青草談話室ログ平十七年 十一月 |
[1682] 鴨=おう 倭亞府 | 2005/11/30(Wed) 22:50 [Reply] |
鴨=おう 意富多多泥古は、本来は「大田」ではなく、姓は「大」で、名は「多多泥古」のはずである。「先代旧事本紀」に大田田禰古の子孫として「田田彦命という名が出てくる。この田田彦は【神部直/みわべあたひ】の祖とされる。また、「神祇志料」に「多太神社、【多田/ただ】村にありて、荘神といふ。【蓋/けだし】大物主の裔、大田田根子命を祀る」とあり、これらからも、「大田田根子」は「大の田田根子」と本来は読むべきである。 鴨=おう 加茂氏は多氏 鴨=甲(物事の一番すぐれたもの。)+鳥(測量士の隠語) 烏=からす・オ・ウ オ・ウ=鴨=おう ヤタガラス=加茂氏(鴨氏)=多氏 ウ=禹(ウは足が萎えていた) 「ヒル子は、日本書紀に”三年経っても足が立たなかった”とあるから、手足の萎えた不具の児であったろう。」 ヒ・ル (甲骨文字のヒ・ル(ム)・・・などは禹(私=ノ木へん+ム)をあらわします。 |
[1681] Re[1677]: 大田 と當麻 神奈備 | 2005/11/30(Wed) 22:04 [Reply] |
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大和湖は樋口隆康先生が著書、逆日本史で大和川が大和湖に入るところにツバ市があり隋の特使もそこで歓待したと書かれていたので気になっていました。 随の使者は来た頃とは聖徳太子の頃です。都は飛鳥にににあり、聖徳太子は法隆寺の近くに居住していました。河内から大和川を遡って大和に入る近くと言えます。 太子は馬に乗って飛鳥に通ったようです。太子が通った道は太子道と言い、奈良盆地を斜めに横切る珍しい道筋です。奈良湖があったとしてもツバ市の付近まで奈良湖であるとすれば、太子道は水没していたのではと思います。 舟でかよったのかも知れませんね。 青草談話室の平成14年9月にかたばみさんが[253] でお示ししてくれましたが、残っていないようです。残念! ↓ http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/k_data/C199.jpg 上記地図の時代はどうだったか忘れましたが、法隆寺と藤原京の間は湖だったような気がします。 |
[1680] ヒルと鴨 神奈備 | 2005/11/30(Wed) 21:02 [Reply] |
『神社と古代民間祭祀』(大和岩雄)の中で、『琉球人の見た古事記と万葉』(奥里将建)を孫引きして以下のように書いています。 琉球のある島で、蛭をビルと呼び、また発育の悪い児女をビールーと呼ぶ地方があることを指摘し、記紀の蛭児を解して、「ヒル子は、日本書紀に”三年経っても足が立たなかった”とあるから、手足の萎えた不具の児であったろう。このような不具の児や発育の悪い児を、琉球ではビールー又はビーラーと言っている。引用終 大和氏は更にヒルは」南方語と推測し、piru であったとし、台湾語でヴィリ、台湾と九州の間の南島でもビルと言うとし、対馬ではピリケと言うとしています。 蛭児は夷神として祀られていますが、事代主命もまた夷神になっています。国譲りの後で海に隠れたからとの解説が一般的だと思いますが、海に隠れたのであれば神武さんの兄の稲飯命や三毛入野命、また弟橘比売も夷神になってもいいわけですが、なっていません。 前にも書いたのですが、アヒル鴨を大阪ではヒルと言います。事代主は鴨の神であること、故に、ヒル神として夷神に擬せられているのでしょう。海に消えたと言うことも働いているのかも知れません。 |
[1679] 大田田根子とイリ王朝・ネコ王朝 倭亞府 | 2005/11/30(Wed) 17:24 [Reply] |
タミル語の参考HPより 倭迹迹日百襲姫の「【迹迹/トト】」・意富多多泥古(オホ・タタネコ)の「【多多/タタ】」 ●タ tatt-an common snake-gourd(普通の蛇瓜); ○日 tot-o トト。-nの脱落形。 ○日 tat-ane タタネ。大物主と活玉依毘売の子とされる意富多多泥古(オホタタネコ)の 「多多」に該当する。-nの開音化として、tatan-eとすることもできる。 「タタ・ネ」とする場合、この「ネ」は「の」という意味なら「蛇の子」、 「【神/ネ】」という意味なら「蛇神の子」となる。後者が妥当であろう(なお、タミル語ko(king)とすれば「蛇神の王」となる)。 意富多多泥古は、本来は「大田」ではなく、姓は「大」で、名は「多多泥古」のはずである。「先代旧事本紀」に大田田禰古の子孫として「田田彦命という名が出てくる。この田田彦は【神部直/みわべあたひ】の祖とされる。また、「神祇志料」に「多太神社、【多田/ただ】村にありて、荘神といふ。【蓋/けだし】大物主の裔、大田田根子命を祀る」とあり、これらからも、「大田田根子」は「大の田田根子」と本来は読むべきである。 しかし「オホタタ」という呼び方はおそらく馴染まなかったので、後に「オホタ」というようになっていったものと思われる。意富多多泥古が「意富の多多泥古」と区切れるとすると、古事記の編者の一人、【太/おほ】朝臣安萬侶が想起される。 http://www.taka-aki.com/personal_note/tamil/tamil16.htm 大物主は三輪山を中心とする地域で崇拝された神であり、その神は三輪山そのものであった。 この大物主が大己貴神と習合しつつ、各地に祭られるに至ったのは、多氏(太氏・大氏)の諸国進出にもよるのであろう。 なお、葛城の鴨を本拠とする氏族に加茂氏がいた。大田田根子の孫は【大鴨積/おほかもつみ】命であり、これは加茂氏の祖とされる。タミル語kovv-aiは日本語kamoと対応するが、その意味はa commoncreeper of the hedges(垣根に這う普通の蔦)である。蔦名と蛇名は日本語では同じである場合が多いので、これは日本語では「蛇」(厳密には「這うもの」)を意味する。この加茂氏がもし鍛治職の集団であったならば、タミル語で鍛治を意味するkamm-am(smith's work)と蛇を意味するkovv-aiが、日本語では同音であったので、鍛治師は同じ音のkamo(蛇)を祭奉神としたことも考えられる。 なお、大田田根子の母は、奇日方天日方武茅渟祇の女(先代旧事本紀では鴨部美良姫)だが、この奇日方天日方武茅渟祇のまたの名を「先代旧事本紀」は【阿田都久志尼/あたつくしに】命とする。阿田は薩摩の阿多、都久志は筑紫であろう。「尼」はタミル語nay-anの母音交替形*ney-an[ 1. the supreme being(至高の存在/神); 2. king(王); 3. master(主君), lord(支配者)]であろうから、阿多の筑紫王となる。 先代旧事本紀の系図によると、大国主命→都味歯八重事代主神→天日方奇日方命(阿田都久志尼命)→健飯賀田須命→大田田禰古命→大御気持命となっており、大御気持命から賀茂君祖の大鴨積命、大神君祖の大友主命、神部直・大神部祖の田々彦命がそれぞれ出ている。 なお、この部分の系図は日本書紀では大物主命→大田田根子と素っ気ない。古事記では大物主→櫛御方命→飯肩巣見命→建甕槌命→意富多多泥古となっている。 天日方奇日方命は、古事記では櫛御方命に相当し、「御方」の「カタ」はタミル語kat-am[snake(蛇)]由来と思われる。その子、飯肩巣見は、おそらく大方津美とでも本来書かれるべき神名のように思われる。「【大/おほ】」に対応するタミル語upp-uは日本語if-iとも対応し得るからである。そうすると、飯肩巣見は「大蛇霊」ということになる。 ここで注目されるのは、西暦600年から700年あたりの大王の拠点はすべてこの磐余地域にあったという事実である。とはいえ、それ以前の450年前後あたりから550年前後あたりは、いわゆるイリ王朝であり、その前はネコ王朝とでも言うべき「ネコ」名の王族が三輪にいた。 7代孝霊天皇は大日本根子彦太瓊、8代孝元天皇は大日本根子彦国牽、9代開化天皇は稚日本根子彦大日日である。天皇以外では、稚倭根子皇子、山背根子、難波根子武振熊などがいる。 nekoはタミル語nak-ai(snake)とa/e交替で対応する。また、稚日本根子彦大日日は古事記では若倭根子日子大毘毘と書かれるので、日日はヒヒと訓まれるのかもしれないが、古事記が日日とあった資料を【毘毘/ヒヒ】と誤読した可能性もある。これはあるいは【日日/カカ】と訓むのが本来のものであるとしたら、カカは蛇の意味なので、大日日で大蛇となる。 |
[1678] Re[1677]: 大田 と當麻 神奈備 | 2005/11/30(Wed) 08:56 [Reply] |
とみたさん おはようございます。 > 当掲示板で當麻は大田が近くにあり、出雲の大田田根子ゆかりの地であると書かれていました この当掲示板ですが、亀石の説明板のことでしょうか。亀石の説明板は亀が南西を向いているが、西を向いたら、大和盆地は泥沼になると続いていたように思います。 今ネットでご覧頂いているのは「談話室」を名乗っていますが、ここを指しているものと理解して以下・・・。それは[1669] の所と思います。 少し長い引用になりますが、↓ [1669] 大和に太田と言う地名は西は當麻町と東は巻向の近くにあります。 當麻町太田には葛木倭文坐天羽雷命神社であったとされる棚機神社が鎮座しています。天照大御神も織姫でもあったようで、日神と無関係ではありません。 桜井市太田には、他田坐天照御魂神社と想定されている神社が鎮座、まさに日神そのもの。 『播磨国風土記』の記述 大田と称するわけは、昔、呉の勝[クレノスグリ]が韓の国から渡って来て、始め紀伊の国の名草の郡の大田の村に着いた。その後、分かれ来て摂津の国の三島の賀美[カミ]の郡の大田の村に移って来て、それがまた揖保の郡の大田の村に移住して来た。これはもといた紀伊の国の大田をとって里の名としたのである。 紀州の和歌山市太田の傍には日前国縣神宮が鎮座、これは日の神のようです。 摂津の太田(茨木市太田)に鎮座の太田神社の祭神は太田田根子との説があり、三輪の神を祀った神です。三輪の神も日神の要素があり、太田田根子は日を出す神であったとも言えそうです。以上[1669] > 當麻は大田が近くにあり これは地図を見ていただければすぐ判ることで、當麻町太田と言う住所があります。ここに棚機神社が鎮座しています。 http://kamnavi.jp/as/katuragi/tanabata.htm > 出雲の大田田根子ゆかりの地であると書かれていました 出雲の・・ ? 當麻は大田が・・ ? これはどこに書かれていたのか承知していません。 |
[1677] 大田 と當麻 とみた [Mail] | 2005/11/30(Wed) 08:05 [Reply] |
11月中旬飛鳥を探索しました。以前質問した大和湖のことも少し気にしながら、サ イクリングしていたところ、高市の川原という場所に、亀石(亀が笑ったような 石)がありました。その謂れに伝説が記してありオヤと思った。昔、大和湖があり 川原とその対岸の當麻の間で水争いがあり、湖水を當麻に取られて亀が沢山死んだ ので亀の形を石に刻んで供養したとありました。 大和湖は樋口隆康先生が著書、逆日本史で大和川が大和湖に入るところにツバ市が あり隋の特使もそこで歓待したと書かれていたので気になっていました。 葛城の當麻は、その地の力士が出雲から来た野見の宿禰に負けて殺された場所。当 掲示板で當麻は大田が近くにあり、出雲の大田田根子ゆかりの地であると書かれて いました。 このような言い伝えの意味はどのように考えたらよろしいでしょうか。神奈備さん のご指摘では・・・・<播磨国風土記>・・ 呉の勝が韓の国から渡って来て紀伊の大田(これが當麻の近くの大田?)につい た。そして摂津や揖保に分かれて行ったので揖保には大田という地名がある。 千田稔先生によると、勝氏は呉(中国の江南)から朝鮮半島を経て倭に渡来した。 奈良県磯城郡田原本町千代に本拠を置く屯倉開墾部隊の勝部を勝が率いて揖保の屯 倉を開墾したとあります。屯倉から三宅という名が生まれた。 アメノヒボコを祖に持つ三宅連の故地は朝鮮の韓か、中国江南の呉かでもいろいろ な説があり、それと出雲や葛城や磯城がどうつながっているか,それに大田田根子 がかかわっているか、秦氏との関連もわかりません。 少しでもヒントを教えていただけませんでしょうか とにかく、日本の古代史研究の初心者にとっては葛城と出雲、吉備、毛野・・・氏 族の物部、蘇我、尾張、中臣・・・ それに秦氏が絡まるとわからなくなります。 いろいろな説があることは承知していますが、取り敢えず當麻について教えてくだ さい。 |
