青草談話室ログ平十七年 八月
多に蛍火の光く神、及び蠅声なす邪しき神有り。湯嶽神・菊嶽神の集い。
素人のひらめき、力はないが騒がしくなかなか従わない、一寸の草木にもある五分の魂の発露を!
 青草談話室

[1391] Re[1389]: アカ  琉球松 2005/08/31(Wed) 21:30 [Reply]
 「丹生→水銀→朱砂→赤」。。。
 
 これって「ヤマタノオロチ」の目に相当する場所じゃないかと思いますね。
 この大蛇。。地政学的な概念だと考えますがどうでしょうか?
 

[1390] Re[1389]: アカ  かまど 2005/08/31(Wed) 00:55 [Reply]
邇保→丹穂→赤米→赤


[1389] アカ  玄松子 2005/08/30(Tue) 15:55 [Reply]
丹生→水銀→朱砂→赤
壬生→養育→赤子→赤
水→閼伽井→赤

赤が重なる(青草)。

[1388] 青草なら何でもアリ?  玄松子 2005/08/30(Tue) 12:16 [Reply]
> あいまいながらも複数の事象が重なってくるので注目しています。

どこが重なってるんだろう。


> ひとつにはXXX。「XXXを生み出すもの」。

XXXに入らない言葉を探す方が大変だ。
なんでもありなんだなぁ。

[1386] Re[1384][1381]: 大生部と大壬生  かたばみ [Mail] [Url] 2005/08/29(Mon) 18:56 [Reply]

≫いろんな角度から意外なことが、あぶり出されてくるものですね

蚕から赤の祭祀がつながるとは思っていませんでした。
大収穫でござりまする(^^)


[1387] Re[1385][1383][1381]: 古代祭祀と丹生  かたばみ [Mail] [Url] 2005/08/29(Mon) 20:24 [Reply]

≫水銀のからむ丹生には養育係の面影は見えないような感じ

壬生と丹生が発音が似ているだけなら、ちょいと棚に置いておくだけになるのですが、あいまいながらも複数の事象が重なってくるので注目しています。

風土記逸文播磨国では、神功皇后の新羅攻撃のときに爾保津比賣が石坂比賣に憑依して赤の祭祀をおこなったとしています。

爾保津比賣がいつの時代に遡るかは不明なれど、「国堅めましし大神の御子」を伊弉諾伊弉冉神の子とするなら、持論でゆけばBC500頃の祭祀者(巫女)か。
大年神と同等の時代、遠賀川の山鹿貝塚の赤の葬礼に直結するのが爾保津比賣になりそう。

持論の概略図を再度。
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/sankou/shindai01.pdf

大年神の系譜には庭津日神、庭高津日神がありますが、庭ニハ→ニホ?
(字訓/白川静によれば庭は神を迎えて祀る広い場所)
庭津日神は爾保津比賣と同義じゃないのか。
その当時に祭祀をニフ、ニホ、ニハと称していた可能性少なからず。


生み出す、これは縄文から継承する豊饒の象徴だった。
壬生や丹生の原点にあるのは弥生初期の古代祭祀。
(原始アマテラスの祭祀としてもよいかもしれない)

ひとつには赤に関する祭祀、HgSだけでなくベンガラを含む赤。「赤を生み出すもの」。
ひとつには養育係の役目もあった、こちらは「子を生み出すもの」。
ひとつには弥生の農耕の拡大に伴う水に関する祭祀、「水を生み出すもの」も加わっていった。
(伊豆に水生ミブの庄あり)
弥生末期に土器絵に龍らしきが登場しますが、水→龍神への変化のきざしじゃないかな。

もうひとつ、祭祀者には他部族との交渉という役目もあったはずで、これはそのまま交易につながります。
これらを弥生中期〜古墳初期に担当していたのが、神武以降での多臣族であり葛城族だったのではなかろうか。
(葛城は交易をメインとすると推定・・物部がどうからんでくるか)

崇神垂仁時代、統一国家となって国の規模が大きくなればそれらの祭祀(役目)は分化し専門化せざるを得ないと思います。
そして応神以降、百済経由の中国思想や学問の流入によって祭祀全般が道教や仏教の影響を受けて変化していった。

HgSの赤も水銀へ変化していった。
(後期古墳での赤の消滅、道教的あるいは不老長寿での仙丹と水銀へ)
(後期古墳の墓室の水銀濃度要チェック)
養育も医療などを含めたもっと広範囲なものへ。
水の祭祀も中国系の龍と複合していった。

丹は呉音でも漢音でもタンであってニの発音はありません。
水銀の丹生は漢字の水銀の意からの当て字で新しい時代のものとみます。
丹生が水銀となった時点で古代祭祀とは切り離され、養育の壬生ともつながりを持たなくなったのではないでしょうか。

水神はやや異なります、もともと自然界に属するものですから縄文的巫女の感覚を残して瀬織津姫のごとくにもなり、あるいは丹生津姫にミズハノメやクラオカミが重なる痕跡が残されたのではないでしょうか。


[1386] Re[1384][1381]: 大生部と大壬生  かたばみ [Mail] [Url] 2005/08/29(Mon) 18:56 [Reply]

≫いろんな角度から意外なことが、あぶり出されてくるものですね

蚕から赤の祭祀がつながるとは思っていませんでした。
大収穫でござりまする(^^)


[1385] Re[1383][1381]: 大生部と大壬生  神奈備 2005/08/28(Sun) 16:47 [Reply]
折口信夫の『水の女』から
反正天皇(多遅比瑞歯別天皇)は瑞井の井戸の水で洗われているのですが、これは皇子を育する役割として置かれた壬生部(乳部)の女性の仕事だった。
 さて、壬生(ミブ)と丹生(ニフ)、発音も実に良く似ているし、水に関係が深いことも同じなのですが、丹生にはもう一つの顔すなわち「水銀」があり、水銀のからむ丹生には養育係の面影は見えないような感じ。

[1384] Re[1381]: 大生部と大壬生  恋川亭 [Mail] 2005/08/26(Fri) 22:55 [Reply]
> かたばみさん
> 大生部オオミブは大壬生オオミブ。
> 姓氏録に応神時代に御室雑使の大王生らが仕えずに逃げたうんぬん・・大壬生であろう・・
> 壬生部:ミブあるいはニフで丹生の文字もあてる、生部、入部でもある。
> 伊勢飯高郡丹生郷、若狭遠敷郡丹生郷、土佐安芸郡丹生郷などにみえる。

乳部←→壬生←→大生部・・・丹生!!!
面白いですねー!いろんな角度から意外なことが、あぶり出されてくるものですね。
大生部さんと秦さんとその他の方々。語られていないだけで、実は「因縁」深い関係があるのでしょうね。人々には絡みがある、そのほうが、より現実的にも思えます。

[1383] Re[1381]: 大生部と大壬生  かたばみ [Mail] [Url] 2005/08/26(Fri) 18:39 [Reply]

飛鳥奈良時代にはいると百済や高句麗の帰化族がわんさかやってきているし、王朝もそれなりに形になって「人の思惑」が時代を動かすようになった。
人意測れずで、だれがなにをしてもおかしくない時代になるわけですが、王朝のトップの権力争いと民の生活は直接関係はないとみておきます。

民にとって自民だろうが民主だろうがどうでもよい(^^; (経済界首脳はそうはゆかない)
利権のからむ官僚は微妙であって反旗をひるがえしたりもする(^^;
当時も似たような状況があった。

さて、姓氏家系辞書/太田亮+α程度でながめただけではありますが、

大生部=大壬生であり丹生の文字もあてる・・非常に興味深いです。
壬は呉音でニム、腹のふくれた妊婦の意があります。
仁徳紀で皇子のために壬生部を定めているのは養育係とみてよいと思います。
(妃のために葛城部を定めているのも興味深い、なぜ葛城の呼称なのか)

応神時代に大壬生が逃げたというのが興味深い、政変(謀反)だったからじゃないかな。
だとすればそれ以前から壬生部に相当する養育係の部があったのだと思われます。

皇極紀の乳部は、壬生の養育の意からの乳であり、呉音でニュウです。
生部は壬生の生をとったものでしょう。
入部は文字の意味をなしませんが、入は呉音でニュウあるいはニフですから発音からの当て字でしょう。

すべてが丹生につながっている。
姓氏家系辞書/太田亮では壬生系の丹生をニュウではなくニフとしていますが、原点はここにあるんじゃないのか。

丹生→朱(ベンガラ含む)→赤の祭祀。
神武と媛踏鞴五十鈴媛の子の神八井耳命(多臣族オホの祖)に継承され、その後裔もまた祭祀に関連していたならば・・

多臣族は天孫でも出雲でも受け入れることのできる系譜です(持論では葛城系譜も同系とみています)。
祭祀者(≒学者)が王族の子の養育係となる、自然だと思われます。
(ちょい大きくなれば武も学ぶでしょうけれど)

しかし、応神〜倭王五代では様子が変わります、五経博士など百済系(中国系)の学者の登場です。
(仁徳系譜では多臣族系や葛城系が継承されていたとみますが、理由は略)
下って飛鳥奈良では五経博士系の養育係とかっての丹生系の養育係が混在していたのではなかろうか。

最新の学問を持たない丹生系は地位が下がって雑用係に近くなっていたのではないか。
しかし、雄略紀での小子部のごとく王族直属であり寝所にもはいれる特権をもっていた、御庭番のように(^^;
これはかっての多臣族や葛城の流れがまだ継承されていたからではないか。

しかし、葛城は滅ぼされて酒秦公の登用。
古墳時代後期には朱を用いた古墳が消滅しています(おそらくは雄略以降の古墳)。


奈良飛鳥での「大生部多」が多臣族(丹生系)であり祭祀者の祖を持っていたならば、改革(食封制度)に反旗をひるがえす場合でも祭祀の形を重ねることが十分ありえると思うのです。

飛鳥奈良の王朝ではこれらの祭祀は古代の祭祀であって邪でしょう、しかし一般民あるいは物部系譜あるいは縄文系の出雲ではそれをまだ維持していたかもしれません。
無学の民になにかを浸透させるには祭祀を併用するのが手っ取り早いと思いますし。

経済界の大物である秦造河勝は養蚕に関する反旗としてこれをつぶしにかかり、書紀は邪の祭祀としてこれを書いたのではないか。
こういった推論も提示しておきます。


[1382] Re[1379]: 常世虫−ラスト補遺ホイ  琉球松 2005/08/25(Thu) 19:14 [Reply]
 神奈備さんへ

 「常世の観念は現在のわれわれにまで伝承されているようで、深く日本人の遺伝子に刻まれている気がします」。。そのとおりだと思います。

[1381] 大生部と大壬生  かたばみ [Mail] [Url] 2005/08/25(Thu) 18:20 [Reply]
姓氏家系辞書/太田亮より略記

大生部オオミブは大壬生オオミブ。
姓氏録に応神時代に御室雑使の大王生らが仕えずに逃げたうんぬん・・大壬生であろう・・
壬生部:ミブあるいはニフで丹生の文字もあてる、生部、入部でもある。
伊勢飯高郡丹生郷、若狭遠敷郡丹生郷、土佐安芸郡丹生郷などにみえる。

