青草談話室ログ平十五年十二月 2003.11 |
[507] Re[506]: 木宮の祠 神奈備 | 2003/12/29(Mon) 20:37 [Reply] |
植樹の神である五十猛大神のお祭りされている神社をリストアップ、参拝すると云う目標を持っており、この木宮地蔵大権現の名が出てきているのです。文献名メモ見つからずです。神奈備HPの原点です。 伊豆では来宮、木宮、そうして杉鉾別命などが五十猛命と異名同神ではないかと考えています。 沼津では他に大平1824に鎮座の鷲頭神社の摂社に木曽大明神があり、祭神を木の宮大神としています。 他に五十猛命を祭神としている神社がございましたら、是非お知らせ下さい。 |
[506] 木宮の祠 タケトラ | 2003/12/29(Mon) 19:47 [Reply] |
> 勇壮な雰囲気の祭りの復活ですね。 ご紹介に感謝致します。来年も1月12日に海中禊ぎを挙行致します。 >「木宮の祠」と「大朝神社の境内社」との関連はどうなんでしょう。 木宮の祠に関して、愚生は機会がある度に地元の古老に伺っていますが、詳しいことを記憶されている方に出会ったことは未だありません。愚生も西伊豆に越してきて日が浅いものですから..... 神奈備さんのお探しの「木宮地蔵大権現」が我入道所在なら、前述通り、大朝神社境内社以外思いつきませんが、そもそも、『豆州誌稿』でも大朝神社の末社は住吉・猿田彦・橘姫の三座です。木宮さんが、いつからそこにあるのか、愚生の手元資料では不明なのです。 「木宮の祠」は、愚生の現住所の至近にありますが、住所は沼津市下香貫楊原(道路の向かいは「下香貫木の宮」)です。でも、ここがお探しの地蔵かもしれません。石仏が隣に立っているからです。 南向き、古い石積み祠の中に市販の神棚が設置されています。管理されている神職はいません。左側に貞享年間建立の小さな石仏(同じく南向き)、その隣に、東向き安永年間建立の甲子塔と文化年間建立の「大巳貴尊神」と彫られた石柱が並んでいます。 祠は、楊原神社旧社地に考証されている辺り、中央の西より。地主神が末社に祀られるような案配(全くの憶測ですが)の立地です。 もし、お尋ねのご趣旨が深くおありでしたら、さらに訪ね廻っても良いですよ。 |
[505] Re[504]: 木宮地蔵大権現 神奈備 | 2003/12/29(Mon) 08:00 [Reply] |
原田武虎さん「男がオトコを磨く祭りを復活させようではないか。平成14年 正月15日 まずは海中神事の復活に成功しました!」 勇壮な雰囲気の祭りの復活ですね。ご苦労様でした。 皆さん 以下をご覧下さい。大朝神社 http://akon.cool.ne.jp/numazu/oasa.html http://homepage1.nifty.com/numazu-daisuki/mikosi.htm http://www.d3.dion.ne.jp/~stan/kasi/ksz_oas0.htm > 木宮の字地名は、社地の東北方面1.5キロほどのところにあり、祠が存在します。 情報ありがとうございます。「木宮の祠」と「大朝神社の境内社」との関連はどうなんでしょう。飛び地境内と云うことでしょうか。 それともあまり関係なく存在している? |
[504] 木宮地蔵大権現 タケトラ | 2003/12/28(Sun) 23:04 [Reply] |
> 沼津市の我入道と云う所に 木宮地蔵大権現 がある たぶん愚生が氏子総代を務める大朝神社の境内社だと思います。 沼津市下香貫牛臥に鎮座します。大朝神社は、地元では楊原神社の姉妹社的(氏子総代は共通)な存在で、古くは「山宮大明神」あるいは「潮留明神」と呼ばれていた古社です。数年前に社殿を石造りで(配置をずらして)新設したのですが、その後、それに関わった方に不幸があり、云々という話があります。 大朝神社の画像は、古代であそぼのstanさんがお越しになった時のものが、stanさんのHPにあります。 木宮の字地名は、社地の東北方面1.5キロほどのところにあり、祠が存在します。 ご参考までに |
[503] Re[502]: 北緯35度21分 神奈備 | 2003/12/28(Sun) 17:57 [Reply] |
タケトラさん 初めまして。 静岡県沼津市の我入道と云う所に 木宮地蔵大権現 があるそうですが、詳しい場所をご存じないでしょうか。 > 北緯35度21分の聖線 富士山のラインですね。 玉前神社、寒川神社、浅間大社奥宮、真清田神社、南宮神社、出雲大社がある巾内に並ぶと云うお話ですね。 > 梅の時代のそのまた前があったとしても 記紀の編纂以前のこの国に、江戸時代のような言葉が語られる時代があったとしてもおかしくはない? こうなれば何でもありの青草になりますね。 |
[502] 北緯35度21分 タケトラ | 2003/12/28(Sun) 12:36 [Reply] |
はじめまして。静岡県沼津市の港町で食堂経営している古社崇敬者です。 伊豆修験の聖地である葛城山は、富士山・愛鷹山・香貫山・鷲頭山から天城山を経て、伊豆諸島、八丈島と結ぶ縄文の聖なる道筋の中継点に位置します。式内名神大社である楊原神社はその旧社地が聖線上に鎮座していたと考証されている古社ですが、愚生は氏子総代のひとりとして、祭祀の復興に微力を尽くしている者です。 自己紹介はそれぐらいにして、 郁朋社という自費出版系出版社が主催している「古代ロマン文学大賞」というものの第三回受賞作である『朝日の直刺す国、夕日の日照る国--古代の謎・北緯35度21分の聖線--』(池田潤 郁朋社 H15.11.1)という本が面白く、オススメです。 既に多くの先覚者が気づいていた「奇日方」ですが、丹念にまとめられていて読みやすく、素晴らしい出来映えです。 多くの皆さまにご紹介したくて投稿しました。 ところで神奈備さんが、平安期の「左近の桜」変遷を取り上げて「ホツマツタヱ=偽書」断定をされておられますが、唐風と和風の確執の絶えない古の時代のことですから、梅の時代のそのまた前があったとしても不思議ではないと、愚生は想像するのですが..... |
[501] ホツマリイツワリ 神奈備 | 2003/12/27(Sat) 09:43 [Reply] |
秀真伝ホツマツタエが記紀の原資料になったと云う説明があるようですが、まっかな偽りであることが判りました。 http://www1.ocn.ne.jp/~hotsuma8/ht006.html 6-16 南の殿に タチバナ植ゑて カグの宮 東に桜植ゑ ウオチ宮 みづから政治 きこしめす 天照大神の教えの段ですが、これは右近の橘、左近の桜のことで、どうも平安時代初期までは左近の梅だったようです。 『古事談』と云う書籍他に 南殿桜樹者、本是梅樹也、桓武天皇遷都之時、所被植也、而及承和年中枯失、仍仁明天皇被改植也、其後天徳四年内裏焼亡ニ焼失了、仍造内裏之時、所移植重明親王家桜木也 承和年中とは、834年〜848年のことです。吉野の桜が使われたようです。 桜は花の寿命が短く、所謂「うたかた」の象徴、木花咲耶姫。 橘の実は半年はなっている。常世。岩長姫か。 ホツマの一つの真髄となる思想でしょうが、これが平安以降を前提としていると云うこと。 |
[500] Re[499][496][495][494]: 植樹と五十猛命2 神奈備 | 2003/12/26(Fri) 09:25 [Reply] |
>
