青草談話室ログ平十六年 四月
2004.2
多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。湯嶽神・菊嶽神の集い。
素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!
 青草談話室

[674] 鴨と市、最古の王権 29 邪馬台国以前 5 浪速  神奈備 2004/04/29(Thu) 13:05 [Reply]
 なにわ、なの国の一つ、倭人伝に奴国が二つあり、博多と浪速かも。太陽祭祀の場と云う説があります。長随彦の日下とは押し照るなにわの聖地で、後に日本と云う漢字になり、国号になりました。ニホンではなくニッポンが正しい読みなどと云っていますがとんでもない事で、「ひのもと」がこの国の本来の名前であることは、いきさつから明らか。ニッポンと云う読みは大陸が勝手に読んでいるだけで、我が国の名は我が国の読み方によるべきでしょう。
 五輪ではジャパンからニッポンへ少しは進歩したようですが、さらに、ヒノモトへと進むべきでしょう。

 古代の王権は何故、大和を目指したのでしょうか。最近発行された『大和誕生と水銀』(田中八郎著)には、宇陀の水銀の存在が強調されています。そこは鋭い観点だと思います。しかし宇陀に都があったとは言われていません。採掘と精製の現場よりは、流通させる市場に都を置いたのでしょう。

 大和と不可分に浪速が王権にとって重要な存在でした。
 浪速の上町台地、現在の大阪天満宮付近から住吉大社を通る台地です。ここには竜脈がはしっており、聞くところによりますと紀州熊野の果無山脈を経由して、室生から大和へ流れていると云います。中央構造線と龍脈が交差しているのが、宇陀であり、吉野です。宇陀の丹沙はこれによるのでしょう。

 呪術の時代、大和と浪速を征する者は日本を征すると云うことでした。
 下照比売の系統の巫女達は後の世の卑弥呼と巫女達のような役割を果たしており、託宣、酒造り、調薬・施薬などの医療、機織りなどに従事する女軍を束ねていたのです。

 統治機構がどの程度整っていて、徴税などがどの程度なされていたのか、これは推測するしかない所です。王家の本家と分家、郎党、使用人、小作などで構成された大家族のようなものよりはより包括的で、多くの氏族の連合が行われていたものと思われます。邪馬台国はその仕組みを受け継いだと見ていいのでしょう。

 国家の仕事
 占いと祭祀 恋川亭さんご指摘のおなり
 対外折衝
 王家の家政と警備(祖神祭祀、国家の財産、官僚組織、親衛隊)
 防衛と攻撃(王家の軍、豪族の軍)
 警察、司法
 金属資源の確保、精錬、鋳造
 港湾管理と徴税
 宣伝工作(土蜘蛛の教化)

[673] 鴨と市、最古の王権 28 邪馬台国以前 4  神奈備 2004/04/26(Mon) 20:39 [Reply]
 事代主神の素性ですが、大物主神と同じように見られたりもしています。それにしては、エビス神として海民の奉ずる神となっているのは面白いことです。エビス神とは漁業の神で、事代主神は出雲で魚釣りをしてみたり、国譲りの託宣の後で船を傾けて隠れたと言います。
 また、海のない大和にも事代主神を祀る神社が鎮座、こちらは狩猟の神でしょう。鴨は捕らえられる対象物だったか。いずれにしろ、エビスの神は縄文時代より受け継がれてきた漁業狩猟の豊穣の神です。

 エビスで思い出すのが、最古の海人であろう志賀島の安曇氏で、その祖先の安曇磯良は別に磯良夷と称されています。イソラエビスです。事代主神はエビス神として漁業の神としても祀られているのですが、そのイメージは安曇磯良神を彷彿とさせるものがあります。安曇が原型だったのかも。不漁の際、若者に目隠しをさせて海底の石を拾ってこさせ、これをエビス神として祀ると言います。

 大陸の史書に「東夷」という言葉で列島の国が出てきますが、九州の磯良夷、近畿の事代主夷等の国を指しているのでしょう。天孫族では蛭子夷となります。列島の住民は元来エビスだったのです。後世、天孫族からはエビスをエミシとされ、土蜘蛛などとともに蔑視されて来たのです。
 夷は後世までこの国の支配者に逆らう者達との意味で使われているようです。征夷大将軍の呼称は150年前のこの国の支配者の肩書きでした。

 阿遅鋤高日子根命は漁業狩猟と云うよりは、鋤の字に惑わされて云いますと農耕の神、国土開発の神なのでしょう。農機具の製作も含めて、鍛冶の神の要素もあるのでしょう。この鴨の祖神を慕った下照姫は「石川片淵」の地名を織り込んだ鄙曲を歌います。「石川」、蘇我氏の本貫とも言われます。彼らの蘇我蝦夷、蘇我毛人とエミシを名乗る氏上が輩出されます。従って鴨の後裔として葛城の地を求めます。

 余談 鴨と難波のお話
 大阪の難波はミナミと云われ、南の繁華街で、庶民の町です。社用族跋扈の地ではないとの意味。その昔は、葱(ネギ)の産地として知れ渡っていました。「ションベンタンゴ」と云う言葉を耳にされたことがおありでしょう。ネギの肥料は小便で、桶(タンゴ)に小便を入れ、桶の穴から肥料を流しながら、畝を歩いていくのです。このションベンタンゴはきれいなものではありませんが、すらーと並んでいるのを見ますと、それなりに風景として美しく見えると云うことです。これが「ションベンタンゴも百荷」。
 で、葱の匂いは眼に滲むごときと形容されるのは肥料のせいだとの見方があります。「鴨が葱を背負って来る」と云う餌食となる人間を馬鹿にした言い回しがあり、「鴨る」と云う言葉で残っています。
 鴨肉には葱がよく合うようで、鴨葱を鴨なんばんと云います。なんばんは南蛮ではなく難波の事で、葱の意味。
 偶然でしょうが、出雲蕎麦での鴨なんばん、名物です。鴨、難波と出雲をつなくのは今に始まった事ではありません。

 鴨なんばんの鴨は合鴨、即ちあひる、漢字では家鴨、飛べなくなった鴨のこと、不具の鴨をアヒルと云い、浪速ではこれをヒルと云います。不具の蛭子神は鴨の神の零落した姿だったのです。

[672] 鴨と市、最古の王権 27 邪馬台国以前 3  神奈備 2004/04/24(Sat) 14:30 [Reply]
> 行矢射盾兵主神社
ゆいゆいさん どうも。

 そこで『日本国家の成立と諸氏族』(田中卓著)から。
 出雲国の東の勢力−意宇郡−熊野大神(伊射那伎乃真名子加夫呂伎熊野大神櫛御気野命)を奉じる氏族が西の勢力−出雲郡−大穴持神を奉じる氏族を圧倒して出雲国を形成したとされる史家が多い。熊野大神が素盞嗚尊とされている事から大穴持神がその御子神と位置づけられたのでしょう。
 所が出雲国には国引き神話があり、八束水臣津野神(古事記では淤美豆奴神)は大穴持神の所造天下の観念より先行しているようだ。

 神奈備の余談:八束水臣津野神の御子に赤衾伊野意保須美比古佐和氣能神、その妃神が天甕津姫神である。天津甕星神を彦神とした場合の彦姫ペアのの姫神。

 田中卓氏は『出雲国風土記』の各郡の地名説話の元となった神をリストアップされる。九郡中の意宇郡、嶋根郡、出雲郡の三郡が八束水臣津野神に因んでいることを指摘される。また国引きでは石見国、伯耆国にも関係する広範囲な信仰圏を持っている本来の出雲国の神であったと推測される。大穴持信仰は4世紀以前には希薄であったと結論される。

 田中卓氏は垂仁天皇の時代、新羅の王の子、天日槍の渡来譚を考える。播磨国宍粟邑に居た際、天皇は三輪君の祖大友主と、倭直の祖の長尾市を遣わして詰問している。この物語は『播磨国風土記』に大汝命また葦原志許乎命が天日槍と戦う物語として記述されていると想定し、大汝命は大和の神とする。また播磨の伊和坐大名持御魂神社の伊和は三輪であり、大名持御魂神社のルーツを大和とされるのだ。田中卓氏は以上。

