青草談話室ログ平十七年 六月
多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。湯嶽神・菊嶽神の集い。
素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!
 青草談話室

[1309] 伊勢参宮名所図絵  玄松子 2005/06/30(Thu) 22:03 [Reply]
寛政9年(1797)の『伊勢参宮名所図絵』より。
http://ambitious.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/kyuki.cgi?magoid=0A032000020005000&page=6
これは見難い。

http://ambitious.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/kyuki.cgi?magoid=0A032000020005000&page=17
これならわかる。


それから、熱田の一の鳥居(浜鳥居)は江戸時代丹塗りだったと、『鳥居の研究』に書かれています。

[1308] Re[1306][1303][1302][1300][1299][1295][1290]: 心御柱と御樋代  玄松子 2005/06/30(Thu) 21:31 [Reply]
> 3代広重には大名行列?に随伴と見える東海道五十三次がありますから、現物を見ている可能性が高いと思います。

東海道五十三次では伊勢に寄らないので、大名行列に随伴ならば、なおのこと見ていない可能性の方が高いと思うが、あくまでも推測でしかない。

先の錦絵の場合、鳥居以外の部分がさほど写実とは言えないのではないかと思われるが、鳥居のみが写実であると推定するのも個人的主観じゃなかろうか。

> 明治6年の熱田の鳥居は現在知られる伊勢型になっています。

熱田がオリジナルなら、なぜ、熱田型とは言わないのだろうか。
熱田も桑名も伊勢湾沿岸の文化圏。伊勢がオリジナルで伝播したと見る方が自然でしょう。(これも個人的主観)ちなみに現在の熱田も伊勢型。

主観の連打は検証とは言わないだろうし、絵画に興味も知識もないので(多分)これで終了。

[1307] 熱田の鳥居  かたばみ [Mail] [Url] 2005/06/30(Thu) 20:46 [Reply]

熱田は東海道五十三次なので、鳥居の浮世絵が少なからずあります。
下図は初代広重(歌川広重)の浮世絵、現物をみておらずなにかを参考に書いていたとしても、流れはみえそうです。
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/torii_atuta_hiroshige.jpg

最初の1831は馬の塔神事を描いていますが、鳥居までは考え及ばずでそこらへんのと同じと思っていたんじゃないかな(^^;
次のはなんらかの情報を得て書いたのだと思いますが、貫は角材にみえる。
1841以降ではより正確な情報を得て書いているのではないか。
赤く塗ってるのもある・・ひょっとしたらひょっとするけれど・・信じるか否か(^^;

明治6年の熱田の鳥居は現在知られる伊勢型になっています。
以下の28・宮の写真をどうぞ。
http://www.geocities.jp/web_ukiyoe/index.html
次の29・桑名でも伊勢型があります。渡しでつながっている熱田と桑名の港に同じ鳥居・・
伊勢は明治2年に遷宮が行われている・・さあて。

余談
以下で「伊勢」「1868〜1868」(遷宮の前年)で検索すると内宮と外宮の写真があります。
http://photobank.mainichi.co.jp/
これなら床下に牛がはいりこむこともありそう(^^;


[1306] Re[1303][1302][1300][1299][1295][1290]: 心御柱と御樋代  かたばみ [Mail] [Url] 2005/06/30(Thu) 20:43 [Reply]
≫まず、先にあげた錦絵の検証をお願いしたい

先の宇治橋の鳥居は応需広重(3代広重)の伊勢名勝宇治橋図(明治2年)の部分。
3代広重には大名行列?に随伴と見える東海道五十三次がありますから、現物を見ている可能性が高いと思います。

[1305] Re[1304][1298][1297]: 有識者求む  神奈備 2005/06/30(Thu) 18:01 [Reply]
 恋川亭さん、お詳しいお話、ありがとうございます。
 昔、禁足地の近くの池の横で祝詞をあげた人がいました。忽ちにして雨が降り出して、ぐっしょりと濡れたそうですが、少し離れると全然濡れていなかったと言う局所的な雨だったようです。水垢離をとっていた水がかかったのではなどと冷やかしたことを思い出しました。

[1304] Re[1298][1297]: 有識者求む  恋川亭 2005/06/29(Wed) 23:45 [Reply]
>  その辺りに水垢離をとる場所がありますが、そのことでしょうか。いずれにしろ、石上神宮の神職さんにお聞き下さい。

 すみません、都合でちょっとPCが覗けませんでしたので間があきました。石上神宮の禊場の話題が出ていましたね。詳しくは当神宮のご神職にお尋ね頂くことが本筋ですが、変な誤解&期待が広がるのも問題です。
 私は石上神宮の関係者ではありませんが(もちろん有識者でもありませんが)、当神宮のファンとして(第三者の立場でもって)横から一言、投稿させていただきます。

 石上神宮の拝殿のある境内から楼門を出て、東側を行くとイチイガシの巨樹がありますね。
 そこから道なりに進みますと右手に、石の門柱が立っていまして縄を渡してあります。門柱からは細い道が社叢の奥に向っています。この門の縄には垂(シデ)と立入禁止の札が下がっています。

 ここでの立入禁止は、スタッフ・オンリーつまり神社関係者(ご神職)以外は進入禁止という意味です。
 よく誤解されるのですが、禁足地ではありません。特別な用途の施設であることと、管理責任上の問題で、一般の方はお断り、となっています。

 ここには、禊場と末社祓戸神社があります。もともとの禊は布留川で行なっていたそうですが、水質の悪化が進んだために、昭和46年から今の場所で貯水槽を改修し禊場として行なわれてきました。
 ここは、布留山から流れてくる小川があり、高庭横の池に注いでいます。

 この禊場も老朽化が進んできていましたので、昨年(平成16年)に改修拡張の整備工事が行なわれ、ちょうど1年前の6月23日に竣工されました。
 以前の禊場をご存知の方ならば、ワァオ!と声をあげたくなるような、広々として、またとても綺麗になっています。30人くらいが一度に禊行法が行なえる広さの、まさにプールです。
 祓戸神社も立派な基礎と瑞垣に囲まれまして、思わずイェイ!と声がでます。
〔この奇声は、あくまでも以前を知っている方のみ限定ですが(笑)〕