天孫本紀に品太天皇・・稚彦連、毛良姫の二人を壬生部と定む(物部氏の尾綱根大臣の子と従妹)。
仁徳紀7年、大兄去来穂別皇子のために壬生部を定む、また妃のために葛城部を定む。
推古15年、壬生部を定む。
皇極紀にいう乳部ミブに同じ。皇子の養育に奉仕する人々、聖徳太子の壬生の民、およびその封民。

稲城の丹生公ミブ、上野の毛野氏族の壬生公ミブ(延暦寺の慈覚大師がこの壬生公)。
などなど全国に多数存在、出自も様々。

−−−−−−−−
封民:大宝律令等の食封制度によって王族あるいは功績ある貴族に与えられた戸の民。
食封制度:与えられた戸(民)からの租庸調の一部を貴族の収入とする制度。

http://www.tabiken.com/history/doc/H/H247L100.HTM
この制度が実際に確立されるのは天武天皇以降のようです。
この制度への不満が生じて739年に税収すべてが貴族のものになるなどの修正があります、荘園の前身。
−−−−−−−−

書紀にはある傾向があるような・・
なにかをいいくるめたい場合にやたらと詳細を書くという癖(^^;
応神の誕生が10月10日であることを一生懸命説明するとか・・本来ならどうでもいい些細なこと。

橘と山椒を食べて青くて黒い斑点のある長さ4寸余りの虫・・そんな細かい話を書く必要があるのかな。
臭うのであります(^^;

新しい食封制度に不満を持つ下級貴族の騒動、王朝を揺るがしかねない問題を蚕と邪教というオブラートに包んだ話。
食い物の恨みは大きい(^^; 衣食住用品一手販売の秦造河勝の出番となった。

書紀編纂時代に引きずっている問題でもあり、まともには書きにくいといったところか。


[1380] Re[1379][1377]: 常世虫−ラスト補遺ホイ  神奈備 2005/08/25(Thu) 08:08 [Reply]
>  その後、「常世」という言葉は使いずらくなっていくようですが、そう考えていいでしょうか?

 六国史でいえば、『三代実録』巻卅九元慶五年(八八一)に名前としての若倭部常世が最後です。平安前期までですね。
 神社名として延喜式には常世岐姫神社の名が残っています。

 ただ常世の観念は現在のわれわれにまで伝承されているようで、深く日本人の遺伝子に刻まれている気がします。

[1379] Re[1377]: 常世虫−ラスト補遺ホイ  琉球松 2005/08/24(Wed) 21:22 [Reply]
 神奈備さんへ

 その後、「常世」という言葉は使いずらくなっていくようですが、そう考えていいでしょうか?
 一般庶民の "竜宮" や、女性を不浄なものとはみていなかった熊野権現も "補陀落" など別な言い方に変えたのではと思いますね。

[1378] Re[1377]: 富士川のほとり  恋川亭 [Mail] 2005/08/24(Wed) 20:58 [Reply]
> [1377]:神奈備先生(2005/08/24)

 私の青草は単なるフィクションにすぎませんです。<(__)>
でも、こうして皆さんのお考えを伺うと、伝承に厚みや広がりがでてきて、昔の人の息遣いに思いをはせることができます。資料の裏には、多くの人々の人生が確かにあったことと感慨深く思います。もっともっと、皆さんのいろいろな古代ビジョンをお聞き(拝読)したいナ。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
> [1376]:大生部 ペギラさん(2005/08/23)
> 神亀元年(七二四)二月
> 外正八位下大生部直三穗麻呂
> 山背国愛宕郡出雲郷雲下里計帳(神亀三年)
> 従五位下大生部直美保万呂の資人

「山背国愛宕郡出雲郷」、山背でしたか!出雲郷といえば、出雲の出雲郷での「意宇」を思い出しました。なんだか駿河と山背が錯綜している印象・・・。

 大生部ではないけれど、万葉集に生部さんがいました。
駿河 助丁 生部道麿(するがの すけのよほろ いくべのみちまろ)
『畳薦 牟良自が磯の 離磯の 母を離れて 行くが悲しさ』(万葉集 巻第二十 #4338)
「防人見習」の人?若くして役にかりたてられる旅立ち。先輩から『生部!行くべ?』と声かけられたかどうか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 常世虫か大生部多にまつわる神社が、富士川のほとりにあれば面白いのですが、現地には残ってないのでしょうかね〜。
 フィールド検証は、関西在住の私には、チョット遠い地域です。現地の資料でミッシング・リンクが見つかればいいですね。地図で見た限りでは、かなり内陸の山梨県になりますが、富士川沿いに「蚕神社」がありました。詳細はわかりません。

・『蚕神社』山梨県南巨摩郡南部町本郷(南部町町営バス南部循環線)

 こんな山ン中では、駿河の国になりませんね。甲斐だもん。山梨県南巨摩郡には他にも次のような神社が。
・『子の神社殿』山梨県南巨摩郡身延町久成
http://www.manabi.pref.yamanashi.jp/db/servlet/dbview?id=A810000294
・『蚕訪神社』山梨県中巨摩郡櫛形町豊吉田

[1377] Re[1375]: 常世虫−ラスト補遺ホイ  神奈備 2005/08/24(Wed) 15:45 [Reply]
恋川亭さんの論述に刺激されて

【雨乞いでの神と仏の争い】
皇極元年秋七月二十五日 牛馬を殺して諸社の神に祈ったり、中略、河の神に祈ったりしたが、雨乞いの効き目はなかった。

皇極元年秋七月二十七日 仏菩薩の像と四天王の像を安置し、略、蘇我大臣は手に香炉を取り、香を焚いて発願した。小雨が降った。
 
皇極元年秋八月一日 天皇は南淵の川上においでになり、跪いて四方を拝し、天を仰いで祈られると、雷鳴がして大雨が降った。雨は五日間続いて、天下は等しくうるおった。
→ 道教の雰囲気がありありです。

皇極元年冬十月〜翌年にかけて天候不順 地震、雨、大雨、暖冬、霰 風、

皇極二年二月 国内の巫女らは榊などの枝を折りとって木綿をかけ、蘇我蝦夷大臣が箸を渡る時をうかがい、競って神霊のことばをのべた。
→ 天候不順による穀物不作は蘇我大臣が蛮神(仏)を祭るからだ。やめるべしとの神託を伝えたのではないか。

皇極三年三月 国内の巫女たちが、木の枝葉を折りとって木綿をかけ、大臣が箸を渡る時をうかがい、競って神がかったお告げのことばをのべた。巫女が多かったので、聞き取れなかった。老人たちは「時勢が変わろうとする前兆だ」といった。
→ 蘇我大臣が蛮神(仏)を祭る心があるので、聖徳太子の遺児たちを殺してしまった。さらに穀物は不作となった。が蛮神を祭るのは、やめるべし。

皇極三年秋七月 大生部多が虫祭りを行い、秦河勝に弾圧された。祭り方は六種の家畜(馬、牛、羊、犬、鶏)を路ばたに並べた。
→ 不作なので、道教的な祭りを行った。
 
 蘇我対物部の戦いで仏教側が勝利したのであるが、それは王権に近い一部の豪族間の勢力争いもあってのことで、日本古来の信仰(一応神道としておく)を一般民衆が捨てたわけではない。から等にとって仏教はやはり蛮神を祭ることであった。
 五穀豊穣を保障する神に対する悪神のようなものが仏教であった。

 大生部多さんも巫覡として、常世の祭りを行い、その頃の民衆の潜在的不安や不満を解消するようなエネルギーが爆発したのではないだろうか。江戸末期のお伊勢詣りのような感じかも。

 秦河勝さんがしゃしゃり出たのは、一応仏教派であり、上宮王家が滅び去った後には一時の勢力が衰え、蘇我氏にゴマをすらざるを得ない立場であって、かつ東国に顔が利いていたのかも知れない。伊豆に上宮王家の領田があったこともあり、蘇我氏の顔は東は駿河までのようで(注参照)、秦氏に要請がでたのかも知れません。

注:【蘇我大臣の顔が利く範囲】
天皇は大臣に「天皇は板蓋宮を作りたい。東は遠江まで、西は安芸までの国々から人夫を集めるように。」といわれた。
→ これからは、蘇我は駿河には顔が利かないことがうかがわれますね。

[1376] 大生部  ペギラ 2005/08/23(Tue) 18:56 [Reply]
神亀元年(七二四)二月
外正八位下大生部直三穗麻呂

山背国愛宕郡出雲郷雲下里計帳(神亀三年)
 従五位下大生部直美保万呂の資人

とある。


[1375] 常世虫−ラスト補遺ホイ  恋川亭 [Mail] 2005/08/23(Tue) 02:59 [Reply]
 上宮の乳部が東海(駿河)にあったのか?が、調べられていないので、なんとも妄想なんです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(1)【巫覡】
 蘇我蝦夷のもとに2回も押し寄せた巫覡たち。どうも怪しい、なんとも胡散臭い。どこかの神社に属する正統な巫覡ではない様子。記述の流れから、この巫覡たちは、常世虫にでてくる巫覡と共通したのではないか。
 そして、蘇我蝦夷は取り立てて、この巫覡たちを排除した様子はない。この巫覡たちの親玉を利用したのではないか、と邪推。

(2)【東国の乳部】
先の投稿では端折ったが、山背大兄王一族が生駒山に逃げた際の三輪文屋君の進言は、
 ・どうか深草の屯倉に移り、
 ・そこから乗馬して東国に至り、 ←!
 ・上宮の乳部を本にして軍を興し、
 ・大和に戻ってきて戦いましょう。
 ・勝つのは必定です。
という内容。山背大兄王も、もし実行するならば、蘇我入鹿に勝てることを認めている。
 深草の屯倉は、秦造河勝が献上した処であろう。乳部(みぶ)は壬生だろうと思うが、複数あったのではないか。東国の乳部とは、どこなのかが不明。
 しかし、このとき蘇我蝦夷は、東国を抑えきれていなかったことがわかる。

(3)【蘇我蝦夷】
 政敵の居る大和では、蘇我の軍勢を東国まで遠征させて留守にできない。蘇我蝦夷にとって脅威が残る東国を、短期間で手なずける方策を始めたのではないか。
 蝦夷は、大生部多にアナーキーな邪教を広めさせ、東国の乳部の民の経済力を削ぐように画策。すぐに破綻するような教義なので、頃合いを見て蘇我の手の者が東国を再編成する。用済みの大生部多は反乱者として処分する予定だった。