 出雲国へは筑紫からの流れ、また大和からの流れもあったのでしょう。出雲はそのような拠点と成り得たのは、朝鮮半島との接点の一つであり、文明の最先端に触れることのできる地域であり、かつ往古は天孫族の手の及ばない所だったからでしょう。尤も、元天孫族の天穂日命の末裔が大己貴命を祭祀することになり、この神を持ち込んだことで、素盞嗚尊の後裔神となったり、味治須岐高彦根神の親神となったりしたのでしょう。大物主神のヤマト国を邪馬台国に譲ったお話が出雲の国譲りになって記紀に記載されたのでしょう。だから出雲とは無縁の事代主神が主役を演じているのかも。

 事代主神は大物主神の託宣神として、和解を勧めたということのようです。従って、その娘達が神武天皇と綏靖天皇の妃に、また孫娘で鴨王の娘が安寧天皇の妃になっていると『日本書紀』が記すのです。御巫の祭神八座の一。

 『神武紀』 夷を 一人 百な人 人は云えども 抵抗もせず
 エミシは100人力だが、手向かいはしない。それだけに従順で判りにくい国譲りだったのでしょう。

[671] 見つけてしまったのでご挨拶だけ  ゆいゆい [Mail] 2004/04/23(Fri) 16:17 [Reply]
はじめまして。
ふらふら近所の郵便局に寄った帰りに、
(お仕事で眼精疲労なもので)緑の多そうな所に寄って行こーと、ひさびさに、
近所の神社までお散歩してきました。姫路市・辻井にある、通称「いくやじんじゃです。

で。
おちびちゃんな頃からずーっとこの神社で遊んできたのに、お祭りにも参加してきたのに、
実はぜーんぜん、おまつりしてある神さまのことは知らなくって(オイ)、
最近、古事記に興味を持ち始めていたこともあって、「あ゛−。そーいえばー(大汗)」
神社の「神社由来」ってゆー、木製看板を見てきました。
初めてここが「いくやじんじゃ」→「行矢射盾兵主神社」という名前だと知りました。
(ごめんなさい、射盾大神さま、兵主大神さま。次までにもちょっとお利巧になっておきます(大祈))

でで。
「ひょっとしたら、この二神さまについて詳しく書いてあるサイトがあるかも〜!」
と思ってNETで調べて、こちらのHPに辿り着きましたー♪(前振りが長いっすね...)

なんだか駅にある総社に合併or分割されたり、詳しい記録が残っていないようで、
ややこしーことになっているようですが、地元民としてはこっちが本家だと信じて疑いません(大笑)

「行矢射盾兵主神社」は桜がきれーですー♪(もう散っちゃいましたが)
秋には神社横のイチョウの大木がとてもとてもとても綺麗で、
今の季節もびっくりするぐらい、緑が輝いています(眼精疲労もぶっとぶ勢いです。

とんでもなく長いご挨拶になりましたが、ちょくちょくこれからも寄らせて頂きます。
サイト運営、がんばってください♪

[670] 鴨と市、最古の王権 26 邪馬台国以前 2  神奈備 2004/04/23(Fri) 11:51 [Reply]
 祭祀同盟と言う言葉があります。『倭国の時代』岡田英弘著に出てきます。神を祭って、その祭りに関係のあるいろんな国が同盟を結んでいる状態を言うようです。
 大己貴神を中心として、別の名の大物主神、同一神または御子神とされる事代主神、御子神の味治須岐高彦根神を祭る同盟が成立していました。ナニワ−ヤマト同盟と言えるのでしょう。
 また、このような基層の信仰・祭祀は、権力構造が変化しても、民人が根絶やしになることはないので、そのまま引き継がれていくことになります。邪馬台国の崇神朝になっても、祭りの道具は銅鐸から銅鏡に変わりましたが、結局大物主神は復活して祭られてきました。今日まで続いていると言えます。

 ヤマトでは大己貴神、事代主神、味治須岐高彦根神を祭神とする古社が鎮座、ナニワには味治須岐高彦根神を祭る神社が鎮座、他に、播磨、出雲、尾張にも鎮座、鴨の王国の範囲がおぼろげに浮かび上がってきました。

 大和には所謂出雲系の神々が多く鎮座しています。出雲系と言うと地域としては島根県東部に束縛されますので、やはり地祇とか国津神と言うのがいいのでしょう。とは言え、『和名抄』には見あたりませんが、大和に出雲と呼ばれる場所があります。三輪山・巻向山の南側の地域で、近年まで野見宿禰の墓があったと言います。相撲を取ろうと当麻に行くには半日程度の距離。
 大名持神が鎮座する神奈備山と式内社。
吉野郡の大名持神社 http://www.kamnavi.net/as/yosino/oonamuti.htm
葛上郡の大穴持神社 http://www.kamnavi.net/as/katuragi/oonamoti.htm
城上郡の大神大物主神社 http://www.kamnavi.net/as/yamanobe/oomiwa.htm

 全て相当な古社と思われます。この大名持信仰の発生源はどこでしょうか。また各地の大名持信仰は同じ信仰なのでしょうか、地域地域の開拓に従事した格別の村長の御霊を祭っていたのが集約されていったのか、等が解かれねば判らない話。難しい。
 大名持神を奉じた氏族は大和から出雲へ流れたのでしょうか、出雲から大和へやって来たのでしょうか、出雲と大和とはどちらが先だったのか、そのような問題のたてかたでいいのかな。
 出雲大社は有名な神社ですが、この大社の祭神は創建時から奈良時代末までは大穴持神、平安初期から延宝七年(1679年)頃までは素盞嗚尊、その後は大穴持神に戻っています。大穴持神の元社なら、途中で変わると言うことはあるんでしょうかね。

[669] Re[668][667]: レアーケース二題  神奈備 2004/04/23(Fri) 10:02 [Reply]
> 「須速男命」というスペルはどこにありますん?
> 朝から酔っぱらってるみたいな物言いになりました。
ささをいただいておられましたか。
『平成CD』で検索しますと、須速男命の名で祀る神社は
新潟県北蒲原郡笹神村 須賀神社 一社のみ。
ここは合併で阿賀野市になったようです。
「笹神」の村の名、何かを語っているようですね。笹を消したらあかん。

余談。
水速男命
千葉県流山市深井新田 六社神社
神奈川県横須賀市久村字御滝堂 御滝神社
http://www.d5.dion.ne.jp/~ikeyoko/M-ZINZYA-B.htm

立速男命
茨城県常陸太田市里野宮町 薩都神社
http://www.genbu.net/data/hitati/sato_title.htm

[668] Re[667]: レアーケース二題  大三元 2004/04/23(Fri) 09:15 [Reply]
> 普遍性に欠けるのかな。須速男命は素盞嗚尊だって。

「須速男命」というスペルはどこにありますん?
「速」と「早」は意味は同じ、、、だから、読みも同じ、とするケースがあるのかもしれない。早乙女などの例を参照して、「須速男」はばっちり「すさ(の)を」を表現していそう。「火之夜藝速男」も「火之やぎさ(の)を」? 他の「速」も「さ」と読んでみると何か出てくるかも・・・

早乙女などから「さ」には「若い」の意味を持たせるのも良いのかも知れない(辞典にはないだろうが。)すると「若狭」なんてのは「若い・若い」か。

朝から酔っぱらってるみたいな物言いになりました。

[667] レアーケース二題  神奈備 2004/04/22(Thu) 21:07 [Reply]
神社への参詣を挑戦と云うのも当たりとは云え珍しいこと。

> ミナカタ を 南方 と考えて 南風 を はえ ということを考え
> はえ が 早・速・八重 などと書かれていることはないだろうか、と考えてばっかり居るときに、この二男の名前は有効なイイガカリを呉れそうです。

この思考のケース、レアーで、日本にはいても一人しかいない?

