。
> 下記アドレスは大三元さんのページですが、「荒ぶる神」を集めてアイヌ語で解いておられます。
> http://www.dai3gen.net//arajin.htm

勇者ロトさま、ご紹介ありがとうございます。
下戸の私は、「片栗」の「葛湯」を飲みながら、これを読みますと、頭の中まで「出雲」となりました。いや〜、元々だったかな〜・・・頭の中に雨が降る〜・・・

[740] KAGさんはじめまして  勇者ロト [Mail] [Url] 2003/03/17(Mon) 17:02 [Reply]
KAGさんも、兵庫県民なのですね(^^ゞ
播州ですか?私のことを知ってらっしゃるのですか???
私のページを見ていただいてありがとうございました(^^ゞ

兵庫県は確かに県民意識は他の県にくらべると薄そうです。

阪神間や山陰、丹波は遠い感じがします。方言も違いますしね。

縄文と弥生、区別は難しそうですね。

古墳時代の神様っていうのはどうなるんだろうとも思います。

明神という呼称は何時からはじまるんでしょうね?
江戸時代なんかは、明神だらけですが(^^ゞ

神尾山といえば、比子神、比売神の話よりどうしても半殺しの荒神が思い起こされます。
下記アドレスは大三元さんのページですが、「荒ぶる神」を集めてアイヌ語で解いておられます。
何かの参考にはならないでしょうか?>豆石さん。

http://www.dai3gen.net//arajin.htm

[739] 県民のビーフン  KAG 2003/03/16(Sun) 23:14 [Reply]
いえいえ豆石さん、ボクの方が弟です、昭和56年生まれですから。若輩者ですが宜しく。また播磨の詳しいご紹介をお願い致しますね。

ロトさんだ!『旅行記のページ』拝見しました。雨あがりのしっとりとした景色がいいですね。ウ〜ム、見ていると片雲の情に誘われて、そぞろ神が・・・イキタヒナ。

兵庫五国といわれまして、兵庫県は播磨、但馬、丹波、摂津、淡路の国々が含まれています。県民意識が乏しいとも言われたりします。でも、こうしてお話しできたり、訪ねていくと豊かな広がりを実感できてうれしくなります。あ、ここは紀州様の御屋敷でしたね。
(飲ン兵衛さんはこちらへ↓)
http://www.kobe-city.gr.jp/gokoku/

[738] Re[712][709] 白縫之楯と筑紫之綿  神奈備 2003/03/16(Sun) 08:56 [Reply]
> 神奈備様、ありがとうございました。最後の投稿です。
>
> キーワード:
>
>  「白日別」と「豊日別」
>  「白 受」と「豊 受」

> スサノオは 白日、白受に似ています。
> 素盞は シラウキです。または、シラキです。

李 南準さんが最後の投稿と言うことで、もうご覧になっていないかも知れませんが、一言。
紀伊中部の海岸に千田と言う所があります。千田の宮、式内大社の須佐神社です。松前健先生は素盞嗚尊の原郷と言われた神社です。
折口信夫著『琉球の宗教』によりますと、琉球の神で「おちだがなし」略して「ちだ」と言うそうです。太陽神で、笠の蔭に現れるとされています。

 素盞嗚尊が高天原を追われる時に蓑笠をかぶっていました。千田の宮が素盞嗚尊のルーツであるのは、遥か琉球から、黒潮にのって伝わったのかも知れない。

沖縄の白保の村はあり、波照間島を遙拝するそうです。
http://www.cosmos.ne.jp/~ogura/shiraho/
今は「しらほ」と訓むのですが、かっては「スサブ」と訓んでいたようです。『琉球の宗教』

> スサノオは 白日、白受に似ています。
沖縄を介在して、これはこれはと思っています。
どなたか沖縄へ神様探しに行かれる方には是非石垣島にお立ち寄り下さい。

[737] 西播磨人  勇者ロト [Mail] [Url] 2003/03/15(Sat) 13:10 [Reply]
西播磨の話題が満載ですね。吃驚しました(^^ゞ

[736] 穴=阿  菅原眞道 2003/03/15(Sat) 00:39 [Reply]
早川神社(本当は草川で脱字、東側を流れる市川は、元は支流なので水量も少なく今の淀んだ状態よりも、もっと川の流れは遅かったので、早川ではない
東隣りの妻鹿や松原は、神社などに使われる優秀な釘を作っていた、
現在の早川神社の南側では、鎖を作っている工場がある。
出雲に製鉄技術を伝えた、千種のくさと同じでは)

早川神社の在る地名は、現在、阿成ですが、昔は穴師でした。
地名は一つだけではなく、複数の呼び方が有ったのではないでしょうか。
例えば、姫路沖に在る上島は、神島、丸島など7 8個の別名が有ります。