 禊場は普段は水を入れていませんし、一般者が禊を行なうことはできません。
 昭和29年に神社本庁からの要請で実現された「神道行法錬成研修会」の専属道場です。これは現任のご神職の方々の研修ですので、一般公開は行なっていません。それゆえの「立入禁止」です。
 この一文を見たからといって、神宮に研修会参加を強要しないで下さいね。例えば、公立学校の教師の特別研修に、外部者である私塾の先生が参加できないのと同様ですから。

 部外者の私がなぜ知っているかって?
境内回廊の隅に置いてある神宮報「石上」のバックナンバーに紹介されています。第29号に詳しく記述。
 また、第30号は、新しい禊場での禊行法の様子が表紙です。色白ぽっちゃり(でも巨漢)の宮司様を先頭に、フンドシとハチマキで斎行されています。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 禊場への細道の両側は、今頃はドクダミ草の白い花が満開のことと思います。とても静かで落ちつける小道です。
 ここ布留山の「石上神宮社叢」は奈良県指定天然記念物となっていて、動植物や環境の厳重な保護がされています。研究機関によって貴重種の育成も行なわれています。このような観点からも、禊場や他のルートからの布留山への進入は遠慮していただくと幸いです。
 優しくて怖がりのヘビを見かけても、「あら、巳さん、どこいくの」と自然への寛容な心を涵養してください。
 布留の山に豊な自然と共におはします神さまは、いつも優しい笑みで暖かく向えてくださいまっせ。

[1303] Re[1302][1300][1299][1295][1290]: 心御柱と御樋代  玄松子 2005/06/29(Wed) 11:12 [Reply]
> 絵が正確かどうかもありそう。

これは、どの絵にも言えること。
興味があるのなら、まず、先にあげた錦絵の検証をお願いしたい。

[1302] Re[1300][1299][1295][1290]: 心御柱と御樋代  かたばみ [Mail] [Url] 2005/06/28(Tue) 20:36 [Reply]

その絵が何代目の安藤広重の絵なのかがまずありそうですね。
初代(歌川広重)は1797-1858、3代目が明治維新前後、4代目は大正14年没のようです。

明治初期の錦絵に熱田の鳥居があります。
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/torii_atuta.jpg
こっちの方が本家かいな??(^^;

同じ時代のデータ(絵)であるなら、いろいろな形式が混在していた可能性もありそう。
絵が正確かどうかもありそう。

初代安藤広重の京都三条大橋の絵があります。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~tomozuri/cover-53tsugi11.html
他にも現物をみていないと思われる絵もあり、安藤広重は京都へはいっていないとされています。

江戸名所図絵には伊勢系の社の絵がいくつかありますが、絵が小さくもあって伊勢型と確認できるものはありません。
ちなみに都名所図絵では記載される神社が少なく記述も簡素、この時代の京都での神社に対する意識が現れているのかなあ。


[1301] Re[1299][1295][1290]: 心御柱と御樋代  神奈備 2005/06/28(Tue) 10:50 [Reply]
> ≫すぐにあったのが飛鳥坐神社で、これが元伊勢とは、今もわからない謎です

飛鳥坐神社が元伊勢と称されるのは近世のことで、飛鳥大神宮とも呼ばれていたと『式内社調査報告』にあります。近世とは戦国時代から大正時代のこと。

玄松子さんの飛鳥坐神社
http://www.genbu.net/data/yamato/asuka_title.htm
には、「当社地を、天照大神の旧地、大和笠縫邑とする伝承があり、近世では、「元伊勢」とも称していた。」と紹介されています。
 
 要するに、祀られている女神が、飛鳥神奈備三日女神(賀夜奈流美乃御魂)、高照光姫命、下照姫命などとされており、多分それらは天照大神と同一神と見なされたことがあったのでしょう。
 現在も奥宮は、天照大神と豊受大神が祭神です。

[1300] Re[1299][1295][1290]: 心御柱と御樋代  玄松子 2005/06/28(Tue) 08:24 [Reply]
> 伊勢の宇治橋の鳥居の錦絵を発見(明治初期、東京大学所蔵)。
> http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/torii_ise.jpg
> あららっ・・どうみても丸太の端部を斜めに切っただけじゃないか。
> 伊勢型ってのは明治以降に登場した形式なのかもしれない(^^;

http://www.isejingu.or.jp/isemairi/95b.htm
広重による伊勢参宮図。丸太でないことは明白。

[1299] Re[1295][1290]: 心御柱と御樋代  かたばみ [Mail] [Url] 2005/06/27(Mon) 23:29 [Reply]

≫すぐにあったのが飛鳥坐神社で、これが元伊勢とは、今もわからない謎です

現在見える事象が歴史としてどこまで遡れるのか、個別確認しておかないと無数の落とし穴があるかもですね。
東京では明治以降に変化したとみえる社が少なからずで、明治以前ではどうだったかが必須。
明治以前での変化は神仏習合と現世御利益系の混入に絞れそうですけれど。
近畿ではもっと古くからより複雑な経緯が生じていそうですね。

伊勢の宇治橋の鳥居の錦絵を発見(明治初期、東京大学所蔵)。
http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/torii_ise.jpg
あららっ・・どうみても丸太の端部を斜めに切っただけじゃないか。
伊勢型ってのは明治以降に登場した形式なのかもしれない(^^;


[1298] Re[1297]: 有識者求む  神奈備 2005/06/26(Sun) 11:34 [Reply]
 その辺りに水垢離をとる場所がありますが、そのことでしょうか。いずれにしろ、石上神宮の神職さんにお聞き下さい。

[1297] 有識者求む  おはしまっせ 2005/06/26(Sun) 02:53 [Reply]
 石上神宮には有名な矩形の禁足地・通称「高庭」がありますが、そこからさら
に東側に100mくらいいくとまたもや石の鳥居と注連縄によって立ち入りが不
可能な領域があります。先日訪れた際、急に曇りだして雷鳴がなり、風もザワザ
ワとふきだした中でその鳥居を小さな蛇がシュルシュルッと奥にきえていきまし
た(本当に)。寒気がしたこの東の領域についての知恵がある方教えてください。
調べた限りではみつからないのです。