[1675] 大田田根子とネコ(軍兵) 倭亞府 | 2005/11/28(Mon) 22:34 [Reply] |
隣りの市に根小屋という地名が南北にあり古代の城跡が在るそうです、ネコはスフインクスのような門番の兵なのでしょうか?禹は兵や地元の役夫を使い中国を測量したそうです【田】:広く土地の称 一井:いっせい 一里四方の土地(オンミョウジ・方師の家紋に格子の紋が☆やカゴメの紋も) 他に【田】の意味に「かり」狩 畋 ・大鼓おおつづみ(津図見?) 田田はうつ音の盛んな様(戦場を思い浮かべます) 田の熟語(水田系以外)興味をそそります。 田の字からの甲申由(方向や距離に関係する熟語がある。)(口に十・卍に逆さ卍を重ねると田)畚ふご:土を盛る墳(古墳)からきている。【土】の甲骨文字からの創造も!です、お試しください。 、「私のネコ(軍兵)」を意味しているので、王直属の軍兵を指すと見られます。 「魏志倭人伝」に見る大ユダの官職名 http://www.saturn.dti.ne.jp/~ttshk/framepage46.htm 神奈備さまが角川漢和中辞典を・・・・古代文字字典(甲骨・金文編)マール社もお奨めいたします。古代がより見えてきます。 |
[1674] Re[1673]: 万九千神社 神奈備 | 2005/11/28(Mon) 15:49 [Reply] |
万九千神社は式内社の神代神社の論社とされています。しかし『出雲国風土記』には万九千神社名は記載されていません。命名の時期は承知しておりません。なお http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/izumomakuzezinzya.html では、「まくぜ」 『式内社調査報告』では、「まくせ」との訓があるようです。 マンコ−、マンクに行きつかせるのは難儀かも。 |
[1673] 万九千神社 琉球松 | 2005/11/28(Mon) 14:29 [Reply] |
途中、割り込んで申し訳ないんですが。。。 神奈備さんの神社名鑑でも紹介されているこの神社。 神々の解散式?が行われた場所のようですが、古くから「マンクセン」なのでしょうか? と言うのも、「マンク」という響きは沖縄人の僕には親近感があるわけで、「アマミキヨ・アマミコ・アマミク・アマンク・マンコー・マンクー・ウマンク 」など、さまざまに語形変化している奄美沖縄の最高創世女神と関わりがあるのではないかと。。。 この神社。。女性の前ではなかなか口に出せない「オマンコ」との関係は見えないでしょうか? |
[1672] Re[1671][1670]: 相賀八幡神社 タイシ | 2005/11/27(Sun) 20:06 [Reply] |
> 住吉大社神代記に縁の神社の後裔社とされています。船木氏が高野山付近の鉱物を採取していた名残ではとおもっています。 ありがとうございます。 橋本市の市脇には、相賀大神社もあるのですね。(祭神 天照大神) この神社の神宮寺は少し南側の”医王寺”だったとか・・・ 橋本駅の南側付近には、太神社(天照大神)があるようです。 このあたりは、いつも素通りなので、近々じっくり散策してみます。 |
[1671] Re[1670]: 相賀八幡神社 神奈備 | 2005/11/27(Sun) 08:28 [Reply] |
> 土曜日、和歌山県橋本市胡麻生にある相賀八幡神社へ行ってきました。 住吉大社神代記に縁の神社の後裔社とされています。船木氏が高野山付近の鉱物を採取していた名残ではとおもっています。 参照↓ http://kamnavi.jp/ki/itonaga/ouga8.htm |
[1670] 相賀八幡神社 タイシ | 2005/11/27(Sun) 01:25 [Reply] |
土曜日、和歌山県橋本市胡麻生にある相賀八幡神社へ行ってきました。 この神社の創建はよく解らないそうですが、神社の由緒記には「南海道紀伊国神名帳」によると「天手力雄・気長足魂・住吉神」とあり、古くは住吉大社の神を祀っていたようである。と書いていました。 この神社の創建について、何かご存知でしたら教えてください。 |
[1669] Re[1665]: 後戸の神 神奈備 | 2005/11/26(Sat) 22:30 [Reply] |
> 戸隠神社の祭神である天手力男神はまさに後戸の神と言えそうです。後戸神ゆえ皇大神宮の相殿神に祭られていると思われます。また天手力男神は塞の神でもあり、日を出す神でもあるようです。 天手力男神は伊勢国の佐那に祭られており、ここを本貫とする船木氏の祖となっており、遠祖は大田田神で、『住吉大社神代記』では、やはり日神を出す神となっています。 > 伊勢の塞の神では猿田彦神が著名です。この裔神に大田神、この神は倭姫を導き受け入れた神でやはり日神を出す神。 大和に太田と言う地名は西は當麻町と東は巻向の近くにあります。 當麻町太田には葛木倭文坐天羽雷命神社であったとされる棚機神社が鎮座しています。天照大御神も織姫でもあったようで、日神と無関係ではありません。 桜井市太田には、他田坐天照御魂神社と想定されている神社が鎮座、まさに日神そのもの。 『播磨国風土記』の記述 大田と称するわけは、昔、呉の勝[クレノスグリ]が韓の国から渡って来て、始め紀伊の国の名草の郡の大田の村に着いた。その後、分かれ来て摂津の国の三島の賀美[カミ]の郡の大田の村に移って来て、それがまた揖保の郡の大田の村に移住して来た。これはもといた紀伊の国の大田をとって里の名としたのである。 紀州の和歌山市太田の傍には日前国縣神宮が鎮座、これは日の神のようです。 摂津の太田(茨木市太田)に鎮座の太田神社の祭神は太田田根子との説があり、三輪の神を祀った神です。三輪の神も日神の要素があり、太田田根子は日を出す神であったとも言えそうです。 播磨の太田にはそれらしい神社は見当たりませんが、摂津の太田の真西にあたり、そのライン上に山城の水主坐天照御魂神社、摂津の新屋坐天照御魂神社、揖保の粒坐天照神社が鎮座と日神との関連をこじつけることができます。 「太田」とは「日を出す」と言うことにつながっていると言う青草話でした。 |
[1668] Re[1647]: 白村江 素人 | 2005/11/26(Sat) 02:17 [Reply] |
> 『百済滅亡と古代日本(白村江から大野城へ)』全榮來著(雄山閣)P91-91より抜粋: > > 白村を『日本書紀』では「ハクスキ」と訓読しているが、このように振り仮名を付けた人はおそらく「白」を音読し、「村」を訓読したようである。これは三国時代の百済の地名が分からなかった後世の考証学者が速断した結果にすぎない。 > > 欣良買 hun-ne-moi, hsin-ne-moi, sin-ne-mol が「白い水の村」または「白い江の水」であり、新羅時代の「喜安」、高麗時代の「保安」、『高麗史』に見える「希安」などはみな hsin-ne を書き表した字である。「白村・白江もまたこれの別写地名であることはいうまでもない。したがって、白は「ハク」と音読せず、hsin と訓読しなければならない。」 > > というわけで、音読、訓読という識別がある、という例示です。それ以上に面白いですが。 > 例示する以上内容も重要です。 それがどうしたと言われると困りますが。 例示された資料は、音訓と言うよりも古代朝鮮語探しの方が適当かもしれません。 ご存知の事と思いますが、以下長文のコピーですが参考になると思います。 釈迦に説法かもしれません。 「朝鮮語とはどのような言語か」 野間 秀樹氏Web。 「ハングルが作られる以前の朝鮮語に関する古い記録は少ない。3世紀頃の中国の史書の記述、『日本書紀』に現れた地名などの朝鮮関係の記述、高麗時代編纂になる史書『三国史記』の記述、石碑などに刻まれた金石文、漢文の中に漢字を用いて朝鮮語の助詞の類を表記した吏読(りと)と呼ばれる表記による記録、高麗時代の『三国遺事』などに残された新羅時代の郷歌(きょうか)と呼ばれる歌謡などが重要なものであるが、これらの史料をもってしてもそれぞれの時代の朝鮮語の全体像を描き出せるほどの量ではない。ハングル以前の朝鮮語を語るには史料的制約が大きいのである。 朝鮮語の全体像が明らかになるのは1443年に訓民正音(ハングル)が創製された時点からである。河野六郎は、この1443年以前の朝鮮語を一括して古代朝鮮語と呼び、1443年から1592年の豊臣秀吉の侵略までの時期の朝鮮語を中期朝鮮語、それ以降を近世朝鮮語と呼んでいる。李基文は三国時代・統一新羅時代など10世紀以前を古代語、高麗王朝に相当する10世紀から14世紀までを前期中世語、朝鮮王朝の最初の200年間に相当する16世紀までは後期中世語、秀吉の侵略直後から19世紀末までは近代語、それ以降を現代語と呼んでいる。 なお、ハングルが成立するまでは文書は基本的に全て漢字漢文を用いていた。ハングル成立後も公的な文書は朝鮮王朝時代は基本的に全て漢字漢文で、ハングルの使用は手紙などの私的な文書に限られていた。そういう意味ではハングルの歴史には女性や子供を中心とする層の役割が大きいといえる。近代に入ってハングルは社会の全て場面で用いられるようになったのである。 」(ホームぺ−ジの下部に掲載) http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/nomahideki/korea1.htm 通常「白村江」と言えば以下が通常、登場しています。 古代朝鮮では「白沙」ではないかと思いますが。 『三国史記』新羅本史 「白沙」(12世紀?) 『旧唐史』 「白江」 『日本書紀』 「白村江」 失礼しました古代の朝鮮語での読みでした。 調べてみますと「欣良買」は三韓時代の欣良買県と言う県名からきているようです。 これの変化とされる単語も各時代の同じ場所の県名です。この場所も『白村江』の候補地の一つですが有名な忠清南道の郡庁所在地扶餘を流れ黄海にいたる錦江の河口とは違います。一寸苦しい『白村江』との繋がりです。 全羅北道南西側の辺山半島に位置する。 扶安郡庁のホームページ 三韓時代(欣良買県) 扶安郡は、三韓時代には馬韓であり、馬韓の54ヶ国のうち支半国と呼ばれていた。百済時代には皆火県と欣良買県の2つの県があった。 新羅時代(喜安県) 新羅が三国を統一した後である西暦757年(景?コ王16)に皆火県を扶寧と改称したが、戒発とも呼ばれ、古阜の属県であった。そして欣良買県は喜安に改称し、これもまた古阜に属していた。 高麗時代(保安県) 高麗時代には保安県と呼ばれ、別号を浪州とした。高麗末期の?王の時には扶寧県と保安県にそれぞれ監務を置いていた。 http://www.buan.go.kr/japanese/politic/pol_02.jsp 上西面開岩寺の後ろにある小山を取り囲んでいる石城を禹金山城と言う。学界では、この山城を百濟の光復のための最後の抗戦城である周留城と位置づけしている。(候補地の一つ) http://www.buan.go.kr/japanese/province/pro_02.jsp 日本書紀の「ハクスキノエ」にとやかく言えるほどの内容ではないかもしれません。 まだまだ資料が不足しているようです。夢想ですが、朝鮮では文書の訓読なんてしそうにもないと思うのですが、文書は漢字漢文で完全な中国語と言う事では無いでしょうか。 そこで、古代朝鮮語の復元に日本の資料まで引用する必要が有るのでしょう。 素人の長文失礼しました。 |
[1667] Re[1666][1665]: 後戸の神 神奈備 | 2005/11/24(Thu) 20:32 [Reply] |
琉球松さん、応答ありがとうございます。 猿田彦さんは、宮古島の先導神であるサダル神の音がサルタ、サタに変わったとも言われている由縁の神様でしたね。 伊波普猷さんがシャコ貝に猿が咬まれたという南方のお話が伝わったものとされています。この話を入れることで、猿田彦は高天原と地上を繋ぐ神となり、さらに地上と海とを繋ぐことになり、三界をつなぐ万能の道祖神となったということ。 伊勢の海産物が神宮の天照大御神の贄として奉じられる由縁の解説かも。 > 奈良中央部の政変が関わっている このあたりにつきましては、どうなんでしょうね。よくわからないところです。 |