>> 速男・早男には男の御子の意味があるのかも
普遍性に欠けるのかな。須速男命は素盞嗚尊だって。

[666] 一言青草  恋川亭 2004/04/22(Thu) 21:02 [Reply]
本棚整理中に偶々手に取った抱朴子を見て。
葛洪も『葛』氏だったんですね、気づきませんでした。関係者?

[665] Re[663]: ネバーギブアップ  玄松子 2004/04/22(Thu) 18:49 [Reply]
> 正門で声をかけて頂ければ参拝は可能です。

ありがとうございました。
が、熟考の結果、西宮はパスとなりました。
また、機会があれば挑戦してみます。

[664] Re[662]: 鴨と市、最古の王権 25 邪馬台国とその以前   恋川亭 2004/04/21(Wed) 22:00 [Reply]
ここだけちょっと。

>  卑弥呼の1000人の婢の中には、当然のこととして、最古の商いに従事する女達もいたのでしょう。市には裏側の機能も不可欠。豪族共は気分良く取り込まれたこともあったのでは。

『卑弥呼の1000人の婢』について私は、旦那持ち・子持ちの主婦であったかもしれない、と空想しています。卑弥呼には『夫婿無し』とありますが、婢についてはコメントしてません。豪族とその配下の一族の益荒男たちが、気を安んじて諸国平定・交易に出張する為に、強固なヲナリ組織が在ったかも。女王国の風俗の記述では、倫理道徳がしっかりしているような印象を受けるのですが。。。(イメージだけです)

[663] Re[661][660][657]: ネバーギブアップ  神奈備 2004/04/21(Wed) 11:43 [Reply]
> 面倒くさそうだから、行かないことに決定。

大学では
正門で声をかけて頂ければ参拝は可能です。
とのことです。

[662] 鴨と市、最古の王権 25 邪馬台国とその以前   神奈備 2004/04/21(Wed) 09:10 [Reply]
 卑弥呼が何故、倭国の盟主と成り得たか。『倭国の謎』(相見英咲著)に面白い説が載っているので紹介します。
 @ 邪馬台国王家の娘であったことによる尊貴性とカリスマ。
 A 霊能に優れていた。
 B 大国主・少彦名に現されている治癒技術に長じていた。
 C 酒つくりにも長じていた。卑弥呼の1000人の婢は、酒をかむ女、女医、看護婦、薬草、巫女などである。
 『倭国の謎』では、卑弥呼の邪馬台国を天孫族の国ではなく、国津神の国としています。もしそうならば、『魏志倭人伝』に銅鐸を思わせるような記述があっても不思議ではないでしょうが、好物として鏡のお話しか出てこないのは不自然なような気がします。千田稔氏は、邪馬台国の登場は、銅鐸祭祀から銅鏡祭祀への時代の転換と見ておられる程です。邪馬台国は天孫族の国です。

 卑弥呼の1000人の婢の中には、当然のこととして、最古の商いに従事する女達もいたのでしょう。市には裏側の機能も不可欠。豪族共は気分良く取り込まれたこともあったのでは。

 崇神王権が大和を支配してから三輪山の神を無視した状態が続きました。だからこの時代に、しばしば災害が起こることがありました。大神は「倭国の域(さかひ)の内に所居る神、大物主神」と名乗って、「国がうまく治まらないのは吾が意である。もし、吾が児、太田田根子を以て、吾を祭れば、たちどころに平安となり、海外の国も帰伏するだろう」との託宣をされました。

 太田田根子は『古事記』では河内の美努の村にいました。八尾市西高安町の鴨神社の西。『日本書紀』では茅渟県の陶邑にいました。堺市上之の陶荒田神社付近。いずれにしろ、河内にいた太田田根子を探し出し、大物主大神を祭る神主としました。
 鴨神社 http://www.kamnavi.net/en/kawati/sikiato.htm
 陶荒田神社 http://www.kamnavi.net/en/izumi/suearata.htm

 太田田根子、いよいよ三輪・鴨の祖の登場です。滅ぼされた王朝の末裔のようです。三輪山の神はよそ者に祭られる気持ち悪さ、よそよそしさに我慢がならなかったのでしょう。氏神として崇敬する者が祭って始めて神は機能すると言うこと。
 これで邪馬台国の前に大和を支配していた政権が見えてきました。三輪・鴨の王権と言うことです。

[661] Re[660][657]: またまた質問  玄松子 2004/04/21(Wed) 01:50 [Reply]
GWに淡路・阿波へ行くので、帰りにでもと思ったんですが、

> カメラ撮影もあるので事前に取材申請が無難かもしれません。
>  ご成功をお祈り申し上げます。

面倒くさそうだから、行かないことに決定。

[660] Re[657]: またまた質問  恋川亭 2004/04/20(Tue) 23:54 [Reply]
 私には三十路越えてないとイマイチ興味が・・・アッ違うか。

 甲山・御影大神のお膝元へ、再びようこそ!
 神戸女学院、地元でいうと略して神女(しんじょ)です。女子大だから、という訳ではありませんが(敷地内には中高等部もあり)、全国的に部外者侵入事件で敏感になっているので、フラッとでは学校も警備会社も「関係者以外お断り」でしょうね。カメラ撮影もあるので事前に取材申請が無難かもしれません。
 ご成功をお祈り申し上げます。

[659] Re[658][657]: またまた質問  大三元 2004/04/20(Tue) 22:16 [Reply]
> >  全然話は変わりますが、信濃特有の神で、出早雄命または出速雄命と云う神様がいます。諏訪大社の二男と云うことのようで、建御名方神の御子神となっています。

ミナカタ を 南方 と考えて 南風 を はえ ということを考え
はえ が 早・速・八重 などと書かれていることはないだろうか、と考えてばっかり居るときに、この二男の名前は有効なイイガカリを呉れそうです。

[658] Re[657]: またまた質問  神奈備 2004/04/20(Tue) 20:33 [Reply]
> 女子大だから、簡単に入れてもらえないのでしょうかねぇ。

 体育館の後ろだとかの岡田神社ですね。堂々と侵入する絶好のチャンスかも。暇を見て偵察して来ますよ。 あ!恋川亭さんが!

 全然話は変わりますが、信濃特有の神で、出早雄命または出速雄命と云う神様がいます。諏訪大社の二男と云うことのようで、建御名方神の御子神となっています。

 畿内には阿遅速雄神(『住吉大社神代記』では味早雄神)と云う神様がいまして、阿遅鋤高日子根神の御子神となっています。

信州の山家神社のHP
http://www.yamaga-zinzya.or.jp/e01.htm
によれば、群馬郡古巻村の半田早雄神社、同郡豊秋村の中村早雄神社、勢田郡金島村の延喜式内甲波宿祢神社等、皆日本武尊が祭神とあります。
 
 だれでも人の子ですが、日本武尊も皇太子として有名です。

 火之迦具土(火之夜芸速男神」もまた、御子であるころがポイント。

 速男・早男には男の御子の意味があるのかも知れません。

[657] またまた質問  玄松子 2004/04/20(Tue) 18:58 [Reply]
神戸女学院大学敷地内に、廣田神社摂社の岡田神社があるんですが、
フラッと行って、参拝できる状態なんでしょうか。
女子大だから、簡単に入れてもらえないのでしょうかねぇ。

[656] 鴨と市、最古の王権 24 狗奴国  神奈備 2004/04/19(Mon) 11:14 [Reply]
 物部氏や天孫族の祖先達は、河内にやって来て何も直ぐに鴨族と戦争したわけではないのでしょう。どっちかと言えば、八尾の平地に展開しているように平坦地好きの物部氏は、より湿地帯に水田を開拓していったのです。
 これは大和でも事情は同じであったものと思われます。共存の時代があった。鴨と物部の共存が高尾張や五百家で行われて、尾張氏、伊福部氏(五百木部氏)などが成立して、祖神としての天火明命や天香山命が生成されたのでしょう。それ故に伊福部氏の遠祖は大己貴命、直接の祖先は饒速日尊となっています。