[1296] 椿のメモ  神奈備 2005/06/25(Sat) 20:50 [Reply]
 福井県の三方五湖の鳥浜貝塚から椿の木で造った石斧の柄が19本も出土しているそうな。堅いのだ。他に櫛が出ている。赤いウルシで塗られている。
 万葉集一二の三一〇一
 紫は灰さすものぞ海石榴市の八十の街に逢へる児や誰
 ムラサキの根を使って紫色に染める際、椿の灰が媒染剤だったと言う。深紫は冠位で第一の服色で、椿の価値は高いものであった。
 散華は仏教で古来から受け入れられてきた椿の花を供花とする例はインドやスリランカでは多いようだ。壱岐では椿の花を春の彼岸に備えた。

[1295] Re[1290]: 心御柱と御樋代  神奈備 2005/06/22(Wed) 17:52 [Reply]
 この前、飛鳥をうろついていましたら、丁度飛鳥坐神社の西側に出ました。古い石の道標があり「すぐ元伊勢→」と彫ってありました。すぐにあったのが飛鳥坐神社で、これが元伊勢とは、今もわからない謎です。

> ホケノ山では
 ここの古墳から出た画文帯神獣鏡と全く同じ(同笵鏡)を高鴨神社で目撃しました。大神神社にもあるようなので、どうやら共通項としての大田田根子の古墳ではなかろうか、と。

[1294] 石の余談 5 最終  神奈備 2005/06/21(Tue) 17:46 [Reply]
 有馬皇子の反乱の戦略はもろくも崩れたのであるが、それは本質的には彼はボッチャンだったことにつきるのであるが、以下、その戦略を想定して見よう。

 『斉明紀』或本。「先ず、宮を燔き、五百人を以て、一日両夜、牟婁津を邀へて、疾く船師を以て淡路国を断らむ。牢圄なる如くならしめば、其の事成し易けむ。」とある。
 軍略とは、淡路島からの援軍を遮断、田辺湾北側を封鎖、が主である。この五百人は難波からの兵と言うよりは、熊野本宮辺りの有馬皇子に縁の兵であろうし、淡路島との連携を断つのも熊野水軍であったと思われる。飛鳥の宮を焼くことは、都に混乱を招くことでもあったのだろうが、謀反挙兵の合図であったと考えられる。各地には二日程度で連絡出来たのであろう。

 所が、蘇我赤兄あたりにうっかりと謀反の意志を伝えることで、まんまと失敗に終わる。白浜に連行されると言うよりは、斉明天皇、中大兄皇子らは急遽引き返して来る。藤代坂で落ち合い、有馬皇子以下を絞殺するのである。藤代は熊野への入り口と見なされていたのではなかろうか。後に鳥居が出来、これより南は熊野の神々の領域となる。その萌芽があったのかも知れない。

 万葉集は、有間皇子の歌を二首載せている。
家にあればけ笥に盛るいい飯を草枕旅にしあればしい椎の葉に盛る
(家にいたならば、茶碗に盛るご飯であるが、旅の途中であるので、椎の葉に盛る)

磐代の浜松が枝を引き結び、まさきくあらばまた帰り見む
(海岸の松の枝に願い事を書いた紙を結び、運が良ければ帰りに見ることができよう)

これらの歌は捕まって連行される間に歌ったとされているが、そうではあるまい。囚人が祭りをしながら連行される、というほど牧歌的な状況ではなかったのではと思う。

[1293] 石の余談 4  神奈備 2005/06/20(Mon) 20:15 [Reply]
 花窟神社に縁の産田神社と熊野本宮大社では、同じ巫女舞が伝承されていたと

いうが、これはどうやら、有馬から本宮に祭祀が伝わっているとのこと、即ち有

馬一族の拠点が本宮にもあったと想定される。

 伊勢・志摩(二見浦)、熊野有馬(花窟)、熊野神邑(神倉)、熊野本宮(船

玉社)と磐のネットワークでつながっているが、斉明〜持統朝の頃は、未だ大和

の王権から見ていると、油断のならない海人の連中であったようだ。それゆえ、

神武さんを熊野経由にしたり、高倉下を称えたり、持統さんがわざわざ伊勢まで

行ったり、サービスに努めているようだ。

[1292] 石の余談 3  神奈備 2005/06/19(Sun) 20:52 [Reply]
 さて、話は熊野の有馬に跳ぶ。『日本書紀』伊弉册尊、紀伊国の熊野の有馬村に祭る。これは産霊信仰ではなく仏教の影響で原初修験道の影響の台詞。もともと、花窟神社の伝承として、「土俗、此の神の魂を祭るには、花の時には亦、花を以て祭る。又、鼓、吹、幡旗を用て歌ひ舞ふて祭る。」とあるのは地域の産霊信仰であったはず。伊弉册尊は持ち込まれたお話で、地域の氏神のお話。

 有馬については、出雲からの移動の伝承が残っている。「渡来人が出雲から入りこみ、出雲の炭焼きを業とする集団で、縄文晩期に大挙して紀伊に移住した。」という伝承である。また、「朝鮮半島から出雲東部に渡来した有馬氏がスサノオ信仰を持ち、これを紀伊に伝えた。」とも言われてる。
 また、和歌山県御坊市熊野(いや)に鎮座する熊野神社(いや)の由緒書きに、「往古出雲民族が紀伊に植民する際にその祖神の分霊を出雲の熊野より紀伊の新熊野に勧請する途中、『当社に熊野神が一時留まりませる』ということが当神社の由緒になっている。」とある。百済辺りからの渡来人の入植には上記のような伝承で語ったのであろう。

[1291] 石の余談 2  神奈備 2005/06/18(Sat) 22:27 [Reply]
 飛鳥川を利用できれば、少しは楽だったのかも知れないが、水量がすくなく、

