青草談話室ログ平十五年 七月 2003.1 |
[158] Re[157]: 再度:天手力男命 神奈備 | 2003/07/31(Thu) 14:20 [Reply] |
> 東京浅草の鷲(おおとり)神社 > 通称「おとり様」は「熊手」で有名ですが、面白い由緒がありました。 面白いですね。 最近はおいしくて高くない店からつぶれていくようです。食い倒れとは店がつぶれることだったか? 天手力男命が持っていた楽器の先に鷲がとまったので、天日鷲命の名前と天手力男命の御子と云う系譜が出来たと云うことのようです。 神武天皇が大和を征する寸前に金色の鵄(とび)が皇弓に止まりますが、これが神とすれば神武の御子神と云う事になるのでしょう。金鵄は金山彦神が遣わしたものだそうで、金山彦神の御子神でもあるのかも。 関係があるのかないのか、出雲国 盾縫郡(平田市)の都武自神社の摂社に金鵄神社が鎮座、天日鷲翔矢命を祭神としています。 岩戸開きの主催者はどうやら思兼命、登場する神々は思兼命の御子となって演じたのかも。 |
[157] 再度:天手力男命 習志野のてつ [Mail] | 2003/07/31(Thu) 10:53 [Reply] |
東京浅草の鷲(おおとり)神社 通称「おとり様」は「熊手」で有名ですが、面白い由緒がありました。 祭神の一柱は天日鷲命(あめのひわしのみこと)なのですが、 「命の父神、天手力男命(あめのたぢからおのみこと)」 だとすれば、天手力男命と天太玉命は同一神? 先日、天手力男命は思兼命の御子神となってました。 では天太玉命も八意思兼命の御子神??? http://www.asakusashichifukujin.jp/ootori.html |
[156] Re[155][154][153][152]: 誰か助けてください! もやし書生 | 2003/07/27(Sun) 01:10 [Reply] |
玄松子 神奈備 様 御教授誠に有り難うございました。 お二方から御教授いただいたことを元に自分自身で頑張ってみます。 ほんとに有り難うございました。 |
[155] Re[154][153][152]: 誰か助けてください! 神奈備 | 2003/07/26(Sat) 08:34 [Reply] |
>> 玄松子 様 >> 誠に有り難うございましたm(_ _)m > ちなみに、天火明命は彦火明命の変名でしょうか? 彦火明命の御名はどこからひっぱってきたのでしょうか。 例えば、丹後の籠神社の祭神名からとしますと、籠神社をお調べになれば自ずから考える資料は概ね入手できるでしょう。その上でお考えを披露されて、通説に疑問でもございましたら、掲示板でみんなで考えましょう。 > また、天香語山命は彦火明命の御孫神様でしょうか? これも同上ですね。 > また、熱田神宮と尾張戸神社との関係も御教授いただければ幸いでございます。 これも同じで、例えば下記のHPを見て考えて下さい。 http://www3.justnet.ne.jp/~makkou/NAGOYA.HTM |
[154] Re[153][152]: 誰か助けてください! もやし書生 | 2003/07/25(Fri) 23:30 [Reply] |
玄松子 様 命は狙われておりませんが、大変困っておりました。 誠に有り難うございましたm(_ _)m ちなみに、天火明命は彦火明命の変名でしょうか? また、天香語山命は彦火明命の御孫神様でしょうか? もしよろしければ、そのあたりのことを御教授下さい。また、熱田神宮と尾張戸神社との 関係も御教授いただければ幸いでございます。 大変厚かましくて恐縮ですが、何卒よろしくお願いいたします。 |
[153] Re[152]: 誰か助けてください! 玄松子 | 2003/07/25(Fri) 22:57 [Reply] |
>
申し訳ありませんがどなたかお助け下さい。 命でも狙われてるのかな? 尾張戸神社(おわりべじんじゃ) 愛知県瀬戸市十軒町913(東谷山山頂) 祭神 天火明命 天香語山命 建稻種命 |
[152] 誰か助けてください! もやし書生 | 2003/07/25(Fri) 20:50 [Reply] |
申し訳ありませんがどなたかお助け下さい。 熱田神宮の奥宮(奥の院?)である「おわりと神社」なる社があるらしいのですが、 どなたかご存じでしたら、どんな些細なことでも良いので御教授下さいますよう お願いいたします。 |
[151] 竹生島 神奈備 | 2003/07/25(Fri) 07:53 [Reply] |
本日は柄にもなく参加してきます。 世界の水に愛と感謝を捧げるセレモニー http://thank-water.net/japanese/july25.htm |
[150] 山王権現 さんま [Mail] [Url] | 2003/07/22(Tue) 23:10 [Reply] |
玄松子 様 たびたび、ありがとうございます。 東山道神坂峠を伝教大師が通った際に、峠越えの苦労を少なくするために峠の東西に広拯院(園原の月見堂)、広済院(中津川側、不明)という布施屋を建てたという伝承があるように、天台宗との関係は考えられます。 この件に関する研究者の文献がありましたので、調べたいと思います。 |
[149] Re[147]: ひとつ 神奈備 | 2003/07/22(Tue) 22:28 [Reply] |
>
静岡県三ケ日町にある英多神社ですが、読みは「あがたじんじゃ」です。 玄松子さん ありがとうございます。諏訪も エタ ですね。 何故、アガタであって、エタではいけないんでしょうか。■■に通じるからでしょうか。気持ちはわからない訳ではありませんが、克服すべき意識でしょうね。 |
[148] Re[147]: ひとつ 玄松子 | 2003/07/22(Tue) 22:00 [Reply] |
神奈備さんが答えるところですが。 > 静岡県三ケ日町にある英多神社ですが、読みは「あがたじんじゃ」です。 延喜式神名帳のページのことを言ってるんだと思いますが、 延喜式九条家本、吉田家本では、「エタ」の訓が付いているので、 神名帳一覧では、「エタ」が正しい。 |
[147] ひとつ 武蔵守 | 2003/07/22(Tue) 20:54 [Reply] |
静岡県三ケ日町にある英多神社ですが、読みは「あがたじんじゃ」です。 |
[146] Re[145]: 阿知原 玄松子 | 2003/07/21(Mon) 22:03 [Reply] |
>
神仏習合の時代が長く続いたこともあり、 この時代の「仏」がなにかわかりませんか。 それが天台系なら、山王権現と名乗るのも不自然ではないでしょう。 |
[145] 阿知原 さんま [Mail] [Url] | 2003/07/21(Mon) 11:26 [Reply] |
習志野のてつ 様 阿智の地名についてですが、阿知川と天竜川の合流点当たりを江戸時代にも阿知原と言っていました。現在でもそう言います。 東嶺和尚は、阿知原という地名に目を付け、阿知川を遡って山王権現にたどり着いたといいます。(地理的に不便なので実際には美濃側から来たのだろうと地元の研究者は見ています。) ですから、阿知川、阿知原という地名は存在していました。阿南は・・未確認です。 山王権現が以前に阿智神社と名乗っていたかどうかですが。そうであれば、現在の阿智神社や阿智村での公式発表と同じです。 ただし、途中で主神の思兼命や表春命がいなくなったことや神社名が変わったことをどう説明するかです。東山道が廃れ、神仏習合の時代が長く続いたこともあり、祭神が不明になってしまった。ところが、東嶺和尚と同じように影響力を持つ人物がそれ以前にも現れ、若き神主に「ここは山王権現に違いない」と吹き込んだとか・・・。神主は途絶えていなかったのでしょうか・・・。 あるいは、阿智神社が廃れてしまい、安布知神社にお移ししたとか・・・。 有力な研究者の古い説として、山王権現を思兼命と同じものとみなして、お祭りしていたのではないかというのですが、そうなのでしょうか。 |
[144] た、高い・・・ さんま [Mail] [Url] | 2003/07/21(Mon) 10:53 [Reply] |
日雲 様 ご指摘のHPに残部2冊、8万円、価格相談と書いてありました。ははは・・・。 どこかの図書館で閲覧させて頂くよりないですね。 原田 実さんのHPに大成経のことが詳しく、とりあえずそちらを参考にすることにしました。 |
[143] 横から失礼致します。 日雲 | 2003/07/20(Sun) 23:24 [Reply] |
さんま様>旧事記大成経はどこかで閲覧できるのでしょうか? はじめまして。↓大変高いですが、一応存在してはいます。 http://www.suisyo.com/taisei.html このページを見る限りでは、三十巻本の方か、オリジナルの七十二巻本の方かは解りませんが。 伊勢伊雑宮が絡んでいるので、私も一度読んでみたいのですけれども……。 |
[142] 旧事記大成経 さんま [Mail] [Url] | 2003/07/20(Sun) 18:48 [Reply] |
玄松子 様 習志野のてつ 様 旧事記大成経と先代旧事本紀はかなり違う書物で、旧事記大成経は作為的に作られた偽書だと聞きました。そのために、先代旧事本紀の評価まで下がってしまった・・・というのですが、聞いた話で確認できていません。 先代旧事本紀の方は手に入りますが、旧事記大成経はどこかで閲覧できるのでしょうか?思兼命と天手力男命の関係については「旧事記大成経」から引用したと、「吾道宮(あちのみや)縁由」に明記してあります。「先代旧事本紀」には書いてないと思います。 習志野のてつさんの発問についてはご指摘の通りだと思いますが、その前に阿智神社のパンフレットについての感想がありましたので、出典を明らかにしました。「ホツマツタへ」についての評価はできる段階にありませんが、「先代旧事本紀」と似ている部分があると聞いたことがあり、関心を持っています。 習志野のてつ 様 「神祇管領長上」について、ありがとうございます。 『無位の社人(しゃじん)、白帳(はくちょう)を着すべし。其の外の装束は吉田の許状を以て着すべし』 というお墨付きがあって、地方の神社に対して「・・・風折烏帽子を着し、専ら恒例神式を守り、太平精祈に抽んずべし。・・・」(寛政9年(1797)伊賀良神社への神道許裁状)というような文書を発行するようになったわけですね。 「阿智」という地名については、江戸時代に書かれた「下條記」などに「阿知川」として残されています。その他の地名としては「阿智駅」以降は見当たらないようです。 先に書いた東嶺和尚も、阿知川の地名をたどって来たようです。 |
[141] Re[139]: 天手力男命について 玄松子 | 2003/07/20(Sun) 11:55 [Reply] |
>