穴師が阿成に変わったのではなく、両方とも地名として、使用されていたのではないでしょうか。
             阿曽女=穴穂部間人
              鬼妻=鬼前
隋書倭国伝に阿毎とある人物は、阿=穴ですから、穴穂部間人の子、聖徳太子ではないでしょうか。
毎は 、め、ま と読みますから 目 と同じなのでは。
目一筒の鬼の目であり、現れた場所の、阿用の阿も、鬼との関係からきているのではないでしょうか。

[735] Re[734]: 神様の時代。頭の中まで霞みが棚引いて  豆石光 2003/03/14(Fri) 20:25 [Reply]
神奈備さま、ありがとう御座います。
 卑弥呼−−−100分の1。ナルホド、納得です。

KAGさま、ご無沙汰いたしておりました。(ありゃ?僕は弟の方だったかなあ)
> 瀬戸内海は少し小高い処に登れば対岸が見えるのですから。真冬でも瀬戸内はほんとうに穏やかな風景でした。もう少しして桜も開き暖かくなると、のたりのたりと春の海を満喫できますね。
 穏やかな家島群島はヨク見えますが、対岸の四国はめったに見えません。家島の位置は瀬戸内海の、わずか5分の1のところ。だから「地乗り・沖乗り航路」。家島の南方は荒い大海原ではないでしょうか?

> 雄鷹台山が、この地の神奈備山のような印象を覚えました。絶妙な対置関係を感じたのです。
 存じませんでした。今後、探訪してみたくなりました。

> 須賀神社が圧倒的多数、山陰地方との繋がりの強さなのでしょうか。
吉備と出雲。おもしろそうですね。

> 太子町・龍野市のレポートもワクワク拝読いたしましたヨ。
ありがとうございます。
「女明神 男明神」:ヨク分かりませんが、縄文か?弥生か?で、悩んでいます。否!天然の岩か?(検索で出るようになりました。おかげさまで。)

[734] 頭の中まで霞みが棚引いて  KAG 2003/03/14(Fri) 01:18 [Reply]
豆石さん、ご無沙汰致しました。
昨年末に所用で赤穂御崎に立寄り、家島群島の淡々とした島影を眺めてきました。豆石さんの一連のご投稿を思いだしながら、地図と見比べて一つずつ島の名前や位置を確認できました。極端ですが、瀬戸内海は海というより大河のイメージですね。少し小高い処に登れば対岸が見えるのですから。真冬でも瀬戸内はほんとうに穏やかな風景でした。もう少しして桜も開き暖かくなると、のたりのたりと春の海を満喫できますね。
赤穂御崎では時間の都合で伊和比売神社に参拝できませんでしたが、どんな神社だろうかと、今でも少し気にかかっています。次回は(温泉も目当てに含めて)参拝したく思います。

赤穂城跡の大石神社。古社とは言えませんが、雰囲気がよく風格がありました。参拝者の崇敬が大切なんですね。
神社(城)の北北東に見えた雄鷹台山が、この地の神奈備山のような印象を覚えました。絶妙な対置関係を感じたのです。
この赤穂城跡から雄鷹台山への直線を延長して山頂の向こう側、対称なところに木津の大避神社がありますね。また、雄鷹台山頂の東には千種川を挟んで坂越の大避神社が鎮座しています。(ただ、山を望んで漠然とオオと感じいっただけです。)
しかし以下の神社には当てはまらず、何の説得力もありません。
中山の大避神社。西有年の大避神社。上郡町岩木乙の大避神社。相生市若狭野町福井の大避神社。・・・大避神社もたくさんあるのですねー。
実際には大避神社よりも須賀神社が圧倒的多数、おびただしく分布しているのが西播磨の面白いところで、山陰地方との繋がりの強さなのでしょうか。

太子町のレポートもワクワク拝読いたしましたヨ。原・姫路平野の広大な湿地帯を灌漑して土地改良していった古代の土木事業団の存在を妄想できました。

[733] Re[732][729][728][714]: 神様の時代。  神奈備 2003/03/13(Thu) 22:21 [Reply]
> 神様の時代は、弥生時代と考えても、良いのでしょうか?
> 縄文時代の頃の神様って、いらっしゃいませんか?