(4)【秦造河勝】
 長年にわたり、聖徳太子に仕え、山背大兄王を支援してきた秦造河勝は、蘇我蝦夷の所業を憎んでいた。だが秦造河勝では、蘇我大臣を弑逆するような謀反は起せない(中臣鎌子を支援したのかも)。
 しかし、山背大兄王ゆかりの東国の乳部へ、手を伸ばそうとした計画には、敢然と立ち向かった。邪教の親玉を打つことで、王家の東国経営を守った。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 常世虫教団の活動期間は、とても短いようです。それが、計画された騒動のように印象を持ちました。
 皇極紀は、乙巳の変へ向けての流れのある記述だと思います。常世虫事件は、それだけが独立した話しではなく、その位置にあるべくして、取捨選択された記録ではないでしょうか。前後の関係に、意味を持たせているように読めます。
 フィクション(創作)としたのは、書紀だけから抜き出した妄想だからです。他の資料が加われば、内容は変化するでしょうね。
 以上、長々と失礼しました。m(__)m

[1374] 無題  琉球松 2005/08/23(Tue) 00:31 [Reply]
 恋川亭さんへ

 妄想?。。いえいえ立派な推理だと思いますね。
 やはり権力闘争ですかね。。"連VS臣" 。。常世虫派?の最後の賭けかも。。

[1373] 常世虫−妄想を申そう  恋川亭 [Mail] 2005/08/22(Mon) 23:55 [Reply]
 秦造河勝には、常世虫に対して経済的脅威か?と考えましたが、どうもそのような状況になかった様子。政治的な背景があるのかな?と愚考開始。以下は青草ファンタジーです。【イモ虫には蜂が刺すのさ。ドラマだねぇ】
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
推古11年(603) 秦造河勝が、聖徳太子所有の仏像を預かり、蜂岡寺(広隆寺)の造営を開始。(建立そのものは推古30年の説も)
推古18年(610) 秦造河勝が、新羅の使が朝廷に拝するとき、導者を勤めた。
推古30年(622) 聖徳太子が49歳で没する。
推古34年(626) 蘇我馬子没。
推古36年(628) 推古天皇没。遺詔をめぐって争い。田村皇子派と山背大兄王派との皇位継承問題。蘇我蝦夷は田村皇子を擁立、山背大兄王を推す境部臣摩理勢を滅す。翌年に、田村皇子即位、舒明天皇。舒明紀では、山背大兄王の様子が判らない。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 秦造河勝の年齢が判らず、活動もつまびらかでないのですが、聖徳太子の側近だった印象です。また、『日本古代氏族人名辞典』によると、
『歌謡に河勝のことを太秦と記すが、これは秦氏の族長を指す称号とみられ、山背秦氏の本拠地は河勝の頃に深草地方から葛野地方に移り、やがて族長の居住地をも太秦と称するにいたったらしい。』
とあります。秦造河勝は政治的には表に出てきませんが、聖徳太子の遺児、山背大兄王の私的協力者だったと想像できます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
舒明13年(641) 舒明天皇 没。
皇極 元年(642) 蘇我入鹿は、自ら国政を執行した。その父、蘇我蝦夷はますます権勢をふるったとされる。蘇我蝦夷が今来に双墓を造ったとき、ことごとく上宮の乳部の民を集めて墓所で使役した。このとき上宮大郎姫王が、激しく憤り嘆いたという。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 上宮大郎姫王も聖徳太子の遺児ですね。その遺児たちのための乳部の民を、蘇我蝦夷がわがもの顔で勝手に使役しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
皇極 2年(643) 2月、蘇我蝦夷が橋を渡るところに、多く巫覡たちが集まり、先を争そって何かを語っていた。
〔↑これは、のちの常世虫事件につながるのではないか?〕
 この年の10月、蘇我入鹿は、ひとりで謀り、上宮の王たちを廃して、古人大兄(舒明天皇の皇子)を立てて天皇にしようとした。
 そして11月、蘇我入鹿は、巨勢徳太らを遣わして、山背大兄王を斑鳩宮に襲う。山背大兄王一族は生駒山中に逃げるも、斑鳩寺に戻り自害する。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 生駒山中に逃げているとき、山背大兄王は側近の三輪文屋君から、「どうか深草の屯倉に移り、乳部を本として再起しましょう。」と進言されている。『其の勝たむこと必じ』とまで言っているので、山背大兄王側の勢力も相当あったものと思われます。
 しかし、この進言は、山背大兄王の、
『わが心に願わくは、十年は百姓を使役しない。わが一人の身によって、どうして万民をわずらわせることができようか。また後世に、民が私のために両親を失ったと言われたくない。どうして戦勝の後に、まさにマスラオと言えようか。私の身を捨てることで国を固めれば、それこそマスラオではありませんか。』
という名文句で退けられてしまいます。ついに聖徳太子の遺児、山背大兄王一族は断絶。
 これを伝え聞いた葛野の秦造河勝は、聖徳太子より仏像を預かってから40年。当時では、かなりの高齢になっていたでしょう。山背大兄王の経済的後見役だったかもしれない人の胸中は!!
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
皇極 3年(644) 6月、また国内の巫覡たちは、蘇我の大臣が橋を渡るときを伺って、先を争そって神語を述べたという。その巫覡の数が多くて、聞き取れないほどの有り様であった。
〔↑これは、先年2月に続いて2回目ですね〕
 老人は、この様子をみて『時勢が変わる兆しだ』と語った。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この老人の言葉は、次の大化の改新を予想するのではなく、蘇我蝦夷・入鹿の一族が天皇家を凌駕して、社会の風潮が変わっていくことを愁いたものでしょう。
 たくさんの巫覡たちは、この蘇我一族へ取り入ろうと追従する連中ではないだろうか?新しい祭祀の売り込み???
 書紀では、この頃に流行った歌謡三首を記載。例の『はろはろに〜』という歌です。そのあとに、常世虫の記述が続きます。
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○ 蘇我蝦夷・入鹿による、聖徳太子遺児の排斥。
○ 山背大兄王一族の断絶工作。
○ 蘇我一族の専横による社会風潮の乱れ、不安。
○ 現天皇体制が変化しそうなきざし。

 そんな風潮を敏感に嗅ぎ取った集団が起こしたひとつが、常世虫教団だったのではないか。民衆だけでなく大臣へも取り入ろうとした巫覡が多い。大生部多という名もわからない。下賎の出身が大生部氏を語ったのかもしれない。
 『新しい富が来る』それは蘇我体制社会への宣伝ではないか?
常世虫がもっぱら食べる橘は、聖徳太子一族の象徴か!
 大生部多はどこかで蘇我蝦夷とつながっていたのではないか?
蘇我蝦夷は、影響力の弱い東国をなんとかするために、大生部多を利用したのではないか?

 政治・政略の表に出ることを控えていた秦造河勝が、どうしても打たねばならなかったのが大生部多。翌年の大化の改新には、裏からサポート。
 常世虫事件は、蘇我氏絡み・山背大兄王絡みの背景があったのかもしれない。
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〔以上、書紀を参考にしましたが、推論はフィクションです。〕

[1372] Re[1365]: 常世虫  かたばみ [Mail] [Url] 2005/08/22(Mon) 20:27 [Reply]

≫これが常世虫と呼ばれたのは、トキジクノカグノミと関係があるかもしれません

おおいに関係があると思います。
もうひとつ、遼東出自らしき赤染造になぜ常世の姓をあたえたのか、これも関係があるとみます。

雄略紀3年に呉国(南朝の意でしょう)へ使者を送っていますが、弥生〜古墳時代の船の図像などからは王朝の外洋航海の技は失われていると思われます。
初期の遣唐使も朝鮮半島西岸を北上して遼東南岸あるいは少し南進して山東半島へ上陸しています。
崇神時代のタジマモリも雄略の時代の使者もこのルートだったと考えられます。

タジマモリの常世の国がどこであったかはおくとして(持論:四川省〜チベット高原)、遼東〜山東半島北岸あたりが大陸旅行の最初の一歩で、遼東か山東あたりで道案内を雇うはずです。
長江〜四川は柑橘類など照葉樹の本拠地、常世虫もたくさんいるはず。

公孫淵は魏と対抗して呉と結ぼうとしています(卑弥呼時代)。
応神以降、雄略は南朝と交流、公孫淵の末裔(赤染造の祖先)を南朝への道案内に雇う可能性少なからず。
(公孫淵が魏に滅ぼされたとき238、その一族が倭国へ亡命していた可能性もある)
(公孫淵については様々なホントカイナ論がいろいろあるところ(^^;)

これらの流れと書紀〜平安初期での常世のイメージの反映が常世の姓や常世の虫になっているのではなかろうか。

≫都ミヤコにまでその布教が広がっていたということでしょうか

「都鄙」都と田舎、これがキーになるかもですね。
都というのが京都や奈良の市街地のことであるなら、一般人が実用としての蚕に興味を示すとは考えにくい。

幕末の伊勢のお札が空からふってきてとか、ええじゃないか、といった騒動と同じで、世相不安に乗じた扇動者がいたのかもしれない。
(ええじゃないかも名古屋とか東海がスタートらしい)

ひっかかるのは、秦造河勝は武人でも祭祀者でもないはずで、なぜ河勝が首を突っ込んできたのか、といったところ。


[1371] Re[1360][1359]:富士と邪教  かたばみ [Mail] [Url] 2005/08/22(Mon) 20:04 [Reply]
≫> 奈良時代では太めの繊維が好まれた
≫撚った糸の太さのことでしょうね。

いや、繊維の太さです。
繊維の測定として断面積、断面完全度(扁平度合い、円形に近いかどうか)、毛羽立ち、の三要素をメインに測定するようです。
北方系の蚕の繊維は細い(断面積が小さい)のだそうで、布目順郎氏は寒冷気候のためであろうと推定しています。
弥生の繊維の断面積は漢のものと同じだが、日本の方が扁平なのだそうで、このあたりからも弥生の絹は国産品と推定できるらしい。

弥生の絹は九州北部のみ、次いで日本海沿岸から登場します(古墳初期とされるけれど・・)。
ついで近畿などからも登場。
かっては近畿から日本海沿岸へ伝播の論だったそうですが、現在は出土状況からこれは否定されて日本海沿岸の方が先みたい。


弥生の「糸」は太い、これは紡織技術と関連するようです。
生糸、繰糸、紡糸、練糸、どれがどうだかわかりませんけどいろいろあるようです(^^;
紡織技術は蚕の品種とは別で、弥生より古墳時代、古墳時代より飛鳥奈良とどんどん向上しています。
(緻密に織れるようになる)

後漢時代の文献では「絹」は糸が太くて荒いものだとあるそうです。
下ると、絹を{糸+兼}ケンと称するようになり、細密になっていったことを示すのだそうです。
魏志倭人伝ではケンが登場しますが、実物の出土は古墳時代からだそうです。
(羽二重は縦横(緯経)の経糸を2本使って織る、ケンも類似だそうです)