[1666] Re[1665]: 後戸の神 琉球松 | 2005/11/24(Thu) 09:09 [Reply] |
神奈備さんへ これらの現象が銅鐸由来のものであるのは間違いないように思えますね。 そのパワーと恐怖は、どんな勢力にとっても祭祀の対象だったかもしれません。 しかし、かつては皇孫の案内役を務めたはずの海人猿田彦勢力が、なぜ伊勢で溺れ死ぬんでしょうか? 伊勢はアマテラス鎮座(追放?)の地、奈良中央部の政変が関わっていると思うんですが。。。 |
[1665] 後戸の神 神奈備 | 2005/11/22(Tue) 20:57 [Reply] |
『精霊の王』中沢新一著 のp.123の章に、後堂の神、後戸の神のお話が出ています。仏像を安置する堂内にはその本尊に仕えてもろもろの護法のはたらきをする精霊が住む。これを言うようです。シャクジとか宿神がそのようです。石神もそうかも。 戸隠神社の祭神である天手力男神はまさに後戸の神と言えそうです。後戸神ゆえ皇大神宮の相殿神に祭られていると思われます。また天手力男神は塞の神でもあり、日を出す神でもあるようです。 大和の九頭神社の祭神に天手力男神の名が散見されますが、いかにも古層の神のようです。天手力男神は船木氏の祖とされています。 この神は伊勢国の佐那神社に祭られています。銅鐸との関連もあるのかも。またここを本貫とする船木氏の遠祖は大田田神で、『住吉大社神代記』では、やはり日神を出す神となっています。 伊勢の塞の神では猿田彦神が著名です。この裔神に大田神、この神は倭姫を導き受け入れた神でやはり日神を出す神。 古層の神である塞の神は日を出す神にされたと言うこと。 天手力男神は天がついていますが、国津神ではと思います。なぜなら具体的活動をしているから。 大和の境の奈良坂に鎮座する奈良豆比古神社の神々は春日大社の神々と同じ神で、春日の神の本源のように思えます。ここの境内の片隅に石瓶神社が鎮座、ご神体は石神で、この神が奈良豆比古神社の後戸の神で、春日大社の後戸の神は奈良豆比古神社の神、結局春日の神のパワーは石瓶神にいきつくのではと思っています。 |
[1664] Re[1655]: 百済と弓月 かたばみ [Mail] [Url] | 2005/11/22(Tue) 19:40 [Reply] |
≫百済を何故クダラと読むか、など、ここで述べてきたこと+αを下記にまとめておきました。 ≫http://www.dai3gen.net/kudara.htm それとは異なる展開もひとつ(^^; (だれかがすでにいってるだろうと思いますが) 伽耶諸国の国名に加羅、安羅、多羅、駕洛があります。他に済州島の耽羅。 これらは半島南西部にあって、これらの地域が「羅ラ」であったことがうかがえます。 全羅北道、全羅南道という地名はそれらの「羅」すべての地域ということ。 この地域は少なくとも縄文時代から列島と同系文化にあったと考えています(言語的にも)。 魏志韓伝によれば、馬韓にあった秦からの脱出者が半島東部に移住させられています(辰韓、秦韓)。 すなわち「新しい羅の地域」=新羅シンラの登場。 むろんシン・ラのシンは漢字の音読みでしょう、羅ラが半島南西部の各地にあり、中国サイドでそれらを区別する発音(文字)を「羅」に加えて表記したのではないか。 (このあたりが音読みや訓読みがあったとして列島の場合より識別しにくくてやっかいなところ) なお、東南部の慶尚南道や慶尚北道の慶尚の呼称は1204頃かららしい(新羅統一後に好字を用いたとみる)。 http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/sinboj2001/4/0420/62.htm だとすると・・ 推論に推論を重ねざるを得ませんが、加羅、安羅、多羅、耽羅、カ、ア、タ、タン・・これらの中国サイドのからの当て字にもなんらかの意味があると考えることもできるでしょう。 加える。安んずる。多い、程度でさしたる意ではないと思うけど・・耽には耳が垂れ下がるの意があるんだなあ(^^) 大耳族・・九州に多いミミ、五島列島などと済州島は同一文化圏といってもよさそう。 クダラも同様の流れによる国名と考えると、クダ・ラと分解される。 しかし、漢字一文字での「クダ」はなさそうです。 ク・ラやクン(ナ)・ラからの変化のクダ・ラであるなら弓羅・・狩猟民族が王であるなら妥当。 中国と交流を持つようになってクダラ自身が建国神話の十済(住)あるいは百済の文字を用い、中国サイドでもそれを使った、佰済もあるでしょう。 晋書283では「扶南21国、馬韓等11国の使者」とあり百済の呼称はまだありませんが、晋書372では百済の林邑王の使者とあり同年に百済王餘句が鎮東将軍領樂浪太守となっています。 (魏志東夷伝では「扶餘」だけだったのが、晋書では「扶餘国」になっている) この100年間で百済は応神朝系譜と親密になり高句麗の平壌城を攻め落とすほどに大成長。 百済の表記が公式となっても、発音は旧来の半島西南部の発音を使っていた(残っていた)のではないか。 列島側での情報が残っていなければクダラの発音は失われていたかもしれない。 半島南部での最古の渡来系の呼称が「韓」じゃないかな。 魏志韓伝に書かれる箕子朝鮮からの脱出者が「韓」を称した、です。 これを識別して表記したのが馬韓、弁韓、辰韓(中国音かつ表記)。 これらの地域が国の様相を呈するようになって登場するのが「ラ」という発音で、中国サイドでこれを羅の文字にあてたのではなかろうか(半島と列島の関係が薄れた時代=出雲崩壊時代)。 魏志韓伝では「なになに廬国」という国名が少なからず書かれます。 廬(ロ、ル、リョ)と羅ラが通じるかどうかわかりませんが、廬は草葺きの小さい家、あるいは農村の質素な家。 羅は網の目のように連なるの意。 廬が拡大して羅(の文字)に変わったとできなくもなしか。 百済本家は477頃に高句麗に滅ぼされています。 倭王朝(応神系譜)は列島にあった百済王族を半島に送って百済を復興(479東城王)。 少なくとも東城王〜武寧王(501-522)では百済は倭王朝の傀儡、百済の歴史や地理を倭王朝はよく知っていたはずで、書紀もこの情報を反映していると思われます(白村江という地名も)。 伽耶や新羅も同様の服属状態だったが、継体と磐井の内乱528で磐井が滅びて「倭」の半島南部への支配力が激減、独立を取り戻したとみています。 そして超大国唐の半島支配の思惑を背景に白村江の戦いにつながってゆく。 |
[1663] Re[1662][1661][1660][1659][1657][1656][1654][1647]: 白村江 大三元 | 2005/11/22(Tue) 01:29 [Reply] |
> >
この「最初から」は、「可能性を認めるべきと思います。」にかかっているのではないでしょうか。 あ、そうか。玄松子さん、ありがとうございます。そう理解して素人さんにレスします。 もともとこの説を紹介したのは、かたばみさんの > > 韓国語ですか。韓国語では音読みとか訓読みといった識別はあったのかなあ。 に対して、 #はい、ありますよ(と言うか、あるように書いてある本があります) #時間が取れたら面白そうな箇所を抜粋しましょう。 として、面白そうな箇所を抜粋したものです。 ですから、趣旨は「音読み訓読みの識別がある」という事例を示すことです。 そこで提示した事例が白村江だったわけですが、白村江の読み自体を論議したものではありません。 それでも、白村江の読みをとして、{「ハクスキノエ」と呼んでいた可能性を}{最初から認めろ}ということならば、そう読む「可能性」どころか、現実にそう読んでいることを認めて、取り上げているわけです。 その上で、この音(ハクスキノエ)は、白村江、という字を見て「白」を「ハク」と日本式の音読みをし、「村」を百済語(?)の訓読みで「スキ」と読み、日本語の助詞(でしたっけ?)の「の」加えて、「江」を日本語で「エ」と訓じた、ものでしょうから、もともと現地(百済)ではどう呼ばれていたか、ということを論じていることを紹介したものです。 やはり{最初から「ハクスキノエ」と呼んでいた可能性}を認めろ、じゃないのかなぁ? なんで、「とやかく言わず」と言われねばならないのか、これは良くない。 |
[1662] Re[1661][1660][1659][1657][1656][1654][1647]: 白村江 玄松子 | 2005/11/21(Mon) 23:37 [Reply] |
横から。 「素人」さんが、何をおっしゃっているのかは、わかりませんが、 > 「最初から」とは何時のことなのでしょう。どんな資料に出ていますか? この「最初から」は、「可能性を認めるべきと思います。」にかかっているのではないでしょうか。 |
[1661] Re[1660][1659][1657][1656][1654][1647]: 白村江 大三元 [Url] | 2005/11/21(Mon) 23:22 [Reply] |
> > >
それが解っているなら読み方についてとやかく言わず、最初から日本では「ハクスキノエ」と呼んでいた可能性を認めるべきと思います。 「最初から」とは何時のことなのでしょう。どんな資料に出ていますか? |
[1660] Re[1659][1657][1656][1654][1647]: 白村江 素人 | 2005/11/21(Mon) 22:37 [Reply] |
> > その通りだと思いますが、それで/それだから何なのか、が読みとれませんでした。 > それが解っているなら読み方についてとやかく言わず、最初から日本では「ハクスキノエ」と呼んでいた可能性を認めるべきと思います。日本の資料を引き合いに出さず自国の資料に基づいて古代朝鮮語の発音に挑戦されてはと考えてしまいます。 |
[1659] Re[1657][1656][1654][1647]: 白村江 大三元 [Url] | 2005/11/21(Mon) 17:26 [Reply] |
>
難しいことは解りませんが、当時としては日本での有史以来最大の事件とも思われる場所の名前は漢文だけでなく物語りや歌として口から口へと伝えられることも多く耳から自然と地名は入っていたのではないでしょうか。文字が読めない人も知っていた地名だったとか。文字だけが歴史を伝えるとは限りません。歌などは意味が解らなくなっても歌い続けていたりするように思います。 その通りだと思いますが、それで/それだから何なのか、が読みとれませんでした。 「白村江」に関してならば、この地名を当時の向こうの人がどういう音で呼んだのか、ということがポイントです。 はくすきのえ、という読みは誰が何時始めたものか分かりませんが、「の」が入っていたり「江をえ」を読んだりしていることから日本人が開発した(少なくとも日本語に基づいて開発した)読みだと思います。(最近は、はくそんこう、と教えているらしい・・・) この地名を当時の向こうの人がどういう音で呼んだのか、それに関して全榮來氏は「白」について「ハク」であったよりも、「シン」あたりの音であったであろう、と論じている、ということなのですが。 |
[1658] Re[1657][1656][1654][1647]: 白村江 大三元 [Url] | 2005/11/21(Mon) 17:16 [Reply] |
>
中世以前のお隣の国の発音はわからないと聞いていたのですが研究が進まれて解る様になったようで、驚きです。 所詮私が勉強した範囲ですが・・・ 『三国遺事』(1285)などに「郷歌」(ひゃんが)26首が収録されています。 これらは新羅語になるものと考えられ、それの研究から新羅語が少し解明されてきているようです。それによると、中期朝鮮語は、新羅語とのつながりが(百済語や高句麗語よりも)濃い、と考えられています。「発音」は所詮文献からの(即ち文字からの)推考ですから、「わかった」か「わからない」か、と詰め寄るとすると、確かではないが、こういうことだろう、ということが分る、という提案なのだと思います。 |
[1657] Re[1656][1654][1647]: 白村江 素人 | 2005/11/21(Mon) 01:58 [Reply] |
>