仲間内だけにわかる伝達手段(暗号)を工夫するはず。 同感。推古天皇時代での夜明けまで天皇が執務をするような表現、−これ義なし−。これは地方のトラブル解決のような低次元のことではなく、祭祀だったのかも。暗闇での神祭りには文字はいらない。 しかし、古墳の造営、裁判沙汰の解決、河川改修、など夜が明けてからの行政には文書はつきもの、おそらく土師文字、物部文字、蘇我文字、大伴文字など、一族のみに通じる記号が使われていたでしょう。 > 記紀などを読むことができる程度の学識をもつ人物 近くの本屋さんの棚の歴史の所には、疑似歴史と云う一角があり、所謂古史古伝などの解説本や、そこそこの人の本などもならんでいます。この一角が面白いのもまた事実。 考えてみれば『日本書記』や『続日本紀』なども注意深く全部を通読していない上に、ウエツフミ、ホツマなどはほとんど読んでいませんので、コメントする立場にはありませんが、八幡愚童訓、粉河寺縁起、平成データの神社由緒なども同類で後世の潤色豊富なものなのでしょう。 ウエツフミは源頼朝の庶子の手になるものとの伝承があるようですが、『神皇正統記』なども鎌倉時代後期の作品であり、この頃には、個人の歴史観に基づいて歴史を書くことが行われ始めたのでしょう。応仁の乱以降の戦乱でほとんどが灰燼に帰しているのでしょう。 歴史著述が盛んになったのは、何と云っても町人文化の花開いた江戸時代で、今伝わっている大半の古史古伝はこの頃にまとめ上げられたものと見ています。発見が田舎と云うのは都会に多い火災を無事にくぐり抜けたと云うこと。 小生に才能があれば、『紀伊国の古風土記』をでっち上げて、我が田舎の神社の奥から出てきたとやりたい所ですね。 |
[499] Re[496][495][494]: 植樹と五十猛命2 かたばみ [Mail] [Url] | 2003/12/26(Fri) 00:00 [Reply] |
≫紀ノ川も高野山北部から九度山経由で支流が流れていますが おっと、有田川の間違いでした。 ある人名の祖先探しで上流の荘園を探っていたらいろいろがでてきました。 ≫有力な説がある江原道春川の牛頭山では育ちません。ここはソウルの東 朝鮮半島では牛頭の地名があちこちにあるようで、伽耶山も牛頭山といったようです。 日本でも牛首岩といった地名があちこちにあるように位置の特定には使えないんじゃないかなあ。 加えて牛頭天王の牛頭とつなげるのはちと無理とみてます。 で、素盞鳴尊の故郷はもっと北の平壌(^^; 燕の衛満に奪われた箕子朝鮮(魏志韓伝BC194)の再興を目して南へ脱出。 九州でも勢力拡大を計ったが天孫の親に敗れて撤退・・ま、青草青草(^^; ≫大阪の高槻に筑紫津神社が鎮座、ここの由緒に 素盞鳴尊東進伝承をもつ神社がありますか。 記紀と食い違う伝承の保持者は悩んだんじゃないかなあ。 ≫五十猛命の反面教師?? スサノオ東進で率いる神々・・五十猛命、五十猛背伴命、大屋毘古命・・ ここでは五十猛命と大屋毘古命は別人扱いですね。 総じて東進伝承は新しい土地へ一族が移動する様子を伝えたのが源で、先住者との抗争が軍勢の進軍に拡張されたとみています。 背に伴う・・おんぶされて移動する五十猛命の赤ん坊。 翻訳者はこのイメージで当て字したに違いなし(^^; ≫大屋彦が50文字仮名を作ったので (^^; ここでは大屋彦命と五十猛命が同一化されていて一貫性がないですね。 巷によくある語呂合わせが伝承化して混じり込んでるんじゃないかなあ。 弥生中期頃には文字と暦は使用されていたと考えています。 物々交換から一歩進んだ交易では覚え書きが必要、季節など日時を遠隔地と共通化する暦も必要になります。 「実用文字」は海運を専門にしはじめた人々が最初に使い始めたと推定。 漢字の存在は当然知っているはずですし、仲間内だけにわかる伝達手段(暗号)を工夫するはず。 船の遺物すらわずかしか出土していないのだからこれらが出土していなくても不思議はないと思います。 で、後に定着したひらがなやカタカナの影響を受けて50音化などの変化も生じる、それがウエツフミの文字(古体文字)だろうと考えてます。 ちなみに、銅鐸に文字が刻まれていないのは必要がないから。 なんじゃこれは、という「模様」よりだれでもわかる絵の方がずっといい。 文字に呪術性や神秘性が加わるとすれば、一般人に文字が認知されるようになってからだと思っています。 |
[498] ウエツフミについて かたばみ [Mail] [Url] | 2003/12/25(Thu) 23:54 [Reply] |
ウエツフミの伝承は九州系、あるいは海人系に伝わるものが多いと感じています。 記紀と違って星に詳しいのは航海からのものだと思う。 TVで放映されていたミクロネシアの漁師は方位を32の星で示して航海の目印にしていました。 北海道にまで話が広がるのも船による行動範囲の広さをしめすと考えています。 しかし、その編纂者にはそれらの伝承を総合的に歴史時間的に構成できるだけの情報(力量)がなかった。 サンカ伝承がベースになっているという論がありますが、おおよそ賛成です。 (サンカの出自とはなにか、になりますが略) 様々な伝承をほとんどノーチェックで取り込んでいるんじゃないかと感じます。 これを編纂したのは記紀などを読むことができる程度の学識をもつ人物、例えば「部落の長老」あたりか。 おかしな話が含まれる場合も編纂者の創作ではなく、すでに尾ひれがついたり変化した伝承をそのまま取り込んでいるためではなかろうか。 一流の学者が自著とするならそれを補正し矛盾点をなくし、自分の考え方に添って書くと思います。 しかし、そうなると編纂者の考え方を知らないと本来の伝承を抽出するのがやっかい。 (古事記は書紀よりずっと美しい、書紀は多人数によるお役所仕事(^^;) 幸か不幸かウエツフミの編纂者にはそこまでの力量はなく、独自伝承を記紀の構成に従って整理再配置した。 それがウエツフミだと考えています。 田中勝也氏の翻訳HPでは35綴りの22章が省略されています。 ここには差別の「いまわしい状況」が書かれており、神々あるいは指導者がそれを指示しています。 過去を美しくありたいとして書くなら少なくともこういう書き方はしないと思うのです。 それを書いている姿勢、美しくまとまってはいないこと、そこからも資料価値が高いとみています。 |
[497] Re[490][485]: 花と蛇 かたばみ [Mail] [Url] | 2003/12/20(Sat) 19:14 [Reply] |
恋川亭さん ≫『DIYであそぼ』はもっと感動してます ありがとうございます。 いろいろ更新しないといけないんですが、遊ぶ方が先で更新がおろそかに。古代もそのひとつ(^^; 太陽電池の蓄電池に覆いを作って電池が風邪ひかないようにしたんですが、こっちがハックション。 神奈備さん ≫アレキサンドロス大王と東西文明の交流展 ×印や+印は2匹の蛇のからみ合い、という論に賛成です。 インドの卍印、BC4000頃のメソポタミア土器の卍や十字も同じと思ってます。 森があればどこでもみんな下のごとしか。 http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/k_data/enpitu.gif (^^; |
[496] Re[495][494]: 植樹と五十猛命2 神奈備 | 2003/12/19(Fri) 09:35 [Reply] |
有田川が海にそそぐ南側に須佐神社(式内大社)が鎮座、紀州海人の跋扈した地域です。挨拶がなければ船は沖を通れないと云うことで、神社の向きが変えられたと伝わっています。今でも秋の例祭には伊太祁曽神社と氏子の相互参列があります。 > 海水の色が血の色のように変わり 有田川は高野山をも水源としており、丹生の土砂が流れ出したのかも。 > 越智氏族が船材を得るための拠点が紀ノ川上流域 紀ノ川も高野山北部から九度山経由で支流が流れていますが、越智と阿テをつなぐのなら有田川になろうかと思います。 阿智、阿智使主が連想されます。彼らを祭ると云われる於美阿志神社が明日香村檜前(ヒノクマ)に鎮座する、紀の川下流に日前国縣(ヒノクマクニカカス)神宮。一時、蘇我氏の支配を受けていた紀氏、東漢との関連もあるのかも。 > ウエツフミ 五 十 猛 背 面 の 命 イタケルソトモ このような神名の伝承があったのでしょうね。 五十猛命の反面教師?? 大屋彦が50文字仮名を作ったので 五十猛、五十言猛、五十音猛、これは創作ッポイ傑作。 |
[495] Re[494]: 植樹と五十猛命2 神奈備 | 2003/12/18(Thu) 07:35 [Reply] |
