青草談話室ログ平十六年 八月 2004.8.13 |
[911] 訂正します。 わーぷ | 2004/08/31(Tue) 17:18 [Reply] |
ごめんなさい。 さらし兎の「し」は「に」でした。 |
[910] 「むなぎ」を考えました。 わーぷ | 2004/08/31(Tue) 17:07 [Reply] |
≫鰻の古語は「武奈伎(むなぎ)」の「むなぎ」を考えました。 棟木の「棟」もっとも重要なの意。 他に星の名「大角」・・・(角度の星?) 「極」にも(むなぎ)の読みが有りました。天位・帝位 きわめる 最高 方位・方向などの 他に星の名「北極星・南極星」 北極星・・・・・・(太一 ?) 私は漢字の成り立ちに古代中国の禹(ウ)王と父口(コウ?)の長江・黄河の治水・土木事業と後の、 中国を九州に分けた測量事業 天文学・呪い(まじない) そして日常生活の中での人間関係 虎のモデルは禹の上司「ギョウ」らしくトラ冠(コ)の付く文字には父「口」を治水の失敗から父を黄河への 生贄とされたギョウへの恐れと 憎しみが感じ取れます。 それに、旧約聖書の話との関係する字形も多く有ります。 例; ウ冠=幕屋(モーゼの時代の移動用テント) 宇宙をも表わす。 「宗」 ムネ 会意 神を祀るみたまや。一族の祖先を祀る族長の意もある。夏に天子に拝謁する諸侯。 字解 ウ冠と示すとから成る。ウ冠のもとは幕屋(幕を張って小屋の様にしたもの。) 「示」は、ツクエの上に生贄を載せて神に献じる意。生贄を載せるツクエが神位との考え転じて「神の意」。 他に甲骨文字には、TやIの形がありTは工に通じ定規に関係するとの私見を懐いております。 話が飛びますが、「島」シマには仲間内の縄張りのどの他と区別された地域の意味もあると思います。 他に、「田」タの文字も意味深くこれにも「他と区別された地域」が感じられます。 「田」の文字は、+を中心に木の楯に測量図を彫り込んだが地球が丸いので失敗し「亞)アの字が生まれた。 「禹」の字は「ノ」=神 「口」=父 「ム」=ウ 「けいがまえ」=とらわれのミ・巳(蛇)・身・壬・御・魅・・・・ 「口」+「ム」=虫(むしの付く文字は脱皮をするので蘇えりの象徴かも)蛇=虫+ウ冠+ヒ(禹が奉げる形) 禹の姿は「羽人」ウ人(天使?悪魔?)仙人・まじないし・・・さらし兎に通じ臼で薬草を煎じている。 ウの音の文字 烏(ヤタガラス?サルタヒコ?)・兎(因幡の白兎?)・羽(羽人は天の使い)・胡(胡人コジン・ユダヤ系?) 禹・鵜・宇・菟・・・・ 出雲系の渡来人は禹王の末裔? 始皇帝(秦氏)より家系が上? 青草にも入れない草かも知れません、お許しください。 |
[911] 訂正します。 わーぷ | 2004/08/31(Tue) 17:18 [Reply] |
ごめんなさい。 さらし兎の「し」は「に」でした。 |
[910] 「むなぎ」を考えました。 わーぷ | 2004/08/31(Tue) 17:07 [Reply] |
≫鰻の古語は「武奈伎(むなぎ)」の「むなぎ」を考えました。 棟木の「棟」もっとも重要なの意。 他に星の名「大角」・・・(角度の星?) 「極」にも(むなぎ)の読みが有りました。天位・帝位 きわめる 最高 方位・方向などの 他に星の名「北極星・南極星」 北極星・・・・・・(太一 ?) 私は漢字の成り立ちに古代中国の禹(ウ)王と父口(コウ?)の長江・黄河の治水・土木事業と後の、 中国を九州に分けた測量事業 天文学・呪い(まじない) そして日常生活の中での人間関係 虎のモデルは禹の上司「ギョウ」らしくトラ冠(コ)の付く文字には父「口」を治水の失敗から父を黄河への 生贄とされたギョウへの恐れと 憎しみが感じ取れます。 それに、旧約聖書の話との関係する字形も多く有ります。 例; ウ冠=幕屋(モーゼの時代の移動用テント) 宇宙をも表わす。 「宗」 ムネ 会意 神を祀るみたまや。一族の祖先を祀る族長の意もある。夏に天子に拝謁する諸侯。 字解 ウ冠と示すとから成る。ウ冠のもとは幕屋(幕を張って小屋の様にしたもの。) 「示」は、ツクエの上に生贄を載せて神に献じる意。生贄を載せるツクエが神位との考え転じて「神の意」。 他に甲骨文字には、TやIの形がありTは工に通じ定規に関係するとの私見を懐いております。 話が飛びますが、「島」シマには仲間内の縄張りのどの他と区別された地域の意味もあると思います。 他に、「田」タの文字も意味深くこれにも「他と区別された地域」が感じられます。 「田」の文字は、+を中心に木の楯に測量図を彫り込んだが地球が丸いので失敗し「亞)アの字が生まれた。 「禹」の字は「ノ」=神 「口」=父 「ム」=ウ 「けいがまえ」=とらわれのミ・巳(蛇)・身・壬・御・魅・・・・ 「口」+「ム」=虫(むしの付く文字は脱皮をするので蘇えりの象徴かも)蛇=虫+ウ冠+ヒ(禹が奉げる形) 禹の姿は「羽人」ウ人(天使?悪魔?)仙人・まじないし・・・さらし兎に通じ臼で薬草を煎じている。 ウの音の文字 烏(ヤタガラス?サルタヒコ?)・兎(因幡の白兎?)・羽(羽人は天の使い)・胡(胡人コジン・ユダヤ系?) 禹・鵜・宇・菟・・・・ 出雲系の渡来人は禹王の末裔? 始皇帝(秦氏)より家系が上? 青草にも入れない草かも知れません、お許しください。 |
[909] Re[906]: 景教以前の宗教観の渡来の民が存在していたのでは かたばみ [Mail] [Url] | 2004/08/30(Mon) 18:43 [Reply] |
なにかを考えるときに陥りやすいことがふたつありそうです。 チェック1 まったくの聞きかじりではありますが、比較言語学では「現在似ている言葉は過去には似ていないと考えよ」がありました。 全てが変化し続けているからだと思います。人も文化も。 例えば千年前に同じであったものが現在では違う「もの」に変化していたら、かって同じであったことに気が付きにくいですね。 逆に、現在同じに見えるものでも千年前では異なっていることもあるわけです。 それぞれを歴史の流れの中で変化するものととして検討しないとうまくない。 時間軸での変化のチェックです。 チェック2 もうひとつが、様々な事象のなかの一部だけを取り出し、他の事象からも一部だけを取り出してうんぬんする場合です。 「12345」という情報と「54321」という情報があたっとき、3だけをみてどっちにも3があるからどうだこうだ、とやる。 これ非常に多いと思います。 違う部分に目がゆかない、あるいは自己催眠的に見えなくなってしまいやすくもある。 (意図的に偏った情報だけを提示する情報操作も多いです) 断片だけを取り出しては不可、周辺情報をできるだけ広く集めること。 (加えて、それらの時間軸での変化も考慮する) 上記ふたつがノーチェックで組み合わさればなんでもありになります。 さらに「信じてしまう」になると始末が悪い。 信じるというのは感情のひとつであって、理が通用しない部分だと思いますから。 ある情報があってそれをもっと知りたい場合は、まずは「その出所のご本人」に尋ねるのがよいと思います。 本人でないとその考え方をチェックできませんから。 ≫私は古代の神々は各 生活共同体ごとに存在していたと考えております その通りだと思います。 では、年代が下るに従ってそれがどう変化していったのか、ですね。 同時に周辺の異なる共同体との関連はどうだったのだろうか、それによってどういう変化が生じてゆくだろうか。 取り込む情報に対してチェックをおこない、自分の考えに対しても同じくであれば仮説として通用する論ができると思います。 |
[908] ウナギと宗像 かたばみ [Mail] [Url] | 2004/08/30(Mon) 18:28 [Reply] |
≫鰻の古語は「武奈伎(むなぎ)」ですね。これは胸が黄色いからです http://www.h4.dion.ne.jp/~h1414235/unagigakusyu/tennengakusyu.htm 天然ウナギのお腹は黄色ですか、面白い。 最近高級品たべてないからなあ(^^; いまのところナは菜や魚介類といった副食品の意で不都合はないとみています。 (穀物系文化からみて、ということになります) すると、ウナギはむろんウ・ナ・黄(^^; ≫宗像=胸形で、胸に刺青をしてた一族(海人族)の意とする説がありますね イメージだけの推測なのでちょっと弱いですね。 結果は似てますが、宗像はウ・ナ・カタ、ウ・菜・潟、魚を捕る干潟だったとみたいところ。 以下は堆積物がまだ少なかった時代を考慮して海面を若干上昇させた図です。 http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/ongagawa03.png 出雲の出発点もここだとみています(遠賀川中流域が大年神系譜の中枢とみる、穀物)。 鵜ウ・・水鳥、魚を捕る鳥かあ。 魚ウ・ヲ=ウォか? 兎ウはさほど重要な食料ではなく、肉はやはり鹿と猪がメインだったようです。 どこかで魚が狩猟系の兎と混じり合う可能性あり(ただし万葉などでの当字による文字化の後です)。 ふーむ、ウを水に関連ないしもっと絞って「魚ないし海の幸」と解すると多方面とジョイントしそう。 潮ウ・シホ、塩のとれる水でOK、では海ウ・ミだとしてミはなんだ? 豊宇気比賣神、は豊かなる海山の幸の姫・・海と陸の統合、ぴったし。 ただし、ウケには穀物をいれる桶の意があるそうで、これで豊・宇気としている可能性も大。 だたし、ウケが魚や穀物をいれることから器の意となっていった可能性もより大。 (オケじゃなくウォケ) 大気都比賣には魚はなかった?、陸系? いいや、ウォ・ケ・ツ・ヒメ、の変化であるなら・・無理とはいえない気もする、独り言(^^; もし大気都比賣と豊宇気比賣が同一伝承の変化であるなら可能性あり。 ps. 斐太後風土記(江戸末期〜明治初期)では川魚の名のほぼ全てが記載されていて重要な食品だったことがうかがえるようです。 絶版ですが、縄文時代/小山修三/中公新書に斐太後風土記の記述から飛騨の古代食文化を分析した詳細があります。 ウグイ(ウ・クヒ?(^^;)が年産265トンで圧倒的、他はアユ6トン、マス3トン、イワナ2トンといったところだそうです。 |
[907] Re[906]: 景教以前の宗教観の渡来の民が存在していたのでは 玄松子 | 2004/08/29(Sun) 13:14 [Reply] |
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人類の祖先を一つと考えた時に、過去の世界がつながっていたと考えれば関係を否定できかねると考えます。 人類の誕生(数千万年前)の尺度から見ると、古代(千年前・二千年前)の事象は、昨日今日起こった事件と大差のないもの。 昨日、僕が考えたことを、ニューヨークに住む誰かが、同じように考えたとしても、その人と僕が相談したわけでも、血縁者であるわけでもない。 人類誕生からの系譜を云々するなら、僕も貴方もブッシュもフセインも、みな親戚ということになるが、それに、どれほどの意味があるのだろう。 |
[906] 景教以前の宗教観の渡来の民が存在していたのでは わーぷ | 2004/08/29(Sun) 12:50 [Reply] |
かたばみさん、お世話様になって居ります。私は古代の神々は各 生活共同体ごとに存在していたと考えております。 おもに砂漠などでの神は現在「ラー(アラー)」太陽神とされていますが、エジプトの古代では複数の神々がいた様で スカラベ(糞転がし)なども崇拝の対象だった様です。 環境の変化で砂漠化し、生活共同体・部族間の統廃合の繰り返しの中で淘汰され 強い神「ヤフェー」残りました。 御存知と思いますが、キリスト教の前身はユダヤ教です。 現在キリスト教とユダヤ教が存在していますしイスラム教の前身もユダヤ教での「主」の様です。 中国では、天体観測が古くから行なわれていた様で「太一(北極星)」を宇宙を創造した「主」としてた様で、 「神」は人間から成れて(日本で言う権現)、仙人は神の上の位とする時代も在った様です。 ギリシャの神々も星座に現れ、日本などでの動物神など(十二の干支)と関係してると考えます。 キリストは魚座に関係し、十字架以前は「双魚」がシンボルでした。双蛇・庖犠(ほうぎ)・ジョカは蛇体・道祖神も? ポセイドン=海王神 書紀の豊玉姫は海神の娘 (山幸彦の子を産むときに竜の姿に) 鯉(魚)は滝を登り龍に成り天に昇る(人も精進して王と成り天の主に選ばれる。) 蛇も魚も龍もウロコが三角紋(古代からの紋様) 漢字の虫の付く生き物は、蘇えりの象徴。(蘇我氏の蘇(ソ)は耶蘇教(キリスト教のラテン語の中国語の音訳) 耶(ヤ)は、邪(耶)馬台国の(ヤ) 「ヤフェー」のヤ 三種の神器の「勾玉」は、たしかヨーロッパのケルト民族の墓にも存在した。 中国での蝉形の玉(ネフライト)は死者の復活を祈り埋葬者の口に含ませた。 蝉形の遺物はたしかエジプトにも存在していると?記憶しています。 たしか、ユダヤ系の葬儀にコインを埋葬者の口に含ませたとの記憶が? 日本では、三途の川の渡し賃に死者に持たせている。 関連が在るのでは? 景教以前のキリスト教的宗教観の渡来の民が存在していたのでは? 私はピラミッド型の階層社会はの望みませんが、聖徳太子は縦社会を望んだ様です。 人類の祖先を一つと考えた時に、過去の世界がつながっていたと考えれば関係を否定できかねると考えます。 皆様の御研究が一つのラインにたどり着くことを願いながら、神奈備掲示板を楽しませていただきます。 神奈備の益々の発展をお祈りします。 |
[905] Re[903][900]:食物の言葉 かたばみ [Mail] [Url] | 2004/08/29(Sun) 10:46 [Reply] |
≫春夏捕魚して食に充つ。 ≫はるなつすなどりしてくらひものにあつ すなどり・・後述 古事記では仲哀で猪が香坂王を「咋ひ食みき」とあります。 クヒとハミの源はどっちも「カ」だと思うけど(^^; 微妙に意味が違うんだろうな。 万葉ではクヒとハミは食べることを意味するように翻訳されてますが、そうではないのがたくさんある。 「食國」(御食國)ヲスクニがその代表か。 万葉4006に「乎須久尓奈礼婆」ヲスクニナレバがあるので、ヲスクニと読むとされてるのでしょう。 「御食都國」ミケツクニ、おそらく食國と同義だと思います。 「三食津國」というのもあります。 御歳→三歳の変化と同じかな。私なら、穀物と肉と魚の三つの意を含めて「三食」を使うかも知れません。 946では「御食向 淡路乃嶋二 直向・・」 ミケムカフ アワジノシマニ・・ ここの御食はなんとなく慣用句のような使い方にもみえ、類例は複数登場しています。 956では 八隅知之 吾大王乃 御食國者 日本毛此間毛 同登曽念 やすみしし我が大君の食す国は大和もここも同じとぞ思ふ 「天皇の治める国」は大和でもここでも同じなんだなあ・・ 御食國は国家の意になっているとみえます。 すると・・先代旧事本紀の天孫本紀にでてくる「宇摩志麻治命と天日方奇日方命が伴に食国の政をおこなう大夫となった」という一節がますます興味深くなります。 (天日方奇日方命は神武の妃の媛踏鞴五十鈴媛の兄、事代主命の子) 食国とは諸国のひとつの国名じゃない、大王(天皇)が統治する全体(体制)を示す。 すなわち神武は出雲の人物に政治の中枢を任せていた、ということ。 神武の支配したのは全体の一部であって、出雲は存続しており、共同統治体制だった・・話がずれた(^^; 万葉での「求食」を動物が餌を食べる=あさる、と訳しています。 575草香江之 入江二求食 蘆鶴乃 痛多豆多頭思 友無二指天 1165暮名寸尓 求食為鶴 塩満者 奥浪高三 己妻喚 鳥が餌を食べる状況、魚だろうな。 歌人は「求食」を特定の行為を示す意で使っており、翻訳者はそれを「あさる」と翻訳したのでしょう。 漁が「あさる」ですね。 字訓によれば「いざり」は舟をだして漁をすること(→漁火)で、漁一般を「すなどる」という、とあります。 ス・ナ・ドルではなかろうか。 洲の菜(魚介、海藻類とみる)を採る。 ただし菜を副食品とみる場合は穀物系文化の目からの観察だと思います。 さあて・・食では穀物ケとは別に漁労系文化からの食の言葉(発音)があったのではないか。 サシスセソあたりの(^^; だとすると、食国をヲスクニと読む場合は、穀物ケに対応する漁労系文化での御食国である可能性がみえてくる。 「御食」ミ・ケとヲ・ス、意味は類似だが発音の源は陸と海の別系、それが混じり合ってるのが万葉の食じゃないのか。 (御をミあるいはヲに当てるのはどこからきているのか??) (御は霊の意、ヲクは依代へ神を招くの意と字訓にあり) その他、食には訳者がなぜそう解したのか知りたい部分がいろいろあってわけがわかりません。 |
[904] Re[902]: 「モリヤ山」と同じ名前ですが かたばみ [Mail] [Url] | 2004/08/28(Sat) 19:57 [Reply] |