 大和や河内の山地を鴨族や物部氏等が焼き畑、カンナ流し、木材の切り出し等で従来とは違う開発を行い、結果、土砂が河川に流れ込み、河内湖や大和国中湖を埋めていき、自ずから低地の物部氏の生産量が増加し、彼らがが優位にたっていったのです。
 さらに低地好きの物部系が港湾を支配するようになって、市の支配権、交易権が鴨族から離れていったのでしょう。列島の支配者が変わったとの認識が大陸にも伝わり、政権交代の序曲だったのです。

 加えて、呪術よりは武術の王権であったと思われる崇神軍の侵攻によって尾張氏や鴨氏、物部氏の一部は大和国から逃げ出して山城、近江、濃尾平野等に移住し、濃尾平野に狗奴国を建国します。
 山城は岡田鴨神社などに鴨族の足跡。また近江と美濃には天稚彦の足跡、即ち下照姫の足跡、また美濃と尾張には、味治須岐高彦根命の異名とも思われる天津甕星神と妃神天甕津日女命を祭る神社が鎮座しています。
 狗奴国濃尾説、最近よく言われる説にのっています。墳墓のありようと列島が南に伸びているとの陳寿認識を考慮した考え方のようで、有力な説と思っています。さて、鳥越憲三郎氏『大いなる邪馬台国』の中で、狗奴国とは葛野(クズノ→クナ)のこととされております。氏は葛城王朝と邪馬台国との対立を、大和平野の中のこととされていますが、『魏志倭人伝』に記載されるにしてはローカル過ぎる話。
 葛城の地から押し出されて濃尾地方へ展開した王により建国されたのが大陸での表記の狗奴国となったと見ることができます。葛城に居住していた名族、鴨氏が狗奴国を建国したのです。味耜高彦根神の後裔であり、悪神の天津甕星であり、天背男命。従ってこの神は尾張族の祖先とされ、また後裔は尾張大国霊神社の神官として連綿と続いたのです。

[655] 鴨と市、最古の王権 23 浪速  神奈備 2004/04/17(Sat) 07:52 [Reply]
 志紀 藤井寺市 国府遺跡の状況
 弥生時代前期以降の水田、集落跡や周溝墓等が確認。弥生中期の水田跡から河内独特の石小刀、打製石器が大量に発見、板状の人形木製品が出土。現状では最も古い出土例だそうだ。
志紀県主神社、志紀長吉神社が鎮座。

 これらの初期水田の開発者を鴨族と言う気は毛頭ありませんが、瀬戸内海を東にやって来た安曇海人などが上陸して、先住民達と共に開拓したのかも知れません。その後、鴨族が鉄製農機具を持ち込んで本格的な農耕がなされたのでは。
 河内湖の南側での鴨系の神社としては、鴨高田神社、鴨習太神社、鴨神社が鎮座していることは前回に紹介。河南町大字神山に鎮座の鴨習太神社は現在は物部の遠祖饒速日命が祭神となっていますが、神社名からは鴨氏のはず。
 『日本書紀』神代紀に、下照姫の歌「天[あめ]なるや 弟織女[おとたなばた]の 頸[うな]がせなる 玉の御統[みすまる]の 穴玉はや み谷 二渡らす 味耜高彦根」更に歌って「天離[あまさか]る 夷[ひな]つ女[め]の い渡らす迫門[せと] 石川片淵[いしかわかたふち] 片淵に 網張り渡し 目ろ寄しに 寄し寄り来[こ]ね 石川片淵」と歌われたのです。この石川は国府遺跡の東で大和川と合流している石川で、遺跡付近は古来からの市である餌香の市のたった所。

 石川の片淵とは鴨習太神社の近くと言う。要は、鴨族は高台に居住し、ゆるやかな傾斜地を水田としていたようで、これは葛城の地形を見てもよくわかる所。
 「弟織女の頸がせなる玉の御統の穴玉はや」とは、「弟織女の玉を連ねた首飾りの玉の輝くこと」を読んでいるのですが、この輝きは太陽を言っているようには思えません。と言って通説のタタラの火が連なっているのでは弟織女を引き合いに出すことにはなりません。織女の登場している所からは星明かりでしょう。暗い天空の連なった輝き、明るい星の輝きなのです。金星と言いたい所ですが、はてさて。

[654] 鴨と市、最古の王権 22 大和の国 4    神奈備 2004/04/16(Fri) 15:09 [Reply]
 『日本書紀:崇神紀』崇神八年
 大田田根子が大神を祭り、活日が神酒(みわ)を天皇に献じ、
 この神酒(みき)は 我が神酒ならず 倭成す 大物主の 醸みし神酒 幾久 幾久
 と歌をよみ、宴をもよおしています。「倭成す」とは「ヤマトナス」の訓。ヤマト国を建国した民人が奉じていた神が大物主神と言うことです。

 『崇神紀』では、崇神さんの時代、三輪山の神妻であった倭迹迹日百襲姫命が箸墓に葬られていると記されています。百襲姫姫は大和の大王(孝霊天皇となっている)の娘。
 箸墓は「傑出した巫女の墓で、その巫女は箸で陰部を突いて死んだ。」と言う伝承が残っていたと言うことでしょう。この死に方は珍しいので、永く語り伝えられたのでしょう。

 大物主のヤマト国を崇神朝が邪馬台国として引継ぎ、列島西部の乱れを治め、さらに大陸の魏の国から卑弥呼が倭王として認められて晴れてこの列島の盟主となることができました。

 崇神侵攻以前のヤマト国の支配者は大物主神の裔を名乗る鴨氏で、彼らを支えた同族の三輪氏、先に来ていた天孫族、物部氏などと他のヤマトの古い豪族達だったのでしょう。大物主神の裔としては三輪氏、大神氏、神人氏などがヤマトでは勢力があったのでしょうが、彼らは河内に拠点を設けることをせず、ひたすら山辺郡や磯城郡で活躍していました。一方、鴨族の祖神を祭る式内社は河内・摂津には数社鎮座し、数百年後にまでその痕跡をとどめています。ヤマトの王者たらんとすれば、河内はその港としても押さえておかねばなりません。同じく、紀の川流域も押さえる必要があり、鴨氏の拠点の葛城は河内と紀の国とに隣接しており、絶好の位取りをしていることになります。
 河内国石川郡 鴨習太神社(河南町神山)
 河内国高安郡 鴨神社(八尾市大竹)『古事記』で大田田根子が居た所の近所
 河内国澁川郡 鴨高田神社(東大阪市高井田)
 摂津国嶋下郡 三嶋鴨神社(高槻市三島江)
 後世、物部氏が跋扈した地域であっても、これほど鴨族の神社が残ったと言うことは感動的です。尤も、鴨習太神社の祭神は物部祖神に置き換わってはいますが、神社名は残ったようです。

[653] 鴨と市、最古の王権 21 大和の国 3  神奈備 2004/04/14(Wed) 10:23 [Reply]
 この青草話では最古の王権を邪馬台国と言っているのではありません。邪馬台国以前にあったのでしょう。卑弥呼の時代、崇神天皇の時代、これらがどのような国であったのか、この時代ですら推測に推測を重ねるしかありません。ましてや、それ以前の王権については、偶然に残って偶然に発掘された遺跡遺物や神話の世界から推し量るしかありません。

 大国主神や土蜘蛛の時代、たどりつけますのかいな。

 秀麗な霊山を「お山」と呼ぶことは、現在でもよく行われています。大阪では伏見稲荷をそのように呼んだりします。奈良の中洲ではたたなずく青垣の連山をお山と呼び、山とその麓に居住している縄文文化を基盤にした人々をヤマビトと言っていました。稲作や鉄、漁法を持った倭人が登場。倭人の中で祭りにたけた者が王になり、縄文人達と調整してヤマト集落を形成したのです。ヤマトの語源です。各地にヤマトはあったはず、大和が都となった故、この地が大和として残りました。