とても石を乗せた船を通すどころではなかった。現に川底に石を置いて渡れてい

たようだ。しかし狂心の渠の上流として飛鳥川の支流から水を取ったのだろう。
 このようにして、飛鳥は石と水の都であった。

 有間皇子の謀反事件は、斉明天皇や中大兄皇子が牟呂の湯に行幸中に蘇我赤兄

が有間皇子にそそのかすのであるが、その理由に「長く渠を穿りて、公粮を損し

費すこと」「舟に石を載みて、運び積みて丘にすること」をあげている。有間皇

子としては父の孝徳天皇が捨て置かれての憤死を見ており、復讐かたがた皇位を

奪おうとの思いがあったはず。

 孝徳天皇の幼名は軽皇子、これは加羅の皇子、母は百済系の阿倍倉梯麻呂の娘

の小足媛、その間に出来たのが有間皇子、閼丸(光の皇子、安羅)であって、彼

らは今来の有力な皇位継承者の氏族であったのだろう。

[1290] 心御柱と御樋代  かたばみ [Mail] [Url] 2005/06/17(Fri) 21:22 [Reply]

平安末期〜鎌倉時代の心御柱の記録によると、周りを包む榊を牛が食べてしまったとか(2度ある)、包んでいる布をネズミがかじったとか、立てる位置が違っていたとか(^^; 傾いてしまったなど事故がいろいろあったようです。
牛が食べたってことは、本殿の床下まで牛が入れたってことで、おおらかだったとみえます。

御神体を納める箱の御樋代は、その呼称から丸太をくりぬいた樋状の箱と思われます。
だとすれば、弥生時代から存在する割竹型木棺(くり抜き式木棺)と同じ。
古くは弥生中期福岡の平原遺跡、近畿では奈良県桜井市のホケノ山や黒塚など前方後円墳の初期型とみられる古墳にあります。
(関東では500年代でも使われる)

黒塚ではHgS水銀朱の散布がみえます(三角縁神獣鏡がでていますから出雲系の墓ではないと思われる)。
http://www.bell.jp/pancho/travel/yamanobe/kurotuka.htm
類似形かつ近隣のホケノ山では三角縁神獣鏡はでておらずもっと古い形式の鏡が出土。
これらは三角縁神獣鏡登場前後の微妙な時期の古墳群かもしれない。

熱田神宮の草薙の剣を納める箱が、楠木をくりぬいて黄金を延べ敷いてその上に御神体が鎮座、という玉籤集にある記事が正しいなら、御樋代に類似の箱とみえて興味深いところです。
この箱はもう一つの箱に入れられていて、そこには「赤土」がつめられていたそうで、ひょっとすると赤土とみえたのはHgS??

弥生時代に遡る「箱」、伊勢と熱田は弥生の「大事なものを納める箱」の形式を継承しているのではなかろうか。
ひょっとして・・御樋代でHgSが使われるかもかも・・秘密だろうなあ(^^;

それを御船代に納める、これは舟形埴輪につながるものかもしれない。


[1289] Re[1288][1284][1283][1270][1269][1258]: 木の話 雑感7  かたばみ [Mail] [Url] 2005/06/17(Fri) 21:18 [Reply]

前回の遷宮の各種神事の日付がありました。
http://www.isesyoyu.co.jp/jinguu/senguu/

木本祭が5月3日(これが心御柱の伐採なんですね)。
御杣始祭が6月3日。
これが先の2本の木で、御神体を納める御樋代(みひしろ)を作る材。
御樋代を納めるのが御船代だそうですが、どちらも現物がいかなるものかの情報みえず。

御船代祭が9月17日で、これがその他の伐採の開始ではないかな、翌年の4月12日の御木曳始式の後、7年ほど材を寝かせてから建築開始とみえます。
すべての材の伐採は数年がかりじゃないかな。

やはり、神木は木の生命力最大の季節の材を使い、その他は一般的な伐採期間での伐採と私はみておきます。


[1288] Re[1284][1283][1270][1269][1258]: 木の話 雑感7  素人 2005/06/16(Thu) 23:22 [Reply]
> > 伊勢遷宮用の伐採は6月です・・なぜでしょうか。
>
> 鋭い。
> 約1万本の材木が要るのだそうです。
> このため、水中貯木をして遷宮に備えるようです。
素人が書くのも何なんですが、思いつきですが山出しを現在は索道を設置して林道に下ろしてトラックで運びますが、これら機材の無いころは手作業と水力に頼ったと思われます。谷までは丸太で滑り台状の木道を作り木材を滑らせて落とし、谷からは豪雨期に流すか、簡易なダムを作りこれに貯水して一気に切って本流付近まで流したと思われます。ここで筏を組んで目的地に運んだのではと思われます。非常に危険な作業でした。
準備期間と台風などの豪雨期から逆算して6月頃かと夢想します。
あまり早いと残雪期で雪崩等で入れないかと夢想します。
相当無理の有る青草です。

[1287] 石の余談 1  神奈備 2005/06/16(Thu) 21:41 [Reply]
 石と言うと、ひとつは柳田国男の『石神問答』と飛鳥の石像物が思い起こされ

る。石神問答の石神とは、シャクジと読み、社宮司、赤口、将軍、などの境の神

のことであって、そのご神体が石であってもそれはたまたまであって、石の神の

意ではない、ことを訴える手紙のやりとりである。飛鳥の石像物は素材が石であ

ってそれゆえ今日まで保存されてきたものであって、石を神仏と見なした人工物

ではない。それは丁度、神社の狛犬のようなもの。

 飛鳥の開拓は蘇我氏とその配下であったような東の漢と呼ばれた渡来系の人々

によるものであった。飛鳥に宮殿を置いた最初の天皇は継体天皇の皇子であった

安閑、宣化天皇のようであるが、本格的には崇峻天皇、推古天皇の時代以降。

 飛鳥坐神社の元社かも知れない酒船石は丘の上にある謎の石として名を馳せて

います。近年、その丘の北川の下に亀形石槽が発見された。また酒船石の丘は人

工の丘で、天理砂岩が積み上げられているとのこと。この丘を石上山と称したの

ではないか、との見解が和田翠氏は岩波新書『飛鳥』で述べている。天理市豊田

の石上山の石を運んできて築いた丘だからと言うこと。これを運んだるーとを、

狂心の渠と呼ぶ。この渠は何も天理市から明日香村までの13kmも造られたの

ではない。天理市からは船で布留川を下り大和川に入り、寺川、米川を上って香

具山の西まで運んでくる。ここからは渠を掘って、高低差35mを約1kmで酒

船石の丘の北川まで上っていったとの推測。この辺りにはその痕跡が残っている

と言う。

[1284] Re[1283][1270][1269][1258]: 木の話 雑感7  神奈備 2005/06/15(Wed) 15:00 [Reply]
> 伊勢遷宮用の伐採は6月です・・なぜでしょうか。