そういうわけで、天手力男命の件の根拠は「ホツマツタへ」ではなくて、「旧事記大成経」です。 習志野のてつさん> 他では聞いたことが無いのですが、どなたかご存知ですか? という質問ですから、「ホツマツタヘ」でも、間違いではありませんよね。 ところで、「旧事記大成経」(「先代旧事本紀」)に、思兼命と天手力男命の関係が記されているのでしょうか。 手持ちの「先代旧事本紀」をさらって見たところ、思兼命と表春命の親子関係、阿智氏との関係はすぐに見つかりましたが、天手力男命に関しては探しきれておりません。 |
[140] Re[139]: 天手力男命 習志野のてつ [Mail] | 2003/07/20(Sun) 11:41 [Reply] |
さんま 様 本家掲示板分も含め、こちらでカキコします。 やはり地元の方ならでは、と思われる諸説をありがとうございます。 私も不勉強ですので、以下知る限りです。 「神祇管領長上」 室町時代、卜部氏の吉田兼倶(かねとも)が、「神祇管領長上」を称し神祇伯である白川伯王家に対抗します。 その後慶長14年(1609)、「神祇官」の機能の一部を代行するものとして「神祇官代」の吉田神社境内への 設置が、徳川家康に公認されています。更に徳川幕府から「諸社禰宜神主法度」が、寛文五年(1665)に出されます。 その中で、『無位の社人(しゃじん)、白帳(はくちょう)を着すべし。其の外の装束は吉田の許状を以て着すべし』 と、諸社に対するある種の支配権を公認しています。 「神道長」 (吉田)神道での最高者として「神道長」も自称したようです。 周辺の神社名。 阿智村とか阿知川、阿南の地名は、元々あったものだと思います。だとすれば「阿智神社」も従来、阿智村内どこかに存在 したのではないでしょうか。その「阿智神社」が、現阿智神社、安布知神社、又はそれ以外か?には無関係に、です。 「山王権現」の名称は、比較的新しいものと感じますが、その名称になる以前、阿智神社と称した、ことは考えられますか? 「先代旧事本紀」について、本居宣長が「古事記伝」で言及。 勝手要約しますと「あちこちからの寄せ集めの偽書である。だが国造本紀は、どこにも無い独自のもので、何か今(江戸時代) に残っていない書物から摂ったもので、読むに値する。」だったと思います。復刻岩波文庫に「古事記伝」があります。 この見解が「先代旧事本紀」の評価(通説)になっています。 ただそれ以前は、「日本書紀」「古事記」と並び、三大古典としてあつかわれたようです。 > 天手力男命の話… > 江戸時代に、伊豆の竜沢寺の創建者で東嶺和尚という方… > これが「吾道宮(あちのみや)縁由」という文書です。… ←初めて聞きます。面白そうですね。 > 天手力男命が当初吾道宮を建て、しばらく鎮座した後戸隠神社へ移ったこと、 > 阿智神社の神主は天表春命の末裔であることなどが書かれています。 > その根拠となる文書は、「旧事記大成経」であり… これも面白そうです。 私の住む千葉県では、天手力男命を祀る神社がかなりあります。 全国的かと思っていたら、そうでもなさそう。興味深々です。 |
[139] 天手力男命について さんま [Mail] [Url] | 2003/07/19(Sat) 21:17 [Reply] |
神奈備 様 習志野のてつ 様 天手力男命の話ですが、山王権現が阿智神社に変わる事件と大いに関係しているのです。私はまだ研究不足ですが、分かっている範囲のことを書きます。 江戸時代には、山王権現(現 阿智神社)に思兼命も天表春命も祀られていなかったことは以前に掲示板に書いた通りです。天手力男命も祀られていませんでした。 江戸時代に、伊豆の竜沢寺の創建者で東嶺和尚という方が式内社阿智神社を探しておられたところ、昼神の山王権現にたどり着き、これこそ阿智神社に違いないということになり、その根拠を文書に残されました。 これが「吾道宮(あちのみや)縁由」という文書です。なかなかの長文で論理的に記述されている点が他の文書と比べて際だっています。 この文書の冒頭で、思兼命の御子が天表春命、天手力男命であると書かれています。また、思兼命が阿智神社から戸隠神社に分霊されたこと(この件は戸隠神社昔事縁起にも記載あり)、天手力男命が当初吾道宮を建て、しばらく鎮座した後戸隠神社へ移ったこと、阿智神社の神主は天表春命の末裔であることなどが書かれています。 その根拠となる文書は、「旧事記大成経」であり、当時は聖徳太子の撰述によると信じられていました。現在この文書は江戸時代に作られた偽書だろうということになっているようです。東嶺和尚は「先代旧事本紀」と「旧事記大成経」を同一視していたようです。 「旧事記大成経」が偽書であるにしろ、地元でも忘れられていた阿智神社の存在が明らかになったという意味で、東嶺和尚の功績は大です。また、戸隠神社のような立派な神社へ阿智神社から分霊されていることも事実のようですから、まんざら偽書だからすべて嘘とは言えません。この件もあって、「山王権現」が神祇管領長に「阿智神社」の社名をお願いすることになったと思われます。 そういうわけで、天手力男命の件の根拠は「ホツマツタへ」ではなくて、「旧事記大成経」です。 「ホツマツタへ」と「先代旧事本紀」や「旧事記大成経」の関係は不勉強なので、詳しい方の説をお聞きしたいと思います。 |
[138] Re[137]恐れ入りました 習志野のてつ [Mail] | 2003/07/18(Fri) 09:04 [Reply] |
> 『ホツマツタエ』です。 > 思兼命と何と下照姫との間の子が天手力男命です。 恐れ入りました。 こんな青草話、よくパンフレットにかけるな〜、と思っていました 。 やはり少しは根拠があるのですね。 ここでも下照姫!これにもビックリです。 > このような伝えがほんまにあったのか、誰かがでっち上げたのか、どちらにしても執筆者の能力に感嘆! 確かに! 天の岩戸の扉の岩、これが飛んで落ちた処が戸隠山。 戸隠神社には、天手力男神と八意思兼命と天表春命が祀られています。 何で八意思兼?そりゃあ岩の戸は「重いかね」とオヤジしてました。(笑) |
[137] Re[136][135] +あるふぁー 神奈備 | 2003/07/18(Fri) 07:50 [Reply] |
> 天手力男神が天八意思兼命の息子! > 他では聞いたことが無いのですが、どなたかご存知ですか? 『ホツマツタエ』です。 思兼命と何と下照姫との間の子が天手力男命です。 このような伝えがほんまにあったのか、誰かがでっち上げたのか、どちらにしても執筆者の能力に感嘆! |
[136] Re[135] +あるふぁー 習志野のてつ [Mail] | 2003/07/18(Fri) 01:35 [Reply] |
神奈備 さん こんばんわ。 > …素盞嗚尊が皮をむいた馬を織屋に放り込んだ話として残っている… なるほど!そんな考えも有るわけですね。 > …この国を征服したとは言えないのでしょうが、騎馬の民の末裔は王朝の台所か閨に > までは入り込んだのでは 大賛成です。相当奥深く入り込んだと思います。 +あるふぁー 阿智神社 神奈備掲示板とも思ったのですが、こちらにします。 阿智神社のパンフレット 信濃ノ国伊那郡「式内阿智神社」の中に次の件が書かれています。 『社伝によれば人皇第八代考元天皇五年春正月、天八意思兼命は御児天手力男神 と天表春神を引き連れて信濃国阿智の里にお降りに…』 天手力男神が天八意思兼命の息子! 他では聞いたことが無いのですが、どなたかご存知ですか? |
[135] Re[134][132]: [133] 神奈備 | 2003/07/17(Thu) 17:57 [Reply] |
習志野のてつさん こんにちは。 吉田敦彦著『アマテラスの原像』p77から ユーラシア草原地帯の騎馬遊牧民族の間に古代スキタイ神話に淵源を持つ女神が馬による陵辱という形で男神の乱暴を受ける話が流布していた可能性を指摘しています。 これが日本では素盞嗚尊が皮をむいた馬を織屋に放り込んだ話として残っているとの指摘で、騎馬の民が渡来して来て、記紀の神代の巻に影響を及ぼしているわけで、この国を征服したとは言えないのでしょうが、騎馬の民の末裔は王朝の台所か閨にまでは入り込んだのでは。 |
[134] Re[132]: [133] 習志野のてつ [Mail] | 2003/07/17(Thu) 08:15 [Reply] |
『「以前カキコ」は…』は、鞭懸(ムチカケ)のことです。 大分時間がたったので、再度鞭懸を話題にしてもいいと判断しました。 平成13年当時、大和朝廷は騎馬民族征服王朝では、と考えていました。 その後墓制や、馬具の出土状況などから、馬を扱う民族は、比較的少数で 王権を獲得するには到らなかったと考えています。現在の考えは以下です。 ◎騎馬民族は来た。 (ここで騎馬民族とは、「馬を扱いなれた集団」程度の意味です) 大和朝廷を支える部の民の一部を構成したにすぎない。 いわば、一つの渡来系技術集団ですね。 在地勢力としては、反大和朝廷勢力もあり、そちらに味方した集団も 当然あったであろう。 まあ鉄砲伝来のようなことを考えればいいのかなと思っています。 武田信玄だって鉄砲を知っている。部下の一部に鉄砲を扱う集団を 抱えている。だが、鉄砲の力を一番有効に利用した織田信長が、 やがて天下を窺うことになる。この辺りと近い話かと推論中。 >大和へきた騎馬民族は、大和朝廷に征服された! は、受け狙いで、穏当な表現では無いと思います。 なにより「『民族』との表現は、無理があるかな?」と思います。 『征服』といえるような戦闘をしたとも思えない。 色々なことで、発見された「馬の全身骨格」に、期待しています。 まあ学術論文を目指すのなら、別の表現になるでしょう。 週刊誌なんかの芸能欄。一応少しは根拠があるのでマル嘘ではない。 その程度にお考えいただけると、カキコむ方も気が楽です。 玄松子 さん、ありがとうございます。 私の表現や整理が行き届かず、お手数お掛けしました。 |
[133] Re[132]: 猿と馬 玄松子 | 2003/07/17(Thu) 06:55 [Reply] |
> この「以前カキコ」は↓だと思いますが・・・ http://www.kamnavi.net/log/yumv0102.htm 「習志野の てつ お礼を兼ねて?調子に乗って H13.2.19」 を参照。 |
[132] Re[130][129]: 猿と馬 すっぽん | 2003/07/17(Thu) 03:26 [Reply] |
>出雲系の神社には無い鞭懸(ムチカケ:屋根妻に四本ずつ計十六本が通常) >が、伊勢系の神社に比較的多い。この「鞭懸は文字通り鞭を架けるもので、 >架ける鞭は馬用の鞭である」説が以前カキコした青草話です。 この「以前カキコ」は↓だと思いますが・・・ >大和へきた騎馬民族は、大和朝廷に征服された! >大和朝廷の下働き(部の民)にされて、付従った。 >登場人物 > 神:大和の大王とそれに連なる人々、天神 > 馬:被征服騎馬民族 > 猿:道案内、地祇、猿田彦 よくわからないので質問するだけで、反論するつもりは全くありません。 「以前カキコ」では大和朝廷は騎馬民族を征服したことになる?のに、「Re[129]: 猿と馬」は伊勢系=騎馬民族と読み取れます。 「青草」ですからレスがなくてもかまいません! |