そういうことですね。ただ、仮に間違っていてもそれが通用していって、人口に膾炙しちゃうことも多々ありましょうから、「間違い」と断ずるのではなく、原義はああだった、こうだった、と論ずるのが良いのだと思います。 > 難しいことは解りませんが、当時としては日本での有史以来最大の事件とも思われる場所の名前は漢文だけでなく物語りや歌として口から口へと伝えられることも多く耳から自然と地名は入っていたのではないでしょうか。文字が読めない人も知っていた地名だったとか。文字だけが歴史を伝えるとは限りません。歌などは意味が解らなくなっても歌い続けていたりするように思います。 中世以前のお隣の国の発音はわからないと聞いていたのですが研究が進まれて解る様になったようで、驚きです。 素人のたわごとでした。 |
[1656] Re[1654][1647]: 白村江 大三元 [Url] | 2005/11/17(Thu) 10:28 [Reply] |
>
うーん、この部分は読解力不足でいまいち理解しにくいけれど、他の例から白はハクの音読みではない。 この地名(白江、白村江)の場合は、、、白 を音読みするのではない、ということでしょうね。(訓読みで、「シン」あたりの音で読むのが正しい、と云っているように理解します。) > 半島語?でも漢字の音と古来?の訓読み発音が入り混じって使われているので注意、といったところですね。 そういうことですね。ただ、仮に間違っていてもそれが通用していって、人口に膾炙しちゃうことも多々ありましょうから、「間違い」と断ずるのではなく、原義はああだった、こうだった、と論ずるのが良いのだと思います。 > さーて、古代ギリシャ語とその変化と古代中国語(こちらは地域の訛を相当含む当て字になるか)の対比・・ > 面白そうですが、こりゃやっかいなことになりそうやなあ(^^; ですね。しかし、西域と韓半島のつながりを論じたければ避けられないかも?? 私はかなり及び腰、です。 |
[1655] 百済と弓月 大三元 [Url] | 2005/11/17(Thu) 10:17 [Reply] |
百済を何故クダラと読むか、など、ここで述べてきたこと+αを下記にまとめておきました。 http://www.dai3gen.net/kudara.htm |
[1654] Re[1647]: 白村江 かたばみ [Mail] [Url] | 2005/11/17(Thu) 10:04 [Reply] |
1647白村江 ≫欣良買 hun-ne-moi, hsin-ne-moi, sin-ne-mol が「白い水の村」または「白い江の水」であり、 ≫新羅時代の「喜安」、高麗時代の「保安」、『高麗史』に見える「希安」などはみな hsin-ne を書き表した字である 引用ありがとうございます。 うーん、この部分は読解力不足でいまいち理解しにくいけれど、他の例から白はハクの音読みではない。 半島語?でも漢字の音と古来?の訓読み発音が入り混じって使われているので注意、といったところですね。 1648 ≫大月氏 が エフタル と同族ということから、「タル」が「月」に対応するとして、 ≫さて、「エフ」が「大」に対応するのか 西域の情報は中国の記録かギリシャ史書の記録が残る程度。 欧米での表記はギリシャ史書の発音を使ってると思うけど。 さーて、古代ギリシャ語とその変化と古代中国語(こちらは地域の訛を相当含む当て字になるか)の対比・・ 面白そうですが、こりゃやっかいなことになりそうやなあ(^^; |
[1653] I shall respond(笑) 恋川亭 | 2005/11/16(Wed) 23:06 [Reply] |
グラサンとコーンパイプ親爺のセリフじゃないけど。 諸氏、大量の燃料をありがとう! どうか今度の土日まで引っ張っていて下さいネ。燃やしていてネ。 |
[1652] Re[1651][1650]: 本殿の6809渡来のタイミングと動機(紀元前)2 大三元 [Url] | 2005/11/16(Wed) 22:28 [Reply] |
> > >
≫紀元前500年、春秋時代の斉の都、臨シの遺跡から出た人骨の大半はドイツ人、フィンランド人、 > ≫アイルランド人のDNAと同じだったそうです(東大人類学植田教授)。 > > 植田信太郎(助教授)のことかなあ、そのデータを全く知りませんが「人骨の大半」だけではあいまいすぎて・・なんとも。 これについての概観は: http://homepage.mac.com/azsyano/Personal25.html これの反論(結構強烈)が Yao et al. Mol.Biol. Evol. 20:214-219,2003 Abstractは: http://mbe.oxfordjournals.org/cgi/content/abstract/20/2/214 どちらかに軍配が上がったのだろうか。 |
[1651] Re[1650]: 本殿の6809渡来のタイミングと動機(紀元前)2 かたばみ [Mail] [Url] | 2005/11/16(Wed) 19:38 [Reply] |
≫ 遠くは紀元前2300年ごろ シュメールの民の難民が ≫ 紀元前722年 新 アッシリアに滅ぼされたイスラエル の民が ≫ 紀元前597/587年 バビロニアに滅ぼされたユダヤの 民が これらにつても考え方は同じで、可能性はないとはいいませんが・・ なぜ列島にまでやってこなければならないのか、その必然性がみえません。 海の民ならまだしも、移動経路となるであろう中間地域にその痕跡もみえませんし。 ただし、シュメールとインダスが交易していたのは出土物から確実であり、インダスと長江が交流していた可能性もあるとみております。 王族あるいは富裕者の登場とその欲望に基づく商売、ですね。距離も近いし。 とんでもないものが出土してそれまでの定説がひっくりかえることはいくらでもあります。 そういう可能性を探索するのも面白いのですが、手が回りません。 ≫紀元前500年、春秋時代の斉の都、臨シの遺跡から出た人骨の大半はドイツ人、フィンランド人、 ≫アイルランド人のDNAと同じだったそうです(東大人類学植田教授)。 植田信太郎(助教授)のことかなあ、そのデータを全く知りませんが「人骨の大半」だけではあいまいすぎて・・なんとも。 アルプスのアイスマン、出土状況は最良ですがそれでもDNA分析はむずかしいみたいですね。 http://www3.kmu.ac.jp/legalmed/DNA/iceman.html (矢で射殺された人物らしい(^^;) BC500のヨーロッパにはドイツ人もフランス人もおらず、ローマも建国神話の時代。 当時のギリシャ人ですらその出自は不明、ギリシャ史書に記されるスキタイなども不明。 これだけでも尾ひれの追加を感じます。 それより500年以上遡る殷時代の青銅刀子は北方ユーラシアの刀子と同じ形ですから、この頃に西域とも交流があった可能性はあると思います。 が、これらをうかつな方向へ拡大解釈してしまうことには要注意と思います。 |
[1650] 本殿の6809渡来のタイミングと動機(紀元前) かたばみ [Mail] [Url] | 2005/11/16(Wed) 19:34 [Reply] |
≫日本へ弥生人が来たのはどんなタイミングと動機が想定できましょうか ≫紀元前473年 呉越戦争で負けた呉からの難民 ・ ・ ≫ 春秋戦国の大動乱時代(紀元前771年〜紀元前221年)に長 江流域の苗族が雲南へ一部はボートピープルになって日本へ 可能性としてはお書きになったすべてありえるし、事実は小説より奇なりでいろいろありそうですね。 渡来人としては沿海州とかオホーツクなども視野に入れる必要もありそうです。 私は、弥生あたりまでの人々の行動は自然環境の変化に支配される、と考えています。 狩猟や漁労、さらには農耕など食糧生産のありように影響を与える変化です。 これによってなにが起きるだろうかをいろいろ考えています。 戦争も食糧事情の悪化などが大きな原因になりますが、戦争の目的(原因)がなにかによって人々がどう動くかは大きく変わってくるはずです。 呉越戦争など大きな戦でも、広大な大陸の一部での類似文化の王族の勢力争いなら、一般民が海を渡って逃げ出す状況はあまりないと思います。 勝者にとっても民は収益の源ですからそうそう無茶はやらないはずですし、支配者が変わっても民は無関心の場合もありえますし。 王族であれば後の反乱の種をつみ取る意味で敵対王族を殲滅しようとするでしょうから、敗れれば必死で逃げ出すこともあると思います。 しかし大陸なら敗れた側が逃げる場所はたくさんありそうです。 呉楚七国の乱に注目していますが、当事国はすべて東シナ海沿岸国であり、全土を支配した前漢に対する反乱という特殊状況があるためです。 前漢の武帝が南越を支配したとき、南越の民を江蘇省あたりに強制移住させていますが、その理由の大半は稲作の取り込みだとみています(ある程度の奴隷的状況あるいは先住者との葛藤が生じたかもしれませんけど)。 五胡十六国時代でも占領した国の農民を移住させていますが、遊牧系国家が自国を農耕化(漢化)するための方策だったようです。 宗教戦争や民族意識がからむ場合は殺戮そのものが目的になりやすいですから、この場合の敗者は必死に逃げ出すと思います。 なんらかの理由でボートピープルが生じて列島に漂着したとしても、一般民であれば所持する文化はたいしたことはないでしょう。 なにがしかの血縁が生じても結局は列島(の文化)に吸収され、歴史を動かすほどにはならないと考えています。 徐福のごとき文化(あるいは準備)を持っていてさえも、単独行であれば大半の血と文化は吸収されて終わるのではなかろうか。 ただし、これらが何百年にも渡って継続する、あるいは故郷と交流が継続する場合は話が違ってきます。 継続=定着ですね。 持論で環境避難民と称している状況がこれで、半島からの渡来者がメイン。 縄文末期の寒冷化による困窮がおそらくは列島より激しかったであろう地域からの移住者です。 記録にはまず残らない人々ですが定着によるとみえる考古学的出土物は少なからず。 中国春秋戦国からの避難民も似ています。これも100年単位で継続した可能性があります。 持論では戦争避難民と称していますが、環境避難民と年代も地域も重なります。 これによる半島経由の玉突き現象も生じており、弥生文化登場のメインと考えています。 斉の関連では春秋左伝に「紀候その国を大去す」(BC690)とあり、前後関係から斉に滅ぼされてのこととみえます。 大去とは一族郎党がどこかへ引っ越した意でしょう。 山東半島ですからお隣でもある朝鮮半島→列島にまで移動した可能性あり。 (記紀に登場する「紀氏」の祖ではないかと・・) もうひとつ天変地異でその地域全体が生活できる状態ではなくなった場合もあるでしょう。 最古では海水面上昇によるスンダ大陸の海没などがありますが、もっと下ってはBC2000頃の気候異常による長江や黄河の大洪水があります。 状況によっては何十万の単位の人と文化が周辺に散ることになり、散った先ではそれまでとは連続しない新文化が登場することになるでしょう(例えば三苗による文化の伝播)。 これらとは全く異なる文化と人の移動もあると思います。 「商売」の概念が登場している場合です。 利益(採算)の得られる地域と移動手段があれば、どんなに遠距離でも往来する人々がいるはずです。 この場合も例外的な文化(文物)がある地域に突発的に登場することになりそうです。 縄文での黒曜石や装飾用貝類などによる交易もこの仲間だと思います。 (帰郷する少彦名命にも、「商人」の臭いを感じています(^^;) |
[1649] 朝鮮銅鐸 琉球松 | 2005/11/16(Wed) 09:18 [Reply] |
。。「月読が百済、素盞嗚が新羅なら、天照は高句麗だと、三貴子=三韓で面白い。。高句麗(天照)は、盟下の新羅(素盞嗚)と対立」。。 これはナイスですね。 スサノヲが、禊ぎ後のイザナギの鼻(朝鮮半島南部)の出自で、その御正体は「朝鮮銅鐸」であろうと思うんですがどうでしょうか? 「倭国大乱」にしても、なにも日本だけの混乱ではないはずですから、そこらあたりまで見渡す必要があるんでしょう。 いずれの時代の日韓関係?も「竹島問題」どころではなかったでしょうしね(笑)。。 |
[1648] Re[1645][1641][1640][1636][1635]: 秦氏 大三元 [Url] | 2005/11/15(Tue) 16:32 [Reply] |
>
バルハシ湖あたりの弓月国(^^; 大月氏 が エフタル と同族ということから、「タル」が「月」に対応するとして、さて、「エフ」が「大」に対応するのか。何語で考えるとそうなるのか、なんて展開が面白くなりそうです。 |