 素直に考えれば、邪馬台国は大和にあった国で、大和国と言うこと。その特徴。
 @ 国の名は地名の名から。大和神社の旧鎮座地付近がヤマトの中心地。
 A 時代は弥生末期から古墳初期、箸墓、西殿原古墳が傑出した存在。『考古学と古代史の間』(白石太一郎著)では、それぞれが卑弥呼と台与のお墓だとか。
 B 3世紀になれば、近畿、瀬戸内、山陰の土器が北部九州へ流入。逆の動きはない。東遷はなく、逆に侵攻か。上記書。
 C 瀬戸内海の東端である河内とその後背地の大和は東国への起点でもあること。
 D お山の神霊と交感する卑弥呼、台与というスーパー巫女の存在。

 北部九州は半島に近く、往古よりの人々の往来もあり、弁辰(加耶)からの鉄資源の持ち込み、交換の拠点であった。交易の港であった伊都国以西、またその東の豊かな後背地を持つ奴国が力を持っていました。しかしこの交易の権利は邪馬台国に持ち込まれ、一大率によって伊都国は制御されたのでしょう。

[652] 鴨と市、最古の王権 20 大和の国 2    神奈備 2004/04/13(Tue) 16:10 [Reply]
 大和の国で天孫族が徐々に力をつけて来ている頃、伊都国には五十瓊殖(いにゑ)と云う英雄が誕生していました。天孫族の裔と物部の女との間の子でした。この間に天日矛神を奉じる一派が入っているのかも。前に書いたように赤留比売神を祀るとされる神社も鎮座。伊都県主の五十跡手の”五十”が崇神さんや垂仁さんにあらわれていること、天日矛神の五世孫の田島守が垂仁さんに橘をと命がけ。近親者でないと出来ないこと。

 崇神さんは、倭国の乱の一角を担っていた九州の乱れを武力で統一、余勢をかって東へ向かったのです。崇神天皇を祀る神社は不思議なことに出羽の国に7社も鎮座しているのを別にすれば、九州に多いのです。福岡を中心に各県あわせて17社。大物主神と合わせて祀られているのが多いのです。相互に祟るのを牽制してもらうつもりでしょうか。
 神社一覧  http://www.kamnavi.net/jm/eiko.htm#sujin

 記紀には東遷の記録はありません。従ってそのルートは推測するしかありませんが、神武さんのルートに近かったのかも。問題は吉備の国ですが、『古事記』には吉備に将軍を派遣したのは三代前の孝霊天皇、『日本書紀』では崇神天皇、伝承が乱れていますが崇神さんの東遷時に、吉備を手なずけてその協力を得たのでしょう。推測に推測を重ねますが、霊力の傑出した倭迹迹日百襲姫命やその兄の大吉備津日子命を大和から呼び寄せて「言向け和したまひ」たと云う事。

 古代の戦いには巫女が先頭に立ったのです。前にTVで聖徳太子をやっていましたが、物部守屋軍には二人の巫女さんが付いていましたね。これは敵に呪詛をかけるためです。巫女の呪力の優劣が勝敗にかかわったのは、後世の口合戦にその名残があると云われます。『卑弥呼の墓』原田大六著では「呪詛を伽辞離(カシリ)、可之布(カシフ)、止古比(トコヒ)、乃呂不(ノロフ)と云う」とあります。カシは橿と同じで、橿の木で枷(カシ)をつくり、身動きを出来なくすると云う呪詛の意味があるようです。神武さんが宮殿を造った橿原、恐らくは天孫族の敵を身動きできなくする呪詛の意味があったのでしょう。
 止古比(トコヒ)のトコは床、大地の意もあります。銅鐸に関係しているのかも。

 で、傑出した呪力を持つ女が登場して、戦をやめさせ国をまとめる、卑弥呼や臺与を想起します。卑弥呼である倭迹迹日百襲姫命と弟分にあたる崇神さんが大和に乗り込んで、ついに倭国乱をおさめたのでした。邪馬台国と倭国の女王の誕生です。

[651] 鴨と市、最古の王権 19 大和の国  神奈備 2004/04/12(Mon) 16:57 [Reply]
 東遷していった神武さんはどうなったのでしょうか。

 『日本書紀』等によりますと、その前に物部氏の遠祖である饒速日尊ご一行が大和入りを行っています。饒速日尊は「虚空見つ日本の国」と云ったとかで、この国の命名者としての栄誉を誇っています。なお、神武さんは「秋津洲」、大己貴命は「玉垣の内つ国」と名付けました。
 何故、饒速日尊は「日本」と云ったのか、どうやら長髄彦が神武さんの軍に抵抗した場所である草香は、彼らの拠点であり、難波の聖地であり、日の神を拝する所であり、従って日下と呼ばれていたのが日本のもととなったのでしょう。

 日下、鴨の女神の下照比売に通じる地名のようにも思われます。

 『旧事本紀』には、饒速日尊は高天原から先発隊的に派遣されて来て復命もしない内に亡くなったとあります。長髄彦の妹を妃として、物部の祖である宇摩志摩治尊を生むました。『古事記』では神武さんの後から大和へやって来たことになっています。『日本書紀』では、長髄彦を殺して神武さんに恭順の意を示すのです。
 天孫の端くれに位置づけられていますが、土蜘蛛の長髄彦と手を結び、後に裏切ると云うことですが、この時代に権謀術策が出来ることは立派なことであって、不名誉ではないとの観念があったのかも知れません。
 物部氏は生駒山系の東西を中心に畿内での力をつけていったのでしょう。

 神武さんご一行ですが、あっちこっちの豪族と争乱を繰り返し、三代目あたりでやっと大和へはなだれ込んだようです。

 神武さんの次からの天皇さんを祀る神社の特徴をリストアップ。
 綏靖天皇 圧倒的に熊本県と次に大分県。
 安寧天皇 橿原市吉田町 安寧天皇神社
 懿徳天皇 橿原市畝傍町 池田神社 http://www3.kcn.ne.jp/~mamama/nara/temple/kasihara-shrine07.htm
 孝昭天皇 滋賀県大津市真野町 神田神社摂社棋神社(このもと)http://www.genbu.net/data/oumi/kanda2_title.htm
 孝安天皇 御所市玉手 孝安天皇社
 孝霊天皇 鳥取県へは遠征、岡山、広島は吉備津彦との関係?、高知は伊予の越智氏との関係?。
 孝元天皇 香川県、京都府亀岡市
 開化天皇 京都府亀岡市 小幡神社 http://yasaka.hp.infoseek.co.jp/obata2.html

 三代目の安寧天皇でやっと大和に祀られます。その後少し発展して遠征も行っているようです。すんなりとは大和に入れたのでもないでしょうし、幾人の登美彦達と摩擦を起こしつつ数十年。所謂倭国乱ると形容される騒動をやらかしていたのです。後漢桓帝(147)から霊帝(185)の間。
 しかし事代主の末裔の鴨族とか師木の県主には比較的かわいがってもらっていて、嫁などを貰っていたようですが、大和全土を征圧するような力を持つまでには至っていないようです。辛うじて生き延びていたと云うことかも。

 大和盆地の南西の地域が拠点だったようです。

[650] Re[649][648]: 白木=野城=のしろ?  大三元 2004/04/11(Sun) 20:02 [Reply]
>  大三元さん。固定観念打破の精神ですね。ありがとうございます。

お禿げ増し、ありがとうございます。

[649] Re[648]: 白木=野城=のしろ?  神奈備 2004/04/11(Sun) 15:59 [Reply]
 大三元さん。固定観念打破の精神ですね。ありがとうございます。
 八角親方の北勝海と云う相撲をホクトウミと云います。勝はトではなく、十勝からの誤用ですが、相撲界では通ってしまっているようです。北勝力と云う弟子もいます。

 出雲国風土記の加藤義成校注には、「白(草冠に止)」で「かさもち」とルビがありますね。ハナウドのことのようで、白い花が咲く。
http://www.agri.tohoku.ac.jp/ecs/photo/plant/h-lanatum.html
 白頭公でオキナクサ。では、禿げた翁は級頭公??