かたばみさん おはようございます。ヒント豊富な目も眩むお話ありがとうございます。 > 大屋津姫と柧津姫の植樹 五十猛命は両手に花となっていますが、実際は 大屋彦−大屋姫 五十猛−柧津姫 のコンビが習合して女神はそのまま残ったように思っています。肥前に柧津彦・柧津姫の神社があったりします。 > 素盞鳴尊の植えたという木はみな温暖の木か日本特産の木。 同感。これはソシモリとはどこか?と云うことにつながり、楠の木は半島の南端では育つようで、有力な説がある江原道春川の牛頭山では育ちません。ここはソウルの東。 > 素盞鳴尊の東進 たまたま最近参詣したのですが大阪の高槻に筑紫津神社が鎮座、ここの由緒に 太古、素盞嗚尊、筑紫より御幸の際、本地に御仮泊、旅程の安全を祈るため、道祖の神を祀る。(上田の道祖神社はその古祀という)住民、尊の威徳を敬慕し鎮守の神として奉祀す。筑紫津神社は即ちこれなり。 とあり、豊中市の椋橋総社、行橋市大字天生田の清地神社などと組み合わせて、素盞嗚尊を奉戴して東遷したグループがいたのでしょう。 |
[494] 植樹と五十猛命2 かたばみ [Mail] [Url] | 2003/12/17(Wed) 20:35 [Reply] |
なぜ書紀は五十猛命を登場させたのか。 記紀の出雲関連記事は改変(組み替えと削除)が激しいとみています。 ウエツフミには記紀にはない素盞鳴尊や出雲情報が少なからず含まれ、出雲の発達と東進の様子が詳しいので重視しています。 http://www.din.or.jp/~uetufumi/index.html 素盞鳴尊の北海道進出はさすがに?ですが、おおよそ事実とみるほうが全体の流れが自然になる。 ある時代以後の出雲の中枢は、三輪山の東北の唐古・鍵遺跡にあったと考えています。 (出雲神族と出雲臣族が合体した後の出雲) 大阪の南の池上・曽根遺跡(BC53前後)も重要拠点。 兵庫あたりにも拠点があったはずで大型建物跡がそのうち発見されるとみてます(^^; 唐古・鍵の衰退に代わって発達するのが纒向遺跡(大型前方後円墳の登場)で、これが出雲に取って代わった天孫系の遺跡。ま、それはおいて・・ まず大屋彦等の初期開拓の地(BC400頃、縄文+海系文化)が日本海、瀬戸内、太平洋沿岸域に登場し、後に出雲がそれらの地へ浸透、山岳系縄文とも結合して拡大していった(BC100〜AD250頃)。 紀ノ川流域は後の大和朝廷のお膝元、その周辺に残る出雲系氏族を取り込むために大和朝廷は書紀に五十猛命を登場させた。 (最大の取り込み作戦が大物主と倭迹々日百襲姫との結婚説話) なお、大屋彦らのさらにはるか昔にも南方系渡来者が存在し、九州縄文に農耕と近代祭祀への変化を生じさせたとみています。 長江流域に高度な文化を発達させた人々(BC3500〜BC2000頃)、長江大洪水でBC2000頃に崩壊して四散、中国伝承でいう三苗。 記紀にいう豊玉姫など海神族の祖先、アマテラスの誕生や猿田彦の登場にからむ人々で、唾に関する慣習なども少なくともこの時代に遡ると考えています。 続日本紀天平三年(731)の記事に「紀伊国阿テイ郡の海水の色が血の色のように変わり、五日後に元に戻った」とあります(テイは低のニンベンなし)。 平城宮出土木簡(710〜784頃)に「安諦郡吉備郷吉備里海部」があります。 地名の順序から見て「阿テイ」が吉備や海部の上位にあるとみえます(806に在田、そして有田に変化)。 瀬戸内の雄、越智氏族が船材を得るための拠点が紀ノ川上流域。 「阿テイ」は越智オチないしアチからの地名だと思う。 大屋彦と海人たちは後の「饒速日説話」の登場とも無関係ではないと思っています。 |
[493] 植樹と五十猛命1 かたばみ [Mail] [Url] | 2003/12/17(Wed) 20:33 [Reply] |
≫植えなかったとの説もあり やっぱりありますか。 私も五十猛命は植樹とは無関係で、別名とされる大屋彦が植樹伝承の本人と考えています。 別名じゃなくて別人だと思うのです。 素盞鳴尊が生まれるよりはるか昔の人物、大屋津姫と柧津姫の植樹も同じくだと考えています。 各種伝承を解釈するとき、 「なにがあったか」をまずは事実とみなす。 「どこで」はちょい注意が必要。(他所の類似事象と置換されやすい) 「だれが」はもっと危ない。(上に同じ、加えて意図的な置換が容易) 「いつ」は歴史時代以前では無意味。(むかしむかしお爺さんが・・ではどうにもならない) で、複数の伝承や状況を重ねて不自然にならない流れを探すわけです(可能性の高そうな流れを選ぶ)。 また、伝承のある部分によって全体が不自然になるなら、その部分が常識であろうとひっくりかえす(^^; 以下ちょい長くなりますが周辺状況を含めて押さえておきたいので。 まず、素盞鳴尊が植樹したのはどこか。素盞鳴尊のいう吾が子の国とはどこか。 杉やヒノキは縄文早期から列島に生えており、いろいろに利用されています。 福井県鳥浜貝塚の花粉分析によるとBC8000頃から杉が急増、BC3700頃では樹木の40%を占めるそうです。 温暖化で海水面が上昇して列島と朝鮮半島を分断し黒潮の一部が日本海へ流れ込んで、その湿気が日本を覆うようになる時代に一致しています。 杉は多湿を好む木で、半島にもありますが少ない、ヒノキは日本や台湾にしかない。 樟は温暖系の木で、本州温暖地〜台湾、東南アジアの分布で半島では済州島と半島南部にしかない。 艫}キ(槇あるいはカヤ)も分布は同じです。 なお、松は普通の木が育つ環境では負けてしまう木で、日本での広まりは奈良平安あたりからのようです。 http://rfecol.kais.kyoto-u.ac.jp/LABO/tanakami.htm 素盞鳴尊の植えたという木はみな温暖の木か日本特産の木。 杉のないところに植えるから価値があるわけで、素盞鳴尊が植えた場所とは朝鮮半島。 吾が子の国(故郷の地≒根の国)、そこに金銀があるのに木がなくて船が作れないのはまずい。 だから杉や樟を韓地に植えたのだと考えています。 (伽耶の製鉄開始はAD1頃) 五十猛命の植樹の場合は、 朝鮮半島から列島へ運ぶべき樹種はない。 列島に運んで価値のあるのは南方系の照葉樹であり、五十猛命が素盞鳴尊の子であればこれは不自然。 五十猛命(大屋彦)が韓地に植えなかったのは環境が合わないからで、これは自然。 植樹伝承が事実であるならば、別名とされる大屋彦の植樹が五十猛命に置き換えられたとみるのが妥当。 大屋彦の年代は素盞鳴尊とは無関係となります(素盞鳴尊BC194、理由はありますが略)。 大屋彦の植樹はBC473-BC334あたりか(これも理由がありますが略)。 BC500頃だと弥生の温暖化がはっきりして、自然に植生変化も生じて、伝承はより強化される。 ということで、大屋彦は海人とともに九州から瀬戸内や日本海沿岸を東進して活動した南方文化をもつ人々のひとりと考えています。 これは阿須賀神社や熊野三山の縁起とも連動するんじゃないか。出雲熊野も同様です。 インド(あるいは唐)〜九州彦山〜四国石鎚〜淡路〜熊野に飛来して鎮座という縁起がぴたりです。 (インドや唐というのは後の仏教との習合によるものだと思うけど) なお、こちらはもっと古い可能性もあります、後述。 |
[492] Re[490][485]: 花の時には花を以て祭る 神奈備 | 2003/12/16(Tue) 20:56 [Reply] |
> ついでにシマ(縄張り)があるとイチキシマ・・・ 面白い。 柳田国男翁もイチの語源を斎女(イツキメ)に想定しています。斎女はイチ以外にもいたでしょうからしんどい所。 で、イチは境界にたつものですから、普通の共同体のはざま、即ち縄張りの外側でしょう。イチのチはマチ、ミチのチだとか。 |
[491] アレキサンドロス大王と東西文明の交流展 神奈備 | 2003/12/16(Tue) 18:27 [Reply] |