[131] Re[109][107]: 「ん」について ともこ.K | 2003/07/16(Wed) 07:08 [Reply] |
またまた、返信が遅れてすみません。 神奈備さん、ありがとうございました。 > 私には言語は手に負えない。 私も同じです。だから、空想はひろがります。 当麻「たうま」が「たぎま」ならば、 邇邇芸や邇芸速日の「にぎ」は「にう」かな? (速日が速見郡と関係あるとするならば、豊後国と「にう」は繋がるのでは?) [埴輪─]埴生(羽生)─羽丹生─羽丹─はた─秦 おまけ:谷川は、丹川かな? また、お邪魔することがあるかも知れませんが、 その時は、宜しくお願いします。 |
[130] Re[129]: 猿と馬 習志野のてつ [Mail] | 2003/07/15(Tue) 23:54 [Reply] |
つい先日の木曜(7月10日)の新聞に、大阪府四条畷市で、 「古墳時代の馬 全身骨格出土」のニュースが載りました。 今後の研究成果が楽しみです。 >…神様がおでかけの際には神馬に乗って、三猿にひかれて御神行ですね。 いまだに神様への奉納が絵馬ですから、馬は神様に不可欠だと思います。 出雲系の神社には無い鞭懸(ムチカケ:屋根妻に四本ずつ計十六本が通常) が、伊勢系の神社に比較的多い。この「鞭懸は文字通り鞭を架けるもので、 架ける鞭は馬用の鞭である」説が以前カキコした青草話です。 |
[129] 猿と馬 ユアン [Mail] | 2003/07/15(Tue) 21:55 [Reply] |
三猿、神馬、いずれも神社にまつられてますね。 なるほど神様がおでかけの際には 神馬に乗って、三猿にひかれて御神行ですね。 |
[128] 馬=騎馬民族 習志野のてつ [Mail] | 2003/07/15(Tue) 11:16 [Reply] |
>>馬は神の乗り物でもあり、猿はその馬を曳いたのです。 【使えそう】φ(。。)mメモメモ 騎馬民族征服王朝説の逆(ギャグ)劇 大和へきた騎馬民族は、大和朝廷に征服された! 大和朝廷の下働き(部の民)にされて、付従った。 登場人物 神:大和の大王とそれに連なる人々、天神 馬:被征服騎馬民族 猿:道案内、地祇、猿田彦 青草を過ぎた枯草説かな〜 |
[127] Re[122][121]: いまさらの疑問 す | 2003/07/14(Mon) 05:00 [Reply] |
物部氏の解説を有難うございました>神奈備さん 神奈備さん>要は神道と言う概念・観念がなかったのでは。 うーむ、そうですね! 江戸時代に「今は封建時代だ!」と認識している人はいなかったみたいに? そうなると、物部氏は新しく入って来た仏教を「異教」という認識でもなかったんですね。 今、オウム真理教を誰も「異教」と呼ばないのと同じ構造かも。 |
[126] Re[125]: 道祖神 日雲 | 2003/07/14(Mon) 00:57 [Reply] |
ユアン様> 中山って地理的にどのへんですか? 美作一ノ宮のあったところです。現・岡山県津山市。 猿と牛馬守護に関しては、 「馬小屋や牛小屋に猿の頭蓋骨を置いて魔避けにする」 なんていう習俗もありましたね。全国における分布までは存じませんが。 |
[125] 道祖神 ユアン [Mail] | 2003/07/13(Sun) 21:44 [Reply] |
>日雲さん >長野〜愛知一帯のいわゆるミシャグジ信仰圏は、そのまま道祖神信仰圏でもある、とい>うことを鑑みると、その中山の「道祖神」も「諏訪っぽいもの」であったのかなあ? >と妄想してみたくもなったりしてですね。 中山って地理的にどのへんですか? 私の資料では、馬にまつわる伝説のある 道祖神は、長野で採取されたものなんですけど、 もしかしたら他の地域にも同系の伝説 あるかもしれません。 要は、「猿神」と「道祖神」と「猿田彦」 いずれの伝説が先にあったかですよね。 順序を探るのは結構難しいとおもいます。 こうゆうときこそタイムマシンがあればいいのに。 いつも切に思います(笑) >神奈備さん >馬を上回るモノが猿にあると信じられていたのでは。馬は神の乗り物でもあり、猿はそ>の馬を曳いたのです。 なるほど、馬と道祖神、猿との関係がキレイに 読み取れますね。 猿は馬を牽く…河童でも似たような伝説を聞いた ような気がします。 河童=猿という伝説もありますしね。 鶏は龍よりも強いという伝説もあります。 いずれも十二支で上位にある動物ですね。 >蓑、今の言葉では” ”、 わはは!合羽か! 河童は大陸からの使役民の零落したかたちだ という説がありますね。 産鉄の技術ともあながち無関係ではないかも。 大工との関連が強いようですが。 河童…いろんな伝説があって面白いモノノケですよね(笑) |
[124] Re[123]: 鉄と 〜♪三度笠 神奈備 | 2003/07/13(Sun) 15:38 [Reply] |
> こちらでははじめましてになります、よろしくお願いいたします。 > 歴史関係のことから少し間を置いていますが、行基に関連しそうなお話を拝見すると、反応してしまいまして・・・。 こんにちは。ニャーさん。 > 行基は両方に関連があるの 宮城県・柳津虚空蔵尊、大阪府・能勢妙見宮等 行基さんと言えば大仏建立ですね。 大仏さんには、宇佐の神は”銅”の供給で大いなる働きを行いました。 余談ですが、八幡信仰は妙見信仰とほぼ同じ頃この国に持ち込まれたようです。 大仏の塗金には金とその数倍の水銀が要ったそうで、辰沙も大いに求められ、これに秦氏が活躍したものと思われます。 チョロさんの > 「秦氏」の存在がある のは、そのような所からも推測できますね。 河童である深沙大王の発音からは辰沙が思われます。何故、河童なんだろう。砂鉄のイメージで河童なんだろうか、普通河童は水神ですね。 深沙大王から素盞嗚尊をもイメージしますが、素盞嗚尊に河童のイメージはないのだろうか。雨の中を零落していく神、蓑をかぶった神、蓑、今の言葉では” ”、青草でした。 |
[123] 鉄 チョロ [Mail] | 2003/07/13(Sun) 11:13 [Reply] |
こちらでははじめましてになります、よろしくお願いいたします。 歴史関係のことから少し間を置いていますが、行基に関連しそうなお話を拝見すると、反応してしまいまして・・・。 >星田神社の宮司さんによりますと、鉄の神である信仰は、西日本は妙見菩薩、 >東日本は虚空蔵菩薩と大別できるそうですが・・・ を拝見した時、やはりそうなのかと思いました。 行基は両方に関連があるのを、ネット内での行基ゆかりのお寺で見受けました。 (例)宮城県・柳津虚空蔵尊、大阪府・能勢妙見宮等 推測ですがその背景には「秦氏」の存在があると思われ、ネットで調べているうちに 秦氏と関連があると思われる満功上人開山の「深大寺」にたどりつき、祀られている「深沙大王」つまり「沙悟浄」と、 >馬は神の乗り物でもあり、猿はその馬を曳いたのです。 とが繋がるのではないかと思われまして。 となると、「西遊記」は「鉄」の技術者のご一行かなと推測しまして、 鞍上の「三蔵法師」は「玄奘」とされていることから、 法相宗と鉄との関連は強く、またそれが行基や秦氏と繋がるものになるのかなと 青草な思いに浸っております。 ということで、拙い文章で失礼いたしました。 |
[122] Re[121]: いまさらの疑問 神奈備 | 2003/07/13(Sun) 09:58 [Reply] |
すっぽんさん、こんにちは。 > 「物部氏=旧勢力=神道 vs. 蘇我氏=仏教」 先ず、物部肩野乙麿や中山神社の創建の時期は和銅年間のようで、8世紀の前半のようです。また蘇我と物部の戦いは6世紀後半であり、100年以上の時間差があります。物部肩野乙麿や中山神社の件については現在住吉大社の宮司さんである真弓常忠大先生の『古代の鉄と神々』に簡潔にまとめられています。名著です。 蘇我氏の仏教、物部氏の神道と大別され、一見宗教戦争のように見えますが、基本は守旧派対新興勢力の戦いであった上に、物部守屋の妹が蘇我馬子に嫁いでおり、守屋の財産を目当てに妹の策謀説とかがあり、一筋縄ではいかない豪族の戦いだったようです。 守屋の拠点は河内国渋川郡(今の八尾市内)に渋川寺を建立しているようで、今来の神として祀っていたのかも知れませんね。 要は神道と言う概念・観念がなかったのでは。だから仏教と言う意識もなかったのでは。 守屋の妹は蘇我蝦夷兄弟の母親で、蝦夷の弟は物部大臣を名乗っています。守屋は物部の本家だったのでしょうが、全国の物部が守屋の味方をしたようではなさそうで、(していれば負けなかったのでは)、孤立していたようですね。 ユアンさん こんにちは。 > 猿と道祖神 生殖器は生命の根元で、魔を払う力は抜群。道祖神にはうってつけ。 馬は種馬と言う言葉があるように、人間が目にする生殖器としては傑出した存在。その馬の災いを払う霊力を猿は持っているといいます。馬を上回るモノが猿にあると信じられていたのでは。馬は神の乗り物でもあり、猿はその馬を曳いたのです。 |
[121] いまさらの疑問 すっぽん | 2003/07/13(Sun) 03:58 [Reply] |
青草が好きで、雷が嫌いで、橋本進吉さんも知らないすっぽんで〜す! 初歩的な疑問(茶々?)ですいませんが、 神奈備さん>(物部肩野は)ここで仏教寺や志呂神社の祭祀を行っています。 神奈備さん>お寺には肩野物部廟と云う祠もあるようで、 あれれ、寺と神社両方ですか? 学校で習った「物部氏=旧勢力=神道 vs. 蘇我氏=仏教」と異なるパターンですね。矛盾はなかったんでしょうか? |
[120] サン・グリーン様、ユアン様、すっぽん様 日雲 | 2003/07/12(Sat) 13:52 [Reply] |