鋭い。
約1万本の材木が要るのだそうです。
このため、水中貯木をして遷宮に備えるようです。

http://www.hk.sun-ip.or.jp/wood/rin/rinsan_news/rin54.html
水中貯木すると木材の中に水が浸透する際に水中のバクテリアなどの細菌が侵入し、木材の細胞の通道組織である壁孔などを破壊するので、水分の通道が良くなります。結果として木材を乾燥しやすくなるので乾燥前処理の一つになるのです。
とか。
上質の檜を使うし、20年もてばいいので、夏でも満月でも何でもいいのでは。


> 鳥総(とぶさ)立て 挿し木と同義のように思えます。

http://kamnavi.jp/log/kinohanasi.htm
鳥総(とぶさ)立ての絵を入れてあります。太さ細さで言うと挿し木より呪術かも。

> 枝を中間で切り落とす場合は先端部に葉のついた小枝ひとつ残します
どうもイメージが浮かびにくい感じ。
生きている木でのお話ですね。

[1283] Re[1270][1269][1258]: 木の話 雑感7  かたばみ [Mail] [Url] 2005/06/15(Wed) 11:15 [Reply]

≫新月の木(1)
http://www.yanoss.com/02tirolhaus/singetsunoki1.html
≫新月の木(2)
http://www.tv-asahi.co.jp/earth/midokoro/2005/20050206/

これは面白いですね、初めて聞きました。
地球の生命にはすべてに月に従う生命サイクルがあるのかもしれないですね。

一般的な伐採は晩秋から早春の間に行うようですが、木の活動が鈍っていて、木に含まれる水分も少ないかららしい。
しかし、伊勢遷宮用の伐採は6月です・・なぜでしょうか。


1258≫伐った後にその木の頂上部分の枝を切り株に差し込むのを鳥総(とぶさ)立てというようで

挿し木と同義のように思えます。木の中間部分だけ頂戴して、また復活してください・・かな。

枝を中間で切り落とす場合は先端部に葉のついた小枝ひとつ残します(あるいは翌春に芽の出る枝)。
こうすると切り残した枝の中に樹液の循環が生じて枝が枯れたり腐ることがないのだそうです。


[1282] 餅鉄と磁鉄鉱  素人 2005/06/15(Wed) 00:26 [Reply]
餅鉄は円礫状磁鉄鉱(Fe3O4)鉄鉱石で磁鉄鉱が川に流れて丸くなったものでした。餅鉄は磁鉄鉱より不純物が少ないとの記述もあります。販売されている磁鉄鉱や餅鉄でもたたらが可能です。餅鉄での小たたらを実施しているWebが有りました。結構うまく行っているようです。
餅鉄(べえてつ):円礫状磁鉄鉱(えんれきじょうじてっこう)。ベン鉄、モチ鉄。磁鉄鉱が川で浸食されて丸くなった。
http://www2.memenet.or.jp/kinugawa/tetsu/041106.htm
餅鉄(もちてつ)とは?
http://www.city.kamaishi.iwate.jp/rekishikan/whatsnew01.html
各種餅鉄等。
http://www.city.kamaishi.iwate.jp/rekishikan/va_03.html
餅鉄たたら(小たたらでの餅鉄を用いた鉄の製鉄。)
http://kondensouken.hp.infoseek.co.jp/tatara/tatara1.html
http://kondensouken.hp.infoseek.co.jp/tatara/tatara3.html
釜石鉱山の磁鉄鉱
分析表と3種類の粒度等での販売が行われています。
http://www.sennin-hisui.com/kousan/kousan.htm
情報羅列の青草です。

[1281] 美濃赤坂金生山  素人 2005/06/14(Tue) 01:46 [Reply]
岐阜県大垣市赤坂町金生山は神奈備さまのホームページに登場する金生山神社(かなぶやまじんじゃ)(金山彦命を祭神)、赤坂明星輪寺(日本三虚空蔵の一つで宵虚空蔵(よいこくぞう))の有る金気の多い山です。現在ほとんど無いようですが、石灰石の山の上部にヘマタイトの鉱床が有ったようで、残留鉱石で以前たたらをしたようです。できた鉄は硬く、接着性が余り良くないようですからリンが多いのではと思います。脱リンに石灰石を用いればリンとカルシウムが多くなるのではと推定されます。磁鉄鉱に比べ赤鉄鉱は製鉄が簡単なようですからどのように使われたか詳細は不明ですが大変に興味があります。滋賀県のたたらは磁鉄鉱のようです。
金生山赤鉄鉱たたら。
http://www.mirai.ne.jp/~kinsyou3/1/sub1.htm
赤坂金生山Hematite赤 鉄 鉱
http://www.geocities.co.jp/NatureLand-Sky/3982/hemtite.html
青草だらけです。

[1280] 無題  もも [Url] 2005/06/13(Mon) 22:50 [Reply]
ありがとうございました。

[1279] Re[1278][1277]: 神官と巫女について  もも [Url] 2005/06/13(Mon) 22:46 [Reply]
> 神官とは宮司や禰宣のこと。
> 宮司:神社の造営・収税のことを司り、のちには広く祭祀・祈祷などの従事した者の称。
> 禰宣:神・精霊をねぐ人の意。宮司・神主に次ぎ神社に奉祀する者。
> 巫女:神に仕えて神楽・祈祷を行い、神意を受け、神託を告げる女性。
> > 元々神祭りは女性の仕事だったようです。神武紀に道臣命が祀りを行う際女装させたお話があります。
> 現在も神官をされている女性は数多くおられます。
> > 四天王寺西門の鳥居は俗界との区分だそうで、神社に限りません。
> http://kamnavi.jp/mn/osaka/sitenouji.htm
> 長弓寺
> http://kamnavi.jp/mn/nara/izanagi.htm
> など。