 白山を開いた泰澄も新羅系のようで、この民はホワイト好みだとか。
 まだまだ固定観念呪縛中。

[648] 白木=野城=のしろ?  大三元 2004/04/11(Sun) 10:09 [Reply]
神奈備さん
出雲の野城大神、野城社周辺の地名に「のしろ」「のぎ」があることから
野城は「のぎ」ではなく「のしろ」が原形だったのではないか、などと考えております。
そして「白」を「の」に宛てる場合もありその背景も考えてみました。
それらを応用すると「白木」が「のしろ」に遡れるのかもしれない・・・と

http://www.dai3gen.net/nokagami.htm
に現状をまとめておきました。

[647] 鴨と市、最古の王権 19 東夷のクニ 8 伊都国 4  神奈備 2004/04/10(Sat) 17:01 [Reply]
 伊都国に天孫族が天降って来る前には無人であったのではなく、安曇族や素盞嗚尊を奉じる先住の民がいました。特に糸島半島には、全てが全て古社とは言えないでしょうが、素盞嗚尊、稲田姫、五十猛命などの出雲の神々を祀る神社が目立ちます。五十猛命を祀る神社名はほとんど白木神社と言う名で、糸島半島と新羅の国と往来の盛んだったことが見て取れます。またやはり半島から伝来したとされる志登支石墓が糸島には多く、その側に白木神社(潤神社)が鎮座している所から見ますと、紀元前後からの祭祀があったのかも。
潤神社 http://www.kamnavi.net/it/tukusi/maebaru1.htm

 また、伊都国には天日槍の妻(阿加流比売)を祭神とすると云われる高祖神社(前原町大字高祖)や託杜神社(前原町大字多久)が鎮座、女神を天日矛が追いかける話、実は女神はおなり神で、船魂の神としての先導神で天日矛の旅路を護っていた神であったとも言えるのかも。これは、女神の託杜神社と地名の多久、これは船魂神に通じる名のようであることからの思いつき。これにつきましては拙HPの「船霊について」 http://www.kamnavi.net/jm/shipkonosk.htm を参照下さい。

 高祖神社、託杜神社の祭神の阿加流比売は渡来神ではなくこの国の神です。「我が御祖の国に行かむ。」と戻ってきています。難波の比売碁曾の社に坐す阿加流比売と『古事記』は記しています。難波の東小橋に鎮座する比売許曽神社の祭神は下照比売となっていますが、何故、同一視するような混乱が生じたのでしょうか。
 比売許曽神社 http://www.kamnavi.net/ym/hiboko/himekoso.htm 

 阿加流比売はタカソ、タクコソの神として祀られ、それは出雲へ伝播すると、多久神社の祭神として天甕津比女命、またの名の天御梶姫命、またの名の天甕津姫となります。悪神金星の天津甕星神の配偶神。また迦毛の大御神である阿遅須枳高日子命の后とされています。下照比売は阿遅須枳高日子命の妹神として顕れますが、妹は時として妻のこととされます。

 伊都国に天孫族が降臨して来て、それまで居た下照姫神を奉じる先住の民の一部は出雲や難波に新天地を求めていったのでしょう。いよいよ鴨の女神の登場となりました。

[646] 鴨と市、最古の王権 18 東夷のクニ 7 伊都国 3  神奈備 2004/04/09(Fri) 11:25 [Reply]
 前の天*神社(除く管公)の密度表は、天孫族が福岡・佐賀から四国北岸を経由して大阪奈良に到っている足跡が残っているように見えます。しかしこのコースは神武さんのコースではありません。これは『大いなる邪馬台国』で鳥越憲三郎氏が主張される物部氏の東遷コースに符合します。物部氏は四国北岸を通っているのですが、これは吉備の国の勢力を避けたこと、また鉱床の豊富な中央構造線沿いを金属採掘の民のガイドがあってのことだと考えられます。

 物部の遠祖である饒速日尊の所有物が天神の子孫の持つものと同じと『日本書紀』で神武さんが認めているのですが、天*神社の足跡を物部氏のものと見るよりも、後世に天皇家となった天孫族の足跡と見るべきでしょう。天孫族は協力氏族の物部氏や大伴氏などと共に東遷して大和に入ったと言うことが言えるでしょう。また、それも五月雨的に、時には集中豪雨的にと、東に活路を求めたことがあったのでしょう。

 一体、天孫族は九州のどこに居たのか、です。天降神社の多い怡土郡、かっての伊都国と思われます。伊都国と言えば、ひょっとしたら『後漢書東夷伝』の「安帝の永初元年(107)、倭の国王帥升等」とある帥升がこの国の王様だったのかも知れません。神武天皇の兄君に五瀬の命と言う悲運の皇子がいましたが、伊都の背の君であって、帥升の末裔だったのかも。

 『魏志倭人伝』「世々王がある。みな女王国に属している。」と言う文章の意味ですが、その昔、伊都国王が東遷して女王国を建国、また後の伊都国王は女王国から派遣された一大率であるとか、かっての伊都国王の子孫であると言うことでしょう。邪馬台国の核となったのは伊都国と見るのがよろしいようで。
 神武天皇の子に神八井耳の命がいます。二代目天皇の綏靖天皇の兄君に当たります。筑紫の三家の連の祖と『古事記』に出ています。那賀郡三宅郷のことで、現在の福岡市南区三宅付近と思われます。怡土郡ではない所が苦しいのですが、伊都国と奴国の境と見て、一大率が睨みをきかすのにはいい立地だったのかも。

[645] Re[641][640][638]: 壱岐の触地名  かたばみ [Mail] [Url] 2004/04/06(Tue) 19:34 [Reply]
≫これらが藩の政策による命名であることは明白であろう。」と推考しています

なるほど、藩のエリアと一致しているならその可能性が高そうですね。
とすると、触とか免とかの文字をなぜ使ったのかがちょっと気になります。
里や郷は古いようですが、統一しようという気はなかったのかな、変な意味での縄張り意識??

神奈備さんが司馬遼太郎氏の推定を引用されてますが、好きな作家といえどいまいち納得しにくい(^^;
触、おふれ、は行為を表す文字。
郷、里、村、市などは最初から地域や状況を表す文字と思います。

場所を表すのに行為の文字を使うか? そういう例は他にもあるのかな。
「触」は発音への単なる当て字じゃないのか・・そんな疑念を捨てきれないです。

ps.
地名の由来、古本屋に注文しました。


[644] Re[643][638]: 壱岐の触地名  神奈備 2004/04/05(Mon) 06:41 [Reply]
> 青草に投稿するのは初めてだァ・・・