サン・グリーン様、ご返信ありがとうございます。 > 祖母のお葬式は大阪(寺町筋の日蓮宗)のお寺でした。 ああ、でしたら、その場所(=大阪)の風習だったのかも知れませんね……? 奈良市の倭文神社を始め、似た感じのものが大阪〜奈良にはチョイチョイあるようですから。 > また、諏訪大社の戦前のお供えの写真を見たときも、鹿の首がずらっと並んでいたのでとても不気味でした。 > 井上教授によれば本来は「いけにえ」は神への捧げものなので、一番尊いもの(初物)を捧げる(モーセは長男を神に捧げた)と言われています。 諏訪界隈でかつて出されていたという生贄も、「長男」だったそうですね。山梨の方では、 「かつては長子を人身御供に捧げていたが、イサクジンとモリヤジンを信仰するようになってから、代わりに鹿を供えるようになった」 などという伝承があるようです(言うまでもなく、イサクジンはミシャグジ、モリヤジンは洩矢神のことです)。 ヤマタノオロチや猿神退治では大概「美女」になってますから、珍しいと言えば珍しい……というか、何かリアルな気がしてヤです(:w ユアン様>「猿」から「サルタヒコ」を連想し、道祖神信仰と結び付けたと見るのが正しいかな?と思いますが。 私もそうかなと思いはするのですが、しかし、その中山の道祖神が「中山神社の猿神〜猿田彦」とつながる前から存在していた場合、「どっちも猿つながりだよね!」ということだけでそうなったのか、というと、またちょっと気にかかるんですね。 というのは、私は中山神社の伝承については、 「『中山神』が来る前から、その地では肩野物部系の人間によって『猿神退治』と同様の説話が語られ、鹿を奉納する祭祀が行われていた。すなわち、本来『人身御供を止めた』という位置にあったのは、物部系の祖やその信仰対象の神であった。それが『中山神の家来の贅賂悟狼神』になったのは、中山の地とともに、その説話の主役の位置も取られたからである」 ――という風に思っているんですね。こうした場合、勿論「ただ単に両者ともに『猿田彦つながり』があっただけだった」のかも知れませんが、或いは、 「その地の道祖神は『物部系の人達によって篤く祭祀されていた、『プレ中山神社』と一体を成すような信仰対象物だった。中山神社創建以後においても、物部系によって祭祀されていた。それ故に、あのような文脈で由来が(中山神社側から)語られたのであって、ここにおいては、『どっちも猿田彦つながりだよね!』という風に見えるのは全くの偶然の産物である」 ――かも知れない訳です。すなわち、ユアンさんのおっしゃるとおりに、 >長野に伝わる道祖神伝説の中に、道祖神は >「ばくろう」馬を売る商いがとてもうまい神様だった >というバリエーションがあります。 ――こっち方面のものだったのか? とも。 長野〜愛知一帯のいわゆるミシャグジ信仰圏は、そのまま道祖神信仰圏でもある、ということを鑑みると、その中山の「道祖神」も「諏訪っぽいもの」であったのかなあ? と妄想してみたくもなったりしてですね。 サン・グリーン様>だから、ヨコズナのシデのついたマワシは神への捧げものの印だと思っているのですが… ユアン様>それ、面白い発想ですね! なるほど、面白いです……七夕がらみがある以上、相撲も一度ちゃんと勉強してみたいなと思っているのですが。 ユアン様>肉、肉、肉…「ごっつぁんです!」…うぎゃー! いっぱい食べるとこあっていいじゃないですか。アブラものってるし(w すっぽん様>で、「ぶと」といえば、名物「ほうとう」と関係ないですか? な……なるほど……!? これは考えたこともなかったです。 リンク先の「ほうとうとは」の部分に書いてあるどっちかが正解なんでしょうね。 どっちが正解かは私には解りかねますが、勉強になりました。有難う御座います。 |
[119] ぶと すっぽん | 2003/07/12(Sat) 03:53 [Reply] |
日雲さん>「中山神社を追放された物部肩野乙麿が、人身御供の代わりに 日雲さん>鹿を供える様になった」という、その「鹿」にさらに代わるものとして ・・・・・「ブト」が供えられたということですね。 日雲さん>意味不明なことがありましたら、ご遠慮なくお聞きください。 つうことで遠慮会釈なく行きます(言葉遣いは許してください!) で、「ぶと」といえば、名物「ほうとう」と関係ないですか? http://www.nittanosho.com/p/yurai/ |
[118] 道祖神 ユアン [Mail] | 2003/07/11(Fri) 21:27 [Reply] |
>日雲さん >そうすると、「道祖神」は猿田彦であることからさらに派生したのか、 >それとも「道祖神」として別個にあったものなのか、 >何だかこの辺の順序や関係性あたりが今ひとつ……? 志呂神社の道祖神伝説について、カキコを見る限りは 一般的な道祖神伝説とは内容がやや異なりますね。 だから「猿」から「サルタヒコ」を連想し、 道祖神信仰と結び付けたと見るのが正しいかな?と思いますが。 ただ、長野に伝わる道祖神伝説の中に、道祖神は 「ばくろう」馬を売る商いがとてもうまい神様だった というバリエーションがあります。 「馬」というキーワードでなんとかつながりますね。 なので、もともと道祖神信仰のあった地に 「猿」にまつわる伝説があり、 「サルタヒコ」を連想した。のではないですかね。 >サン・グリーンさん 横レス失礼します。 >だから、ヨコズナのシデのついたマワシは >神への捧げものの印だと思っているのですが… それ、面白い発想ですね! けど、もしあたしが神様だったらそんな献饌死んでも拒否です!(笑) 相撲ファンの方には申しワケないですけど、 構図的に美しくなさすぎです!(笑) 肉、肉、肉…「ごっつぁんです!」…うぎゃー! ごめんなさい、想像しただけで悪夢です(笑) …冷静になって考えてみると、献饌だから太らせるのかもしれませんね。 |
[117] Re[111][96]: 光る神 サン・グリーン [Mail] [Url] | 2003/07/11(Fri) 11:32 [Reply] |
> サン・グリーン様>
私の祖母が亡くなった時(30年ほど前)これとそっくりな人型の御餅を作って、親戚みんなでそれぞれ分け合っていただきました。 > 情報有り難う御座います。 > 高知に何か似たものがないかとちょっと検索してみましたが、見当たりませんでした。 > 100年前にネット環境があったら、民俗研究的にはかなりの成果があったんでしょうねえ……。 > それでちょっとお伺いしたいのですが、御祖母様の御葬式というのは、高知県で行われたのでしょうか? > 「何処の地域の人達がそれを作ったのか」が解れば、或いは、とも思ったのですが。 > あと、高知のどの辺りかお解かりになりますでしょうか? > 室戸岬側と足摺岬側では、言葉からしてまるで違うと言うくらい、諸々が異なるそうなので……。 お返事が送れてすみません 祖母のお葬式は大阪(寺町筋の日蓮宗)のお寺でした。 祖母は高知県の安芸市(タイガースのキャンプ地)祖父は伊野市(紙漉きの町)出身です。 葬式の段取りをした叔父や叔母も亡くなりましたので、詳しいことはわかりません。 ただし、私が今読んでいる「夢の神話学」井本英一教授の本、156ページ周辺に ヘロドトスが古代の神人共食について書いている興味ある箇所がありました。 (人間の親は神の子を食べることによって活力を身につけ、人間の子は老成した神を食べることによって活力を身につけた。) 祇園祭では鉾の上に乗る子どものことを「生き稚児」と呼ぶそうです。これを始めて聞いた時は「いけにえ」のことが頭をよぎりました。 いまはほとんどが人形になっているようですが、いまでも何台かは生き稚児が乗ってご神事が行われるようですね。 また、諏訪大社の戦前のお供えの写真を見たときも、鹿の首がずらっと並んでいたのでとても不気味でした。 井上教授によれば本来は「いけにえ」は神への捧げものなので、一番尊いもの(初物)を捧げる(モーセは長男を神に捧げた)と言われています。新嘗祭もそうですね。 本の中にも、柳田國男説として、日本でも古くは神の代理者として神主が、片目、片足にされて聖別儀礼を受けていたことが書かれています。 これが「古事記」に出てくる知恵の神クエビコの原型かなと私は思っています。 それから、私は古代は相撲の優勝者は同じようにいけにえとしての名誉ある死を賜ったのではないかとも想像しているのです。だから、ヨコズナのシデのついたマワシは神への捧げものの印だと思っているのですが… 名誉ある死を賜った者は、(キリストも特攻隊員も)レベルアップして再生し、蘇るのではないでしょうか? ちょうっと、オカルトに走りすぎましたね。(~_~;) |
[116] 無題 日雲 | 2003/07/11(Fri) 02:29 [Reply] |
……何か下のレス、中山神社の由緒を知らないと、何を言ってるのか全く判らないかも知れませんね(;w 意味不明なことがありましたら、ご遠慮なくお聞きください。 |
[115] Re[112][110][106][105][101][95][91][90][87]: トンデモ全開で!星田妙見宮(小松神社) 日雲 | 2003/07/11(Fri) 02:23 [Reply] |
>志呂神社の祭神については『日本の神々2』で加原耕作氏は中山神の眷属の贅賂(悟:けものへん)狼神(しろごろう)としていますが、この神様、聞きませんね。 えーと、まずデータ的なことからいきますね(既レスと重複部分も出るかと思いますが)。 志呂神社の祭神が贅賂悟狼神というのは、『一宮社伝書上』に、 「伽多野部長者乙麿が、贅賂悟狼神の怒りを受けて人身御供をやめ、代わりに鹿二頭を供えるようになって、弓削庄に移住した際、贅賂悟狼神を勧請して建てたのが志呂神社」 といった記述があります。 が、その神体は「猿田彦大神。眷属は猿と狐の神」ともあります(これも『一宮社伝書上』)。 この贅賂悟狼神は、かつては中山神社の摂社としても存在していたようで、現在は二つに分かれ、「猿神社」「御先神社」として残っているとの話があります。 中山神社の文書を調べると、なるほど『中山神社旧記写』『一宮社伝書上』には贅賂悟狼神が載っているのですが、 これが『作陽誌』になると欠落、次いで『中山神社本末調帳下書』になると、それまで見られなかった「猿ノ社」「御先社」が代わりに出てきており、上記の話と合致致します。 ただ、『中山神社旧記写』『一宮社伝書上』いずれにも、「社跡」と記載があって、この時点ですでに社としては存在していなかったようです。 ちなみに、その「社跡」の所在は、「本社裏の神林の側」「本社より三丁」にあり、「贄殿谷」と呼ばれていたとのことです。 また、同じく、『一宮社伝書上』には、「道祖神」「嬉石大明神」といったものについての記載もあるのですが、前者については、 「乙麿は弓削庄に立ち退いた際、大神の祟りを恐れて取るものもとりあえず、その辺まで出たのであるが、その不便を慮って、大神から牛馬家財等を売り払えとの神勅が下り、その伝えをもって贅賂悟狼神がやって来た。それを道祖神として祭った」 後者については、 「その神勅を聞いた乙麿は喜びにたえず、あな嬉しやと言って立ち返り、牛馬の市を開いた。その場所を嬉石大明神と言い、これは道祖神と同体である」 とあります。 ついでに言えば、中山神社摂社の「猿神社」は安産の神、「御先神社」は牛馬の神として崇敬されており、このことも「贅賂悟狼神→猿神社&御先神社」を裏付けているかと思います。 が、ここで私がどうも整理しがたいのは、「道祖神」と聞けば「猿田彦」が連想されますが、 しかし、「贅賂悟狼神=神体は猿田彦大神」というのは、「猿が眷属」というところから出たもののように思われます。 そうすると、「道祖神」は猿田彦であることからさらに派生したのか、それとも「道祖神」として別個にあったものなのか、 何だかこの辺の順序や関係性あたりが今ひとつ……? また、そもそも「贅賂ゴ狼神」という神名が、いかにも「猿神退治」から作られたもの臭い気も。 あの説話内容から、漢字の字義的に適当に作られたとしか、私にはどう〜も思えないのです。 とはいえ、そこから音を取って、別の字を当てて「志呂神社」と命名したのかというと、それもどうも怪しい気がする。 