[1647] 白村江 大三元 [Url] | 2005/11/14(Mon) 12:24 [Reply] |
『百済滅亡と古代日本(白村江から大野城へ)』全榮來著(雄山閣)P91-91より抜粋: 白村を『日本書紀』では「ハクスキ」と訓読しているが、このように振り仮名を付けた人はおそらく「白」を音読し、「村」を訓読したようである。これは三国時代の百済の地名が分からなかった後世の考証学者が速断した結果にすぎない。 欣良買 hun-ne-moi, hsin-ne-moi, sin-ne-mol が「白い水の村」または「白い江の水」であり、新羅時代の「喜安」、高麗時代の「保安」、『高麗史』に見える「希安」などはみな hsin-ne を書き表した字である。「白村・白江もまたこれの別写地名であることはいうまでもない。したがって、白は「ハク」と音読せず、hsin と訓読しなければならない。」 というわけで、音読、訓読という識別がある、という例示です。それ以上に面白いですが。 |
[1646] Re[1645][1641][1640][1636][1635]: 秦氏 大三元 [Url] | 2005/11/14(Mon) 09:39 [Reply] |
かたばみさん > > 韓国語ですか。韓国語では音読みとか訓読みといった識別はあったのかなあ。 はい、ありますよ(と言うか、あるように書いてある本があります) 時間が取れたら面白そうな箇所を抜粋しましょう。 > 「弓: ku」の場合は漢字の音読みの継承のようにみえますね。 > ただし弓月の場合は単語ではなく重箱読みである可能性もあるかもしれない。 > http://www.dai3gen.net/hyouki.htm はい、弓 KU が音、 月 DAL が訓 ですね |
[1645] Re[1641][1640][1636][1635]: 秦氏 かたばみ [Mail] [Url] | 2005/11/13(Sun) 20:10 [Reply] |
≫少なくとも現代韓国語では、こうも読みうる、と思います。 韓国語ですか。韓国語では音読みとか訓読みといった識別はあったのかなあ。 「弓: ku」の場合は漢字の音読みの継承のようにみえますね。 ただし弓月の場合は単語ではなく重箱読みである可能性もあるかもしれない。 http://www.dai3gen.net/hyouki.htm 発音の場合は民族性とか生理学的なアナログ変化になると思いますが、単語そのものの場合はデジタルでふたつの単語が複合することはなく、併存するかどちらかが消えるかだと思います。 台所とキッチンでキッチンが残ってキチムなんて発音に変化するかもしれないけれど、複合してダイチンなんて単語は登場しない(^^; 異なる文化(言語)が接触したときなにが起きるか。 日本語の場合は仮名が登場しても漢字が使われ続けているから関連がつかみやすいですが、発音による文字だけしか使われなくなった場合には判断が難しくなりそうです。 百済本紀からは十済(十姓、10人の家臣)だったのが大きくなって百姓(百人の家臣)となった。 中国のだれかが姓を済に当て字して百済だと思います。 中国読みでヒャクサイ(呉音)かハクセイ(漢音)。 ハングルでは百済ペクチェのようで、中国発音のヒャクサイからのそれぞれの変化じゃないかな。 韓国の地名の多くは中国音からの変化のようにみえますが、列島よりずっと大きく中国文化の影響下にあったためか? ちなみに新羅シラギはシルラの城(キ)シラキであろうとみています。 (発音を漢字に当てて新羅か、これに日本語の城キを加えたのが日本語での呼称とみる) ただし、百済本紀では「潔城」「悦城」を「潔己」「悦己」と表記しているようです。 (字訓、原文未確認) 日本語での城キは馬韓?→百済での「意と発音の双方」で同じであった可能性あり。 (だから日本語(縄文〜弥生)が半島と同じであるとはできない) 列島の縄文や弥生初期に城(柵)の概念とその言葉があったかどうかは不明、城キは弥生時代の新しい概念(外来語)である可能性が大きいとみておきます(半島においても同様か)。 (現代韓国語では城はソン、己キとは関係なさそう) 話がずれてしまったけど(^^; 百済クダラはなにもみえませんが、城キと同じ文化圏の言葉であった可能性少なからずか。 スサノオが箕子朝鮮出自であるなら殷の単語も使っていたはずだし、鮮卑の単語もまじるはずだし・・ とすると半島語には西域の外来語が少なからず含まれていることも視野に入れておかないと。 バルハシ湖あたりの弓月国(^^; 長江の良渚文化は中国で最初の城郭をもつ都市国家・・殷の成立には長江文明が大きく関与。 南方系になにかあるかどうか。 琉球語で城はグスクだけかしらん? |
[1644] Re[1643][1642]: 堕落 大三元 [Url] | 2005/11/13(Sun) 11:23 [Reply] |
> > 三貴子のうち、悪神とされる月読神、これは月弓神とも書きます。 > > 月読が百済、素盞嗚が新羅なら、天照は高句麗だと、三貴子=三韓で面白い。 > 高句麗(天照)は、盟下の新羅(素盞嗚)と対立してましたね。 オッチャン達が酒飲みながら ギャグったり サバヘ為してる感じ。 良いですねぇ。朝から、一杯機嫌でぇす(^^) |
[1643] Re[1642]: 堕落 玄松子 | 2005/11/13(Sun) 02:29 [Reply] |
>
三貴子のうち、悪神とされる月読神、これは月弓神とも書きます。 月読が百済、素盞嗚が新羅なら、天照は高句麗だと、三貴子=三韓で面白い。 高句麗(天照)は、盟下の新羅(素盞嗚)と対立してましたね。 |
[1642] 堕落 神奈備 | 2005/11/12(Sat) 22:59 [Reply] |
> > ≫月: dal > > ≫弓月: ku dal クダラ の源泉? > > > 百済をなぜクダラと詠むのか、ですね。 三貴子のうち、悪神とされる月読神、これは月弓神とも書きます。 堕落した神???? 日矛と国縣神とは、興味津々の所です。 |
[1641] Re[1640][1636][1635]: 秦氏 大三元 [Url] | 2005/11/12(Sat) 21:14 [Reply] |
かたばみさん > ≫月: dal > ≫弓月: ku dal クダラ の源泉? > > 百済をなぜクダラと詠むのか、ですね。 はい。 > これは何語でしょうか。 少なくとも現代韓国語では、こうも読みうる、と思います。 一応オンラインの辞書でチェックしましたが、ハングル読みに自信がないので識者のご確認が頂けると嬉しいのですが。 さて、すくなくとも「現代韓国語」ですので、どこまで遡って有効な考察になるか、ということになります。 「月」を「ダル」と読むのは「韓国古地名の謎」(光岡雅彦著、学生社)に出ていました。さて、その古地名の古さは?何語で命名された地名か、などとなると霧の中(少なくとも私にとっては)。 「弓」を ku とするのは日本における漢字の音読みと似ている、という程度の確かさしかありません。 こう読むことの確かさを高める一方、もしそう読めるなら、どういう展開が出来るのか、という両面作戦になるのか、と思います。 |
[1640] Re[1636][1635]: 秦氏 かたばみ [Mail] [Url] | 2005/11/12(Sat) 19:43 [Reply] |
≫月: dal ≫弓月: ku dal クダラ の源泉? 百済をなぜクダラと詠むのか、ですね。 これは何語でしょうか。 三国史記には馬韓や伽耶での事象の記事はないに等しく、弥生時代末期での情報は魏志韓伝だけ。 その魏志韓伝の記事から、弥生系ハタ氏の原形が馬韓(後の百済)と辰韓(加えてその中央の伽耶)にあったと考えています。 このハタ氏は・・秦の始皇帝の系譜あるいはその家臣でよい、とみています。 もともと秦の故郷は西域に近く、秦にはその人々が流れ込んでおり、その人々も秦滅亡時に半島南部へ脱出していたのではなかろうか。 鉄の生産に関与した人々は、バルハシ湖、烏孫等の西域系製鉄(おおまかには鋳鉄)でしょう。 ただし、鋳鉄はもろく武器にはならない、秦の剣は青銅です。 伽耶に半島最古の製鉄遺跡がありますが(紀元前後とされる)、これがその系譜の人々(のつて)によって開始された製鉄ではないかと考えています。 この頃に長江付近に別系と見える鉄剣制作に関する伝承あり、こちらはインド→東南アジア系ではないかと考えています(後にタタラ製鉄となる系列)。 最新の西域系製鉄技術を入手したであろう応神以降で、これらの関連から百済をクダラと呼ぶようになった可能性・・弓ク+月ダラであるならおおいにありそうです。 百済が列島へ持ちかけてきた同盟のための見本・・それが七支刀というわけです。 百済王族は鮮卑系でもあり、鮮卑は紀元前後頃に烏孫地域まで進出しています。 半島南部に西域系の縁者がいれば烏孫などが鮮卑を介して伽耶にやってきている可能性少なからずとみています。 |
[1639] Re[1634][1633][1629][1625][1621]: 古代奈良盆地に湖があった? かたばみ [Mail] [Url] | 2005/11/12(Sat) 19:35 [Reply] |
≫王寺から大和川を少し下ったあたりに〔亀の背=瀬?〕というところがあって 大和川の断層部分のどこかかなあ。 大地震で大和川の一部(たぶん亀の背あたり)が土砂崩れで10m埋まると・・奈良市の大半は10mの水深の奈良湖に沈む。 こりゃいかんということで対応策が考えられているようですね。 大和川のある部分を少し掘れば奈良湖は消え、埋まれば奈良湖が出現する。 大地の微妙なバランスの中での綱渡り(^^; ≫私も渡来人の秦氏の正体は興味の対象です。このあたりは興味津々です。 ネアンデルタール人などとなると神奈備さんのHPから離れすぎると思いますので、ハタ氏などの方で若干。 物部とかハタとか前にも若干書きましたが・・みな中途半端やなあ(^^; ま、確たる物証がないから議論になるところで、それが面白いのではありますけれど。 私は部分から始めるのではなくて、大きな流れの仮定から枝葉を部分へ延ばすようにしています。 ちょっと無理だなと感じたら可能性の高い部分(太い枝)まで戻って展開をやりなおしてみる、その繰り返しです。 理屈をこねるとかひねった解釈を加えねば成立しないような方向はたいていペケ(^^; 記紀等のお話もペケと見なすのがよいと思う部分(ある意図による創作)少なからず含まれているとみています(^^; 少なくとも伊弉諾伊弉冉神あたりから始めないと・・ そのためにはモンゴロイドとはなにか、あたりもある程度は必要。 少し下れば天孫と出雲とはなにか、が登場してきます。 神話とされていても無視してはもったいない。 このあたり、自分なりに試行錯誤の結果で動かなくなってきたと思っている幹になる部分が以下です。 http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/sankou/shindai01.pdf http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/sankou/daiou.png 様々な事象がこの流れのなかに包含できるならば、この流れは正しい可能性が高い、そのように考えています。 で、ハタ氏には弥生に遡る流れと応神以降の流れの2流があり、秦氏(西域系)の登場は応神以降であるとみなすのが妥当・・これが現時点での考えになっています。 |
[1638] 天日矛、というと 大三元 [Url] | 2005/11/12(Sat) 11:24 [Reply] |
神鏡者則日前大神也:鏡=前:前津耳 日矛者則國縣大神: 天日矛 こんな関係を面白がっています。 参考: http://www.dai3gen.net/kunikakasu.htm |
[1637] Re[1635]: 秦氏 玄松子 | 2005/11/12(Sat) 00:30 [Reply] |
青草的には、 日の槍 と 月の弓 の対比関係が面白い。 |
[1636] Re[1635]: 秦氏 大三元 [Url] | 2005/11/11(Fri) 22:54 [Reply] |
> 応神十四年 弓月君が百済からやって来た。 弓: ku 月: dal 弓月: ku dal クダラ の源泉? 既に否定(論議)されてるのか、未調査です。 |
[1635] 秦氏 神奈備 | 2005/11/11(Fri) 21:26 [Reply] |