文献で縄文時代のことが残っているのは大陸にいささかあるようですが、倭人とは列島に住んでいた民かどうかと云ったところに疑問点があるレベルです。
文献では徐福、縄文、弥生の間ですから、微妙な所。
土偶などは縄文の神のようで、どのような名で祀られているものなもか、アラハバキ等か。
磐座は焼き畑で浮かび上がってきた神の依り代との説もあるようです。

> 考証も裏付けも無い駄洒落遊び
に近いところに若干のそれらしいのを入れてみました。
卑弥呼は列島の歴史の一地域の一時期のお話で、他には記録されていない故に、天照大神にされたり、丹生都姫にされたり、お忙しいのですが、列島にはそれらしい国が10あって、それらしい時期が10あって、となるでしょうが、卑弥呼は1/100の存在と考えています。

草野姫、大山祇、古い神を人格神としたようにも思えますね。

[732] Re[729][728][714]: 神様の時代。  豆石光 2003/03/13(Thu) 21:33 [Reply]

> 紀ノ川を上流に行きますと、那賀郡、伊都郡と並びます。卑弥呼は勿論丹生都姫です。
> 朱を献上するのには良い立地です。
>
> 播磨では卑弥呼に当たる姫神は賛用都比売命あたりかな。伊和大神妹背二柱の神がおのおの先を争って国を占められた妹神。
> または安師比売神。伊和大神をそでにした。
 
 以上の、神様の時代は、弥生時代と考えても、良いのでしょうか?
縄文時代の頃の神様って、いらっしゃいませんか?
 また、妙な?基本的な?愚問で、スミマセン。

[731] Re[730]: 阿曽女  玄松子 2003/03/13(Thu) 02:18 [Reply]
「・・・なのでは。」という書き方は、賛同や反論を期待しているのでしょうか。
そろそろ「最後まで」とおっしゃった結論や目的を明かしてもらえないでしょうか。


> 吉備=(キビしい)厳(いつ)伊都=(いつ)五(ご)(五つ木瓜、広峰神社の神紋)=牛(ご)で、牛頭天王となるのでは。

なんの考証も裏付けも無い駄洒落遊びを続けているようにしか見えないのですが。
このまま、「マホメットも姫路出身」まで行くのなら、それはそれで面白いと思いますが。

[730] 阿曽女  菅原眞道 2003/03/13(Thu) 01:01 [Reply]
吉備津神社では、難しい占いをするときは、阿曽女にやらせるとか。
この阿曽は、某有名な作家は九州の阿蘇と関係があるのでは、と書いていましたが、この阿曽は、姫路平野の穴穂部間人が居たと思われる、山戸の近くに在る、阿曽ではないでしょうか。

吉備=(キビしい)厳(いつ)伊都=(いつ)五(ご)(五つ木瓜、広峰神社の神紋)=牛(ご)で、牛頭天王となるのでは。

温羅(吉備津彦)=鬼=牛頭天王

広峰神社 大別当七代 勝賀のとき、男子が無く、阿曽氏の一族広瀬三郎を婿としたとあります
この阿曽氏は、山戸の近くの阿曽にいた一族で、やはり神事に関係する人たちではないでしょうか。

[729] Re[728][714]: 続  神奈備 2003/03/12(Wed) 21:38 [Reply]
> お久しぶりです。戻ってまいりました。また、よろしくお願い致します。

豆石光さん、こんばんは。
駅弁邪馬台国と云う言葉がありましたが、場所が確定できていない現状では、どこにでも可能性はあるとも言えます。
和歌山にもありました。
紀ノ川を上流に行きますと、那賀郡、伊都郡と並びます。卑弥呼は勿論丹生都姫です。
朱を献上するのには良い立地です。

播磨では卑弥呼に当たる姫神は賛用都比売命あたりかな。伊和大神妹背二柱の神がおのおの先を争って国を占められた妹神。
または安師比売神。伊和大神をそでにした。
日槍との争いは倭国乱る。

[728] Re[714]: 続  豆石光 2003/03/11(Tue) 22:45 [Reply]
お久しぶりです。戻ってまいりました。また、よろしくお願い致します。姫路出身、兵庫県の吉備(赤穂市の西部)の住人、豆石光です。

菅原真道さま。
> 姫路平野に、姫子(児)=卑弥呼の倭国が在ったとすれば(畿内説も)関門海峡を死守する必要があるのではないでしょうか
そうですね。
> 九州の糸島郡説には、重要な任務を行う伊都国が、なぜ、そこに在る必要があるのかが、説明出来ないのではないのでは。
必要はないでしょうが、十分でしょうね。(パナマはUSAの首都にはなりませんよね。)

>姫路平野の赤穂??  近いですが文化圏は異なるようにも思います。まあ、イイか。
>姫路平野の山戸。   JR網干の東(瓢塚古墳)ですね。(網干付近=揖保川流域は、古代に発展していたとは思います。)