ということで、「シロ」という音が先にあって、そこに「猿神退治」の内容から「贅賂ゴ狼神」という風に当て字→神名創作されたのではないか、と思うのですが……? まあ、青草とお取りおきください。 ともあれ、そういったことを考えますと、「贅賂ゴ狼神を勧請して建てたのが志呂神社」というのを、そのまま信じていいものかというと、私的には疑問があるのです。 何せ、「贅賂ゴ狼神」というのが他所では全く聞かれない神名である上に、 「じゃあ、中山大神やら贅賂ゴ狼神が来る前、乙麿やその先祖はどういう神を祀っていたのか?」 「普通、移住したら、それまで先祖代々祀ってきた神様の社を建てるものじゃないのか?」「大体、『鹿の頭を二つ供える』という風習が、実際にそれ以来始まったことで、それまではマジで人身御供を出してた、なんて話はあるまい?」 といったことを考えると、「贅賂ゴ狼神」であった筈がなかろう、と……? なお、これは社家の伝承に過ぎませんが、「贅賂ゴ狼神は『シロウ』と『ゴロウ』という二匹の犬だった」という話もあります。「猿神退治」に出てくる犬のことですね。 要するに、志呂神社界隈の古層に見られるのは、「物部」「(人身御供停止型の)狩猟祭祀」「犬」「産鉄」といったことであり、この筋と黒沢山万福寺の「星」が関係するようです。 で、しつこい繰り返しになりますが、付近からは鉄鐸も出土している、と。 ……やっぱり、諏訪前宮あたりの状況と似過ぎている気がするのですけれど。 あ、そうそう、志呂神社の「供え物の鹿を解体していた場所」も「贄殿谷」と言うようです。 こちらの地名は、まだ地元でかろうじで通用しているようです。 >物部肩野乙丸の退去して弓削庄は、吉備国弓削部の虚空(おおぞら)が吉備下道臣前津屋に留め置かれたことがあり、逆に虚空が前津屋が天皇を呪詛していると告げる話がありますが、虚空と言う名前が何かを暗示してくれている>。 私も気にはなっているのですが……吉備津彦神社の本地仏が虚空蔵であったこととも合わせまして。 >星田神社の宮司さんによりますと、鉄の神である信仰は、西日本は妙見菩薩、東日本は虚空蔵菩薩と大別できるそうですが、虚空蔵信仰があるのは近いとは言えそうですね。 ふーむ……そう、なんでしょうか? 正直、これは考えたことございませんでした。 山梨辺りでも「鉄っぽい妙見」が結構見られた気がしますが……機会があったら、調べてみます。 というか、そういう視点で見ていってみますね。 |
[114] 下照る姫 ユアン [Mail] | 2003/07/10(Thu) 23:58 [Reply] |
>神奈備さん >玄松子さん 出雲でも海からの朝日が拝めますか。 宍道湖からの朝日。 一概に日本海側といっても色々あるのですね。 > 日本海側では、太陽が海から昇るコトはないので、 > 「下照る」の形容に相応しいような海からの日の出は拝めません。 コレはちょっと先走りでしたね?反省(苦笑) >てつさん >日の光が、雲間から地上世界に降り注ぐ。と思ったのですが。 ユアンの読み込みが浅かったですー。 下照る姫が難波の女神だということで、 太平洋側のイメージだと頭から思いこんでたかも。 ユアン的にはですね? 波打ち際から打ち寄せる波を透かして見る夕日が あまりにも美しく幻想的で、 そのイメージがまず念頭にあって、 同じようにして見る朝日も同様に美しいのだろうなあ と思ったのでした。 夜光虫!キレイですよねえ。 なんかもう、光の波が打ち寄せるって感じです。 夜の海って神秘的ですよね。 ところで小栗判官の照手姫と下照る姫は 名前は似てますがなんの関係もないのですか? 小栗判官もちゃんと読んだ事ないのですが。 |
[113] ご紹介。 豆石曇 | 2003/07/10(Thu) 23:49 [Reply] |
はじめまして。 豆石二兄弟の従兄弟の 豆石曇と申します。よろしく。 本のご紹介です。 「淡路島の古代・中世研究」武田信一・著(神戸新聞総合出版センター) 本日(2003、7、10)発行。2000円。 です。 |
[112] Re[110][106][105][101][95][91][90][87]: トンデモ全開で!星田妙見宮(小松神社) 神奈備 | 2003/07/10(Thu) 18:34 [Reply] |
日雲さんには教えられることが多く、勉強になります。 志呂神社の祭神については『日本の神々2』で加原耕作氏は中山神の眷属の贅賂(悟:けものへん)狼神(しろごろう)としていますが、この神様、聞きませんね。 > 虚空蔵信仰 星田神社の宮司さんによりますと、鉄の神である信仰は、西日本は妙見菩薩、東日本は虚空蔵菩薩と大別できるそうですが、虚空蔵信仰があるのは近いとは言えそうですね。 で、物部肩野乙丸の退去して弓削庄は、吉備国弓削部の虚空(おおぞら)が吉備下道臣前津屋に留め置かれたことがあり、逆に虚空が前津屋が天皇を呪詛していると告げる話がありますが、虚空と言う名前が何かを暗示してくれている。 > 平成祭CDの星田妙見の由緒 星田神社の由緒ですね。 http://www.kamnavi.net/mn/osaka/hosida.htm > 島根県の松崎神社 >ニギハヤヒ命(星の神 磐楠船に乗ってが、空から降ったと言うことでしょうか、流れ星を御神体に、面白いお話です。ありがとうございました。 |
[111] Re[96]: 光る神 日雲 | 2003/07/10(Thu) 17:41 [Reply] |
サン・グリーン様>
私の祖母が亡くなった時(30年ほど前)これとそっくりな人型の御餅を作って、親戚みんなでそれぞれ分け合っていただきました。 情報有り難う御座います。 高知に何か似たものがないかとちょっと検索してみましたが、見当たりませんでした。 100年前にネット環境があったら、民俗研究的にはかなりの成果があったんでしょうねえ……。 それでちょっとお伺いしたいのですが、御祖母様の御葬式というのは、高知県で行われたのでしょうか? 「何処の地域の人達がそれを作ったのか」が解れば、或いは、とも思ったのですが。 あと、高知のどの辺りかお解かりになりますでしょうか? 室戸岬側と足摺岬側では、言葉からしてまるで違うと言うくらい、諸々が異なるそうなので……。 |
[110] Re[106][105][101][95][91][90][87]: トンデモ全開で!星田妙見宮(小松神社) 日雲 | 2003/07/10(Thu) 17:34 [Reply] |
レス有り難う御座います。 >周防国 都濃郡の降松神社の由緒に人皇三十三代推古天皇の御宇9月18日〜 >とあるのが本邦の妙見信仰の初見、推古5年は596年。 >中山神社は文武天皇の時代の706年〜三代実録の860年の間の創祀のようで、>伽他野部長者乙丸が妙見信仰を持っていても矛盾はなさそうです。 えー、しかしこれ困ったことに、志呂神社自体には妙見信仰はおろか、星信仰自体が今ひとつ見当たらないんですよね。 氏子専用の護符に五茫星がドーンと記されてあったりはしますが、それが本当に星なのかどうか、桔梗紋であったりしなかったのかどうか、がよく解らない。 古文書の類がないそうで、「シロ神社で、主祭神が事シロ主」というのも何か出来すぎ(?)ていて、創建当初からそうだったのか、その辺も今ひとつ不明。 中山で星信仰があるのは、以前にも書きましたが、中山神社の奥の院とされていた、狩猟と関わるらしき黒澤山万福寺の方で、これは虚空蔵信仰です。で、 >交野妙見宮には空海開基の伝承もあり、 ――ということであれば、こちらも一時期には虚空蔵信仰(的)であったこともあったのではないか、とも考えられる……? 上記の年代から伺える話は、「乙麿個人が中山の地を退いた時点で妙見信仰を持っていてもおかしくない」ということでしょうから、製鉄遺跡がある古墳時代の交野ではどうだったのか、乙麿以前の中山の物部においてはどうだったのか、ということを考えると、交野の「妙見」というのは、 「古墳時代の交野には製鉄遺跡はあったが、『鉱石=星』という観念はまだなかった。それが後に導入せられ、その時点から星信仰(妙見信仰)が始まった」か、 「交野では、古墳時代から『鉱石=星』という観念の元に製鉄が行われており、これは『妙見』とは別の星信仰であった。ここに後に『妙見』の名義がかぶさった」か、いずれかなんでしょうが、ここで興味深いのは、平成祭CDの星田妙見の由緒に見られる、 「当社では大昔からこの土地に小さい祠を立てて、饒速日命を祀った宮、すなわち現在本殿の北側に古宮といわれる末社があったが」 「伝えによると、現在本殿の住吉四神を祀ったよりも遥か以前、ここに一本の大杉があって、そこに当地の氏神として交野大明神を祀っていたが、後にそれが枯死したので、この古宮ができたという」 ――との、星田宮のかつての祭神はニギハヤヒ? という記述と、 http://www.city.yokohama.jp/yhspot/ysc/izumo/n_chugoku.html#106 にあります、島根県の松崎神社についての、 「[雲陽誌]という書物によると、この神社の神宝に、延宝7年に掘り出された石がある. 古語「星隕って石となる」から神の石として、その神社の祭神ニギハヤヒ命(星の神と説明がある)として宝としたという」 この間に絡みがあるかどうか、という点でしょうか。 掘り出された石をどうして「隕った星」と限定して観念したのか、石が掘り出される前から、二ギハヤヒと星につながりを見ていたのかどうか、非常に気になるところです。 > > 『妙見信仰の源流−小松神社祭祀の潮流』 > 月刊若木付録「研究所報」平成14年6月1日発行の「第八期研究生研究報告書要旨」に掲載のものです。 有り難う御座います。機会を見つけて、国会図書館で探してみます。 |
[109] Re[107]: 「ん」について 神奈備 | 2003/07/10(Thu) 17:02 [Reply] |
> 旦波「たには」と丹波「たんば」は、どちらが古いの?というようなところについて、知りたいですね。「ん」は存在してても、語の繋がりで、母音化した為、二重母音的音を避ける為、「に」や「ぎ」が使われているのではないでしょうか。 ともこ.k さん こんにちは。 万葉集が まに えふ しふ と発音されていたと言うことは、最後に母音をつけるのが当時の通例のようですね。天皇は てに おう。壬申の乱は? 私には言語は手に負えない。 |
[109] Re[107]: 「ん」について 神奈備 | 2003/07/10(Thu) 17:02 [Reply] |
> 旦波「たには」と丹波「たんば」は、どちらが古いの?というようなところについて、知りたいですね。「ん」は存在してても、語の繋がりで、母音化した為、二重母音的音を避ける為、「に」や「ぎ」が使われているのではないでしょうか。 ともこ.k さん こんにちは。 万葉集が まに えふ しふ と発音されていたと言うことは、最後に母音をつけるのが当時の通例のようですね。天皇は てに おう。壬申の乱は? 私には言語は手に負えない。 |