生駒、平群の処は古くからの湖のようですね。二上博物館には奈良湖と書いてありました。 天日槍 崇神三年、新羅の王の子天日槍が来た。 弓月君 応神十四年 弓月君が百済からやって来た。 天日槍は西日本各地の兵主神社の祭神となっている。 大和の穴師に穴師坐兵主神社が鎮座、『大倭神杜注進状裏書』に上社は御食神で神体日矛とある。故に天日矛を祭るのだろう。 天日槍の伝承を持つ地域と秦氏の居住地の分布は近い関係がある。 1.これから、天日槍は秦氏の祖である。 また穴師坐兵主神社は弓月が嶽の麓に鎮座、どうも弓月嶽を祭るようだ。これは先の弓月君の名前を山の名前にしたと考えられ、兵主の神をもたらしたのは弓月の君が率いて来た百二十県の人民。 『姓氏録』秦宿禰の祖の融通王一名を弓月王。ここでは率いたのは二十七県の民。 2.これから弓月君は秦氏の祖である。 『播磨国風土記』天日槍と葦原志挙乎とが土地争いをする話があるので、国造りの時代、いわば弥生時代のお話のようですが、崇神三年に渡来となっており、ここはつじつまが合わない処、しかし五代目の孫の田道間守と垂仁天皇とが同年代とも記されており、これならば天日槍は弥生時代(=神代?)の渡来とも言えそうです。 弓月君が古墳時代(=英雄時代?)渡来して来て、勤勉な民としての秦氏を各地に配置してこの国の建国に大いに寄与したようです。あまり権力を狙わなかったとされていますが、事実はどうだったのだろう。応神天皇の出自は秦氏だとの説もあるようで、天皇を出して、その血脈がそこそこ続いていたならば、しょっちゅう、がつがつと権力を狙う理由もなかったと言えるのかも。 |
[1634] Re[1633][1629][1625][1621]: 古代奈良盆地に湖があった? とみた [Mail] | 2005/11/10(Thu) 09:18 [Reply] |
かたばみさん、とみたです。古代史にあそぼをときどき覗いております。 > ≫樋口先生の大和湖/奈良湖の存在説を肯定されておられるのですね。 昨日、千葉県利根川沿いの木下(成田線木下=キオロシ)近辺を歩きましたら20mほどの高い地層から貝殻がありました。木下貝層として国の天然記念物指定。これも古代の東京湾が広がっていた名残だそうです。 奈良湖/大和湖について奈良在住のメール仲間に確認しましたので軽く紹介します。奈良盆地は湖が地下水となっていると想定、地面を掘ると水は豊富。王寺から大和川を少し下ったあたりに〔亀の背=瀬?〕というところがあって、ここに大きな地すべりの痕があるそうです。大和湖は大きな地すべりによって水が大和川に放出され干上がったと考えられているそうです。古墳時代までその残影として池がところどころにあった。 > 関連図を先のHPに追加しておきましたのでご覧ください。 > HPの紹介はご自由にどうぞ。 > >> 私の西アジアへの興味はいろいろありますが、ひとつは人類学的興味です。 > いわゆるモンゴロイドの登場とはなにかです。 > 宝来聴氏の「DNA人類進化学」などを資料にしています。 > このあたりは以下。 > http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/dna/dna.html すばらしいhpです。私も同じようなことを勉強しはじめました。 数馬身後れていますが、よろしく教えてください。 > > はるか下ってスキタイなど白人系?との接点にあるのがバルハシ湖など烏孫の周辺と思っています。 > 釈迦の祖先かもしれないサカ族、大月氏族など複雑そのものであるのがまた興味深いところ。 > http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/k_data/c_asia0.png > > で、古墳時代にはこれらが日本(列島)へも流れてきた。 > 例えばハタ氏、記紀に登場するハタ氏には弥生系と応神以降の2流が複合しているとみておりますが、応神時代以降での秦氏ではソグド商人(イラン系が混じるとされる)かその仲間の系譜である可能性をみております。 > 飛鳥奈良へつらなる渡来文化のレールを敷いた人々・・などなどです。 私も渡来人の秦氏の正体は興味の対象です。このあたりは興味津々です。 人の起源に迫る人類進化の舞台としての西アジアという講演があるとかで東大の生物科学の近藤修先生にメールを出しましたら、本を紹介いただきました。 朝日選書ネアンデルタール人の正体・・・赤澤威編書 (¥1400)最近の書です。 アフリカ地溝帯を出たホモサピエンスが西アジア(中央アジアでない)にでてアジアへさらにヨーロッパへと分かれてアジア系はスンダーランドへ・・・の話かと思いますが。その新説なんでしょうか(まだ読んでいませんがそのうち)。骨格分析とか、ミトコンドリアDNA分析は必須でしょう。 > > |
[1633] Re[1629][1625][1621]: 古代奈良盆地に湖があった? かたばみ [Mail] [Url] | 2005/11/09(Wed) 21:13 [Reply] |
≫樋口先生の大和湖/奈良湖の存在説を肯定されておられるのですね。 ≫貼り付けていただいたHPを地元の古代史仲間に紹介してもよろしいでしょうか。 奈良湖に関しては原文を読んでおりませんので、存在説の是非うんぬんはできませんが、自分なりにその可能性は高いとみています(地形と遺跡のありようによるものです)。 関連図を先のHPに追加しておきましたのでご覧ください。 HPの紹介はご自由にどうぞ。 余談:樋口清之氏の(完本)梅干と日本刀は軽い読み物としても面白い、どなたにもお勧めと思います。 安田喜憲氏の花粉分析データとその関連著作は縄文時代などを具体的に推定する貴重な資料にしています。 ナイル川河口の花粉分析ではBC2000頃に生命反応が消えるなんてデータが興味深い。 世界的に旧文明の崩壊時代だと考えています。日本では縄文の崩壊。 私の西アジアへの興味はいろいろありますが、ひとつは人類学的興味です。 いわゆるモンゴロイドの登場とはなにかです。 宝来聴氏の「DNA人類進化学」などを資料にしています。 このあたりは以下。 http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/dna/dna.html はるか下ってスキタイなど白人系?との接点にあるのがバルハシ湖など烏孫の周辺と思っています。 釈迦の祖先かもしれないサカ族、大月氏族など複雑そのものであるのがまた興味深いところ。 http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/k_data/c_asia0.png で、古墳時代にはこれらが日本(列島)へも流れてきた。 例えばハタ氏、記紀に登場するハタ氏には弥生系と応神以降の2流が複合しているとみておりますが、応神時代以降での秦氏ではソグド商人(イラン系が混じるとされる)かその仲間の系譜である可能性をみております。 飛鳥奈良へつらなる渡来文化のレールを敷いた人々・・などなどです。 |
[1632] 神のイベ 琉球松 | 2005/11/08(Tue) 16:54 [Reply] |
神奈備さんへ 隣りの掲示板で「kami nu ibi」と「utaki」について述べられてますね。 我々沖縄人には、島々に数えきれないほどある「イベ」と「御嶽(うたき)」意外に連想しませんね。 この二つはほとんど同義で、「イベ」は普通「イビガナシ(カナシは大和言葉の愛しいの意)」と呼ばれ、3個の霊石(大小を問わず)を言いますし、どちらの名称にしても女達の祭り場であり男子禁制です。 また、「ウタッキ」が「御嶽」に比定できるかどうかはわかりませんが、それは聖地の総称ですから、地図に出るはずはないと思いますね。 沖縄でそんなことをすれば地図がまっ黒になってしまいます(笑)。。。 いこまかんなびさんへ 「三世相」の件、もうすこし調べてみます。 |
[1631] Re[1630] 諏訪湖付近3 玄松子 | 2005/11/08(Tue) 08:45 [Reply] |
何をおっしゃっているのか意味がわかりません。 > 玄松子さま>どういう意味ですか? > 生島足島神社にはこだわりませんが、上田市の自然となにかの神社を他の地域とは別格に扱う表現をしてくれれば個人的に納得いたします。 なぜ、別格に扱う必要があり、 なぜ、貴方を個人的に納得させる必要があるのか。 |
[1630] Re[1570] Re[1569]: RE1535)諏訪湖付近3 言蛇 [Mail] [Url] | 2005/11/08(Tue) 02:10 [Reply] |
玄松子さま>どういう意味ですか? 生島足島神社にはこだわりませんが、上田市の自然となにかの神社を他の地域とは別格に扱う表現をしてくれれば個人的に納得いたします。 私の場合ですと、穂高神社の第7回四季写真コンテストに自分が投稿した「まそ鏡」が無事に入賞したことでしょうか、要は現在進行形で育みたい神社があればいいんです。今回のコンテストですと「安産祈願」がとても気に入ったので、機会がありましたら穂高神社御船会館に立ち寄っていただければ幸いです。 私は諏訪大社を扱うなら守屋氏が現代の諏訪祭事をどうのように捉えているかは実際に確認の要ありと思っているのですが、現実に守屋氏を訪ねたら爆弾発言が炸裂したということは避けたいのです。現代の諏訪大社宮司さんは現代的な一般人ですので守屋一族が草の根レベルで共同歩調をとって御柱祭りをインディアンに伝えてみたりすれば建設的な事例データを得られると思うのですが、悲しいことに主権を失った神道家はほとんどオカルトに走っていくのでこの流れは断ち切りたいものです。 |
[1629] Re[1625][1621]: 古代奈良盆地に湖があった? とみた [Mail] | 2005/11/07(Mon) 23:02 [Reply] |
かたばみさん、はじめまして、回答ありがとうございました。 昨日まで覗いておりましたが本日は夜になっては初めて開き、二度も回答いただいた ことを知り恐縮しております。 一縷の望みを託して質問させていただきました。倭亜府さんの御紹介の賜物です。主 宰の神奈備様、今後ともよろしくお願いする次第です。 さて、心強いお答えを頂戴できました。樋口先生の大和湖/奈良湖の存在説を肯定され ておられるのですね。貼り付けていただいたHPを地元の古代史仲間に紹介してもよろ しいでしょうか。 私は民族移動と渡来人の研究を目標にしております。 中国の古代遺跡とシルクロードの旅もその延長線上です。中国は西端のカシュガルま で行きました。 仰せのバルハシ湖のイリ川も興味の対象です。 インド・アーリア語族の民が黒海の北辺を出て南下しインドやイランに向かうと同時 に中央アジアにも足跡を残します。 紀元前7-8世紀に登場するスキタイ人もその後裔でしょうか。中国の東北の匈奴もス キタイから学んで騎馬民族として活躍したのでしょう。 黒海、カスピ海、アラル海、バルハシ湖とつながる草原はトルコ系イラン系の民が紀 元前後に跋扈しますね。烏孫はバルハシ湖近辺にいた。アラル海あたりには紀元前4 世紀までソグド人が居た。サカ人(塞人)ももともとはイリ川近辺に居りました。匈 奴がタリム盆地に侵入して月氏を追い出し玉突きで、サカ人が西へ移ります。 というような風に考えております。 イッシク湖の周辺の岩に岩絵があり、これは紀元前3世紀のサカ人の描いたものとさ れております。 環境考古学の安田喜憲さんは、今から4000年ー4200年前にユーラシアは寒冷 化し民族移動の引き金になったという説を出されておりますが・・・ なにぶんまだ駆け出しですが、定年後で暇ですから急ピッチでいろいろな本を漁って おります。いろいろ怪しげな質問をするかもしれません、みなさまご指導のほどお願 いします。 |
[1628] Re[1626]: [1625] Re[1621]: 古代奈良盆地に湖があった? 神奈備 | 2005/11/07(Mon) 16:19 [Reply] |
> 1) 生駒山〜葛城山 > 2) 生駒山〜二上山 > 3) 生駒山〜(葛城山と二上山の間) 精度1度以下の誤差。 ちとお尋ねいたしますが、この事は、造山運動と地磁気とに関連があると言うことでもおっしゃりたいのでしょうか?そうでしたら、地球物理学の領域でしょうから、このなんぼ青草でもこの談話室のテーマではありません。 > 葛城山と言えば役の行者(役小角・蔵王権現)ゆかりの山です、陰陽道のドウマン・芦屋ドウマンでしょうか? > また、かわかつさんの世界でしょうか? セ> ーマンは対抗勢力の藤原氏・アベノセイメイ? なんぼ表現力が乏しいと謙遜されても、意味不明です。もう少し砕いて問題提起をお願いしたい所です。 とみたさんの要望があり、かたばみさんが投稿して頂いたのです。とみたさんがこれに対して応答をされるのを待ってあげる心遣いはできませんか? かたばみさんは親切にも再度投稿されたのですよ。 |