その他いろいろ、合わす事が出来るものですね。

[727] 生(ウ)マヤト  菅原眞道 2003/03/10(Mon) 23:47 [Reply]
厩戸の意味は、馬屋の戸に当たって太子を産んだ。
しかし、当時の馬屋には、戸が無かったので、この説も後世の推測では。
天皇暗殺、外国との戦争、殺伐とした世の中で、母、穴穂部間人皇后は一番安全な場所で太子を産みたいと、願うのではないでしょうか

その場所は、実家が在る姫路平野の山戸(ヤマト)では。
生(ウ)まれは(ヤマト)のヤマを入れ替えて、マヤとしたのではないでしょうか



[726] Re[725][722]: 眉唾掲示板  神奈備 2003/03/10(Mon) 15:38 [Reply]
眉唾掲示板の命名者はZOUさんです。氏の写真掲示板でのお話です。http://www1.kcn.ne.jp/~rascals/cgi-bin/albumbbs/albumbbs.cgi

習志野のてつさん、サジェッションありがとうございます。
[眉唾]
最古の秦氏として秦徐福の後裔が考えられます。弥生時代の引き金となったグループかも。弥生秦氏とします。南紀で三毛入野命は常世郷に往でていますが、弥生秦氏に滅ぼされたのかも。
弥生秦氏は金属とくに銅器の使用を持ち込み、それが彼らの誇りであったのでしょう。畿内では銅鐸を祭祀して祖先の偉業を誇り、忘れなかった。
高尾張邑(ある本では葛城邑)には赤銅八十梟帥がいました。彼らは弥生秦氏かも。後に濃尾の尾張に移住しています。さすれば尾張氏は秦氏と同根だったとは言えないでしょうか。
 また尾張氏と同じ祖神の火明命をまつる海部氏の籠神社の北側の伊根半島にも秦徐福渡来伝説が濃厚にあります。どうやら尾張ー海部ー秦、つながったようです。この線から賀茂氏も秦氏とつながりそうですね。籠神社の極秘伝には祭神が賀茂別雷神とも異名同神ともあり、山城國の秦氏と賀茂氏の親密さもそのような関係があったのかも。

[725] Re[722]: 眉唾掲示板  習志野のてつ [Mail] 2003/03/10(Mon) 11:37 [Reply]
> …日本武尊の…お供衆に秦氏らしい名前はなさそうです。
[眉唾]
 渡来系秦氏が活躍を始めるには、蘇我氏が力を持つ頃からです。
 日本武尊と蘇我氏は、伝承では関係が有りますが、仲良くはない。
 もし良ければ、蘇我の姫は日本武尊の後を追いかけたはずです。
   神奈備神名帳・下総の国、蘇賀比メ神社
   http://www.kamnavi.net/en/simofusa.htm
 
 [青草]
> 熱田と秦氏、どう繋がるんでしょうかね。
 蘇我氏が滅亡した後、秦氏は隠然たる経済力を持ちます。
 一方尾張氏は天武を支持し圧倒的軍事力を見せます。

 尾張氏の軍事力と秦氏の経済力、
 今でも政治家の息子と金持ちの娘、又はその逆など、
 力のあるものどうし、結びつき易い。但し繋がるのは、
 日本武尊よりも大分後の時代ではないでしょうか?

[724] Re[722]: 眉唾掲示板に名前を変えるかいな  ZOU [Mail] 2003/03/10(Mon) 01:15 [Reply]
怪しい話が好きな私が投稿したくなるタイトルですね(^_^;)
春分の日以降に三輪の話など一席。

[723] 聖徳太子の墓  菅原眞道 2003/03/10(Mon) 00:17 [Reply]
昔、「東アジアの古代文化」と言う雑誌の中に、聖徳太子の死後100年?位後の書物に、太子の墓がどこに在るのか、わからなくなってしまった。
と曖昧な記憶ですみませんが、書かれていたとおもいます。
叡福寺の太子の墓も、時代が新しく、確定的ではないと言う説が、出てきたようです。
本名、本籍を秘密にしている人が、墓の在る場所を公開するでしょうか。
赤穂に秦河勝が、うつほ船に乗ってやって来た。
と言う、伝説がありますが、うつほ船とは何と言う船なのでしょうか
うつほを調べてみると,空勘文(うつぼかんもん)と言うのが、ありました。
うつほ=空ではないでしょうか
体から魂が抜け出し、から(空)になった遺体を乗せた船、喪船となるのでは。
秦河勝が、と書かれていますから、河勝は生きていたのではないでしょうか。
そして、生島を立ち入り厳禁にするほどの高貴な人物は、河勝ではなく、聖徳太子ではないでしょうか。
            生(しょう)=聖(しょう)
と、なるのではないでしょうか
素人丸出しの愚説で申し訳ありません