飛鳥奈良では{施の方を糸}アシギヌが登場して広く使われるようです。
絹より荒いとするようですが、ここでの絹は奈良飛鳥での絹との比較です。
この時代では畿内に近い地域の方が「繊維」が太く織りも緻密だそうで、畿内が蚕、紡織ともに先進地域になっているそうです。

現代の日本の絹は明治以降に画一化されてしまい、古代の織物の風合いを再現できず、それが必要な場合は中国雲南などの蚕の糸を取り寄せるらしい(先の倭錦の復元も同じく)。
きぬずれの音も現代の絹では出ないのだそうです、ありゃまあ(^^;


日本海沿岸の繊維は細く近畿の繊維は太い、布目順郎氏はこれも気候の影響であろうとしていますが・・
例によって青草をいっぱつ(^^;

瀬戸内から絹が出土していないのはなぜ・・
日本海沿岸の蚕は九州北部の蚕が広まったのではない(門外不出)。

出雲は国譲り(九州)によって半島南岸経由での中国との交流路を失い、高句麗経由で蚕を導入した。
北方系の(樂浪?)の蚕、繊維が細い。
温暖な瀬戸内では食糧生産目一杯、北方系に適切な山陰の空き地で絹を生産したのではないか。

そして出雲の崩壊(AD250頃)、九州から近畿へ入城した「何者か」は九州の蚕を運んで近畿でも生産を開始。
近畿では太い繊維となる(倭文でもある)・・(DNA分析を期待するところです)


1363
≫シンジュサン(樗蚕)なる蛾が有力候補だそうです

柑橘類も食べるんですね。
http://www.insects.jp/kon-gasinjyu.htm
ヨナクニサンと親戚ということなら南方系で温暖な東海地域で繁殖しやすそう(^^;


[1370] Re[1359]:富士と邪教  かたばみ [Mail] [Url] 2005/08/22(Mon) 19:59 [Reply]
≫蜂を神様にした話はあまり見かけないのが不思議ですね

皇極紀3年に「百済の太子余豊が三輪山に蜜蜂の巣を4つ置いたが増えなかった」とあります。
蜜蜂を増やして蜂蜜を得ようとしたのだと思いますが、飛鳥奈良でも甘味料は贅沢品であって必要品ではなかったのでそれっきりになったのでしょう。

対して蚕は古代から必要な虫だったのではないでしょうか。
仰韶文化から端を切り落とした繭が出土、サナギを食べた後の繭を利用した可能性があるようです。
麻は保温に不適で冬には寒い、繭ならほぐして真綿にすれば優れた保温効果を発揮。

縄文時代には真綿を利用していたのではないでしょうか。
紡織技術はまだなくても(糸が細すぎる)、楽器や釣り糸には使ったかも。
発見されていないだけ、大量に使われたはずの毛皮すら縄文での出土例はありませんし。

吉野ケ里だったかな、副葬品のない一般人の甕棺から絹がでたそうで、絹は贅沢品で貴族のものという定説が弥生時代では崩れるかも知れないそうです。


≫草木染めの技術は照葉樹林文化系の東南アジア人が、

桑の葉で絹を染めますね。
ゆとりのある時代であれば草木染めは世界普遍で生じると思います。
花や葉っぱの汁をなすりつけてみる、あるいは泥に汚れた衣服と洗濯。
貝を煮ているときに貝汁がくっついて紫色になったとか。


[1369] 氏 虫  神奈備 2005/08/22(Mon) 19:59 [Reply]
 蚕以外の虫で「富が来た」と言える虫は実際の所はないようです。そうするとこの虫祭りはやがては破綻することは目に見えていることになります。だったら、わざわざ秦河勝さんがおもむくまでもない所です。民衆の被害最少が狙いと云うよりは、破綻した後の秦一族への怨みは残るのがいやだったと云うことが考えられます。

 もし多氏(大生部多とは大生部に本拠のある多氏の男と云うか)がやっていたならば、秦氏はのんびり破綻まで眺めていたらいいのです。わざわざ祭祀氏族のルーツである多氏一族の反感を買いに出る必要はありません。また雄略さんの時、「コ」を集めろと命令されて「赤児」を集めてしまったほど蚕に鈍感だったのが多氏だったのです。

[1368] 但馬の大生部  恋川亭 [Mail] 2005/08/22(Mon) 14:36 [Reply]
 但馬には兵主神社が多いようですが、その中から大生部とつくものをリストします。

『神奈備にようこそ』HP「兵主神と邪馬台国」より
http://kamnavi.jp/ym/hiboko/
〔1〕但馬出石 大生部兵主神社「武速素盞嗚命」兵庫県豊岡市但東町薬王寺848
〔2〕但馬出石 穴見郷戸主大生部兵主神社「?」兵庫県豊岡市三宅47
〔3〕但馬出石 大生部兵主神社「大己貴命」兵庫県豊岡市奥野字宮1
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〔1〕兵庫県 出石郡 但東町 薬王寺 字 宮内
「大生部兵主神社 おおいくべひょうずじんじゃ」祭神:健速須佐之男命

『日本・モンゴル民族博物館』HPより
http://www.monpaku.com/bunkazai/sikinaisya/sikinaisya.html
【引用】『国司文書 大生部兵主神社 祭神素■鳴命武雷命斉主命甘美眞手命天忍日命 人皇四拾代天武天皇十二年冬十月出石郡司三宅連神床陣法博士大生部了等勧請之十二年冬十月三宅吉士神床賜姓連先是閏四月三宅吉士神床奉勅集子弟豪族具兵馬器械招陣法博士大生部了講習武事且設兵庫於高橋邑以蔵兵器大生部了祀大生部兵主神於兵庫測(大兵主神者素■鳴尊武甕槌命経津主命宇麻志摩遅命天忍命也)十三年冬十二月三宅連神床賜姓宿禰
 人皇四拾一代持統天皇己丑秋七月三宅宿禰神床率陣法博士大生部了至養父郡更杵村召集一国之■丁四分一講習武事設其地於兵庫又祀大兵主神云之更杵村大兵主神社三宅宿禰神床之子博床止更杵村■大生部了之子広掌軍事又為造兵器召楯縫吉彦令作楯楯縫吉彦祀其彦狭知命於兵庫側云之植縫神社博床之子孫云糸井連也』

『たんしん(但馬信用金庫)』HPより
http://www.tanshin.co.jp/zaidan/3rekisi/05ooikube/index1.html
【引用】『薬王寺の大生部兵主神社は「天王さん」と呼ばれ、牛馬の神様を祀る神社として古くから人々に親しまれてきました。いつ頃できたものかはっきりしていませんが、かつては県社として栄えた由緒ある神社です。
 用命天皇の時代(585〜587)、勅命を受けて三上山(京都・大江山)に棲む鬼の討伐に
やって来た皇子・麻呂子親王が、牛頭天王に祈願したという伝説が残っています。このことから、それ以前に創立されたものと推測されます。また国司文書には、天武13年(684)に社を別の地に移して祀ったとあり、その前後に現在の地に移されたのだと考えられています。』

 出石川の支流、薬王寺川の川上に鎮座。兵庫県と京都府の県境。神懸峠をこえると福知山市雲原となり、丹波路に出るようです。かなりの山ン中みたい。
 天武朝、「陣法博士の大生部了」という人が出てきましたね。
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〔2〕兵庫県 豊岡市 三宅47
「穴見郷戸主大生部兵主神社」

 円山川の支流、穴見川沿いにあるようです。手持ちの地図では単に「大生部神社」とのみ表記。詳細はまだ不明です。
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〔3〕兵庫県 豊岡市 奥野 字 宮1
「大生部兵主神社」祭神:大己貴命

 三宅の大生部神社からさらに穴見川を遡った山中にあるようです。奥野または土師谷の兵主神社とされるところ。ここも、詳細はまだ不明です。
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 但馬方面は興味深い古社が多いのですが、いろんな角度から見て認識を深めたいところです。大生部か〜・・・???

[1367] 潮来の大生  恋川亭 [Mail] 2005/08/22(Mon) 12:37 [Reply]
〔1〕大生地名
『大生』という地名でヒットしたものをリストします。
・秋田県 鹿角郡 小坂町 小坂 字 大生手
・茨城県 水海道市 大生郷新田町
・茨城県 水海道市 大生郷町
・茨城県 潮来市 大生
・茨城県 久慈郡 大子町 大字 大生瀬
・千葉県 成田市 大生
・石川県 鳳珠郡 門前町 字 大生
・京都府 相楽郡 和束町 大字 南 小字 大生水
・愛媛県 新居浜市 大生院
・福岡県 浮羽郡 浮羽町 大字 流川「大生寺」
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〔2〕潮来町の大生神社から

s_tanさんの『古代であそぼ』HPより、
茨城県潮来町大生「大生神社」(祭神は、建御雷之男神)
http://www.d3.dion.ne.jp/~stan/txt/tb1oob.htm
【引用】『由緒,伝承:元郷社でその創始年代は詳らかではないが鹿島の元宮といわれ古く大和国の飫富(おふ)族の常陸移住の際、氏神として奉遷し御祀したのに始まると言われる。』
 「大和国の飫富(おふ)族」というキーワードが出てきましたね。
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〔3〕潮来町の大生には古墳群がありました

『いばらきの文化財一覧』より、「大生古墳群」
http://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bunkazai/ken/shiseki/12-50/12-50.htm
【引用】『大生原台地には110余基からなる古墳群が存在し,県下でも最大の規模を誇る古墳群を形成している。この古墳群は古墳の集中状態から大生東部古墳群,大生西部古墳群,カメ森古墳群,田ノ森古墳群に四大別されるが,この古墳群は大生神社の西側に位置し,県指定史跡鹿見塚古墳をはじめ,子子舞塚古墳祉,天神塚古墳,白旗八幡古墳など20数基の古墳を包括する大生西部古墳群で面積8.8hの地域である。この古墳群は,古墳時代中期の築造と推定され,旧時の状態を良くのこしている。大生原古墳群の被葬者が鹿島神宮と密接な関係のあったオフ氏一族の奥津城であったことは各方面から立証されているところである。』
 「オフ氏一族の奥津城」ここでもキーワード。
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〔4〕大生の地名由来

『「勾玉三部作」あれこれ』より、
http://www.tcn-catv.ne.jp/~nue/MAGATAMA.htm
「常陸風土記−3.牧歌的なヤマトタケル」の章
【引用】『ヤマトタケル伝承を語り伝えたのは、建部(たけるべ)という部民であるというのが通説になっていますが、その建部の出身地の大生の里は現在の潮来町大生です。そして、その「おほ」の名の由来は、ヤマトタケルが相鹿(おうが)の丘前(おかざき)の宮(麻生町岡)にいたとき、膳炊屋舎(おおいどの)を構えていたため、大炊(おおい)の意味から大生の村、と名付けたとのことです。さて、この相鹿の名も、この地で大橘比売命(おおたちばなひめのみこと)と相い逢われたころより「安布賀(あふが)の邑(むら)」と呼ばれていたということです。』