[1278] Re[1277]: 神官と巫女について  神奈備 2005/06/12(Sun) 21:17 [Reply]
神官とは宮司や禰宣のこと。
宮司:神社の造営・収税のことを司り、のちには広く祭祀・祈祷などの従事した者の称。
禰宣:神・精霊をねぐ人の意。宮司・神主に次ぎ神社に奉祀する者。
巫女:神に仕えて神楽・祈祷を行い、神意を受け、神託を告げる女性。

元々神祭りは女性の仕事だったようです。神武紀に道臣命が祀りを行う際女装させたお話があります。
現在も神官をされている女性は数多くおられます。

四天王寺西門の鳥居は俗界との区分だそうで、神社に限りません。
http://kamnavi.jp/mn/osaka/sitenouji.htm
長弓寺
http://kamnavi.jp/mn/nara/izanagi.htm
など。

[1277] 神官と巫女について  もも [Url] 2005/06/12(Sun) 20:01 [Reply]
奈良に来たフランス人の質問、鳥居の赤についていろいろな資料ありがとうございました。
今回もお教え願いたいのですが、
神官には女性はいないのか、もしいないのならなぜか。と
巫女と神官は何が違うのか。というものです。
それと鳥居は神道だけのものか。という質問もあったのですが、寺院であるところがありますか。

[1276] ありがとうございます。  さとし 2005/06/12(Sun) 18:06 [Reply]
早速、お調べして下さり、ありがとうございます。
私も、多少、本など調べて、いろいろ訪ね歩いているのですが、
何かの本に、イエス・キリストの神名が、道別命と書いてあり、
ええっ!!と、思ったのですが、世の中いろいろありますから、
もしかして、どこかで、隠れ神の様な形で、いらっしゃるのかな?と思い、
お尋ねしてみました。でも、下記の神社などで、もしかしたら、わからないように、
十の字など、何かあるかもしれませんね。
訪ね歩くのは大変ですが、機会があれば、行ってみたいです。
また、変な話題になりましたが、重ね重ね、ありがとうございました。

[1275] Re[1273]: 道別命  神奈備 2005/06/12(Sun) 13:14 [Reply]
こんにちは

 「道別」命で神社本庁発行の『平成祭礼データ』で検索しますと、金勢道別大神と田中道別命が出てきます。

金勢道別大神を祭っている神社は以下の通り。
高山神社 青森県三戸郡南郷村島守字北向43
稲荷神社摂社金勢神社 岩手県久慈市長内町第23地割25番地
八坂神社摂社金勢道別社 岩手県二戸市金田一字舘73番地
月山神社摂社金勢神社 秋田県平鹿郡増田町増田字月山1
飛騨総社摂社祖霊社 岐阜県高山市神田町2丁目114番地

田中道別命を祀る神社
稲荷神社摂社  愛媛県大洲市新谷

なお、ネット検索では、岩手県花巻市の金勢神社
 大沢温泉にある金勢神社には子宝のご利益のある男根の像があるそうです。4月29日にその男根を抱えて温泉街を練り歩き露天風呂で清めるという奇祭「大沢温泉金勢祭り」が行われます。

とのこと。道祖神や猿田彦神を連想しますね。



[1274] 無題  さとし 2005/06/12(Sun) 01:29 [Reply]
下記の書き込みをした、さとしですが、Eメールアドレスが、そのまま出るとは、
知りませんでしたので、Eメールアドレスを削除していただけませんか?
重ね重ね、申し訳ございません。

[1273] 道別命  さとし 2005/06/12(Sun) 01:25 [Reply]
初めて、書き込みさせていただきます。
私は、神社、仏閣を、暇を見つけては、訪ね歩いているものですが、
ひとつ、質問させてください。
道別命を、御祭神としている神社等は、日本にあるでしょうか?
もし、何かご存知でしたら、お教えください。
また、場違いな質問でしたら、どうぞ、削除してください。

[1271] Re[1270]木の話 雑感7  QUBO 2005/06/10(Fri) 07:28 [Reply]
> 「新月の木」
 いやぁ面白いですね。法隆寺の『闇伐り』ですか! 

> …可鍛鋳鉄…?
> …白心可鍛鋳鉄は950℃で鋳造した製品を容器に入れた脱炭素材の
> 砂鉄や鉄鉱石で覆って加熱して脱炭素する…
> 古代に有ったかは解りません…思い付きです。 
 「白心可鍛鋳鉄」古代技術で製作可能ですね。
 と言うか、出来てしまう可能性が有りますね。
 こうした「可能性」の青草、大好きなんですよ。
 また色々ご紹介下さい。

[1270] Re[1269][1258]: 木の話 雑感7  素人 2005/06/10(Fri) 01:57 [Reply]
>
> ≫伐った木に枝をつけたまま谷底などに置いておくと枝に栄養分をやろうとして木本体は軽くなって来て、いい材料になるのだ、そうです
>
> 伐採したばかりの生木は切ると水がしみ出すほどびしょびしょです。
> 丸太を製材して角材や板材にする場合は、それぞれよいタイミングがあるのでしょうね。

最近テレビなどで流されているモノなのでどうかと思いましたが、参考までに。
「新月の木」などと言う新しい木材ビジネスがあるようです。
真冬の新月の夜に伐採して枝を払わないで谷底に向け夏まで放置しておく。水分の少ない時期で、新月のために木材中のデンプンが少なくさらに乾燥とデンプンの減少が進むためかカビや虫のつかない良好な木ができるそうです。
新月の木(1)
http://www.yanoss.com/02tirolhaus/singetsunoki1.html
新月の木(2)
http://www.tv-asahi.co.jp/earth/midokoro/2005/20050206/
いつもの青草です。