泊瀬女さん おはようございます。最近はどちらを駆けめぐりでしょうか。

司馬遼太郎『壱岐・対馬の道』朝日文庫本 p.56
 (平戸藩は、)全島を農村である触と漁村である浦にわけた。
 浦の数は、八つである。
「壱岐八浦」
 などという。この郷ノ浦を筆頭に、小崎浦、湯本浦、瀬戸浦、芦辺浦、八幡浦、印通寺浦があり、北方のにぎわいの中心として勝本浦がある。浦には商人があつまった。このため漁業だけの機能ではなくなり、にぎやかさは農村部を圧倒した。壱岐の農村は農家が一軒ずつ点在する散村であるため、農村が肥大して商工業の町になってゆくようなことは素地としてなかった。
 農村部を区分してそのいちいちの行政単位を村とはよばず触とよぶ例は、壱岐以外に全国にない。
 触の数は全島で九十九あったらしい。
 いまでもこの呼称は生きている。
 地図をみても、田中触、西触、物部本村触、牛方触といったぐあいに、触の呼称がいまなお点在している。江戸期、一つの触に農家が多くて三富戸、すくなくて六十戸ぐらいはあったという。
「触」
 という言葉そのものは、舌代からある。遍く告げる、触れまわる、布告する、ということで、上から下へ命令をくだす、という場合につかう。中世にも戦国期にも、陣触(動員令)ということばがあった。たとえば甲斐の武田信玄が、陣触を発すると、各地に居住する触頭どもが自分の傘下にそのふれをつたえ、触れられた者は郎党をひきつれてあつまってくる。江戸期には下々に達する法令、規制類の文書を御触書といった。
 要するに漢語でいえば下達である。
 郷とか里とかいった古くからの単位は、上代にあっては行政上の正規の単位だったのだが、早い時代 − 古代というべき時代 − にその制度も呼称も廃止された。通称としてだけのこった。それだけに、大機構の中の小さな部品としての機能は風化した。
「わが郷は」
 といえば、どこか主観的にはその一郷が自立している(実態はそうでないにせよ)気分がありいまもある。とくに里などはそうであろう。これも舌代の行政区分語だったが、廃止されてふるいために、意味に上下関係が消え、牧歌的な語感だけがのこっている。
 この点、触は抜きさしならず藩に直結させられているような感じで、言葉としてじつに強い。
 触をいくらかまとめた単位として、在があった。二十四個の在があり、在ごとに庄屋がいた。
庄屋は藩からの命令を触につたえる配線盤であった。.庄屋から下逢される命令は、触の代表である百姓頭という小配線盤がうけた。こういう配線装置は江戸封建制の特徴で、平戸藩だけではない。が、他の日本のあらゆる地域では在来の村という言葉を踏襲した。村がいくつかの字をかかえている状態なども、そのまま踏襲して江戸期に行政化された。触という、いかにも電線の銅線がむき出たようななまの新用語をどこも用いなかった。そういうあたりに、江戸期の平戸領壱岐が、他とにおいを異にしている点があったのではないか。

[643] Re[638]: 壱岐の触地名  泊瀬女 2004/04/04(Sun) 23:58 [Reply]
「触」の地名について、司馬遼太郎さんの「街道を行く・十三巻」壱岐・対馬の道
郷ノ浦の項に書いておられますね。

青草に投稿するのは初めてだァ・・・

[642] 鴨と市、最古の王権 17 東夷のクニ 6 伊都国 2  神奈備 2004/04/04(Sun) 21:12 [Reply]
 『魏志倭人伝』には、伊都国には、「3.世々王がある。」とあるのですが、王様の名は記載されていません。多分、知らせなかったのでしょう。また、「1.官を爾支といい、副官を泄謨觚・柄渠觚という。」と役人の呼称は記載されています。これも個人名ではないでしょう。
 この辺りの国々については要は個人名などは一切出ていないと云う理解でいいのです。すべて役職名ということ。なお、『柄渠觚』は“ヒホコ”などと読むことが出来るようで、何となく天日矛を思わせます。
 『筑前国風土記』の怡土の郡の條に「怡土の県主の五十跡手は、高麗の国の意呂山に天から降ってきた日鉾の末裔。」と自己紹介をしています。一方、天日矛は新羅の王子と言うことになっていますが、怡土郡には白木神社も鎮座、日矛の新羅とは伊都国のことかも。
 また、怡土郡には天降神社が6座も鎮座、祭神はそろって瓊瓊杵尊、これは天孫降臨の印象が強いので、そうなったのかも。『筑前国風土記』の日鉾の降臨の方が似合うのだが。

 尤も、「1.官を爾支(ニキ?)といい」を瓊瓊杵尊のこととしてからめるともう一つの青草話ができあがりそうです。 <p> 神社名に「天」が付き、かつ菅原道真を祭神としていない神社の数について。
 筑紫の国の郡で多い順に
 三瀦郡 76  久留米市、大川市など
 山門郡 51  柳川市、大和町、瀬高町など
 企救郡 27  門司、小倉など
 竹野郡 24  田主丸町など
 三池郡 23  大牟田市、高田町など
 天孫族の拠点は北九州ではなく、築後川や矢部川の流域の有明海に近い所のようです。

 天*神社(除く菅原道真)の県別の密度(数/県の面積)で、福岡を100として多い順に。
 福岡 418社  100
 大阪 144社   91
 奈良 191社   62
 香川  95社   60
 佐賀 114社   56
 兵庫 348社   49
 愛媛 148社   31
 徳島 107社   31
 九州内部では福岡からの距離に応じて少なくなってきます。福岡と近畿地方の密度の濃さは納得できます。大阪の密度が高いのは山地が少ないこともあるでしょう。平地面積で云えば奈良も多いようですね。

[641] Re[640][638]: 壱岐の触地名  大三元 2004/04/04(Sun) 11:18 [Reply]
かたばみさん
> 元寇あたりのなにかかなとも思えますが、近世だとするとその由来がなにか残っていそうなものですが、どうなのだろう。

正しくは『地名の由来』をご参照願いますが:
「長崎県下の藩政時代には、島原藩が名(みょう)、大村藩と五島藩が郷(ごう)、松浦藩が触(ふれ)と免(めん)を地名の語尾に用いており、この分布は藩領とほとんど一致を見る。従って、これらが藩の政策による命名であることは明白であろう。」と推考しています。江戸時代の命名、ということでしょう。

[640] Re[638]: 壱岐の触地名  かたばみ [Mail] [Url] 2004/04/04(Sun) 09:29 [Reply]

≫触は古代には全く見えず近世に突如として出現する地名である
≫一番大事なポイント(どこまで遡れる地名なのか)

そこが大事ですね、年代がいつなのか、これを確定なり仮定なりしてからでないと他との比較も連結もできない。

それにしても「触」フレは壱岐だけにびっしりで、対馬にはなく長崎にも数件あるだけ、異常ですね。
元寇あたりのなにかかなとも思えますが、近世だとするとその由来がなにか残っていそうなものですが、どうなのだろう。


[639] Re[637]: 鴨と市、最古の王権 16 東夷のクニ 5 伊都国  かたばみ [Mail] [Url] 2004/04/04(Sun) 09:27 [Reply]

≫一時的ではないと言うことですから、寒冷化と言うよりは、
≫野山の木々が燃料や家屋、造船のために大々的に切り倒されたり

ある集団(地域)の衰退がなぜ起きるかですね。
殷(商)の首都が移転を繰り返しているのは青銅器生産と燃料用で山が裸になったからだという論があります。
青銅器用の燃料消費は生活用に比べたら桁違いに多いだろうなあ。

吉野ケ里などで一般人が食べていたのは縄文古来の採集によるものが大半で、稲の割合は少ないようです。
(出所ちょっと忘れましたが考古学資料です)
一般人が米を主食にできるようになるのは近世で、作る米のほとんどは租税であったのは歴史が示すところで、弥生だけそうではなかったとは考えにくいです。

米以外の食糧を得る場所は山だと思います。縄文と同じに。
山に無茶はやらないはずです、支配者も同じく(やってはならないことを覚えている限りはですけど)。
それで足りなくなれば他地へ展開する、もとの地が衰退することはありません。
(これが天孫降臨だと考えています、子孫拡大のための新しい土地の確保)

寒冷化への気候の変わり目では洪水や旱など異常気象が起きるようです。
稲作だけではなくすべての食糧供給が不安定になる。
そして、年々寒冷となってついに飢饉が続くようになる。

飢饉になれば脱出や掠奪もおきます。
新羅本紀でも飢饉による避難で倭人がやってきた、といった記事が登場する時代でもあります。
AD150〜AD400頃まで寒冷の時代が続きます。

九州は縄文時代に比して10倍に人口がふくれあがっていて、新たに開拓できる土地もなかった。
今を生き延びることを考えねばならず、本来やってはならないこともやったでしょう。
これが倭国争乱の勃発であり、吉野ケ里もこれに連動して衰退していったと考えています。

下図は時代区分に気候変動を重ねた図です。
http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/hennen.png
なお、時代区分はこれまでの定説によるもので、縄文晩期後半というのが弥生に含まれるようになりつつあります(持論でいう初期開拓者の時代)。