[722] 眉唾掲示板に名前を変えるかいな  神奈備 2003/03/09(Sun) 08:27 [Reply]
河内には熱田神社が二座鎮座。
寝屋川市秦字神楽田 
松原市別所町
寝屋川の熱田神社のお旅所は秦河勝の墓との伝承もあるようです。熱田神社と秦氏とは何らかのつながりがあったと推測しております。
松原市の熱田神社の由緒は全くわかりません。神社の石碑にも日本武尊のことが書いてあるのみ。かろうじて東隣の羽曳野市に白鳥陵古墳がある程度。松原熱田神社の西800mに屯倉神社が鎮座、土師氏のにおいの強い所ですが、溜め池が多くあり土木工事が相当なされた地域、また三宅の名から秦氏の痕跡を探していますが、調査不足もあり明確には出てきません。
尾張氏と秦氏、秦氏が住んでいたとされる河内国安宿郡に尾張郷がありますが、ここもそれ以上の事は未調査。
昨日は日本武尊のストーリィを見ていたのですが、お供衆に秦氏らしい名前はなさそうです。
熱田と秦氏、どう繋がるんでしょうかね。

[721] 馬鹿馬鹿しさに  習志野のてつ [Mail] 2003/03/09(Sun) 05:36 [Reply]
昔無差別に濫読をしていたとき、銅鐸についての本がありました。その中で銅鐸の絵について、
『鹿を射る絵は「入鹿」、高床式の家の絵は「高御倉」(天皇に即位する時の座)を意味する。
つまり銅鐸の絵は蘇我入鹿が天皇に即位したことを示す』と記載されていました。
どこをどう見ても冗談で書いているとは思えない記述です。余りの馬鹿馬鹿しさに、
しばし声を失ってしまいました。   まったくあほくさい。

[720]  菅原眞道 2003/03/08(Sat) 00:45 [Reply]
大生部多を秦河勝が成敗した事件がありました。
これは、飛鳥時代の豊田商事のような事件だったのではないでしょうか。
聖徳太子や秦氏にとって、生という文字は神聖なものであり、生を騙る者は、絶対に許すことが出来なかったのでは。

生を 牛 と 一 に分解すれば意味が見えてきます

牛→牛頭→姫路の広峰神社の牛頭天王であり、牛頭、馬頭の牛頭鬼
聖徳太子のお母さんは、鬼前大后で姫路平野の人

聖徳太子のお爺さん?は、稲目
弟は来目、腹違いの弟?は田目、夢殿の夢は,播磨国風土記では射目
そして、徳の字にある目
よって、一と言う文字は、姫路平野いた目一つ命、すなわち、阿用に現れた、目一筒の鬼?の一と関係があり、やはり鬼

生は姫路平野に関係があり、姫路平野は鬼の国とも言えるのでは

[719] 生の国  菅原眞道 2003/03/07(Fri) 00:09 [Reply]
              伊支馬 → 生目(いきめ)(いきま)
              一支率 → 生曾(いきそ)
姫路平野の赤穂には、生島(いきしま)が在ります。
この島は、瓢箪の形をしていると言われていますが、生糸の生ですから、日本種の繭です。一般的な形ではなく、真ん中がくびれています。

[718] 伊都国の王の名は一支率  菅原眞道 2003/03/05(Wed) 23:20 [Reply]
           一大国 → 一支国
           一大率 → 一支率

今有る魏志倭人伝は、南宋の時代に、木版印刷で大量生産されたものでは?
朝から晩まで、木を彫っている人は、今でいう公務員ではないでしょうか。
真面目、不真面目に関係なく、貰える給料同じ、それなら手を抜こうとする人が現れるのでは。
手書きの場合、大も支も、そんなに手間は変わらないですが、彫るという事になった場合は、直線数は、大が13、支は22で、手間が増えてしまいます。

支を大に変え、手抜きをする理由
(1)一番簡単に彫れる一の後は、支よりも簡単な大で、済ましてしまおうとしたのでは
(2)一支が2個あるのを見つけて、2個も有るのか、もうやってられない、
と考えたのでは

[716] Re[715][713]: 稚日女尊  神奈備 2003/03/04(Tue) 08:16 [Reply]
> > 稚日女尊〔ワカヒルメ〕は、大日女〔オオヒルメ〕尊(天照大神)の妹とされます。

『先代旧事本紀』の神代本紀に
一説織女・・稚日姫尊者天照太神之妹也
とあります。

[715] Re[713]: 稚日女尊  玄松子 2003/03/04(Tue) 05:45 [Reply]
> 稚日女尊〔ワカヒルメ〕は、大日女〔オオヒルメ〕尊(天照大神)の妹とされます。