こちらで、刃物が議論されていましたが、古代では解りませんが可鍛鋳鉄なるものが見つかりました。鍛造可能な鋳鉄と言う事で調べてみました。
原材料は白銑鉄、中国や日本の炭を使った古代製鉄で作られた破断面が白い炭素の大半がセメンタイト化した鋳鉄です。これを脱炭素したものが可鍛鋳鉄です。これですと大鍛冶での左下ではないかと言われそうですが、単に脱炭素して鋼になるだけではなくて面白い構造になるようです。白心可鍛鋳鉄は950℃で鋳造した製品を容器に入れた脱炭素材の砂鉄や鉄鉱石で覆って加熱して脱炭素すると中心部の炭素濃度が高く表面は軟鉄に近くなり刀剣を加工して歯を研ぎ出せば中が鋼で表面が軟鉄の構造となるようです。現在の技術ですから古代に有ったかは解りませんが古代に有れば日本刀のヒントにでもなったのではと夢想しました。トンでも発想ですみません。
白心可鍛鋳鉄
http://homepage3.nifty.com/hakushin/tokusei.htm
可鍛鋳鉄(解説)
http://www.nbk-okamoto.co.jp/data/d210.htm#S03
思い付きです。

[1269] Re[1258]: 木の話 雑感7  かたばみ [Mail] [Url] 2005/06/08(Wed) 20:22 [Reply]

≫伐った木に枝をつけたまま谷底などに置いておくと枝に栄養分をやろうとして木本体は軽くなって来て、いい材料になるのだ、そうです

伐採したばかりの生木は切ると水がしみ出すほどびしょびしょです。
丸太を製材して角材や板材にする場合は、それぞれよいタイミングがあるのでしょうね。

伊勢遷宮用の伐採が行われましたね。
http://www.chunichi.co.jp/00/gif/20050607/lcl_____gif_____001.shtml
木口に和紙を貼っているようで、たぶん急速乾燥防止のためだと思います。

http://www.chunichi.co.jp/00/gif/20050604/lcl_____gif_____001.shtml
化粧がけ? これもなんか実用上の意味があるのだろうなあ。

伐採された直径60cmほどの丸太を分けてもらったとき、木口に木工ボンドを塗って新聞紙を貼り付ける方法を教わりました
切断した木口から急速に乾燥するとヒビがはいってしまうので、それを防ぐためです。


材木屋さんでは木の根元側だった方を上にして保存します。
根元側を下にすると湿気を吸い続けて乾燥しにくいのだそうです。

大根などの野菜を冷蔵庫で保存する場合、育っていた方向(縦)にしておくと長持ちするらしい。
葉っぱは切り落とすのですが、大根本体がしなびてしまうのだろうな、実験中(^^;

[1268] 高神社  神奈備 2005/06/08(Wed) 17:44 [Reply]
山城の高神社の登り口の傍に「谷川ホタル公園」があります。6月11日(土曜日)にホタル祭りとでもいう催しがあり16時頃から屋台も出るそうです。ホタルの乱舞を是非見に行って下さい。

http://kamnavi.jp/yamasiro/takaide.htm

[1267] Re[1211][1210]木の話 雑感6+α +β  かたばみ [Mail] [Url] 2005/06/07(Tue) 22:13 [Reply]

≫鋸の使用は、主に長さの調節の為

法隆寺の玉虫厨子は玉虫に注目がゆくようですが、ここで使われる板が鋸によって製材されたとみえる最古なのだそうです(樹種わすれたけど広葉樹の板、広葉樹を割って板は作れない)。

以下は、ものと人間の文化史・鋸/吉川金次によります。
縄文の石鋸を模しての実験が書かれていますが、石を剥片にして歯を立てたとみえるそうです。
著者は歯の形態から動物解体用ではないかと推定しています。
(弥生では石鋸がいろいろ登場)

鉄製鋸は300年代の古墳からの出土が最古で、上記でこれらを復元した実験を行っています。
この頃の鋸は歯の形状から木を挽くにはむかず、骨や貝などを挽くためとみえるそうです。
(この頃までは鋸はヤスリに近く、青銅、骨等を切るための道具だった)

木を「横引き」できる鋸の登場は400年代にはいってからで、柄も歯部分より細くした「茎」の形態が登場する(鋸の挽き痕跡の最古は法隆寺)。

300年代〜400年代の鋸はほとんどが関西からの出土ですが、500年代にはいると関東に移行し、600年代に入ると関西からはひとつも発見されなくなるそうです。
これは、蕨手刀などの鍛冶技術のありようと関連してたいへん興味深いところです。

2人が向き合って「縦引き」をする鋸が大鋸オガ、これに類似の登場(出土)は500年代だそうです。
著者は歯の形状などから実用になる縦引き鋸の登場は700年代になってからと推定しています。
広葉樹による板が自由に使えるようになるのもこの頃から、となりそうです。

なお、富岳三十六景にあるようなひとりで縦引きして製材する鋸は前挽鋸というようです。
http://www.hokusai.gr.jp/ukiyoe/toutoumi/view-J.html


日本の鋸はほとんどが引き切りですが、日本以外ではほとんどが押し切りです。
(枝切り用などが例外)
二人挽きでないなら引き切りの方が身の厚さを薄くもできるわけで、有利と思われます。
日本での発明だと思いますがいつだれが工夫したのかなあ(カンナも引くのは日本だけ)。

クサビなどで割って板材にできるのは杉やヒノキなど針葉樹の一部だけだと思います。
ごく小さい板なら広葉樹でもできるでしょうけれど。
ヒノキが建材として重用されるのは比較的新しく、奈良飛鳥のようですね。

眞木、なにを良い木とするかは用途によって異なると思います、代用品ではない木の意とみています。
なお、眞金も同じで代用品ではないものの意とみております。


[1266] Re[1203]: 加門七海  かたばみ [Mail] [Url] 2005/06/07(Tue) 22:09 [Reply]