[1627] Re[1621]: 古代奈良盆地に湖があった? かたばみ [Mail] [Url] | 2005/11/07(Mon) 15:06 [Reply] |
とみたさん、初めまして。 シルクロードを見聞されたのですか、私も烏孫と呼ばれる人々の地域、カラクリ湖やイッシク湖を見たいと思っています。 樋口清之氏の原文は読んでいませんが、遺跡の分布状況による推論がありますね。 私も同様の理由から、奈良湖があった可能性が高いとみています。 なお、大阪湾〜山城平野〜奈良盆地に連なる海があったという論もあるようですが、これは賛同しません。 奈良盆地の標高は30m以上であり、ここに海が入り込む可能性は1千万年単位の昔であればいざ知らず、人間の時代ではその可能性はゼロだと思います。 (縄文海進は現在の標高5m程度まで) 以下の末尾に奈良湖について若干書いています、ご参考まで。 http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/edo/edo_joumon.html ダイダラボッチなど巨人が山を蹴壊してうんぬんといった伝承がありますが、縄文末期の異常気象で起きた大洪水で地形変化が各地に生じたことを源にする伝承とみています。 伊弉諾伊弉冉神話もまたこの洪水時代と縄文海退時代の新しい土地の誕生の記憶に基づくと考えています。 (ノアの箱船などの洪水神話もおおよそ同時代BC2000頃と推定) 以下に万葉0002の天の香具山から海が見える、という歌について書かれています。 http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/kaguyama.html 樋口清之氏の説に賛同です。奈良湖が残存していた様子を詠ったものだろうと思っています。 以下は飛鳥時代の天の香具山山頂(141m)からその奈良湖を遠望した図(135mm望遠レンズ相当)。 http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/narako3.jpg むろん万葉での海は海水の海じゃないでしょう。 湖ミズウミ=水の海、この海の意だと思います。 なお、銅鐸等がなんらかの測量指標であろうという説、私は採りません。 そういう指標であるならできるだけ周囲をぐるりと見渡せる位置に置くのが必然と思います。 すなわち山頂ですね。 銅鐸の出土状況はそれに合致しないからです。 |
[1626] [1625] Re[1621]: 古代奈良盆地に湖があった? 倭亞府 | 2005/11/07(Mon) 14:51 [Reply] |
かたばみさん、とみたさんを宜しく御願い致します。とみたさんはかたばみさんのような見識深い方と尊敬もうしあげています。 私は、見識の浅い「妄想の民」です、口べた(表現力が乏しい、舌足らずです。) 「銅鐸等がなんらかの測量指標であろうという説、私は採りません。 そういう指標であるならできるだけ周囲をぐるりと見渡せる位置に置くのが必然と思います。 すなわち山頂ですね。 銅鐸の出土状況はそれに合致しないからです。」 ・・・・反省しました。 南北ライン(山がメインです。) 奈良湖推定図(かたばみさんの図)の分析によりますと 3本の南北ラインが銅鐸・古墳・寺社の位置と関係していました。 (石上神宮〜大上神社の誤差は生駒山〜葛城山の南北の誤差約1度) 1) 生駒山〜葛城山 2) 生駒山〜二上山 3) 生駒山〜(葛城山と二上山の間) 精度1度以下の誤差。 (1度以下の誤差でも縮尺図にすると精度が下がり、そのような縮尺図による計画の分割実行の末路が目に浮びます。) このラインの角度の差と各ポイントからの角度の誤差が古代の測量を困難としたと思われます。(直線の精度は高いです。) 葛城山と言えば役の行者(役小角・蔵王権現)ゆかりの山です、陰陽道のドウマン・芦屋ドウマンでしょうか? また、かわかつさんの世界でしょうか? セーマンは対抗勢力の藤原氏・アベノセイメイ? (表現力が乏しい私です、察して下さい。) コラボレイトが楽しみです。 |
[1625] Re[1621]: 古代奈良盆地に湖があった? かたばみ [Mail] [Url] | 2005/11/07(Mon) 11:53 [Reply] |
とみたさん、初めまして。 シルクロードを見聞されたのですか、私も烏孫と呼ばれる人々の地域、カラクリ湖やイッシク湖を見たいと思っています。 樋口清之氏の原文は読んでいませんが、遺跡の分布状況による推論がありますね。 私も同様の理由から、奈良湖があった可能性が高いとみています。 なお、大阪湾〜山城平野〜奈良盆地に連なる海があったという論もあるようですが、これは賛同しません。 奈良盆地の標高は30m以上であり、ここに海が入り込む可能性は1千万年単位の昔であればいざ知らず、人間の時代ではその可能性はゼロだと思います。 (縄文海進は現在の標高5m程度まで) 以下の末尾に奈良湖について若干書いています、ご参考まで。 http://www.asahi-net.or.jp/~vm3s-kwkm/edo/edo_joumon.html ダイダラボッチなど巨人が山を蹴壊してうんぬんといった伝承がありますが、縄文末期の異常気象で起きた大洪水で地形変化が各地に生じたことを源にする伝承とみています。 伊弉諾伊弉冉神話もまたこの洪水時代と縄文海退時代の新しい土地の誕生の記憶に基づくと考えています。 (ノアの箱船などの洪水神話もおおよそ同時代BC2000頃と推定) 以下に万葉0002の天の香具山から海が見える、という歌について書かれています。 http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/kaguyama.html 樋口清之氏の説に賛同です。奈良湖が残存していた様子を詠ったものだろうと思っています。 以下は飛鳥時代の天の香具山山頂(141m)からその奈良湖を遠望した図(135mm望遠レンズ相当)。 http://woodsorrel.cool.ne.jp/data/narako3.jpg むろん万葉での海は海水の海じゃないでしょう。 湖ミズウミ=水の海、この海の意だと思います。 なお、銅鐸等がなんらかの測量指標であろうという説、私は採りません。 そういう指標であるならできるだけ周囲をぐるりと見渡せる位置に置くのが必然と思います。 すなわち山頂ですね。 銅鐸の出土状況はそれに合致しないからです。 |
[1624] Re:[1623] 物部の分裂 ? いこまかんなび | 2005/11/06(Sun) 16:59 [Reply] |
琉球松さん コメントいただきありがとうございました。 無理やりのこじつけめいた質問ですのに申し訳ありません。分裂?は私なのかも?。 とはいえ、ほかにも渡来系の神や堺の神などの視点などなど、何らかの結びつきそうな可能性も探っていこうと思ってます。そちらでも大陸・半島系あるいは本土からの影響と考えられるヒントに出会われましたら、また御教示くださいませ。 ありがとうございました。 |
[1623] 物部の分裂 琉球松 | 2005/11/06(Sun) 11:54 [Reply] |
いこまかんなびさんへ 「酒の力?で清め祓う神事」。。。これはさまざまな想像をかき立てますね。 物部は開化時代の「連」の系統でしょうけど、親仏派の蘇我氏を滅ぼしたはずの中臣氏が仏教的な政策を打ち出すに及んで、物部の分裂は決定的になったと思います。 **「反仏派 VS 容仏派」VS 親仏派 ** こういう図式が成り立つとすれば「須牟地-住道=スムチという不思議な神」は反仏派に近い印象を受けますね。あくまでも伝統を守る原理主義者? また、酒を酌み交わし同志の契りを確認するような光景は、琉球圏宮古諸島の「オトーリ(現在では宴会を盛り上げるための乾杯と口上の儀式?)」を連想します。 この宮古諸島は、アマテラスをも祭祀の中心に据える特殊な地域で、奈良における政権抗争に破れた一派の亡命地ではないかとの説もあります。 島の神事に使われた聖なるお椀は「四つ足」と呼ばれてますね。 * 琉球の「サンジンソウ」は、もう少し時代を特定できないか調べてみます。 |
[1622] Re:[1620] スムチ いこまかんなび [Url] | 2005/11/05(Sat) 22:13 [Reply] |
琉球松さん、新しい潮が満ち新しい風が吹いています。Re>ありがとうごぜいます。ところで、 >しかも、物部の分派の一系統でしょうから、興味ありですね。 という意味をもう少し教えてくださいませ。 >琉球の三世相は権現等が持ちこんだと考えられる比較的新しいものですから これもいつの時代・誰が? 二言程度で教えて下さいな。 スムチ又はスム、古代の大きな謎が潜んでいるようですので。 結果として関係無かっても、琉球に残っていた、ということも考えたいですしね。 |
[1621] 古代奈良盆地に湖があった? とみた [Mail] | 2005/11/05(Sat) 22:11 [Reply] |
はじめまして とみたと申します。 定年後を古代史を肴に生きているものです。よろしくお願いします。シルクロードへ行ったりして少しずつ勉強を始めました。 実は別の研究会の仲間で、多分この会に入っておられるkさんの紹介でこの掲示板を知りました。その方が下の記事を書かれたので私が質問したら詳しくは青草のかたばみさんに尋ねてほしいということでした。 それで厚顔にも窺うことにしました。樋口先生の説の正当性はいかがでしょうか。 <kさん>銅鐸は、やはり測量のポイントでした。 奈良湖推定図 (カシミール3D使用)で解明できました・かたばみさんに感謝申しあげます。 奈良盆地の湖沼推定図 かたばみさん図です。 法隆寺の近く、のポイントより各 銅鐸の出土地点へのライン ライン 銅鐸内角30度・60度のライン 正三角形にちかい形を描きます。(古代測量は、銅鐸〜古墳〜寺社へと誤差の <とみた>奈良盆地に湖沼? kさんホント、古代の奈良盆地に湖沼があった。樋口さんの逆日本史に昔、大和湖という大きな湖があったという説が出ていた。 石器時代の終わりごろの遺跡は奈良県全体で300近く発見されていて、大和の吉野渓谷から始まり宇陀・三輪を通って大和平野に降りてくる平野の周辺部に広がっている。それは標高60mのほどの線までだそうです。つまり古代は今の60m線が湖水の水際であったという証拠立てです。 大きな湖から大和川に流れ出していた。 それで、先日大阪平野の古代の湖を探したら、河内湖はあったけれど、大和湖は特に書かれておらず、ただ大和川下流は古くからの農業が発達していたとだけ書かれていた。 大和川の上流に湖があったのですか。是非教えてください。 |
[1620] スムチ 琉球松 | 2005/11/05(Sat) 21:56 [Reply] |
文字だけでは表情や雰囲気はなかなか伝わりませんから、丁寧な投稿を心がけたいと思います。 あらためて、お詫びします。 さて、「スムチ」ですが、この語源が「書物」であるかいなかは別として、現在の沖縄方言でも「書物・記録・知識」などの意味を持っています。 しかも、物部の分派の一系統でしょうから、興味ありですね。 ただ、琉球の三世相は権現等が持ちこんだと考えられる比較的新しいものですから、とりあえず脇に置いていたほうがいいかもしれません。 |
[1619] 気分治しで「一言」を----三世相のスムチ いこまかんなび [Url] | 2005/11/05(Sat) 21:24 [Reply] |