確かに、そのような説は見たことがありますが、
これ、どの書に書かれています?探したけど見当たりませんでした。
古事記や日本書紀にはなかったような。

[714]  菅原眞道 2003/03/04(Tue) 00:13 [Reply]
この、パターンを、日本に当てはめてみると、南米やアフリカが九州で、スエズ、パナマ運河が関門海峡となります。
自説である、姫路平野に、姫子(児)=卑弥呼の倭国が在ったとすれば(畿内説も)関門海峡の制海権を奪われた場合、中国と交流する時は、九州の南端を回るコースを取らなければならず、太平洋の荒波や、流れに乗ってしまうと、二度と戻って来れない黒潮が、待ちうけている。
この危険コースを避ける為に、関門海峡を死守する必要があるのではないでしょうか
九州の糸島郡説には、重要な任務を行う伊都国が、なぜ、そこに在る必要があるのかが、説明出来ないのではないのでは。

[713] 稚日女尊  習志野のてつ [Mail] 2003/03/03(Mon) 21:21 [Reply]
稚日女尊〔ワカヒルメ〕は、大日女〔オオヒルメ〕尊(天照大神)の妹とされます。
三貴子は、イザナミの影響を受けて生まれました。でもこれで生み終えたはずです。
では、稚日女尊は何故妹なのか?妹であれば、時間的には後から生まれたはずです。
禊〔ミソギ〕つまり裸になって全て洗い落としたはずなので、
少なくとも伊弉諾〔イザナギ〕尊と伊奘冉〔イザナミ〕尊の御子ではない。

そこで色々考えた末、一つの見方が出ました。『異母妹』です。
異母妹ならば考えられる。だとしたら、お母さんはどなたなのだろう??

伊弉諾尊のおかくれの地は、古事記で淡海の多賀、日本書紀で淡路之洲
神戸に坐のは、「父の伊弉諾尊の近くに」とのご意向でしょうか。

なお、生田神社では天照皇大神の御幼名とも伝えています。
また更に…うつぼ船で唐から流れ着いたに七歳の少女…母を大比留女…とも。
神奈備・生田神社は http://www.kamnavi.net/ny/ikuta.htm

[712] Re[709] 白縫之楯と筑紫之綿  李 南準 2003/03/03(Mon) 01:51 [Reply]
神奈備様、ありがとうございました。最後の投稿です。

キーワード:

 「白日別」と「豊日別」
 「白 受」と「豊 受」

もし、白日別と五十猛が親子なら...
白日別=スサノオ、ということになります。

スサノオは 白日、白受に似ています。えっ、どこが!?

スサを、素盞と打ち込む人が多い。正確には、サは 盞の皿がありません。
でも、このまま、訓読みすると、素盞は シラウキです。または、シラキです。

では、さようなら。


[711]  菅原眞道 2003/03/02(Sun) 23:05 [Reply]
すいません、神奈備さん、忘れていました。
都=女、子供、老人、多くの職人がいる場所ではありません。
三省堂 新漢和中辞典より
首府。国の主権者のいるところ。
        
         伊都都         魏志倭人伝
   伊都族の王のいるところ = 伊都国には代々王がいる
   場所は彦島です

伊都国は、関門海峡を守る為に、海峡を挟んで、九州側と本州側にあります
少し、話が飛びます
アメリカは、パナマ運河を守るために、軍隊を派遣し、イギリスも、スエズ運河に軍隊を派遣していました。
もし,敵側に奪われた場合、南米やアフリカの最南端を、回らなければならず、時間
のロスが多くなり、特に戦争時には、重大な障害が生じるのではないでしょうか
すいません、強制終了が怖いので終わりにさせていっただきます

[710] Re[708]: 丹生と竃  神奈備 2003/03/02(Sun) 18:54 [Reply]
> >丹生酒殿神社の本殿の裏にも木一本だけの竈神社
> これは竃神社ではなく、鎌八幡宮です。

なにがしさん、お久しぶりです。ご指摘ありがとうございます。

偽書っぽい「ほつまつたえ」に丹生都比賣の名が出てきます。
心 悪 し き 子 を 生 み 置 き て 来 ぬ と 告 り た ま イ て 帰 り ま し て 更 に 御 子 を 生 み た ま ウ [ 御 名 ハ 水 放 姫 の 神 次 丹 生 津 姫 の 神 次 に 天 之 吉 葛 の 神 次 に 国 之 吉 葛 の 神 次 に 川 那 芸 の 神 次 に 川 那 美 の 神 ] 】
です。

[709] Re[704]: 神奈備様への質問  神奈備 2003/03/02(Sun) 18:50 [Reply]
李 南準さん> 白日別と五十猛は同一神なのでしょうか。
> 白日別と五十猛が並んで祭られている神社はありませんか。