『白鳥異伝』(安布賀(逢鹿・相鹿))
http://srg.gateau.jp/ogiwara/hakutyou/aria3.htm

 当初、麻生(おう)が大生かなと思っていたのですが、常陸風土記の行方郡の条には、ちゃんと大生で記載されてました。でも、風土記の地名由来は眉唾が多いからナ〜?
【注記】常陸風土記では、茨城国造は壬生連麿、那珂国造は壬生直夫子であって、多氏ではない。多氏説に対するポイントかな、と思います。
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〔5〕大生氏の一族

『潮来市の城郭』(リンク先が見れないのでキャッシュから引用)
www.aa.aeonnet.ne.jp/~redrice/castle/data/itako_c.htm
【引用】『(2)新城 概要:この寺、大生山延命院観世音寺は、701年に、この地を支配した大生氏(注意:おうう、おう、おふ、呼び方が一定ではない)によって創建。同氏は鳳凰台城を本拠にしていて、ここは支城だったようだ。』
『(5)鳳凰台城 概要:城址碑の背面の記事に寄れば、1183年、葛原親王を祖とする一族の14代目が大生玄幹を名乗り、築城したことに始まる。また、1614年19代目の弾正平定守公が大阪の陣に参戦するために出兵し、その途中で駿河で病没とある。これだけの情報だけだが、重要な要素を含んでいる。他の南方三十三館の城主は、ことごとく佐竹氏に滅ぼされている。戦国時代を何故生き残ることが出来たのか。不思議な一族である。』

『潮来市鳳凰城跡』より、
http://www.ushiq.net/~castle/kennan/main122.htm
【引用】『行方郡大生村にあり、鳳凰台城と言ふ。大生弾正定守、父定信の家督を受け佐竹氏に属し大生を大野と改む。慶長17年(1612)土井利勝之を徳川家康に薦む。其長男定仍召出され、大阪の役に従ふ。後3,000石を領す。其の子庸定1,000石を給ふ。其の子専定、主税と称し加賀に仕う。(『新編常陸国誌』)
 一方、地元の語郡によれば、大生八郎平玄幹の築城に成り、当地の広大な領地を有し居りたるも、島崎氏に攻略され出城となり、後島崎氏も佐竹氏の奸略に遇った。然し佐竹氏秋田に移封されたるに及び廃城となる。』

 戦国時代までは大生氏という豪族が居たようです。「701年にこの地を支配した」&「葛原親王を祖とする一族」。どこまで遡られるか、ということですね。潮来の大生には、古社・古墳群・戦国豪族を残す勢力があったことまでは判りました。
 さて、この大生氏は、大生部と関係があるのかどうか???

[1366] Re[1356]: 富士と邪教  神話の森の番人 [Url] 2005/08/22(Mon) 09:38 [Reply]
> 他に玄松子さんの建穂神社の解説中に
> http://www.genbu.net/data/suruga/takyou_title.htm
> 服織という地に隣接しており、建穂地域を中心に秦氏の一族が居住していたらしく、また、「馬鳴大明神」の馬鳴は、蚕虫に化生した馬鳴菩薩によるもの。つまり、養蚕を営んでいた人々によって祀られた神社らしい。

玄松子さんの神社記憶の静岡県のところを見たら、
旧遠江國引佐郡式内社に「蜂前神社」(はちさき)の名がありました。
http://www.genbu.net/data/toutoumi/hatisaki_title.htm
さすが静岡県、いろんな虫の神社があるものだと思ってよく読むと
15代応神天皇の時代の創建で、19代允恭天皇のころから鳥飼神社、羽鳥大明神と称されたが、延長五年(927)に蜂前神社の名に戻したとあります。

駿河国安倍郡の「建穂神社」の隣村の「服織」は「羽鳥」とも書かれ(地名辞書による)、となると、蜂前神社とも関係が深いようで?、蜂前神社は
> 十五代應神天皇十一年庚子三月八日(西暦二七〇年)に八田毛止惠と云う人が勅命によって遠江國に下向して、八田(祝田の古名)の45町、……合せて123町余りを開墾し、本社を八ケ前に勧請
というのが創建のいきさつです。

「八田」といえば仁徳天皇の妃の八田若郎女。古事記で八田若郎女が登場する前後に
「奴理能美が養へる虫、一度は匐ふ虫に為り一度は鼓に為り、一度は飛ぶ鳥に為りて、三色に変る奇しき虫有り。」と、やはり養蚕のことが書かれています。

読み方は、鎮座地の八ケ前は、ハチガサキでしょうか。
八田若郎女の八田は、普通はヤタです。
鎮座地の「祝田」はハッタです(地名辞書による)。となると八田毛止惠の八田はハタなんでしょう……?

[1365] 常世虫  恋川亭 [Mail] 2005/08/21(Sun) 22:08 [Reply]
 少なくとも日本書記には、常世虫が糸を吐くという記述や、そのような思わせぶりがひとつも無いことが気になり投稿します。

(1)大生部多という名前
 まず、『大生部多』の「大生部」がよく判りません。部とあるからには、「大生」の部の民なのでしょうか。もしそうだとすると、「大生」氏と「大生部」はイコールではない?
 岩波文庫の日本書紀の註には、大生部多について、
『他に見えず。大生部の姓も姓氏録に見えない。続記、神亀元年二月条に大生部値三穂麻呂がある。』
と、書いてあります。「大生部値三穂麻呂」どこの人かな?

> [1354]:『富士と邪教』神奈備先生(2005/08/17)
> 常陸には大生神社(おおうじんじゃ:茨城県行方郡潮来町大生814)が鎮座、元鹿島と云われているようです。
> 大生部と云えば、但馬国出石郡の大生部兵主神社(おうべ、おおいくべ)を想起します。

大生神社と大生部兵主神社の2つが、今ある手がかりですね!

> 谷川健一氏の説では多氏で神八井耳命の子孫で、肥の国の多(意富)氏が先祖の建貸間命を奉じ常世信仰を携えて常陸に移住したと推定されています。

 大生部多の「多」は氏を示すのかな?
『多(意富)氏の一族だから、名乗りを「多」とする。』変?
『大生部(という地にいる)の多(一族の者)だ。』変?
『大生部(グループ)の多(一族の者)だ。』変?
 私は個人の名乗りのように思っていました。
『大生部(という部の民)の多(という名前)だ。』変?
 大生部が解決しないと大生部多について判りませんね。

(2)教団
 書紀の皇極紀には、大生部多の言葉として、
「これは常世の神である。この神を祭れば、富と長寿とをもたらす。」といったこと。
さらに、『巫覡たちは』として、
「常世の神を祭ったなら、貧しい人は富むようになり、老人は若返る」といったとあります。
 大生部多を教祖として、そのまわりに「巫覡たち」という取巻きが居たことが判ります。そして、この巫覡たちは、「ついにあざむいて、神の言葉に託して」とか「ますます勧めて」とかエスカレートしていく様子が表現されています。教団グループとして活動していたのですね。
 その信者たちに、民家の財宝を捨てさせ、酒をならべ、菜、さらには馬、牛、羊、豚、犬、鶏といった家畜までも道脇にならべさせて「新しい富が入って来た」といったとあります。さすがに民衆がこれでは税金を取る側は困る、これは経済活動への挑戦?当然、捨てさせた物は教団の資源にしたのかな。

「都鄙の人、常世の虫を取りて、清座に置きて、歌ひ舞ひて、福を求めて珍財を棄捨つ。」東国の不尽河の村里だけでなく、都ミヤコにまでその布教が広がっていたということでしょうか。

(3)秦の河勝
 この皇極紀だけでは、大生部多が「東国の不尽河の辺の人」ということは判っても、教団の本拠地がどこにあったかは保証していません。葛野の秦造河勝が富士川まで行ったのかは不明。ただ、河勝が大生部多を打ったのち、「その巫覡等、恐りて勧め祭ることを休む。」とありますので、トップのみを懲らしめたのでしょう。

 広範囲に流行した常世神の信仰ですが、
「かつて益すところなくして、損り費ゆること極て甚し。」
 やはり社会の経済活動にかなり支障をきたしたのでしょう。
「是に、葛野の秦造河勝、民の惑はさるるを悪みて、大生部多を打つ。」
 政府の指示ではなく、河勝が独自に成敗したような書き方です。その理由として、信者が損することが極めて甚だしい→民が惑わされるのを憎む、と明記されています。
 これは、当時の経済の支障が、河勝の活動に直撃する構造があったのではないかな、と考えたくなります。「秦氏の養蚕事業」と矮小化するのはまだ早いかも。
 その後にはやった歌、
「太秦は 神とも神と 聞え来る 常世の神と 打ち懲ますも」
これを裏読みすると、大生部多を打ったのは河勝の手持ちの「私兵」とも想像できます。

(4)常世虫
「この虫は、常に橘の樹に生る。或いはホソキ(はじかみ:山椒)に生る。」
 ここでは「常に〜或いは〜」として、はっきりと橘と山椒のみを示しています。あいまいな表現ではありません。
「その長さ四寸余、その大きさ頭指ばかり。その色緑にして黒点がある。そのかたちもっぱら養蚕に似れり。」
 この説明も簡潔ですが確かな記述です。形が蚕に似ているとありますが、繭をつくるとか、糸が取れるという「本来ならとても重要なこと」が書いてありません。もし糸が取れるなら、野蚕だとか蚕の一種だとかという記述がされるのではないでしょうか。この常世虫は、繭を作らなかったのでは?養蚕に似ているというのは、形についてのみの記述です。
 私は、常世虫というのはアゲハ蝶の一種ではないかと思ってました。子供の頃よく、柑橘系の葉をとってきてアゲハ蝶の幼虫を育てたことがあります。
 ひょっとして、これが常世虫と呼ばれたのは、トキジクノカグノミと関係があるかもしれません。

(5)皇極紀
 この常世虫の記述があるのは、皇極紀三年の秋七月。翌四年の六月には大化の改新です。常世虫の件の前後も、内政外交と難しい状況が続いていた頃。怪奇な現象の記述も目立ち、民心の不安も増大している様子が伝わります。
 わざわざ書紀にとりあげた「常世虫事件」は、何か深い理由があるのかもしれませんね。

 私には、常世虫が蚕の一種となっていく話の展開が判りません。日本書記以外の資料で裏付けされる記述がありましたら、お教えください。
 参照と引用は、「日本書記 四」(岩波文庫)と「日本書紀 下」(山田宗睦、ニュートンプレス)でした。
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> [1356]:『富士と邪教』神奈備先生(2005/08/19)
> 駿河には常世蓮と名乗る秦氏系の氏族が住んでいたと云います。
> 文献は不明。↓のHP。
> http://www.eonet.ne.jp/~mansonge/mjf/mjf-51.html