縄文の崩壊、倭国争乱が寒冷化の時期に一致し、中国での周の滅亡、後漢の滅亡も寒冷化が始まる時代に一致します。
再び温暖化が始まるのは400年頃からで、復興の時代。
応神〜倭王五代の時代、中国との交流も再開されて最新の渡来文化が一気に流入しはじめた。
(巨大古墳建設はエジプトのピラミッド建設と同じく、労働チャンス提供という民衆救済の意味もあった可能性を考えています)


弥生のこの地域の変化では甕棺のありようが重要なヒントになると思っています。
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/fujio/kyushu/kamekan.html
(あいにく半島側の出土状況の情報がみえなくていまのところ関連づけがやりにくい)

興味深いのが弥生土器の代表名にもなっている遠賀川流域に甕棺がまったく出土していないこと。
文化が違う状況が存在してたことを示すものと思います。


[638] 壱岐の触地名  大三元 2004/04/02(Fri) 22:39 [Reply]
吉田茂樹著『地名の由来』によると
「触は古代には全く見えず近世に突如として出現する地名である。京都大学の浮田典良享受も「触は近世になって出現した地名」(出典あり、略)と言われている」
というのが、私の出会った説明の中では一番大事なポイント(どこまで遡れる地名なのか)をおさえていると思う。

[637] 鴨と市、最古の王権 16 東夷のクニ 5 伊都国  神奈備 2004/04/02(Fri) 21:35 [Reply]
> 伊都国は400年頃に炎上して滅びるようです。

 これは知りませんでした。気の毒でしたがロマンをかき立てますね。大坂城。

 紀元ゼロ年の頃には、糸島半島は島であって、前原との間には水道があったようで、これは出雲でも素尊水道があったように、日本人がものごころがついてから海が埋まって来ています。河内湖や児島半島も同じようです。一時的ではないと言うことですから、寒冷化と言うよりは、野山の木々が燃料や家屋、造船のために大々的に切り倒されたり、焼き畑で坊主になったりで、土砂がドッシャと川に流れ込んだ結果と思われます。水田にあう土地が増加することにもなり、一石二鳥の効果となって人口増加を促進して、弥生時代から古墳時代と発展の土台がでたのでしょう。

 『魏志倭人伝』に伊都国の名があります。その説明を箇条書きにすれば次の通り。
 1.官を爾支といい、副官を泄謨觚・柄渠觚という。
 2.千余戸がある。
 3.世々王がある。みな女王国に属している。
 4.帯方郡使が往来するときつねにとどまるところである。
 5.女王国より以北には、とくに一大率をおいて、諸国を検察させている。諸国はこれを畏れ憚っている。一大率はつねに伊都国において治めている。
 6.倭王の使が洛陽・帯方郡・諸韓国におもむき帰還したとき、帯方郡の使が倭国にいたりおよんだときは、みな津に臨んで伝送の文書とくだされ物とを照合点検し、女王のもとにいたらせるときに、差錯がないようにする。

 このうち、邪馬台国以前の事象としては、3.世々王があること、6.の交易の港であったことと言えます。怡土郡には、有名な三雲遺跡があり、遺跡を囲むように環濠があったようで、伊都国王の居城付近と見なされています。また、この遺跡からは大陸産の辰砂の原石が出土していますので、単なる交易の港だけではなく、権力者である王のような存在が確認出来ます。『後漢書東夷伝』の「安帝の永初元年(107)、倭の国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願う。」の帥升はこの国の王だったのかも知れません。

 大陸では今日でも小学校で日本のことを「小日本」と格下に見る教育を行っています。だから一部留学生は猿でも殺すように日本人を殺し、核兵器保有国として尖閣列島の領有権を主張してくるんです。中華は料理だけにしてもらいたいものです。
 古代に於いてもそのいまわしき中華思想はあったようで、列島は東夷でした。その中で、伊都国だけは佳字のように思えます。邪馬台国の邪、卑弥呼の卑、奴国の奴、倭国の倭とあまり良い字を使わないとされている中で、伊都国の漢字は光ります。帥升あたりが自国名をきちっと伊都国と書いたものを持参したのでしょう。当時の首都的な国が伊都国で、帥升は東夷を代表する王であったのでしょう。だから『後漢書東夷伝』にその名をとどめた。そうでなければ、夷投国、夷対国、為対国あたりの字だったのかも。

[636] Re[635]: 鴨と市、最古の王権 15 東夷のクニ 4 吉野ヶ里2  かたばみ [Mail] [Url] 2004/04/01(Thu) 18:06 [Reply]

≫森浩一氏は「吉野ヶ里が最後の頃に大和の巻向遺跡が入れ替わるように姿を現す。」

そのとき歴史が動いたですね。
この頃は寒冷ピークの時代です。
農耕の発達で縄文時代に比して10倍にふくれあがった九州の人口、その農耕が不振になれば飢饉と混乱。
環境がよい場所ならそこから姿を消す人はいないと思います。

AD150〜AD300頃は九州の暗黒時代→倭国争乱→豊かな場所を求める人々が東へ向かった。
大和の纒向を目指す人々もいた。
そこには唐古・鍵遺跡があって、纒向の登場と入れ替わるように姿を消す。
とすると、唐古・鍵の人々とは・・

ちなみに背振山(ソ・フルの山、だと思う)の北側の伊都国は400年頃に炎上して滅びるようです。
応神時代かな、単なる事故かなあ。
壱岐には「なになに触」という地名が無数にありますね。

吉野ケ里から出土する遼寧式の細身銅剣、これは半島の剣。少なくともある時期にはここに半島とつながり深い人々がいたということだと思います。


[635] 鴨と市、最古の王権 15 東夷のクニ 4 吉野ヶ里2  神奈備 2004/04/01(Thu) 08:17 [Reply]
 吉野ヶ里遺跡をクニと見ますと、あまたあるクニの一つです。後の肥の国の一部の前身かも。そうしてこのようなクニが幾つかまとまって、倭国と呼ばれる列島を代表する国になるのですが、この統合のキイは何だったのでしょうか。現在の日本は統合の象徴としての天皇が存在しています。それと同じように、大宮司のような例えば卑弥呼の如き存在が必要だったのかも。何らかの宗教的畏怖心を与えるものがあったのでしょう。それが彼女の場合には鬼道だったと言うこと。また、各ムラムラのシャーマンを集めてパワーアップ訓練を行ったり、治療や薬剤の新知識を与えたりしており、皆んなで押し戴くに値する存在であったはずです。

 で、『卑弥呼が都した所』福嶋正日子氏が「漢の祖の国」とされた漢の祖とは秦のことで、秦の徐福のたどり着いた場所であり、クニを建てた所とされているようです。『漢書』では、「徐福は平原大沢を得、止まりて王となりて来らず。」と記されています。

 徐福は不老不死の方士と言うことで、何でも道教の教祖の福永光司氏によると吉野ヶ里遺跡にもその影響が残っているとされます。
 『馬の文化と船の文化』で故福永光司氏は、吉野ヶ里遺跡 と前2世紀のクニの王達が畏敬の的であった漢の武帝が秦山で行った封禅の祀りがそのレイアウトでそっくりであることを指摘されています。墳丘墓の南側に見られる祭祀遺跡と西南の方角から入る墓道や、墳丘墓の型が武帝鋳造の貨幣と同じ変形八角形であることなどを指摘されています。

 「NPOカムナプロジェクト」の黒川史明さんは、その独創的発想で、某歴史研究会を活性化されている方ですが、氏の説をひとつ紹介いたします。カムナプロジェクトは http://www.kamuna.net/ 。
 徐福の船団一斉にが列島に向けて船出をしても到着する場所はてんでバラバラになるはず。ある船は九州へ、ある船は熊野へ、丹後へ、東北へとたどり着きました。これは古代の航海では常識の話。で、事前に徐福はメンバーに「大和を目指せ。幾世代後でも言い。大和を目指せ。何故なら大和こそ不老不死の仙薬のある地。」と言い渡していたのです。水銀のこと。それで、先ず、物部の饒速日命、神武天皇、崇神天皇、応神天皇、継体天皇とそれぞれの地域で力を蓄えては順に大和へやって来た。」とのお話。 半村良の「アイララ」みたいな感じですね。


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