[108] Re[102]: 下照る別解釈 習志野のてつ [Mail] | 2003/07/10(Thu) 12:21 [Reply] |
> 夜の夜光虫は神秘的です。 「海の下照る」ですか?なるほど! 実は夜光虫、どこにでもいます。 夜海に潜ると必ず会えます。 マンガの動線(動きを表す線)のように、手や足の動きの跡が 光って見えます。本当に神秘的です。 夏の夜の海で、一度試してください。感動すること請け合いです。 月明かりもない、暗い時・所ほど見やすい→恐い→神秘的 > 日本海側では、太陽が海から昇るコトはないので、 > 「下照る」の形容に相応しいような海からの日の出は拝めません。 KAGさんのイメージと少し違うかな?と 【雲間から漏れた陽光が海面を照らしながら移りゆくさま…】 日の光が、雲間から地上世界に降り注ぐ。と思ったのですが。 真偽の程はKAGさんに所属。又は読み人の心の中に。 |
[107] 「ん」について ともこ.k | 2003/07/10(Thu) 08:01 [Reply] |
こんにちは。 神奈備掲示板の話題を、こちらに書いてよろしいでしょうか? 不適切でしたら削除して下さい。 「ん」について。 英語のnは、母音を付加すると「な行」になります。日本語では違います。別の系列です。(「が行」かな?) (強いて、言えば、英語のnは、舌の位置が日本語の「ん」の位置に一番近いのは、「に」でしょうか?) 一方、日本語では、語末では、発音記号では、nとjの尻っ尾がひとつになったようなものになりますが、 他の語句と繋がると、発音記号では、Nか、nの上に〜がついたもので、母音のような音になる場合があります。教科書的には、 「本」と「本」屋 という例がよくだされます。 「ん」について、考えるなら、上のことを踏まえて、 当麻は、なぜタギマなの? 旦波「たには」と丹波「たんば」は、どちらが古いの? というようなところについて、知りたいですね。 「ん」は存在してても、語の繋がりで、母音化した為、 二重母音的音を避ける為、「に」や「ぎ」が使われているのではないでしょうか。 それで、単独の語(末)でも、慣用的に「ん」が使われないことも多かったのではないでしょうか? 勿論、宛てる文字も無かったのでしょうが。 うまく纏まっていませんが、如何でしょうか? |
[106] Re[105][101][95][91][90][87]: トンデモ全開で!星田妙見宮(小松神社) 神奈備 | 2003/07/10(Thu) 08:00 [Reply] |
周防国 都濃郡の降松神社の由緒に人皇三十三代推古天皇の御宇9月18日都濃郡鷲頭の庄青柳の一松樹に降臨ましまし霊異を輝し玉ひ宣託してのたまはく我は天之御中主尊なり今より三年ならずして百済国の琳聖太子来朝すべし其の擁護のためにここに天降りしなり云々とあるのが本邦の妙見信仰の初見、推古5年は596年。 中山神社は文武天皇の時代の706年〜三代実録の860年の間の創祀のようで、伽他野部長者乙丸が妙見信仰を持っていても矛盾はなさそうです。 ただしおっしゃる通り、交野妙見宮には空海開基の伝承もあり、磐座があると言うだけでは奈良時代以前に遡れるかどうかは苦しい所、強いて言えば、近くに式内社細屋神社が鎮座、茨田勝にかかわる神社であれば茨田堤、古墳造営の技術と共通などを考えて、早期に交野への星信仰の伝播があったかも。 > 『妙見信仰の源流−小松神社祭祀の潮流』 月刊若木付録「研究所報」平成14年6月1日発行の「第八期研究生研究報告書要旨」に掲載のものです。 |
[105] Re[101][95][91][90][87]: トンデモ全開で!星田妙見宮(小松神社) 日雲 | 2003/07/10(Thu) 02:51 [Reply] |
> 製鉄炉は中国地方(吉備)と同じ型のようです。 ああ、そうですか!? ご教示どうも有り難う御座います、これはかなり嬉しい(?)かも……! > この交野には妙見信仰があり、製鉄氏族であった物部は星の信仰を持っており、当然妙見信仰を持って吉備におもむいたのでは。 前々から疑問だったのですが、交野の妙見信仰というのは、光仁天皇やその奥さんスジの百済系北天信仰が元だった、ということはないものなのでしょうか? それをぐっと遡り得る古いものである形跡があるのか、どうか……? 勿論、個人的には、遡ってくれた方が楽しいのですけれども。 > 星田妙見宮の宮司さんの『妙見信仰の源流−小松神社祭祀の潮流』 すみません、これは書名でしょうか? そういう本がある……? 時に、鉱物と星の関連は方々で見ますが、交野の地の星信仰も製鉄と絡んだそれで、 >古墳時代の製鉄遺跡や鍛冶遺跡 という頃からそうであったとすれば、それはどうしたって当初、「妙見」名義ではなかったはずですよね。 往時、その祭祀対象の星は何と呼ばれていたのか……? 交野界隈で、妙見に「〇〇さん」とかいう異称・通称でもあると面白いのですが……難しそうですねぇ。 しかし、こうとなると、改めて「鬼」というのも何だか面白くなってきそうです。 |
[104] 美保神社 玄松子 | 2003/07/09(Wed) 22:44 [Reply] |
出雲の美保神社は、港に面して東向き。 早朝に参拝したときに、海から上った朝日が差し込んできたように記憶しています。 下照姫は、高比売と同神とされています。太陽の位置によって名前が変わったのかもしれませんね。雷という説もありますが。 |
[103] Re[102]: 下照る別解釈 神奈備 | 2003/07/09(Wed) 21:48 [Reply] |
> 日本海側では、太陽が海から昇るコトはないので、 > 「下照る」の形容に相応しいような海からの日の出は拝めません。 ユアンさん こんばんは。イメージが広がって行きますね。 所で出雲の平野で早朝の事ですが、宍道湖から日が昇り、日本海に没していくのです。12時間日が照っている平野なのです。 下照姫の誕生の地かも。 |
[102] 下照る別解釈 ユアン [Mail] | 2003/07/09(Wed) 21:32 [Reply] |
夜の夜光虫は神秘的です。 その規模を大きくしたような発光魚が 南方にはいるそうです。 ソロモン諸島のランガランガ島には「クァシ」という名の 悪霊の存在が言い伝えられている。 それは真っ暗な夜、突然海の一部が強く発光する現象の ことで、ソレを見たモノは病気になるとかいわれてるらしいです。 科学的には、「ヒカリキンメ」という一種の発光魚の 群体がおこす自然現象だろうと言うことでした。 日本書紀で、くにつくりで大国主に協力する、 「神しき光海に照らしてやってくるもの」 この正体は「セグロウミヘビ」であるというのは 谷川健一氏の説です。腹が黄色の南方産の海蛇です。 一歩すすめて、この海蛇に「ヒカリキンメ」が群れで ついてきたとしたら? 海は神々しいまでに光って、神の訪れを告げたことでしょう。 ちなみに三輪山の御神体は蛇ですね。 日本海側では、太陽が海から昇るコトはないので、 「下照る」の形容に相応しいような海からの日の出は拝めません。 海からの日の出、みてみたいですねえ。 ついついつられてトンデモ話を披露しました。 |
[101] Re[95][91][90][87]: トンデモ全開で!星田妙見宮(小松神社) 神奈備 | 2003/07/09(Wed) 21:01 [Reply] |
神奈備に書いたのですが埋没気味なので再掲します。 > 物部肩野というのは、やはり交野物部と同じ流れの者であったとしても良いのでしょうかね……? 片野のJR磐船駅近辺には古墳時代の製鉄遺跡や鍛冶遺跡が出ています。製鉄炉は中国地方(吉備)と同じ型のようです。片野周辺には砂鉄などの鉄の原材料は見あたらず、おそらくは中国地方辺りから材料を運んでいたのかもしれません。 運び出すべく送られたのが中山神にばくちで負けたとの伝承を持つ伽他野部長者乙丸で四の五の云わずにさっぱりと土地を明け渡してか、弓削庄へ退去しており、ここで仏教寺や志呂神社の祭祀を行っています。お寺には肩野物部廟と云う祠もあるようで、まず、河内國の交野郷から赴いた物部一族だったと見ていいんでしょう。 この交野には妙見信仰があり、製鉄氏族であった物部は星の信仰を持っており、当然妙見信仰を持って吉備におもむいたのでは。交野の星田妙見宮の小字を鐘鋳谷(かねいだん)と言うように、妙見と鉱山とはつなり、武器、農耕、土師、織物へとつながっています。 星田妙見宮の宮司さんの『妙見信仰の源流−小松神社祭祀の潮流』ダイジェストと講演からの話ですが、従って青草ではありませんのでこちらへ、王権によって鉄の妙見信仰は追われていったのではないか、即ち金属の独占化を金山彦神信仰の中山神を押し立てて妙見の物部の鉄を奪っていったのではとの見解を示されていました。 |
[100] Re[94]: 茅淳の海の下照る 習志野のてつ [Mail] | 2003/07/09(Wed) 20:33 [Reply] |
> …茅淳の海はまるで東西に流れる大河のような趣きです。… > …雲間から漏れた陽光が海面を照らしながら移りゆくさまがよく見えました。ちょうど映画『未知との遭遇』で巨大UFOがまばゆく地面を照らして飛んでいる場面のように。 > 雲と太陽と海面の組み合わせによる、幻想的な『下照る』風景です。『下照る』という言葉が、観念的なものでなく、現物の自然風景を見ている人達が述べたものだと実感したのです。 KAG様 【『下照る』という言葉が、観念的なものでなく、現物の自然風景…】 『下照る』のイメージはこれか!…(しばし絶句) サングリーン様の「すごーいイメージですね。」に同感 日雲様 【「ブト」「マガリ」という御菓子】全く存じませんでした。 【鹿に代わる「ブト」】を読んだ時、太占(ふとまに)を思い浮かべました。 太占は鹿の肩甲骨で行ないます。フトその代わり?などと考えました。 じゃあ「マガリ」は勾玉? 実際の写真を見ると全然違う。百聞は一見に如かずですね。 |
[99] Re[98][97]: ン? KAG | 2003/07/09(Wed) 16:09 [Reply] |
> >
神奈備でのやり取りを、みんなはどう見ているのだろうか。 生田氏の投稿を繰り返し読んでみるのですが、正直なところ内容がよく判りません。質問しようにも、論点以前に生田氏の文章表現が理解しにくいところがあり、わからないので詰まってしまうのです。乱入参加の糸口がつかめないままです。 今は玄松子さんの論点整理で、書き込みの意味を追っかけている状況です。しかし、その玄松子さんの指摘に対しても、生田氏が論点を替えていくのでウナギをつかむような流れに見えています。 |
[98] Re[97]: ン? 神奈備 | 2003/07/09(Wed) 14:27 [Reply] |
> 神奈備でのやり取りを、みんなはどう見ているのだろうか。 論点整理になっており、ありがたいここと思っています。 老化現象の一つでしょう。心しなくては。 |
[97] ン? 玄松子 [Mail] | 2003/07/09(Wed) 12:43 [Reply] |