X字装身具の伝承 アフロディアと云う女神の胸には襷がけに紐があり、これは日本では観音様になるのですが、やはり胸元にX字形。 X・・銅鐸 物部? 十種神宝にもあった。 このアフロディアの女神像は時代を経るに従って、まとっているものが徐々に少なくなり、ヘレニズム時代には全裸、神の地位から落っこちたとのこと。何となくイタリア的?。 神功皇后の像で全裸があったようですが、日本でははやらなかったですね。 |
[490] Re[485]: 花の時には花を以て祭る 恋川亭 | 2003/12/15(Mon) 23:42 [Reply] |
>
かたばみさん かなり間が開いてしまいました。よろしくお願いします。m(__)m というか、『古代であそぼ』HPはずっとROMさせて頂いてました。(『DIYであそぼ』はもっと感動してます・・・スゴイ!うらやましひ!愉しそう!) さて神奈備先生の「市と木」。何気なくサラリとした梅酒・・いや書き込みですが、ワタクシ的にはとても印象深い視点です。市の様子が、映像的にフォーカスされてくるような妄想モコモコ。ついでにシマ(縄張り)があるとイチキシマ・・・そりゃ言い過ぎ<(__)> > 海石榴市 馬酔木 椿 万葉3222 > 箸墓の大市 槻 > 石上市 櫟 > 高市 椿 古事記歌謡102 > 軽市 ? > 阿斗桑市 桑 大阪府八尾市上松近辺 日本書紀 日羅滞在 > 餌香市 橘 |
[489] Re[487]: 無題 神奈備 | 2003/12/15(Mon) 16:30 [Reply] |
通行人さん 情報ありがとうございます。 > このままでは何か誤解を招きそうな雰囲気ですね。 どこをさしておられるのかはっきりしませんが、岩波文庫の『日本書紀』の速玉之男についての注を引用しておきましょう。この神は「唾く神」と云います。 血や、切った爪と同じく、唾を交換することによって、契約の誠実の保証とする例がある。もし、契約者の一方が後にその誓いを破れば、相手は、保管している、違約者の唾に呪術行為を加えることによって、その違約者を罰することができる。東アフリカのWajagga人の間では、契約を交わそうとする二組は、牛乳やビールの入ったお椀を持って坐り、飲料に対して呪文をとなえてからそれを互に一口含んで、柏手の口の中へ唾と共に入れる。火急の場合、儀式を行なう余裕がなければ、単に、互のロヘ唾を入れる。それは契約を堅めるに、同じように有効である(フレーザー「金枝篇」)。 ここで族から離れる約束をするのに唾をはくのも、また、古事記の海幸・山車の話で、玉器に水を得た火遠理命が、水を飲まず、頸のタマを解いて口に含み、その玉器に唾を吐き入れたところ、そのタマが器について離れなかったという、これもっまり、クマと唾を与えて、その約束が輩固であるの意を表すものである。 deep kiss が、裏切らないとの男女の誓いなのかも。また誤解を招く。!(^^)! お伊勢さんにお詣りするのなら、龍神様に唾を預けてお詣りする気持ち、真摯な気持ちで真面目にと云うこと。 |
[488] Re[487]: 無題 玄松子 | 2003/12/15(Mon) 16:25 [Reply] |
> 偶々通りかかった者ですが、 > このままでは何か誤解を招きそうな雰囲気ですね。 > ただ此等『参詣記』の説については、『神宮典略』瀧祭の条で考証してありますので、御覧いただけましたら幸いに存じます。 誤解を招くというご指摘ならば、、『神宮典略』でどのように考証されているのか要約なりポイントなりを示すべきではないでしょうか。 その上で、興味のある人は、『神宮典略』を探せば良いと思います。 単に書名を紹介しただけでは、なんのことやらわかりませんし、この掲示板の読者全員が入手するべきものでもないと思いますが。 |
[487] 無題 通行人 | 2003/12/15(Mon) 13:35 [Reply] |
偶々通りかかった者ですが、内宮さんの瀧祭神のことについて記してありましたので、読ませて頂きました。このままでは何か誤解を招きそうな雰囲気ですね。 確かに坂十仏の『伊勢太神宮参詣記』には「神体は水底に御座とやぞ承る。是則龍宮也といへり。」とありますし、また通海の『太神宮参詣記』には「御殿もなくして、大地の底にをはしますよし申伝たり。」とあり、『日本書紀』雄略天皇栲幡皇女皇女神鏡のくだりと瀧祭のことについて述べてあります。さらに遡れば延暦の『儀式帳』には「無御殿」とある所から、祭場、拝所と考えるのがふさわしいのかわかりません。ただ此等『参詣記』の説については、『神宮典略』瀧祭の条で考証してありますので、御覧いただけましたら幸いに存じます。また通ることがあるかどうかわかりませんが、たまたま通りがかったものですから、失礼しました。 |
[486] Re[484][482][479][473]: 花の時には花を以て祭る 神奈備 | 2003/12/14(Sun) 17:27 [Reply] |
> 諾尊が黄泉の国から戻る時の一書に「唾く神を号して速玉之男と曰す」とあります。 > ツバ(キ)は邪気を払うまじないが語源ではなかろうか。 筑紫申真著『アマテラスの誕生』から 鎌倉時代の『坂十仏参詣記』には、内宮の御手洗の所に滝祭宮のことを、河の州崎にある松杉などの一叢で、神体は水底に御座あり、すなわち竜宮である、と入っているとのこと。 続けて井上頼寿氏のいうところではとして:− 滝祭のカミはもと竜であって、たくさんの人をのんだが、後これを悔い改めて、御手洗のところにいて人びとの唾を飲んで修養しているのだ、という伝えもあるそうです。引用以上 御手洗はミタラシと訓。 滝祭神の石壇と石は御手洗場の左側にありますが、元々は川の向こう側の社叢だったようです。風日祈宮の付近だったのかも。 唾とは切手を貼る程度にしか活用していませんでしたが、約束に唾の交換があるそうです。 竜神に唾を飲まれることは竜神の修養だけではなく、その人が人質(魂?)を取られたようなことかもしれません。内宮はのっけからこわいことをしているのかも。 |
[485] Re[484][482][479][473]: 花の時には花を以て祭る 神奈備 | 2003/12/12(Fri) 21:32 [Reply] |
とりあえず判っていることを若干。 市と木 海石榴市 馬酔木 椿 万葉3222 箸墓の大市 槻 石上市 櫟 高市 椿 古事記歌謡102 軽市 ? 阿斗桑市 桑 大阪府八尾市上松近辺 日本書紀 日羅滞在 餌香市 橘 五十猛命の蒔いた樹種 有功の木を植えたとか。とすれば 杉、檜、槙、樟。これは素盞嗚尊が生成。 木実のなる木々とも云われます。 植えなかったとの説もあり。 |
[484] Re[482][479][473]: 花の時には花を以て祭る かたばみ [Mail] [Url] | 2003/12/12(Fri) 20:03 [Reply] |
≫川俣神社の椿は神木で、この葉を蒸して飲めば熱病に特効ありと 蒸して飲むんですか、緑茶と同じですね。どこかが健康飲料でだしてきそう(^^; お茶もサカキもツバキ科。椿は霊力のある木とされるようですね。 景行紀で九州の土蜘蛛を制圧するのに海石榴ツバキの槌を使ってる。 恐山のイタコの道具が確か椿製で、八百比丘尼も椿の杖を使ってる。 私も不要になった椿を切ったとき、直径5cmほどの幹を磨いて窓の飾りに使ってる(^^; 諾尊が黄泉の国から戻る時の一書に「唾く神を号して速玉之男と曰す」とあります。 天の岩戸隠れの一書に「唾を以て白和幣とし洟ヨダレを以て青和幣とし、此を用いて」・・素盞鳴尊追放。 台湾の高砂族にも類似慣習あり。 ツバ(キ)は邪気を払うまじないが語源ではなかろうか。 ツバキは古代を類推するヒントをいろいろに含んでいる木と思えます。 日本ではほぼ全土に分布して多数の市の花になっています。 朝鮮半島では南部に分布して釜山市が市の花にしてる。 雲南省昆明の市の花も椿(茶花)で、四川省にはツバキの全品種の44%があるそうです。 ある樹種の品種の多い地域が原産地の可能性が高いとされます。 