≫香取神宮のフッヌシと諏訪大社の、土着神のモリヤノオトドのお供えに肉とは?二神の関係は? 諏訪の先住者が狩猟を糧とする人々なら肉を供えるのは当然で、縄文古来から連綿と続いていたと思います。 弥生あたりで農耕文化が東日本に到来したとき、先住者との葛藤(対立)の過程で守護神を求める意識が生じ、それが平安時代に経津主命(香取神宮)という形をとって祀られるようになったものと思っています。 ≫守矢家は、諏訪の土着神のモリヤノオトドの末裔なのでしょうか ある系譜がある意識を古来から保持している可能性はあると思います。 ただし、千年2千年を経過したら物理的な血は混合して無意味に近くなるのではないでしょうか。 ≫モリヤは聖書のイサク伝承の「モリヤ山」と同じ名前ですが関係するでしょうか なんの関係もないと思います。 似た言葉や物があるだけで関係ありとするなら、それこそ世界はみな兄弟になってしまいます。 日本の古代とユダヤの古代を関連づけようとする論がいろいろありますが、縄文〜弥生の流れの中にその必然性(可能性)はまったくみえないです。 なお、聖徳太子時代に景教が広まったことは間違いなく、その関連文化も運ばれていると思っていますがこれはキリスト教の一派。 しかし、日本の多神とそれを生じさせた森という環境、唯一神を生じさせた砂漠という環境とはまったく違う。 森の文化のなかに唯一神が運ばれたとしても、結局は森の文化に吸収されてゆくでしょう。 その痕跡が残るとしても、それは形式としての痕跡だけになると思います。 ≫「風」を祀る「風祝(かぜはふり)」と関係するでしょうか 風祝のことをなにも知らないので・・ 祀り、祭祀、儀礼などはどんどん変化すると思います。 現在知られているそれらが過去にはいかなるものだったのか、これを探るのは難しそうですね。 ≫大陸のホータン(和田)や大月氏との関係 大昔にホータンの人々がなんと発音していたのかわかりませんが、それを中国で和田と当て字したのでしょうね。 和は漢音でホウに近い、田はデン、近隣にユーティエン(于田)がありますから、ホウティエンに近いのかもしれない。 この付近に大月氏の祖先とされる月氏が存在していた可能性は高そうです。 匈奴に追われて西へ移動して大月氏となったとされます 。 http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/c_asia3.png 日本の和田姓はたくさんあって祖先もいろいろのようですが、和田の和は和泉と同じく田の装飾であって稲作に関連するところからの姓とみえます。 ホータンとはなんの関係もないと思います。 なお、中国で田をティエンとも発音するならば、日本語で田をタと発音するのは中国語からの変化である可能性がみえます。 (タベモノ→田の部の物→食べる(^^;) |
[903] Re[900]:食物の言葉 神奈備 | 2004/08/27(Fri) 16:03 [Reply] |
くらひもの → くひもの か 『日本書紀』 欽明五年十二月 春夏捕魚して食に充つ。 はるなつすなどりしてくらひものにあつ。 斉明天皇四年十一月 長く渠水を穿りて公粮を損し費すこと とほくみぞをほりて、ひとのくらひものをおとしつひやすこと 『日本書紀』みしまみぞくひ 『古事記』おおやまくひ くひ 杭 くらひ 食 とも感じられます。 |
[902] 「モリヤ山」と同じ名前ですが わーぷ | 2004/08/27(Fri) 00:28 [Reply] |
かたばみ さん、「縄文時代につながる諏訪の神様 」有難う御座いました。 香取神宮のフッヌシと諏訪大社の、土着神のモリヤノオトドのお供えに肉とは?二神の関係は?お教えください。 諏訪大社の筆頭神官の職を世襲していた守矢家は、諏訪の土着神のモリヤノオトドの末裔なのでしょうか? モリヤは聖書のイサク伝承の「モリヤ山」と同じ名前ですが関係するでしょうか? 「建御名方命は手に藤の蔓(つる)を、洩矢神は手に鉄の輪(かぎ)を掲げて戦い、・・・」とありますが鉄が、 諏訪大社の官職の、「風」を祀る「風祝(かぜはふり)」と関係するでしょうか? たしか、昔の熊野の宮司さんが「和田」だったと思いますが大陸のホータン(和田)や大月氏との関係を御存知の方、 お教えください。 「01/31/Sat 日本の国際協力 改創論 日系ジャーナル」 http://www.nikkeijournal.com/fkiji.cfm?id=2736 - 25k に渡来人の話が有りました、面白いです覗いてみて下さい。 |
[901] Re[889]: 塩」を字解すると かたばみ [Mail] [Url] | 2004/08/26(Thu) 19:16 [Reply] |
≫たしか、諏訪の神社に鹿の姿作りを供えてる神社が? たぶんこのあたりのことと思います。 http://www.ne.jp/asahi/rekisi-neko/index/moriya.html BC2000以降中部山岳縄文の人口密度は1/10に激減し、土器もかっての火炎土器のごとき躍動がまったくない貧弱なものになってしまいます。 落葉広葉樹が消滅したために狩猟+αでほそぼそと暮らす状況になったのでしょう。 その文化の中に出雲文化がはいって(建御名方命)狩猟半分農耕半分で復活したのが諏訪大社の源流だと考えています。 |
[900] Re[899][897][888][898]:食物の言葉 かたばみ [Mail] [Url] | 2004/08/26(Thu) 19:14 [Reply] |
≫クイモンと云う語彙は使いますが、どこで覚えたのかな ≫僕は、長州・摂津・筑前・武蔵・信濃と渡り歩いていますが、 ≫クイモン・クイモノは使います。 ≫摂津で生まれ育ちましたが、ごく日常的に「クイモノ」「クイモン」を使います ありがとうございます。 クウは大山咋神のクイにイコールと思いますが、広域で使われるとすると「クウ」はうんと古い言葉という可能性が高くなるのかもしれない。 東北ではどうかなあ。 腹一杯たべたときに、ひとりでにおーくったくったと言うようなら、深いところに源があるかもしれないなあ。 ≫ササ、神へのお勧めの言葉? 神酒、これはミキだった。ミケの変化かも 御酒ミ・ケでしょうね、穀物ケのエッセンス。 辞書に中国では酒を「竹葉」というとあります。ササはこれじゃないかな。 出雲熊野大社の櫛御気野命は、 クシ(地祇系の尊称とみる) ミ・ケ ノ(野原、山野でいいと思う、ヌにも同義か) 鑽火祭、この時代に火を起こす手段自体にさしたる価値はないと思います。 山野の穀物と合わせると、出雲の農耕が登場する前の段階の神(祖先)であり焼畑関連とみるところです。 (一般に言う素盞鳴尊説は本居宣長の説のようですが、関連情報の少ない時代での解釈だと思う) |
[899] Re[897][888][898]:食物の言葉 ki-yo | 2004/08/25(Wed) 02:32 [Reply] |
> > 西日本でクイモノと使う方はいらっしゃるかな。 > 小生は紀州、阿波、美濃、山城、摂津と渡り歩いています。 > クイモンと云う語彙は使いますが、どこで覚えたのかな。 摂津で生まれ育ちましたが、ごく日常的に「クイモノ」「クイモン」を使います。周りの友人たちも使っていました。 |
[898] Re[897][888]: 食物の言葉 玄松子 | 2004/08/23(Mon) 18:52 [Reply] |
> > 西日本でクイモノと使う方はいらっしゃるかな。 > 小生は紀州、阿波、美濃、山城、摂津と渡り歩いています。 > クイモンと云う語彙は使いますが、どこで覚えたのかな。 僕は、長州・摂津・筑前・武蔵・信濃と渡り歩いていますが、 クイモン・クイモノは使います。 ネットの辞書(大辞林)にも載っているので、標準語か、方言であっても広く流布していることばでしょう。 http://jiten.www.infoseek.co.jp/Kokugo?qt=%A4%AF%A4%A4%A4%E2%A4%CE&sm=1&pg=result_k.html&col=KO&sv=DC |
[897] Re[888]: 食物の言葉 神奈備 | 2004/08/23(Mon) 08:58 [Reply] |
> 西日本でクイモノと使う方はいらっしゃるかな。 小生は紀州、阿波、美濃、山城、摂津と渡り歩いています。 クイモンと云う語彙は使いますが、どこで覚えたのかな。 > 酒、サ・ケ ササ、神へのお勧めの言葉? 神酒、これはミキだった。ミケの変化かも。 > 捨篠 捨篠から、アジスキタカヒコネの解読、ありがとうございます。 小生は言語についても無知ですので、コメントできる立場にはありません。 捨聖と云う言葉があります。空也上人や一遍上人をさします。これは信仰とは教団や教理、本尊からも自由であることをさす言葉です。束縛から逃れる事が真の宗教だと云う考えです。 で、捨篠の篠ですが、捨篠の池にまつわる伝承では、役小角の母親が篠を池に投げ入れると金色の蛙の目にあたって、蛙の色が変わってしまい、母親も早死にするのです。 この様に篠は武器にもなります。矢になります。歴史的には鴨族は天孫族に屈服した時期があったのでしょう。武装解除の意味での捨篠と云う意見もあります。 よく判らないところです。 |
[896] Re[895][894][892][891][890][877]: アジスキタカヒコネ クラリン [Mail] | 2004/08/22(Sun) 23:05 [Reply] |
ご好意を無にしたようで心苦しく思っています。 ただ、ホツマツタエの作者は「ホツマ」を何か神秘的な意味に解釈しているようですが、これは「狭間(はさま)」(物と物との間の狭くなったところ)のo/a交替形に過ぎません。 それに、天神地祇(てんじんちぎ・アワウワ)とありますが、awauwaというような重母音語は古代には存在しません。 ただし、これらの見解は私の知る限りの「私見」ですので、黒田様が間違っているということを直接意味するものではありません。 ご紹介には感謝しております。 |
[895] Re[894][892][891][890][877]: アジスキタカヒコネ 黒田 | 2004/08/22(Sun) 21:40 [Reply] |
クラリンさま、 自分自身で、よく咀嚼せずに、紹介しましたこと、後悔もし、お詫び致します。 一から、落ち着いて味わってみます。有難うございました。 |
[894] Re[892][891][890][877]: アジスキタカヒコネ クラリン [Mail] | 2004/08/22(Sun) 20:12 [Reply] |
こんばんは。 > 穴珠早(あなたまはや)み 谷二(たにふた)は > 足らずアチスキ タカヒコネぞや > >私の胸の動悸は増々早まり穴珠は二つの谷間を激しく揺れ動いています。私の心を満たしてくれるタカヒコネ様 「穴珠早(あなたまはや)み 谷二(たにふた)は足らず」と訓んで「私の胸の動悸は増々早まり穴珠は二つの谷間を激しく揺れ動いています。私の心を満たしてくれるタカヒコネ」と解釈するのは、どうみても不可能です。 「胸の動悸」を「アナタマ早み」とは言いませんし、「谷二は足らず」を「胸の二つの谷間を激しく揺れ動いています」と解釈することも文法上も難があります。 牽強付会というべきでしょう。 |
[893] Re[892][891][890][877]: アジスキタカヒコネ 黒田 | 2004/08/22(Sun) 14:43 [Reply] |
すみません、掲示板アドレスです。 http://kihitsu.hp.infoseek.co.jp/cgi-bin/joyful/joyful.cgi |
[892] Re[891][890][877]: アジスキタカヒコネ 黒田 [Mail] [Url] | 2004/08/22(Sun) 14:37 [Reply] |
クラリンさん、はじめまして。 たまたま、きょう上記HP掲示板に、ホツマツタヱにおける、シタテル姫の歌を投稿させていただいたのですが、何かのご参考になればと思い、それの現代語訳を載せさせていただきます。 天(あめ)なるや 乙棚機(おとたなばた)の 促(うなが)せる 珠(たま)の御統(みすまる) 御統(みすまる)の 穴珠早(あなたまはや)み 谷二(たにふた)は 足らずアチスキ タカヒコネぞや 昔し私がワカ姫の居られたアメヤスカワ宮で機織をしていた頃、首にかけた御統(みすまる・ネックレス)が棚機(たなはた)の音に促されるように、胸の谷間を左右に揺れ動いたものです。今又、(貴方に会えて)私の胸の動悸は増々早まり穴珠は二つの谷間を激しく揺れ動いています。私の心を満たしてくれるタカヒコネ様 http://www.hotsuma.gr.jp/aya/aya10.html |
[891] Re[890][877]: アジスキタカヒコネ クラリン [Mail] | 2004/08/22(Sun) 12:43 [Reply] |
なぜか一行おきとなってしまいました。m(__)m |
[890] Re[877]: アジスキタカヒコネ クラリン [Mail] | 2004/08/22(Sun) 12:41 [Reply] |
大和高田市の奥田にある捨篠の池に祠があり、アジスキタカヒコネの荒魂を祀って いるようです。この捨篠は高鴨神社の事を捨篠社と称する >大和高田市の奥田にある捨篠の池に祠があり、アジスキタカヒコネの荒魂を祀って いるようです。この捨篠は高鴨神社の事を捨篠社と称す ステシノの所在を神奈備さんの877で始めて知り、また非常に驚いています。 私は日本語クレオールタミル語説をとっていますが、アジスキタカヒコネについて は以下のように解釈しております。 まず、こういう解釈のきっかけとなったのはアジスキを顕わす歌、「穴玉はや み 谷 二渡らす 阿治志貴 高日子根の神そ」(古事記)の「み谷二渡らす」という言 い方に対する疑問です。 古文献で、こういう「み谷」という表現、また「二渡らす」という表現は、私の知 る限りではないように思えます。 そこでこの「み谷」を当て字とみて、mitaniとまず置いて、タミル語をみますと vit-u[heaven(天)]という語があり、これは唇音同士の交替でmit-aとなり得ます。 ということは、これは「mitaに二渡らす」、つまり「天に二つ渡っていらっしゃる 」ということではないか、と考えました。 そうすると、天に二つ渡るものは日と月です。「アナタマ」というのも、辞書では 「あなたまかせ」が引っかかる程度で、実際のところよく分かりませんが、穴の開 いた玉とそれ以外の意味を掛け合わせたように思われます。 タミル語にal-on[moon(月)]、そしてtap-an[sun(日)]があり、二つあわせると arotamaとなります(唇音同士のp/m交替)。 これを原文に代入しますと、「月日はや 天に二つ渡っていらっしゃるアジシキタ カヒコネ」ということになりそうな気がしました。 とすると、アジシキ、アジスキというのは日月という意味ではないか、というわけ でタミル語で調べますと、manti[sun(太陽)]とあります。-nt-は日本語となるとき にはわたりの鼻音から有声化してmad-iとなり、m-は調音点の近接からw-と交替し得 ます。すなわち、wad-iからw-の脱落を経てad-iとなり得ます。 シキ、スキはそうすると「月」という意味となります。タミル語cac-iはタミル語内 部でもa/u交替(日本語内部でも同様)しますからcuc-iからc/t交替でtuk-iとなりま す。 -ciが-kiと交替するのはタミル語の特徴で、歌舞伎はkavuci、またkuzic-i[1. pot( 丸くて深い器), cooking vessel(調理用の容器); 2. large pot(大きな丸くて深い 器); 3. hub of a wheel[轂(こしき)]は日本語「甑(こしき)」及び「轂(こしき) 」と対応します。 以上から、冒頭の歌は「月日はや 天に二つ渡っていらっしゃる日月タカヒコネ」 ということになるのではないか、というのが私の試論です。 しかし、日と月の神という欲張った神名が気になって決めかねていました。 そこにステシノという名前がアジスキと関わっているということを知り、意を強く した次第です。 cit-an[moon(月)]はi/u対応で日本語sut-eと対応します。またタミル語in-an[sun( 日)]の古形*cin-anは日本語sin-oと対応します。シノノメやテルシノの「シノ」で す。 そうしますと、ステシノというのは月日という意味となり、アジスキの日月と同じ 意味となります。 しかし問題は更に複雑で、歌がなぜわざわざ「ミタに」などという難しい語を用い たのか、ということです。 これは推理ですが、アジスキ、アジシキにはaz-i[sea(海)]、cik-i[mountain(山)] という意味にも取れます。それを知っていて歌い手は、敢えて「ミタに」と言った のではないか。 mir-am [sea(海)]は-rの脱落(-amは名詞形成接辞)でmiとなり、tani[mountain(山)] はそのまま日本語tan-iと対応します(谷とは無関係)。 つまり月日・日月と海山・海山の掛け合わせということではないかということです。とすると、この歌も神もかなり古いように思えます。 |
[889] 塩」を字解すると わーぷ | 2004/08/22(Sun) 12:06 [Reply] |
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潮ウシホは塩シホが渡来してから登場した言葉だとみます。 正解です。「ロ(ろーシオ)の字形は岩塩を砕く形です。 「年」を字解すると「禾」ノギ変ー頭を垂れた稲穂?木に降りた「ノ」(神?)の形。 「歳」を字解すると「歩」(ひとめぐりの意・一歳)+「工」(計る道具?)・・・・・( 一説に木星の軌道を十二次に分け、一次を行く間を1歳と言うそうだ。) [888] 食物の言葉 <<」 香取神宮では、神に鴨の姿作りを供えてる、たしか、諏訪の神社に鹿の姿作りを供えてる神社が? 記憶が定かで無い・・・トホホ(高齢なのです) 神はカインの農作物よりもアベルの厳選された肉を好む?いや 縄文の狩猟の血かな? |
[888] 食物の言葉 かたばみ [Mail] [Url] | 2004/08/21(Sat) 12:37 [Reply] |