神奈備でのやり取りを、みんなはどう見ているのだろうか。 どうでも良いと思ってるのでしょうか。 僕にとっては、重要なことではないし、どうでも良いことなのですが。 最近の、生田さんの書き込みに対する嫌悪感から、続けています。 お目汚しでしたら、終了させますので、メールでもお知らせ下さい。 |
[96] 光る神 サン・グリーン [Mail] [Url] | 2003/07/09(Wed) 09:26 [Reply] |
KAGさま すごーいイメージですね。下照姫がこんな風に大阪湾上に浮かび上がってくるなんて! 私も昨年、沖縄くだか島行ったとき、帰りにセーファーウタキ側で一泊して早朝に日の出を見たのですが、くだか島から太陽が上がって強い光が雲間から海に映って、光が海上を照らしながらこちら側に近づいて来る様子をみた時、まさに光る神が海の上を渡ってくる(大物主出現)はこんな感じでは?とイメージをふくらませて感動したことがあります。 日雲さま ブト・マガリのお供えの写真を見て驚きました。 私の祖母が亡くなった時(30年ほど前)これとそっくりな人型の御餅を作って、親戚みんなでそれぞれ分け合っていただきました。祖母は手先が器用だったから、私はどちらかの手をもらった覚えがあります。それ以後、何回か親戚のお葬式にでましたが、そのようなことをしたことはありません。ちなみに我が家は日蓮宗で、祖母は高知県の出身です。 それから、 (奈良県)桜井を歩く会、次回もイワクラ探検です。7月21日午前九時半朝倉駅前 今回は三輪山周辺(平等寺の影向石、人像石、陽石など)資料代500円、弁当水筒持参 |
[95] Re[91][90][87]: トンデモ全開で! 日雲 | 2003/07/09(Wed) 02:17 [Reply] |
> 恩智神社近辺から銅鐸出土。 > 当地もヲチで越智と云われた物部の拠点(鳥越憲三郎氏説)、弥生時代。 ああ〜……恩智って、ヲチのことでしたか……!? 我ながら阿呆ですね、全く気付きませんでした(;w ところで、恩智神社の人身御供代わり的な供え物に、「ブト」「マガリ」という御菓子(?)がありますが、 これと同じ名称のものが、岡山県の志呂神社で、 「中山神社を追放された物部肩野乙麿が、人身御供の代わりに鹿を供える様になった」という、 その「鹿」にさらに代わるものとして、用いられております。 以前、交野市に「大知谷」なる地があることをお教え頂きましたが、 こうして見ると、物部肩野というのは、やはり交野物部と同じ流れの者であったとしても良いのでしょうかね……? 時に、「ブト」「マガリ」は、上記二箇所の他では春日大社でも供えられているようですが、 それ以外にここでもお供えされてるよ、と御存知の方はおいでますでしょうか? こういう↓ものなのですが(恩地神社バージョン)。 http://www.onji.or.jp/03/0303-main.html#11-24 ちなみに、市販もされてるようです。食べたことはないですが。 http://www.asahi-net.or.jp/~wn7t-ymd/butomanjyu.htm |
[94] 茅淳の海の下照る KAG | 2003/07/08(Tue) 22:25 [Reply] |
毎度、イメージの話しですが、土地鑑のご参考になればと。 神戸の六甲山系の南側山麓から大阪湾を見ると、東から南にかけて生駒山系、二上山・葛城・金剛山系、そして長〜い紀泉山脈、その先端に和歌山の友が島。紀伊水道を渡って西方へ淡路島が眺め渡せます。大阪湾が東にぐっと入り込んで、対岸に紀泉山脈なので、茅淳の海はまるで東西に流れる大河のような趣きです。 この春先、神戸市中央区の春日野と呼ばれる処、摩耶山系の麓にある少し小高い地ですが、そこから2ヶ月程この大阪湾一帯を眺めながら過ごしました。 朝、葛城山の方から(条件が良ければ吉野の山々が見えます)昇った太陽が、河内、摂津の町々を過ぎて、ゆっくりと帯のように見える大阪湾の海上を照らしながら西へと向い、淡路島を過ぎて須磨の山影の後ろに沈みます。もっと高いところに登らないと、東播(加古川・姫路)の様子はわかりません。(東播が見えると小豆島が見えるのですよ。) 今年は雨も多くて曇りがちでしたので、雲間から漏れた陽光が海面を照らしながら移りゆくさまがよく見えました。ちょうど映画『未知との遭遇』で巨大UFOがまばゆく地面を照らして飛んでいる場面のように。 雲と太陽と海面の組み合わせによる、幻想的な『下照る』風景です。『下照る』という言葉が、観念的なものでなく、現物の自然風景を見ている人達が述べたものだと実感したのです。 |
[93] Re[92]: トンデモ全開で!「青草的補強」 KAG | 2003/07/08(Tue) 21:34 [Reply] |
比売許曽神社のご由緒にでてくる、阿加流比売神と新羅の天之日矛や、加羅の都怒我阿羅斯の話しなどは、まだまだ新しい説話にすぎないという感じですね。 トンデモという開き直りこそ有利にして、学説では骨格に留まっている弥生時代に、肉付けをし衣装を着せて化粧を施す妄想を愉しみたいと思います。そういう意味で物部は弥生の王国として入りやすい目安になるでしょうか。 『照る』という言葉には、私的な印象ですが、南九州から琉球方面でよく出会った言葉のような気がします。(南国方面のルーツという意味ではなくて、より古い言葉だから辺境に残っているのだろうか?ということです。)照屋林賢のCDを聞いて躍るまでもなく、『照る』という語にはもう少し注目していきたいと思っています。 |
[92] トンデモ全開で!「青草的補強」 神奈備 | 2003/07/08(Tue) 20:25 [Reply] |
万葉集に「下照」と云う言葉が二歌に歌われています。講談社文庫『万葉集』中西進著から 巻十九 元明天皇が難波の宮にいます時の歌 河内女王(高市皇子の皇女) 四〇五九 橘の下照(で)る庭に殿建てて酒漬(さかみづ)きいます我が大王かも 訳 橘の実で木の下が輝く庭に御殿を建てて、酒宴を催しておられるわが大君よ 四一三九 春の苑紅にほふ桃の花下照(で)る道に出で立つ美人(をとめ) 訳 春の苑に紅がてりはえる 桃の花の輝く下の道に、立ち現れる少女 この歌以降四一五三まで三日間小刻みに連続して歌われたそうな 四一四三 物部(もののふ)の八十(やそ)乙女らが汲み乱(まが)ふ寺井の上の堅香子の花 訳 物部の多くの少女達が入り乱れて水を汲む。その寺井のほとりの堅香子(かたかご)の花よ 難波、河内、下照姫とセットになっている。 下照姫とは樹下美人図の美人で幻の存在で、本当はミス物部少女を云うか。 |
[91] Re[90][87]: トンデモ全開で! 神奈備 | 2003/07/08(Tue) 08:04 [Reply] |
> この浪速で物部氏が栄えはじめた時代を、どの頃のあたりに想定されているのでしょうか?もっとイメージをつかみたく思いますので、おおまかでもお教え下さい。 紀元前後には来ていたのではと想定。 池上曽禰遺跡の柱材は紀元前52年に伐採。ここは二田物部の跋扈した地。 恩智神社近辺から銅鐸出土。 当地もヲチで越智と云われた物部の拠点(鳥越憲三郎氏説)、弥生時代。 森古墳群が交野にあり、どうやら交野物部の古墳。『交野市文化財だより第6号』では、遠慮しいしいだが、弥生時代末であろうと推定されている。 卑弥呼の時代には栄えていたようです。 |
[90] Re[87]: トンデモ全開で! KAG | 2003/07/08(Tue) 01:22 [Reply] |
> ・・・浪速は結局物部氏の支配する土地となっていたようです。 > この天津国玉神とは中途半端な神名ですが、国津神ではない浪速の国魂神のようで、祭られるとすれば、やはり大阪城近辺にあった生国魂神社がその名前からはふさわしい。 『生国魂神社』は、浪速を支配していた物部氏が、天神御祖としての天津国玉神を祀った神社であった・・・ということですね。 この浪速で物部氏が栄えはじめた時代を、どの頃のあたりに想定されているのでしょうか?もっとイメージをつかみたく思いますので、おおまかでもお教え下さい。 |
[89] 青草「養護」 玄松子 | 2003/07/08(Tue) 00:07 [Reply] |
特定の個人の書き込みなので、その方が見ていないだろうと思われる板に、ツラツラ書き込んでも意味が無いのではないかと思いますよ。 |
[87] Re[86]: WAKUWAKU,WIKIWIKI 神奈備 | 2003/07/07(Mon) 10:54 [Reply] |
> もっと青草をッ!・・・ってなわけで、実のところ僕はトンデモ・ファンです。 香具さん まいど 疑似トンデモ話 です。 大阪市東成区東小橋の比売許曽神社の旧社地である産湯稲荷神社の井戸は味耜高彦根命の産湯の井戸とかまた近くにはその妹神である下照比売命が天の磐船に乗って天降った場所との伝承があります。 味耜高彦根命、下照比売命は大国主神の子神とされる国津神で、浪速の支配者の祭る神々だったのです。 そこへ天津国玉神の子の天若日子命が差し向けられます。天津神です。天若日子命は死んでしまいますが、その後の浪速の平定のお話はどうなったんでしょうか。 比売許曽神社は大阪城の辺りに鎮座していて、ここには磐船神社も鎮座していました。物部の神社です。筑後御原の姫古曽神社は別名を磐船神社と云い、どうも比売許曽神と磐船神社とは同義ではなかったか、すなわち、饒速日尊に十種神宝を持たせた天神御祖とは天津国玉神と考えてもよさそうで、浪速は結局物部氏の支配する土地となっていたようです。 この天津国玉神とは中途半端な神名ですが、国津神ではない浪速の国魂神のようで、祭られるとすれば、やはり大阪城近辺にあった生国魂神社がその名前からはふさわしい。 |
[86] WAKUWAKU,WIKIWIKI KAGもしくは素浪人 | 2003/07/07(Mon) 02:08 [Reply] |