ちょい手がまわらず、古いところで少々(^^;
≫加門七海さんの『大江戸魔法陣』を思い出して探して見ましたが

その本を読んだことはありませんが、江戸の初期の町作りは京都を真似していたようで、町割りもロの字型。
江戸は火災で何度も半壊していて、江戸城天守閣も明暦の大火で燃え落ちて将軍様も逃げ出した。
西北風にあおられた大火がほとんどで、江戸の鬼門は西北なのかも。

水運路では最も便利と思える東北へ延びる水路を作っていません。
鬼門を意識したのか東北の伊達政宗を意識したのか、よくわからないところ。


[1265] Re[1264]: こんなのアリA  みとせ [Url] 2005/06/07(Tue) 14:46 [Reply]
神奈備さま、オフ会楽しかったです。ありがとうございました。

>「森」を破壊するのか、「森」を守るのかの差がそれから出るのかも知れません。

多神教は原始宗教などと呼ばれますが、世界を一つだけに集約するより、雑多な存在を認める社会の方が健全だと思います。

「森」は守られるべきもの、と素直に感じることのできる世界に生きている幸せを思います。

[1264] Re[1263]: こんなのアリA  神奈備 2005/06/05(Sun) 19:39 [Reply]
ホワイトカラーの最高稼働率は30%、OLなどのは5%、人の邪魔をするのもいて、▲30%というたぐいもいる。
企業でも、日本人を食わしている企業群の数は30%未満、大半の企業と公共団体は巣くっているだけ。大阪市など存在意義ゼロかマイマス。

> 「なにもの」かに、恐れを抱く…これは自然発生的だとして
> それをある纏りとして考える方法が神概念ではないのでしょうか?

モノを感得して、その根源を一つのカシコキモノと思考するのが一神教の神観念、モノをそれぞれ個別のモノと素直に感じるのが多神教の概念。

 「森」を破壊するのか、「森」を守るのかの差がそれから出るのかも知れません。

[1263] こんなのアリA  QUBO 2005/06/04(Sat) 23:24 [Reply]
> 働きアリの約2割が、実はほとんど働いていない
 他に雄アリとか兵隊アリとか色々働かないアリもいて
 アリ社会の全体に対して働いているには2割程ではないか?

> あれも食物であるとの学習なのか??(´〜`;) ?
 果たして「神」概念も学習なのかなぁ? が私の疑念
 芋を洗う猿と同じように、「神」も学習の結果なのでは?
 多神教の世界は多神教、一神教の世界は一神教になる。

「なにもの」かに、恐れを抱く…これは自然発生的だとして
それをある纏りとして考える方法が神概念ではないのでしょうか?

[1262] こんなのアリ  QUBO 2005/06/02(Thu) 09:55 [Reply]
働きアリの約2割が、実はほとんど働いていない
北海道大大学院農学研究科の長谷川英祐助手(進化生物学)らが2003年10月確認 

私も周辺から独立したコロニー(群体数は1000以上・未確認)で実験しました。
周り10M程土が無い木が一本だけ生えている会社の中庭です。
砂糖を餌として与え、どの程度運ぶか見ようと思いました。
驚きの結果
全く運ばない ゼロ
餌として認識しないのか?
約2週間与え続け、少しだけ運ぶようになりました。
今約一ヶ月経過。ほんの少し運び、少しかたまって舐めている。
大部分は無視して通り過ぎる。
一体全体 ・・・蟻は砂糖に群がるものなのに・・・
あれも食物であるとの学習なのか??(´〜`;) ?

[1261] 木の話 雑感 9  神奈備 2005/06/02(Thu) 07:34 [Reply]

 神霊の発展形態は古氏族の敗北過程のように思えます。
 例えば、石神(シャクジ)→木神(トビ、トミ)へ→太陽神
への発展があるように見えますが、これは、時代としては、
石器時代→縄文時代→弥生時代→になるのでしょう。

 これを氏族の戦い即ち神の戦いと見ますと、次のようになります。

 御左口神の守矢氏 ← 建御名方富命    ← 武甕槌神
 巨石信仰     ← 登美毘古(長髄彦) ← 神武天皇

 奈良都彦神社のように根本神の石神はいまや神社の片隅に追いやられているケースもあります。
  完

[1260] 木の話 雑感8  神奈備 2005/06/01(Wed) 07:42 [Reply]
巨樹伝説は各地にあります。
 『日本書紀景行紀』
 筑紫国三毛の歴(クヌギ)は朝日で杵島山、夕日で阿蘇山を隠す。
 『古事記仁徳記』
 免寸河の西に聳える木は朝日で淡路島、夕日で高安山に影があたった。船を作れば速く行く船で、これを枯野と言った。淡路から難波へ寒水を運んだ。船破れて焼け遺りを琴にした。よく聞こえたという。
 『古事記雄略記』
 槻が枝は 上つ枝は 天を覆へり 中つ枝は 東を覆へり 下枝は 鄙を覆へり
 『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、や各地の民話にも巨樹の話がのっています。仁徳記の巨樹は等乃伎神社の木だったとされています。戦国時代に焼けてしまった巨大な楠木の株が地中に残っているそうでさす。この木は宇宙樹という概念ではなく、仁徳大王の支配のおよぶ範囲を示しているのかも知れません。

 余談ですが、河内王朝のルーツは淡路島かも?
 応神、仁徳は淡路島に向かう。履中就任時、安曇海人、淡路島の野島海人、住吉海人が逆らう。淡路が王権に介入するのは珍しいこと。
 淡路生まれの反正が王統を元に戻したのかも知れません。


 世界中に宇宙樹の伝説があります。宇宙樹と巨樹の伝説が多いのです。
 宇宙樹は天を覆うような笠と幹と地の根で構成されており、太陽も月も笠の下で動く。宇宙の軸として地中に大部分の場合もある。神宮の心の御柱がそうかも。

 普通、日本の巨樹は日の影が出来るので、遥かに低い木であり、世界樹とするには迫力不足。
 雄略記の槻は宇中樹かも。
 三輪山の巳さんの杉、蛇神信仰で、土俗的。


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