いかに高度文化を持つ人々でも少人数であって周囲から食糧を得ねばならないなら、周囲の人々の言葉をを使わざるを得ないはずです。 少なくとも食糧関連の言葉は周囲の言葉になってゆくと思います。 しかし、西日本の縄文人口は東日本の1/10以下。それが渡来した農耕技術によって短期間に10倍に人口が激増する。 こういう状況なら渡来者の言葉(単語)が周囲に拡大してゆき、10倍にも人口が増えた時点ではその言葉がメインになると思います。 弥生の西日本では明治維新後のなんでも舶来的な状況が起きていたんじゃないかな。 漢字登場のはるか以前に稲作(水稲)が広まっていたとすれば水稲全般を意味する弥生の言葉が登場していたはずです。 それが「タ」ではなかろうか。 語源がわからないようですが、弥生の新語じゃないのかなあ。 縄文古来の穀物全般が「ケ」でしょうね。木の実や焼き畑も含んでいたか。 畑ハタケはハタ・ケとみています。舶来のケ、麦とか大豆で後に畑の文字(国字)が登場。 大気都比賣・・オホ・ケ・の比賣。 大宣都比賣の場合は指導者の命令といったイメージがあったので「宣」の比賣としたのか。 豊宇気比賣神、別名が多数あるけどトヨ・ウ・ケだとしてウをどうみるか、後述。 酒、サ・ケ、「サ」は稲作関連とされますが、もっと広義に「愛でる、神への感謝」の意とみています。 後に飲料としての酒がメインになったか。 鮭サケ・・はてなあ(^^; アクセントの位置の違いはどう考えればいいのだろう。 もうひとつは「ナ」、魚介類や野菜など補助食品。 大年神系譜の若沙那賣神はサ・ナの女神か。 問題は肉です。ニクは呉音、シシも呉越系の可能性が高い。 縄文で狩猟がないはずがない、ならその言葉もないはずがない・・でもみえない。 あれば少なくとも痕跡が残っているはず。 短い1語だけなのが食に関する言葉のようにもみえる。 「カ」、これに類似の言葉が旧石器時代〜縄文の食べ物を総称する言葉だったのではないか。 食べられるものはなんでも食べたと思うけれど最高のごちそうは肉でしょう。 肉=神の恵みの最高の食べ物、神カミの意にも変化したのではなかろうか。 噛む、食う、も同源か。 青草・・魚サ・カ・ナ、サは神への感謝、「カ」は肉、副食品の肉がサカナじゃないか。 (酒の肴はサカ・ナであって異なる出自、たぶん) 縄文の落葉広葉樹文化の発達で木の実や粟や稗に食料の比重が移り、それを「ケ」と称し、千年単位の時の流れの中で「カ」から「ケ」への比重の変化が生じていったのではないか。 「カ」から派生した別の意味をもつ神や噛む食うなどの言葉を残しながら。 ただし、この流れは東日本からです。西日本は照葉樹林で人口は東日本の1/10しかいないから。 神大市比賣(素盞鳴尊の妃)、神阿多津比賣(木花開耶姫)のごとく先頭に神があるのは、カ・大市比賣といった表現が源で、西日本で主食が穀類(ケ)に移行する前の段階の呼称の残映ではなかろうか。 大別するなら神大市比賣は狩猟系、大気都比賣は農耕系を代表しているのかもしれない。 大山咋神は鏑矢をもっています(古事記)、本来は狩猟神でしょう。 「咋」をクイと読むのも、カ→クウに由来ではなかろうか。 狩猟の衰退と農耕の発達で穀物的要素が追加されていった神→広義に山の幸の意となってゆく。 大山咋神と猿が関係して当然といったところです。 (犬は人間に仕える、神の使いの猿とで犬猿の仲となったか(^^;) その猿が田タを耕せばすなわち猿田彦命、狩猟と農耕を兼業する人々、沿岸なら漁労もやったでしょう。 猿田彦命は大年神系譜でゆけば水稲が広まってからの登場人物かもしれない。 大気都比賣あたりなら→アマテラス登場で年代はぴたり。 「食物」クイモノ、乱暴な表現にみられるけれどこれが最古の流れとみます。 タベモノ、タベルのタベは田の部ではないかなあ。 すなわち大和朝廷あたりから発した新しい言葉で、これが後に丁寧語あるいは標準になったものか。 広辞林ではタベモノはあるけどクイモノはない。 西日本でクイモノと使う方はいらっしゃるかな。 クイモノは直感的に東日本系あるいは大山咋神系の「方言」じゃなかろうか。 書紀には大年神系譜がみえないけれど、五男神三女神がそのあたりに対応していているとみます。 書紀は渡来文化に長江系をメインにおき、古事記は半島経由を意識して大年神系譜を配置しているのではないか。 また、書紀では稚産霊神−豊宇気比賣神のように母系をメインにおいているように見えます。 母系社会→天照大神の登場につながるもの。 古事記の大年神系譜では新文化をもたらすのが女性にみえます。 しかし母系をメインに置いているとはみえない、男系のなかに入ってくる女性→古事記は父系社会か。 (どちらもある時代までは、です) 西日本(まずは北九州)で農耕関連さらには食品関連の言葉の多くが渡来文化のものに置き換わっていった。 衰退した縄文系の「カ」はより狭義のシシやニクに置き換わり、農耕伝播とともに東日本へもひろまってついには痕跡がアイヌ語のカム?に残るだけになったのではないか。 塩(シホ)、肉(シシ)、土(ニ)、竈(クド→カマド)などが呉越系由来とみえるようですが、これらはみな食品や農耕関連です。 塩はある時代までは食品とはみていなかったのではないか。 適宜に肉を食べていれば塩分が含まれているから特段に塩は不要、木の実や粟稗など穀物主食となってからの塩の登場じゃなかろうか。 縄文では海藻が大事な交易品だったのではないか(海藻じゃ痕跡は残らないだろうなあ)。 袋に海藻をつめて運ぶとき白く析出するもの・・これをなんらかの言葉で表現していたのではないか。 ワタ・ナ、海の副食品とか(^^; 日本人が海藻をたくさん食べるのはこのあたりに源を発する嗜好があるんじゃなかろうか。 海藻による製塩のはじまりもここにあると推定。 貝塚、貝は塩分をとるための副食品としていたのではないか。 生じゃ腐りやすい、海水で煮たものを運んだ→佃煮の源。 余談: 生アミの佃煮をストックしてあります、大汗をかいた後は氷水でこれを食う。 塩分とミネラル補給たっぷりで絶好(^^) 潮ウシホは塩シホが渡来してから登場した言葉だとみます。 ウ・シホです。 豊宇気比賣神の「宇気ウ・ケ」のウ、これと同じ用法ではなかろうか。 「ニ」は農耕用土とか粘土など具体的なものを示す渡来語か。 土ツチは「地」でこちらには霊的な意味があるそうで、大地母といった感覚の縄文古来からの言葉じゃないか。 だとすると、「ハ・ニ」「ウ・ケ」など先頭に置かれるハやウの意味が喉元まで出てきているような気がするんだけど。 現代では「ニ」は消えています。 いつから使われなくなったかはわかりませんが、こちらは「ツチ」に吸収されたんじゃないかな。 いかに冷蔵庫や電子レンジが登場しても「台所」がキッチンに置き換わってはいないのと同じだと思います。 |
[887] Re[886] : 『巫が山で戯れる』 恋川亭 | 2004/08/19(Thu) 00:18 [Reply] |
いえいえ、 > 言を寄す前世の厚顔子・・・ナリケリアランヤ です。失礼しました。m(__)m 漢詩や和歌は、私のような貧乏人には、酒の肴に代わるものであります。一首詠んでは杯を干し、一句吟じては盃を満たす。心躍りてはのみ、胸愁いてはあおる。謳いほがい賑わしや?ヤレヤレ(嘆)。慣用句から先に、多様な世界が眠っているのが勿体なくて・・・つい、でした。お詫びに表題を。(なぞなぞナ〜ニ?) |
[886] Re[885]: 大歳神社 神奈備 | 2004/08/18(Wed) 08:21 [Reply] |
チョロさん、ありがとうございます。 書籍を放浪していますとよく行基さんに出会います。 そういった時には http://easyclub.web.infoseek.co.jp/ を見ます。 殆どの情報をカバーされておられる、凄い調査の力に感嘆です。 大歳神を祀る神社の数は西高東低。古い渡来人の信仰した神かも知れません。 恋川亭さん 言を寄す全盛の紅顔子 です。 神奈備はぼちぼち 応に憐れむべし半死の白頭翁 です。 気分は 伊れ昔紅顔の美少年 ですが・・・。 |
[885] 大歳神社 チョロ | 2004/08/18(Wed) 03:14 [Reply] |
神奈備さま、ご無沙汰しております。 [882]は我々親子ではありません。 掲示板に書き込みさせていただくのは、 今年になって今が初めてですので・・・。 引用していただくほどのことは書いてませんので、 神奈備さまやみなさまにご迷惑をおかけしてすみません・・・。 大歳神社といえば、住吉大社の「初辰まいり」の1社にあたり、 みなさまが書かれている内容を興味深く拝見しております。 [種貸社](御祭神:倉稲魂命)から、 [楠くん社](御祭神:倉稲魂命)に、そして [大歳神社]にお参りするという順なので、 稲に関係があるのかなと漠然と思っていました。 |
[884] Re[880]: 寄り道、あるいはおせっかい 恋川亭 | 2004/08/18(Wed) 00:01 [Reply] |
> 三歳神さま 参照→劉廷芝『代悲白頭翁』。 学校の勉強なんて必要なくとも、こんな漢詩を何度か素読しておくのは、日本人として必須の素養ではないでしょうか。(ただし、けっして中国人の教養ではない。) 我が国の(歴史的・伝統的)感性を涵養した名詩のひとつかと思います。 |
[883] Re[882]: 「大歳神社」が多いなぁ 神奈備 | 2004/08/17(Tue) 22:17 [Reply] |
わーぷさん あなたはどんでもニャーさんの親子のどっちかですか? まさかね。 こんなY&Mさんにもまた青草をご覧頂いている方々への失敬な書き込みは差し控えて下さい。 |
[882] 「大歳神社」が多いなぁ わーぷ | 2004/08/17(Tue) 22:01 [Reply] |
2003/09/03(wed.) とんでもニャ〜Mの推測 9
より 席亭により行目以降は削除しました。 http://easyclub.web.infoseek.co.jp/tonde9.htm |
[881] 年って(Re[878]: 駄文続き) 玄松子 | 2004/08/17(Tue) 15:57 [Reply] |
> ・沖縄古語辞典によると、「とし」には穀物の意味はない。「年」の意味だけ。(何故、御稔神と書かないか、への一つのヒント。つまり「とし」の原義は「稔」ではなく「年」と理解できそう。なお『時代別国語大辞典上代編』では「ひ」が「日」から、「つき」が「月の満ち欠け」から、のように「とし」も穀類の実りからか、としているが、それへの疑問を呈することになる。) 日や月の場合、日の出/没や、月の形状変化として、見た目の目印で、時の間隔を意識できますから、「日」や「月」という漢字を充てるのも理解できます。 では、「とし」概念の目印は何でしょうか? 「稔り」から次の稔りまでの時間を「とし」したのでなければ、何を物差しにして一年を意識したのだろか。 仮説として、 1.中国では、稔りのインターバルを年と表記し、稔り、あるいは穀類と同じ意味。 2.古代日本では、稔りに関係の無い一年の概念が存在し、「とし」と呼んでいた。 3.中国から「年」の文字が輸入された時に、日本古来の「とし」と同じ一年を指す事から、「年=とし」と翻訳した。 あるいは、 1.中国では、稔りのインターバルを年と表記し、稔り、あるいは穀類と同じ意味。 2.古代日本でも、稔りのインターバルや稔りを「とし」と呼んでいた。 3.中国から「年」の文字が輸入された時に、日本古来の「とし」と同じあることから、「年=とし」と翻訳した。 あるいは、 1.中国では、(なにかの理由で)一年を年と表記していた。 2.古代日本では、稔りに関係の無い一年の概念が存在し、「とし」と呼んでいた。 3.中国から「年」の文字が輸入された時に、日本古来の「とし」と同じ時間を示す事から、「年=とし」と翻訳した。 4.一年で収穫される穀類を、「とし」と呼ぶようになった。 仮説としてはもっとありそうですが、中国での「年」に関して調べないと何も云えないなぁ。本来の目的からずれてきてるし。 |
[880] Re[879][860][853][839]: 三歳神 ありがとうございます | 2004/08/16(Mon) 21:09 [Reply] |
かたばみさま、ありがとうございます。 今日は遠出の前ですので、頭も心もお休みしておきます。 年々歳々花相似、歳々年々人不同。(新字源で見つけただけですが) もとの意味はともかく、いい意味でそうありたいです。 色々ヒントを頂きありがとうございました。 |
[879] Re[860][853][839]: 三歳神 かたばみ [Mail] [Url] | 2004/08/16(Mon) 20:00 [Reply] |
≫三輪氏や三歳祝氏と忌部氏との関係はどうでしょうか? このあたりは神奈備さんにおんぶにだっこ(^^; 葛木御歳神社さんのこれからの研究にもおまかせ。 (ハンドル名、「年々歳々」なんてのはいかがでしょう) ≫『「文化」を示す神名』とは穀物だけではなくその営みすべてを含めたということでしょうか? うーん、文化とはなにかということがありますが大年神の場合は、農耕をメインにする集団の成立の源になるもの、そんなところかなあ。 命名した人の意識が問題ですが、例えば大国御魂神は、列島での弥生文化が形成されていった状況を表し、韓神は半島でのそれを表す。 曾富理神や白日神の場合はその地域性がもっと限定されている場合ではないか。 地域が推定できる伝承が濃く残っていたので地域性のある神名が用いられたのでしょう。 大年神に稲はないと考えています。その文化をもつ人々のなかに稲が伝わった。 それを示すのが「その子等」でありその母。 女性が最新文化を伝えているとみえるのが面白い(相関図)。 http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/kami_ootoshi.png 農耕=女性という意識が当初からあったか、少なくとも命名者にその意識があったと推察できます。 御年神の代で稲が登場するわけですが、長江系文化が広まったともいえます。 例えばミャオ族系の牛を祭祀に用いる慣習もはいってくるはずで、異なる文化間の葛藤も生じたはず。 そのあたりが、肉を食べたので神が怒ったといった伝承にもなっていったのではないでしょうか。 命は人への尊称だと思います。むろん祖先神になります。 したがって命がつく神名の場合はある程度具体的な伝承が残っていたと考えることができそうです。 大年神系譜ではいないですね。 しかし、日子、比賣などがつく場合は人としての伝承がある場合だろうなあ。 阿須波神や波比岐神は発音でしょうけど見当がつかないなあ。 ア・スハ、ハ・ヒキ、羽山戸と同じく地名(地形)じゃないかと思うけど。 波と羽を使い分けているとみてこの文字には意があるとみるんですが。 書紀編纂には当時の一流学者が総力をあげていると思います。 文字についても当時の認識をできるだけ表現できるように選ばれていると考えています。 伝わる発音とも似せながら。 ただし、意を重視していたとすれば発音は似ているどまりであって、書紀の文字から発音を取り出すには要注意と考えています。 古事記編纂は・・博士クラスは書紀のほうに出払っていて、文字化を担当したのは弟子クラスだったんじゃないかなあ(^^; 意味の文字と発音の文字が混在してるし、古事記の場合は文字から意味を取り出すには要注意。 万葉830→得之トシ、4124→登思トシ、その他は年トシ 歌の内容から万葉のトシには1年の意味しかなく穀物の意味はみえません。 当て字が使われていますから1年を表す意として「トシ」という言葉がすでにあり、万葉時代に「年」の文字が使われ始めたとみえます。 この頃に「年」の文字に穀物の意のあることを知っているのは学者(高度な祭祀者含む)だけだったのではないか。 大年神の命名者は伝承にある農耕イメージの濃さから、年の文字を穀物の意をもって神名に用いたのでしょう。 では命名者はこの年をなんと発音したのか。 もし、すでに1年の意で年の文字が使われ始めていたなら、トシと発音したのではないかな。 年=1年の意も穀類の収穫から発していることは知っていたでしょうから。 字訓によれば一毛作の穀物を「トシ」というとあります。 (疑問あり、万葉以前に一毛作を「トシ」と称していた根拠は??) また、トセは年を数える場合の助数詞の場合、ともあります(ヒトトセ、フタトセ、ミトセですね)。 「幾年月」はやっかい、たくさんの年月ならイク・トシツキ、たくさんの年と月ならイクトセ・ツキでもいいし。 トセが助数詞であり、大年神に穀類の意があるならこの年をトセとよむことはありえないと思います。 御歳をミトセと読む場合は語呂がいいからだけ、とみておきます。 伊怒比賣の場合は発音は伝わっていたが命名者には稲とみるだけの伝承も知識もなかった、単に類似発音を当てるのみとなったのではないかな。 香用比賣・・香るという事象は印象的だと思います、伝承に残りやすい・・文字にも香を用いた。 香は複数登場していますし。 どういう事象なら伝承に残りやすいか、それを文字に写しやすいか、当時での状況判断が必要。 その程度のいい加減さ(過渡期)だったのではないでしょうか(^^; |
[878] Re[872][870][868][867]: 駄文続き 大三元 | 2004/08/16(Mon) 12:30 [Reply] |
玄松子さん 整理して頂いて貴我の対比が明確になりましたね。 > > > 御年神の成立に関する問題と捉えなおすべきでしょうか。 そういうことになっちゃいますか。 ヤマト・パンテオン各位の成立(時期)の研究に発展、、、か。 手が出ませんね。 > > さて、どこをどう調べたら、結論が得られるのだろうか。 断片的なデータっぽいこととか展開っぽいこと: ・漢字到来の時期:7世紀中葉成立の隋書では日本に字は無い、というけど、隋書成立時点でも日本に字が無いなんてことはないだろう。例:17条憲法。 と云って、西暦57の奉貢朝賀、107の倭国王帥升なんかが書類を携えたか、判らないしなぁ。 ・漢字普及の度合い:誰か1人漢字を知っていれば、としがみ、を漢字に置くことが出来る、みたいな想像しか巡らせないなぁ。 ・沖縄古語辞典によると、「とし」には穀物の意味はない。「年」の意味だけ。(何故、御稔神と書かないか、への一つのヒント。つまり「とし」の原義は「稔」ではなく「年」と理解できそう。なお『時代別国語大辞典上代編』では「ひ」が「日」から、「つき」が「月の満ち欠け」から、のように「とし」も穀類の実りからか、としているが、それへの疑問を呈することになる。) ・和語古語に「こぞ=去年=昨日」がある。「ぞ(そ?)」=年、が抽出出来そうだが。そうなると「みぞ」が「三年」と解けるのか(三島溝杭、丹後ミソシル祖母神、新羅の三年郡) ・甑島(甑隼人、というのもあった)の「トシドン」の風習(どれほど遡れることなのか・・・) ・アイヌ語 tokap (昼)は to-kap と解いて田村さんはその語源を to(日)kap(?) としている。kap は皮。日の皮が昼・・・ to-si なんて造ってみると、日の糞、、、なんだかなぁ。。 乱雑ですみません、こんなことを考えています、ということでご勘弁を。 |