ちなみに雲南八大名花というのがあるらしく、椿、白木蓮、つつじ、桜草、百合、蘭、青ケシ、りんどう。 http://shonan-jcfa.main.jp/yunnangaikuang.html ツバキは中国語では山茶ないし茶花。 書紀になどにでてくる海石榴はみあたらないけれど、あちらのHPに「海榴不是石榴而是山茶」があった。 (石榴ザクロはイラン付近が原産) 後漢書で榴が登場し、晋書で果実の石榴が登場、旧唐書では何度も石榴が登場。 石榴は後漢時代にシルクロードで中国に輸入されて広まっていったとみえます。 ツバキとザクロの花は似ています。 イランの石榴に擬して、日本など=海の向こうのツバキを海石榴としたのが中国での表現で、それを遣唐使が運んで日本でも使われたのではないかなあ。 椿は後漢書に「神泉側出、丹水涅池、怪石浮磬」の地の植物名として登場(初登場?)。 荘子に「上古有大椿者,以八千歳為春,八千歳為秋」、不老長寿の仙人らしきの名が大椿。 しかし、現代の四川省では椿の文字は仏跡と人名以外には使われておらず、後漢書や荘子の椿がツバキを意味するのかどうかはいまひとつはっきりしません。 古事記では都婆岐。でも万葉では700年頃には椿の文字を使ってるようにみえる。 それでいて同じ万葉で750頃に海石榴が登場する。 600〜800年頃はいろいろ事情がありそうでよくわからないや。 朝鮮半島では発音に当て字したとみえる冬・柏(ton-baik)。 朝鮮語に発音が似ていると朝鮮から渡来したとする論がよくありますが、これはちょっと待て。 その逆や、もともと同じだったものがそれぞれの地で変化して結果として双方に類似性が残るといったことも考えないと。 (素盞鳴尊は日本特産の杉やヒノキを半島へ移植している)(杉=sugu-mok) 雲南あたりからの渡来であれば、ルートは東シナ海沿岸を北上して済州島や半島南部を経由して九州上陸のルートと台湾〜南西諸島〜九州のルートだと思います。 南から北への移動は温暖化の時代のはず、照葉樹の渡来はBC4000頃ないしBC1000〜500頃じゃないか。 それでは五十猛命が半島へは植えずに日本へ植えたとされる木々、いつどこからなにを植えたのだろうか。 |
[483] Re[480][479][473]: 花の時には花を以て祭る かたばみ [Mail] [Url] | 2003/12/12(Fri) 19:44 [Reply] |
恋川亭さん、はじめまして。 ≫狭井神社の忍冬酒。もう、めちゃんこ甘〜いのです なんかの花の蜜をなめた記憶はあるけれどそれが忍冬スイカズラだったのかなあ。 スイカズラはチチバナともいうらしく英語でもハニーサックル。 世界中でなめていたのに違いなし。 ≫初穂料が高い ・・(^^; |
[482] Re[479][473]: 花の時には花を以て祭る 神奈備 | 2003/12/09(Tue) 17:58 [Reply] |
> 西でも東でも常緑高木で葉や実の様子が似ていて特段の用途はないという共通項があります。 > サカキは神が降りると感じる木としてぴたりだったのかも知れない。 最近参詣した河内国若江郡の式内小社(東大阪市)の川俣神社の椿は神木で、この葉を蒸して飲めば熱病に特効ありと、『式内社調査報告4』に紹介されています。 椿、薬効があるのか、それとも神徳なのか。往古は渾然一体であったのでしょう。なお、重要な祭祀には椿が榊として使用されたと聞きます。 |
[482] Re[479][473]: 花の時には花を以て祭る 神奈備 | 2003/12/09(Tue) 17:58 [Reply] |
> 西でも東でも常緑高木で葉や実の様子が似ていて特段の用途はないという共通項があります。 > サカキは神が降りると感じる木としてぴたりだったのかも知れない。 最近参詣した河内国若江郡の式内小社(東大阪市)の川俣神社の椿は神木で、この葉を蒸して飲めば熱病に特効ありと、『式内社調査報告4』に紹介されています。 椿、薬効があるのか、それとも神徳なのか。往古は渾然一体であったのでしょう。なお、重要な祭祀には椿が榊として使用されたと聞きます。 |
[481] Re[478]: 花と蝶 恋川亭 | 2003/12/09(Tue) 00:55 [Reply] |
>
おもろ も ユーカラ も読んで楽しめるまで行きません。 いえ、僕はシラフではとてもとても。飲めヤ唄えと・・・脳がとろけてから。だから、リズムになっちゃうのです。(エー加減の極みです)<(__)> > 一語一語の興味が先に立ってしまって、辞書ばっかり引いています。 辞書すらないので、つい「テーゲー(大概)」とスイスイスーダラです。(いや〜、無責任の極みです)m(__)m |
[480] Re[479][473]: 花の時には花を以て祭る 恋川亭 | 2003/12/08(Mon) 23:02 [Reply] |
狭井神社の忍冬酒。もう、めちゃんこ甘〜いのです。かすかに薬草の香りらしきものがして。一合ちょっとぐらい入る白い徳利に「はなしずめの祭り 三輪明神」と彫ってあります(この徳利が清楚でかわいい)。鎮花祭が済むと、狭井神社・大神神社どちらの授与所にもしばらく置いてありますが、初穂料が高い。清酒の一升瓶が買えるがな〜と思いました。忍冬酒ではチョット酔えません。 |
[479] Re[473]: 花の時には花を以て祭る かたばみ [Mail] [Url] | 2003/12/08(Mon) 21:06 [Reply] |
≫奈良では最も古い祭りの一つと云われている率川神社の三枝祭(百合祭)は三輪山に咲く香しい笹百合にゆかりがあります。 自然神が祖先神化したり、自然神と祖先神が複合したり、なかなか白黒とはいかなくなりますね。 (大物主と蛇、2つの事実の存在を暗示しているのだと思っています) 大神神社の摂社、狭井神社では百合根と忍冬スイカズラを捧げるようですが、どちらも漢方薬。 薬の神の大己貴と少彦名からだと思います。 http://www.takushoku-hc.ac.jp/soma/soindex/yurine.htm http://www.sm-sun.com/family/syouyaku/syou-na/nindou.htm 大神神社/学生社によれば、率川神社の三枝祭は疫病よけでもあるそうで、百合根が源の説も紹介しています。 踏鞴五十鈴姫という女性の祖先が美しさとして花の百合と複合したのなら自然だと思ってます。 三輪山の笹百合をみたことはないですが、ひょっとしてその源流は薬用の栽培だったのでは?? 食べてもおいしいし(^^; サカキは同じ呼称でも地域によって異なる木なのが面白い。 イヌツゲ:秋田、新潟 タブノキ:岩手 コゴメウツギ:岩手 ソヨゴ:富山、岐阜、山梨、長野 ヒサカキ:茨城、栃木、千葉、埼玉、神奈川、東京、八丈島 新潟、石川 岡山、山口、香川 ハマヒサカキ:高知 西でも東でも常緑高木で葉や実の様子が似ていて特段の用途はないという共通項があります。 (コゴメウツギのみ落葉低木で異質ですが、北海道にもある木というのがミソか) 食糧や薬などに使う木だと人間にとって大切ではあっても神聖といった感覚とは違ってくるんじゃないか。 サカキは神が降りると感じる木としてぴたりだったのかも知れない。 ≫福島県いわき市に鎮座の愛宕花園神社の祭礼を納豆祭とも云うようですね。『平成CD』 ありがとうございます。 この由来は源義家系の納豆起源説かもしれないな。 |
[478] Re[477][475][474]: 花と蝶 大三元 | 2003/12/07(Sun) 17:17 [Reply] |
恋川亭さん そうなんですよね、図書館でコピーしてきたものって、ちゃんと出典をメモしてないと困るんですよね。金のあるときは表紙もコピーしてくるのだけど、常にそういうわけでもなく・・・ おもろ も ユーカラ も読んで楽しめるまで行きません。一語一語の興味が先に立ってしまって、辞書ばっかり引いています。 |
[477] Re[475][474]: 花と蝶 恋川亭 | 2003/12/07(Sun) 00:48 [Reply] |