こんばんわ。気分を変えて「一言」ご相談を。 前々から摂津の住吉大社(住吉の国)の周りに存在する謎の須牟地-住道=スムチという不思議な神、あるいは言葉の意味は一体何なんだろかとずっと考えてきました。朝鮮語なのかはたまた?、幾人ほど受け入れたものか、多数の渡来人の入国を酒の力?で清め祓う神事、あるいは神事の行なわれる清浄域などだったのか?、と自分勝手に考えてきました。そこで、阿呆草。 琉球にはサンジンソウ(三世相)と云う占いがあって、これは「スムチ」あるいは「シムチ」ともよばれ、一種の易者、占い師であったといわれます。 スムチは、漢字では「書物」とも表記され、書物を読みこなす優れた能力をもつ知識人であり、暦学を身につけていたといいいます。 琉球王府が宗教統治していくうえで地方に設置され王府から任命されたノロが宗教的祭祀を司どったといいます。 任命の際には勾玉・神衣装・役地が与えられたといいます。巫女であるユタは一種のシャーマンで、男はトキと呼ばれた」といいます。 住吉神の周りを護り古代の我が国を清め祓ったとみられるスムチの神々と琉球に残る三世相のスムチと何らかの関係があるのか、ヒントとなる手がかりがないものでしょうかね。 琉球松さん、ほかの皆さんも、何かございますればご意見を頂戴いただければと。 失礼ながら、受け入れの一方だけとなりますが。どこか青糞 |
[1618] Re[1617][1616][1615]: 論破 琉球松 | 2005/11/04(Fri) 20:07 [Reply] |
一言多かったようです。申し訳ない。 |
[1617] Re[1616][1615]: 論破 玄松子 | 2005/11/04(Fri) 11:13 [Reply] |
> > > 語源や語義の解析という点では、大三元さんを論破できないようです(笑)。 > > まぁ半ばご冗談なのでしょうけど、「論破」などそんなツモリは御座いませんで、 管理者・当事者からのレスがなければ、スルーすべきだと考えていましたが、 この「論破」という表現は、まったくの的外れであり、ある意味、大変失礼な表現であると感じていました。 |
[1616] Re[1615]: 論破 大三元 [Url] | 2005/11/04(Fri) 10:38 [Reply] |
> >
語源や語義の解析という点では、大三元さんを論破できないようです(笑)。 まぁ半ばご冗談なのでしょうけど、「論破」などそんなツモリは御座いませんで、 色んなお話の「青草度」(信頼度と反比例・・・)がどれほどなのか、ということを 自分なりに判定しようとしているもの、とご理解頂きたいです。 ですから > しかし、冷静なその姿勢はありがたいですね。 ほんと、ありがたいし、また、それで良いのだと思います。 |
[1615] 重出立証法 琉球松 | 2005/11/03(Thu) 14:39 [Reply] |
神話の森の番人さんへ 語源や語義の解析という点では、大三元さんを論破できないようです(笑)。 しかし、冷静なその姿勢はありがたいですね。 ただ、古代史とは従来ほとんど脈絡がなよいうに思える「フトモモ」などが沖縄経由で繋がる可能性は0%ではないはずで。。。ここは民俗学の分野でしょうか? 考古学の手法のひとつ「重出立証法」を引っ張り出して、アイヌ圏と琉球圏で援用すれば、何か思いもよらない突破口が開けると思いますね。 僕にとっては、「フトモモ」。。まんざらでもないんです。 |
[1614] Re[1613][1612][1603][1602][1595][1593][1590]: HOO 大三元 [Url] | 2005/11/02(Wed) 17:38 [Reply] |
> > >
太の意味ではなく一説によるとフトだけで今のフトモモの意味だったというのです 青草として許して頂こう。 なるほど、フトシキ = モモシキ ってことになるのかも? |
[1613] Re[1612][1603][1602][1595][1593][1590]: HOO 大三元 [Url] | 2005/11/02(Wed) 17:32 [Reply] |
神話の森の番人さん > 太の意味ではなく一説によるとフトだけで今のフトモモの意味だったというのです なにか用例がありますか。どなたの説でしょうか。 なんとかの一つ覚えですが『時代別国語大辞典上代編』には見あたらないので。 > フトやホトは常に意味が固定して狭い範囲の一部分を言うのではないようでもあります。 一般的にある語が意味する範囲は大いに流動的であることには異存がありません。 私は ホト は ホソ(臍)と共に po-tso に遡るのではないか、と思っています。 > コシ(腰)も細腰(ウエスト)の意味からだんだん下がってきて今は必ずしもはっきりしません。直接口にするのがはばかれるような部分なので、あいまいになって行くのではないかと思います。 「直接口にするのがはばか」られない時代の話をしているのだと思ってます。 「なりなりて余れるもの、なりなりて足らざるもの」なんてのも直裁的と言うか、婉曲と言うか、今の価値基準で律してはいかんのだと思います。 |
[1612] Re[1603][1602][1595][1593][1590]: HOO 神話の森の番人 [Url] | 2005/11/02(Wed) 16:49 [Reply] |
琉球松さん> これはいただきです。 ありがとうございます。 大三元さん> 太し ふとし の「と」は甲類 ほと の 「と」は乙類 フトモモを太ももと書くのは後世の当て字と思われます。 太の意味ではなく一説によるとフトだけで今のフトモモの意味だったというのですが、フトやホトは常に意味が固定して狭い範囲の一部分を言うのではないようでもあります。 コシ(腰)も細腰(ウエスト)の意味からだんだん下がってきて今は必ずしもはっきりしません。直接口にするのがはばかれるような部分なので、あいまいになって行くのではないかと思います。 |
[1611] Re[1610][1609]: 瀬戸内 琉球松 | 2005/11/02(Wed) 11:56 [Reply] |
う〜ん、残念! ついでで申し訳ないんですが。。。 アイヌの「ユーカラ」と、琉球圏の「ユークイ( "世乞い" の字をあてる)」はどうでしょうか? |
[1610] Re[1609]: 瀬戸内 大三元 [Url] | 2005/11/02(Wed) 11:37 [Reply] |
>
今のところ江戸時代のようです。 となると、アイヌ語で命名される必然性が限りなく小さいようですね |
[1609] 瀬戸内 琉球松 | 2005/11/02(Wed) 11:35 [Reply] |
今のところ江戸時代のようです。 |
[1608] Re[1607][1605][1604][1598]: 犬のフォークロア 大三元 [Url] | 2005/11/02(Wed) 11:17 [Reply] |
>
瀬戸内という地名?は **「犬(seta)、女神(ウヂ、huchi)」** と繋がらないでしょうかね? その地名、いつ頃から使われていることが確かなのでしょうねぇ? |
[1607] Re[1605][1604][1598]: 犬のフォークロア 琉球松 | 2005/11/02(Wed) 10:34 [Reply] |
訂正です。。 「非」は「被」でした。 あと、大三元さんにもう一点だけ。。 瀬戸内という地名?は **「犬(seta)、女神(ウヂ、huchi)」** と繋がらないでしょうかね? |
[1606] Re[1605][1604][1598]: 犬のフォークロア 琉球松 | 2005/11/02(Wed) 10:06 [Reply] |
大三元さんが示しておられる **「犬」=seta(アイヌ語)**も、この問題に関わると思いますが、ここではこれ以上膨らませないほうがいいかもしれません? |
[1605] Re[1604][1598]: 犬のフォークロア 琉球松 | 2005/11/02(Wed) 09:53 [Reply] |
「四つ足」。。つまり「非差別部落問題」です。 |
[1604] Re[1598]: 犬のフォークロア 大三元 [Url] | 2005/11/02(Wed) 09:37 [Reply] |
横からのレスですが: > まあ、この話題につき合ってくれる本土の方はいらっしゃらないと思いますが?! 私の場合は、本土人だからつきあわないのではなく、ワケが判らぬのでつきあえない |
[1603] Re[1602][1595][1593][1590]: HOO 大三元 [Url] | 2005/11/02(Wed) 09:35 [Reply] |
> >
"フトモモのフトと同じで、ホトから転じたもの"。。。これはいただきです。 太し ふとし の「と」は甲類 ほと の 「と」は乙類 なので、飛びついて「いただき」というわけには行かない。 (また、「処」の「と」は甲類。だから、「ホト」を「ホ処」と直接的に解した先の私の投稿は良くない。ただ、「ところ(処、所)」の「と」は乙類。) |
[1602] Re[1595][1593][1590]: HOO 琉球松 | 2005/11/02(Wed) 09:26 [Reply] |
神話の森の番人さん、さすがですね。 "フトモモのフトと同じで、ホトから転じたもの"。。。これはいただきです。 また、"火事のとき、女性が火に向かってしゃがんで腰巻を開いて見せることで、火の力が弱まるとは、日本各地にあった習俗"。。。これもいただきですね。 このが民俗として残ているのはアイヌ圏と琉球圏、それとイリ王朝〜朝廷〜の影響が薄い山間部だけのようです。 開化時代(邪馬台国?)の女性達の権威の失墜は奈良から始まったと思いますね。 いつもの思い込みです。。。吉備国の伝承「モモ太郎」は、沖縄から見ると "女性でなければならない"んですが、やはり孝霊の二女「倭迹迹日百襲姫=活玉依毘売」ではないでしょうか? 彼女と瀬戸内海の同志達「猿・犬・キジ」によって「倭国大乱」の一部が収まったとみたい。 |
[1601] Re[1579] ・・・Re[1581] ・・ 疲れますね。 いこまかんなび [Url] | 2005/11/01(Tue) 22:37 [Reply] |
しばらく河内から離れ旅行続きでした。(すんまへん。) >[1579] 1.いろいろ説明?いただいてますが。 わたしは関東の土地感、まったくありません。 地理感覚はとっても大切ですね。 でも知らない所は、極力何も言わないことにしています。 2.「アバウトな地図」ではなく「アバウト」な「方法」なんですが。 一番言いたいのはすでに多数の御指摘のとおり「これだぁーーーっ」という例を1つ挙げて図示して説明があったら、私も・みなさんの理解も広がるカモ??ね。 近ごろ、(合)カモもあやしくなってきましたが。 >[1581] 「後はよろしく」といわれてもー。 アバウト?な手法の中から思いもよらぬ結論の発見へとワープできる可能性もあるのカモ?。 |
[1600] Re[1599][1596]: アイヌの犬祖伝説 大三元 [Url] | 2005/11/01(Tue) 15:20 [Reply] |
神話の森の番人さん > ありがとうございます。それの収録された角川「日本名所風俗図会」を先月開いていたので、夕べ探したのですが本が見つからず、後日見てみます。アイヌの物語も多く紹介されていそうですね。 手近にあるのですか、すごいですね。原文は草書っぽいから、活字印刷されたもので入りたいですね。 ところで「世界神話辞典」(角川書店)をみると、犬と人の婚姻は ベンガル湾のニコバル諸島 にもあり 中米の洪水神話にも多い ということです。 「異類婚」と分類される動物と人の婚姻、種族の始まり伝説、世界各地にあるようです。果たしてどこかで発生して分布したものなのか、各地で独立に発生したものなのか。 |
[1599] Re[1596]: アイヌの犬祖伝説 神話の森の番人 [Url] | 2005/11/01(Tue) 12:46 [Reply] |
大三元さん>『蝦夷島奇観』 ありがとうございます。それの収録された角川「日本名所風俗図会」を先月開いていたので、夕べ探したのですが本が見つからず、後日見てみます。アイヌの物語も多く紹介されていそうですね。 |
[1598] 犬のフォークロア 琉球松 | 2005/11/01(Tue) 12:10 [Reply] |
玄松子さんへ 「ホトを突かれて死ぬ」は、言葉たらずでした。 これは、女性が死亡した、病気になったというリアルな表現ではなく、女性達の権威が失墜したとの比喩だと考えます。 モモソ姫の死亡も「大物主 ≒ 崇神」の登場によって、邪馬台国が崩壊したとの表現だと思いますがどうでしょう? また、「鳥・猿・犬・キジ・百足 etc 」も、動物ではないんじゃないでしょうか? これも僕の思い込みの一つですが、犬は鬼退治のための女性達の同志として描かれているとしか思えないんです。 たぶん、琉球圏の神歌でいう聖なる器「四つ足」ではないかと。。。 まあ、この話題につき合ってくれる本土の方はいらっしゃらないと思いますが?! |