[877] 葛城の古代 15 最終回 土佐から来た神 神奈備 | 2004/08/15(Sun) 09:26 [Reply] |
797年に記されたと云う『続日本紀』に以下の記述があります。 天平宝字八年(764)十一月七日 再び、高鴨の神を大和国葛上郡に祠った。高鴨神について法臣の円興、賀茂朝臣田守らが次のように言上した。 昔、大泊瀬天皇が葛城山で猟をされました。その時老夫があっていつも天皇と獲物を競い合いました。天皇はこれを怒って、その人を土佐に流しました。これは私たちの先祖が祠っていた神が化身し老夫となったもので、この時、天皇によって放逐されたのです。(以前の記録にはこの事は見当らなかった。) この土佐から戻ってきた高鴨神とはどの神様の事でしょうか。と云うのが課題になっています。 一言主神 『記紀』をご承知の方は、雄略天皇の葛城山での一言主神との遭遇の話を思い起こされることでしょう。島流しになるような事があったんかいな、ですね。 それでも『土左国風土記逸文』に「土佐の高賀茂の大社 その神の名を一言主尊とする。一説では大穴六道尊の子、味鋤高彦根尊であると云う。」とあります。 先ず、一言主神ではない、と云う事を示します。787年に出来たとされる『日本霊異記』の中に「賀茂朝臣の一族である役小角と一言主神との暗闘の事が記載されており、これは鴨族の神ではないと云うことです。で、賀茂朝臣田守らが一言主神をわざわざ土佐から迎える理由がないのです。 更に『日本霊異記』によると、701年頃に一言主神は役小角によって呪縛されたたままとあり、その後土佐から戻る事はありえないのです。 大和高田市の奥田にある捨篠の池に祠があり、アジスキタカヒコネの荒魂を祀っているようです。この捨篠は高鴨神社の事を捨篠社と称すると『旧事紀』にありますが、「捨篠」の意味も含めては何かのつながりがあるのでしょうが、今の所判っていません。 捨篠の池に残る伝承 白髭の老翁が茅茆(チガヤ)に乗って水田に現れ、我はアジスキタカヒコネの神である。汝(小角)の母は我が後裔である。子がないのを悲しみ切に祈るので汝を授けた。しかるに角麻呂は早世、汝は此の時から孤児になる。これを哀れみ、野口村の鴨君トキツマロは我が後裔であるから、彼をして育てせしめんと思う。と云われたとあります。(大和高田市史から) 716年に奏上された『出雲国造神賀詞』に、アジスキタカヒコネの命を葛木の鴨の神奈備に坐せ、とあります。葛木の鴨の神奈備とは鴨社のことをさします。 806年の作成とされる『新抄格勅符抄』によりますと、葛木には鴨の名を持つ神は高鴨神と鴨神の二柱がいます。高鴨神と鴨神との区分を見つめておきたいものです。 土佐から戻った神は、『続日本紀』と『土左国風土記』によりますと明らかに高鴨神です。この高鴨神は土佐、大和、伊与に神封を持っています。土佐に関係のある神です。戻した高鴨朝臣が祀った神です。鴨の祖神と言えます。『土左国風土記』からもこの神はアジスキタカヒコネの神と言えるようです。 また鴨神は大和、伯耆、出雲に神封を持っています。この地域は下照姫、事代主、アジスキタカヒコネそれぞれに関係の深い土地柄です。出雲の神封を考えればこの鴨神はやはり『出雲国造神賀詞』のアジスキタカヒコネの命の事と見るべきでしょう。 事代主神は高市郡の社に鎮座しているのですが、葛城には延喜式神名帳の頃までこの神の気配は見えません。事代主神は宮中八神の一座として御巫等祭神八座に鎮座、これを知った賀茂朝臣一族は祖神でもあるので、葛城に迎える事となりました。多分高市からでしょう、『旧事紀』には都味歯八重事代主神坐高市郡高市社と云う言葉が出てきており、葛城の下鴨社の鴨都波八重事代主命神社二座と類似しています。この二座の内の一座は事代主命神ですが、もう一座は「鴨神」です。 延喜式の高鴨阿治須岐託彦根命神社四座は土佐から戻った高鴨神に加えて、下鴨社から迎えた祖神の阿治須岐託彦根命神を祀ったと考える事ができます。 高鴨社は『神名帳』に漏れかかっていたのではないでしょうか。これは寺院、例えば高宮寺の支配下にあって神々の好むナマモノを献じることが出来なかったためかも知れない。そこで鴨朝臣が運動して、僧侶による祭祀を中断し、神社として神名帳に滑り込ませたと云うことではなかろうかと思われます。従って葛上郡の最上の格の神社であるにもかかわらず最後尾に記述されているのです。 (終わり) 参考 新抄格勅符 http://www.kamnavi.net/sumiyosi/sinshou.htm 鴨の神々−土佐から来た神は− http://www.kamnavi.net/as/katuragi/kamotable.htm |
[876] Re[874][873]: 駄文続き 玄松子 | 2004/08/15(Sun) 00:09 [Reply] |
自答。 > なぜ、祈年祭は、祈稔祭ではないのだろう。 令義解には、「歳災作らず、時令を順度ならしめむと欲して」とあるので、 稔りだけが目的ではないようです。 稔りを意味する「とし」が、年を意味する「とし」へ変化した後の言葉ですね。たぶん。 |
[875] 無題 わーぷ | 2004/08/15(Sun) 00:01 [Reply] |
歳の神は 塞(さえ)神 ・ 境(さかい)の神・年越しの神(過越しの祭り考え過ぎ?) 祖神とは道祖神、塞(さえ)神,幸の神、歳の神 ふなとの(神杖神とうとう男神 船戸神) どうろく神 エノキ(さえの神から来ている) 地蔵は、日本に古くからあった境の神 塞(さえの神)と習合 ミシャグチは大蛇の姿をしている。諏訪湖の氷が裂けるという神渡りも、この神が渡っているとされた。 「旅とはもともと結界を破って他界へ赴き、他界から帰ること」 地蔵信仰の一つ勝軍地蔵= 愛宕山は勝軍地蔵を本草としていた勝軍地蔵は地蔵信仰の一つで、 幽冥界と現世との境界に立って人々を守ってくれるという菩薩で日本古来の信仰である塞(さえ)の神 信仰と同様の性格を持ち、丹波との国境の愛宕山に勝軍地蔵が祀られ、外部から都へ侵入する疫神・ 疫病を防いだもの。 三歳神は?=生誕三歳で一生の火難除けのため夫婦に背負われて登拝する習俗 関係あるかな? 山姥にはそこを守る塞(さえ)の神(かみ) 東海道の箱根足柄山の山姥は、金太郎伝説でその名 知られた存在、対するに、日本海側親不知の天険に関るの上路の山姥は そこはまた、ともに主要な 国境でもあった、山姥にはそこを守る塞(さえ)の神(かみ)としての意味合い感じとることもできそうだ。そうだ 佐伯氏=さえぎるー外部から都へ侵入する敵を防いだ 空海は佐伯氏の出である、 蝦夷、土蜘蛛、八束脛(やつかはぎ)などを祖とし東国常陸の製鉄民とされる。「聖」は「火治り」のことであり、 製鉄民を意味していたという説もある。そうだ 例; 南高来郡布津町(高来=渡来人 津=渡り(境サカエを越える) (ミシャグチ=大蛇の姿をしている。諏訪湖の氷が裂けるという神渡りも、この神が渡っているとされ 諏訪大社に祭られ信仰された。)そうだ フツヌシノ神=渡り(境サカエを越える)神 (諸国の兵主神社の祭神は、フツヌシノ神・タケミカツ チノ神・天忍日命・天津久米命・宇摩志麻遅命など) フツヌシノ神は物部氏の祖神であり、石上神宮の霊剣「布都御魂」の神格化したもの。そうだ 国の境を呪術によって護る甕といい伝えられたこの聖なる「甕」(ミカとも言う 常陸おおみか)は? 、国や神社の境や家の入り口の土中に生贄(犬など)を埋めた。(古代中国での測量にも使われたと 私は考えている。)兵主神の神体が矛(武器)なのは古代中国での測量が主に軍隊によるもので 測量道具(器具)が軍事用品や鼎(カナエ)などの日用品の役目も兼ねていたと考えています。 先日のNHKの「そのとき:南方熊楠」を見て、明治の神社合祀令で数万の全国の神社が失われた ことを伝えていました。寺たお堂なども廃仏毀釈で壊され、学校や公共施設に生まれ変わりました。 甕棺から銅鐸、銅鐸から道教などの古墳、古墳から寺社(古代、神仏習合)・・・・・・ ・・家康の庚申塚は(国津神の猿田彦神(ヤタガラス?)=天孫降臨のときに、道案内をつとめた。 ? ・・・出雲ー諏訪ー鹿嶋ライン 江ノ島ーさいたま水上公園付近ー三峰山ー日光ー・・・・・・クロスのライン 「田」の字型(直角三角形の集合)に測量?=役の小角(エンニオズヌ)蔵王権現 亀甲 カゴメ型に測量=行基・円仁 薬師如来 不動明王 星型(五芒星セーマン)安倍清明 (格子紋 ドーマンは蘆屋道満を表しているとされる。) ? 大陸の測量技術は景教と共に秘密裏に渡来していた。 景教 行基図 三角形 穴 筒 神社に祀らせし神々よりも位置が重要なのでは、世界地図は 中世にほぼ完成された。(歴史上 地図測量に関しての記載は少ない ) 国見とは大和の確認 地図と風土記の作成・・・タケミカズチ=藤原氏(鹿嶋の神)とフッツ主=壬生氏(香取の神)との青草です。 詳しくは「渡来人研究会 」の最近のお勧め読本 「古墳のこころ」をご覧下さい。 お邪魔しました。 |
[874] Re[873]: 駄文続き 玄松子 | 2004/08/14(Sat) 23:48 [Reply] |
ちょっとした疑問。 > >さて、どこをどう調べたら、結論が得られるのだろうか。 > 調べようがあるんだろうか。 なぜ、祈年祭は、祈稔祭ではないのだろう。 なぜ、御年神は、御稔神ではないのだろう。 |
[873] Re[872][870][868][867]: 駄文続き 神奈備 | 2004/08/14(Sat) 21:11 [Reply] |
御歳神で語られる殺牛祭祀はこの神に固有のものなのか、それとも祀っていた人々がその習俗を持っていたのか、よく判りませんね。 年神祭祀が列島に持ち運ばれてきた祭祀と考えれば、漢字と一緒に持ち込まれた可能性がありますね。 だからと云って漢字の国で、やはりどっちが先かは残りますね。 もしくは列島古来の神観念であった「年を越すこと」を渡来人が祀って、大年神とか御歳神とか名前を付けたのかも知れませんね。 『古事記』でも素盞嗚尊の後裔で、伊怒比売の血筋、これは渡来的かつアイヌ的(列島的)とあいまいにしているようですね。 神が先で漢字が後の例もありますね。 賽の神を歳の神と表記し、大歳神になったと云うお話。 >さて、どこをどう調べたら、結論が得られるのだろうか。 調べようがあるんだろうか。 |
[872] Re[870][868][867]: 駄文続き 玄松子 | 2004/08/14(Sat) 20:09 [Reply] |
> 「としがみ」が本体で意味は一年。「とし」という概念が存在している文化の上に成り立つ神、というのが私の云う意味合いです。つまり「年」という漢字の存在は不要だし、実際無かった、と。 御年神の成立に関する問題と捉えなおすべきでしょうか。 大三元さんの説によると、 「とし」の概念成立 → 「としがみ」成立 → 「年」の漢字を使用した時期 → 「年神」の漢字を充てた時期 玄松子だと、 「とし」(=一年)の概念 → 「年」の漢字を使用した時期 → 「としがみ」成立=「年神」の漢字を使用 と整理できるのでしょうか。 さて、どこをどう調べたら、結論が得られるのだろうか。 |
[871] Re[869][863][859][858]一部訂正します。 玄松子 | 2004/08/14(Sat) 20:01 [Reply] |
玄松子> ちなみに、延喜式九条家写本や金剛寺写本には、「ミトシ」の訓註があるようです。 延喜式内社ということならば、延喜式の写本の訓註を尊重すればよろしいのではないでしょうか。 > あまりに無知な私にご不快を感じておられるかも知れません。 > 神職として、実際話すために必要だ思いましたので。 無知かどうかは判断できませんが、神職として発言されるのであれば、 素人・新参者・無知だからという言葉を言い訳に使うことに疑問を感じます。 神職として、ご自身が奉仕する神様について、簡単に言及すべきではないのではないでしょうか。 勿論、ご自身が色々と調べられて、ご自身なりの結論を持つことは有意義であると思いますが、現段階で「素人考えですが」と発言するのは、好ましいことではないように思います。 他の方々は、別の意見があるでしょうから、僕の「感じ」を押し付ける気はありませんので、ご自身で判断なさって下さい。 |
[870] Re[868][867]: 駄文続き 大三元 | 2004/08/14(Sat) 19:50 [Reply] |
玄松子さん > > つまり、 > 玄松子> 「ミトシ」と呼ばれた神格が先にあって、「御年」という字を充てたということでしょうか。 > ということですね。 はい、そうです。そう書いた方がハッキリしましたね。 > > たとえば、大己貴命の場合は、「オナムチ」に近い音で呼ばれた神格を、文字にする段階で、大己貴、大汝、大名持などと「揺れる」可能性は十分ありますが、 > 御年神の場合は、それは考えにくいのではないでしょうか。 これはどうしてでしょうか。 > > 大年、御年、若年と同系列の神々の存在を考えると、やはり、「年」神が本体で、意味は一年。 > 「年」という概念も文字も存在している文化の上に成り立つ神ではないでしょうか。 どうも、ここら辺で意見がすれ違う(意見が違っても良いのですが、すれ違いなら交通整理だけは出来るかも、と思って、もう一度。) 「としがみ」が本体で意味は一年。「とし」という概念が存在している文化の上に成り立つ神、というのが私の云う意味合いです。つまり「年」という漢字の存在は不要だし、実際無かった、と。 |
[869] Re[863][859][858]一部訂正します。 葛木御歳神社 [Mail] [Url] | 2004/08/14(Sat) 18:22 [Reply] |
玄松子さま、何度もありがとうございます。 > 社名の正式名称は、宗教法人として届け出ているものがあるはずですが。 宮司である義父によると、届け出は漢字のみの記載だそうです。 それで神社名が変化したりするのかもしれませんね。 > 「両論がある」で良いのではないでしょか. 玄松子さまほど神社に造詣が深い方にそう仰って頂きますと、少しほっとします。 HPに仮名書きを載せたことを軽率だったかもと思っておりましたので。 玄松子さまのページを拝見して、すべての神社に敬意を表しておられる様子に 感銘を受けております。 あまりに無知な私にご不快を感じておられるかも知れません。 すべて一歩一歩、歩みを進めていくより他は無く、私なりに研鑚を続けていく所存です。 御歳神社も延喜式内大社ですので、いつか玄松子さまのページにUP頂ければ幸いと ひそかに願っております。 > ご自身の興味として、どちらが正しいかを見極めたいというのでしたら、 > 学者同様の勉学が必要ですから、努力してください。 私の興味というより、また、学者としての見解を持ちたいのではなく 神職として、実際話すために必要だ思いましたので。 宮司である義父によりますと、祝詞では「みとしじんじゃ」と発声しています。 ただ、話し言葉では「みとせさん」「みとせじんじゃ」が村の方に浸透しているので、 取りあえず、HPの書き方(「みとせじんじゃ」とも呼ばれています)でいいかなと思っています。 皆様のたくさんのコメントに改めて感謝申し上げます。 またまた沢山勉強させていただきました。 |
[868] Re[867]: 駄文続き 玄松子 | 2004/08/14(Sat) 16:34 [Reply] |
> mi-to-sxxxx kami という概念は 漢字が入る前からあった。 > つまり、この概念が出来たときに漢字はまだ日本では意識されていなかった。 つまり、 玄松子> 「ミトシ」と呼ばれた神格が先にあって、「御年」という字を充てたということでしょうか。 ということですね。 たとえば、大己貴命の場合は、「オナムチ」に近い音で呼ばれた神格を、文字にする段階で、大己貴、大汝、大名持などと「揺れる」可能性は十分ありますが、 御年神の場合は、それは考えにくいのではないでしょうか。 大年、御年、若年と同系列の神々の存在を考えると、やはり、「年」神が本体で、意味は一年。 「年」という概念も文字も存在している文化の上に成り立つ神ではないでしょうか。 |
[867] Re[866][865][858][855][854]: 駄文続き 大三元 | 2004/08/14(Sat) 15:43 [Reply] |
もしかすると根本的な差は: 玄松子さんの仰る: > > 御「年神」という概念の前には、「年」という字で表され、「とし」あるいは「とせ」と読まれた単語がすでに存在していたはず。 と、私の前提: mi-to-sxxxx kami という概念は 漢字が入る前からあった。 つまり、この概念が出来たときに漢字はまだ日本では意識されていなかった。 ということになるのかな。 |
[866] Re[865][858][855][854]: 駄文続き 玄松子 | 2004/08/14(Sat) 13:29 [Reply] |
> なにか勘違いがあるようです。「音」を「おと」と読んで、読み直して頂けますか? > ある観念が生じた。それをmitosxxx-no-kami とでもいう「おと」で表現して他人にも伝え合ってきた。「文字」はあとから。 説明が足りませんでしたか。 御「年神」という概念の前には、「年」という字で表され、「とし」あるいは「とせ」と読まれた単語がすでに存在していたはず。 この、年という単語が、「とし」と読まれたか、「とせ」と読まれたかは、また別の言語学的問題です。 御年神に限って問題にするのなら、字と音は、すでに存在した「年」を用いているという点で、同時に成立していることになります。 たとえば、「刑法神」という神を想念した場合、 すでに「刑法」と書かれ、「けいほう」と読まれた単語が存在していたわけで、 「刑法神」をどう読むかという問題では、音が先ということはありません。 このように、自然発生した神ではない、人間の行い・取り決めを神格化する場合は、 元の単語の字と音を同時に借用されているはずです。 「年」神に関しても、自然である時間を、人間のものさしで取り決めた単位に意味を付加した神格ですから。 それとも、今回の問題が、一般的な「年」という単語の読みに関する疑問だったのでしょうか。 でしたら、僕の書き込みは意味がなくなり、音が先で、字を後で充てたと見るべきかもしれません。 あるいは、御年神という神名は、美称である「御」+「年」の神ではなく、 「ミトシ」と呼ばれた神格が先にあって、「御年」という字を充てたということでしょうか。 そういう意味なら、その点に関して議論が必要だと思います。 |