> 大三元さん ありがとうございます。m(__)m 図書館のコピー代も1枚10円になったのに、それもケチって要所のみノートに手書きしたら、出典を書き忘れました。もう、ぐっちゃぐちゃ。助かりました。 「おもろ」もやっと自分なりの(勝手な)リズムで読めるようになりましたが、黙読にしても脳内でリズムをつけないと読みにくいものですね〜。 |
[476] Re[472]: 弱水 かたばみ [Mail] [Url] | 2003/12/06(Sat) 20:05 [Reply] |
ユアンさん、おひさしぶりです。 ≫西遊記とかの注釈では、弱水は川の名前で 西遊記は1500あたりの小説だからおくとして、弱水についての漢代頃までの伝承をどのように解釈するかは古代中国の地理観と伝承を知らないと歯が立たず棚上げになっています。 漢など北方系王朝の首都はほとんど西安付近で、その西にあるのがチベット高原。 周の祖先は羌族とされチベット高原の遊牧民で、中国王朝では周の後裔であることを王朝の正当性にすることがあります。 羌族と同じ祖とされるテイ族(低のニンベンなし)は長江流域や雲南にもひろがり、テイ羌族という場合もあります。 山海経ではこれを人面魚として描いており、海や川で暮らす人々をイメージしていたのかもしれないと思っています。 旧唐書(887-946)の南蛮西南蛮伝では785-805頃の記事として弱水が具体的に登場します。 雲南〜チベットあたりのはずですが、地理不案内で詳細位置がどこだかわからず(^^; その弱水と漢時代あたりまでの伝承上の弱水が同じかどうかはおくとして、宋(420-479)など南朝が登場してからは雲南〜チベット方面の情報が正確になるはずです。 年代的に遣唐使は旧唐書の情報源と同じ情報を持ち帰っているはずで、書紀はそれらの情報を参考にして弱水や神仙秘区の表現を使っている可能性があると思っています。 ≫唐橘と橘と枳殻はそれぞれぜんぜん違う植物なんでしょうか 山渓カラー名鑑「日本の樹木」によれば、ミカン科ミカン属、常緑低木。 暖地の沿岸にまれに自生する日本特産種、京都御所紫宸殿の右近の橘は本種の栽培品種で果実が大きい。 分布は静岡、愛知、和歌山、山口、四国、九州、沖縄、台湾 花古事記・植物の日本誌/山田宗睦によれば山口県萩市の北東の笠山が自生の北限、済州島にも自生、別名ヤマトタチバナ。 青草・・海人のビタミンC補給用で、海で過ごすうちに暖かい沿岸が好きになった木じゃないかと・・青草 書紀の橘も類似の別種とみています。 カラタチは唐橘、枸橘、枳(別名キコク、ミカン科カラタチ属、落葉低木) こちらは中国中部原産らしいけれどいつ頃渡来かは不明。実は薬用になるようです。 まともに刺さると心臓に達するような棘がはえています。 カラタチバナはまったく別種みたいでまぎらわしいですね。 橘とは似ても似つかないのになぜそう呼ぶのかなあ。 「日本の樹木」ではこれも唐橘の同じ文字を使っています。 正月のお飾りにも使うマンリョウが同種。 (現在はセンリョウの方がお飾りに多く使われますがこれは別種・・これもまぎらわしい) 樹木名と地方名や別名を対照させた労作があります。 http://www002.upp.so-net.ne.jp/tsuri/jumokumei.html ここからあちこちにつながりをたどると面白そうな関係がいろいろ見えてきそうです、ご参考まで。 愛媛と静岡ではサイカチという木をタチバナというようで、静岡ではキコクとも。 サイカチは幹に恐ろしげな棘のある豆科の落葉高木(15mになるらしい)。 若葉は食用、豆は薬用で石鹸の代用にもなるそうで、分布は中部地方以西、朝鮮半島、中国。 豆科の木はみな高木でジャックと豆の木も天に届く木。 橘の文字をなぜタチバナと読むのか、その接点がみえないです、要検証。 ps. 前の書き込みで、北海道のシリュウザクラと書きましたがシウリザクラの誤りです。 ウワミズザクラ(ハハカ、分布は日本全土、長江流域)の寒冷種。 同じく花のさえないサクラ属にリンボク、バクチノキなどがあり、分布は関東以西、九州、沖縄、台湾。 根や葉が咳止めや鎮痛剤になるようです。 ソメイヨシノの「6〜8月の樹皮」にも咳止めの薬効があるそうで、役に立たない木、は撤回(^^; http://www.hisamitsu.co.jp/syakai/kusuri/tayori03.htm |
[475] Re[474]: 花と蝶 大三元 | 2003/12/06(Sat) 10:03 [Reply] |
> そして、伊波普猷全集だったかな?メモに引用元を書いてないのでチョット不明 <(__)> ですが、オナリ神の象徴として、白い鳥だけでなく、胡蝶も同様に思われていたという記述がありました。長いおもろ中の一部分の抜粋ですが、 ↑外間守善著『おもろさうし』岩波書店・同時代ライブラリーのP204に出てました↑ ↓は、おもろさうしの13−965です。↓ > > おと おなり みかみ の (妹の生御魂の) > あや はべる なりよわちへ (美しき胡蝶となりて) > くせ はべる なりよわちへ (奇しき胡蝶となりて) |
[474] 花と蝶 恋川亭 | 2003/12/06(Sat) 01:36 [Reply] |
極私的懐古談です。子供の頃、アゲハの卵や幼虫(青虫ね)を探すのに、柑橘系の樹木を目当てにしていました。それが妥当な知識だったのか確証はありませんが、遊び仲間の内では一種の情報だったのです。たしかに、柑橘系の低い木で見付けていたのですから(今となっては何の木か正確に思い出せません)。サナギから蝶へと変態して大空へ飛び立つのを見たいがための飼育だったのですが・・・。 南島の「おもろさうし」にも、トンボ(アキツ)とともに蝶を対句にして、祝女(ノロ)を謡ったものがありました・・・今、どこだったか見失い中。 そして、伊波普猷全集だったかな?メモに引用元を書いてないのでチョット不明 <(__)> ですが、オナリ神の象徴として、白い鳥だけでなく、胡蝶も同様に思われていたという記述がありました。長いおもろ中の一部分の抜粋ですが、↓ おと おなり みかみ の (妹の生御魂の) あや はべる なりよわちへ (美しき胡蝶となりて) くせ はべる なりよわちへ (奇しき胡蝶となりて) 〔はべる〕=蝶 だそうです。〔おと〕は、オナリ・ヲナリ神にかかるので、乙姫とか弟橘媛のオトでしょうね。〔みかみ〕は御神でよろしいかと、オナリ神は現に生きている姉妹が守護神になるので「生御魂」と訳されたのでしょう。それとも、〔みかみ〕のはじめの「み」のみで「生」?ミ=身、生身?厳密詳細不明。 〔あや〕=綾 で光が織り成すような美しきさま、奄美大島のアヤマル岬は「謝る岬」ではなく「綾なす(美しい)岬」のこととか。 〔くせ〕=奇しき これは現代語的な「変わった」という語感よりも、「珍しい、奇跡的な、神秘的な」という意味でしょう。鹿児島県串木野市の地名などは「くしきの」=奇しき野、じゃないかな〜?(金が採掘されていたことだし)。 このように、蝶をスピリッツの変身した、あるいは仮託した使者として象徴している例がありました。アゲハなら尚更そんな雰囲気でしょうね。私が訪問した南島の神域は、さまざまな蝶の乱舞する幻想的な場でもありました(これがまた、樹林の小径を案内するかのような翔び方なんです〜)。 アゲハ蝶などは、本州でも後々、家紋に用いられたりして、シンボルの一つにもなりましたね。トンボや蝶を精霊の乗り物や化生と感ずる心性は、仏教思想流入のはるか以前から、元々持っていた感覚ではないのかな?と思っています。祖霊祭祀=神霊祭祀につながるような。なんだか橘から離れてしまいました、脱線。m(__)m |
[473] 花の時には花を以て祭る 神奈備 | 2003/12/05(Fri) 08:57 [Reply] |
>