もっと青草をッ!・・・ってなわけで、実のところ僕はトンデモ・ファンです。僕自身、ネチネチと難癖をつけてるようですけど、ホントは心からwonderが大好きなwandererです。 ・・・で、もっとワクワクするような、もっとウキウキするような、そんな不思議を愉しみたいと思っているのです。それが正当で正統な学説であろうと、無茶苦茶でトンデモな論説であろうと、『面白いッ!』と感じたものには存分に味わいたいという欲求が生じます。 学説として無くてはならないものの無味乾燥な面白みに欠けるものもありますが、地道な研究の積み重ねが築きあげた土台の上に、輝ける頂上があることは忘れません。プロの研究者やそれに志願される方々は、多くの批評を乗り越えて鍛え上げられてきたことと思います。それは世の中のどんな仕事にも共通することですよね。 しかしトンデモ説の分野では『他者との適切な対話ができずに、声高に自説を繰り返すのみ』な方が多いのも現実です。批判、批評をドンと真正面から受けて立ち、それに誠実に応えていく。僕はそういうトンデモ説を待ち望んでいるのです。これがファン心理なんだなァ。 衒学的な言葉を撒き散らしたり、一見もっともらしい論法を装って投稿しても、あまりにも粗雑で、愉しむに堪えないトンデモが多くなると情け無くなってきます。独創的発想を展開しようとしても、独善的過ぎて他者との対話能力に劣るようでは、掲示板での投稿に意味がなくなりますよね。 書店で『擬似歴史』とされた書棚の出版物の中には、よくまあ〜こんな内容で・・・と、首を傾げる以上の本も氾濫しています。フィクションとかエンタテイメントとか、あるいは『・・・私考』と銘打つならともかく、先人の業績を否定してコケおろし、正説と宣伝するのは行き過ぎと思います。(素人や初心者が行くとコロッと騙される分野でもありますね。) 僕はまったくの理科系でしたので、数年前に近隣国の代表が来日して、しきりに『日本人は歴史認識が足りない』と執拗に繰り返していたことから、「そうやな〜、あんまり歴史を勉強してなかったナ〜」と考えなおして、書店の歴史書コーナーに足を運んだのがきっかけでした。 まあ、行ってビックリでしたけどね、玉石混交とはこのことかと。(結果、某国の代表には、アンタの方が歴史認識が足りんやんか!と思いました。) 学者や研究者に偏らず、色々な分野の方々が出版されることは、素晴らしいことだと思います。もっと各地方、各分野の方々の出版が続くことを願っています。伝奇ものでも、トンデモでも同様、どんどん紹介してほしいです。 しかし、政治的外交的な謀略であったり、とにかく自説の流布一方であったり、巧妙に事実らしき物を並べながら空理空論だったりすると、面白みが欠けて欠けて・・・。(T_T) 繰り返すようですが、僕は緻密に築き上げられたトンデモや、事実に構成されていながら最後に出てくるトンデモとか、そういうとてもデリシャスなトンデモに飢えています。(トンデモのグルメね。) ブッ飛びなトンデモを求めるファンなのです。 だから古代史において渡来人による文明開花史観なんて、甘ったるくて粗雑過ぎて(これは私的なフィーリングですよ)、苦手なんです。けっして右翼でも左翼でもありません。 もっともっとタイムマシンの性能をアップして古代へダイブしなければ、面白くありませんね。この場合のタイムマシンとは各個人の意識となるでしょうか。その性能アップこそ、掲示板の対話やオフ会での語らいを通して為されることと思っています。他者という磨き砂は痛いけど、よく磨いてくれる存在です。 だから、青草ってのは本来、良質なロマンの世界だとも思っているのですよ。 |
[85] アホクサ擁護 習志野のてつ [Mail] | 2003/07/07(Mon) 00:08 [Reply] |
天動説全盛のとき、地動説は「アホクサ!」「この大地の何処が動いてるんや!」 (関西弁への他意はございません。話の流れで使っただけです。) と云うことで、真面目に考えず、通説のみに従うと、新説は皆「アホクサ」く聞こえます。 本家でももっともらしい「アホクサ」話よく流れます。 「アホクサ」く見える『真実』を追求するということでいかがでしょうか。 あまりひどいと、お席亭から雷が落ちますから。 それまではまあ、単なる思いつきでも、気楽に気にせずカキコしませんか。 |
[83] 文字化け報告 すっぽん | 2003/07/06(Sun) 04:08 [Reply] |
すいません、このページの一番上に「復草木咸に狽ュ言語有り。」ってありますね? この「狽ュ」が文字化けするのは私のPCだけ? 文字エンコードを「シフトJIS」、「EUC」とかやってみても直らないです。 |
[82] Re[80][79]: 言いがかり すっぽん | 2003/07/06(Sun) 03:54 [Reply] |
青草が好きで、雷が嫌いなすっぽんです!(笑) 神奈備さん> 多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。復草木咸に 神奈備さん>能く言語有り。素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか 神奈備さん>従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を! これ前半は日本書紀ですよね? 常識にとらわれない発想・・・ホントに大事です! だから、「青草談話室」をアホクサと決めつけると進歩がないんですよ。 習志野のてつさん>今後船や航海だけのことでご意見がありましたら、メールで・・ 了解しました。 アホクサ呼ばわりでショックを受けてることもあって、とりあえず! |
[81] Re[78]: 海賊船 習志野のてつ [Mail] | 2003/07/05(Sat) 14:04 [Reply] |
>
普通、海賊船が襲うのは積荷を満載した商船なので、スピードが全然違うんです。 これはナットクです。 ただし色々な場面での速度があります。 追い風で走る時と、向かい風に間切っていくのとは、異なる性能が要求されます。 重い船は、追い風時は遅いのに、間切る時は性能が向上することが多いです。 > だから見つかったらまず逃げれない、逃げればよけいひどいことをされる。 この考え方は日本独特だと思いますよ。 帆船時代は、風次第でなにが起きるかわからない。 急な突風で、帆柱が折れるかもしれない。 無風状態になることもある。お互い見えていても何もできない。 そのうち夜になれば、ヤミに紛れて方向を変え逃げる可能性もある。 喫水の差を利用してわざと浅い海域を通り逃げる。色々あります。 「逃げる振りをして、海軍の戦艦の方におびき寄せている」振りをして 逃げ延びた例も(小説に)あります。 〔遠方の何もない方向に信号機を揚げ、あたかもそちらの海軍の戦艦に連絡する様に 見せかけます。それを見た追跡船が、あわてて引き返す〕 アメリカでは、警察に捕まっても、自分は正しいと主張します。 ましてやヤクザじゃない海賊、逃げるのが当たり前。もし逃げなければ、 乗組員全員が生きて戻っても、船長は逃げなかった責任を追及されるでしょう。 最善を尽くしたと認められないと、船主から損害賠償請求を受けるでしょう。 人命は地球よりカルカッタ。 インドのカルカッタ(?)から紅茶を運んだカティーサークは、積荷を満載しても メチャクチャ早いです。当時の最高記録。時代が違うかな〜 ご紹介いただいたHPで、海賊旗が有った事は判りました。ありがとうございます。 今後船や航海だけのことでご意見がありましたら、メールでやりとりしませんか? 私は船や航海の話大好きです。アドレス航海です(マドロスのてつ)。 |
[80] Re[79]: 言いがかり 神奈備 | 2003/07/05(Sat) 08:14 [Reply] |
青草のキャッチフレーズは下記の通りです。 多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。復草木咸に能く言語有り。 素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を! 青臭くとも、阿呆くさくとも、もっともらしい検証ができにくい仮説−ドンデモを含めて−を歓迎しています。某氏などもこちらがお似合いのように思いますが、プライドが・・ね。 |
[79] 言いがかり すっぽん | 2003/07/05(Sat) 03:19 [Reply] |
青草が好きで、雷が嫌いなすっぽんです!(笑) ホントは笑ってる場合じゃないんです、本殿(神奈備)のほうで「青草談話室」を侮辱する人が出てきました。 生田淳一郎さん>のっけから「アホクサとしか評価されなくてもいい、 生田淳一郎さん>真面目に取り上げないでくれ」と思ってやる発言が 生田淳一郎さん>青草だとおれは認識しています。 青草をアホクサなんてひどい言いがかりです! 青草はアオクサと読んで、青臭い(未熟)との掛け言葉になっているんですよね? |
[78] 海賊船 すっぽん | 2003/07/04(Fri) 04:32 [Reply] |
青草が好きで、雷が嫌いなすっぽんです!(笑) なんか神奈備は敷居が高そうなので、ここに書きますけど、 普通、海賊船が襲うのは積荷を満載した商船なので、スピードが全然違うんです。 だから見つかったらまず逃げれない、逃げればよけいひどいことをされる。 ヤクザの○○組のバッジみたいに、まず脅かす意味があるんじゃないですか? 相手をパニックにするというのが脅しの基本みたいですから(本で読んだだけですよ!) |
[77] 発想の飛躍 習志野のてつ [Mail] | 2003/07/02(Wed) 10:06 [Reply] |
本家掲示板で「百」は「どう」とユアンさんから習った。 「百:ひゃく」もいろいろあるな〜と思っていた。 今度はすっぽんさん(はじめまして)から「闢」は室町時代には「ひやく」 ひらく…ひやく…HIYAKU…HIYAKO…う〜む。確かに似ている。 「ひゃく:闢:はじめor最初」ですか!ありがとうございます。 我が貧しき発想も飛躍せねば。 |
[76] ひやこ すっぽん | 2003/07/02(Wed) 03:44 [Reply] |
習志野のてつさん>この諸神に先んじる「ヒヤコ」ってな〜んだろ? 当てずっぽですけど、天地開闢という言葉の最後の「闢」は室町時代には「ひやく」と読まれていたそうです。 意味は「開くこと」、なら天地の初めと考えられるかも? |
[75] ヒレ…おなかすいたな。 ユアン [Mail] | 2003/07/02(Wed) 01:30 [Reply] |
>この諸神に先んじる「ヒヤコ」ってな〜んだろ? ヒヤコのヒレ…なんなんでしょうねえ? 諸神と諸人に先んじるとすれば、 ヒルコあたりが思いつきますけど? ヒルコ、ヒヤコ…無理があるか。 >「カタシロ」だとすると、祓い終わったあとは海に流すのでしょうか? そうだったと思います。お宮で神事をした後、浜に下りていって 大きな茅の輪を氏子たちがくぐるのですが、 その茅萱は氏子たちにむしられて御守りにされてましたね。 そのあと残った枠組や、神事で使ったモノなどを 海に捨てていましたね。 紙で作った人形みたいなのもあったと思います。 |
[74] 諸神之ヒレ 習志野のてつ [Mail] | 2003/07/01(Tue) 10:46 [Reply] |
「諸神之ヒレ」とは 「渋沢敬三が出した本に『日本魚名の研究』があり、その中で、日本料理の流派で四条流では、 鯉の背鰭(セビレ)で、前から二番目の鰭のことを『諸神之ヒレ』と言う。」(部分抄) 河出文庫「日本語の起源を探る」2003年5月・P38金田一春彦の部分に載ってました。 同じく最初のヒレは「ヒヤコノヒレ」、三番目のヒレは「諸人之ヒレ」と言うそうです。 この諸神に先んじる「ヒヤコ」ってな〜んだろ? (青草が体質になじむテツです) ユアン様 > 夏越の儀礼、志賀海神社では神事のとき、 > 小さな茅萱の輪を胸の前で三回まわして邪気を払います。 大きな茅萱の輪をくぐるよりも、こちらの方が、風土記に近そうですね。 「カタシロ」だとすると、祓い終わったあとは海に流すのでしょうか? |