[865] Re[858][855][854]: 駄文続き 大三元 | 2004/08/14(Sat) 11:58 [Reply] |
玄松子さん 私見↓へのご質問、、、でしょうか。 大三元: まず「音」があった。それを「字」に置いて記録する段階で揺れる、ということだと思うんです。 かたばみさん:の書かれたように、御年神などの人間の文化や概念から発生したと思われる神々の場合は、意味・概念がまず先ではないでしょうか。 玄松子さん: 一年という周期を司る神という概念から、年の神という発想が出たと考えるのが自然でしょう。 とすれば、「字」と「音」も同時に成立したはず。 なにか勘違いがあるようです。「音」を「おと」と読んで、読み直して頂けますか? ある観念が生じた。それをmitosxxx-no-kami とでもいう「おと」で表現して他人にも伝え合ってきた。「文字」はあとから。 「文字」(含む絵文字)が開発されたときには、既に文字で表現したいコトバが出来ている。そのコトバは「おと」だけでしか表現できない。文字ができたときには、コトバには文字とおとがある。その後「おと」は失われる(大きく変わる)ことがある。 こんな風に捉えているのですが。 |
[864] 葛城の古代 14 オオタタネコ 神奈備 | 2004/08/14(Sat) 11:10 [Reply] |
葛城襲津彦が活躍したのか神功皇后の時代から仁徳天皇の時代です。それ以前の崇神天皇の時代に三輪山の大物主神が祟りをなす、と云うことで大物主神の後裔である大田田根子が引っぱり出され、大物主神は和らぐのです。この大田田根子の二世孫が大鴨積命(大賀茂都美命)で、賀茂朝臣の直接の祖神となります。 『旧事紀』に大田田祢古命から大鴨積命に至る系譜が乗っています。 素盞嗚尊の九世孫 十世孫 十一世孫 大田田祢古命 |−−−大御気持命 美気姫 |−−−大鴨積命 (出雲神門臣の女) | 出雲鞍山祇姫 大田田祢古命の系譜も『記紀』では、大物主神の末裔として突然の登場で、姓氏や名前すらどう区切って読むのか諸説があるようです。オオ−タタネコ、オオタ−タネコなど。 注目すべき説としましては山上伊豆母著『古代神道の本質』の出雲王朝の章に記載されている話です。 端的に纏めれば、オオタタネコの自己紹介に「意富多々泥古、意富美和之大神」と云う言葉を使っていること、神武天皇の后探しの際には「美和の大物主の神」としていて、わざわざ同じ「意富」を付けた所に意味を求めています。即ち意富氏で多氏。実際、大神神社の祭祀にからんでいる氏族は多氏が筆頭と言えるのかも。 ついでですが、『東アジアの古代文化』2004夏号で、「大田ゝ根子、三輪山、崇神朝を考え直す」と云う秋間俊夫氏の論考があり、これの結論は『住吉大社神代紀』に出てくる船木連の遠祖大田田命、神田田命で山の木から船三艘を作り神功皇后等の日の御子を乗せたとあるのですが、この大田田命を考えておられるようです。 住吉大社から三輪山を見ることが出来ると云う。出来たと云うべきか。確かに地図上では障害はなさそうです。住吉大社にとっての日の神とは三輪山から登って来るものだったのかも知れません。 大田田祢古命については、その素性、何故出雲の姫を娶っているのか、などなど今後の勉強のテーマです。 大鴨積命が葛城で鴨氏を束ねて祭祀氏族として存在感をあらしめた中興の祖のような人なのでしょう。当地の豪族の葛城氏の繁栄の時代、鴨氏は一体何をしていたのでしょうか。『記紀』には記載はないようです。恐らくは祭祀氏族として、天皇家−多氏、物部−中臣、蘇我−忌部、葛城−鴨と云う形で、葛城氏とペアをなしていたのでしょう。葛城氏の本家に当たるのかも知れません。 葛城氏が衰亡して行き、蘇我氏の葛城への浸食と渡来人の飛鳥への移動などがあり、鴨氏としては単に祭祀氏族としてのみおさまっている訳にもいかず、葛城の豪族として生きていたのでしょう。賀茂朝臣として各地の守などをやっています。身分は中級貴族の扱いのようですね。 丁度壬申の乱等では大海人皇子側についたこともあり、その後も河内守や出雲守に登用されたりして、一応尊敬されるべき立場で過ごしていたようです。 鴨族の足跡が河内や出雲に見えるのも、その伝承への影響への吟味が要りそうです。 |
[863] Re[859][858]一部訂正します。 玄松子 | 2004/08/14(Sat) 10:15 [Reply] |
> 言葉にするのに音が要りますから。注釈つきで話せないので。 > 明日からどう言おうかの悩みです。 「両論がある」で良いのではないでしょか. 社名の正式名称は、宗教法人として届け出ているものがあるはずですが。 葛木御歳神社は、法人ではないのですか。 ご自身の興味として、どちらが正しいかを見極めたいというのでしたら、 学者同様の勉学が必要ですから、努力してください。 ちなみに、延喜式九条家写本や金剛寺写本には、「ミトシ」の訓註があるようです。 |
[862] Re[861][860]: 三歳神 葛木御歳神社 [Mail] [Url] | 2004/08/14(Sat) 10:03 [Reply] |
神奈備さま、ありがとうございます。 先日来まだよく飲み込めなかったもので。 詳しい解説を頂きよくわかりました。 |
[861] Re[860]: 三歳神 神奈備 | 2004/08/14(Sat) 09:27 [Reply] |
>三歳祝氏が奉斎していて神祇官を拒否したのはどういうわけなのでしょう? これは貞観八年(866)のことですね。 すでに『古語拾遺』が書かれて60年、忌部氏改め齋部氏と中臣氏とは決定的な差がついていたのでしょうね。 御歳神社の祭祀を預かっていた三歳祝は『新撰姓氏録』では大物主神五世孫意富太多根子命之後也 また、『三輪高宮家系』では、三歳祝氏は賀茂朝臣等と同祖で大鴨積命の後 となっているようです。(『三輪山の古代史』平林章仁著のよりました。) また、この頃の賀茂朝臣家は出雲守に任じられたり、中級の官吏として生きながらえているようです。昔日の勢いはなくとも、悠久の歴史を持つ名門の家としての扱いはなされていたのでしょう。藤原京の跡地に居住していたとか。 http://www.kamnavi.net/as/kamokimi.htm 賀茂朝臣家やその親戚筋に神祇官を拒否する気迫があったのでしょうか。 当時の神祇官は多分中臣氏の官吏でしょう。藤原氏が全盛を迎えようとしている頃の中臣氏、実はもはや用済みの氏族で、これまた齋部氏とともにその重要性は薄れていたのでしょう。 三歳祝氏は、賀茂朝臣家だけではなく、中臣の宿敵齋部氏の流れにものっているはずで、幸い神社の格も従一位と高位にあり、御歳神社の祭祀権を乗っ取りに来た中臣の神祇官には、遠慮することなくお引き取り願ったのでしょう。そんなことで不利益を蒙るはずがないとの読みがあったのでしょう。 祭祀を無理強いすることによる御歳神の怒りのほうが中央では恐ろしかった。とか。 |
[860] Re[853][839]: 三歳神 葛木御歳神社 [Mail] [Url] | 2004/08/14(Sat) 02:47 [Reply] |
かたばみさま、いつもありがとうございます。 >直感では・・三歳祝氏は三輪氏族ですから、三輪と御歳を合わせて三歳を名乗った。 歴史の断片しか知らないので、色々な氏族のからみが理解できていなくて そこがすっきりしなくて困ります。 三輪氏と忌部氏や中臣氏や鴨氏との関係がよくわかっていないので全体像がみえません。 三歳祝氏が奉斎していて(でいいですよね)神祇官を拒否したのはどういうわけなのでしょう? 三輪氏や三歳祝氏と忌部氏との関係はどうでしょうか? 同様にアマテラスとスサノヲの関係や天津神と国津神についても理解が浅いので、かたばみさまの「古代であそぼ」をプリントアウトして教科書代わりに読んでいます。 読み応えのある本になりました。 まだ途中ですがとてもすっきりしてきました。 アマテラスとスサノヲの関係もなるほどという感じです。 すべて読んだら、レポート提出、否、感想文お送りしますね。(!) >大年神や御年神は自然神でも祖先神でもない神、と考えています。 「命」がつかない神様は意外と少ないのですね。 『「文化」を示す神名』とは穀物だけではなくその営みすべてを含めたということでしょうか? ある文化をもつ集団の象徴神のような。 御歳神社も忌部氏が現れるまでは御年神社だったかも。文献ないですが。 >全体をながめてみることも必要と思います。 大年神を知る必要がありますね。 大年神は複数の神格といいましょうか、複数の神様が大年神と呼ばれているような印象を持ちます。理解にはまだ道遠しの感です。 また色々教えてください。ありがとうございました。 |
[859] Re[858]一部訂正します。 葛木御歳神社 [Mail] [Url] | 2004/08/14(Sat) 02:25 [Reply] |
> どなたが答えを要求しているのでしょうか? 要求しているのは私自身です。 >「正解の無いものに答えを要求される気分です。」ではなく「要求する」と書くべきでした。訂正させてください。 > 年神に、美称の「御」を付けた場合に、「とせとも読む」で良いのでは。 言葉にするのに音が要りますから。注釈つきで話せないので。 明日からどう言おうかの悩みです。 > 明治になって、社名を変更されたお宮は沢山あります。御祭神さえも簡単に変更されています。それを考えると・・・ 簡単に変更することへの疑問からの書き込みでした。 御神名は「みとしのかみ」で問題ないと思います。 問題は神社名です。 |
[858] Re[855][854]: 駄文続き 玄松子 | 2004/08/14(Sat) 01:30 [Reply] |
> 正解の無いものに答えを要求される気分です。 どなたが答えを要求しているのでしょうか? 大三元さん> まず「音」があった。それを「字」に置いて記録する段階で揺れる、ということだと思うんです。 かたばみさんの書かれたように、御年神などの人間の文化や概念から発生したと思われる神々の場合は、意味・概念がまず先ではないでしょうか。 一年という周期を司る神という概念から、年の神という発想が出たと考えるのが自然でしょう。 とすれば、「字」と「音」も同時に成立したはず。 御年神の「御」が美称であるなら、本体は「年神」。 これを「としのかみ」と読むか、「とせのかみ」と読むかと考えれば、 現代言語感覚からすると、「とし」が正しいような気がします。 現代の辞書では、「とせ」は助数詞。前に何かの語がある場合に使用される「音」。 古代ではどうかわかりませんが、 年神に、美称の「御」を付けた場合に、「とせとも読む」で良いのでは。 いずれにしろ、学者でないかぎり、どっちでも良いのではないでしょうか。 明治になって、社名を変更されたお宮は沢山あります。御祭神さえも簡単に変更されています。それを考えると・・・ 個人的青草として。 出雲の三歳社に参拝した時に、川側にあって、「水瀬」の意味ではないかという印象でした。「瀬」のイメージを付加して、「みとせ」としたという可能性はなかろうか。 |
[857] Re[856][855][854]: 駄文続き 葛木御歳神社 [Mail] [Url] | 2004/08/14(Sat) 00:45 [Reply] |
> 一緒に悩んで差し上げようと思ったのでしたがかえって悩みを深くしてしまったかも・・・ いえいえ、悩むのを楽しんでいますので、一緒に楽しんでくださいませ。 ご心配ありがとうございます。 答えはゆっくりと訪れることでしょう。 いずれにせよそれまでは保留するしかないですから。 > HP拝見すると両論併記になっているので、それで宜しいのでは? 両論併記は、とりあえず昨夜変更しました。 |
[856] Re[855][854]: 駄文続き 大三元 | 2004/08/14(Sat) 00:04 [Reply] |
一緒に悩んで差し上げようと思ったのでしたがかえって悩みを深くしてしまったかも・・・ HP拝見すると両論併記になっているので、それで宜しいのでは? |
[855] Re[854]: 駄文続き 葛木御歳神社 [Mail] [Url] | 2004/08/13(Fri) 23:17 [Reply] |
> 私を含めて殆どの人は「字」に惑わされてるかもしれないことを恐れなくてはいけないと思うんですね。 かな文字を、漢字の音のみに注目して、勝手に表音のみの字として作り上げた日本人ですから、 その意味では音の方を大切にしていたとも思えます。 墨で書く美的な(芸術的な)意味で漢字の配置を考えたかもとも思います。 一方で、漢文文化も花開いていたでしょうから、漢字の意味にも深い思いを込めたとも見れますね。 そこまで考えると当時の人たちの字に対する感性を知らないと読み解けませんね。 はてさて困りました。 学者さんなら「説」で済みますが、実際に神社を預かる者にとっては困りものです。 正解の無いものに答えを要求される気分です。 きっと此処で生まれ育っていれば「みとせ」としたかもしれません。 新参者の弱みですね。 でも新参者は新風も連れて来られるのでプラスマイナスは未知数。 |
[854] 駄文続き 大三元 | 2004/08/13(Fri) 20:14 [Reply] |
私を含めて殆どの人は「字」に惑わされてるかもしれないことを恐れなくてはいけないと思うんですね。 まず「音」があった。それを「字」に置いて記録する段階で揺れる、ということだと思うんです。 「音」自体が地方、時代、個人で違う。だから、「字」が表象している「音」の理解も揺れている、だから、「字」に置かれた名称などが揺れている。 一方、ある程度のルールがないと折角「字」に置いてもコミュニケーションや記録の目的を達しない。この「字」はこういう「音」を表す、という約束事が出来るのだが、実はそれでも個人、時代、地方での実際の「音価」にはずれがある。 青森の伯父貴は、寿司、煤、獅子、にルビを振らせると、すし、すす、ししと書く。しかし彼の発音は私には全部同じに聞こえる。彼は言い換えている、違う音だという。 それで、「語源は、みとせ、ではなく、みとし、か」というのも実は意味が判らない。「みとせ」をどんな音で読んでいるのか、「みとし」をどんな音で読んでいるのか判らない(まぁ、実は、「私の」読みと殆ど同じだと想像は出来ますが・・・)。各人が「自分の」読み、発音体系でもって(ある幅の範囲だろうが勝手に)仮名一字を一音に一対一で対応させているんだと思う。 もともとが mi-toshewy で表されるような音だったら、みとし、みとせ、どっちが「語源」だ、ってことにもならない。 どうもまとまらない、駄文の続きとして・・・ |
[853] Re[839]: 三歳神 かたばみ [Mail] [Url] | 2004/08/13(Fri) 19:30 [Reply] |
≫もう一つの神名の三歳神ですが、御歳神社の祝職の三歳祝氏からきていると思っていました。 卵が先か鶏が先か、どれが最古かわからないとなんとも言いようがないですね。 直感では・・三歳祝氏は三輪氏族ですから、三輪と御歳を合わせて三歳を名乗った。 後に三歳さんの祀ってる神様ということで三歳神になり大もくっついて大三歳神にもなっていった・・ 古事記では御年神でこれが最古。 御歳神としたのはやっぱり忌部さんじゃないかなあ(^^; ミトシ・シン、ミトシ・ジンジャ、後ろに続く言葉によってはミトセ神社のほうが語呂がよさそう。 しかし、適当でいいですよとまではいいにくいなあ(^^; 漢字で書けば発音は各人の自由、表意文字のいい面でもあり不安定な面でもあり、こんなところにも自由と規律の問題が表れてきますね。 ≫年−旧字は意符「禾」(いね)の下に音符「人」(ふくらむ意)をつけた字で 粟も稗も「禾」です。 地域によっては稲も含まれる、あるいはメインにもなるということであって、穀物の総称と考えておかないと落とし穴にはまると思います。 大年神や御年神は自然神でも祖先神でもない神、と考えています。 自然界+人間界の共同体、すなわち「文化」を示す神名。 若年神まで下ると具体的な祖先の伝承と重なってくるかもしれないですが。 全体をながめてみることも必要と思います。 以下は弥生農耕と大年神系譜の神々の相関推定図です(以前のものの改訂版)。 系譜本体は系図綱要/太田亮によります。 http://tokyo.cool.ne.jp/woodsorrel/data/kami_ootoshi.png 大年相関図 |
[852] Re[849][848]: みとし・みとせ ペギラ | 2004/08/13(Fri) 16:47 [Reply] |
ちなみに、 国土地理院の地図閲覧サービスでは、 http://watchizu.gsi.go.jp/ 「みとせじんじゃ」と。 |
[851] Re[847]: 日抱神社 2 神奈備 | 2004/08/13(Fri) 12:04 [Reply] |