神社におけるいろいろ、花で飾ったりしないんじゃないでしょうか。本質として実用の流れを汲んでいるからだと思っています。 伊勢神宮の直線美・簡素さなど、おっしゃる通りの流れがあったのでしょう。 所で、奈良では最も古い祭りの一つと云われている率川神社の三枝祭(百合祭)は三輪山に咲く香しい笹百合にゆかりがあります。大宝令にこの祭りのことが記載されていると、『日本の神々4』で、土井実氏が書いています。 鎮花祭でもあり、これは花をどうしたいのか判りませんが、この祭りの起源として、祖先を祭ることと関係があったのかなかったのかはとりあえず不明。 祖先を祭るのであれば、花も酒も好き、ゆとり一杯の爺さんだったのかも。 神社と言えるのかどうか、熊野市の花窟神社ですが、『日本書紀』には、「土俗、此の神の魂を祭るには、花の時には花を以て祭る。又鼓吹幡旗を用て、歌ひ舞ひて祭る。」とあり、これは伊弉冉尊の御葬所との認識で、祖先に擬せられるのかも。 > 納豆を捧げる神社ってあるだろうか・・(^^; 福島県いわき市に鎮座の愛宕花園神社の祭礼を納豆祭とも云うようですね。『平成CD』 ユアンさん 情報ありがとうございます。 伝垂仁天皇陵に橘が植えてあり、丁度実がなっています。これは京都御所の橘の接ぎ木だそうです。 |
[472] 弱水 ユアン | 2003/12/04(Thu) 19:57 [Reply] |
弱水について 蓬莱弱水という熟語の説明 http://www.earthwatch.jp/project/column/2001/04_river.html 実在の地名としての弱水 http://www.water.go.jp/honsya/honsya/referenc/material/jukugo/ho.html 西遊記とかの注釈では、弱水は川の名前で、 木片を浮かべても沈むのでそう呼ばれると書いてあった気がしました。 橘の画像 http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/BotanicalGarden/HTMLs/karatatibana.html ときじくのかぐの実…といわれている橘は こんな植物だったの? 唐橘と橘と枳殻はそれぞれぜんぜん違う植物なんでしょうか。 万葉名「あべたちばな」和名こうじみかんというのもあります。 http://club.pep.ne.jp/~t.mizuno/mny011.html |
[471] Re[470][469]: 樹木 かたばみ [Mail] [Url] | 2003/12/04(Thu) 16:29 [Reply] |
≫縄文土器、火炎、遮光、蛇、素晴らしい芸術と言える物が出ていますね ≫一種の「ゆとり」を持った人々がいたのでしょう まさにそのゆとりからのものだと思います。 ライオンは満腹なら寝るだけですが、人間はゆとりがあったら遊んだりお花見やったり(^^; 美しいという感覚、遊ぶという感覚、いつごろから生じたのか。 それが芸術にもなってゆく。アルタミーラの壁画なんてのはその最古の例だと思います。 これが人間である特徴だとも思っています。 山奥の滝や湖、美しいと思うと同時にそれは命の水でもあって、これは神と重なります。 あるいは、人間が好いと感じるものを神に捧げるのも自然ですから、間接的に重なります。 土器を赤く塗ったりなんてのもそのひとつかもしれない。 磐座のまわりにヤマザクラが咲いていた。 これを好しと感じる人間の心、その反映が「サ・クラ」じゃないか。 人間側の感性としての捧げものとか引き立て役です。 神社におけるいろいろ、花で飾ったりしないんじゃないでしょうか。 本質として実用の流れを汲んでいるからだと思っています。 ただし、祖先神を祀る場合はちと違うでしょうね。 夏ミカンが好きだった祖先なら夏ミカンを捧げることになるはずです。 余談・・ 納豆を捧げる神社ってあるだろうか・・(^^; |
[470] Re[469]: 樹木 神奈備 | 2003/12/03(Wed) 13:48 [Reply] |
かたばみさん こんにちは。 > 東北〜関東の縄文は亀ケ岡土器のごとき造形美を生み出すまでに至ります。 縄文土器、火炎、遮光、蛇、素晴らしい芸術と言える物が出ていますね。この背景に、凄い精神性、精神文化、を感じます。縄文時代ならではの一種の「ゆとり」を持った人々がいたのでしょう。 > 対して橘は実用樹じゃないと思います。 従って、実用ばかりを追いかけるのではなく、神祭り、神降ろしなども盛んに行われたのでしょう。山、木々、風の声、水や雲が流れる様、小動物なsどの鳴き声などを聞き、これから起こるかも知れない危機を感じ取っていたのでしょう。未来を良くしたい、との思いが土器の造形美に映ったのでしょう。 |
[469] 樹木 かたばみ [Mail] [Url] | 2003/12/03(Wed) 00:52 [Reply] |
「梶」の木は諏訪大社の神紋にもなってる木。 これは実が食糧であると同時に木の繊維は布になります(タクないし木綿ユウがこれとみえます)。 東南アジアやハワイでは類縁種の木でタパという布を作る。 (後には人口交配種とされるコウゾが登場) 栗とかブナやナラなどの木の実の採れる木とともに縄文の落葉樹の代表樹だと思います。 現代人からは雑木にすぎないけれど、縄文人には命の木(生命樹)。 諏訪大社はそれらの木を重視する流れにあったのだと思います。 対して橘は実用樹じゃないと思います。 薬用になるかどうはおくとして、ミカンじゃ主食にはならず(^^; 香りを楽しむといった用途ははるかに時代が下ってからのものだと思うのです。 食糧を農耕に依存するようになってからの木、古墳時代以降の温暖地で表舞台にでてきた木で、奈良平安の橘はその代表じゃないかなあ。 (杉や楠は船材としていつのどこでも重要な木) ヤマザクラは実用樹か? これも違うと思います。 こちらは見て楽しむ以外にはさらに役にたたない(^^; 北海道にはシリュウザクラというサクラがありますが、これはサクラだけれど観賞用にはならず材木用です。 花のきれいなのはチェリーの系列で、これの分布が雲南〜チベット〜東ヨーロッパ。 実を食べられる木。 日本の山桜は北方系の花の地味なサクラ(樺に近縁)と南方系の花の派手なチェリーの混血種ではないかと思っています。 (南洋ザクラはサクラじゃないです、念のため) で、それが愛でられるようになるのはやはり古墳時代以降ではないかとみています。 (朝鮮半島のサクラは南部にしかない、これも南方系との関連がうかがえる) サクラの語源に木花開耶姫説がありますが、木花開耶姫の美しいだけで薄命という感覚、これが縄文の実用樹と後世の美しさや香りといった非実用樹との接点にある感覚だろうとみています。 サ・クラに分解して、サは早苗や早乙女などのサ(めでるといった意)、クラは磐座などのクラ。 山にあっても花の美しさの方へシフトした後に登場した名称じゃないかと考えています。 |
[468] Re:西方見聞録?→常世 かたばみ [Mail] [Url] | 2003/12/03(Wed) 00:43 [Reply] |