『平成データ』によりますと筑紫神社がそうですね。
白日別とは『古事記』の国生みで筑紫の国を生み、これを白日別と云うとありますから、筑紫の国魂と云うことです。神社の名前もそれを示しているようです。
 何故、筑紫を白日別と命名したのかがポイントです。半島では光、明、日を表す漢字に「白」を使うようで、その伝承が『古事記』に反映したのかも知れません。

 宇佐八幡宮の祭祀にかかわった辛嶋氏の「辛嶋勝姓系図」によれば、辛嶋氏は素盞嗚尊を祖とし、その子五十猛命を奉戴し、新羅を経由し筑前國筑紫神社に五十猛命を祀り、次に香春岳で新羅の神を祀り、さらに宇佐郡に入ったとあります。
 
 渡来系の人々が筑紫に到来し、国作りを行ったと考えますと、例えば辛嶋氏の祀った神は五十猛命であったと云うことです。

> 白日別と五十猛が親子ということは考えられませんか。
 筑紫で、独自に国魂として五十猛命が構想されたなら、御子神と言えるかも知れませんね。

菅原眞道さん> 諸先輩のみなさん、大変失礼で生意気な事ですが、間抜けな男が、勝手な事を一人で喋っているとお思いになって、末慮国、伊都国について、最後まで書かせてください。お願いします

かまいませんが、掲示板は質疑応答の場でもあります。タイトルはつけられたほうがいいと思いますよ。

[708] 丹生と竃  なにがし 2003/03/02(Sun) 16:38 [Reply]
神奈備様

>丹生酒殿神社の本殿の裏にも木一本だけの竈神社
これは竃神社ではなく、鎌八幡宮です。神奈備様言われるように近所に竃門神社があります。丹生氏が神主に昇進するときにここで儀式を行います。


[707] 無題  菅原眞道 2003/03/01(Sat) 23:00 [Reply]
習志野のてつさん、玄松子さん、神奈備さん。
諸先輩のみなさん、大変失礼で生意気な事ですが、間抜けな男が、勝手な事を一人で喋っているとお思いになって、末慮国、伊都国について、最後まで書かせてください。お願いします

[706] Re[702]: ご参考  習志野のてつ [Mail] 2003/03/01(Sat) 21:18 [Reply]
> 水については、何も考えていませんでした。すいません
 「水」ではないのですが。「伊都」について。発想は面白いと思います。 

対馬島 705平方キロ 昭和30年代のピーク14万人 平成12年国勢調査41,230人
壱岐島 138平方キロ 昭和30年代のピーク 5万人 平成12年国勢調査33,538人
彦島  11平方キロ     ピーク?4.3万人? 平成12年国勢調査33,493人

對海(対馬)方400里 千余戸
一大(壱岐)方300里 三千許家
伊都    ?     千余戸
人口では何とかなりそうです。

但し決定的にまずいのは、末廬國から「東南陸行五百里」
つまり末廬國から陸続きでなければ伊都國にならない。
対馬の大きさ(方400里)でも無理なんです。
離島だったらもっと大きくないとムズです。…せめて九州島程度。

[705] Re[702]: 無題  玄松子 2003/03/01(Sat) 13:04 [Reply]
> 彦島は、水の豊かな島と言えるでは、

http://www2.tip.ne.jp/~nakani00/history/history-01/spe2_2.htm
こちらを参照してください。
古代の水位や、海岸線を考える必要があり、
「工場の水」という発想は、時代があまりにも違いすぎます。

[704] 神奈備様への質問  李 南準 2003/03/01(Sat) 05:34 [Reply]
(684 ありがとうございます)

白日別と五十猛は同一神なのでしょうか。
白日別と五十猛が並んで祭られている神社はありませんか。
自分で調べても何だかよく分からないのです。

白日別と五十猛が親子ということは考えられませんか。

もし、二神が親子なら...
五十猛=倭武、とすると、勿論、厳密には「i」と「wi」では違いますが、
白日別=景行、ということになります。

景行の和風名は白日別に似ていませんか。

日本書紀の九州関係の記事(4世紀)は、3世紀というか、神代の匂いがします。

[703] Re[701][696][694] [695]  日雲 2003/03/01(Sat) 02:52 [Reply]
ただ今戻りました。真に失礼致しました。並びに、御返信ありがとうございます。

> 荒っぽい印象ですが、明るくキラキラした紀の国に天白信仰はあまり似合わないような気がしますね。
ふーむ……しかし、江戸末期まで、実際に伊勢でそう歌われ続けていたようなのです。
これは一体どういうことなのか……何かの痕跡くらいあっても良さそうなものですが。