御歳神社についてのお話の最中に、別の青草話で恐縮です。 乗鞍本宮は20世紀末の年の春に登拝いたしました。天照大神と五十猛命が背中合わせに祭られている祠の配置は実に面白い印象でした。 http://www.kamnavi.net/it/hida/norikura.htm 貴重な情報ありがとうございます。 飛騨側の岩井谷の乗鞍神社はその特に廃社となっていました。乗鞍本宮へ吸収でした。 神林神社の由緒(平成データ)には、瀬織津姫神(梓明神) 穀倉開発の水神 と紹介されています。 この鎮座地は松本市神林で、ざっくりと云えば乗鞍岳の東側にあたります。 お書きになっておられる梓水神社は南安曇郡安曇村大野川鎮座の梓水社のことでしたら、この神社もまた乗鞍岳の東側に鎮座しています。 >乗鞍岳信仰について乗鞍自然保護センターに類似する行事が紹介されていたので引用します。 >1>信州の信仰「遥拝所は大野川の梓水神社である。同神社の鳥居はもと南向きになっており、大池、乗鞍を遥拝できるようになっていた。同社では、昔は祭りの前日に神主と村の代表者が乗鞍岳に登頂して宵祭りを行っていた。」 このご紹介戴いた文章ですが、「鳥居はもと南向き」としますと、槍、穂高を遙拝する方向です。少々納得できない所です。もと東向きだったのでは。 >於加美大神(水の神)という神は他で見当たらない名前 「他で」の意味が不明です。青森から鹿児島まで、少なくとも54座鎮座しているようです。 >瀬織津姫の親神様がそこにいたということ これは知りませんでした。 天照大神の荒魂説もありましたね。どうなんだろう。 |
[850] Re[846]: re:[831] 巫女 葛木御歳神社 [Mail] [Url] | 2004/08/13(Fri) 11:34 [Reply] |
恋川亭さま、引き続きありがとうございます。 >山の中央を避けて建てられた社殿 → 巫女の奉仕した斎の宮 >さて、この命題は正しいのでしょうか? 私も本当?という感じだったので神奈備さまにお聞きした次第です。 で、私のHPには書いていません。 ただ、観光紹介のページに度々出てくるので、知っておく必要はあると思っています。 >『伝統的ジャパンな美的感性』 同感です。ただ神社自体はどちらかというとシンメトリー的な完成美ですが。 >【本殿−神奈備山ラインとは異なる、 >拝殿−横山(ハヤマ)ライン上の尾根筋は、 >俗世の祓い清め 及び 祈願のアース線なので 実はいま大きな疑問がもう一つあります。 背後の低い山が御歳山ですが、その奥の左手に高い山があります。 そちらも神聖な感じを受けるのです。私だけではなく何人かがそうおっしゃいます。 叔父に聞くと大きな岩があったのはその山頂だと言うのです。 半分土に埋もれていたとか。 その山から、御歳山へ尾根伝いに行けて、よく遊んだというのです。 もともと岩質の山ですから、よくわからないのですが、調べなければと思っています。 >『どこをどのように修復したいナ〜』と書き込む方が、判りやすいですよ。 お言葉に乗せられて書かせていただきます。といっても資金が要る事が多いのですが。 手水舎は地下水をくみ上げるポンプが故障して以来8年位水が出ないままです。 社務所は老朽して、もう人が入れません。せめて更地にしたいのですが。 清浄を旨とする神社にあるまじき姿です。 拝殿と本殿との間の門と垣も今にも壊れそうです。 以上が資金の要る方です。 過疎化と氏子さんの高齢化、もちろん社家としての責任も十分に感じていますが、 動きません。動かすことも責務だと思っています。 私の手でできることからと、摂社と英霊殿は、ほぼ修復して磨き終わりました。 (摂社の土台の木が朽ちているのはそのままですが。) 拝殿は秋祭りまでに、玉垣は正月までにと思っています。 私の手で出来ないことでたくさんの人手が要ることは、御歳山です。 数年前に紀伊水道を上がってきた台風17号の直撃を受けて、木々が根こそぎ倒れています。橿原神宮でもかなりの木が倒れました。手を入れたいと思っています。 境内の大きなヒノキにも注連縄をしたいですし、色々あります。 とにかくこれからです。 お言葉に甘えて書かせていただきました。 |
[849] Re[848]: みとし・みとせ 葛木御歳神社 [Mail] [Url] | 2004/08/13(Fri) 09:58 [Reply] |
大三元さま、ありがとうございます。 大三元さまのページはある種驚嘆とともに読んでおります。 全く未知な世界で大変惹かれています。 「天の羽羽矢」や「カヤナルミ考」面白かったです。 みとし・みとせについても >「シ」は shi 「セ」は se と固定的に考える必要はない、、、のではとも思う。 ですね。 感覚的には「みとせ」の方が親しみ易い感じで、それが言い習わしになったのだと思います。これも語源的には「みとし」なのでしょう。 (いずれかの時代に「三歳」となった経緯があるかもしれませんが。) 語源が大事か、村の言い習わしが大事かの問題ですね。 慎重に考えていきたいです。 またどうぞ色々教えてください。ありがとうございました。 |
[848] みとし・みとせ 大三元 | 2004/08/13(Fri) 09:04 [Reply] |
みとし・みとせ のやりとり拝見しての雑感・雑文です。 もともと日本語が50音図(47でも48でもいいけど)と表される音だけで表記できるのか、という根本的な問題があるのではないかと思ってます。勿論、濁点・半濁点、拗音、促音の表記の仕方もその後約束して来て、適用範囲(表現できる音の種類数)を広げて(増やして)きましたけど。 現在の諸方言を表すことも難しい。古語に拗音、促音がなかったのか。それは中央の言語の場合で、古くから諸方言を表すには50音図では不備なのか。 もう一つの根本的問題は例えば「シ」と書いて何と読むか、どういう音を発信するか。shi, si で表せそうな音、東北では sw とでも表記すると近そうな音。これは現在の話。昔は「シ」と書いて sew にでも近かったりするのか・・・ 同様に「セ」と書いてどんな音を発するか。se, she, sey なんかがありそう。 「シ」は shi 「セ」は se と固定的に考える必要はない、、、のではとも思う。 「とし」「とせ」の場合は、しかし、このような音の揺れがあった為に二通りの記法があるのか、あるいは、母音交代による何らかの意味差があるのか、とか、語源に遡って何か説明できることなのか。。。『時代別国語大辞典上代編』では「とせ」が数助詞の場合、とあるが、思うに必ずしも本源的なことではなく慣用によってそのように使われ方が分化したものかもしれない。 布忍神社さんでも「ぬのせ」と読んでおられるが、私は語源的には「ぬのし」、更に根源は「ぬのおし、ふのおし」あたりじゃないか、とか考えてます。 というわけで、自由な(?)音の揺れがある語を無理矢理50音図に当てはめて字を定める、というのは、他人との意思疎通上やむを得ないことだけど、どっちでもいいじゃないか、どっちも「正しさ」から行くとどっちもどっち、と思ったりする訳です。 駄文多謝 |
[847] 日抱神社 2 言蛇 [Mail] | 2004/08/13(Fri) 03:07 [Reply] |
こんばんわ、先に紹介させて頂いた「日本のルーツ飛騨」の原形民俗情報が入りました。 ”日抱の御魂鎮め”という池で祖先を拝む神事がこの本で印象的に紹介されているのですが、 乗鞍岳信仰について乗鞍自然保護センターに類似する行事が紹介されていたので引用します。 1>信州の信仰「遥拝所は大野川の梓水神社である。同神社の鳥居はもと南向きになっており、大池、乗鞍を遥拝できるようになっていた。同社では、昔は祭りの前日に神主と村の代表者が乗鞍岳に登頂して宵祭りを行っていた。」 2>飛騨の信仰 「遥拝所はもと大丹生池下にあった。岩井谷では、昔は村中のものが山頂まで行って一泊し宵祭りを行い、下山して村の乗鞍神社で本祭りをしている。飛州志によると高原郷の村々が旱魃のときは、雨乞いのために大丹生池まで登山して祈願したと伝えられる。」 著者は”御魂鎮め”の起原を大丹生池に置いているので、この宵祭り行事の記憶が変化して記述(*1)されたと捉えてもいいと思います。 ここで興味深いのは、乗鞍自然保護センターの記述ですと乗鞍岳を介して飛騨側と乗鞍高原・松本平側に交流の可能性があり、乗鞍高原側の信仰主体は梓水神社になることです。センターの記述ですと梓水神社の起原は 「日本三代実録によると、貞観9年(867)に正六位上梓水神が従五位下に昇進している。乗鞍岳はこの梓水神のます山として松本平の人々から信仰されていた。東筑摩郡波田町から山形村にかけての山麓に所在した牧場として 、大野牧という地名が「延喜式」で所載されている。(*2)」とあります。ところが実際の梓水神社は祭神表示も無い状態で、風琳堂主人(*3)のコメントもありまして松本平の神林神社を確認にいきましたら、「瀬織津姫(梓水神)」と表記あります。乗鞍岳信仰として瀬織津姫が信州側に関わっているのは確からしいのです。 参考までに現在の乗鞍本宮の祭神を挙げますと「天照皇大神(日の神)・五十猛大神(木の神)・於加美大神(水の神)・大山津見大神(山ノ神)」。 日の神と山ノ神が結ばれて木の神&水の神が生まれてると説明しているのなら、山岳信仰というものを実に綺麗に纏めているなと感心してしまいます。於加美大神(水の神)という神は他で見当たらない名前なのですが、乗鞍岳の水神(*4)にして梓水神の親として設定するのなら、瀬織津姫の親神様がそこにいたということにできて纏まりがよくなります。 >『破られた2000年の魔法』と云う冊子 現在の出版リストからは外れているようです。「日本のルーツ飛騨」、幻想神話としてはまとまりがいいので 著作者の性格が丸くなられたのかもしれませんね。 (*1)先祖崇拝から雨乞いに変わったという可能性もあります・・・・ (*2)現在の乗鞍高原は白樺が目立ちますが開発が進む前はブナの原生林が拡がっており、縄文土器が確認されています。乗鞍から信州側へ流れる川は前川・大野川等ありますが、縄文・弥生の頃は梓川で括られていたことでしょう。 (*3)http://www5.ocn.ne.jp/~furindo/ (*4)異名同神は混乱の元なので乗鞍岳限定の水神様で丁度いい感じです。飛騨側に流れる水の神は梓水神と別の子にすれば家族が増えて農作業が楽になるし。そういえば、「日本のルーツ飛騨」には両面宿儺がいないです・・・はて? |
[846] re:[831] 巫女 恋川亭 | 2004/08/13(Fri) 01:50 [Reply] |
神主さん、さっそく恐れ入ります。私の書き込みに、そんな構わんといて下さい。テキトーがモットーですから。 それから、叶う叶わないは別にして、具体的に『どこをどのように修復したいナ〜』と書き込む方が、判りやすいですよ。私には今のところ手伝う余裕はありませんが。神様の御眷族ですら、『具体的に述べねば手伝いたがし』と悩んでいらっしゃるではないですか。ここならば、私以外の誰かが拝読してサジェッスチョンされるかもしれません。ただし、タダより高いもののワナに嵌まらないように。(ここでの公開なら監視が厳しいから大丈夫かもしれませんが。) ******************** さて、以下の文は、[845]を拝読する以前に入力したので勘弁してくださいね。青草です。久々なんで調子にのってます(あとでお灸かな?) 引用されている「御所市史」の記述中、 > 社殿は山の中央を避けて建てられているのは、 > 巫女の奉仕した斎の宮から発達したものと思われる。 に『思われる』とあるように、『山の中央を避けて建てられ』た『社殿』が、『巫女の奉仕した斎の宮から発達した』かどうかは、執筆者の仮説ですからね。ここでの問題、 山の中央を避けて建てられた社殿 → 巫女の奉仕した斎の宮 さて、この命題は正しいのでしょうか? 知りたいところです。 正対せずに少しずらす、というのは、『伝統的ジャパンな美的感性』だと私は思っているのですが。(美術館に行けば参考例は一杯溢れていますが、街の骨董屋ですらイロイロ物真似はあります。) 講釈せずとも『魂の震え』で自得でき得る感覚ではないですか?ちなみにオリエントの黄金比ですら、真の講釈は不能です。 ・・・と書いただけでは、青草的面白みに欠けるので、追記。(笑) お盆でもありますから、思い出して頂きたいのは「ハヤマ」的な山稜です。例えば、神戸の生田神社でも平安初期以前の元社は、(新幹線)新神戸駅横にある砂山(イラコヤマ)だそうですが、現社は水害を避けて移転して今の地に坐ます。 で、奥宮は我々近所の悪餓鬼でも厳重に侵入不可だったのですが、震災復興事業で改修公開された奥宮・神功皇后社の背面の向きは、神戸一宮神社(同摂社・的神社)の向きと同様の、堂徳山山頂でした(もっともビルに遮られて地元民以外には判別不能)。 この堂徳山は、今や夜になると帆船や「KOBE21」の電飾が灯る山です。そして、生田神社の拝殿・本殿の背面の向きは、この堂徳山から天神谷をひとつ隔てた西隣りの小山の山頂に対しています。(生田神社のHPでは、生田の森のバックのビルが写るので、山もろともビルの写る背景をカットしてますナ。) で、ある冬枯れの時(ちょうど良い時期と思って)、この横にあった拝殿の真後ろの尾根に取り掛かろうとしたら(1/25千の地図にある点線の道のみ)、サラサラと一陣の旋風とともに枯葉で遮られて、『この尾根筋はなりませぬ』と珍しく明確なきついストップでした。(こんな私でも、ときには神様の言うことを聞く) 案ずるに、参拝者達の願い等のアース(天に向うからヘブンか?)のルートのようでした。あまり生身の人体向きではないルートのようで、きっと(その少しずれた)頂上には受付&捌き役の神様が従事されて、御祭神の大神様へのご奏上とかされているのかもしれません(笑)。そのルートの取っ掛かりには、幾つか小社が今も残り、境の守りをしてらっしゃる。観光地の北野町で以外でしょうけど。 青草的にまとめると、 【本殿−神奈備山ラインとは異なる、 拝殿−横山(ハヤマ)ライン上の尾根筋は、 俗世の祓い清め 及び 祈願のアース線なので、 念意障害を受ける危険の為、一般俗人は近寄るべからず。】 という、なんちゃって青草仮説はいかがでしょうか?(本気にしないでね) |
[845] Re[844][839]: 納得です 葛木御歳神社 [Mail] [Url] | 2004/08/13(Fri) 01:11 [Reply] |
恋川亭さま、こちらこそはじめまして。 書き込みありがとうございます。 お盆明けから、神職講習へ参りますので、資格としては1ヶ月後です。 大学の先生より、私に問題があったと思っています。 出雲の「みとせのやしろ」を見つけるまで、疑問にすら感じなかったのですから。 言葉の大切さを思う敏感さが欠けていたと思います。 ただ、「みとせじんじゃ」と仮名書きのものがなく、 話し言葉でのみ「みとせ」であって、御歳神社について書かれた本を当たっても 仮名がない場合が多く、ようやく仮名書きを見つけたら、 「みとしじんじゃ」でした(鳥越憲三郎氏の著書)。 それでも恋川亭さまがお考えのように、この場所の言い習わしを 優先するべきだったかもしれませんね。 URLをつけるのにローマ字が必要なので、どちらかを選択することになってしまいました。 神社を調べたいと思いながら、神社名すら特定できないのは何とも歯がゆいものですが。 しばらく保留とさせてください。 >西摂津から東播磨にかわる境目になりますと、ポツポツと御歳さん、大歳さんのお社が目に>つきはじめます。神戸市垂水区・西区、明石市、加古川から姫路へと、御歳神社、大歳神社>の一大勢力圏のような感じです。 このあたりの御歳さんのお名前はミトシさんですか? 情報などありましたら、教えてください。 葛木御歳神社は時代が下ると大三歳神社などとの文献があります。 神社には古文書などが残っていません。 本当に難しいことです。 >すっきりとして落ち着いた、きれいなお社でしたね。 ありがとうございます。 背後に御歳山があり木々が多いのと水が豊かなのでいつもしっとりとしています。 静謐な空気が満ちているように感じています。 ただ、修復はままならず、社務所もなく、手水舎も使えなくなっているのは悲しいことで、 何とかできることからと思っています。 こちらに書き込みさせていただくと本当にいい勉強になります。 神奈備さま、みなさま、 いつもスペースを頂戴して申し訳ありません。 といいながら、これからもよろしくお願いします。 ありがとうございました。 |
[844] Re[839]: ボヤキ(1) 恋川亭 | 2004/08/12(Thu) 23:51 [Reply] |