青草な私が言うのもナンですが、渡来に対する視点に関して、私にはこの↑HPの主張もファンタジーに思えるのです。出版物でも、こういう渡来観の本はかなり多いのですが、実際どこまで事実として検証できるのでしょうか・・・、
と考え込んでしまうのです。

[1364] Re[1359]:富士と邪教  恋川亭 [Mail] 2005/08/21(Sun) 21:53 [Reply]
> 言蛇さん
どうも! ははは〜、毎夜へべれけで投稿してます〜 m(__)m
月を眺めて、おィちィ水、一献また一献です。オチまで辿りつけません。
回ってしまって論が書けずに、書き込みは参考文献リストのみに。(@_@)
失礼すますた〜。

[1363] Re[1362][1356][1355][1354][1353][1345]: 富士と邪教  神奈備 2005/08/21(Sun) 21:38 [Reply]
> 橘や山椒を食草にする蝶ないし蛾で絹糸虫がいるかどうか。

 『古代の虫まつり』(小西正己著学生社)によりますと、シンジュサン(樗蚕)なる蛾が有力候補だそうです。
 蝶ではクロアゲハは近いようですが、該当する虫はないとのこと。
 このジュンサンは蚕のように室内でなくとも、野生の橘の木などで成長する蛾で、絹糸を吐くようです。もっともジュンサンは現在商用利用されていないようです。
 繭から一本の糸を繰り出すことは出来ないが、つむぎ糸や紡績用には使えるようです。引用以上

 これが新しい富と言えるほどのもにかどうかは確証はもてませんが、絹のつむぎの着物を考えると垂涎の的ざーますかも。

[1362] Re[1356][1355][1354][1353][1345]: 富士と邪教  かたばみ [Mail] [Url] 2005/08/21(Sun) 20:54 [Reply]
≫常世蓮と名乗る秦氏系の氏族が住んでいたと云います

そのHPの内容にはちょい?ではあります(^^;
天武紀元年672に赤染造徳足が登場、天平勝宝2年(750)に常世連姓を賜り、姓氏録では燕の公孫淵の末裔のようですね。

遼東〜高句麗あたりのだれかが高句麗滅亡668で渡来帰化し、名からは染色職人と思われますから秦氏の管轄下に組み込まれてはいただろうと思いますけれど。
平安の女流歌人の赤染衛門は赤染氏(赤染造)の系譜のようです。

ご紹介いただいた
http://www.ipc.kit.ac.jp/~nagaoka/ichida/page3/page3.htm
にはありませんが、橘や山椒を食草にする蝶ないし蛾で絹糸虫がいるかどうか。

アゲハの仲間じゃサナギだけだし、夏休みの勉強になる程度で神様にはなりそうもないし(^^;
(東南アジアなど目立つ種類は別)
橘というのは書紀が付け加えた話のように感じています(アゲハ蝶の紋所のスタートかも)。

もし、そういう絹糸虫がいれば秦造河勝はそれをつぶしにかかるのは間違いなし。
独自の蚕の異伝か、書紀の文言通りに養蚕もどきのインチキ商法の撲滅か、ま、どっちかだろうな(^^;

その河勝を詠った歌がなんとも皮肉っぽくて愉快ですね(皇極紀3年)。

尚書に「桑木は箕星の精、木虫葉を食い文章と為し、人これを食い老翁小童と為る」
(原文未確認)
皇極紀の「老いたる人は還りて少ゆ」はこのあたりの文言を参考にしているのかもしれない。

≫馬鳴大明神と云う神も珍しいですが、蚕神のオシラサマの伝説に相思相愛の馬と娘が出てきました。
≫馬と蚕、このとりあわせもまた珍しい。

日本でも馬と蚕のつながりがあるんですね。
中国の生命の樹によれば、戦国〜漢時代に馬と桑が合体するブームがあったようで、桑の木に馬をつなぐ図像がたくさんあります。
下って北魏(384〜535)の「種桑拓」という本に「捜神記」を引用して以下の話が書かれているそうです。

家に女と馬がいた、女は遠くにいった父を思って、馬に戯れて言った。
父を迎えることができればお前の嫁になりましょう。
馬は手綱を切って父の所へゆき、父は何か起きたのかと思ってその馬に乗って帰ってきた。

女と馬がその後どうなったかは不明。
蚕はでてきませんが「種桑拓」という名称から、養蚕に関係があるお話なのだと思います。


[1361] Re[1359]:富士と邪教  琉球松 2005/08/21(Sun) 20:33 [Reply]
言蛇さんへ

 琉球圏の弥勒信仰は、たぶん、中国における反体制勢力が持ち込んだと考えられます。
 時代は、空海や円珍が「琉球は鬼の島」として敵視していた頃でしょうか。
 あるいは、東国の弥勒信仰と共鳴関係にあったのかもしれません。

。。「各島固有の土着信仰で抵抗」とは言っても、琉球圏のそれは、ほとんど邪馬台国的なものです。。
 つまり、邪馬台国思想?を崩壊に追いやった当時の中央政府と敵対している!
 これは、西暦812年以前には占領されたであろう奄美諸島の民俗から推測できます。
 奄美には、伝統的琉球(邪馬台国派?)と仏教説話が混在していますね。
 この島々は、邪馬台国思想と強権的仏教の思想戦の場であったのではと考えています。

 1609年の薩摩侵攻による思想的打撃はほとんど受けていませんね。

[1360] Re[1359]:富士と邪教  神奈備 2005/08/21(Sun) 11:21 [Reply]
> 秦氏は渡来系であり大生部多が同じ氏族と考えるのは早とちりかも。
> 長野でも百済系渡来人と縄文・弥生系は別集落だし・・・・

早とちりとされる理由が、別集落だと云うことでしょうか。
その弥生系とは縄文人が弥生文化を受け入れて弥生系と称された人々のことでしょうか?
長野に弥生文化を持ち込んだのは縄文人ということ?
もしくはどっかで縄文人が弥生人となって移住してきたとか。


> 奈良時代では太めの繊維が好まれた
撚った糸の太さのことでしょうね。太いと経緯の密度が荒くても織物になり、織物の生産性が高いのです。
 一本一本の繊維の太さ、絹で云えば広東絹が1μ程度で最も細いものです。品の良い織物になりますね。

[1359] Re:富士と邪教  言蛇 [Mail] 2005/08/21(Sun) 02:02 [Reply]

「月草のうつろひやすく思へかも我が思ふ人の言も告げ来ぬ(万葉集586)」

喫茶店「アムリタ」によられてから恋川亭さんが酔っ払い気味に見えるので万葉集より上の句をお届けしておきましょう。
「あやとり」だけで済ますのであれば「南総里見八犬伝」を書いた曲亭馬琴が源為朝琉球入り伝説をもとに「椿説弓張月」を執筆しているので一読してみてはいかがでしょうか。テーマが変若水と若水だけにオチを付けられなければ若水になってしまいますよ、ということで(苦笑)
#恋愛に関しては、神々の話より万葉集の方が優秀ですね

神奈備 さま>結果として、個人が嫌いだとする宗教法人になった団体をして
この点においては各個人明瞭に意思表示するのが正しいと思います。

琉球松 さん>朝廷仏教に対し、弥勒と共に戦うわけですね。
 はじめましてこんにちわ、よろしくお願いします。
歴史上、沖縄に攻め入ったのは江戸時代の薩摩藩です。琉球松さんの場合はちょっと混合がはじまっています。かりに朝廷仏教が沖縄にきたとしたら、各島固有の土着信仰で抵抗するのが筋です。彌勒を掲げて闘ったら私は「仏教流ねずみ講」と判断します。

●蚕関連
神奈備 さま>常世の神とされた虫の特徴は『皇極紀』によれば、以下の通り。
 日本には野蚕として天蚕蛾が知れれていて、ナラ、クヌギ、カシなどの広葉樹に見かけます。
この常世の神とされた虫、作者が天蚕蛾をもとに「常世」にひっかけて橘につく蚕として創作したのではないでしょうか、姿形は天蚕にそっくりです。

 会津に蚕養国神社というものがあります(*1)
こちらは三角鳥居のような奇抜なものではなく、素直な神社です。
蚕にちゃんと繭を張らせるのであれば三角ではなく、やはり方形じゃないかと。
長野では蜂の子を佃煮にして食べているんですが、蜂を神様にした話はあまり見かけないのが不思議ですね・・・・貴重な甘味料として重宝されそうなんですが。
(*1)http://www13.plala.or.jp/kogaikunijinja

かたばみさま>絹の東伝/布目順郎によれば奈良時代では太めの繊維が好まれた可能性があるのだそうで、倭文の蚕は長江系の蚕(繊維が太い)のようです。
 はじめまして、いつもお疲れ様です(謝
 絹織物に需要がでてきたのは大和に宮廷文化が花開かれてからで、大生部多もそれを受けて養蚕を勧めはじめたのでしょう。絹の東伝の前には各氏族ごとに植物繊維からなる染織物技術が既に成熟していたはずです。そうでないと、絹織物をつくろうとしても作れないし。絹は色を染めるのが大変だったから、市場商品としての価値が生まれるまで地方氏族には見向きもされなかった^^;

 秦氏は渡来系であり大生部多が同じ氏族と考えるのは早とちりかも。
長野でも百済系渡来人と縄文・弥生系は別集落だし・・・・

草木染めの技術は照葉樹林文化系の東南アジア人が、藍染めに土壌の都合がいい沖縄諸島を経由して日本に渡ったと考えています。台湾原住民は楮・麻で氏族ごとに精巧な民族衣装を編み上げましたし沖縄では泥を活用した麻の藍染めが発達、これは秦氏の技術と無縁で各土地固有のものです。

[1358] Re[1357]: 丹塗矢のお話 横道で道草  恋川亭 2005/08/20(Sat) 23:53 [Reply]
 天満さんとは異なりますが、丹塗矢の件で最近の本を思い出したので。

『愛とまぐはひの古事記』(大塚ひかり)

 「大便美女のエクスタシー」の章で、丹塗矢に変身した神さまの話しが展開されています。ひかり先生は私と同年代なので、初期の出版物から購読していたのですが・・・、最近は、あられもないというか、みもふたもないというか、どんどんエスカレートしてきまして、「誰か止めたらんかいッ!」という状況です。(まぁそれだけ、古典の解釈説明が真っ当な証拠なのですがね。実際、わが国の古典は、つまるところ、みだらでふしだらであけっぴろげなんだもん。それが、西洋・北方・中韓の文化との違いとはいえます。小中学生には読ませられないR指定的ではありますね。)
 でも古典読解は、ここからが出発点ですらありましょうぞ!?
 読んでる方が恥ずかしくなるけど、是非ご一読を(笑)。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
丹塗矢・・・
素直に思えばハイソの当て付けでしょうか?例えば、
 論外者→適当な木材の切れ端の矢
 貧乏人→適当な竹材の矢
 中流人→吟味されたよい品質の竹材の矢
 上流人→最高級の竹材を洗練された職人が加工した矢
 神王族→丹塗矢(超高級品)
丹塗矢の1本で、貧乏人が数年暮せたとかを空想。

[1357] 丹塗矢のお話  神奈備 2005/08/19(Fri) 21:29 [Reply]
 丹塗矢のお話が大阪にもありました。
『三輪山の考古学』(菅谷文則氏「神話成立を考古学から考える」学生社)から
ほんまかいな??