≫紀伊水道は海賊の跋扈する難所だったのかも。紀伊と四国の平定、10年はかかるかも。 ある地域が通行できるかできないかという判断になると、各自の総合的な歴史観のありようだけで同じ情報でも結果が違ってきそうですね。 持論の一番のベースは気候です。 人々は住みやすい環境の地へ移動していた時代から「支配者の思惑」が登場する時代になり、古墳時代以降では思惑が交錯してわけがわからなってゆく、そんな捉え方をしています。 ≫古の人、常世の国といへるは 常陸国風土記のこの一文は前後の文脈から常世=豊かとみなしていいと思います。 古の人というのがいつごろの人を示すのかなあ。 この一文だけでは不可思議ですが、他の情報を加えると青草推定はできそうです(^^; 喜多方や会津若松では縄文、弥生、古墳、平安時代の遺跡が位置を微妙に変えながらとぎれずに継続しており、東北唯一の三角縁神獣鏡の出土地でもあります。 岡山の三角縁神獣鏡と同じ型から作ったとみられ300〜400頃の古墳らしい。 (持論では崇神248-273、垂仁273-311、景行311-333) (ちなみに那珂川と久慈川にはさまれた台地を北上して存在する第六天社の北限ともみえる(^^;) 江戸時代の会津藩も東北屈指の米の産地。 古来からこの一帯は温暖とはいえないまでも環境良好で安定した土地だったことが推定できます。 縄文最盛期の人口密度は東北で50人/100平方キロあたりのようで、中部山岳地帯では300人/100平方キロというとんでもない人口密度になっています。 これが寒冷化(BC2000〜BC1000)で中部山岳では1/10程度まで人口が激減、火炎土器のごとくは消滅して、さえない土器しか出土しなくなります。 東海や日本海沿岸でも人口は半減します。 (西日本では常緑樹が多く木の実が少ないためにもともと人口が少なかった、5〜10人/100平方キロ) ところが東北〜関東は人口がほとんど変化しておらず、東北〜関東の縄文は亀ケ岡土器のごとき造形美を生み出すまでに至ります。 http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/g01.files/07/kougei_j.gif もともと半寒冷だったために植生の激変がなく崩壊を免れたのだ、という論がありますが賛成です。 豊かというわけではないが文化の継承に支障はなかったのだと考えています。 青森の三内丸山では集落が消滅していますが、ここでは主食?だった栗の栽培ができなくなったためのようです。 そういう中でも会津盆地は安定で平穏が続き、訪れた者に山と湖に囲まれた別世界を感じさせたのではないでしょうか。 常陸国風土記にいう古の人とは、三角縁神獣鏡を携えてきた人物だろうと思ってます。 その記述に書紀の常世の国という表現を借りたのではないかと考えています。 ≫阿南市に橘湾があり 伊弉諾伊弉冉神の国生みの順序が面白いですね。 淡路島あたりからスタートして四国から九州、そして日本海へ移動してる。 神話が事実にもとづくという前提がまず必要ですけど、伊弉諾伊弉冉神話の大筋は前記の縄文崩壊とその人々の移動と復活を源にすると考えています。 総じて山岳地帯から平野部へ、あるいは温暖な地域への南下や西進です。 (朝鮮半島から九州へやってくる人々もいる) 考古学的な出土物と対比できない限り具体的な位置と対比させるのは危ないですが、淡路あたりからスタートするようにみえる国生み神話は、瀬戸内を移動していった人々の記憶によるものと考えてます。 禊、は崩壊の時代を乗り越えて再生へ踏み出したことを象徴させているんじゃないかなあ。 (地域によって異なりますがBC2000〜BC500にかけて海面は数m低下しています→土地が生まれる) BC1000頃から再び温暖化がはじまって、人々は復活し東へも戻りはじめる、これが弥生のはじまり。 (最近は弥生500年遡るの話題が盛んですが、これにぴたりでにんまり(^^;) |
[467] Re[466] 西方見聞録? 神奈備 | 2003/12/02(Tue) 21:01 [Reply] |
秀真伝二紋 2−11,2−12 天の神代の 七世目お 継ぐ糸口は 常世神 木の実東に 植ゑて産む ハゴクニの神 日高見国や 高天原に祭る ミナカヌシ 橘 植ゑて 産む御子の タカミムスビお 諸人讃ゆ キのトコタチや その御子は 天鏡神 訳 常世神は木の実を東に植えて葉木国の神を産み 葉木国の神は日高見国の高天原に天御中主を祭り 橘を植えて御子の高皇産霊神を生みました。以下略 橘の木を植える事が神を産むことと同義のようです。 橘は依代よりもストレ−トに”神”のようですね。 木を植えることは神を産むことなら、我が五十猛命は神の祖そのもの、God Father。 余談ですが、『破られた二千年の魔法』と云う本があります。著者は飛騨の山本貴美子さんと云う方で、五十猛命が木を植えたなどは嘘、記紀は新羅の神に騙されて書かれている。新羅の連中は八咫鏡を狙って皇室簒奪を図った。探した際には伊勢皇大神宮にはなく、その為に外宮をつくって見張り場とした、との強烈な主張の本でした。 |
[466] Re[464][463][461][460][457][456] 西方見聞録? 大三元 | 2003/12/02(Tue) 01:04 [Reply] |
> >
国常立尊の「立」、常は床、聖なる空間に立つ神のイメージでしょうか、それとも大和三山の一つである天香山の頂上には国常立命神社が鎮座、香りの良い木々の多い山頂に神々の匂い立つような神社、前に行けば神懸りになりそうな神社が鎮座、何を書いているのか書いた人間がわけがわからん。 東京目黒の大鳥神社: 「祭神は日本武尊を主神としし国常立尊と弟橘媛命を合祀しています。」(ママ) 出典: http://www.asahi-net.or.jp/~dz3y-tyd/jinjya/ootori/ootori.html 神奈備さん、案外的を射ているのかもよ? 他にも幾つも例があると良いのですが、どうでしょ? > > 旧事本紀では国常立尊の亦の名を葉木国尊、 > 秀真伝では国常立尊の子が葉木国尊 > > |
[465] Re[462]: 紹介など 神奈備 | 2003/12/01(Mon) 21:22 [Reply] |
> 大神神社は、もともとは現在の芝春日神社の位置にあったのでは? 小川さん、相変わらずのご活躍のようですね。 芝春日神社の位置、三輪山から少し距離がありますね。 川は何本あるんだろう。 |
[464] Re[463][461][460][457][456] 西方見聞録? 神奈備 | 2003/12/01(Mon) 21:19 [Reply] |
> > > > 古来から日本の「タチ」花もあったはずです。 > 国常立尊などの「立」もこれか??? 橘の木は(橘だけではなく)すくっと立っているのが多い。これは柱や根こそぎの木のように神の依代でしょう。立岩なども。 国常立尊の「立」、常は床、聖なる空間に立つ神のイメージでしょうか、それとも大和三山の一つである天香山の頂上には国常立命神社が鎮座、香りの良い木々の多い山頂に神々の匂い立つような神社、前に行けば神懸りになりそうな神社が鎮座、何を書いているのか書いた人間がわけがわからん。 旧事本紀では国常立尊の亦の名を葉木国尊、 秀真伝では国常立尊の子が葉木国尊 |
[463] Re[461][460][457][456] 西方見聞録? 大三元 | 2003/12/01(Mon) 15:48 [Reply] |
> > > 古来から日本の「タチ」花もあったはずです。 国常立尊などの「立」もこれか??? そういえば、ウマシアシカビノヒコヂから葉木国に至るまで結構植生がらみに思えなくもない・・・ |
[462] 紹介など ZOU [Mail] | 2003/12/01(Mon) 00:45 [Reply] |
いやあ、以下の内容は、出版元からお¥をもらっているわけではありませんので念のため(^^;) 奈良県内の書店を中心に発売されている「ならら」というジモティな雑誌があります。「売らんかな」という雑誌とは一味違った好感の持てる内容で、時折、古代史に関する興味深い特集も組まれることがあります。例の“ダンノダイラ”について書かれた「大和出雲の新発見」という本を知ったのも、この雑誌によるものなんです。 で、今、発売中の12月号(&先月の11月号)に、“太陽の道”の小川光三氏による、三輪山頂から真西に位置する桜井市芝の春日神社についての論考が掲載されています。なんと、大神神社は、もともとは現在の芝春日神社の位置にあったのでは?という仮説です。「ならら」のサイトはこちらをご参照下さい。 http://www.narara.co.jp/index.html もう一つ。 先日の山添村イワクラサミットの参加速報を、超歴史研究会の阿重霞さんがお教え下さいました。σ(^_^)行きたかったですよお。直リンクはこちらへ。 http://suzuki-t.hp.infoseek.co.jp/yamazoe2.htm |