はじめまして、葛木御歳神社の神主さま。m(__)m でも、神様には1度ご挨拶に伺っております。Z氏ご一家とM女史のナビに、K先生、Mr.H氏、K嬢と錚々たるメンバーの、パシリ役としてお伴しました。すっきりとして落ち着いた、きれいなお社でしたね。 さて今夜は、お盆休みで久々に覗くことができました。いきなり文句を言うわけではありませんが、とても気になったことがありましたので確認まで。 > 名前の読み方です。葛木御歳神社は「みとしじんじゃ」とHPに載せていますが、 > このあたりではずっと「みとせじんじゃ」と呼んでいます。 > 調査に来られた大学の先生に「〔みとせ〕はこの地方の方言でしょう。 > ご祭神は〔みとしのかみ〕だから、 > 〔みとしじんじゃ〕の方がいいでしょう。」 > と言われました。いくつかの本にも〔みとし神社〕と > ありましたのでそう書き改めました。 これは、少し問題があると思いませんか? 神主さんの方ではなくて『調査に来られた大学の先生』の方に。 何のための調査だったのでしょうね? @ 調査対象に対して、自分の知見のみで変更を指示するのは、 学問的・科学的方法から逸脱しているのではないか? A その変更指示は、今後、多方面に迷惑をかけるのではないか? 私は学者ではないけども、@Aぐらいは感じました。 この神社は、神主さんがおっしゃるように、 > このあたりではずっと「みとせじんじゃ」と呼んでいます。 もう一度書きますと、何のための調査だったのでしょうね? 『ここでは「みとせじんじゃ」と呼ばれている』と書き残すのが、本当の学者の調査ではないのでしょうか? しつこく、さらに確認。 > 「〔みとせ〕はこの地方の方言でしょう。 > ご祭神は〔みとしのかみ〕だから、 > 〔みとしじんじゃ〕の方がいいでしょう。」 ちょっと待った! 〔みとせ〕は、本当に方言なのか?・・・では、唱歌「仰げば尊し」は、『♪はや、いくトシ〜』って歌うのか? 歌謡曲「喜びも悲しみも」は、「いくトシツキ」だけども(歳月の熟語だから)。『ヒトトセ(壱歳)』なんていう語は今でも使うゾ! 私はこの地方の住人ではないけど、少なくとも『御歳』を『ミトセ』と呼んでいても、方言のような違和感をまったく感じません。(私の住む地方は『ミトシ』神社が多いけれども、です。) B 〔みとせ〕は方言ではありません。 最近、自身が使わないことをもって方言や古語とするウマシカが多くなってきましたね。 この場合、ミトシが一般的だからミトセを方言とするのも、それだけでは論拠があいまいですし、御祭神がミトシノカミだからといって、神社名をミトセからミトシに変更する必要性も、『学問的に』あるのでしょうか? 神社名と御祭神名が、近いけど微妙に違う例もあったように思いますが(まだリストアップしてないけど)。 C 神社名を祭神名に「敢えて」合わせる必要があるのか? ただし、神主さんが、氏子さん達や何よりも神様とご相談の上に決定されたことを問題にしている訳ではありません。 歴史的にずっと近在の氏子から『ミトセさん』と呼ばれてきたものを、『変更するよう指導する学者』に強烈な違和感を覚えているのです。プロの学者は(この掲示板でない限り)『青草でした』とは言えないはずです。 そんなので、調査といえるのか? 科学的方法といえるのか? 学問的価値を下げるのでは?学者といえるのか? プロといえるのか? それこそ、貴重な文化や歴史の破壊ではないのか? この学者は一体誰やねん? 他にも調査と言いながら余計な指導を押し付けてないやろな〜? 等など、etc.・・・。いきなり文句ばかり並べて「ごめんなさい」です。私の疑問は、おかしいでしょうか? *************************** 神戸を西に、須磨区白川のあたりですね(今じゃ、白川ってちょっと、かなり風情なくなりましたヨ)、境目なんです。アンテナの良い人には、お社が判ります。(笑) 西摂津から東播磨にかわる境目になりますと、ポツポツと御歳さん、大歳さんのお社が目につきはじめます。神戸市垂水区・西区、明石市、加古川から姫路へと、御歳神社、大歳神社の一大勢力圏のような感じです。とりあえず、一番東のポイントは「神出」になるのかな? 農村の村社として勧請された、歴史的にはそんなに遡らないお社だとは思いますが・・・豊かな播磨の野の印象です。(もうぜんぜん摂津と違うの) それだけに葛木で御歳さまにお会いしたときは、『あやや・・・?あやや・・・?』と不思議でした。そういえば、あやや比賣は姫路のご出身でしたか。 |
[843] Re[841]: トシ(古語で米を意味する) 葛木御歳神社 [Mail] [Url] | 2004/08/12(Thu) 21:30 [Reply] |
わーぷさま、情報ありがとうございます。 >参考:大年神と疱瘡神 大三元氏のページですね。よく読ませて頂いております。 大歳神社(白川)かどうかわかりませんが、大歳神を祀る神社で御弓式をしている写真をネットで見つけたことがあります。お祭りがなくなっていくのは寂しいことですね。 「トシ」と読む字にはいくつかあって、関係がありそうなものを並べますと、 (角川の新字源より) 年−旧字は意符「禾」(いね)の下に音符「人」(ふくらむ意)をつけた字で 「ふくらみ実る」転じて、禾実が実る周期の意。 稔−意符「禾」(いね)の下に音符「念」(ふくらむ意)をつけた字で 「ふくらみ実る」転じて、禾実が実る周期の意。(同じ説明です) 歳−前回書いた他に木星の意味もあります。 木星が黄道を一周するのが約12年で、古代中国ではその 1/12が一年。木星を歳星というそうです。 祀−「示」と神霊の意と音を表す「巳」とから成り「まつる」の意 一年は、殷では「祀」、夏では「歳」、周では「年」を用いたようです。 古代から平安あたりの人たちは、この違いを使い分けていたのでしょうか? |
[842] 葛城の古代 13 葛城襲津彦と事代主神 神奈備 | 2004/08/12(Thu) 18:20 [Reply] |
襲津彦の年表 神功皇后紀五年 新羅の草羅城を攻め落とす。 六十二年 新羅を討たせるべく派遣されたが美女を納れて加羅国を攻めた。後、岩穴に入って死んだ。 応神天皇十四年 弓月の民を連れ帰るべく加羅国に遣わされたが帰らなかった。 十六年 本国からの応援を得て弓月の民を率いて帰国した。 仁徳四十一年 百済王族酒君が無礼であったので、酒君を捕らえて襲津彦に従わせて進上した。 この間は200年以上になると云う。事実でない記述が『紀』にあるとしても、これは一人の人間の活躍の筈がない訳で、葛城の豪族家(王家と言えるのかも)の歴代の首長の物語でしょう。但し、神功皇后、応神天皇、仁徳天皇の実在や在位年数なども『記紀』を真に受ける訳にはいきません。まだまだこの時代の出来事は神代の時代のようにも見えます。 葛城襲津彦の子孫と天皇家との婚姻の状況 |−−葦田宿禰−−−黒媛 襲津彦−−−−−磐之媛 |−−−市辺押磐王子 |−−−−履中天皇 仁徳天皇 |−住江仲王子 |−反正天皇 |−允恭天皇−−雄略天皇 |−−清寧天皇 襲津彦−−−−−玉田宿禰−−−円−−−−−韓媛 事代主神の子孫と天皇家との婚姻の状況(日本書紀本文) 神武天皇 事代主 |−−−綏靖天皇 |−−五十鈴媛 |−−−安寧天皇 (尾張氏)世襲足媛 玉櫛媛 |−−−−五十鈴依媛 | |−−−孝霊天皇 |−−−懿徳天皇−−孝昭天皇 事代主−−○−−−鴨王−−−−渟名底仲媛 神話のベールのかかった物語でありますが、古代の葛城に力を持った豪族がおり、これが天皇家を丸抱えをしていたように見えます。婿入り婚の時代が事実とすれば、事代主時代が鴨王朝時代、襲津彦時代が葛城王朝と言えるようです。 雄略天皇に葛城氏は滅ぼされるのですが、これには物部氏や大伴氏の軍事力が働いたものと思われます。 葛城氏の枝族に蘇我氏がいましたが、蘇我氏が葛城氏の後裔として葛城の地を浸食し、虎視眈々と権力奪取を狙っているのでした。 |
[841] トシ(古語で米を意味する) わーぷ | 2004/08/12(Thu) 01:18 [Reply] |
大年神の系統 参考:大年神と疱瘡神 大山津見神 | 神活須毘神神大市比賣==+== スサノオ ==============+==== クシナダ ||| 伊怒比賣===+===*大年神==+=天知迦流美豆比賣 宇迦之御魂神 八島士奴美神 *大年神==+===香用比賣 神戸市須磨区 大歳神社(車) 孝徳天皇の大化2年( 646年)の創立といわれ、もとは三木街道の南の地に鎮座していた社殿が 非常に壮大であったので、大堂(おおどう)と言ったのが、なまって今の車大道(くるまおおどう)になったという。 境内末社として夷神社、祇園神社、八幡神社、天満神社、稲荷神社がある。 大歳神社(白川) 一条天皇の長徳元年( 995年)この山村に疫病が大流行したので、須佐之男命を迎えて疫病退散を祈願したといわれるが、 もとは、トシ(古語で米を意味する)の神を祀る社。明治10年に火災があり、三六歌仙扁額などを焼失した。 かつては、毎年陰暦2月卯の日に御弓式、正月16日には南隣の車と同様に「御面溝」と呼ばれる翁舞いがあったが、現在は行われていない。 |
[840] Re[839]: 三歳神 神奈備 | 2004/08/11(Wed) 08:32 [Reply] |
> 御歳神や、高照姫命について、お知りのこと 青草掲示板にふさわしい話を少々 1.『宇佐八幡宮御託宣集』から 八幡大菩薩になるべき神様が「己は誉田天皇広幡八幡麻呂。」と名のって、三歳の幼児の姿で顕現されたとあります。三歳の神かも。 2.神々の解読に特異性のある原田常治著『古代日本正史』(先代旧事本紀を本気で信じたような解読で、神職さんに受けがよさそうな・・)では大年神を饒速日尊と見ています。その娘の御歳神のところに神武天皇が婿入りを行ってこの国の統治権を引き継いだと云うお話です。 など |
[839] 三歳神 葛木御歳神社 [Mail] [Url] | 2004/08/10(Tue) 11:44 [Reply] |
本殿で、讃岐から御歳神と忌部氏の関わりが見えてきて、うれしいことです。 ありがとうございます。 お話の流れに沿っていなくて恐縮ですが、長々書くことをお許しください。 御歳神について、まだわからないことばかりですが、御神名の字にもこだわってみたいと思っています。 葛木御歳神社がいつ頃からこう呼ばれたのかがわからないのが一番の問題ですが、神名の記載についてまとめると、 祈年祭祝詞「御年皇神」、令集解「御年神」、大神分身類社鈔「御年神」 延喜式「葛木御歳神社」、古語拾遺「御歳神」、文徳実録「御歳神」、新抄格勅符抄「御歳神」、先代旧事本記「御歳神」、 三代実録「三歳神」、東大寺文書(大和国目代下知状案1159年)「大三歳神社」、また、平安末期から以降、春日社(興福寺)の勢力下に入るようですが、「興福寺大和国雑役免坪付帳」(1070年)に、春日社領として、「一言主神領、高賀茂社領、下賀茂社領、大三歳社領」とあります。 (誤りがありましたら、教えてください。) 御歳神と御年神と三歳神の三種類の名があります。 「年」は穀物の稔りの意味で、古事記はこれを記しています。 「歳」の旧字は中国夏王朝の、年に一度の収穫の祭り(動物供儀がありそう)を意味する字に「歩」を加えて、収穫から収穫までのめぐりから一年を表す。 以前の神奈備掲示板(6/26) で、かたばみさまがこれについて言及してくださいました。斎部広成は古語拾遺で「そこまで(歳と年の字の違い)考えて異なる儀礼を合体させているとしたら・・脱帽です」と。 正月の年神様は歳徳神と呼ばれます。古事記の御年神が、陰陽道の歳徳神と合体して、御歳神となった可能性も考えられるように思います。歳徳神は櫛稲田姫とも言われているようですが。6/25の青草談話室での神奈備さまの発言にもありました。 もう一つの神名の三歳神ですが、御歳神社の祝職の三歳祝氏からきていると思っていました。 それで問題は無いのですが、ちょっと興味深いものを見つけました。 出雲大社の境外摂社に「三歳社-みとせのやしろ-」がありました。 http://www.izumooyashiro.or.jp/2003c.htm http://www.izumooyashiro.or.jp/(境内→その他→摂末社) 名前の読み方です。葛木御歳神社は「みとしじんじゃ」とHPに載せていますが、 このあたりではずっと「みとせじんじゃ」と呼んでいます。 調査に来られた大学の先生に「〔みとせ〕はこの地方の方言でしょう。ご祭神は〔みとしのかみ〕だから、〔みとしじんじゃ〕の方がいいでしょう。」と言われました。いくつかの本にも〔みとし神社〕とありましたのでそう書き改めました。 遠くはなれた出雲で〔みとせのやしろ〕なら、案外意味が違うのかもと思いました。 (みとせじんじゃで正解かもと。) 三歳で〔みとせ〕なら、一つ二つ三つの意味があるかもと思い巡らしています。 神社名としてのみとせ。 三柱の歳神さま等々。 正月の年神さまは、大年神、御歳神、若年神の三柱をさすとあります。 (若年神については何の知識もないので、どなたか教えていただければ幸いです。) 葛木御歳神社の御祭神は御歳神、大年神、高照姫命です。 出雲の三歳社の御祭神は高比売命、事代主神、御年神です。御祭神にも興味を引かれるところです。 話は全く変わりますが、ついでに考えているところをもう少し。 御歳神に年神様や陰陽道の歳徳神の性格が加わったとして、歳徳神のいる方角があきの方、恵方で、その反対が塞(さい)ですね。一年の初めと終わりが重なるのが、正月。 終わりとしての死と始まりとしての再生を司る。 高照姫命、下照姫命とその夫神もからんで、ある意味似ているような気がしています。 死んだ夫とそっくりな神様が現れるのは、死と再生の意味だと。 似ているといえば、ギリシャ神話のハデス。 冥界の神であり、富の神として、プルトンとも呼ばれます。 五穀豊穣の神様はいなごを放って田を枯れさせることもできるのですね。 白猪・白馬・白鶏を、特別に献じられたのもちょっと納得です。 御歳神や、高照姫命について、お知りのことやお考えをいただければ大変嬉しいです。 大年神さまはまだ、白紙ですので、ボチボチとです。 お読み下さりありがとうございました。 |
[838] 葛城の古代 12 葛城氏の祖、葛城襲津彦 神奈備 | 2004/08/10(Tue) 08:10 [Reply] |
『古事記』孝元天皇記に「建内宿禰の子に葛城の長江の曽都毘古」と出て来ます。実在の人物のように記されているのは、多分『百済記』に沙至比跪と云う人物のお話があり、『日本書紀』では同一人物として紹介されているからでしょう。 葛城の長江の曽都毘古の長江は長柄のことで、姫宮と呼ばれた長柄神社が鎮座する地です。葛城山麓沿いの名柄街道と水越街道が交差する、古来よりの交通の要所に当たります。葛城の雄、曽都毘古の拠点とするのには相応しい立地と言えるのでしょう。 『日本書紀』神功皇后紀五年に、「葛城曽津彦は故在って新羅に渡り、草羅城(さわらのさし)を攻め落として捕虜を連れ還った。捕虜達は、桑原、佐糜、高宮、忍海などの四つの村の漢人らの先祖である。」と記されています。 場所探しですが、桑原は南郷、佐糜は鴨神の南の佐味、高宮は一言主神社の近辺、忍海は新庄町の同名地とするのが有力な説です。 葛城襲津彦はその後も新羅を討つべく派遣されました。この後のことは『百済記』の記事が引用されています。即ち、新羅の美女の誘惑で助けるべき加羅を討ったりして、応神天皇の怒りを蒙り、ひそかに帰国したものの岩穴へ入って死んだとされています。所が『紀』ではまた生き返り、弓月の君を半島から大和へ導くべく派遣されています。 葛城襲津彦は神として祀られています。『平成データ』では5社、その内高知県に2社あります。 多気・坂本神社 高知県安芸郡奈半利町 http://www.genbu.net/data/tosa/takesakamoto_title.htm 葛木男神社 高知県高知市 ここには妃神であろう葛城襲津妃神も合祀されています。http://www.genbu.net/data/tosa/katuragio_title.htm これらの神社は葛木直の末裔が土佐の地で祖神を祀ったものでしょうが、大和葛城から土佐へ流れた神としますと、『続日本紀』に「天平宝字八年(764)十一月七日、再び、高鴨の神を大和国葛上郡に祠った。」との記事があり、この高鴨の神とは、一言主神なのか、アジスキタカヒコネ神なのか、諸説がありますがこの葛城襲津彦の存在も不可思議な神のようです。 葛城の最大の古墳である宮山古墳(室の大墓)は葛城襲津彦の墓ではないかとの説があります。ここには八幡神社が鎮座、祭神を古墳の主とすれば、この神も土佐から戻ってきた神と言えるのかも知れません。 |
[837] 葛城の古代 11 葛城の垂見宿禰と但馬 神奈備 | 2004/08/08(Sun) 09:15 [Reply] |
『古事記』開化天皇記に「開化天皇は葛城の垂見宿禰の女、<<つちへんがない「壇」の右に「鳥」>比売(ワシヒメ)を娶して生みましし御子、建豊波豆羅和気。一柱。」「建豊波豆羅和気王は、道守臣・忍海部造・御名部造・稲羽の忍海部・丹波の竹野別・依網の阿毘古等の祖なり。」との記載があります。 これについて、門脇禎二著『葛城と古代国家』によりますと、建豊波豆羅和気王が祖とされている葛城の忍海部、河内の依網の阿毘古、丹波の竹野別、稲羽の忍海部の諸氏は葛城から日本海側への一つのルートにのっていて、神戸の垂水から加古川沿いに北上、由良川を下って氷上から丹後へつながるルートを想定されています。初期の葛城に拠点を置いた豪族の勢力の動向を示していると云うことです。 稲羽と丹後との間に但馬があります。但馬(タジマ)の地名は葛城の當麻(タギマ)郷として大和盆地に現れます。 但馬に拠点を持つ天之日矛の末裔の清日子(大三元さんはスガヒコと訓したいと云われる。)や多遲麻毛理は大和へ出てきていることになっています。『日本書紀』垂仁天皇八十八年に天日槍が持ってきた宝物を見たいと云うことになって、天日槍の曽孫の清彦が自ら神宝を捧げ献上した。との記事があります。『紀』では清彦の子が田道間守となっており、彼は非時の香美を探す旅に出るのです。清彦以降の日槍の後裔は大和に居住したのでしょう。香芝市の畑、また川西町の糸井神社などが考えられます。 『古事記』では、清日子は當摩之灯縺iタギマノメヒ)を娶り、菅竃由良度美(スガカマユラドミ)をもうけています。當摩之灯縺iタギマノメヒ)は當麻の出でしょう。菅竃由良度美は葛城の高額比賣命の母親。即ち息長帶比賣命の祖母と云うことになります。 葛城の高額比賣命の高額、まさに香芝市の畑に比定されています。日槍の末裔の居住に相応しい所。 タギマ、タジマ、『常陸国風土記』に行方郡に当麻(タギマ)郷が出てきます。道路が凸凹でたぎたぎしかったから、即ち「悪し路」のこと。また『古事記』で倭建命の最後のシーンで、当芸の野に来た時、「吾が足え歩かず、たぎたぎしくなりぬ。」と云われたとあり、びっこをひく、高かったり低かったりとの注釈があります。當麻の道もそのような道だったのかも知れません。 當麻郷は道路の凸凹よりも河内との境と云う交通の便で各地方からの人々と異文化を受け入れて来たのでした。 ワシヒメのワシ http://www.kamnavi.net/en/07wasi.gif |
[836] Re[835]: 南朝の苗裔?明治天皇 神奈備 | 2004/08/06(Fri) 20:53 [Reply] |
マルヤさん 面白い写真の紹介ありがとうございます。 京都で撮影された写真なんでしょうね。 慶応元年2月中旬から3月18日までの間に撮影されたと記していますね。 明治天皇は慶応3年1月に践祚されています。 写真の頃は天皇ではなかったので、この様な会合に顔を出しているのかも。 もし南朝の末裔とすれば、正統に戻ったとも言えますね。 |
[835] 南朝の苗裔?明治天皇 やさか | 2004/08/06(Fri) 09:02 [Reply] |
マルヤです、おはようございます。 神奈備さん、「葛城の古代シリーズ」連載中に割り込みですみません。 驚きの写真を見つけました。 にわかに信じ難いような写真ですが、歴史の闇を垣間見るようで、皆さんにも見ていただきたくて、ちょっとご紹介(既にご存知の方もおられるかも) ●驚きの一枚の写真 http://www3.ocn.ne.jp/~sigikain/meijisyasin.html |