>(2)北辰妙見神社 
>(3)丹生都比賣神社と竈神は密接です。
とりあえず、この辺りから徐々に探っていってみるしかない、のでしょうね。

>丹生都比売命は粉河郷の祖神として祭られているようです。
秩父の丹党中村氏の場合などは、当然ながら丹生神社を祀っておりましたため、長らくそれが彼らの氏神だったと信じられていたようですが、その末裔宅の屋敷神や、屋敷跡にある神社などを調べると、大概諏訪神社があったために、こっちが彼らの「いわゆる氏神」だったのではないか、という説を出した郷土史家さんなんかもおられました。
>この丹生都比賣は丹沙の産地に多く祭られている女神ですが、赤の呪術を持ち込んだ秦氏は丹沙から水銀を取り出す能力があったとされています。
これは要するに、丹沙を取って精製することを生業としていたから、丹生都比賣を祀っていた訳ですよね?
とすると、和歌山の丹生関係、彼ら本来の血族的な意味での祖は如何なる者達であったのか……?

>その秦氏が持ち込んだ神に竈神がいると云われます。精錬に要したのでしょう。
竈神、ルーツ的に一本化できるものなのでしょうか……?
それが出来る/出来ないを明確にする方法があるのかどうか……?

も、もう……ギブアップしたくなっちゃいますね(;==

[702] 無題  菅原眞道 2003/03/01(Sat) 00:53 [Reply]
わー鋭い質問です。玄松子さん
水については、何も考えていませんでした。すいません
必死になって探しました。
日子の島<山口県下関市彦島>彦島大橋と言う、ホームページに
(彦島あれこれ<富田義弘>)によると、このトンネルの出口には、かつては、泉があり、この水を利用して、清涼飲料水や豆腐の工場があったそうです
この、二つの工場は大量の水を使うのではないでしょうか
彦島は、水の豊かな島と言えるでは、
強制終了が怖ーい
水に関しては、これでゆるしてください

[701] Re[696][694] [695]  神奈備 2003/02/28(Fri) 22:29 [Reply]
> 高野・粉河界隈に「天白っぽいもの」、何かお心当たり御座いますでしょうか……?

「天白っぽいもの」、星っぽいとか、竈っぽいとか、瀬織津っぽい、風水っぽい、と云う事でしょうか。
要は怪しげで謎っぽい神様のお話。

(1)『山海経』第十七 大荒北経に胡不譽国が出てきます。以下、日本探検家協会の高橋さんの書かれたコメントから。
 超古代の地球規模の大洪水以前に「胡不譽国」という国が和泉葛城山の麓、和泉市父鬼(ふき)から和歌山県粉河町へ向かう中津川の丹生津比売神社の付近にあったそうです。
 この父鬼の地が高野山東の富貴の地に地名移転を行ったし、そこの丹生神社は中津川の丹生津比売神社が元社だという説です。
 また、高野山の名も、葛城山の古名の高陽山(高陽という王様がいた)の名から付けられたとしています。 以上は高橋さん。

 さて、和泉市には父鬼の他に九鬼の地名があります。高野山の東側には富貴と云う所があり、丹生都比賣神社のルーツともされます。また中津川には役行者の先駆けの前鬼後鬼の子孫が住み着いたとの伝承もあります。これは別にして、中津川の丹生津比売神社とは、那賀郡粉河町大字中津川の熊野神社が鎮座,祭神に丹生都比売命の名が見えるので、後裔社と思われます、丹生都比売命は粉河郷の祖神として祭られているようです。

(2)北辰妙見神社 伊都郡かつらぎ町滝 が鎮座、創建時期は不詳。白鳳時代の弥勒菩薩像が社宝としてあるようです。星辰信仰は秦氏と大きくかかわっているとも聞きます。

(3)丹生都比賣神社と竈神は密接です。丹生酒殿神社の本殿の裏にも木一本だけの竈神社。近所にもあります。この丹生都比賣は丹沙の産地に多く祭られている女神ですが、赤の呪術を持ち込んだ秦氏は丹沙から水銀を取り出す能力があったとされています。その秦氏が持ち込んだ神に竈神がいると云われます。精錬に要したのでしょう。
 
(4)瀬織津比女命は紀北では和歌山市、岩出町、橋本市の祭られています。それぞれ一社。

 荒っぽい印象ですが、明るくキラキラした紀の国に天白信仰はあまり似合わないような気がしますね。

[700] 身長  習志野のてつ [Mail] 2003/02/28(Fri) 08:25 [Reply]
「日本書紀」では日本武尊は身長一丈(約3m)とされる、大変な偉丈夫です。
ところが…
あの光圀が編纂を命じた「大日本記」を眺めていたら、景行天皇の身長は一丈二寸。
「なんだ父親よりも約6cm低いんだ。」と、少しガッカリ。

古事記で云う倭武命の九州遠征は、やはり無かったと思います。


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