 神が異常な生まれ方をする説話は世界的に分布しています。大神神社や賀茂別雷神社の話はそのようなものです。必ず女性が川の水が流れている所で用を足していると、上流から赤く塗った矢が流れてくるというのです。

 大阪天満宮のいい伝えをあげておきます。大阪の天神祭というのは関西の人がよく見に行くお祭りですが、最近は船渡御なども賑々しくやっています。あのお宮の天神祭のいちばん大事なところは何かというと、社殿の中に一年問おられた男性(菅原道真神)が、一年に一度だけ扉を開かれ、赤い矢に載せて頂き、それを載せた船は大川を渡ります。

 いまは大川という名前しか残っていませんが、あれは淀川の本流です。いま淀川本流は十三を通っていますが、毛間の閘門が明治後半に出来るまでは大阪市内を流れていました。天神祭では船を大川へこぎ出してその矢をお流しするのです。そうすると、その赤い矢は水のまにまに流れていきますから、その後ろを神官その他の人が船で追いかけていき、その矢がどこの岸に着いたかを調べる。着いた所がその年のお旅所です。

 そこが仮のお旅所なのですが、年によるとお宮から十メートル流れて岸に着けば、そこがになる。逆に海に行ってしまったら大変です。あまりに遠くへ行き過ぎると困るので、そのうちにぉ旅所の位置を決めるようになりました。菅原道真の神様も楽しみを奪われたことになります。
引用は以上

 平安時代の半ばに神社が設立されて、お祭りの開始ははこれより後のことでしょうから丹塗矢伝承が持ち込まれたのは中世から近世と云うことになります。人々の意識の潜在部分に残っていた強烈な話だったのでしょうね。
ほんまかいな??

また淀川のすこし上流に三島鴨神社が鎮座、この地域のは鴨神を雷神とする信仰が分布しており、天満宮の船渡御は菅原道真神と関係なく、雷神信仰としての丹塗矢が持ち込まれたのかも知れません。

[1356] Re[1355][1354][1353][1345]: 富士と邪教  神奈備 2005/08/19(Fri) 19:39 [Reply]
駿河には常世蓮と名乗る秦氏系の氏族が住んでいたと云います。文献は不明。↓のHP。
http://www.eonet.ne.jp/~mansonge/mjf/mjf-51.html

他に玄松子さんの建穂神社の解説中に
http://www.genbu.net/data/suruga/takyou_title.htm
服織という地に隣接しており、建穂地域を中心に秦氏の一族が居住していたらしく、また、「馬鳴大明神」の馬鳴は、蚕虫に化生した馬鳴菩薩によるもの。つまり、養蚕を営んでいた人々によって祀られた神社らしい。
とあります。
大生部多さんは、いかにも多氏のような雰囲気ですが、多氏が新たな養蚕絹織物を開発していくとしたら、天皇家や蘇我氏が庇護をする可能性もあります。しかし、秦氏に処理を任せたのはやはり秦氏の一族内のもめ事だった可能性もありえます。

馬鳴大明神と云う神も珍しいですが、蚕神のオシラサマの伝説に相思相愛の馬と娘が出てきました。馬と蚕、このとりあわせもまた珍しい。

[1355] Re[1354][1353][1345]: 富士と邪教  かたばみ [Mail] [Url] 2005/08/18(Thu) 20:27 [Reply]

≫谷川健一氏の説では多氏で神八井耳命の子孫で

大生部多のことを調べたことはありませんが、その可能性は高いと感じます。
多(意富、オホ)氏系譜は神武+出雲(事代主命)の系譜であり、弥生〜古墳時代中期までの祭祀と経済を差配しており、葛城も同系とみています(武内宿禰に続く系譜だとは信じておりません)。
(これらは元祖の倭の系譜(^^;)

そして応神となって半島系の倭と百済が混合(百済系の紡織技術渡来と推定)。
本舗の倭の登場(^^; →これが倭王五代(九州)
ちなみに仁徳〜允恭は近畿での元祖の系譜・・略(^^;

雄略時代に元祖の葛木が滅ぼされ、本舗の秦酒公が登用されて渡来系の技術あるいは人々の統括者になった。
秦氏がいろいろに重なるように見えるのはこのためだと思います。
元祖の倭文系の絹も本舗の支配下となって秦氏が独占した。

絹の東伝/布目順郎によれば奈良時代では太めの繊維が好まれた可能性があるのだそうで、倭文の蚕は長江系の蚕(繊維が太い)のようです。
大生部多はそれをもって独立しようとし、秦氏はそれを阻止しようとした、なんて空想するところです。


≫これは虫の栄養価が高いことを云っているのでしょう

養蚕となってからもサナギを捨てるはずはないですね。
食糧も兼ねる、神様になりそうです。


[1354] Re[1353][1345]: 富士と邪教  神奈備 2005/08/17(Wed) 17:10 [Reply]
> ≫大生部多が蟲祭ることを村里の人に勧めたと云うことが
> 大生部多

この教祖さんは一体どのような氏族の人だったのでしょうか。
谷川健一氏の説では多氏で神八井耳命の子孫で、肥の国の多(意富)氏が先祖の建貸間命を奉じ常世信仰を携えて常陸に移住したと推定されています。
常陸には大生神社(おおうじんじゃ:茨城県行方郡潮来町大生814)が鎮座、元鹿島と云われているようです。

大生部と云えば、但馬国出石郡の大生部兵主神社(おうべ、おおいくべ)を想起します。兵主神の分布は秦氏の分布と重なっていると云われ、従って大生部多も秦氏の一族であり、養蚕織布技術に通じており、橘の木などで成長する蚕をもって織物を作り、「新しき富が入った。」との宣言を行い、信仰を広めたのかも。
秦河勝としては、身内の反乱ととらえて、誅罰したのかも知れません。

この虫を祭れば「老いたる人は還りて少(わか)ゆ。」とあり、これは虫の栄養価が高いことを云っているのでしょう。
信州珍味 まゆこ大和煮、かいこさなぎ大和煮
http://www.ipc.kit.ac.jp/~nagaoka/ichida/page3/page3.htm
がおみやげとして売られています。

ついでに絹糸は手術用の糸として重宝で、蛋白質だから抜糸が不要かも。

[1353] Re[1345]: 富士と邪教  かたばみ [Mail] [Url] 2005/08/17(Wed) 11:57 [Reply]
≫大生部多が蟲祭ることを村里の人に勧めたと云うことが

常世の虫、蚕だろうなあ(半島系ではない蚕じゃないか)。
秦氏が独占していた養蚕とは異なる独自養蚕を広めようとする動きが生じた。
むろん秦氏はこれを妨害するわけで、それを書紀は邪教弾圧の形で書いたんじゃないかなあ。

東海地域は日本で年間日射量が最も多い地域で、○Mソーラーハウスなんて団体もここからスタート。
もう古典でしょうけど「宗教から科学へ」。
仮に実益が伴わなくても心理的満足が得られればそれでもOK。


≫富士登山を禁止する運動があったようですが、どうなったのかな

ライセンス制度を導入すべしと考えています。
富士や上高地あたりなら3級、尾瀬や根室湿原なら1級といったような。
ライセンスを持っていない場合はガイドを伴う場合にのみOK。
自然保護関連の職業としての場も作れますし。


[1352] 富士と邪教  琉球松 2005/08/14(Sun) 22:26 [Reply]
 霊気や信仰、信心の悪用というのは、政治権力が民衆支配の道具として用いる場合だと考えます。
 例えば、沖縄に残る説話では "釈迦は意地悪でずる賢い者" とされています。
 島民にとって、オリジナルな仏教など知るよしもなく "正しさ" を押し付ける朝廷仏教に対し、弥勒と共に戦うわけですね。
 現在の日本国もちょっとヤバイと思いますが。。。
 

[1351] Re[1349]: 富士と邪教  恋川亭 2005/08/12(Fri) 01:03 [Reply]
> 富士山を世界遺産にとの運動があるようですが、バイクなどで五合目よりも上の禁止区域へ行く者が後をたたないこと。
> 一般登山客は夏には蟻の富士登山の盛況で、その糞尿が登山道以外の表層を流れ落ちている状況で、これでは世界遺産には不向きなこと。

Ohhhhh!Nooooo! (懊悩!)
Oh,my God! (お前がっ!)
中高年登山者達の最悪マナーは、関西でもよく実見しています。(涙)

> 確か、富士登山を禁止する運動があったようですが、どうなったのかな。

大賛成です! 入山制限は是非とも必要だと思います。賛成に1票。

[1350] Re[1348][1345]: 富士と邪教  神奈備 2005/08/11(Thu) 14:22 [Reply]
> > 富士山の霊気を悪用するなと云いたい。
> 何をもって『悪用』と考えるかが問題。

結果として、個人が嫌いだとする宗教法人になった団体をして、悪用と云うわけで、そのメンバーなりおかげを蒙っている人々には悪だとの観念は少ないでしょうね。

[1349] Re[1347][1345]: 富士と邪教  神奈備 2005/08/11(Thu) 12:15 [Reply]
富士山を世界遺産にとの運動があるようですが、バイクなどで五合目よりも上の禁止区域へ行く者が後をたたないこと。
一般登山客は夏には蟻の富士登山の盛況で、その糞尿が登山道以外の表層を流れ落ちている状況で、これでは世界遺産には不向きなこと。
確か、富士登山を禁止する運動があったようですが、どうなったのかな。

[1348] Re[1345]: 富士と邪教  玄松子 2005/08/11(Thu) 10:36 [Reply]
> 富士山の霊気を悪用するなと云いたい。

何をもって『悪用』と考えるかが問題。その価値観の違いが思想・宗教の違いでもあると思います。
宗教を装った悪徳商法以外は、当人達は「悪」だとは思っていないでしょう。

悪意の無い、善と善の対立においても、悲惨な戦争は起こりうると思います、というか、ほとんどじゃないかなぁ。

[1347] Re[1345]: 富士と邪教  恋川亭 2005/08/11(Thu) 00:03 [Reply]
>  駿河の国と云えば富士山ですが、不じ河の辺の人大生部多が蟲祭ることを村里の人に勧めたと云うことが、『日本書紀』に載っています。

 今はなき、故・らもやんの『ガダラの豚』はアフリカ呪術による騒動が面白い小説ですが、ラストは、「大生部多が蟲祭ること」をご存知の方には・・・(あ、ハイライト部分をばらしてしまったかな?)ニヤリと笑う名作ですね。
 立川流については同時代に生きてなかったので、私には難しいですが、次の2点は、

> 創価学会・・・オウム・・・

 例え法的な事務的手続きを完了していようとも、本質として宗教ではないモノなので、他の宗教と同列に扱えないですねぇ。これらは邪教以前、邪教ですらないと愚考してます。

 話題が異なりますが(板違い)、なぜ静岡でオリンピックをしないのでしょうか?
広大な富士の麓でのオリンピック開催こそ、世界中から喜んで受け入れてもらうと思います。富士山を背景のマラソン中継なんて素晴らしい絵になりませんか!どこへ向けて提案すればいいのでしょうか? 世界が待ち望んでいる日本の開催地ですよ!(勝手に言っている・笑)

[1346] Re[1345]: 富士と邪教  琉球松 2005/08/10(Wed) 21:55 [Reply]
 賛同です!!