[834] 葛城の古代 10 二上神社、蟹守神社 神奈備 | 2004/08/06(Fri) 08:24 [Reply] |
當麻は當麻物部の拠点、二上神社の祭神に豊布津神の名が見えます。鹿島神宮の武甕槌神のこととされていますが、元々は物部の神だったのでしょう。饒速日神の降りられた哮峯は二上山のこととは蟹守神社宮司さんの説。これは當麻物部の哮峯ということ。余談ですが交野物部の哮峯は磐船神社付近となりましょうか。 蟹守宮司の祭神の「天忍人命」とは『古語拾遺』では、掃守連の遠祖で、箒を作り産屋に近づく蟹を掃ったとあり、現在では産婆の神になっています。 天忍人命は、天村雲命の日向での御子神とされており、當麻が日向とか丹後とつながっていることを示しているようです。対馬の志々伎神社や伊予の高忍日売神社の祭神。http://www.genbu.net/data/iyo/takaosihime_title.htm この高忍日売神ですが、大三元さん流に忍はオシで照の意があるとすれば、高照姫に通じ、鴨の女神と云うこと。 肥前国の媛社神社の棚機神と磐船神を當麻に持ち込んだのは物部氏の仕業かも知れません。 二上山の麓に大坂山口神社が鎮座、穴虫越えの大和と河内の境界の坂を大坂と呼んだようで、後の商都大阪の命名の元になりました。 さて、現在の大阪城はかっての石山本願寺の跡地に建っており、ここにはおおきい石がたくさんあった所のようです。そこに物部氏が東遷してきて拠点をつくりました。磐船神社と云う形で後世に残っていたようですが、天治元年(1124年)に社地を石山より東高津に遷し、高津宮となり、比売古曾神を祀るといいます。 それよりはるか昔に物部系の磐船神社は生駒山系の饒速日山に遷り、更に物部守屋敗退の後に生駒山を降り、その東西に分かれたといいます。東の「下の社」が登弥神社(現長久寺内の伊弉諾神社)、西の「下ノ社」が石切劔箭神社と云われています。 當麻での物部と棚機、この由縁は肥前国の媛社郷にあったのかも知れません。 また、二上神社のもう一柱の祭神は大国御魂神です。大年神の子、長尾市が祭った大和神社の祭神でもあります。御歳神社には大年神の御子の御歳神が祭られており、これも大和神社の祭神。 東西に合わせ祀って大和国中を守っているようにも見えますね。 |
[833] Re[832][831]: 巫女 葛木御歳神社 [Mail] [Url] | 2004/08/06(Fri) 00:47 [Reply] |
神奈備さま、いつもありがとうございます。 > 往古は女性が神祭りをするのが専らだった名残のお話では。 「御所市史」では、貞観の頃まで、男の神主を定置しなかったような書き方だったので、 ちょっと不思議に感じました。 貞観8年の朝廷側の神祇官の拒否については、平林章仁氏著の「三輪山の古代史」では、 御歳神が在地性の強い神であり、奉斎集団から出た専任の神職がすでに存在していた からでは、とあります。ただし、宮司は空位のままだったようです。 実際はどうだったのでしょうね。 >聖なる東西線を云々する際、伊勢神宮の場合には何故か斎宮がキイになります。この場合には真ん中をはずしていない意味でのキイ。 御歳神社は北向きですから、南北の線が東にずれていて、これは以前の神奈備掲示板(6/23)で、福島さまがご指摘の「山の東麓の出水地に農業神」で、いい感じなのですが。 超ローカルな話ですが、葛城山が、壁(山脈)のようではなく稜線の美しい山に見えるのは、 宮山古墳のある室あたりから南、風の森峠までです。「夏至、冬至には、ちょうど葛城山と金剛山の間の一番低いところに太陽が沈む」と、犬の散歩のおじさんに教えてもらいました。 もう少し北では葛城・金剛山が重なって山脈のように見えます。(余談です) |
[832] Re[831]: 巫女 神奈備 | 2004/08/05(Thu) 22:09 [Reply] |
「御所市史」和田萃さんかな。 > 男の神主を定置しなかった純粋な古俗 神武東征譚のなかに、道臣命に高皇産霊尊を祭るのに、道臣を斎主として、女性らしく厳姫と名付けようとあります。 往古は女性が神祭りをするのが専らだった名残のお話では。 > 社殿は山の中央を避けて建てられている 社殿の真後ろが頂上ではない、と云う意味でしょうか。 大神神社もそうですね。 聖なる東西線を云々する際、伊勢神宮の場合には何故か斎宮がキイになります。この場合には真ん中をはずしていない意味でのキイ。 何かの都合があるのかも。もしくは御都合主義か? |
[831] 巫女 葛木御歳神社 [Mail] [Url] | 2004/08/05(Thu) 15:35 [Reply] |
いつも素人が書き込んですみません。 ちょっと気になっていることがあり、〔830〕のリンクの棚機神社の記述「水辺で神衣を織りながら神の来訪を待ち、神妻となる巫女の神格化されたもの」を見て書かせていただきます。 御歳神社も御歳神とともに高照姫命をお祀りしていますが、「御所市史」の記述によくわからないところがありました。葛木御歳神社の記述P855ですが、原文を以下に書きます。 「神社は東持田の御年山の北麓にある。山は三角形の山で、もと御神体山であったらしい。社殿は山の中央を避けて建てられているのは、巫女の奉仕した斎の宮から発達したものと思われる。貞観8年2月13日神祇官の奏言に、「大和国三歳神に元は神主が無かったので、新に置いたところ祟があった。それですぐにとりやめた。」とある。これは右(上記)のことを傍証し、男の神主を定置しなかった純粋な古俗を伝えるものである。」 とあります。何分無知ですので、そんなことがあるのかという感じなのですが、「純粋な古俗」として、このような例はあちこちに見られるものなのか(あるいは高照姫命周辺のことなのか)、時代的にはいつ頃のことなのか、また、「山の中央を避けて建てられている」ことでこれが判断できるものなのかなど、お知りのことを教えていただければ幸いです。 尚、御歳神社は水害を避けるために何度も奉幣されたともあり、水を掌る性格もお持ちのように感じています。 |
[830] 葛城の古代 9 倭文神 神奈備 | 2004/08/05(Thu) 07:49 [Reply] |
葛城に倭文氏が居住していたのは、葛木倭文坐天羽雷命神社が鎮座していることが唯一の頼りになる証拠。當麻郷では織物業の遺跡は見つかっていないようですが、地名に染野(昔の高額郷?)、香芝市の畑など、それらしく思えるものが残っています。 延喜式神名帳での葛城の倭文神は天羽雷命神ですが、その元社とされる博西神社の祭神は下照比売命、さらにその元社は、當麻町太田の棚機神社です。http://www.kamnavi.net/as/katuragi/tanabata.htm ここ葛城では前に述べた棚機の神と倭文神とは同じ神であり、それはおそらくは高比売(下照比売)のことでしょう。何故なら、弟棚機の歌を歌った姫だから。 『日本書紀』の天孫降臨に先立ってのお話に、「経津主神・武甕槌神の二神は邪神や草木・石に至るまで皆平げられた。従わないのは、星の星の神香香背男だけとなった。そこで建葉槌命を遣わして服させた。」とあり、常陸国には大甕倭文神社が鎮座、天津甕星神の魂を封じたとする宿魂石の上に倭文神が鎮座しています。http://www.kamnavi.net/en/higasi/oomika.htm この場合の倭文神は武葉槌神で、経津主神・武甕槌神の両武神の戦いとは異質な戦いの神であったのでしょう。織物合戦と見れば天津甕星神は天御梶日女命の楮の織物、これに対する絹の倭文織、伊勢神宮で見るように神を祭るのには絹の倭文織りの方がいいと云う物語かもしれません。 象徴が大きくなる、天甕星神の化身である磐がどんどん大きくなる、それを蹴っ飛ばされる、何となく倭文神は天宇豆女の神、亦はシースルーの衣通姫のようだったとか、色仕掛けの物語を連想しますね。 『古語拾遺』では、天羽槌雄神と天棚機姫神とはペアで出てきます。(岩波文庫p19)。 殆ど根拠のない青草話を続けていますが、ついでに比売碁曾神が天の日矛神からせしめたのかもしれない羽太玉、これが織物の祖のような忌部氏の祖神名に出てきます。この太玉とは何でしょうね。 |
[829] Re[827][826][823]: 葛城の古代 6 難波の比売碁曾神社 黒田 | 2004/08/03(Tue) 15:16 [Reply] |
神奈備様、お返事、有難うございました。 「三国遺事」は、読んだことが無かったので、感銘を受けております。 『アカルヒメと天日矛が、「ハナマトゥリ」というフェスティバルのパンフレットの 表紙を飾った。』(2002.9.30 の記事) と、あったので、見てみたかったなーと思い ました。 |
[828] 葛城の古代 8 本牟智和気御子 神奈備 | 2004/08/03(Tue) 08:50 [Reply] |
今回はちょっと脇道にそれたお話。
前回の『尾張国風土記:逸文』の多久の女神の天甕津媛命は「自分をよく祭れば皇子はよく物を言い」と予言しています。この皇子とは垂仁天皇の皇子の品津別の皇子のことです。『尾張国風土記』では七歳になっても口をきくことや語ることが出来なかったとあります。 『古事記』では、本牟智和気御子と書き、垂仁天皇が開化天皇の皇女の佐波遅比売を娶って、比売の兄の沙本毘古の裏切りで立てこもった稲置の中で生まれた皇子を、恐らくは当麻の蹴速と思われる力士が炎の中から救い出しています。 その皇子は、尾張の相津の木で作った二俣小舟に乗せられて遊んだりしていますが、八拳鬚心前になるまで物を言うことが出来ずとあり、これは出雲の大神の祟りと云うことが判り、大神の宮を拝むために出雲へおもむきました。物が言えるようになり、肥長比売と一宿婚い、比売が蛇体だったのでびっくり山へ逃げ上がっています。 『日本書紀』では、誉津別命は30歳になっても赤児のように泣いてばかりいるとあります。まるで素盞嗚尊のようです。 『和名抄』大和国葛下郡に品治(保無智)郷と云う地名が載っています。現在の王寺町といいます。品遅部が置かれたと云うことでしょう。 で、この皇子、その先のことはどうなったのでしょうか。その行方は歴史の中に消えてしまっているのでしょうか。 本牟智和気御子の姿には、炎の中からの誕生、若年期の物忌み、蛇比売との婚姻など、始祖王の雰囲気がありありです。このまま消えてしまうのは惜しい。どこに現れたのでしょうか。 『出雲国風土記』神門郡高岸郷と仁多郡三處郷に「大神大穴持命の御子、阿遅須伎高日子命、御須髪八握に生ふるまで、晝夜哭き坐して云々」と出てきます。『出雲国風土記』には、本牟智和気御子のことは出てきません。同じ症状が、何と本牟智和気御子に祟っていた出雲の大神の御子に出ているのです。いや、この時の出雲の大神とは素盞嗚尊のことかも知れません。しかしその素盞嗚尊も泣いてばかりだったのです。 神々の世界は時代を超えて混然とした物語を成しています。これは出雲と葛城・當麻との交流をも示すものでしょう。 『出雲国風土記』の阿遅須伎高日子命のお話は、葛城の迦毛の大御神の名前と、當麻の本牟智和気御子の物語が出雲に持ち込まれたと云うことではないでしょうか。 当麻の蹴速を破った野見宿禰の末裔の出雲臣の一族が持ち込んだのかも知れません。 |
[827] Re[826][823]: 葛城の古代 6 難波の比売碁曾神社 神奈備 | 2004/08/02(Mon) 21:38 [Reply] |
その頃とは記紀の編纂した頃でしょうね。 『三国遺事』から 新羅の東の海の浜に延烏郎・細烏女と言う夫婦がいた。延烏郎が海辺で藻を取っていると大岩が彼を日本に運んだ。日本の人々は彼を王にたてた。妻の細烏女をも大岩が彼女を背負って日本に運んだ。細烏女は王女となった。所がこの夫婦は太陽と月の精であったので、新羅は日月の光を失うことになった。新羅王は使者を遣わして二人を呼び戻そうとすた。しかし延烏郎は肯首しなかったので、使者は細烏女の織った絹を日本から持ち帰って天を祀った所、日月は旧に復した。祭天の所を迎日県または都祁野と称した。 このように日本は日の出ずる国だったようですね。 |
[826] Re[823]: 葛城の古代 6 難波の比売碁曾神社 金平糖(黒田) | 2004/08/02(Mon) 20:35 [Reply] |
いつも、大変楽しく拝見しております。改めて宜しくお願い致します。 アカルヒメが、「凡そ吾は汝の妻と為るべき女に非ず。吾が祖の国に行かむ。」と言ったことについてですが、日の光が射して宿った赤玉から生まれたアカルヒメが、“祖の国”と、日本のことを言っているのは、その頃から、“日の本”という概念が、日本に対してあったと、いうことなのでしょうか?とても印象的なアカルヒメの言葉でしたので、質問させていただきました。 |
[825] 葛城の古代 7 弟棚機 神奈備 | 2004/08/02(Mon) 15:00 [Reply] |
『古事記』には、阿治志貴高日子根神が死人に間違えられて、忿りて飛び去った時、そのいろ妹高比売命(下照比売の別名)、その御名を顕わそうと思ひ、歌いました。 天なるや 弟棚機の 項がせる 玉の御統 御統に 穴玉はや み谷 二渡らす阿治志貴 高日子根の神そ 天の世界の若い織姫の首に懸けている珠の飾り、その大きい珠のような方、谷二つ一度にお渡りになる、阿治志貴高日子根の神です。 若い織り姫の弟棚機とは、阿加流比売神なのか、高比売命(下照比売)のことなのか、『出雲国風土記』楯縫の郡の條で、阿遅須枳高日子命の妃とされている天御梶日女命のことなのかも。ここに無関係な織り姫が登場するとは思われませんので。 阿加流比売神 この女神、天の日矛から逃げた女房。日矛の神宝の羽太玉を持っていたのかも。それが首に懸けている玉の御統のことか。具体的に珠のこととつながるのは『古事記』では赤い玉から、『日本書紀』では白い玉の変化した阿加流比売神。 高比売命(下照比売) 高らかにその名をたたえられた阿治志貴高日子根神の妹神、ここ葛城で下照比売は奉斉されています。姫の宮と呼ばれた長柄神社、また高鴨神社四座の一座、大倉神社など、その可能性は高いのです。 天御梶日女命 『出雲国風土記』楯縫郷の條では「阿遅須枳高日子命の妃の天御梶日女命が、多久の村までおいでになり、多伎都比古命を産み給ふた。」とあります。妃神のこの「梶」は木綿(ゆふ)の原料である楮のことと、『古語拾遺』にあると、平林章仁著『七夕と相撲の古代史』にあります。妃神も織物の神と言えます。多久の神は葛城では石園坐多久虫玉神社二座が著名でしょう。 この神に関しては『尾張風土記逸文』に面白い話があります。 私は多具の国の神、名を阿麻乃弥加都比女というのだ。私はまだ祭ってくれる祝をもっていない。もし私のために祭る人を宛てがってくれるならば、皇子はよく物を言い、また御寿命も長くなるようになる。」といった。帝は、この神が誰で、どこにいるのかを探しだすべき人を占わせると、日置部らの祖建岡君がその占いに合った。そこで神をたずねさせた。その時建岡君は美濃の国の花鹿の山に到り、榊の枝を折とって縵に造り、祈誓して「私のこの縵が落ちるところに必ずこの神がいらっしゃるだろう」といったところが、縵はとび去ってここに落ちた。そこに祀られた神が天甕津媛命。 阿豆良神社 http://www.kamnavi.net/en/mikawa/atura.htm |
[824] 犀龍小太郎 言蛇 [Mail] | 2004/08/02(Mon) 02:37 [Reply] |
少し前に松本平が湖沼だった頃の書き込みがありましたが、それにまつわる新作能が 8月18日に明科で公演されます。子・母・父が睦みあう物語、最近の漫画雑誌と比 べると心落ち着く内容で楽しみです。神話の更新がうまくいっているところだと、子 育てもうまく行きそうになってくるから不思議です。 >大胆な仮説で構成されていました そのほかにも地雷が多いルートなので事前準備として名古屋在住の風琳堂様(*1)に神 奈備さまの五十猛命をお借りしています。反応は芳しくないですが、起源が古くても 現代において良くない風習は改めるべきなので(*2)気長に言祝ぎ続けます。瀬織津姫 が早池峰山にいた時の方が雁歌さんの絵は綺麗なので・・・ (*1)http://www5.ocn.ne.jp/~furindo/index.html (*2)結婚・子育てのない水商売物語の行き先はコンビニの雑誌コーナーで明白に確認で きます(汗 |
[823] 葛城の古代 6 難波の比売碁曾神社 神奈備 | 2004/08/01(Sun) 12:17 [Reply] |
本殿は煩雑故、また青草がボウボウとなっていますので、以降はこちらに書き込みます。 珂是古とは物部阿遅古のことで、宗像神を祭った水沼君の祖のこと。先の小郡市の媛社神社には棚機神社、磐船神社の扁額がかかっており、媛社神を棚機神と見ていることになります。 http://www3.osk.3web.ne.jp/~fpress/kaze/kaze003.html タナバタ、日本の棚機、大陸の七夕、本来違うものだったものが習合したものであるとか諸説あるようです。伝承の発生や伝達の時が早いのか遅いのかの程度の差で、タナバタの言葉から見て元々は同じものだったのでしょう。 タナバタ伝承、これは織布技術が織姫(織工女)とともに渡来してきたということ。 もう一つの磐船神社の名、これは物部阿遅古が祖神を祭ったのでしょう。祭神は饒速日尊。 こうして見ますと、肥前の媛社神社の神は宗像神の御子神と言えます。ここに下照姫の事が思い起こされます。ヒメコソと云えば、摂津国東生郡(鶴橋)に比売許曽神社が鎮座、この社の近くにも磐船伝承が残っており、肥前国とのつながりを示しているようです。 『古事記』応神記に「天の日矛の渡来譚と難波の比売碁曾神社の話があり、阿加流比売神が坐ます。」とあります。阿加流比売神は摂津国住吉郡(平野区)の赤留比売命神社に祀られており、下照比売神と阿加流比売神とは復層気味。この女神達、織姫でもあり、太陽の女神でもあり、天照大御神にも似ている所があります。 |