 人が作り出した信仰、思想、哲学は、まずは全て正しいと見たいわけです。
 しかし、問題はそれらの悪用ですよね。
 沖縄が朝廷仏教と敵対していたのも、仏教の教えや僧侶個人に対してではなく、その悪用だったと考えます。

[1345] 富士と邪教  神奈備 2005/08/10(Wed) 15:56 [Reply]
 立川流の曼陀羅は裸体の男女が大きな蓮華をはさんで相対している。薄暗い部屋のこの曼陀羅を見たおそらくは全ての信徒は痺れるような感覚を得たのでしょう。なにせ現在のような裸体満杯の時代ではない江戸期の頃だったから。
 真言密教の一別派で、文字通り即身成仏であり、恍惚の極限としての涅槃で、女は最も生きている時に死ぬと云う。最初の男女交歓において忽ち成仏しなければならない。一回限りの待ったなしが本分。所が勿論信徒達は邪教化してひたすら官能生活を続けたのです。
 立川流は駿河の国に起こり、徳川幕府によって弾圧されました。
 駿河の国と云えば富士山ですが、不じ河の辺の人大生部多が蟲祭ることを村里の人に勧めたと云うことが、『日本書紀』に載っています。駿河の国は宗教の起こりやすい地域なのかも。創価学界も日蓮宗総本山大石寺の講が基だし、オウムも富士山が見える村だった。富士山の霊気を悪用するなと云いたい。

[1344] Edelweiss  言蛇 [Mail] 2005/08/10(Wed) 09:23 [Reply]
こんにちわ、いつも掲示板を楽しく拝読させていただいています。
長野県は林檎や葡萄の果樹園が多いのですがその多くは昔は桑畑だったそうで、
最近の織物話は楽しく拝読させていただいています。

さて、先日に長野に開かれた同人誌即売会(*1)において神社とキリスト教に関
する個人サークルを出展しましたので連絡としてここにかき込みにまいりました。
こちらのサイトの掲示板に投稿されている内容に触れる部分がありましたら、事
前に連絡しますのでよろしく願います。

ただ、穂高神社(*2)周辺で現代日常風景をテーマにすると、古事記や日本書紀
等との関連は盛り込み様も無く、せっかくの投稿記事にも触れにくいあたり痛し
痒しです(汗

それと即売会で聖書を取り扱いたい旨を教会の方に伝えましたら、聖書協会とギ
デオン協会の聖書を推薦されこころよく取り寄せを承諾していただきました。
この場を借りて、お礼申し上げます。
なんで穂高神社の名前をだして教会と衝突しないのかというと、穂高岳は人が造
ったものではなく神社はそれを素直に崇敬していることを伝えたからです。人の
上に造物主を置いてる教会の方になにか感ずるものがあったのでしょう。

(*1)(http://fairyeyes.gr.jp/fairy/)
(*2)(http://www.hotakajinja.com/)

[1343] Re)日本武尊  言蛇 [Mail] 2005/08/10(Wed) 02:43 [Reply]
>南九州の高校の歌にあるそうな。

いいですねー、ここの高校生と神奈備さまにはディズニーの「ブラザーベア」を
必見映画としておすすめします^^
アメリカ原住民の信仰と神話学をちゃんとディズニーは昇華しているいい映画で
す。ねずみ講とマルチ商法は×ですがディズニーねずみは一作完結で楽しい夜話
を提供しています。

ディズニーはアメリカの起源を把握していますが先の大統領選に当選した
のがブッシュ大統領なあたり、民主主義のむずかしいところです(汗
でも、日本武尊の時代に民主主義制があれば日本武尊は父親の無理難題かわせ
るんですよね・・・・・


[1342] 魔女狩り  言蛇 [Mail] 2005/08/10(Wed) 02:04 [Reply]
●写真掲示板の白馬教会より
>土俗信仰は塗りつぶされていて、特に中世では魔女裁判などひどかったようです。

クリスチャンの現代韓国旅行記を会報で拝読したのですが、竹島問題に言及すると
韓国クリスチャンの神父さんでも竹島問題では日本人への憤慨を日本人クリスチャ
ンへ素直に吐露されておりました・・・・

最近ではロンドンでアフリカの土俗信仰を融合させたクリスチャン神父が悪魔払い
と称して婦女子の殺人事件をおこしてしまいました(汗
元帝国の侵攻やペストにより現代以上にストレスが強かった中世では、宣教の過程
で土俗信仰を不用意に混濁してしまった結果として魔女裁判がおきたのではないか
と思います。一神教の聖典にしろ多神教の祭りにしろ、まずその意味を正しく酌め
ていることが異文化交流では大切なんでしょうね。混濁するよりは立場を○×はっきりした方が仕事として得るものが多いでしょう。

先日、上の悪魔払いについて質問したのですがほとんどの国内プロテスタント教会
では悪魔という実存生物の実在を認めておらず悪魔払いはしていないとの返答をい
ただいています。

言蛇が最近かよっている教会はこちらです↓
(http://www2.ocn.ne.jp/~gospel/)

#写真掲示板に聖書協会のリンクを貼ったのは著作権許諾を問題にしているので
#は無くて「キリストの言葉」を一語一句間違い無く復唱することが大切だから
#です。

[1341] Re[1340]: 補陀落山  神奈備 2005/08/09(Tue) 21:50 [Reply]
金平糖さん、こんばんは。金平糖と云えば緑寿庵清水。

補陀落山は一般的にはインドの南の海上にあるとあれていますが、地図でみますと内陸ですね。ここらが南の島であって、移動して今日の場所まで来たのだったら、凄い昔からの伝説になりますね。
チベットの北東にポータンと云う地名がありますが、ここかとも思っていました。

補陀落山ほかに中共の舟山群島
http://blog.goo.ne.jp/sugawratakaosenior/e/85f03f5cef6c7db8c3d5db7cc10da3fb

とか、日本では大和の矢田丘陵付近の松尾山(補陀落山)
http://www.asahi.co.jp/rekishi/04-11-29/01.htm

[1340] 補陀落山  金平糖 2005/08/09(Tue) 20:27 [Reply]
こんばんは。
ふと、“岡田茂吉の伊都能売神皇=観世音菩薩説”という文章を目にしたことが きっかけで、検索していて知ったのですが、補陀落山って、実在するのですね。

インド補陀落山の実在
http://www.d1.dion.ne.jp/~momomon/indon7.htm

[1339] Re[1338][1337]: 日本武尊  神奈備 2005/08/06(Sat) 21:00 [Reply]
> 日本にも中国の大陸風、道教感覚があったんだ。と。改めて。

???

[1337] 日本武尊  神奈備 2005/08/05(Fri) 18:26 [Reply]
弱い皇子ゆえ命をすてた。おらが熊襲はよか男
南九州の高校の歌にあるそうな。

日本武尊が中央から熊襲を征伐にやってきた。

熊さん「おいおい、なんかひ弱な奴が来たぞ、どうするかいの?」
襲さん「そーやなー、死刑になる男がいるんじゃが、家族を奴隷にしないからと言って、一芝居させよう。」
熊さん「ほー、どんな?」
襲さん「あの皇子さんに酔ったふりをして殺させるんじゃ。何だったら名前もやろう。」
熊さん「おー、そうして服従された振りをして時間をかせぐわけでんな。」
襲さん「そーいうこっちゃ。」

[1336] 加比留神社  神奈備 2005/08/03(Wed) 17:06 [Reply]
延喜式越前国敦賀郡の式内社に加比留神社の名がありますが、所在は不明のようです。
『式内社調査報告』では大伴家持の天平二〇年(766)作の歌に
可敝流未の 道行かむ日は 五幡の 坂に袖振れ 我をし思はば 巻一八の四〇五五

可敝流未は、”未”が湾曲した地形のの節尾語として、「あの曲がった可敝流あたりの道を行く日には」の意としている。天平神護二年(766)の「越前国司解」に鹿蒜郷が見えるので、地名説を強調している。
しかし伴信友の「神名帳考察」には、持統紀六年に「越前国司献白蛾」とあるのをひいて、カは神、ヒルは蛾の和名として献上された白蛾を神として祭ったとしている。」これを全くの付会の説として退けている。
 
土橋寛躇『日本語に探る古代信仰』によれば、加比留神社については持統紀の白蛾を祭った神社と理解し、「カ・ヒル」の”カ”はカ韮、カ葛の「カ」として霊力の意、「ヒヒル」を「ヒ・ヒル」として、これをタタク(手・手ク)と同様に見なし、「蛾:ヒル」をして「ヒ・ヒル」または「カ・ヒル」と云うとして、白蛾を祭った古代の呪物崇拝の生き証人の社としている。

伴信友や土橋説によれば、虫を祭る神社がここにあると云うことになります。

[1335] 表の言語の余談 常世の神  神奈備 2005/08/02(Tue) 20:51 [Reply]
常世の神とされた虫の特徴は『皇極紀』によれば、以下の通り。
 橘の木、山椒の木につく。
 長さは四寸、太さは親指。
 色は緑に黒点がある。
 形は蚕に似ている。

 『古代の虫まつり』(小西正己著学生社)によりますと、どうやらドンピシャリの虫はなさそうですが、四寸は長すぎるとして一寸七分(5cm)位としますと、シンジュサンなる蛾が適応するそうです。
 蝶ではクロアゲハは近いようですが、該当する虫はないとのこと。チョウはその昔は「カハビラコ」と呼ばれており、意味はコウモリの子だとか。

 このジュンサンは蚕のように室内でなくとも、野生の橘の木などで成長する蛾で、絹糸を吐くようです。もっともジュンサンは現在でも糸を採取されてはおらず、食用に過ぎないようで、秦氏から弾圧される常世の神と言えるようなものではなさそうですね。

 ジュンサンは羽を広げれば14cmと大きい蛾となります。少名彦名神は鵝(ヒムシ)の衣服で渡来してきましたが、この神は常世からの神で、鵝と常世とはつながってはいます。

 神となる虫としては先ず蚕で、蚕の社は三角鳥居で著名、ほかに何かありますかね。虫篇の字なら蛇。


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